中国河南省の新石器時代遺跡におけるコイの養殖

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、中国河南省の新石器時代遺跡におけるコイの養殖に関する研究(Nakajima et al., 2019)が報道されました。水産養殖は現代世界で最も急速に成長している食料生産体系で、今では人類の消費する魚の約半分を提供しています。しかし、その重要性にも関わらず、魚の養殖の起源はほとんど知られていません。人類による水産資源の利用は100万年以上前までさかのぼりますが、現生人類(Homo sapiens)において顕著な拡大が見られ、完新世には急激に増加しました。陸上動物の家畜化は10500年前頃までには始まりましたが(関連記事)、魚の養殖はそのずっと後に発展したと考えられています。

 エジプトでは墓の芸術作品から紀元前1500年頃までにはナイルティラピア(Oreochromis niloticus)が管理されていた、と示唆されています。中国では、歴史的記録に基づくとコイ(Cyprinus carpio)の養殖は紀元前千年紀までさかのぼります。范蠡著で紀元前460年頃の作とされる『養魚経』は、養殖に関する最古の著作です。『詩経』では、紀元前1142~紀元前1135年に池で鯉が飼育されていた、と見えます。これらの証拠から、紀元前二千年紀までに中国のいくつかの地域で養殖が発達したと示唆されますが、動物考古学ではまだ確認されていません。養殖されている魚の種数の推定は採用された基準により異なりますが、最大値は251種で、家畜化された陸上動物の種数よりずっと多くなっています。魚の養殖の判定基準は、人類による制御水準です。本論文では、死亡時年齢と種選択が用いられます。

 コイ科の魚は少なくとも上部旧石器時代以来、人類に広く利用されてきました。歴史的記録に基づくと、コイはアジア東部の人工池や水田で紀元前二千年紀には育てられていました。中国の水田は紀元前五千年紀までさかのぼるので、コイの養殖も同じくらい古いと考えられます。しかし、コイの養殖の考古学的証拠は、これまで新石器時代中国では報告されてきませんでした。アジア東部の考古学的遺骸の以前の分析からは、早期狩猟採集民により捕らえられてきたおもに成熟したコイ科は、性的成熟時のサイズに対応したピークを示す体長(BL)を有する、ということです。この単峰型体長分布は、新石器時代となる紀元前5000年頃の浙江省田螺山(Tianluoshan)遺跡と、日本の滋賀県では縄文時代となる紀元前6000~紀元前5000年頃の赤野井湾遺跡および紀元前6000~紀元前2000年頃の入江内湖遺跡で確認されています。

 しかし、コイ遺骸の二峰型体長分布が、弥生時代(鉄器時代弥生文化)の愛知県の朝日遺跡で確認されています。本論文は、この二峰型体長分布が、アジア東部の歴史的および民族誌的事例と類似している、コイ科利用のより管理された体系の結果である、と仮定します。そうした養殖では、産卵期に大量のコイ科が捕獲され、保存食として加工されていました。同時に、ある程度の数のコイは生き続け、人類の管理する閉鎖的水域に放たれ、そこで自然に産卵し、生まれた仔稚魚は利用可能な資源を食べて成長しました。秋には池から水が排出され、魚が捕獲されました。未成熟個体と成熟個体の両方が存在するため、体長分布は二峰型を示します。

 本論文は、二峰型体長分布がコイの養殖と関連しているという仮説を検証するため、長野県松川町の水田で夏に育てられたコイの標準体長分布を測定しました。次に本論文は、早期新石器時代となる中国河南省の賈湖(Jiahu)遺跡のコイ遺骸から推定された体長分布を分析し、コイの養殖が行なわれていたのか、検証しました。賈湖遺跡では、コメの栽培とブタの家畜化・発酵飲料・骨製の笛が早期に見られることで知られており、甲骨文字の原型の可能性が指摘されている記号も発見されています。賈湖遺跡は3期に区分されており、第1期が紀元前7000~紀元前6600年、第2期が紀元前6600~紀元前6200年、第3期が紀元前6200~紀元前5700年です。この3期間の嘉湖遺跡一帯は温暖湿潤で降水量が多かった、と推測されています。また、魚・淡水ムラサキイガイ・カメ・ハスの実の遺骸から、賈湖遺跡一帯は水が豊富な環境だったと推測されます。賈湖遺跡で最も多く見つかったコイ科の魚はコイ(Cyprinus carpio)でした。龍州鯉(Cyprinus longzhouensis)は現在中国南部のみに存在しますが、嘉湖遺跡第2期には存在し、当時は冬でも暖かかったことを示しています。

 松川村のコイは平均体長分布95.5mmで、朝日遺跡の最初のピークと一致する分布です。賈湖遺跡での体長分布のピークは、第1期が300~350mm、第2期が200~250mmで、両期間ともに単峰型体長分布を示します。対照的に第3期には、150~200mmと350~400mmの二峰型体長分布が見られます。アジア東部の他の遺跡では、田螺山と入江内湖と赤野井湾で賈湖遺跡第1期と類似した単峰型体長分布が見られ、産卵期にのみ行なわれるコイ捕獲の特徴を示します。これらの単峰型体長分布とは対照的に、嘉湖遺跡第3期の体長分布は朝日遺跡と類似しており、管理されたコイ養殖を示唆します。

 賈湖遺跡第2期の体長分布は第1期および第3期の両方と異なり、200~250mmでピークを示します。本論文は、第2期の分布は自然ではなく、ある程度選択されているか、人為的操作が反映されている可能性を指摘します。現代日本では、自然河川に生息するコイは2~3年で成熟し、体長分布のピークは約300mmです。賈湖遺跡第2期のコイがおもに水辺の人類の集落に近づいた産卵期に捕獲された場合、その体長分布のピークは第1期と同様に300mm以上になると予想されます。しかし、第2期では体長300mm以上の個体の割合はひじょうに低く、コイがより温暖な気候条件ではより小さな身体サイズで成熟できることを考えると、第2期の分布はより暖かい気候と関連しているかもしれません。

 賈湖遺跡におけるコイの管理は、種構成でも支持されます。アジア東部の自然の湖および河川体系で人類の利用可能なコイ科では、コイよりもフナが一般的です。若い成体のコイは産卵期の後には直ちに湖岸を離れ、それ故に産卵期以外には捕獲困難なのに対して、フナは年間を通じて川岸や湖岸近くに留まる傾向があります。コイ科が重要な食資源だった日本と中国のいくつかの先史時代遺跡では、コイよりもフナの方が多く発見されてきました。対照的に、賈湖遺跡と朝日遺跡では、コイがコイ科遺骸の最大75%に達します。これはコイに対する文化的好みを示唆しているようです。コイの養殖は、コイが他の魚よりも優先的に利用されていた地域で始まったかもしれません。

 賈湖遺跡におけるコイ科遺骸の分析は、先史時代アジア東部におけるコイ養殖の段階的発展を示唆します。第1段階では、コイが産卵期に集まる湿地帯の自然移行帯で、人類がコイを捕獲します。これは、中国の田螺山と日本の赤野井および入江内湖遺跡が相当します。第1段階では、湿地帯の移行帯は、水路を掘削して水位と循環を制御することにより管理されました。コイはそのような環境で自然に産卵し、仔稚魚は秋に捕獲できます。賈湖遺跡第3期の考古学的証拠は、水産養殖の始まりがこの段階にさかのぼれる、と示します。第3段階の水産養殖は『養魚経』のような歴史的記録に記載されており、具体的な事例としては、水田が発見されている朝日遺跡が指摘されています。第2段階と第3段階はそれぞれ、ローマ帝国に存在した、「粗放」と「集中」の養殖体系に相当するかもしれません。アジア東部では、コイの水産養殖は水稲耕作と関連していたかもしれません。賈湖遺跡ではまだ水田は確認されていませんが、コイの水産養殖と水稲耕作との共進化は、将来の研究の重要な主題となるだろう、と本論文は指摘します。


参考文献:
Nakajima T. et al.(2019): Common carp aquaculture in Neolithic China dates back 8,000 years. Nature Ecology & Evolution, 3, 10, 1415–1418.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0974-3

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