コーカサス北部のコバン文化の母系と父系

 コーカサス北部のコバン(Koban)文化の母系と父系に関する研究(Boulygina et al., 2020)が公表されました。近年の古代DNA研究の進展は目覚ましく、コーカサスでも銅石器時代~青銅器時代の集団で大きな成果が得られています(関連記事)。しかし、コーカサス北部集団の現代の民族的構成の形成に大きな影響を与えた文化の古代DNAは、まだ詳しく調べられていません。紀元前二千年紀末~紀元前千年紀半ば頃となる後期青銅器時代と前期鉄器時代のコバン(Koban)文化は、古代と現代を架橋するという点で、とくに興味深い存在です。ロシア連邦北オセチア共和国のコバン墓地に因んで名づけられたコバン文化は、大コーカサス山脈の両側に紀元前13/12世紀~紀元前4世紀まで広がっていました。コバン文化は、発展した冶金技術と段々畑農耕でよく知られていますが、コバン文化集団の遺伝的起源と多様性は、これまで調べられてきませんでした。

 本論文は、コバン文化個体群のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAの分析結果を報告し、その遺伝的起源を検証します。具体的には、ロシア連邦カバルダ・バルカル共和国のザユコーヴォ3(Zayukovo-3)遺跡(紀元前8~紀元前5世紀)と、ロシア連邦スタヴロポリ地方(Stavropol Krai)キスロヴォツク市(Kislovodsk)のクリンヤール3(Klin-Yar 3)遺跡の個体群です。DNA分析には、サンガー法と次世代シーケンサー(イルミナ)が用いられました。クリンヤール3遺跡では5人、ザユコーヴォ3遺跡では10人のDNAが解析されました。mtDNAハプログループ(mtHg)は、サンガー法ではクリンヤール3遺跡の2人とザユコーヴォ3遺跡の9人で、次世代シーケンサーではクリンヤール3遺跡の1人とザユコーヴォ3遺跡の3人で決定されました。また次世代シーケンサーでは、クリンヤール3遺跡の1人とザユコーヴォ3遺跡の5人でY染色体ハプログループ(YHg)が決定されました。さらに、これら紀元前9~紀元前5世紀頃となるコーカサス北部のコバン文化期個体群との比較用として、サルマタイ(Sarmatian)文化期のザユコーヴォ3遺跡の1個体(紀元後2~3世紀)もDNAが分析されました。

 サンガー法でのmtHgは、クリンヤール3遺跡の2人がH20aとJ1c(次世代シーケンサーではJ1b1)、ザユコーヴォ3遺跡の9人がN・U5a1a1h(次世代シーケンサーではU5a1a2)・HV1(次世代シーケンサーではHV1a1a)・T1a(次世代シーケンサーではT1a1)・H1e・W5a(次世代シーケンサーではN)・R6/H1e・R6・I1です。YHgは、クリンヤール3遺跡の1人がE1a2a1b1b(CTS2361)、ザユコーヴォ3遺跡の5人がG2a1a1a1b(FGC1160)・D1a1b1a(M533)・G2a1a(FGC595/Z6553)・R1b1a1b(M269/PF6517)・R1a(L146/M420/PF6229)です。

 これらのYHgは、E1a2a(CTS246/V1119)・G2a1a・R1b(M343/PF6242)・R1aのように、鉄器時代のコーカサスとヨーロッパでは一般的で、YHg-R1a・R1bは通常、インド・ヨーロッパ語族の移住と関連づけられてきました。既知の考古学的データは、スキタイ人の侵入がコバン文化に大きな影響を与えた、と示します。これは、本論文のYHgで確認されます。YHg-R1a・R1bは、スキタイ人とサルマティア人において高頻度で報告されています。YHg-G1a(CTS11562)は通常、近東の新石器時代個体群と関連づけられていますが、ヨーロッパの新石器時代個体群でも見られます。現在、ヨーロッパ中央部においてYHg-G2a(P15/PF3112)は低頻度ですが、現代のオセチアバルカルやカラチャイでは広範に見られます。YHg-R1a・R1b・E1a2aは、バルカル(Balkar)やカラチャイ(Karachay)やダルギン(Dargin)やレズギ(Lezghin)やアブハズ(Abkhaz)といった他の現代コーカサス北部民族集団でも見られます。ザユコーヴォ3遺跡の1個体のYHgはアジア東部に見られ、ユーラシア西部ではほぼ見られないYHg-D1a1b1aで、この個体のmtHg-HV1は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後にコーカサスを通ってヨーロッパへと拡大しました。

 mtDNA解析では、サンガー法と次世代シーケンサーでmtHgの決定に違いも見られます。これは、サンガー法での配列が超可変領域1(HVR1)に限定されている一方で、次世代シーケンサーでは全配列を分析できることに起因しているかもしれません。コバン文化個体群では、ヨーロッパの旧石器時代および新石器時代文化の人々に見られるmtHgが確認されました。具体的には、mtHg-H・J・N・T・W・I・Uは古代および現代コーカサス北部集団でも確認されており、ユーラシア西部において長期にわたって存在します。本論文のデータは、古代コーカサス地域における相対的な遺伝的継続性を示しますが、時として他文化からの影響も受けました。ザユコーヴォ3遺跡の1個体で確認されたYHg-R1bは、鉄器時代におけるコーカサス北部へのスキタイ人の侵略の遺伝的痕跡かもしれません。

 注目されるのは、ザユコーヴォ3遺跡の1個体で確認されたmtHg-HV1です。mtHg-HV1は、LGM 後におそらくはコーカサスを経由して近東からヨーロッパ西部へと拡散した、と推測されています。この個体のYHgは、アジア東部で見られるD1a1b1aです。本論文で報告されたコバン文化個体群の他のYHgは、現代コーカサス北部の民族集団で一般的です。YHg-Dは現在では、おもにアンダマン諸島とチベットと日本列島とアフリカ西部というように、ひじょうに限定的にしか見られません。このYHg-D1a1b1aがどのような経路でコーカサス北部にまで到達したのか、また、この個体は核ゲノムではどのような遺伝的構成なのか、今後の研究の進展が注目されます。


参考文献:
Boulygina E. et al.(2020): Mitochondrial and Y-chromosome diversity of the prehistoric Koban culture of the North Caucasus. Journal of Archaeological Science: Reports, 31, 102357.
https://doi.org/10.1016/j.jasrep.2020.102357

現代のそりイヌの祖先(追記有)

 現代のそりイヌの祖先に関する研究(Sinding et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。グリーンランド・ドッグ、アラスカン・マラミュート、ハスキーといった、北極圏に適応した犬種である現代のそり犬は、共通して古代シベリアに起源を有し、1万年前頃に最終氷期の最後の残留氷河が消滅した時に登場したと考えられ、特徴的な遺伝系統を代表する犬です。シベリア東部の考古学的証拠からは、北極圏に適応したイヌたちは少なくとも過去15000年間、北極圏の人々の暮らしに不可欠だったと考えられる、と示されています。現在のこれらの地域における犬たちの役割と同様に、古代の北極圏の犬たちもそり引きに使われ、氷に覆われた厳しい地勢を横断する長距離移動や資源の輸送に役立っていました。

 そり犬は極めて独特な犬系統の一つですが、その遺伝子および進化の古い歴史についてはほとんど知られていません。この研究は、現代のグリーンランド・ドッグ10頭、9500年前頃のシベリアのそり犬、33000年前頃のシベリアのオオカミのゲノム配列を決定し、それらを多数の他の現代のイヌのゲノムと比較して、北極圏のそり犬の遺伝的起源を調べまた。その結果、古代シベリアのイヌが現代のそりイヌたちの共通祖先である、と明らかになりました。とくにグリーンランド・ドッグについては、それらが隔離された個体群であることから、より直接的にさかのぼって、その遺伝的祖先が古代そりイヌである、と明らかになります。

 これらの知見では、他の多くの犬種とは異なり、そりイヌにはシベリアの更新世のオオカミからの遺伝子流動があった、と示唆された一方で、現代および古代のそり犬にはいずれも、アメリカ大陸北極圏オオカミとの間の重大な混合の痕跡は見つかりませんでした。これは北極圏の犬種における約9500年間におよぶ遺伝的連続性を示しています。この研究はまた、北極圏のイヌにおける収束適応についても調べ、そりイヌが、飼い主であるヒトのための高脂肪低デンプン質食を食べられるようになったことも明らかにしています。以下、本論文が調べたイヌの場所と、系統関係を示した本論文の図1です。
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 現代と古代の北極圏のイヌについてのゲノム解析から得られたこれらの知見により、そりイヌがどれほど前から存在するのか、明らかになったとともに、完新世の始まり以降、北極圏ではそりイヌが人間の生存にとって重要であった、と強調されます。後期更新世から完新世にかけてシベリア北極圏に拡散した人々にとって、これら北極圏のイヌと革新的なそり技術が生存にたいへん役立ったことは間違いないでしょう。こうした技術革新と家畜化(動物の利用)は、北極圏に限らず、現生人類(Homo sapiens)が世界中に拡散できた要因と言えるでしょう。


参考文献:
Sinding MHS. et al.(2020): Arctic-adapted dogs emerged at the Pleistocene–Holocene transition. Science, 368, 6498, 1495–1499.
https://doi.org/10.1126/science.aaz8599


追記(2020年7月2日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

狩猟採集技能の文化および個体間の多様性

 狩猟採集技能の文化および個体間の多様性に関する研究(Koster et al., 2020)が公表されました。ヒト(Homo sapiens)は類人猿(ヒト上科)の間で、長い学童期(juvenile)と思春期(adolescent)を含む遅い生活史、短い出産間隔、繁殖後の長い寿命という一連の生活史により区別されます。これらの特性の進化を説明するため、一夫一婦や祖父母による孫の世話など、複数のモデルが提示されました。このモデルは、ヒトの重要な特徴である大きな脳を説明しなければなりません。狩猟採集の複雑さと競争的な社会的課題は、大きな脳の進化要因として支持されていますが、さらに文化学習の利点が組み合わされることもあります。

 人類系統における脳容量増加の要因として、最近の研究では生態(個体vs自然)および協同(個体群vs自然)が重視されています(関連記事)。これは、狩猟採集活動が人類系統における脳容量増加に重要な役割を果たしてきた、と示唆します。そこで本論文は、技能・生産性の評価が農耕や牧畜よりも容易な狩猟を対象として、その年齢による技能の変動を推定し、ヒト生活史と文化的学習の進化のモデルを検証します。データは、アメリカ大陸(カナダおよびラテンアメリカ)とサハラ砂漠以南のアフリカとシベリア北極圏とアジア南東部とオセアニアの、計40ヶ所1800人以上の約23000の狩猟記録から得られました。

 全体の平均的な狩猟技能の最大値は33歳となります。加齢による技能曲線は、18歳時に最大値の89%に達し、33歳を過ぎるとゆっくり低下していき、56歳以後になってようやく18歳時の89%を下回ります。ただ、これはあくまでも全体的なパターンで、集団(共同体)や個体による違いも見られます。とくに、個体差はひじょうに大きくなる可能性があり、一部の個体は同じ共同体の他の成人と比較して半分程度の場合もあります。また集団間では、狩猟技能が最大値となる年齢に違いが見られ、下限では24歳頃、上限では37歳と45歳の集団が存在します。

 狩猟技能の発達に関しては、成人期の高水準平坦域に達する前に、子供期(childhood)と思春期において最も急速に成長します。また全集団で、技能は身体および性的成熟後に最大値に達します。集団間および集団内での技能のバラツキについては、外因性死亡リスクなどが考えられますが、経験・動機・社会的学習機会・狩猟の身体的および社会的要求などの変数も想定され、異文化間の狩猟技能発達過程の違いには、追加の理論が必要となります。本論文の知見は、現代だけではなく、過去の環境における狩猟技能の発達過程にも示唆を与えるものとなるでしょう。

 集団内における狩猟技能の個体間格差に関しては、体力と持久力や蓄積された知識や動機がすべて、おそらくは年齢に関連した変動に寄与しています。狩猟技能が最大値になる33歳頃は、体力と生態学的知識が頭打ちになる年齢に近くなっています。これも、現代の各運動競技で全盛期の年齢が異なるように、狩猟内容により異なってくるのかもしれません。狩猟技能の個体差に関しては、集団内では増加率よりも衰退率の方で違いが大きい、と示されます。ただ、その比率は集団間ではほぼ同等です。

 狩猟では毎日の収穫が予測不可能なので、現代人の祖先においては、小さなバンドでの相互の食料分配が必要と考えられています。しかし、これまでの研究では、個々の狩猟者の加齢による技能の変動はあまり考慮されていませんでした。本論文は、この加齢による狩猟技能の変動性がヒト狩猟採集民共同体の典型で、リスク緩和のための食料共有の効果を変える、と示唆します。狩猟者がその技能と生産性において大きく異なる場合、リスク集積分布体系への参加には非対称的な利益があります。ヒト系統における向社会性および他の特徴が、この非対称性によりもたらされる協調的課題に由来する限り、障害にわたる狩猟技能の高い変動は、さらに注目に値します。


参考文献:
Koster K. et al.(2020): The life history of human foraging: Cross-cultural and individual variation. Science Advances, 6, 26, eaax9070.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aax9070

マヤ文化最古の儀式用建造物

 マヤ文化最古の儀式用建造物に関する研究(Inomata et al., 2020)が報道されました。考古学界では従来、マヤ文化はじょじょに発展したと考えられており、土器の使用および定住生活の開始とともに、小規模村落が紀元前1000~紀元前350年頃(以下、すべて較正年代です)となる中期先古典期に出現した、と想定されてきました。しかし近年、グアテマラのセイバル(Seibal)遺跡の人工的な高台のような初期の儀式用複合施設など、初期の祭祀用建造物群が発見されたことで、このモデルに疑問が呈されています。

 本論文は、これまで知られていなかったアグアダ・フェニックス(Aguada Fénix)遺跡(メキシコ合衆国タバスコ州)の、航空ライダー(LIDAR)測量および発掘調査の結果を示します。LIDARとは、レーザー光を用いたリモートセンシング法で、地表の3Dマップを作成でき、これまでにも成果が得られています(関連記事)。アグアダ・フェニックス遺跡は、南北1413 mで東西399m、高さ10~15 mの人工の基壇を有し、それを中心に9本の堤道が広がっています。放射性炭素年代のベイズ解析により、この建造物の年代は紀元前1000~紀元前800年頃と推定されました。これはマヤ地域における既知の遺跡では最古となる大公共建造物で、スペイン人侵入以前のマヤ地域の歴史全体を通して最大のものとなります。

 アグアダ・フェニックス遺跡には、より古いオルメカ文化のサン・ロレンソ(San Lorenzo)遺跡の祭祀センターと類似する点もありますが、おそらくアグアダ・フェニックスの地域社会には、サン・ロレンソ社会に匹敵するほどの顕著な社会的不平等はなかった、と考えられます。アグアダ・フェニックスおよび同時代のその他の祭祀用建造物群は、マヤ文化の初期の発展における共同作業の重要性を示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


考古学:マヤ文明最古の儀式用建造物が発見される

 マヤ文明によるモニュメンタル建造物(記念碑的建造物)として最大かつ最古のものが発見されたことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。

 マヤ文明は、先古典期中論文著者前1000~紀元前350年)に小さな村が次々と出現して以降、徐々に発展していったというモデルが考古学者によって提示されていた。しかし最近、紀元前950年頃のものとされるグアテマラ・セイバルの人工的な高台のような初期の儀式用複合施設が発見され、このモデルは再考を迫られている。

 猪俣健(いのまた・たけし)たちの研究チームは、タバスコ(メキシコ)でLIDARを用いた航空探査を行い、これまで知られていなかったマヤ遺跡を発見した。LIDARとは、レーザー光を用いたリモートセンシング法で、地表の3Dマップを作成できる。アグアダ・フェニックスと命名されたこの遺跡には、南北1413メートル、東西399メートルの高台がある。この建造物は、周りよりも10~15メートル高く、9つの土手道が周辺に伸びていた。猪俣たちは、放射性炭素年代測定法を用いて、この建造物が紀元前1000~紀元前800年に建設されたと推定しており、これまでにマヤ地域で発見された最古のモニュメンタル建造物となった。

 猪俣たちは、アグアダ・フェニックス遺跡がほぼ同時代のオルメック文化などの他の考古遺跡とは異なり、顕著な社会的不平等を明確に示す標識(例えば、地位の高い人物の彫像)がない点を指摘し、アグアダ・フェニックスなどの儀式用複合施設が、マヤ文明の初期の発展段階における共同作業の重要性を示唆していると結論付けている。


考古学:アグアダ・フェニックス遺跡の大公共建築とマヤ文明の起源

考古学:初期のマヤ人による大公共建造物

 メソアメリカのマヤ文明は一般に、徐々に発展したと考えられてきた。しかし近年、初期の祭祀用建造物群が発見されたことで、この考え方に疑問が呈されている。今回、猪俣健(米国アリゾナ大学)たちが、航空ライダー測量で、これまで知られていなかったアグアダ・フェニックス遺跡(メキシコ・タバスコ州)において長さ1400 m、高さ10~15 mの、年代が紀元前1000~紀元前800年までさかのぼる祭祀用基壇を発見したことで、従来の考え方は完全に覆されるだろう。



参考文献:
Inomata T. et al.(2020): Monumental architecture at Aguada Fénix and the rise of Maya civilization. Nature, 582, 7813, 530–533.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2343-4

大隅洋『日本人のためのイスラエル入門』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2020年3月に刊行されました。本書は現代イスラエルの多面的側面を一般層向けに分かりやすく解説しています。日本に限らないでしょうが、イスラエルへの印象は政治的信条に基づくものになりがちで、イスラエルに対してひじょうに悪い印象を抱いている人は少なくないかもしれません。それは、反ユダヤ主義的側面もあるでしょうが、やはり最大の要因は、イスラエルの統治にある、と言えるでしょう。その意味で、イスラエルに対する悪印象には、正当な側面も少なくない、とは思います。

 そうした観点の人々には、本書はイスラエルに甘すぎる、と思えるでしょう。もちろん、本書もパレスチナ問題を取り上げてはいますが、明らかに分量は少なくなく、全体的に、日本が見習うべきイスラエルの肯定的な側面を強調しています。しかし、パレスチナ問題を中心に取り上げた日本語の本は多く、イスラエルの全体像が日本社会で的確に理解されているとはとても言えそうにない現状を考えると、本書の構成に意義はあると思います。

 本書は日本がイスラエルに学ぶべきこととして、失敗をやたらとは恐れない風潮などとも関連する、技術革新力の高さや、家族と伝統・歴史を重視することとも関連する、出生率の高さや、高い安全保障意識などを挙げます。確かに、日本がイスラエルに学ぶべきことは多いと思います。もちろん本書は、日本が単純にイスラエル(に限らず外国)から学ぶべきと言っているわけではなく、社会や国際環境の違いもあり、学びは容易ではありません。その具体例は軍隊で、本書は、男女ともに徴兵対象とされる軍隊こそがイスラエル社会・国家を成立させている要である、と強調します。これは、現代日本社会では容易に真似できないでしょう。一方で本書は、イスラエルを取り巻く安全保障環境が劇的に改善された場合、軍隊が統合の要たり得なくなり、元々遠心力の強いイスラエル社会の統合が弱まる可能性も指摘します。

 さらに、出生率や軍隊と関連して、徴兵が免除され、出生率の高い超正統派が今後影響力を拡大していくだろうことに、本書は今後のイスラエルの危うさがある、と指摘します。この問題はすでに現時点でかなり顕在化しているとも言え、超正統派の徴兵免除をめぐる問題が、最近のイスラエル政治の混迷の一因になっています。米中対立の狭間でどう進路を選択していくかなど、イスラエルと日本に共通する大きな課題もあり、日本にとってイスラエルとの関係強化は重要になる、と思います。

さまざまな疾患の性差のある脆弱性と関わる補体遺伝子

 さまざまな疾患の性差のある脆弱性と関わる補体遺伝子についての研究(Kamitaki et al., 2020)が公表されました。多くの一般的な疾患では男女で異なる影響が見られますが、その理由は特定されていません。たとえば、原因不明の消耗性自己免疫疾患である全身性エリテマトーデス(SLE)やシェーグレン症候群(SjS)では、男性よりも女性の患者が9倍多いものの、統合失調症では女性よりも男性で頻度や重症度が高い、と明らかになっています。これら3疾患はすべて、主要組織適合遺伝子複合体(MHC)座位に最も強力で共通する遺伝的関連があり、SLEとSjSに見られる関連は、この座位のヒト白血球抗原(HLA)遺伝子群の対立遺伝子から生じる、と長らく考えられてきました。また、補体第4成分(C4)遺伝子もMHC座位にあり、統合失調症のリスク上昇に結びつけられています。

 この研究は、C4遺伝子のC4AおよびC4Bの多様性が、C4のありふれた遺伝型を持つ人で、SLEリスクに対しては7倍、SjSリスクに対しては16倍の変動を生じさせ、また、両疾患ではC4BよりもC4Aが強力な疾患防止効果を持つ、と示します。統合失調症のリスクを上昇させる同一の対立遺伝子は、SLEとシェーグレン症候群のリスクを大きく低下させます。これら3疾患すべてにおいて、C4対立遺伝子は女性よりも男性において強力に作用し、男性では、C4AとC4Bのありふれた組み合わせにより、SLEリスクでは14倍、シェーグレン症候群リスクでは31倍、統合失調症リスクでは1.7倍の変動が見られました(女性では、それぞれ6倍、15倍、1.26倍の変動)。

 タンパク質レベルでは、C4とそのエフェクターであるC3の両方が、20~50歳の成人において、女性よりも男性の脳脊髄液や血漿に高レベルで存在しており、これは区別の目安となる疾患への脆弱性の年齢と対応しています。補体のタンパク質レベルの性差は、男性においてC4対立遺伝子の影響がより強力なこと、SLEやSjSでは女性のリスクが高いこと、統合失調症では男性の脆弱性が大きいことの説明に役立つ可能性があります。これらの結果は、補体系がさまざまな疾患への脆弱性に見られる性的二型性の起源として関与していることを示しています。こうした性差の進化的基盤についての解明が今後進むことも期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:補体遺伝子はさまざまな疾患の、性差のある脆弱性に関与する

遺伝学:全身性エリテマトーデスとシェーグレン症候群の性特異的な影響における補体C4の役割

 全身性エリテマトーデス(SLE)とシェーグレン症候群(SjS)は原因不明の消耗性自己免疫疾患である。両疾患のリスクに及ぼす、共通した最大の遺伝的影響は、主要組織適合遺伝子複合体(MHC)座位から生じる。S McCarrollたちは今回、この影響がこれまでに考えられていたHLAの抗原特異的変動から生じるのではなく、補体第4成分(C4)遺伝子のC4AおよびC4Bのコピー数によって、よりよく説明されることを見いだしている。この結果から、SLEとSjSのリスクが、損傷した細胞由来の残屑に含まれる多くの自己抗原候補と免疫系との慢性的で持続的な相互作用から生じることが示唆された。この研究ではまた、C4遺伝子の変動に対する強力な性特異的影響のパターンが特定され、SLEやSjSの他にも、統合失調症と関連することが知られている性差について有力な説明が示されている。



参考文献:
Kamitaki N. et al.(2020): Complement genes contribute sex-biased vulnerability in diverse disorders. Nature, 582, 7813, 577–581.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2277-x

運動により若返る老齢マウスの筋肉

 運動による老齢マウスの筋肉の若返りに関する研究(Brett et al., 2020)が公表されました。加齢に伴って筋肉量は減少し、筋肉の再生能力と修復能力は低下します。こうした能力低下の原因には、筋肉幹細胞(MuSC)数の減少と加齢に伴う再生能力減退の両方の関与の可能性が高い、と考えられています。これまでの研究から、加齢しても運動により筋肉量が維持できると分かっていますが、運動が再生能力の維持に及ぼす影響については、ほとんど知られていませんでした。この研究は、若いマウスと老齢のマウスに、自由に回転する回し車を与えて、3週間自発的に使わせました。

 その結果、老齢のマウスほど、筋肉の修復が加速され、MuSCの機能が改善される、と明らかになりました。このMuSCの活性改善は、休眠状態の幹細胞のサイクリンD1(細胞周期の進行に必要なタンパク質)レベルが、若いときのレベルに回復することによります。サイクリンD1は、老化を促進するTGF-β–Smad3情報伝達経路を休眠状態のときに抑制し、最終的にMuSCの再生を促進します。このような変化は、若いマウスでは老齢マウスほど明確には起きません。この研究により、短期間の自発的運動療法は、老齢のMuSCの活性を回復させる実用的な介入方法と示されましたが、これらの知見がヒトにも通用するかを判断するには、さらに研究が必要と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


代謝:運動が老齢マウスの筋肉を若返らせる

 マウスの自発的な運動が筋肉の修復を加速し、老化した筋肉幹細胞を回復させることを示した論文が、Nature Metabolism に掲載される。

 加齢に伴って、筋肉量は減少し、筋肉の再生能力と修復能力は低下する。こうした能力低下の原因には、筋肉幹細胞(MuSC)の数の減少と加齢に伴う再生能力の減退の両方が関わっている可能性が高い。これまでの研究から、加齢しても運動することにより筋肉量が維持できることが分かっているが、運動が再生能力の維持に及ぼす影響についてはほとんど知られていなかった。

 今回、Thomas Randoたちは、若いマウスと老齢のマウスに、自由に回転する回し車を与えて、3週間自発的に使わせた。すると、老齢のマウスほど、筋肉の修復が加速され、MuSCの機能が改善されることが分かった。このMuSCの活性改善は、休眠状態の幹細胞のサイクリンD1(細胞周期の進行に必要なタンパク質)レベルが、若いときのレベルに回復することによる。サイクリンD1は、老化を促進するTGF-β–Smad3情報伝達経路を休眠状態のときに抑制し、最終的にMuSCの再生を促進する。このような変化は、若いマウスでは老齢マウスほど明確には起こらない。

 この研究によって、短期間の自発的運動療法は、老齢のMuSCの活性を回復させる実用的な介入方法であることが示されたが、これらの知見がヒトにも通用するかを判断するには、さらに研究が必要である。



参考文献:
Brett JO. et al.(2020): Exercise rejuvenates quiescent skeletal muscle stem cells in old mice through restoration of Cyclin D1. Nature Metabolism, 2, 4, 307–317.
https://doi.org/10.1038/s42255-020-0190-0

ライオンの進化史

 ライオンの進化史に関する研究(de Manue et al., 2020)が報道されました。最近まで、ライオン(Panthera leo)は最も広く分散した陸生哺乳類の一つでした。頂点捕食者として、ライオンは重要な生態的影響を有し、ヒトの図像で顕著に取り上げられてきました。更新世において、ライオンは広大な地理的範囲に存在していました。これは、ユーラシアの現代ライオン(Panthera leo leo)、ユーラシアやアラスカやユーコン準州のホラアナライオン(Panthera leo spelaea)、北アメリカ大陸のアメリカライオン(Panthera leo atrox)を含みます。

 現在、ライオンの生息範囲はサハラ砂漠以南のアフリカにほぼ限定されており、アジアライオンの小規模で孤立した1集団が、インドのグジャラート州のカーティヤーワール半島に生息しています。ライオン集団の世界的な減少は、後期更新世となる14000年前頃のホラアナライオンとアメリカライオンの絶滅から始まりました。最近では、現代ライオン集団はユーラシア南西部(紀元後19~20世紀)とアフリカ北部(紀元後20世紀)で絶滅し、それはおそらく人為的要因の結果でした。この衰退は過去150年において、アフリカ北部のバーバリーライオン、アフリカ南部のケープライオン、中東のライオン集団の絶滅という結果をもたらし、現生集団すべての断片化と衰退につながってきました。

 現生および絶滅系統間の関係を含む、ライオンの世界的な遺伝的構造が研究されてきましたが、それらの推測はミトコンドリアDNA(mtDNA)データ、もしくはミトコンドリアと常染色体遺伝標識の限定的な数に基づいていました。本論文は、現在および以前の分布の両方を表す個体も含めて、現代・歴史時代・更新世のライオンの全ゲノム配列で以前の知見を拡張します。本論文はとくに、以下のような質問への回答を目的としました。第一に、現代のライオンとホラアナライオンでどのような系統関係が見られるのか、ということです。第二に、絶滅したホラアナライオンと遺伝的に近い現代のライオン集団があるのか、ということです。第三に、現代の異なるライオン系統はいつ分岐し始めたのか、ということです。第四に、現代と比較して過去のライオンの遺伝的多様性はどうだったのか、ということです。


●ライオンのデータセットとゲノム規模系統

 古代および現代のライオン20頭の全ゲノム配列が生成されました。この中にはシベリアとユーコン準州のホラアナライオンが1頭ずつ含まれ、その放射性炭素年代は3万年前頃で、平均網羅率はそれぞれ5.3倍と0.6倍です。現代ライオンは12頭の歴史時代の標本により表され、年代は紀元後15世紀から1959年となり、ゲノム配列の網羅率は0.16~16.2倍です。これらの標本の地理的分布は、現代ライオンの歴史的範囲を覆っており、現在ではライオンが絶滅したアフリカ北部・南アフリカ共和国ケープ州・アジア西部を含みます。これらのデータと、アフリカ東部および南部4頭とインドの現生ライオン2頭と、既知のサハラ砂漠以南のアフリカの動物園で得られた2頭の全ゲノム配列により、データセットは構成されます。

 このデータセットに基づき、個体間の系統樹が作成されました(図1B)。mtDNAに基づく以前の分析と一致して、ホラアナライオンは全ての現代ライオンに対して単一系統で明確な外群を示しました。現代ライオン内では、2系統が検出されました。一方は、アジアとアフリカ北部および西部から構成される北方系統、もう一方はアフリカ中央部・東部・南部から構成される南方系統です。現代ライオン内では、この系統関係はおおむねmtDNAおよびmtDNA・常染色体の遺伝標識に基づくものと一致します。

 しかし、本論文で提示されたゲノム規模データセットでは、重要な違いと詳細が明らかになりました。まず、mtDNAではアフリカ中央部集団と北部集団とがクラスタ化します。対照的にゲノム規模データセットでは、アフリカ中央部集団はアフリカ南部系統と集団化します。さらに、ゲノム全体の局所的系統の分析でも、こうした食い違いは見られます。同様に、mtDNAデータでは、絶滅したアフリカ北部のライオンは、アフリカ西部ライオンよりもむしろ、アジアのライオンとより最近の共通祖先を共有していた、と示唆され、それはアフリカ西部ライオンとアフリカ北部ライオンとを強く関連づけるゲノム規模データと一致しません。mtDNAと核DNAのデータセット間のこうした不一致は、ネコ科では珍しくなく、mtDNAのような単一の非組換え遺伝標識の確率論的分類、および/または性的偏りの集団接続のパターンを反映しているかもしれません。以下、各標本の場所と系統関係を示した本論文の図1です。
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●ホラアナライオンと現代ライオンとの関係

 ミトコンドリアゲノムの一部に基づく以前の研究では、化石記録を用いて、ホラアナライオンと現代ライオンとは50万年前頃に分岐した、と推定されました。最近では、mtDNAの完全な配列と複数の化石記録を用いて、両系統の分岐は189万年前頃と推定されています。この不一致を調べ、系統関係をより正確に解明するため、全ゲノム配列を活用して、派生的アレル(対立遺伝子)と雄X染色体とミスマッチ率から、化石記録に依拠せずに分岐年代が推定されました。本論文の推定するホラアナライオンと現代ライオンとの間の分岐年代は50万年前頃で、ヨーロッパの化石記録においてライオンが中期更新世早期に出現することと一致します。

 ホラアナライオンと現代ライオンの祖先集団とは、ユーラシア南西部で接触した可能性があるので、両者の間の遺伝子流動について調べられました。ホラアナライオンでもシベリアの個体が他の全ての現代ライオンと対称的に関連している一方で、ユーコン準州の個体は他の現代ライオンよりもアフリカ南部の現代ライオンとより多くのアレルを共有している、と示唆されました。しかし、シベリアのホラアナライオン個体のゲノム網羅率をユーコン準州個体と同程度にすると、同じ結果が得られました。そのため、ユーコン準州のホラアナライオンとアフリカ南部の現代ライオンとの共有アレルの多さは、ユーコン準州個体の網羅率が0.6倍と低いこと、および/もしくは一塩基多型の収集における偏りに起因する歪みと考えられます。したがって、ホラアナライオンと現代ライオンとの間の遺伝子流動について、確たる証拠はない、と結論づけられます。

 この観察は、大型ネコ間の種間交雑の増加しつつある証拠とは著しく対照的です。全ての現代ライオンの祖先とホラアナライオンとの遺伝子流動の可能性は除外できませんが、混合の欠如にはもっともな理由があるかもしれません。たとえば、ホラアナライオンと現代ライオンの祖先集団は同じ場所にいなかったかもしれません。また、仮に同じ場所にいたとしても、行動学的もしくは生態学的に適合しなかったかもしれません。たとえば、ホラアナライオンの雄には、現代ライオンの雄に特徴的な鬣がなかった、と示唆されています。これが生殖隔離を誘発もしくは強化したかもしれません。その他にも、集団生活など他の行動と生態の違いが、生殖隔離をもたらしたかもしれません。mtDNAの分析では、アメリカライオンとホラアナライオンは生殖隔離の程度で一致しており、両者の間で何らかの競合が存在した可能性が示唆されます。


●現代ライオンの集団史

 主成分分析および集団クラスタ化分析により、現代ライオンの集団史が調べられました。両分析ともに、ゲノム規模系統で観察された地理的な集団分岐と同様に、南北系統の特徴を強調します。ホラアナライオンと同様に現代ライオン集団間の分岐年代が推定され、最も深い分岐は南北間の7万年前頃(98000~52000年前頃)です。これは、常染色体遺伝標識に基づく以前の推定よりはやや新しいものの、mtDNAに基づく以前の推定とは一致します。また、この7万年前頃の分岐とほぼ同時に、北方系統の有効集団規模が突然減少した、と推定されます。北方系統におけるこの深刻なボトルネック(瓶首効果)は、後期更新世に南方系統のわずかな個体群のみがサハラ砂漠北部地域へと拡散したことを示唆します。

 しかし、現代ライオンの分岐の詳細を調べると、上記の図1のような系統樹では複雑な進化史を完全には把握できていない、と明らかになりました。たとえば、アフリカ中央部ライオンは南方系統に分類されますが、一貫して他の南方集団よりも北方集団の方と近い分岐を示します。これは、常染色体およびmtDNA系統における、アフリカ中央部ライオンの混合起源と一致しており、アフリカ中央部ライオンが南北両系統をかなり有する、と強く示唆します。じっさい、全ゲノムデータを用いた最近の研究では、アフリカ中央部ライオンが北方クレード(単系統群)に分類されると示唆されています。

 混合の検証では、アフリカ中央部ライオンがアフリカ東部および南部ライオンよりも有意に、アジアライオンとアレルを多く共有し、北方関連系統を23%程度有する、との仮説が支持されます。さらに、アフリカ西部ライオンはアフリカ北部ライオンよりもアフリカ南部系統とより多くのアレルを共有しており、そのゲノムの11.4%程度は南部関連系統に由来する、と推定されます。この集団間の遺伝子流動は、セネガルのライオン1個体により示され、かなりの「南方アレル」を有することから、近い世代での混合が推測されます。まとめると、アフリカ西部および中央部はライオン系統の「坩堝」で、南北両系統が7万年前頃に分岐した後、重複し、混合した地域だと考えられます。

 興味深いことに、アフリカ北部ライオンと比較して、アジアライオンと南方系統との間でアレルの共有が多い、と検出されました。これは、両者の現在の長大な地理的距離を考えると、驚くべきことです。しかし、サハラ砂漠以南のアフリカと近東の間の移住回廊は、過去、たとえば完新世初期のナイル川流域で開けていた可能性があります。この仮説では、アトラス山脈とサハラ砂漠に代表される地理的障壁により、アフリカ北部ライオンは南方系統との二次的接触から隔離された、と想定されます。アジアライオンと南方系統との間の遺伝子流動に関する非排他的な代替的仮説は、アフリカ北部ライオンと絶滅した「ゴースト(仮定的)」ライオン集団との間の混合を反映している、というものです。この仮説を包括的に検証するには、アフリカ北部ライオンのさらなる標本抽出が必要となります。以下、この混合を示した本論文の図3です。
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●ライオンの近親交配

 ライオンの遺伝的多様性の時空間的変化を調べるため、ホモ接合連続領域(ROH;両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じ対立遺伝子のそろった状態が連続するゲノム領域)が検証されました。シベリアのホラアナライオンの平均的な常染色体ヘテロ接合性は、現代ライオン内で観察された範囲内に収まり、ROHのゲノム配列の割合は本論文のデータセットでは最低でした。mtDNAに基づく以前の研究では、ホラアナライオンにおいて47000~18000年前頃に強い集団ボトルネックがあった、と推定されており、本論文で分析されたシベリアのホラアナライオン個体の年代が30870±240年前頃であることから、意外な結果です。しかし、本論文で分析されたシベリアのホラアナライオンは、強いボトルネックを経なかった集団に属しており、以前の研究ではホラアナライオンの多様性が過小評価されていたかもしれません。

 現代ライオンでは、南方系統の平均的な塩基対あたりの常染色体ヘテロ接合性は、セネガルの混合個体を除いて、北方系統よりも高い、と明らかになりました。同様に、北方集団は平均して、南方集団よりも長いROHを有していますが、飼育下のライオンは例外で、最近の近親交配の痕跡を示します。まとめると、これは北方系統の連続的なボトルネックの集団史と一致します。北方系統の祖先はサハラ砂漠以南のアフリカから拡散し、より孤立して小さな集団で存続した、と考えられます。

 これに加えて非排他的な要因として、北方系統のより小さな集団規模は、人為的圧力に起因している可能性もあります。それは、近親交配の水準と大規模な人類文化の範囲との間の相関の可能性があるからで、たとえばアジアのインダス文化やメソポタミア文化、アフリカ北部の古代エジプトやギリシアやローマです。さらに、マイクロサテライト(DNAの塩基配列中にある、数塩基の単位配列の繰り返しからなる反復配列)データからは、アフリカ南部のいくつかの国々におけるライオンの遺伝的多様性が、20世紀にかけて大きく減少し、ヨーロッパ勢力の植民地拡大と一致する、と示唆されます。本論文のゲノム規模データでも、南方系統における近親交配率の最近の増加が示唆されます。現在の野生4頭は、歴史時代の3頭と比較して、ホモ接合性のゲノムの割合が平均して49%増加しています。しかし、本論文で標本抽出された歴史時代の個体群は、現在の個体群の直接的祖先ではないかもしれず、また標本抽出された個体はあまりにも少ないので、標本数の増加が観察に影響を与える可能性も否定できません。

 以前の研究で予測されたように、ゲノム多様性の最も極端な減少は現在のインドライオンで見られ、アフリカ南部ライオンと比較してヘテロ接合性が16倍減少しました。対照的に、アフリカ北部ライオンは、絶滅前の100年間でも、現在のアフリカ南部ライオンに匹敵するヘテロ接合性を維持していたようです。インドライオンのゲノムの約90%がROHに収まります。さらに、インドライオン2頭は遺伝的にほぼ同一で、1万塩基対あたり3ヶ所未満しか異なりません。インドライオンのゲノム多様性は顕著に低く、農耕発展・銃器使用の増加などに起因する、18世紀以後の強い衰退の記録と一致します。

 これらの要因により、インドライオン集団はほぼ絶滅に陥り、20世紀初頭にはカーティヤーワール半島において20頭まで減少しました。興味深いことに、歴史時代のアジアライオンはヘテロ接合性が高く、ROHは現在のライオンより短い傾向があり、より古い集団ボトルネックが1000~1400年前頃との推定と一致します。本論文の標本群が、20世紀初頭までのアジアライオンにおける極端なボトルネックに先行する、との見解は魅力的です。しかし、博物館の標本に関して正確な地理情報はないので、アジアライオンの個体数減少の年代とは場所に関してより正確に解明するには、さらに標本抽出が必要です。

 類似した広範な近親交配の痕跡が、孤立した肉食動物集団で報告されてきました。近親交配は、ホモ接合性における強く有害な変異の増加を通じて、集団の生存可能性を損なう可能性があります。小さな集団規模と近親交配がインドライオンの有害な変異の蓄積につながったのか、検証したところ、インドライオンはホモ接合性において有害な変異を平均して12.7%多く有していると明らかになり、有害な変異が劣性(潜性)である場合、かなりの遺伝的負荷が示唆されます。これらの知見は、インドライオンにおける、精子の移動能力やテストステロン水準の低下および頭蓋欠損の報告と一致します。さらに、選択の有効性をより直接的に評価するため、ミスセンス(アミノ酸が変わるような変異)有害変異と同義変異との間のホモ接合性の比率が調べられました。強い浮動と弱い選択の下で有害なアレルが増加するかもしれないので、この比率は小集団で上昇する、と予測されています。じっさい、この比率はアフリカライオンよりもインドライオンの方でずっと高いと明らかになり、選択の緩和された有効性と一致します。


●保護への影響

 歴史的に、現代ライオンは最大11亜種が認識されてきました。2017年には、分子研究により、アジアとアフリカ西部および中央部の亜種(Panthera leo)とアフリカ東部および南部の亜種(Panthera leo melanochaita)の計2亜種に減りました。本論文では、アフリカ中央部ライオンがmtDNAに基づく系統樹ではユーラシアおよびアフリカ北部の現代ライオン(Panthera leo leo)とクラスタ化するものの、ゲノム規模分析ではアフリカ東部および南部系統(Panthera leo melanochaita)とのより高い類似性を示す、と明らかにされました。したがって、アフリカ中央部ライオンの分類学的位置は修正される必要がある、と示唆されます。

 しかし、本論文のゲノム規模データは、アフリカ中央部の野生ライオン1頭に基づいており、全ゲノムおよびマイクロサテライトデータを用いた最近の研究では、コンゴ民主共和国とカメルーンのアフリカ中央部ライオンはユーラシアおよびアフリカ北部の現代ライオン(Panthera leo leo)と優先的にクラスタ化します。さらに、アフリカ中央部と西部のライオンにおける遺伝子流動が過去には一般的だったかもしれません。両系統はおそらく長期にわたって同じ場所に生息しており、その遺伝的分岐は深くありません。どの場合でも、この問題の完全な解明には、アフリカ西部および中央部のライオンの標本抽出を増やす必要があります。

 本論文の結果は、現代では絶滅したケープライオンとバーバリーライオン集団への洞察を提供します。雄の大きく黒い鬣に基づいて、ケープライオンは南アフリカ共和国南部にのみ生息する特有の集団あるいは亜種とみなされました。しかし、mtDNAに基づく証拠では、ケープライオンは系統的に特有ではなかったかもしれない、と示唆されました。本論文のゲノム規模データはこの知見を支持し、ケープライオンをアフリカ南部ライオンで見られる遺伝的多様性内に位置づけます。

 さらに、絶滅したアフリカ北部のバーバリーライオンの復活は、アフリカ北部内外で保護主義者の注目を集めました。状況証拠は、アフリカ北部ライオンが飼育下で生き残った可能性を示唆しますが、モロッコ王立動物園の野生バーバリーライオンの最も可能性の高い子孫は、アフリカ中央部ライオンの母系子孫のようです。mtDNAに基づく研究は、アフリカ北部ライオンがその最も密接に関連した現生集団であるインドライオンを用いて復活できる、と主張します。しかし、本論文で示されたように、インドライオンとアフリカ北部ライオンがmtDNAでは密接に関連している一方で、ゲノム規模データは、アフリカ西部ライオンがアフリカ北部ライオンと最も密接に関連する系統である、と明らかにしました。したがって本論文では、アフリカ北部ライオン復活の機会においては、よりよい「ドナー」集団としてインドライオンよりもアフリカ西部ライオンの方を考慮すべきだ、と結論づけられます。

 本論文の結果は、現生野生ライオンの保護の観点で有益かもしれません。たとえばアフリカでは、将来の研究が本論文のデータに基づいて、多様性が経時的に集団においてどのように変化したのか、ゲノム侵食の定量化などを通じて調べられるかもしれません。さらに、インド亜大陸との関連では、インドにおいて現在、ライオンはグジャラート州のカーティヤーワール半島ギル森林周辺でのみ見られます。まず、以前の研究と一致して、本論文では、インドライオン集団はインド在来ではなく、インド外から導入された、という最近の主張を支持する証拠が見つかりませんでした。インドライオンは明確に、他の標本抽出集団と遺伝的に異なります。次に、インドライオン保護の取り組みは数世紀にわたる衰退後の集団規模の増加に寄与していますが、ゲノム多様性の顕著な欠如は、インドライオンが近交弱勢や遺伝的侵食や将来の病原体発生の影響をひじょうに受けやすい、と示唆します。本論文のデータが、インドライオンと他の北方現生クレードとの分岐を3万年前頃と推定していることを考えると、考慮すべき将来の活動は、近縁のライオンとの異型交配によりインドライオンの遺伝的多様性を高めることです。しかし、これに関しては、この戦略が政治的に困難で、アイル・ロイヤル国立公園のオオカミにおける遺伝的導入の効果に関する最近の観察に照らして、有益とは保証されていないため、そのような決定は軽く選択されるべきではありません。


 以上、本論文についてざっと見てきました。ライオンについては子供の頃からずっと、とくに思い入れがなかったこともあり、これまでほとんど調べてきませんでした。しかし、大型哺乳類、頂点捕食者、アフリカ起源、世界規模での拡大、深刻なボトルネック経験、複雑な交雑史などといった点で、ライオンは、ホモ属、とくに現生人類(Homo sapiens)との類似性が見られます(関連記事)。何とも単純ではありますが、本論文を読んでライオンへの親近感と関心が強くなったので、今後、ライオンに関する遺伝学的研究もできるだけ追いかけていくつもりです。


参考文献:
de Manuel M. et al.(2020): The evolutionary history of extinct and living lions. PNAS, 117, 20, 10927–10934.
https://doi.org/10.1073/pnas.1919423117

海底下の火山岩の微生物

 海底下の火山岩の微生物に関する研究(Suzuki et al., 2020)が報道されました。地球の上部海洋地殻は過去38億年間、中央海嶺での玄武岩質溶岩噴火により形成されてきました。形成後350万~800万年以内の海嶺系には、無機エネルギー源に依存して生きる細菌とその他の微生物が存在している、と先行研究により明らかになっています。しかし、地球の海洋地殻の90%以上は1000万年以上前に形成されたもので、それよりも古い玄武岩質溶岩中の微生物については、ほとんど分かっていません。

 この研究は、1億400万~3300万年前頃の玄武岩質溶岩試料中の微生物を分析しました。その結果、溶岩中の鉄に富んだ粘土脈に微生物が集中し、その密度が1㎤当たり100億細胞以上と明らかになりました。この密度は、これより新しい玄武岩溶岩中の微生物細胞の密度の100万倍を超えています。この研究は、粘土中の鉄に結合した有機物がこのような高密度群集の生存を支えていると推測し、古い玄武岩に棲みつく微生物の大部分が、有機エネルギー源を利用する細菌と近縁な関係にあることも明らかにしました。この知見は、火星のような地球と地下環境が類似した他の惑星に微生物が存在する可能性を意味している、と考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


微生物学:海底下の火山岩に棲みつく微生物

 海底下100メートル以上の地中に存在する火山岩に微生物群集が高密度に定着していることを報告する論文が、Communications Biology に掲載される。この新知見は、地球と地下環境が類似した他の惑星(例えば火星)に微生物が存在する可能性のあることを意味していると考えられている。

 地球の上部海洋地殻は、過去38億年間、中央海嶺での玄武岩質溶岩噴火によって形成されてきた。形成後350万~800万年以内の海嶺系には、無機エネルギー源に依存して生きる細菌とその他の微生物が存在していることが、先行研究によって明らかになっている。しかし、地球の海洋地殻の90%以上は1000万年以上前に形成されたものであり、それよりも古い玄武岩質溶岩中の微生物については、ほとんど分かっていない。

 今回、東京大学大学院の鈴木庸平(すずき・ようへい)たちの研究チームは、3300万~1億400万年前の玄武岩質溶岩試料中の微生物を分析した。その結果、溶岩中の鉄に富んだ粘土脈に微生物が集中し、その密度が1立方センチメートル当たり100億細胞以上であることが分かった。この密度は、これより新しい玄武岩溶岩中の微生物細胞の密度の100万倍を超えている。鈴木たちは、粘土中の鉄に結合した有機物がこのような高密度群集の生存を支えているという考えを示し、古い玄武岩に棲みつく微生物の大部分が、有機エネルギー源を利用する細菌と近縁な関係にあることも明らかにした。



参考文献:
Suzuki Y. et al.(2020): Deep microbial proliferation at the basalt interface in 33.5–104 million-year-old oceanic crust. Communications Biology, 3, 136.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-0860-1

『卑弥呼』第41話「答え」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年7月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが義母からの忠告を回想する場面で終了しました。今回は、未明の山社(ヤマト)でミマアキとクラトが語り合う場面から始まります。ミマアキは夜通し、山社が名実ともに倭の宗主国になるための最良最短の道について考えていました。仮に山社が那(ナ)や伊都(イト)や末盧(マツロ)と和議を結び、この三国が日見子(ヒミコ)たるヤノハを擁立しても、山社は所詮、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の大国にすぎない、と説明するミマアキに、それで充分ではないか、とクラトは言います。しかし、日見子(ヤノハ)の望みは倭国泰平なので、倭全体の宗主国にならなければ目的は達せられない、とミマアキは説明します。まず筑紫島を統一し、次に大倭豊秋津島(オオヤマトトヨアキツシマ)伊予之二名島(イヨノフタナノシマ)まで侵攻しない限りそれは無理だ、とクラトは言います。するとミマアキは、漢に使者を送る、という良策を思いついた、と言います。漢の帝から金印をいただき、「倭国王」の称号を授かれば、戦わずしていかなる国も従わざるを得ないだろう、というわけです。するとクラトは、日見子様にはそこまでの大志はない、と言います。クラトは明朝、ヌカデの警固で、暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)に向かい、山社の祈祷女(イノリメ)長であるイスズに、ヤノハの言伝を届けることになっていました。ヤノハは、和議を申し出てきた暈の大夫である鞠智彦(ククチヒコ)と面会するつもりです。つまり、ヤノハは那や伊都ではなく、暈を選んだ、とクラトは解釈していました。するとミマアキは、日見子様は一筋縄ではいかず、思いもよらぬ回答を鞠智彦に突きつけるかもしれない、と言います。山社の独立により、種智院までの道中には山賊がはびこって危険であるため、ミマアキはヤノハに直談判してクラトを外すよう頼んでみる、と提案します。するとクラトは、種智院の南にある実家に寄って両親に会う暇を日見子様からいただいたので、それには及ばない、と返答します。ヤノハに謁見したミマアキは、漢に遣いを送り、山社が倭の宗主国であると天下に喧伝するよう、進言します。ミマアキの姉のイクメも以前に、同様のことをヤノハに言っていましたが、ミマアキほど自信のある様子ではありませんでした。しかし、漢への道は遠く、容易な旅ではありません。それを叶えてくれるのは誰か、とヤノハに問われたミマアキは、那のトメ将軍しかいない、と即答します。

 葦北(アシキタ)では、鞠智彦に配下のウガヤが、日見子(ヤノハ)からの返事を待たずに出立する理由を尋ねていました。日見子は奸智に長けた女子なので、鞠智彦と会い、暈との和議を受け入れる以外に生きる道がないことをよく承知しているはず、と鞠智彦は答えます。するとウガヤは、ならば山社よりの色よい返事を待ち、ゆっくり旅支度を整え、日見子をじらしてやればよかった、と言います。鞠智彦は、それでは日見子に思案する隙を与えてしまう、と答えます。日見子の言伝は明日の昼には種智院のイスズに届けられ、イスズの書状が鞠智の里に着くのがその4日後なので、日見子は9日か10日後に自分と会うつもりのはずだが、それよりも3日早く自分が現れたら、いかに肝の座った女でも泡を食うだろう、というわけです。鞠智彦の思考に感心するウガヤですが、10人兵士を同行させるだけでは手薄すぎる、と懸念します。すると鞠智彦は、とっておきの隠し玉があるだろう、と笑います。つまり、狼を率いるナツハのことですが、ウガヤは醜怪な子供であるナツハの技量に懐疑的です。ナツハは鞠智彦たちを樹上で見守っていましたが、そこへ手裏剣を投げつけられます。ヤノハは直ちに狼たちを操り、攻撃者の男を突き止めてその喉元に刀を突きつけます。その男は、暈の志能備(シノビ)で、棟梁の命でナツハの技量を確かめたのでした。ナツハの技量を認めた男は、棟梁に報告するためにその場を去ります。

 翌日、種智院では、ヌカデがイスズと面会し、鞠智彦との面会にいつでも応じる、とのヤノハの意思を伝えました。イスズはこれに不満ですが、日見子(ヤノハ)の命に従うのみ、と言います。イスズは、鞠智彦と面会しては暈の軍門に下るだけで、先代の日見彦(ヒミヒコ)、つまり暈のタケル王と同じく、日見子は鞠智彦の操り人形になるつもりなのか、と疑問を抱いていました。つまり、再び那と戦になるのではないか、というわけです。クラトは種智院の近くらしき川で魚を獲っていた父親と再会します。クラトは父に、古の支族、おそらくは穂波(ホミ)のトモより、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の聖地である日向(ヒムカ)を侵した日見子を殺せ、という指顧があった、と打ち明けます。クラトはヤノハを本物の日見子と考えており、その現人神を自分が殺さねばならないのか、と躊躇っていました。するとクラトの父親は、自分たち一族はサヌ王の子孫の命にさえ従えばよい、と息子を諭します。トモ・イム・ヒカネ・アズミ・ワニという古の五支族はサヌ王の側近にすぎず、自分たちは国之闇戸神(クニノクラトノカミ)の末裔で、天忍日命(アメノオシヒノミコト)を奉じるトモ家よりも古い家柄なので、五支族には数えられずとも、トモ家の臣下ではないので、日見子を殺さずともよい、というわけです。クラトの一族が服従すべきは五支族ではなく、日下(ヒノモト)にいるサヌ王の子孫のみだ、と父は息子に説明します。サヌ王の子孫の望みを息子から尋ねられた父は、遠方にいるので今のサヌ王一族の考えは分からないものの、サヌ王の望みは倭国統一で、サヌ王は日見子と日見彦ではなく、政治の才能のある側近の存在を恐れていた、と答えます。その側近とは、どうやれば倭国の宗主になれるのか、その答えに気づく者で、その答えとは、どの国よりも古く大陸に遣いを送ることです。もしその方法に気づく者が日見子の近くにいれば、迷うことなく殺せ、と父に命じられたクラトが、それが恋仲のミマアキであることに気づき、愕然とするところで今回は終了です。


 今回は、クラトと鞠智彦の思惑が描かれました。クラトはヤノハを本物の日見子と考えており、そのため本心では殺したくなかったようです。しかし、一族の使命では恋仲のミマアキを殺さねばならないと気づき、衝撃を受けていました。クラトが一族の使命と恋仲のミマアキとの間でどのような決断を選択するのか、今後の見どころになりそうです。ミマアキは漢への使者としてトメ将軍を推薦しましたが、トメ将軍は『三国志』に見える倭国から魏に派遣された大夫の難升米でしょうから、現在が紀元後207年頃だとすると、30年以上経って実現するのでしょう(後漢はすでに滅亡していますが)。ただ本作では、その前に山社と後漢、あるいは遼東の公孫氏政権との交渉にトメ将軍が関わってくるのかもしれません。鞠智彦とヤノハとの対面も大いに注目されますが、ヤノハの弟のチカラオと思われるナツハがヤノハと再会するのか、再会した時に姉弟はどのような反応を見せるのかも注目されます。日下の国(後の令制の大和でしょうか)にいると思われるサヌ王の子孫だけではなく、日本列島を超えて大陸情勢も絡んできそうで、たいへん壮大な話が予想されるので、今後もたいへん楽しみです。

ゲノムおよび同位体分析から推測されるアイルランド新石器時代の社会構造

 ゲノムおよび安定同位体分析からアイルランド島における新石器時代の社会構造を推測した研究(Cassidy et al., 2020)が報道(Sheridan., 2020)されました。古代ゲノムの以前の分析では、新石器時代大西洋沿岸社会間の共通系統が示されてきましたが(関連記事)、放射性炭素年代測定法による最近の研究では、フランス北西部からの巨石建造物の繰り返しの拡大が指摘されており、この地域の航海技術は以前の推定よりも発展していた、と示唆されています(関連記事)。これは、他の明確な巨石伝統とともにアイルランドに農耕が到来した、紀元前四千年紀の大西洋沿岸の羨道墳の拡大を含みます。これらの構造物はアイルランド島に関して、ヨーロッパでは既知の最高の密度と多様性に達しました。しかし、在来の中石器時代狩猟採集民からの遺伝的影響と同様に、これらの社会の土台となっている政治体制は曖昧なままです。

 これらの問題を調査するため、本論文はアイルランドの中石器時代2人と新石器時代42人のゲノムデータを提示します(平均網羅率は1.14倍)。この44人のうち43人を関連する古代ゲノムに帰属させ、これには追加の20人のブリテン島とアイルランドの個体が含まれます。本論文は次に、これらの個体群を既知の古代遺伝子型のデータセットと組み合わせ、集団構造の精細なハプロタイプおよび近親交配の推定を可能にしました。その後、主要な4人がより高い網羅率(13~20倍)で配列されました。

 本論文は、紀元前4000年頃に始まるアイルランドにおける新石器時代の主要な葬祭伝統から遺骸を標本抽出しました。それは、宮廷墓(分割された玄室と前庭がある建造物)と支石墓(巨大な岩石と高い入口のある1部屋の建造物)と羨道墳とリンカーズタウン(Linkardstown)型埋葬と自然遺跡です。このデータセット内で、アイルランド最初の新石器時代人類遺骸はプルナブロン(Poulnabrone)の支石墓に埋葬されており、おもに「早期農耕民」系統で構成され、近親交配の証拠は見られません。これは、農耕がその当初から大規模な海上植民を伴っていた、と示唆します。ADMIXTUREおよびChromoPainter分析は、アイルランドとブリテン島の新石器時代集団を区別しません。両分析はまた、スペインの前期新石器時代標本群が、アイルランドの早期農耕民の最良の代理起源である、という以前の報告を確認し、それは祖先の拡大において大西洋と地中海の海路の重要性を強調します。ヨーロッパ大陸部やブリテン島と同様に、アイルランドでも農耕をもたらしたのは外来農耕民集団(その起源はアナトリア半島)だった、というわけです。

 全体的に、新石器時代アイルランドでは近親交配の増加は経時的には見られず、それは共同体が充分な規模と、5親等もしくはそれより近い親族間の配偶を避ける意思伝達を維持していた、と示唆します。しかし本論文は、ブルーナボーニャ(Brú na Bóinne)遺跡群のニューグレンジ羨道墳における、単一の極端な外れ値を報告します。20万トンを超えるつとと石を組み合わせたこの巨石墳墓は、ヨーロッパの類似した既知の墳墓の中で、最も壮観なものの一つです。外面的には公共消費用に設計されていますが、墓地の内部単一の狭い通路で構成され、特別な儀式的目的を有しており、冬至には選ばれた数人のみが太陽を見られました。この支配層は、太陽の動きを「制御」することにより、神の力を有していると主張した、と推測されています。火葬されず、関節の外れた人類の骨が、最奥の十字形玄室最も精巧に装飾された奥まった場所内で集中して見つかり、成人男性の頭蓋(NG10)を含みます。NG10はホモ接合性の複数の長い領域を有しており、それぞれが個々の染色体の大規模な断片を構成し、合計でゲノムの1/4になります(近交係数=0.25)。この結果は、NG10が1親等(英語では親子だけではなくキョウダイ関係も含みます)の近親相姦による子だと示します。近親相姦は、生物学的および文化的理由が絡んでいるため、ほぼ普遍的な禁忌です。しかし、埋葬の性質を考えると、この男性が社会的に認められた可能性はひじょうに高そうです。

 シミュレーションでは、この男性の両親が全キョウダイ(両親が同じキョウダイ)なのか親子関係なのか区別できませんが、そうした配偶の唯一の既知の容認は、「王室」または「王朝」近親相姦として知られる稀に観察される現象として、とくに一夫多妻のエリート内で起きます。たとえばヨーロッパ勢力との接触前のハワイやインカ帝国や古代エジプトなど、これらの記録された事例では、近親婚は政治指導者の神格化と同時に発生し、通常はその神性から社会習慣を免除される支配者家族に限定されます。全キョウダイおよび半キョウダイ(両親のどちらか一方のみを共有するキョウダイ)間の結婚は、複雑な首長制および初期国家で最も一般的に見られます。研究者たちは一般的に、より発展した官僚制度の欠如における、豪壮な記念碑的建築や公的儀式などの方策とともに、近親婚を階層強化および権力正当化の手段とみなしてきました。本論文は、比較可能な一連の社会的動態が中期新石器時代までにアイルランドで運用されており、ニューグレンジと類似した夏至もしくは冬至に沿った羨道墳がウェールズやオークニー諸島やブルターニュで建造されていたことを考えると、この社会的動態はアイルランド外でも同様に起きていたかもしれない、と提案します。とくに親族関係の水準は、本論文の古代ゲノムのより広範なデータセット全体で、一貫して低く、経時的に減少します。検出された近親交配の他の1事例は、スウェーデンの巨石で発見された2親等もしくは3親等の親族間の子供です。

 ブルーナボーニャ羨道墳は中世の神話で現れ、神話の部族による太陽周期の魔法操作の解釈と関連しており、数千年にわたる口承伝統の持続性に関する未解決の推測につながってきました。そのような長期の持続はなさそうですが、本論文の結果は、紀元後11世紀に最初に記録された、建築者の王が妹との性交により日々の太陽周期を再開する、という神話と強く共鳴します。ファータエ・チャイル(Fertae Chuile)というニューグレンジに隣接するドウス(Dowth)羨道墳のアイルランド中央部の地名は、この伝承に基づいており、「罪の丘」もしくは「近親相姦の丘」と訳されます。

 羨道墳の第二の中心はニューグレンジの西方150kmの、大西洋沿岸近くに位置します。この中心はスライゴ(Sligo)州のキャロウモア(Carrowmore)遺跡とキャロウキール(Carrowkeel)遺跡の巨大墓地で構成され、ニューグレンジの羨道墳に数世紀先行します。キャロウキールでの堆積は少なくとも新石器時代末まで続きました。一塩基多型とハプロタイプに基づく分析では、これらの遺跡群とニューグレンジ遺跡および北東部沿岸の非定形的なミリンベイ(Millin Bay)遺跡の巨石をつなぐ、関連性の網が明かされました。それは以前には、手工芸品と形態的特徴に基づき、より広範な羨道墳伝統の一部として認識されてきました。

 まず、lcMLkinにより、キャロウモアで埋葬された、データセットの最初の羨道墳ゲノムで、NG10と遠い親族関係が検出され、これはキャロウキールとミリンベイの後の個体群でも同様でした。NG10とキャロウキールの他の個体との間でも、類似の親族関係(6親等以上)が見られ、いくつかの家族関係が示されます。次に、主要な早期農耕民系統の大西洋沿岸のゲノム分析で、ニューグレンジとキャロウキールとミリンベイの標本群は、より大きなブリテン島およびアイルランドの分類と分岐する異なるクラスタを形成します。古代ゲノムのより大きなデータセットにより、このクラスタの堅牢性が確認されました。本論文のChromoPainter分析でも、過剰な相互ハプロタイプが、とくにニューグレンジ遺跡のNG10個体とキャロウキール遺跡のCAK532との間で特定され、その親族関係が確認されます。より遠い親族関係の証拠が、キャロウモア遺跡のcar004個体の推定される親族間で見つかり、相互に長いハプロタイプを共有しています。これは最近の共有された系統の痕跡で、キャロウキール遺跡のCAK530個体と同遺跡のCAK533個体およびニューグレンジ遺跡のNG10個体とのつながりが示されます。

 car004個体の以前のゲノム配列は低網羅率(0.04倍)なので、本論文のChromoPainter分析では除外されました。しかしD統計では、car004個体が、より大きなブリテン島およびアイルランドのクラスタの標本群の大半と年代的に近いにも関わらず、羨道墳クラスタと優先的にクレード(単系統群)を形成する、と示します。これは、上述の親族関係によってのみ駆動されます。より大きなデータセットのダウンサンプリング(標本数を減らして再度標本抽出すること)検定では、car004個体のD統計結果がひじょうに有意だと示されます。

 まとめると、本論文のデータセット内のハプロタイプ構造の分析は、羨道墳標本群間の過剰な同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)に起因し、それはアイルランド島の広範な領域での非ランダムな配偶を示唆する、との解釈が支持されます。NG10の血統により予測されるように、高度な社会的複雑さにはこれが要求されます。しかし、本論文における非羨道墳被葬者のゲノムは、大半がより早い年代で、精細な構造クラスタ化への時間的浮動の寄与を評価するには、後期新石器時代の多様な遺跡からのより高密度な標本抽出が必要です。安定同位体値も、羨道墳被葬者を他のアイルランドおよびブリテン島の新石器時代標本群とは区別します。羨道墳遺骸における高い窒素15値と低い炭素13値は、特権に関連づけられる肉および動物由来の食品で最もよく説明できますが、これがこの期間のより広範な食性変化とどのように関連しているのか、まだ不明です。

 単純な宮廷墓および支石墓には、羨道墳の手工芸品や権威を示す副葬品が欠けており、おそらくはより小規模で血統に基づく社会の現れです。これらの建物は通常、例外もあるとはいえ羨道墳の墓地内では見られず、遺跡間の親族関係の事例として報告された、キャロウモアの近くで建設された宮廷墓を含みます。プルナブロン遺跡の支石墓とパークナビニア遺跡の宮廷墓という、異なるものの10kmほど離れた別の組み合わせの間の、両方の遠い親族関係証拠と社会的構造の証拠が見つかりました。その標本群は、Y染色体ハプログループ(YHg)の頻度における有意な違いが、食性の違いと同様に示されます。どちらの墓にも親族関係が欠如していることを考えると、単独所有者としての小さな家族集団は除外され、父系に重点を置いたより広範な社会的分化の結果として解釈されます。アイルランド南東部リンカーズタウン遺跡の男性被葬者間で稀なYHg-H2aが二重に出現することは、これらの社会における父系の重要性のさらなる証拠を提供し、それはアイルランドとブリテン島の新石器時代集団において単一のYHg-I2a1b1a1a(M284)が支配的であることでも示されます。

 ブリテン島およびアイルランドへの農耕拡大は、地中海で発展した既存の海上のつながりにより進展した、と以前には仮定されていました。しかし、本論文の結果は、アイリッシュ海が新石器時代前には遺伝子流動への大きな障壁だったことを示唆します。アイルランドの狩猟採集民のゲノムデータは、北西部のリムリック(Limerick)州のキルラ洞窟(Killuragh Cave)で発見された紀元前4700年頃の個体と、西部のゴールウェイ(Galway)州のスラモア洞窟(Sramore Cave)で発見された紀元前4100年頃の個体から得られました。アイルランドの狩猟採集民は、ヨーロッパ北西部の中石器時代狩猟採集民のより広範な分類内で異なるクラスタを形成し、500年以上の分離にも関わらず、相互に過剰な水準の浮動を共有します。対照的に、ブリテン島の狩猟採集民はヨーロッパ大陸部どの同時代の狩猟採集民との違いを示しません(関連記事)。これは、中石器時代のほとんどの期間において、ブリテン島とヨーロッパ大陸部との間のドッガーランド(Doggerland)陸橋を想定する古地理モデルと一致しますが、完新世の前にアイルラン島は分離していました。

 またアイルランドの狩猟採集民は、報告されている古代人もしくは現代人と比較して、ホモ接合性の短い連続の最大程度を示し、これはアイルランド島の長い孤立期間を支持する祖先の収縮の痕跡です。これにより、ヨーロッパ大陸部とブリテン島の狩猟採集民には、アイルランド島との頻繁な接触維持を要求される技術もしくは刺激が欠如しており、中石器時代におけるアイルランド島の比較的遅い海上植民(8000年前頃)とその後の石器群の急激な分岐を反映している、と示唆されます。それにも関わらず、アイルランドの狩猟採集民は近い世代での近親交配の痕跡を示さず、3000~10000人のみと推定される人口にも関わらず、島内だけで異系交配ネットワークを維持できていたようです。一部の考古学者の見解とは異なり、アイルランドの人々がブリテン島やヨーロッパ大陸部に渡って配偶者を得てアイルランドに戻ることはなかったか少なかった、というわけです。したがって、中石器時代集団が新石器時代農耕生活様式をアイルランドに導入した、という一部の考古学者の見解を支持する証拠はありません。

 究極的には、アイルランドの狩猟採集民の起源はイタリア半島の上部旧石器時代の個体群と関連する集団にあり、イベリア半島で存続したより早期の西部系統、つまりベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された 19000年前頃の個体(Goyet Q-2)からの遺伝的寄与の証拠は示されません(関連記事)。しかし、アイルランドとブリテン島の狩猟採集民と比較して、ルクセンブルクの中石器時代狩猟採集民においてゴイエットQ2系統の有意な過剰が検出され、イベリア半島外のこの系統の存続が示されます。イベリア半島外のゴイエットQ2系統は、フランスの新石器時代個体群でも確認されています(関連記事)。

 また、アイルランド狩猟採集民の遺伝的影響が新石器時代アイルランド集団にも残されているのか調べられ、直接的な痕跡が見つかりました。在来狩猟採集民集団に対するヨーロッパ農耕民間の高いハプロタイプ類似性のより広範なパターン内で、パークナビニア遺跡の宮廷墓個体(PB675)が、不均衡、具体的にはアイルランド狩猟採集民系統を示す外れ値である、と明らかになりました。PB675における、ゲノム全体の狩猟採集民系統の高い分散と、長いアイルランド狩猟採集民ハプロタイプの過剰は、4世代以内と推定される最近の遺伝子移入を支持します。

 この知見は、スコットランドの新石器時代集団への在来の狩猟採集民からの遺伝子流動の証拠と組み合わされ、ブリテン島とアイルランドにおける侵入してくる農耕民と在来集団との間で繰り返される相互作用を示唆します。とくに、PB675個体の4親等程度の親族が同じ墓に埋葬されたことは、この遺伝的外れ値個体が共同体内に統合されたことを示唆します。巨石被葬者に選ばれた個体群の多様性の代替的事例は、プルナブロン遺跡の男児個体(PN07)で見られ、母乳育児の食性痕跡を示します。PN07は明確な21番染色体トリソミーを有しており、紀元後5~6世紀の個体で見つかっていたダウン症候群の事例より大きくさかのぼり、最古の事例となります。

 全体的に、本論文の結果は、集団移動だけではなく、記録が存在しない政治体制や社会的価値にも光を当てる、古代ゲノムの能力を示します。これはとくに、帰属およびハプロタイプ分析の使用時に当てはまり、古代の集団構造の解決において、一塩基多型に基づく一般的な手法よりも優れていることを確認します。近親交配と親族の推定とともに、これらの手法は、小さな首長制から文明までの農耕社会の発展を研究できる範囲を広げます。具体的には、本論文の知見は、大西洋沿岸の巨石文化における社会的階層化と政治的統合の再評価を支持し、アイルランドの羨道墳を建てる社会は、初期国家とその先駆者内で見られるいくつかの属性を有している、と示唆します。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は最近では珍しく、紀元前をBCE(Before Common Era)ではなくBC(Before Christ)、紀元後をCE(Common Era)ではなくAD(Anno Domini)と表記しています。おそらく著者たちの意図とは違うでしょうが、私はこの使用を強く支持します(関連記事)。BCEやCEと言い換えたところで、しょせんキリスト教起源であることは否定できず、むしろ、「Common」と言い換えること自体がたいへん傲慢であるように思えるからです。

 本論文は、ゲノムと安定同位体の分析から新石器時代の社会構造を推測しており、たいへん興味深い結果です。ただ、上記報道では、ブルーナボーニャ遺跡の巨大な羨道墳から、初期国家社会およびその先駆者に見られる属性を認めることには疑問も呈されている、と指摘されています。また本論文では、新石器時代のアイルランドとブリテン島やイベリア半島との間の遺伝的類似性が強調され、アイルランド初期農耕民がイベリア半島から渡海してきた、と示唆する内容になっていますが、その考古学的証拠はない、と上記報道では指摘されています。その代わりに、考古学ではフランス北部起源でブリテン島を経由してアイルランドに初期農耕民が到来した、と想定されており、フランスの中石器時代と新石器時代に関する最近の研究(関連記事)でも支持されています。しかし、多くはまだ解明されておらず、アイルランド最初の農耕民の起源に関しては、フランスの新石器時代個体群の分析がさらに必要になる、と上記報道は指摘します。

 本論文で注目されるのは、支配層に属すると思われる男性の両親が1親等と推定されることです。人類史における近親交配については以前まとめました(関連記事)。本論文が指摘するように、こうした近親交配は人類社会において普遍的に禁忌とされているものの、エジプトやハワイやインカなど広範な地域の一部の支配層でよく見られます。近親交配の忌避は、人類社会において普遍的に見られ、それは他の哺乳類種でも広く確認されることから、古い進化的基盤があると考えられます。近親交配回避の具体的な仕組みは、現代人も含む多くの霊長類系統においては育児や共に育った経験です(関連記事)。したがって、人類系統においては、チンパンジー属系統や、さらにさかのぼってオナガザル科系統との分岐前から現代までずっと、この近親交配回避の生得的な認知的仕組みが備わっていたことは、まず間違いないでしょう。

 つまり、人類の「原始社会」は親子きょうだいの区別なく乱婚状態だった、と想定する通俗的な唯物史観的見解は的外れで、現代ではとても通用しない、というわけです。現代人と他の霊長類種とで共通する近親交配の回避は、人類系統において独自に起きた生得的な認知的仕組みの収斂進化ではなく、近親交配の弊害に気づいた文化的(後天的)禁忌のみで説明できる可能性も、無視してまったく問題ないと思います。人類社会に見られる近親交配の禁忌は、ひじょうに古い進化的基盤に由来し、人類史をずっと制約してきたのでしょう。

 しかし、本論文でも示されたアイルランドのニューグレンジ遺跡の男性のように、人類史における近親交配の証拠は文献記録でも遺伝学でも提示されています。これはどう説明されるべきかというと、そもそも近親交配を回避する生得的な認知的仕組み自体が、さほど強力ではないからでしょう。じっさい、現代人と最近縁な現生系統であるチンパンジー属やゴリラ属でも、親子間の近親交配はしばしば見られます(関連記事)。人口密度と社会的流動性の低い社会では、近親交配を回避しない配偶行動の方が、適応度を高めると考えられます。おそらく、両親だけではなく近い世代での近親交配が推測されているアルタイ地域のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が、その具体的事例となるでしょう(関連記事)。

 近親交配を推進する要因としてもう一つ考えられるのは、本論文でも示されている、支配層の特権性です。支配層では、人口密度などの点では近親交配の必要性がありません。もっとも、こうした近親交配は社会的階層の上下に関わらず、何らかの要因で閉鎖性を志向するもしくは強制される集団で起き得る、と考えるのがより妥当だと思われます。支配層の事例は分かりやすく、神性・権威性を認められ、「劣った」人々の「血」を入れたくない、といった観念に基づくものでもあるでしょう。より即物的な側面で言えば、財産(穀類など食糧や武器・神器・美術品など)の分散を避ける、という意味もあったと思います。財産の分散は、一子(しばしば長男もしくは嫡男)相続制の採用でも避けられますが、複数の子供がいる場合、できるだけ多くの子供を優遇したいと思うのが人情です。こうした「えこひいき(ネポチズム)」も、人類の生得的な認知的仕組みで、他の霊長類と共通する古い進化的基盤に由来します(関連記事)。

 生得的な認知的仕組みが相反するような状況で、その利害得失を判断した結果、支配層で近親交配が制度に組み込まれたのではないか、というわけです。近親交配の制度的採用という点では、財産の継承も重要になってくると思います。その意味で、新石器時代以降、とくに保存性の高い穀類を基盤とする社会の支配層において、とくに近親交配の頻度が高くなるのではないか、と予想されます。もっとも、農耕社会における食糧の貯蔵の先駆的事例はすでに更新世に存在し、上部旧石器時代となるヨーロッパのグラヴェティアン(Gravettian)が画期になった、との見解もあるので(関連記事)、更新世の時点で、財産の継承を目的とした近親交配もある程度起きていたのかもしれません。

 もちろん、近親交配回避の認知的仕組みは比較的弱いので、支配層における制度的な近親交配だけではなく、社会背景にほとんど起因しないような個別の近親交配も、人類史において低頻度で発生し続けた、と思われます。近親交配の忌避は、ある程度以上の規模と社会的流動性(他集団との接触機会)を維持できている社会においては、適応度を上げる仕組みとして選択され続けるでしょう。しかし、人口密度や社会的流動性が低い社会では、時として近親交配が短期的には適応度を上げることもあり、これが、人類も含めて霊長類社会において近親交配回避の生得的な認知的仕組みが比較的緩やかなままだった要因なのでしょう。現生人類(Homo sapiens)においては、安定的な財産の継承ができるごく一部の特権的な社会階層で、「えこひいき(ネポチズム)」という生得的な認知的仕組みに基づき、近親交配が選択されることもあり得ます。その意味で、人類社会において近親交配は、今後も広く禁忌とされつつ、維持されていく可能性が高そうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古代DNA:新石器時代の墳墓建造社会における王家支配層

Cover Story:家族の絆:新石器時代のアイルランドの王家支配層の近親交配

 表紙は、冬至の後にアイルランド・ミース州にあるニューグレンジ羨道墳に差し込む太陽光である。今回D Bradleyたちは、この遺跡や他の巨石遺跡から得られた遺骸のゲノムを調べた結果を報告している。この結果は、5000年以上前のアイルランドの社会組織に新たな光を当てている。著者たちは、44人の全ゲノムを採取して、ニューグレンジ羨道墳の地位の高い成人男性の遺骸が、親子か兄弟姉妹間の近親交配の所産であることを発見した。さらに、他の2か所の主要な遺跡ではこの男性の遠い親類も見つかった。羨道墳で得られたゲノムと他のゲノムの間には食餌と遺伝子に大きな差異が見られた。これは、この男性たちがおそらく支配階級に属しており、その指導者は王家内で近親交配を行うことで他の住民との違いを維持していたことを示している。



参考文献:
Cassidy LM. et al.(2020): A dynastic elite in monumental Neolithic society. Nature, 582, 7812, 384–388.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2378-6

Sheridan A. et al.(2020): Incest uncovered at the elite prehistoric Newgrange monument in Ireland. Nature, 582, 7812, 347–349.
https://doi.org/10.1038/d41586-020-01655-4

麻疹の起源

 麻疹の起源に関する研究(Düx et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。麻疹ウイルスは人類最古の病原体の一つと考えられており、保健機関と科学者たちは、麻疹ウイルスを主要標的に一般的なヒト病原体の進化経路の解明に努めてきました。研究者たちは、麻疹ウイルスが出現したのは、今は根絶された牛疫ウイルスの家畜から人へのスピルオーバーが起きた時だと推測しています。

 一般的に麻疹の出現は紀元後9世紀末頃と考えられていますが、疑問も呈されています。この研究は、麻疹の起源をより正確に突き止めるべく、1912年の麻疹症例から採取した肺の試料を用いて、麻疹ウイルスゲノムを再構築しました。この研究は次に、配列データを1960年の麻疹ゲノム、127の現代の麻疹ゲノム、牛疫ウイルスおよびPPRV(小反芻獣疫ウイルス)と呼ばれる別の家畜ウイルスのゲノムと比較しました。この研究はさらに、一連の進化の分子時計モデルを使って、紀元前1174年から紀元後165年、推定平均紀元前528年のヒトにおける麻疹の出現を追跡しました。

 その結果、数千年間牛ウイルスの祖先が家畜間で循環し、その後、ヒトへと感染して定着し、紀元前千年紀末に拡大し始めたという経過を裏づけている、と推測されました。この研究で提示された麻疹ウイルスの出現は、以前の有力説より1400年ほど早く、この時期にはユーラシアの広範な地域(西部・南部・東部)で大規模な都市が出現しました。全体的な人口増加と畜産発展とともに、人口過密な都市の広範な出現が、麻疹ウイルス出現の背景にあったようです。


参考文献:
Düx A. et al.(2020): Measles virus and rinderpest virus divergence dated to the sixth century BCE. Science, 368, 6497, 1367–1370.
https://doi.org/10.1126/science.aba9411

中村計『佐賀北の夏 甲子園史上最大の逆転劇』

 新潮文庫の一冊として、新潮社から2011年8月に刊行されました。本書の親本は、同じ題名でヴィレッジブックス社から2008年7月に刊行されました。先月(2020年5月3日)、NHKのBS1で2007年に開催された第89回全国高校野球選手権大会決勝戦(佐賀北対広陵)が再放送されたので、以前古書店で購入したままになっていた本書を思い出し、読みました。本書からは全体的に緻密な取材が窺え、その人物・心理描写はたいへんに読みごたえがありました。スポーツノンフィクションとして、ひじょうに優れていると思います。

 本書は、佐賀北の百崎監督を中心に、吉富部長や各選手の人物像と、ある場面でどのような思考・心理状態だったのか、読みやすい文章で描写していきます。また、百崎監督の関係者や対戦相手への取材成果も取り入れられており、これも本書の客観的な描写につながっています。当時、佐賀北の試合は録画も含めてそれなりに視聴したと記憶していますが、印象に残っている場面で佐賀北の監督や部長や選手、さらには対戦相手の監督や選手がどのような思考・心理状態だったのか、描かれており、テレビで見ていただけの私にとって、たいへん新鮮で興味深い内容でした。

 著者の力量もあるのでしょうが、本書に登場する人物は個性的で魅力的です。もちろん、本書は登場人物を単に称賛するだけではなく、その欠点と言えるところも描写しており、そこがスポーツノンフィクションとしての本書の優れた点とも言えるでしょう。個性的な高校生たちをまとめていく監督や部長の苦労が窺えるとともに、高校生の視点に立つと、思春期らしい苦悩が見えてきて、この点でも興味深い内容になっています。本書は教育の点でも示唆に富むところが多く、野球部指導者のみならず、教師にとっても有益な一冊となるでしょう。もちろん、さらに普遍的な読み方もでき、人生の目標や人間関係の構築といった点でも、教えられるところが少なくありません。

アフリカにおける完新世人類集団の複雑な移動と相互作用

 サハラ砂漠以南のアフリカにおける完新世人類集団の複雑な移動と相互作用に関する研究(Wang et al., 2020)が報道されました。現代のアフリカは言語・文化・経済がひじょうに多様な地域です。この多様性に寄与した集団の相互作用・移住・混合・置換は、遺伝学・考古学・言語学の研究で何十年にもわたって研究の中心的な目的でした。古代DNA研究は、骨格と古代DNAの保存状態の制約から、アフリカでは他地域よりも先史時代の解明には寄与できていませんでした。側頭部の錐体骨の内在性DNAが豊富に保存されている、と明らかになったことなど、技術的発展によりこの状況は変わり始めましたが、既知のアフリカの古代ゲノムは85人分で、ユーラシアの3500人分と比較するとずっと少ないのが現状です。

 これまでのアフリカの古代DNA研究は、アフリカ東部および南部における食糧生産拡大前の人口構造を提示し、東部における生計戦略の変化と関連した集団置換を明らかにしました(関連記事)。アフリカ東部と南部で標本抽出された採集民集団は、大まかには地理に従った連続的な遺伝的勾配を形成してきました。牧畜新石器時代(PN)には、銅器時代および青銅器時代レヴァント集団と関連した人々がアフリカ東部に拡散してきて、後期石器時代狩猟採集民と関連した人々や、現在のディンカ人と関連した個体群と、少なくとも2段階で混合しました。現代バンツー語族と関連する系統は、今日ではサハラ砂漠以南のアフリカ全域で優勢ですが、これまでに分析されたほとんどのサハラ砂漠以南のアフリカの古代ゲノムでは欠如しています。

 本論文は、新たに生成されたサハラ砂漠以南のアフリカの20人の古代ゲノムの分析に基づき、アフリカにおける早期集団の移動と混合の考察を報告します。本論文は、食糧生産戦略の変化に関わっていると以前に特定された、主要な集団間の集団水準の相互作用を調査します。この主要な集団とは、東部および南部の狩猟採集民集団、東部のPNおよび鉄器時代集団、現代のバンツー語族と関連する鉄器時代集団です。本論文は、生計戦略の変化に関わると予想される主要な地域(とくにアフリカ東部)だけではなく、コンゴ民主共和国とボツワナとウガンダからも、最初となる古代ゲノムデータを報告します。本論文は、これら考古学的に狩猟採集民および食糧生産集団と推測される新たな20人のゲノムデータと、既知の古代および現代のサハラ砂漠以南のアフリカ人のゲノムデータを統合します。

 その結果、以前には広範に拡大し、重なっていた、深く分岐した狩猟採集民集団の収縮の証拠が検出されました。また、アフリカ東部における牧畜民集団の到来は、アフリカ北部から東部への牧畜民いくつかの別々の集団の移動に起因した、と示唆されます。さらに、食糧生産の拡大期に、牧畜民と農耕民と狩猟採集民の混合パターンにおいて、顕著な地理的多様性の証拠が得られました。ボツワナの古代ゲノムデータからは、以前に言語学と現代人の遺伝データに基づいて示唆されていたように、バンツー語族集団の到来前に、アフリカ南部へアフリカ東部牧畜民が拡散してきた、と示唆されます。これらのゲノムおよび考古学的データを統合すると、現代アフリカの特徴である経済的不均一性は、集団の混合・相互作用・忌避の多様な地域的歴史に由来する、と示唆されます。

 新たに古代ゲノムデータが得られた20人の内訳は、コンゴ民主共和国が5人(795~200年前頃)、ボツワナが4人(1300~1000年前頃)、ウガンダが1人(600~400年前頃)、ケニアが10人(3900~300年前頃)です。ケニアの10人のうち、3人がアフリカ東部狩猟採集民伝統と、5人がPNと、2人が鉄器時代と関連しています。これらの新たな古代ゲノムデータが、アフリカの既知の古代ゲノムデータおよび59集団584人の現代人、アフリカの22集団44人と世界中の142集団300人の高網羅率なゲノムデータと比較されました。近親関係は、ケニアのニャリンディ岩陰(Nyarindi Rockshelter)遺跡の後期石器時代となる3500年前頃の2人(NYA002とNYA003)だけです。


●以前は重複していた狩猟採集民系統の収縮

 主成分分析では、3900~1500年前頃のケニアの8人は2クラスタを形成します。クラスタ1はアフリカ東部狩猟採集民、クラスタ2はアフリカ東部牧畜民と命名されています。クラスタ1は、エチオピア高地のモタ(Mota)洞窟遺跡の4500年前頃の個体(関連記事)と高い遺伝的類似性を示します。クラスタ1のうち、3500年前頃となるケニアのニャリンディ遺跡と1400年前頃となるタンザニアのペンバ(Pemba)遺跡の個体は、本論文で検証された他のどの集団とも有意な遺伝的類似性を示しませんが、3900年前頃となるケニアのカカペル(Kakapel)遺跡の1個体は、ムブティ(Mbuti)人やアフリカ中央部の現代狩猟採集民集団と有意な遺伝的類似性を示します。

 1300年前頃となるタンザニアのザンジバル(Zanzibar)遺跡の1個体は、南アフリカ共和国の2000年前頃となる個体と類似性を示し、ケニアの400年前頃となる1個体は、ユーラシア西部現代人と類似性を示します。qpAdmでは、3900年前頃となるカカペル個体に18±6%のムブティ関連系統が、ケニアの400年前頃となる個体には、11±3%の古代レヴァント個体群関連系統が見られます。この古代レヴァント関連系統は広く古代アフリカ北東部とレヴァントに存在し、アフリカ北東部現代人集団でも確認されています。これらの追加の系統の寄与は、4500年前頃となるモタ遺跡個体との主成分分析における相対的な位置関係でも示されます。またqpAdmによるモデル化では、3500年前頃となるケニアのニャリンディ個体におけるアフリカ南部サン人と関連したわずかな系統も示唆されます。

 これらのデータは全体的に、アフリカ東部を、アフリカ西部・南部・東部狩猟採集民と関連する系統を有する集団間の、集団水準の相互作用のつながりとして示します。これらの系統間の深い分岐は、混合が長期にわたって最小限だったか、比較的最近起きたことを示唆します。これは、今まで想定されてきたよりも、古代アフリカ狩猟採集民集団の拡大と縮小に関する興味深い可能性を示します。ケニアのカカペル遺跡の3900年前頃となる個体は考古学的に、ヴィクトリア湖からウガンダへと至る漁撈狩猟採集民集団に分類されるので、この個体のムブティ関連系統は、熱帯雨林が前期完新世湿潤期により拡大した時に範囲が重なったことによる、集団間の一時的な相互作用により説明できます。ただ、この仮説の検証にはこの地域のさらなる考古学的データが必要です。

 古代アフリカ東部個体群におけるサン人関連系統の低水準の持続的な検出は、説明がより困難です。一つ考えられるのは、現代サン人とおもに共有される系統のまだ検出されていない狩猟採集民集団との継続的な相互作用です。もう一つ考えられるのは、サン人関連系統が、南部から東部までというアフリカの狩猟採集民のより広範な、さらに農耕民と牧畜民の中期~後期完新世の移住前というより早期の分布を反映している、ということです。クリック子音を用いるアフリカ東部および南部の狩猟採集民集団間の言語学的・遺伝学的相似からは、クリック言語話者集団の早期かつ広範な分布の存在の仮説が魅力的ですが、これらの言語集団間の直接的なつながりの系統言語学的証拠はありません。


●アフリカ東部への牧畜の複雑な拡大

 主成分分析でのケニアの標本群のクラスタ2はアフリカ東部牧畜民を表し、ケニア南部のサバンナPN伝統遺跡群の新たに報告された個体群を含みます。新たに報告されたケニアの個体群は、ルケニヤ丘(LukenyaHill)遺跡の3500年前頃、ハイラクス丘(HyraxHill)遺跡の2300年前頃、モロ洞窟(MoloCave)遺跡の1500年前頃の個体群で、それぞれ、ケニアのPNにおける開始期・中期・末期に相当します。既知のデータでは、タンザニアのルクマンダ(Luxmanda)遺跡の3100年前頃の個体など、アフリカ東部のPN期の個体群がクラスタ2に含まれます。これらの標本群は、2000年にわたる系統の顕著な継続性を示し、主成分分析とクラスタ化分析でも類似の遺伝的構成が示されます。

 本論文はまず、ルクマンダ遺跡の3100年前頃の個体の以前モデルに基づき、古代アフリカ北東部系統の最も近い利用可能な代理としてエチオピアのモタ遺跡の4500年前頃となる個体と古代レヴァント集団とを用い、qpAdmで双方向の系統モデルを適用しました。その結果、以前の古代DNA研究と一致して、このモデルは不充分だと分かり、南スーダンのナイル諸語集団である現代ディンカ人と関連する追加の遺伝的構成がデータへの適合に必要と示されます。qpAdmに加えて、f4検定でもこの類似性が確認されました。3方向モデルでは、ケニアのハイラクス丘遺跡の2300年前頃の個体とルケニヤ丘遺跡の3500年前頃の個体はそれぞれ、ディンカ関連系統を33±11%と24±10%有し、ケニアのモロ洞窟遺跡の1500年前頃の個体とタンザニアのルクマンダ遺跡の3100年前頃の個体では、それよりも低い割合となります。

 アフリカ東部牧畜民の全標本におけるレヴァント関連系統の推定割合は一定(約30~40%)ですが、アフリカ東部狩猟採集民関連系統とディンカ関連系統の割合は両方、個体間でかなりの違いがあります。以前の研究(関連記事)では、レヴァント関連系統を有する初期牧畜民とアフリカ東部狩猟採集民との間の混合は、おもにケニア南部における牧畜民の到来前に起きた、との結論が提示されました。しかし、本論文のデータは、牧畜民と狩猟採集民もしくは主に狩猟採集民に由来する系統を有する集団との間の断続的混合は、PNへと継続したかもしれない、と示唆します。とくに、新たに報告されたモロ洞窟遺跡の1500年前頃の個体は50%もしくはそれ以上の狩猟採集民関連系統を有しており、他のPN個体全員で観察されたよりもディンカ関連系統は少ない、と推定されます。

 狩猟採集民と牧畜民との間の繰り返される相互作用モデルは、連鎖不平衡減衰を用いての推定混合年代により支持されます。銅器時代レヴァント個体群とエチオピアのモタ遺跡の4500年前頃の個体と関連する系統間の混合年代は、その個体群の死の数百年前から数千年前の範囲に及び、混合年代と標本年代の間の明確な相関はなく、単純な混合モデルと一致しません。これが示唆するのは、複数回の混合事象か、長期にわたって系統の均質化を妨げる強い集団構造です。PN後期の中央地溝帯における在来狩猟採集民の存続の考古学的証拠が最小限しかないにも関わらず、これらの遺伝的結果が示唆するのは、狩猟採集民関連系統を高い割合で有するか、混合していない狩猟採集民関連系統を有する共同体が、モロ洞窟遺跡の個体に顕著な遺伝的痕跡を残した、鉄器時代近くまで持続するPN関連系統を高い割合で有するか、混合していないPN関連系統を有する共同体の近くで暮らし続けた、ということです。モロ洞窟遺跡もしくは他の遺跡群からは、混合の時期と速度が、狩猟採集民による牧畜の採用、牧畜民集団への狩猟採集民の吸収、もっと複雑な集団間の社会的変遷のどれを反映しているのか、まだ明確ではありません。

 アフリカ東部の遺伝的クラスタ1および2の両方からの証拠を組み合わせると、中央地溝帯のパターンと比較して、アフリカ東部とヴィクトリア湖沿岸の標本抽出された個体群の相互作用と混合のひじょうに様々なパターンが示されます。ヴィクトリア湖とインド洋沿岸の近くでは、たとえばケニアのニャリンディ遺跡の3500年前頃の個体や、タンザニアのザンジバル(Zanzibar)遺跡の1300年前頃の2個体のように、牧畜民の狩猟採集民個体群への混合の証拠はほとんど見られません。また本論文の分析は、ケニアの湿潤な沿岸森林地帯のパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡で発見された400年前頃の個体群が、同様にアフリカ東部狩猟採集民系統を保持しており、レヴァント関連構成をわずかしか有さないことも示します。これは、牧畜民の介在によりレヴァント関連系統が急速に拡大する、中央地溝帯周辺の個体群で観察されるパターンとは正反対です。安定した沿岸および湖水環境の遅れて戻ってきた狩猟採集民は、他の狩猟採集民よりも、人口が多く、なおかつ/もしくは、侵入してくる食糧生産者との相互作用に抵抗力があったのかもしれません。

 本論文のデータはPNの3構成モデルを支持しますが、PNにおける在来集団と外来集団との混合に関して、当初よりもずっと複雑なモデルを示唆します。ディンカおよびアフリカ東部狩猟採集民関連系統は両方、本論文と既知の標本群ではかなり多様です。これは、牧畜の拡大が、長期にわたって維持された複雑な集団構造に関わっていたか、これらの系統の均質化を妨げていたか、相互作用と混合の地域的に異なる軌跡を有する複数集団の移動があった、と示唆します。これは、アフリカ東部における牧畜民拡大の「移動する境界」モデルに寄与する、提案された集団多様性の解像度増加への追加となります。モロ洞窟とルクマンダとパンガヤサイディの個体群はさらに、少なくとも400年前頃まで食糧生産者たちと共存したアフリカ東部狩猟採集民との接触が、接触の最初の段階にのみ起きたのではなく、継続的過程だった、という証拠を提供します。

 データはまた、この牧畜民と狩猟採集民との間の相互作用がひじょうに不均衡で、狩猟採集民系統は牧畜民集団に入ってくるものの、他の方向では遺伝子流動がほとんどないことも明らかにしました。牧畜民と狩猟採集民との間のどのような社会体系がこの1方向の混合をもたらしたのかも、明らかではありません。過去には、牧畜民のより低い人口密度と、家畜流行性疾患による家畜損失の高い危険性とが、環境の生態的知識のより多い在来の狩猟採集民との密接な関係を牧畜民に要求した、と推定されていました。これは、クレセント島のような遺跡における、牧畜民と狩猟採集民の相互作用の証拠で支持されてきました。遺伝的証拠からは、これらの相互作用が起きたならば、より構造化され、民族誌の保護庇護関係と一致し、そこでは狩猟採集民共同体の個体群はゆっくりと牧畜民社会に統合されるかもしれない、と示唆されます。また、異なる社会的動態に起因する性的偏りが、2集団間で観察された非対称的な遺伝子流動に役割を果たしたかもしれません。X染色体の網羅率が充分ではないため、これを明確に検証できませんが、これらの動態はアフリカ中央部および南部の狩猟採集民とバンツー語族農耕民との間で以前に報告されました。


●アフリカ中央部および東部における鉄器時代の系統変化

 ケニア西部のカカペル(Kakapel)遺跡では、3900年前頃の狩猟採集民個体と、300年前頃および900年前頃となる2人の鉄器時代個体が分析されました。鉄器時代の2個体は、主成分分析とADMIXTUREでは、ディンカ人や他のナイル諸語集団(ルオ人など)と密接な遺伝的類似性を示し、古代の狩猟採集民もしくはPN個体群よりも、バンツー語族現代人と密接な遺伝的類似性を示します。カカペル遺跡の900年前頃と300年前頃の個体が遺伝的にナイル諸語集団(ディンカ人とルオ人)とバンツー語族集団(ルヒヤ人とキクユ人)と類似しているのか、検証されました。これらの集団は、南スーダンのディンカ人を除いてケニアの民族集団です。f4統計とqpAdmでは、カカペル遺跡の300年前頃の個体はディンカ系統と類似しており、ルオ人およびルヒヤ人ともわずかにモデルに適合します。カカペル遺跡の900年前頃の個体は、ディンカ人と密接な遺伝的類似性を共有しますが、アフリカ北東部/レヴァント集団からの追加のわずかな系統構成(12±3%)を示し、早期PN牧畜民の系統構成と類似しています。カカペル遺跡の900年前頃の個体における、ディンカとレヴァントの関連系統の混合は、この個体の死から500±200年前頃と推定され、この地域の鉄器時代の始まりと一致します。これが示唆するのは、カカペル遺跡の900年前頃の個体に表される鉄器時代集団は、アフリカ西部関連系統を有する人々の主要な移住の結果というよりはむしろ、PN関連牧畜民と侵入してきたナイル諸語農耕牧畜民との間の混合から生じた、ということです。

 カカペル遺跡の鉄器時代の2個体に見られるナイル諸語関連系統のほぼ90~100%は、PNにおける約40%と比較して顕著な変化で、これは、以前に分析された鉄器時代アフリカ東部個体群に見られるナイル諸語系統の増加よりも、かなり大きくなります。さらに、カカペル遺跡の900年前頃となる個体におけるバンツー語族現代人と関連する系統の欠如は、ケニアの中央地溝帯におけるデロレイン(Deloraine)農耕遺跡の同時代の個体におけるバンツー語族現代人関連系統の存在とは対照的です。ここから示されるのは、鉄器時代アフリカ東部における拡散と混合のパターンは、系統の複雑な地理をもたらした、ということです。いくつかの地域もしくは場所ではナイル諸語集団関連移住からのほぼ完全な置換があり、他の地域では多様な人々の混合が見られるものの、別の地域(たとえばケニアのカカペル遺跡の300年前頃となる個体)ではナイル諸語もしくはバンツー語族と関連する系統からの混合が見られません。

 以前の研究では、中央地溝帯の標本群に基づき、鉄器時代のナイル諸語系統の増加を、いわゆる「牧畜鉄器時代」と関連づけていました。本論文の鉄器時代に関する知見は、PNの知見とよく類似しており、異なる地理的経路でアフリカ東部に入ってくるさまざまな生計体系を有する複数集団と一致します。これらは集団変化の単一「段階」として広く集団化できますが、以前に認識されていたよりも、ケニア南部内の集団変化の性質においてより大きな異質性があった、とますます明らかになっています。

 コンゴ民主共和国のマタンガイトゥル(MatangaiTuru)遺跡の750年前頃となる個体は、アフリカ中央部への牧畜と農耕の拡大の時の、狩猟採集民と食糧生産者の相互作用の追加の軌跡を強調します。この過程に最適なモデルは、エチオピアのモタ遺跡の4500年前頃の個体と関連する系統を一方の起源、もう一方をPN関連系統に含むものです。モタ遺跡個体の代わりにムブティ人を用いて代替的なモデルを検証すると適合し、主成分分析とも適合してこの個体はムブティの方へと動きます。マタンガイトゥル遺跡個体の利用可能な遺伝的データの精度では、これら2モデルのどちらかを決定できませんが、両モデルは古代DNAの非標本抽出地域におけるPN関連系統を示唆する、と強調されます。この知見は、鉄器時代において、牧畜の有無に関わらずPN集団が継続的に拡大したことを反映しているかもしれません。これは、ナイル諸語およびバンツー語族集団と関連する侵入してくる集団への対応、もしくはそれによる置換と関連しているかもしれません。ただ、この議論は単一個体に基づいており、より正確を期すためには、この地域のより多くのデータが必要です。熱帯雨林地域からの古代DNA抽出の成功は、これが可能と示します。

 ウガンダのムンサ(Munsa)遺跡の紀元後14~16世紀頃(500年前頃)の1個体は、既知のタンザニアのペンバ(Pemba)遺跡で発見された600年前頃の1個体とともに、アフリカ東部におけるバンツー語族現代人と関連する系統の拡散を示します。この個体は、ウシの飼育および穀物栽培と関連する、複雑な国家形成期のウガンダにおけるバンツー語族集団を反映している可能性があります。


●アフリカ南部におけるバンツー語族と牧畜民/狩猟採集民との間の混合の直接的証拠

 ボツワナでは、北西部のオカヴァンゴデルタ(Okavango Delta)地域で3人、南東部で1人の新たな古代ゲノムデータが得られました。主成分分析では、この4人はほぼバンツー語族現代人と関連する系統で構成されていますが、その中でも優勢な遺伝的系統はアフリカ南部のオヴァンボ(Ovambo)人と関連しています。ボツワナの4人の地理と主成分分析での位置を考えると、アフリカ南部狩猟採集民と関連する別の遺伝的系統が想定されます。そこで、ボツワナの4人に関して、双方向モデルでアフリカ南部の2000年前頃と1200年前頃の個体が検証されました。その結果、北西部のンクォマ(Nqoma)遺跡およびサロ(Xaro)遺跡の3人はアフリカ南部の1200年前頃の個体と関連する系統を30~40%、南東部のタウコメ(Taukome)遺跡の1人はアフリカ南部の2000年前頃の個体と関連する系統を10%程度有する、とモデル化できました。

 ンクォマ遺跡とタウコメ遺跡の個体は、両方のアフリカ南部系統起源がデータと適合しましたが、サロの2人は、アフリカ南部の1200年前頃の個体と関連する系統のみが適合しました。アフリカ南部の2000年前頃の個体がアフリカ南部狩猟採集民系統と混合していない一方で、アフリカ南部の1200年前頃の個体はアフリカ東部PN関連系統との混合が示されており、これはほとんどのコイサン集団現代人に存在するパターンです。したがって、アフリカ南部の1200年前頃の個体のみがサロ遺跡の2人と適合するモデルを提供するという事実は、サロ遺跡の2人におけるPN関連系統を示唆します。本論文の知見は、ンクォマ遺跡の1人における同じ系統の存在を示しますが、この個体のゲノムデータは低網羅率なので、これを検証できません。また、古代ボツワナ個体群が現代コイサン集団と異なる系統を有しているのかどうか検証され、ジューホアン(Juhoan)北部集団のみが、グイやナロもしくはジューホアン南部人と比較して、古代ボツワナ個体群と類似性が少ない点で際立っている、と明らかになりました。qpAdmモデリングでさまざまなボツワナ集団の起源を用いて評価すると、バンツー語族現代人と関連する系統のさまざまな代理の中で、ナミビアのオヴァンボ人のみが適合モデルを提供しますが、ボツワナおよび南東部バンツー語族現代人で人口の多いツワナ人とカラハリ人は、モデル化に失敗します。

 オヴァンボ人に追加の起源として、タンザニアのルクマンダ遺跡のPNとなる3100年前頃の個体およびアフリカ南部の2000年前頃の個体で、3方向モデルの適合によりPN関連系統が確認されました。ボツワナのサロ遺跡の1400年前頃の個体とンクォマ遺跡の900年前頃の個体は、PN関連系統からの14~22%程度を示します。これと一致して、サロ遺跡の2個体の単系統標識も、混合系統を支持します。サロ遺跡の1人(XAR001)はミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L3e1a2とY染色体ハプログループ(YHg)E1b1a1a1c1aで、ともにバンツー語族集団で一般的です。サロ遺跡のもう1人(XAR002)は、ほとんどの古代アフリカ東部牧畜民と関連するYHg-E1b1b1b2bで、アフリカ南部の現代の牧畜民でも見られますが、mtHgはL0k1a2で、南アフリカ共和国のコイサン集団起源の可能性があります。

 新石器時代牧畜民とバンツー語族集団のどちらの系統が南アフリカ共和国の狩猟採集民関連遺伝子プールと混合したのか、連鎖不平衡減衰を用いて評価され、アフリカ東部牧畜民関連の混合が、一般的にバンツー語族関連系統からの混合に先行する、と明らかになりました。これは、現代アフリカ人のゲノムに基づく南アフリカ共和国の集団の以前のモデル、およびアフリカ東部牧畜民が鉄器時代前にアフリカ南部に定着したとする言語学・考古学的仮説と一致します。

 本論文のデータは、アフリカ東部牧畜民とアフリカ南部狩猟採集民の混合がどこで起きたのか、という問題を扱っていません。しかし、古代DNAデータは明確に、ボツワナ北西部のオカヴァンゴデルタにおける紀元後千年紀後半までの、すでに混合した南部狩猟採集民と東部牧畜民系統の存在を示します。ボツワナでの混合事象の順序は、バンツー語族関連系統およびアフリカ南部の1200年前頃の個体を有するオカヴァンゴデルタ個体群における、系統混合の存在により支持されます。逆に、バンツー語族およびアフリカ東部牧畜民集団の祖先間の交雑がアフリカ南部において狩猟採集民系統が入る前に起きたならば、その痕跡は他の地域で明らかですが、これまで、マラウイ近くのバンツー語族の早期の到来者は、このアフリカ東部構成を有していない、と示されています。

 むしろ、最節約的なモデルでは、最初の集団混合がアフリカ南部の2000年前頃の個体と関連する集団、および最初の混合の子孫であるアフリカ南部の1200年前頃の個体集団と、アフリカ東部牧畜民との間で起きた、と示します。アフリカ南部に到来したバンツー語族はそれから、サロ遺跡個体と関連する集団と混合しました。これまでに分析されたどの現代人集団も、サロ遺跡の2人と同じ系統の混合はありません。今後の標本抽出の増加により、そうした集団が明らかになるかもしれませんが、現時点では、この集団が後に、混合しておらず現在この地域に居住するバンツー語族集団に置換された、と示唆されます。

 ボツワナと南アフリカ共和国におけるアフリカ東部牧畜民関連系統の到来は、この地域における乳糖耐性の出現と関連しており、それはナマ人のようなコイ語現代人に見られます。そこで、乳糖耐性と関連する既知の一塩基多型アレルが古代ボツワナ個体群もしくは他のアフリカ個体群で見つかるのか、検証されました。PN関連の8人では、乳糖耐性関連アレル存在の証拠は見つかりませんでした。バンツー語族の拡大と関連づけられてきたマラリア耐性遺伝子も検証され、サロ遺跡の1個体(XAR002)で派生的アレルがみつかり、この個体の遺伝的構成で見られるバンツー語族関連系統の混合と一致します。遺伝的結果は、早期鉄器時代のボツワナにおける農耕・牧畜・狩猟採集の多様性を示唆する考古学的データを反映しています。ボツワナでもアフリカ東部と同様に、特定の時空間的環境における相互作用と統合の特有の軌跡が、最近までアフリカの歴史の特徴だった生計戦略の多様性に影響を与えたようです。


●アフリカ中央部歴史時代におけるバンツー語族と関連する系統

 コンゴ西部最新の古代ゲノムは、キンドキ(Kindoki)遺跡の230年前頃の個体と、ンゴンゴムバタ(NgongoMbata)遺跡の220年前頃の個体で、バンツー語族現代人と関連する混合されていない系統を示し、500年前頃となる上述のウガンダのムンサ遺跡個体と類似しており、主成分分析では、タンザニアのペンバ遺跡の600年前頃となる個体やアフリカ東部および南部の一部のバンツー語族話者とともに、密接にクラスタ化します。キンドキ遺跡の230年前頃の個体とンゴンゴムバタ遺跡の220年前頃の個体が単一の遺伝子集団としてまとめられ、現代バンツー語族集団およびそれと関連するムンサ遺跡個体など古代のゲノムとの遺伝的類似性が、外群f3統計で検証されました。本論文の標本群は、ペンバ遺跡の600年前頃の個体およびケニア鉄器時代のデロレイン遺跡個体と最高の遺伝的類似性を示し、アフリカ南部バンツー語族のオヴァンボ人が続きます。さらに、f4対称性検証では、ペンバ遺跡の600年前頃の個体よりも古代コンゴ個体群もしくはオヴァンボ人のどちらかと、多くの遺伝的類似性を有する他の集団は見つかりませんでした。

 バンツー語族と関連する系統を有する古代の個体群が、その顕著な時空間的距離にも関わらず、現代バンツー語族集団とよりも相互に密接に関連しているという事実は、後の移住の結果として、ほとんどの現代バンツー語族集団における追加の系統構成の流入を反映しているかもしれませんが、一般的に現代の遺伝子型決定データと比較して相互にわずかに引きつけられる、古代DNA標本群間のバッチ効果による混同の可能性もあります。また、コンゴ民主共和国や多くの近隣諸国を含む現代集団の標本抽出に明らかな相違があることも要注意です。

 キンドキ遺跡のもう1人の古代個体の年代は150年前頃で、主成分分析でも混合分析でも、キンドキ遺跡の230年前頃となる個体とは異なる遺伝的構成を示します。キンドキ遺跡の230年前頃となる個体がンゴンゴムバタ遺跡の220年前頃の個体と集団化され、キンドキ遺跡の150年前頃となる個体がと他の2人の歴史時代集団が遺伝的に類似しているのか、f4統計で検証されました。いくつかのユーラシア西部集団もしくはユーラシア西部系統を有する古代アフリカ集団が、他のコンゴの個体群とよりも有意にキンドキ遺跡の150年前頃となる個体に近い、と示されました。キンドキ遺跡の150年前頃となる個体は、qpAdmではバンツー語族関連系統が85±7%、ユーラシア西部関連系統が15±7%とモデル化できます。この系統構成は、キンドキ遺跡の150年前頃となる個体がポルトガル系統を有する、という仮説と一致します。この仮説は、コンゴの植民地史、およびキンドキ遺跡の150年前頃となる個体や他の個体群のキリスト教埋葬様式と合致します。以下、本論文で取り上げられた主要なサハラ砂漠以南のアフリカ個体の系統構成を示した、本論文の図3です。
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●まとめ

 本論文は、ケニア・ウガンダ・コンゴ民主共和国・ボツワナの20人分の新たな古代ゲノムデータを提示し、既知のデータと組み合わせることで、サハラ砂漠以南のアフリカ全体の多様な人類集団の共存・移動・相互作用・混合を報告しています。アフリカ全域で最初の視覚化された系統は、南部のサン人や東部のハッザ人や中央部熱帯雨林地帯のムブティ人のような、現代狩猟採集民集団と密接に関連しています。現在のデータが示すのは、この地理的に定義された狩猟採集民集団構造がアフリカ東部では少なくとも中期完新世までさかのぼり(4500年前頃となるエチオピアのモタ遺跡個体に表されます)、現在の狩猟採集民集団はかつて空間的に重なっていた系統の収縮を反映している、ということです。アフリカ東部・南部・中央部の地域的な狩猟採集民間の遺伝子流動の制約は、乾燥化の進展のような気候・環境要因による長期のものなのか、食糧生産集団による包囲の結果なのかに関わらず、アフリカで観察された集団構造に著しく寄与した可能性が高そうです。

 重複する狩猟採集民系統が、食糧生産前の移住を反映している可能性もあります。たとえば、早期完新世におけるアフリカ北部から東部への骨製銛技術や波線土器や水産資源に基づく経済も、集団移住を伴っていた可能性があります。当時のより湿潤な気候条件はまた、アフリカ中央部熱帯雨林とアフリカ東部の大湖沼の狩猟採集民間の、以前には見えなかった東西のつながりを促進したかもしれませんが、それはおそらくカカペル遺跡の3900年前頃の個体におけるムブティ関連系統に反映されています。

 本論文で新たに報告されたケニアのPNの6人は、以前に報告された同じ地域のPN個体群で観察されたよりもずっと複雑な系統を示します。これがランダムな配偶と均質化を妨げる集団構造の結果であるかもしれない一方で、このパターンの別の説明として、早期牧畜民が複数の同時代の地理的に異なる経路で南下し、それはアフリカ東部全域でのマサイ人などの歴史的な移住と類似していた、という想定もできます。そのような想定では、アフリカ北部の単一集団が、ある牧畜集団はナイル川回廊に沿って移動したり、ある集団はエチオピア南部やあるいはウガンダ東部を通ったりしたように、多数に分岐したかもしれません。さまざまな軌道に沿って、集団は異なる集団と遭遇し、共同体間関係の多様なパターンを形成し、系統のより多様な統合をもたらしました。このモデルは、物質文化・居住戦略・埋葬伝統の明確な多様性が、なぜ密接に共有された系統を有するPN集団間でたいへん長く維持されたのか、説明できるかもしれません。

 さらに、ケニアのモロ洞窟遺跡PN期個体におけるかなりのアフリカ東部狩猟採集民系統の存在は、考古学的記録で明らかにされているよりも、在来の狩猟採集民の長期の存続を示唆します。全体的に遺伝的に均一なように見えるにも関わらず、狩猟採集民集団は、遺伝的混合の時期と構造に影響を及ぼす侵入してくる牧畜民とは、抵抗もしくは統合のさまざまな程度で相互作用しました。追加の考古学的・考古遺伝学的データが、このモデルを検証し、移住と相互作用の歴史的に偶然のパターンをよりよく構築するのに依然として必要です。

 鉄器時代に入ると、アフリカ東部・中央部・南部で集団移動の複数経路の証拠が再び見られます。ヴィクトリア湖近くのカカペル遺跡の鉄器時代の2人は、以前に報告された中央地溝帯の鉄器時代の5人よりも、極端というかほぼ完全なナイル諸語系統の増加を示し、おそらくはルオ人の到来と関連しています。これに関する唯一の説明は、遺伝的置換が地域特有で、複数の異なる移住を伴った可能性がある、ということです。後期鉄器時代のコンゴ東部におけるPN関連系統の観察は、その時点でのバンツー語族関連系統の欠如と同様に、現時点では孤立した知見となり、これに関しては、アフリカ東部核地域の西方におけるPN関連系統の拡大についてのさらなる調査が必要です。

 ルヒヤ人やキクユ人のような現代人集団の系統で明らかな、侵入してくるバンツー語族と、鉄器時代ディンカ関連系統との間の相互作用は依然として不明で、農耕拡大が排他的にバンツー語族集団経由のみだったのか、それとも在来集団の採用だったのか、という問題も含みます。しかし、本論文の新たなゲノムデータは、バンツー語族移住のさらに南方への痕跡を追跡します。本論文のデータは、紀元後千年紀のボツワナにおけるバンツー語族関連系統を有する人々の到来と、アフリカ東部牧畜民およびアフリカ南部狩猟採集民系統との混合を示します。これは、この地域における異なる3系統間の相互作用の証拠を提供し、バンツー語族共同体が1700年前頃までにアフリカ南部に到達した、という仮説と一致し、またアフリカ南部へのバンツー語族拡大前の牧畜民の拡大という仮説への遺伝的証拠を提示します。

 アフリカ南部のバンツー語族関連系統の痕跡に加えて、ウガンダとコンゴ西部の歴史時代の個体群で混合されていないこの系統が見つかりました。この遺伝的構成は、以前に報告されたタンザニアのペンバ遺跡の600年前頃の個体や、ケニアの鉄器時代のデロレイン遺跡の個体や、現代バンツー語族南部集団(オヴァンボ人)と類似しており、すでによく記録されているバンツー語族拡大による遺伝的均質化と一致します。それにも関わらず、古代DNA研究は、バンツー語族とサハラ砂漠以南のアフリカの地域的な狩猟採集民および牧畜民とのひじょうに多様な混合パターンを明らかにしつつあります。コンゴ西部とタンザニアでは、歴史時代まで混合されていないバンツー語族関連系統が持続しましたが、アフリカ南部では、バンツー語族の最初の到来から数世紀以内で顕著な混合の証拠が見られます。

 本論文は、超地域的研究が大陸規模の過程を理解するのに重要である一方、地域に焦点当てた研究が、文化的および集団の変化の地域特有パターンをよりよく理解するのに将来必要となる、と強調します。アフリカ東部とボツワナ北方地域へ最初に牧畜民をもたらした過程をよりよく理解し、早期牧畜民と南アフリカ共和国の狩猟採集民との間の相互作用についてより詳細を明らかにするには、スーダンとアフリカの角が重要な地域となるでしょう。近年のアフリカの古代DNA研究の進展を考えると、今後の進展が大いに期待されます。


参考文献:
Wang K. et al.(2020): Ancient genomes reveal complex patterns of population movement, interaction, and replacement in sub-Saharan Africa. Science Advances, 6, 24, eaaz0183.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz0183

ベーリンジアにおけるマンモスの絶滅

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、マンモスの絶滅に関する研究(MacDonald et al., 2020)が公表されました。この研究は、地域別の放射性炭素測定年代データベースを用いて、現在のアラスカからシベリア東部にまたがる地域で、マンモスの最後の生息地となったベーリンジア(ベーリング陸橋)における絶滅パターンを調べました。その結果、45000~30000年前頃には、マンモスがベーリンジアの広大な大地に大量生息していた、と明らかになりました。

 大陸部のマンモスは、最後には北部に集中して生息していましたが、気候が温暖化し、泥炭地・湿潤ツンドラ・針葉樹林が発生した1万年前頃に消滅しました。最後まで島部に生息していた集団は、4000年前頃に絶滅しました。この研究はベーリンジアにおけるマンモスの絶滅に関して、複数の原因だった可能性がひじょうに高く、気候・生息地の変化とヒトの存在による長期的減少の結果だった、と結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【古生物学】マンモス絶滅の軌跡

 放射性炭素年代測定によってマンモス絶滅の時空間的パターンを調べる研究が行われた。その結果、45,000〜30,000年前にベーリンジアに大量に生息していたマンモスが、気候の変化、生息地の変化とヒトの存在による長期的な個体数減少を経て、最後まで島部に生息していた個体群が約4,000年前に絶滅したことが明らかになった。この結果を報告する論文は、今週、Nature Communicationsに掲載される。

 今回、G MacDonaldたちは、地域別の放射性炭素測定年代データベースを用いて、ベーリンジア(現在のアラスカからシベリア東部にまたがる地域でマンモスの最後の生息地となった)における絶滅パターンを調べた。その結果、45,000〜30,000年前の最終氷期に、マンモスがベーリンジアの広大な大地に大量生息していたことがわかった。大陸のマンモスは、最後には北部に集中して生息していたが、気候が温暖化し、泥炭地、湿潤ツンドラと針葉樹林が発生した約10,000年前に消滅した。そして、最後まで島部に生息していた集団は、約4,000年前に絶滅したこともわかった。MacDonaldたちは、マンモス絶滅が、複数の原因によっている可能性が非常に高く、気候、生息地の変化とヒトの存在による長期的減少の結果だったと結論づけている。



参考文献:
MacDonald GM. et al.(2012): Pattern of extinction of the woolly mammoth in Beringia. Nature Communications, 3, 893.
https://doi.org/10.1038/ncomms1881

ネアンデルタール人と現生人類との複数回の交雑

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との複数回の交雑に関する研究(Taskent et al., 2020)が報道されました。アフリカ起源の現生人類はアフリカからユーラシアへ拡散し、6万~5万年前頃にネアンデルタール人と交雑しました。その結果、非アフリカ系現代人は全員、そのゲノムに1~2%程度のネアンデルタール人由来のDNAを継承しています。非アフリカ系現代人のゲノムでは、各地域集団でネアンデルタール人由来のDNAの割合がほぼ同じなので、非アフリカ系現代人の祖先集団がアフリカからユーラシアへ拡散した直後に、おそらくは中東でネアンデルタール人と交雑し、ネアンデルタール人から現生人類(非アフリカ系現代人の祖先集団)への遺伝子移入はこの1回のみだった、と考えられていました。その後の研究では、現代人の地域集団同士の比較で、アジア東部はヨーロッパよりもネアンデルタール人系統を20%多く有している、と推定されました。

 ネアンデルタール人の痕跡が多数確認されているヨーロッパよりも、ネアンデルタール人がまだ確認されていないアジア東部において、現代人のゲノムに占めるネアンデルタール人系統の割合が有意に高いことに関して、おもに3通りの仮説が提示されました。まず、アジア東部とヨーロッパで有効人口規模が異なっていたことに起因して、負の選択が異なる強さで作用した、というものです(仮説1)。次に、ネアンデルタール人系統をほとんど若しくは全く有さない仮定的な(ゴースト)現生人類集団(基底部ユーラシア人)がヨーロッパ現代人の形成に寄与しており、ヨーロッパ人ではネアンデルタール人系統が「希釈」された、というものです(仮説2)。最後に、アジア東部現代人集団の祖先とネアンデルタール人との間に追加の固有の遺伝子移入事象が起きた、というものです(仮説3)。

 仮説1は、その後の検証では否定的結果が得られています(関連記事)。また、現生人類集団においてネアンデルタール人系統への広範な浄化選択は、遺伝子移入事象後最初の数世代で最も強く、それはアジア東部系(ユーラシア東部系)とヨーロッパ系(ユーラシア西部系)の分岐前だっただろう、と推測されています(関連記事)。つまり、少なくとも過去35000年間、ユーラシア現生人類集団におけるネアンデルタール人系統の水準は変わらなかっただろう、というわけです。

 これと関連して、ヨーロッパの現生人類において過去1万年間、ネアンデルタール人系統の割合が有意な減少を示さないことからも、仮説2で想定されている「希釈」効果は大きくなかったかもしれない、と指摘されています。ただ、さらに新しい研究では、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人のゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域の割合がじゅうらいの想定よりもずっと高く、ヨーロッパ系現代人とアジア東部系現代人との間のネアンデルタール人系統の割合の違いが以前の推定(20%)よりもずっと小さいこと(8%)から、「希釈」仮説の有効性の可能性が指摘されています(関連記事)。

 仮説3は現在支持を集めつつある、と言えそうです。一昨年(2018年)公表された研究では、ヨーロッパ系現代人およびアジア東部系現代人双方の祖先集団で独立して複数回の交雑があり、「希釈」が起きたとしてもその影響は小さかった、と推測されています(関連記事)。また昨年の研究では、ネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の混合集団が、アジア東部・アンダマン諸島・アジア南部・パプア・オーストラリア先住民の共通祖先集団と交雑した、と推測されています(関連記事)。

 ヒト集団の遺伝学的研究における現代人の遺伝的多様体の無視されがちな部分は、構造的多様体です。それは、大規模な欠失と重複・挿入・逆位・転座です。しかし、構造的多様体は、あらゆるヒト同士のゲノム比較において、影響を受ける塩基対の数という点では、遺伝的多様性のずっと大きな割合を占めます。したがって、構造的多様体の研究により、現生人類とネアンデルタール人の間の交雑史への追加の洞察を得ることが可能です。以前の研究では、ネアンデルタール人から現生人類へ遺伝子移入された38ヶ所の欠失多様体が見つかりました(関連記事)。

 本論文はこれらの知見を踏まえて、ネアンデルタール人からユーラシア系現生人類のゲノムへと遺伝子移入された数千のハプロタイプを特定しました。これらのハプロタイプの分析は、さまざまなネアンデルタール人系統からヨーロッパおよびアジア東部への遺伝子移入を示唆します。本論文は同時に、欠失多型を調べて、現代人集団に見られる特有のハプロタイプ多様性を特定します。それは、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)からの遺伝子移入のさまざまな出来事に由来する可能性があります。ハプロタイプデータと欠失アレル(対立遺伝子)の共有は、異なるネアンデルタール人系統からヨーロッパおよびアジア東部現代人への遺伝子移入を示唆します。


●ユーラシアにおける遺伝子移入されたハプロタイプの推定

 核ゲノムデータの得られているネアンデルタール人は、大きく東方系と西方系に区分されます(関連記事)。東方系は南シベリアのアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された130000~90900年前頃の個体(関連記事)に、西方系はクロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)で発見された5万年前頃の個体(関連記事)に代表されます。非アフリカ系現代人全員の共通祖先への遺伝子流動をもたらしたネアンデルタール人は、西方系と推測されています。この現在有力とされる仮説が正しければ、現代人に見られるネアンデルタール人から遺伝子移入されたハプロタイプは、東方系と比較して西方系に近いと予想されます。

 本論文は、ヨーロッパ西部系とアジア東部系の現代人200個体を対象として、この仮説を改めて検証しました。現生人類に遺伝子移入されたネアンデルタール人のハプロタイプは、平均するとアルタイ個体(東方系)よりもクロアチア個体(西方系)に近い、と明らかになりました。これは有力説と一致します。しかし、ヨーロッパ西部系とアジア東部系の両方で、かなりの数のハプロタイプがアルタイ個体の方に近いことも明らかになりました。本論文は、ネアンデルタール人と現生人類との複数回の交雑の可能性が高いことを示し、これはアジア東部現代人の祖先集団がヨーロッパ系と分岐した後にネアンデルタール人と交雑した、との見解(関連記事)と一致します。

 しかし、アルタイ個体と予想以上の類似性を示すハプロタイプの割合が、アジア東部系とヨーロッパ系との間で違わないので、この過剰なネアンデルタール人系統の起源はアルタイ個体系統(東方系)ではないようです。本論文の検証結果は、アジア東部系とヨーロッパ系の共通祖先である現生人類集団がネアンデルタール人と交雑した後、アジア東部系とヨーロッパ系は分岐し、それぞれネアンデルタール人からの遺伝子移入があった、と想定する見解と一致します(関連記事)。


●欠失多型分析

 現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来のハプロタイプに基づき、ネアンデルタール人から現生人類への複数回の遺伝子移入が起きた可能性は高い、と推測する本論文は、次に現代人のゲノムの欠失多型がとネアンデルタール人由来なのか、検証します。その場合、チンパンジーのアレルと比較して派生的で、東西両系統のネアンデルタール人のどちらかと共有されるもののデニソワ人とは共有されず、ネアンデルタール人系統と現生人類系統とで同じ染色体切断点を有する、と予想されます。

 まず、現代人26集団2504人のゲノムから、多型となる巨大な欠失(50塩基対以上)が33350ヶ所特定されました。このうち32271ヶ所(約96.8%)は現生人類特有で、残りの1079ヶ所(約3.2%)は、古代型ホモ属のうち少なくとも1系統と共有されています。これは、アレル共有の以前の推定値と一致します。機能的影響をもたらすかもしれない、これらの共有された欠失のうち、ネアンデルタール人系統では、113ヶ所が西方系、73ヶ所が東方系に特有でした。

 本論文はこの結果に関して、3通りの仮説を検証しました。まず、ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先にさかのぼるものの、ネアンデルタール人の一方の系統では遺伝的浮動により失われた、という可能性です。次に、ネアンデルタール人の集団内の構造を表しており、複数回の遺伝子移入なしで、つまり単一の遺伝子移入事象で説明できる可能性です。最後に、ネアンデルタール人の特定系統から現生人類へ独立して遺伝子移入が起きた可能性です。

 これらネアンデルタール人と共有され、ネアンデルタール人からの遺伝子移入によると考えられる欠失多様体のうち、東方系と西方系のみから遺伝子移入されたと推測される有力な候補は、それぞれ4ヶ所と16ヶ所です。この欠失多型のアレル頻度分布を検証すると、西方系はアジア東部よりもヨーロッパで有意に高い、と明らかになりました。ネアンデルタール人から遺伝子移入された多様体は平均してヨーロッパよりもアジア東部の方で高いことを考えると、これは興味深い結果です。この結果の説明としてまず考えられるのは、西方系ネアンデルタール人からヨーロッパ系現代人の祖先集団への追加の遺伝子移入事象です。

 東方系ネアンデルタール人とのみ共有される欠失のうち、9番染色体上の欠失のハプロタイプ多様性が分析されました。この分布頻度は、単一の遺伝子移入事象では説明できず、とくにアジア東部系現代人の祖先集団に遺伝子移入された、と推測されます。より広範なハプロタイプの分析でも、東方系ネアンデルタール人固有の低水準な遺伝子移入が推測されます。

 ネアンデルタール人から現生人類へと遺伝子移入された欠失の機能的影響としては、網状赤血球の未成熟部分や白血球の単球の割合や利尿などがあります。ネアンデルタール人でも西方系のみと共有され、東方系とは共有されていない欠失を有するハプロタイプは、ほぼユーラシア西部(9%)とそれ以下の頻度でアジア南部においてしか見られず、ユーラシア東部では観察されませんでした。このハプロタイプは、自己免疫疾患を有する人々の心血管系リスクと関連しています。


●まとめ

 現代人は、ネアンデルタール人の東西両系統と異なる量の一塩基多型および大きな欠失多型を共有します。ヨーロッパ西部とアジア東部の現代人のゲノムで検出された、ネアンデルタール人から遺伝子移入されたと推定されるハプロタイプは、平均的には東方系よりも西方系に近い一方で、アジア東部とヨーロッパ西部の現代人の両方において、西方系からの単一の遺伝子移入事象で想定されるよりも西方系と離れているハプロタイプが、予想以上に多く存在します。

 これは、アジア東部とヨーロッパ西部の現代人の両祖先集団において、ネアンデルタール人の異なる系統からの複数回の遺伝子移入が起きたことを示唆します。この具体的証拠となるのが、アジア東部現代人のゲノムで検出され、東方系ネアンデルタール人とアジア東部および南東部の現代人の間で排他的な共有される、ネアンデルタール人からの遺伝子移入と推定される366000塩基対のハプロタイプに位置する欠失多様体です。これは、西方系ネアンデルタール人からの単一の遺伝子移入事象で起きそうにありません。アジア東部現代人の祖先集団は、西方系ネアンデルタール人だけではなく、東方系ネアンデルタール人とも交雑した、と考えられます。

 欠失多型はさらに、アジア東部とヨーロッパ西部の現代人の、西方系ネアンデルタール人と共有するアレルにおける集団文化を示します。具体的には、西方系ネアンデルタール人と共有される、遺伝子移入されたと推定される欠失多様体は、アジア東部よりもヨーロッパ西部の方で有意に高頻度と明らかになりました。したがって、現生人類でもアジア東部系統と分岐した後のヨーロッパ系現代人の祖先集団へ、西方系ネアンデルタール人からの追加の遺伝子移入があった、という可能性がひじょうに高そうです。現生人類とネアンデルタール人との間の関係は、以前の想定よりも複雑だったようです。


参考文献:
Taskent O. et al.(2020): Analysis of Haplotypic Variation and Deletion Polymorphisms Point to Multiple Archaic Introgression Events, Including from Altai Neanderthal Lineage. Genetics, 215, 2, 497-509.
https://doi.org/10.1534/genetics.120.303167

ゴットランド島の円洞尖底陶文化と戦斧文化の関係

 スウェーデンのゴットランド島の円洞尖底陶文化と戦斧文化の関係についての研究(Coutinho et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。物質文化の考古学的解釈は長い間、過去のヒト社会と人口動態の変化を理解する主要な手法の一つでした。最近の考古学的調査では、大規模な移住を含むヒトの移動が、多くの地域で社会的・文化的発展を形成してきた、と明らかになりました。これらの新たな結果は、考古学的記録に見られる変化とパターンがどのようにヒト集団と関連しているのか、という議論を活性化しました。しかし、解釈は時として過度に単純化される懸念があり、文化的実体とヒト集団の両方に関する見解を狭め、過去の「説明的な理論的枠組み」が不当に強化される可能性もあります。

 ヨーロッパ北部の考古学的記録は、中石器時代に続いて、紀元前五千年紀の線形陶器文化(Linear Pottery Culture、LBK)の出現、紀元前三千年紀の縄目文土器文化(Corded Ware culture、CWC)へと至る変容を示します。両方の変化とも、移住ヒト集団による人口動態事象と関連づけられています。スカンジナビア半島でもこの過程は類似していますが、新石器時代への移行は漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、FBC)の出現により特徴づけられます。紀元前三千年紀における戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)の出現は、別の重要な移住および混合事象となり、ヨーロッパ本土とバルト海地域の発展に関連しています(関連記事)。しかし、この地域では、円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、PWC)と関連した狩猟採集民がまだ存在していました。

 PWCは、紀元前3400~紀元前2400年頃の考古学的記録に現れます。PWC関連の人々の出現と中石器時代狩猟採集民もしくはFBC農耕民との関係は、1世紀以上にわたって議論されてきました。PWC関連個体群と、より古い紀元前5000年頃以前となるスカンジナビア半島中石器時代狩猟採集民(関連記事)との間には強い遺伝的関係がありますが、同時代のFBC集団とPWC集団との間の低水準の混合が指摘されています(関連記事)。その後の段階では、PWCはスカンジナビア半島南部でBACと共存していました(紀元前3000/2800~紀元前2300年頃)。BACはCWCのスカンジナビア半島における変形と考えられており、その名称は、男性の墓の副葬品である金属製の戦斧を模倣した石斧に由来します。

 スウェーデン南部~中央部のBAC関連個体群は、ヨーロッパ大陸部CWC個体群と類似した遺伝的構成を示し、ヤムナヤ(Yamnaya)文化と関連したユーラシア草原地帯からの移民の影響が見られます。この草原地帯系統は、スカンジナビア半島に紀元前2800年頃には到達していました。このポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの大規模な移住事象は、紀元前3300年頃にはヨーロッパ東部および中央部に拡大し、在来集団に影響を与え、おそらくはCWCの出現をもたらしましたが、この過程はよく理解されていません。スカンジナビア半島におけるCWC/BACとPWCとの間の人口・経済・文化的相互作用は、新たな遺伝データを考慮しても、じゅうぶんには理解されていません。

 考古学的記録は、PWCとCWC/BACとの間の文化的表現の明確な違いを示しており、埋葬習慣と居住パターンと生計経済において最も明らかです。PWC遺跡は、エーランド島とゴットランド島とオーランド諸島を含むスカンジナビア半島南部沿岸で最もよく見られます。一方BAC遺跡は、現在のスウェーデン南部および中央部のより内陸部に分布しています。PWCの生計経済は、動物遺骸と安定同位体分析で明らかなように、おもに海洋に依存していました。PWC集団は、いくつかの遺跡で発見された炭化した穀類とイノシシ/家畜ブタの骨に示唆されるように、おそらく「新石器時代」要素を限定的に含んでいました。しかし、こうした解釈は限定的な発掘遺跡数の影響を受けます。

 220を超えるPWC墓の大半はゴットランド島で発見されており、死者は単独で平らな墓地に仰向けに葬られています。副葬品の人工物としては、狩猟具・釣具・歯のペンダント・穿孔土器などがあり、野生の獲物であるシカの骨もたまに見られます。BAC埋葬もほぼ平らな墓地で、1人もしくは2人で葬られていますが、中には火葬や二次埋葬もあり、巨石記念碑と関連しています。BAC埋葬は厳密に定式化されており、屈んで横臥する状態で葬られており、装飾土器や舟形戦斧や砥石や琥珀色のビーズなどの副葬品が共伴します。

 興味深いことに、バルト海のゴットランド島のPWC埋葬遺跡には、被葬者が座ったような状態で葬られているか、戦斧や砥石や琥珀色のビーズのようなBAC関連人工物が共伴する事例も見られます。さらにゴットランド島では、縄目土器や60個の戦斧が発見されました。これらの発見は、PWCとBACの間の何らかの接触を示します。ゴットランド島におけるBAC と関連した文化的影響を有するPWC埋葬は、両集団間の相互作用の性質の調査に使える興味深い事例です。本論文は、ゴットランド島の4ヶ所のPWC墓地遺跡で発見された25人を対象として、ゲノム分析と、BAC文化の影響がPWCに組み込まれたのは、異なる人口動態過程、たとえば族外結婚や他の移動タイプによるのか、もしくは文化的変容とアイデアの伝播によるのか、という調査結果を報告します。

 25人のうち13人は、少なくとも50の墓を含むゴッサム(Gothem)教区のヴェーステルブイェルス(Västerbjers)遺跡で、8人は85人の被葬者がいるエクスタ(Eksta)教区のアジュヴィーデ(Ajvide)遺跡で、1人はハングヴァール(Hangvar)教区のイレ(Ire)遺跡で、3人はネール(När)教区のヘモール(Hemmor)遺跡で発見されました。このうち12人はPWC埋葬に典型的な仰向けで葬られ、11人は、屈んで横臥した状態で葬られているか、戦斧のような副葬品が共伴しており、BACとの関連が見られます。後者の11人は、「BACの影響を受けた」個体群と呼ばれます。ヘモール遺跡の2人は、遺骸の保存状態が充分ではないので、どちらの埋葬様式にも分類されませんが、その墓地にはBAC関連人工物は見られません。この15人には放射性炭素年代測定法と炭素13および窒素15安定同位体分析が適用されました。この25人のうち19人の骨もしくは歯からDNAが抽出されました。この19人の遺伝データは、ゴットランド島のPWC関連の6人、スウェーデンのBAC関連の3人、エストニアとラトビアとポーランドとドイツのCWC関連の17人と比較されました。主成分分析では、ユーラシア西部現代人集団のデータセットが用いられました。

 ゴットランド島のPWC墓地遺跡であるアジュヴィーデとヴェーステルブイェルスとヘモールの19人のゲノムデータは、網羅率が0.02~4.54倍です。この19人の較正年代はおおむね紀元前2900~紀元前2500年頃ですが、ヘモール遺跡の2人(hem004とhem005)はやや古く、ヴェーステルブイェルス遺跡の1人(vbj007)はやや新しいようです。炭素と窒素の安定同位体分析では、全員が海洋性タンパク質に基づく均質な食性だった、と示され、以前のPWC集団の食性に関する研究と一致します。19人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析の網羅率は14.6~1512.4倍です。遺伝データからは、19人のうち女性が7人、男性が12人と示されます。


●mtDNAとY染色体のハプログループおよび親族分析

 ゴットランド島のPWC関連個体群で、本論文で新たに遺伝データが得られた19人と、追加の6人の計25人のmtDNAハプログループ(mtHg)が調べられました。BACの影響を受けた被葬者11人の大半はmtHg-Uで、U5b(36.4%、4人)が最多となり、U4a2(27.3%、3人)、U4d(9.0%、1人)、U5a(9.0%、1人)と続きます。他のmtHgでは、K1a3(9.0%、1人)とT2b(9.0%、1人)が見られます。これらのうちT2b以外のmtHgは他のPWC個体群でも共有され、その他にはmtHg-HV・Vが見られます。全体的に、mtHgの分布は、以前の研究でのPWC個体群と類似しています。mtHg-Uの高頻度は、PWCがスカンジナビア半島中石器時代狩猟採集民と共有しています。本論文で比較対象とされたスウェーデンのBAC関連の3人は、BACの影響を受けたPWC個体群とは異なるmtHg-K1a2a・U4c1a・N1a1a1a1に分類されます。バルト海南部および東部のCWC個体群には、新石器時代農耕民に典型的なmtHg-H・J・K・T・Xと、狩猟採集民と関連するmtHg-U4・U5が見られ、これらのうちいくつかは、BAC関連の影響を受けた被葬者も含めてPWC個体群と重複します。

 PWC関連個体群の6人でY染色体ハプログループ(YHg)が決定され、以前の研究で示された2人と合わせると8人となります。典型的なPWC被葬者4人とBACの影響を受けたPWC被葬者3人は全員YHg-Iで、網羅率が高くより詳細に分類できた個体群では、YHg-I2a1a(CTS595)が3人、YHg-I2a1b(L161)が1人です。YHg-I2は中石器時代スカンジナビア半島狩猟採集民で以前に報告されています。YHg-I2はCWC関連の3人でも見られますが、BACおよびCWC関連男性の大半は、YHg-R1aです。mtDNAとY染色体という単系統遺伝のハプログループ頻度では、本論文で取り上げられたBACの影響を受けたPWC被葬者たちが、他のPWC関連個体群と類似している、と示唆されます。

 25人の親族関係では、ヴェーステルブイェルス遺跡で2親等程度(vbj002とvbj007、vbj001とvbj008)、アジュヴィーデ遺跡で1親等(ajv59とajv70)の関係が見つかりました。この3組6人は全員、典型的なPWC被葬者です。つまり、BACの影響を受けたPWC個体群では、親族関係が確認されなかった、というわけです。また、ペアワイズ推定では、予想よりも高い集団間の遺伝的類似性が示唆されます。


●ゲノム分析

 以前の研究と同様に、主成分分析では、新石器時代農耕民と狩猟採集民(ヨーロッパ東部系と西部系)とヤムナヤ草原地帯牧畜民が区分されました。典型的なPWC被葬者とBACの影響を受けたPWC被葬者は、以前に分析されたPWC個体群とクラスタ化します。一方、スカンジナビア半島のBACおよびヨーロッパ大陸のCWC個体群は、ヤムナヤ集団とヨーロッパ北部現代人との間でクラスタ化し、以前の観察と類似しています。しかし、PWC個体群のうち例外が1人(vbj003)おり、PWC集団外に位置し、BAC/CWC個体群により近づいています。これは、汚染除去後の網羅率が0.03倍と低く、重複する一塩基多型数が少ないために発生する擬似的結果です。

 D 検定では、ゴットランド島のPWC遺跡の被葬者は全員、参照用となる高網羅率の個体との比較では、BAC個体よりもPWC個体の方と遺伝的に類似しています。上述のように、vbj003は主成分分析では予期せぬクラスタ化を示しましたが、これは汚染と低網羅率に起因し、D 検定では明らかに他のPWC個体群と遺伝的に類似しています。対照的に、スカンジナビア半島本土のBAC関連個体(ber2)は、PWC個体群とは明らかに異なり、ドイツのCWC関連の4人は、他のPWC個体群と比較して、参照用BAC個体の方と遺伝的に近いと示されます。

 ADMIXTURE分析では、先史時代個体群がさまざまな遺伝的系統構成を有している、と示されます。本論文で新たにゲノムデータが報告されたPWC関連の19人と追加の6人は、狩猟採集民系統の割合がひじょうに大きい、と示されます。スウェーデンのBAC関連個体群は、狩猟採集民系統の割合が50%ほどで、その他に新石器時代農耕民系統を高い割合で有しますが、ヤムナヤ草原地帯牧畜民およびCWC個体群の系統も一定以上有します。

 ほとんどのPWC個体群は、埋葬状態に関係なく、新石器時代農耕民系統をわずかに有します。これは、FBC集団とBAC集団との間の低水準な遺伝子流動と、両者が相互に完全に孤立していなかったことを示唆します。また、PWC関連の25人のゲノムには、草原地帯牧畜民系統は見られませんでした。つまり、ゴットランド島のPWC関連の25人は遺伝的に類似しており、中石器時代スカンジナビア半島狩猟採集民とは遺伝的に類似しているものの同一ではなく、ゴットランド島のFBC個体群(紀元前3300~紀元前2700年頃)とは異なり、以前の研究で指摘されていたように、農耕民との低水準の混合が見られます。


●まとめ

 考古学的記録のみの研究には一定の限界があり、たとえば集団間の遺伝的関係について情報は得られません。考古遺伝学の調査には特定の有用性があり、遺伝データは、親族関係や大規模な集団関係の解明にとくに有益です。近年の考古遺伝学の研究は、特定の文化に関連する先史時代の人々の間の、大規模な集団の遺伝的パターンのいくつかを明らかにしてきました。三千年紀にわたるスカンジナビア半島の人口史では、ほぼ農耕民系統のFBC、ほぼ狩猟採集民系統のPWC、草原地帯牧畜民系統を有するBACという、遺伝的に異なる3集団の存在が解明されました。

 これらの大規模な研究は、物質文化記録における社会的過程と変異性への関連についての詳細な問題を解明する基礎となりました。今では、特定の物質文化表現と埋葬パターンに関する情報を利用する、相互作用のより精細なパターンを調査できるようになり、文化圏間の知識・信念・物質の伝播を理解するのに役立ちます。BACとPWCは異なる系統のため、BAC集団からPWC共同体への近い世代での移民を検出するのは簡単です。しかし、ゴットランド島のPWC被葬者25人は、PWCと関連した遺伝的に均質な集団の一部だったようです。ゴットランド島のBACの影響を受けたPWC関連の11人を含む全員が、BACもしくはCWC関連個体群と密接な遺伝的類似性を示しません。また、BACの影響を受けたPWC関連の11人では、親族関係の証拠が見られません。したがって、BACの影響を受けたPWCの墓は、交易と文化的接触の結果である可能性が高く、両集団間の移住や混合の兆候は見られません。

 BAC集団とPWC集団の混合の欠如は、PWC共同体がBAC共同体と相互作用したものの、遺伝的に著しくは混合していないことを示唆します。したがって、ゴットランド島のPWC埋葬地で特定のBAC要素・慣行・おそらくは儀式が見られるのは、アイデア・人口物・文化的影響の交換の結果です。PWC集団は、おそらく地元のFBC集団との接触を通じて、稀な穀類の利用も含めて他集団の慣行をたまに採用しており、安定同位体分析に基づくと、アジュヴィーデ遺跡の食性パターンはある程度異なります。さらに、PWC土器はその最初期段階では、FBC的な様式を含みます。また、FBC集団からPWC集団への低水準の混合の証拠もあります。

 土器の様式や斧の素材の多様性といった物質文化の表現における差異のため、ゴットランド島のPWC共同体はBACの特徴を利用し、より大きなPWC共同体内の他集団と自身を区別した、と推測されています。さらに、BAC集団とPWC集団はまったく分離しておらず、異なる方法で景観を利用しただけだ、とも提案されてきました。しかし、この見解は、スカンジナビア半島本土のBAC関連個体群が明確に、ヨーロッパ大陸本土を含むより大きなCWC集団の一部であることと、BAC/CWC関連個体群に特徴的な草原地帯関連系統がPWC関連個体群には存在しないことと、BAC に影響を受けた個体群も含めてPWC埋葬遺跡の被葬者全員が、海洋資源に強く依拠した食性で、BAC集団の陸生の食性とは異なることから、却下されます。

 過去10年、文化的変化の原動力として移住は復活しましたが、本論文が示すように、それは一概には言えず、遺伝子や同位体の情報に基づく、異なったり類似したりする文化集団の個体群間の相互作用の検証が、今後の研究でも必要になります。本論文が取り上げたPWCもそうですが、考古学的記録が示すように、文化圏はしばしば孤立した実態ではなく、文化的接触は異なる地域と期間で違っていた可能性が高かったようです。これは、人口動態の発展にも当てはまります。PWCとその関連の人々は、多くの側面で興味深い存在です。本論文の事例は、遺伝データと考古学的記録が、PWC関連の人々の社会動態と慣行の複雑さと変異性に関する補足的情報を提供する、と示します。

 ゴットランド島のPWC墓の被葬者全員は同じ集団に由来し、それは埋葬におけるBACの文化的影響とは関係なかった、と結論づけられます。これが示唆するのは、埋葬姿勢や副葬品といったこれらの墓におけるBAC的特徴の表現は、共存するPWC集団とBAC集団間の文化的交換を反映している可能性が高い、ということです。この2集団は遺伝的に数世紀にわたって異なったままで、明らかな文化的接触の証拠にも関わらず、両集団間の混合は低水準もしくはなかった、と示されます。


参考文献:
Coutinho A. et al.(2020): The Neolithic Pitted Ware culture foragers were culturally but not genetically influenced by the Battle Axe culture herders. American Journal of Physical Anthropology.
https://doi.org/10.1002/ajpa.24079

現代人および古代人のゲノムデータから推測される朝鮮人の起源

 現代人および古代人のゲノムデータから推測される朝鮮人の起源に関する研究(Kim et al., 2020)が公表されました。なお、以下では「朝鮮人」で統一しますが、おそらく本論文のデータの全ては、朝鮮民主主義人民共和国ではなく、大韓民国の人々からのものと思われます。その意味では「韓国人」で統一する方が妥当かもしれませんが、本論文は「民族」の起源と形成過程を主題としているので、区分するのではなく、「朝鮮人」で統一します。

 アジア東部現代人の祖先集団は、他の非アフリカ系現代人の祖先集団と共通のボトルネック(瓶首効果)を、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の頃に経てきた、と推測されています。しかし、アジア東部の各現代人集団の遺伝的構造は、まだ詳細に解明されたとは言えないでしょう。朝鮮人はアルタイ語族に分類され、アジア北東部では日本人と同じです(と本論文は指摘しますが、この言語分類には異論が多いでしょう)。現在、合計で約8000万人以上の朝鮮民族が存在します(朝鮮半島南部の大韓民国に約5100万人、朝鮮半島北部の朝鮮民主主義人民共和国に約2500万人、朝鮮半島外に約700万人)。

 朝鮮人の起源については、いくつかの仮説が提示されています。朝鮮人で主流のY染色体ハプログループ(YHg)O1b2(SRY465)は、朝鮮人の祖先が新石器時代と青銅器時代(3450~2350年前頃)の中国北部集団と関連していた、と示唆します。一方、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、朝鮮人がひじょうに典型的なアジア東部人型であることを示します。以前の研究では、朝鮮人は深刻なボトルネックを経ておらず、おもに2つの遺伝的構成を示す、と明らかになっています。一方は中国と強く関連していますが、もう一方はさほど明確ではありません。これまで、朝鮮人の正確な遺伝的構成は、現代と古代のゲノムデータを利用したゲノム規模では行なわれていませんでした。

 朝鮮半島の旧石器時代石器群は、全谷里遺跡を代表とする石英製の握斧(ハンドアックス)を含む大型石器を特徴とするアシューリアン(Acheulian)類似石器群、石刃素材の剥片尖頭器石器群、細石刃石器群に大きく3区分できます(関連記事)。朝鮮半島における人類の痕跡は60万~40万年前頃までさかのぼります。しかし、酸性土壌の朝鮮半島では人類遺骸は乏しく、朝鮮人の起源と形成過程の解明に重要となる古代遺伝データを得るのは困難です。そのため、朝鮮半島に近い、ロシア極東沿岸地域の「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡で発見された9400~7200年前頃の人類遺骸(関連記事)や、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の人類遺骸(関連記事)などの遺伝データが利用されます。本論文は、最近公表されたアジア南東部の新石器時代から鉄器時代にかけての古代ゲノムデータ(関連記事)を用いて、朝鮮人の遺伝的構成を解明します。

 現代人では、朝鮮人88人と、世界中の208人のゲノムデータが比較されました。内訳は、アフリカ13人、アメリカ大陸4人、ヨーロッパ26人、オセアニア7人、アジア中央部5人、アジア東部43人、アジア北部31人、アジア南東部36人、アジア西部22人、アジア南東部21人です。さらに、アジア東部6人とアジア南東部9人が追加されました。古代ゲノムは115人分が比較対象とされました。その内訳は、ヨーロッパとロシア全域では、更新世狩猟採集民4人、完新世狩猟採集民13人、前期新石器時代20人、中期新石器時代10人、後期銅器時代10人、後期新石器時代9人、前期青銅器時代20人、中期青銅器時代4人、後期青銅器時代2人、鉄器時代12人で、その他には、田园遺跡1人、悪魔の門遺跡2人、新石器時代から鉄器時代のアジア南東部8人です。


●朝鮮人の遺伝的構造

 本論文はまず、現代人を8ハプロタイプパターンに分類します。それは、アフリカ、アジア西部、ヨーロッパ、アジア南部、シベリア西部、シベリア東部、アジア東部aおよびbです。これはおおむね地理的関係を反映しています。アジア東部aには朝鮮人と中国人と日本人とアジア南東部のオーストロアジア語族が、アジア東部bにはアジア南東部のいくつかの少数民族が含まれます。朝鮮人はアジア東部bに表されるアジア東部集団のほとんど均一なクレード(単系統群)を形成し、その近縁な集団はシベリア東部とアジア東部aです。

 ADMIXTURE分析では、ソース集団の設定により遺伝的系統は異なってきますが、K=10では、朝鮮人はシベリア東部系統(38%)とアジア東部a/b系統(62%)の混合としてモデル化されます。アジア東部b集団間で混合率を比較すると、朝鮮人および日本人集団はひじょうに類似した混合率を示します。中国人も朝鮮人および日本人と類似した遺伝的構成を示しますが、混合率は地域により異なります。全体的に見て、遺伝的混合事象はまず朝鮮半島と日本列島外のアジア南東部および中国で起きた、と推測されます。また、そうした最近の遺伝的混合は広範な現象で、過去4000年の農耕・経済・技術的発展に起因する拡大により、アジア東部全域で同時に発生した可能性があります。


●悪魔の門遺跡個体群から朝鮮人への遺伝子流動

 外群f3統計では、4万年前頃の田园個体が、現代のシベリア東西およびアジア東部b集団と、ヨーロッパやアジア西部および南部のような他地域集団よりも多くのアレル(対立遺伝子)を共有する、と明らかになりました。これは、田园個体がユーラシア東部およびアジア東部系統の基底的な遺伝的構成であることを示唆します。現代のシベリア東部およびアジア東部b集団は、古代アジア南東部・悪魔の門遺跡・ユーラシア中央部草原地帯の青銅器時代~鉄器時代個体群と、有意な遺伝的類似性を示します。

 これらの遺伝的類似性に基づき、古代人および現代人集団と共有される田园個体の派生的アレルとの比較により、朝鮮人の遺伝的起源が推定されました。田园個体はどの現代人集団よりもアジア南東部古代人と多くの派生的アレルを共有しており、アジア南東部古代人は田园個体系統に直接的に由来する、と示唆されます。新石器時代の悪魔の門遺跡2個体と現代のシベリア東部およびアジア東部a/b集団は、類似した田园個体系統の量を示します。これは、朝鮮半島北部に近い悪魔の門遺跡個体群が、他の遺伝的構成と混合される可能性を示唆します。

 さらに、田园個体系統は、古代草原地帯個体群よりもシベリア東西およびアジア東部b集団の方と、顕著に高水準の遺伝的類似性を有しています。これは、古代草原地帯個体群が他の遺伝的構成から形成された可能性を示唆します。アジア南東部古代人における田园個体との遺伝的類似性は、最古となるベトナムのマンバク(Man Bac)遺跡個体で最も高く、経時的にやや減少していきます。これは、古代アジア南東部個体群が、経時的に追加の遺伝的構成を受け取った、と示唆します。

 田园個体のゲノムは、現代人ではアジア南東部よりもシベリア東部の方と遺伝的類似性の水準が高い、と明らかになりました。しかし、アジア東部b集団のうち朝鮮人と日本人と中国南部人集団は、田园個体の派生的アレルをシベリア東部集団と類似した水準で示し、田园個体系統とは均等の距離となります。これは、悪魔の門遺跡個体群とシベリア東部現代人といくつかのアジア東部b集団が、経時的に類似した遺伝的影響を受け、田园個体系統から分離して以降は単一のクレードだったと予想されることを示唆します。これらの分析により、基底部田园個体系統は、新石器時代もしくはその前に分離し、それぞれ現代朝鮮人に影響を及ぼした、と明らかになります。


●朝鮮人を構成する古代の遺伝子流動

 田园個体系統から古代人および現代人集団への遺伝子流動に基づき、新石器時代個体群ゲノムが、朝鮮人もしくはアジア東部集団の系統に独立して寄与したか、第二の遺伝子流動が起きた、と仮定されました。まず、新石器時代の悪魔の門遺跡2個体の系統から朝鮮人とアジア東部集団への遺伝子流動が調査され、悪魔の門遺跡2個体はベトナムの新石器時代マンバク遺跡個体よりも、現代シベリア東部およびアジア東部b集団のほとんどの方と、多くの派生的アレルを共有する、と示されました。

 悪魔の門遺跡2個体のゲノムから、これらの現代人集団は、オーストロアジア語族の祖先と考えられるタイのバーンチエン(Ban Chiang)遺跡やカンボジアのヴァトコムヌー(Vat Komnou)遺跡の個体群と遺伝的関係は等しい、と観察されます。さらに、ミャンマーの後期新石器時代~青銅器時代となるオアカイエ(Oakaie)遺跡およびベトナムの青銅器時代のヌイナプ(Nui Nap)遺跡個体群からアジア東部集団への地域的な遺伝的移行が観察されます。朝鮮人と日本人といくつかの中国人や極東ロシア人のようなシベリア東部およびアジア東部b集団は、オアカイエ遺跡およびヌイナプ遺跡古代人と比較して、悪魔の門遺跡個体群系統からの優勢な遺伝的寄与を示します。

 これは、現代のアジア東部a/b集団で観察される地域的な遺伝的差異が、アジア南東部における青銅器時代から鉄器時代にかけての新たな遺伝的流入に影響を受けた、と示唆します。また、ベトナムの新石器時代マンバク遺跡個体は、アジア南東部青銅器時代個体群もしくは草原地帯古代人よりも、現代シベリア東部およびアジア東部b集団と派生的アレルを多く共有しています。これは、新石器時代マンバク遺跡個体系統が、現代シベリア東部およびアジア東部b集団の基底部系統だったことを示唆します。

 マンバク遺跡個体から悪魔の門遺跡2個体と現代シベリア東部およびアジア東部b集団への遺伝的浮動は観察されませんでした。また、草原地帯古代人の遺伝的系統の分析では、現代シベリア東部およびアジア東部b集団と古代アジア南東部人は、草原地帯古代人と遺伝的に等距離と推定されます。このパターンは以前の研究と一致します。これは、草原地帯古代人と現代アジア東部集団との間の遺伝的混合を支持しますが、その経緯と混合事象の回数は不明です。

 また、マンバク遺跡個体系統から、ヴァトコムヌーといくつかのアジア東部b集団(アジア南東部および中国南部)の遺伝的分岐に関する最初の証拠も観察されました。これは、こうした集団がアジア東部に遺伝的影響を与えた集団だった、という見解を支持します。現代朝鮮人の遺伝的構成について複数のパターンが検証され、悪魔の門遺跡2個体系統とアジア南東部古代人系統の組み合わせは、前者とアジア南東部現代人系統の組み合わせよりもよく説明できます。より具体的には、カンボジア鉄器時代のヴァトコムヌー遺跡個体系統で、それに続くのがベトナム青銅器時代のヌイナプ遺跡個体系統です。

 現代朝鮮人と最も遺伝的類似性が高いのは現代日本人で、中国南部の現代人は、現代ベトナム人よりも現代朝鮮人との遺伝的類似性が高い、と示されます。これは、中国南部の遺伝的構成が、ヴァトコムヌー遺跡やヌイナプ遺跡個体系統との混合後に、朝鮮人へと移入されたことを示唆します。これらの証拠は、悪魔の門遺跡2個体とマンバク遺跡個体系統を有する集団が、新石器時代までにアジア東部bおよびシベリア東部地域全体で混合し、それはおそらく気候変化と障壁を伴っていた、という結論を支持します。青銅器時代の後、ヴァトコムヌー遺跡やヌイナプ遺跡個体系統の混合系統が朝鮮半島へと移住し、それは急速な文化的・技術的発展に起因します。


●朝鮮人の単系統ハプロタイプ分析

 現代朝鮮人のYHg(標本数55人)の割合は、O1b2が29%、O2が42%で、Oが圧倒的に優位です。次に多いのが18%となるYHg-Cです。YHg-Cはシベリアで広範に見られますが、YHg-Oはアジア南東部および東部に分布しています。YHgからは、朝鮮人男性の南北二重起源が強く示唆されます。

 mtHgはYHgよりも複雑な遺伝的歴史を反映しているようです。最も頻度の高いmtHgはD(34%)で、それにM(12%)やB(10%)やG(9%)やA(9%)などが続きます。現代朝鮮人で12%を占めるmtHg-B/Rは田园個体系統で見られ、アジア東部系統を表します。mtHg-N/Y/AおよびDは悪魔の門遺跡2個体および現代シベリア人とともにクラスタ化し、ユーラシア系統を表します。mtHg-Aはユーラシア草原地帯中央部の中期青銅器時代のオクネヴォ(Okunevo)文化関連集団で見られます。mtHg-G/C/Zはシベリア人とベトナム青銅器時代ヌイナプ遺跡個体で見られ、ヌイナプ遺跡個体系統の起源は不明です。mtHg-Cはオクネヴォ文化関連集団において高頻度で見られます。mtHg-MおよびFはアジア東部集団とともにクラスタ化することで、南方からの移動の波を説明します。オーストロアジア語族と考えられる、ベトナムのマンバク遺跡およびタイのバーンチエン遺跡の個体群は、mtHg-Mでともにクラスタ化します。これは、mtHg-Mのその後の拡大が、オーストロアジア語族集団の拡大と関連している可能性を示唆します。mtHgの分析は、朝鮮半島への南北多様な地域からの継続的な遺伝的影響を示唆します。


●まとめ

 現代人および古代人のゲノムとの比較により、現代朝鮮人はシベリア東部とアジア東部に由来する二重の遺伝的構成を有する、と示されます。現時点での古代ゲノムデータを参照すると、現代朝鮮人の遺伝的構成は、ロシア極東新石器時代の悪魔の門遺跡2個体系統とカンボジアの鉄器時代ヴァトコムヌー個体系統と関連する古代中国南部系統の混合として最適にモデル化できます。これは現代漢人および日本人も同様で、マンバク遺跡個体関連系統(70%)と悪魔の門遺跡個体関連系統(30%)の混合としてモデル化され、その形成過程は本論文の図5で示されています。
画像

 本論文の分析は、新石器時代の主要な2創始者系統である、悪魔の門遺跡2個体系統と田园個体系統との、シベリア東部とアジア東部における新石器時代までの長く漸進的な混合を示唆します。現代朝鮮人も含めてアジア東部現代人の亜集団は、おそらくその後の青銅器時代における地域的な遺伝的移行により確立しました。現代朝鮮人の形成は、特有の孤立事象もしくは移住というよりもむしろ、アジア東部で起きた大きな集団拡大とそれに続く混合事象の一部として把握されます。こうした最近の急速な拡大と混合は、他のアジア東部および南東部集団にも一般的なモデルとなれるかもしれません。


 以上、本論文の内容をざっと見てきました。現代朝鮮人の起源と形成過程に関する包括的な研究結果を示した本論文は、今後の研究でも参照されるでしょう。ただ、やはり朝鮮半島古代人のゲノムデータに基づいていないことは問題で、土壌の問題やよりDNAの保存に適した朝鮮半島北部のデータの利用が困難だろうという事情など、仕方のないところもあるとはいえ、今後の大きな課題になると思います。また、漢人・朝鮮人・日本人に代表されるアジア東部現代人集団の起源として、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないと推測されている田园個体を起源系統としてモデル化したこともやや問題でしょう。これは、アジア東部も含めてユーラシア東部の古代ゲノム研究が、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていることに起因するので、仕方ないところが多分にあるとは思います。ただ、最近になってアジア東部の古代ゲノム研究が大きく進展しており(関連記事)、それらも踏まえて、朝鮮人の起源と形成過程に関する研究も近いうちに大きく更新されるのではないか、と予想しています。

 現時点では、現代朝鮮人の形成過程に関して、田园個体系統と悪魔の門遺跡2個体系統とを起源とするのではなく、アジア東部を北部(新石器時代華北集団)系統と南部(新石器時代華南集団)系統に区分し、両者の混合によるアジア東部現代人集団の形成を想定する方が妥当なのかな、と思います。また、アジア東部に関しては、北東部との関係でさらに複数系統(黄河地域と西遼河地域とアムール川地域)が想定されるでしょう。アジア東部系統は、ユーラシア東部系統でも北方系統に分類され、ユーラシア東部系統でも南方系統は、アジア東部沿岸地域の早期集団、たとえば「縄文人」に大きな遺伝的影響を残した、と推測されます(関連記事)。このように起源系統の想定が異なれば、また違った現代朝鮮人の形成過程が見えてくるはずで、それは上記の本論文の図とはかなり違って見えるかもしれません。最近になって、日本も含まれるアジア東部の古代ゲノム研究が大きく進展しつつあるように思われるので、今後がひじょうに楽しみです。


参考文献:
Kim J. et al.(2020): The Origin and Composition of Korean Ethnicity Analyzed by Ancient and Present-Day Genome Sequences. Genome Biology and Evolution, 12, 5, 553–565.
https://doi.org/10.1093/gbe/evaa062

鉄器時代から現代のレバノンの人口史

 鉄器時代から現代のレバノンの人口史に関する研究(Haber et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。古代近東はユーラシア西部の主要な文化間の相互作用の中心に位置し、エジプトやヒッタイトやアッシリアやバビロニアやペルシアやギリシアやローマや十字軍やマムルークやオスマン帝国など、さまざまな勢力に支配され、そのほとんどは在来集団に永続的な文化的影響を残しました。しかし、そうした支配勢力の遺伝的寄与はさほど明確ではありません。

 以前の古代DNA研究では、近東の現代人のゲノムの90%ほどは、上記の征服前となる近東の青銅器時代集団に由来する、と推定されています。この結果は、歴史的記録に人口移動・植民化・地元住民との混合が残っていることと、対立するように見えるかもしれません。たとえば、紀元後1307年、マムルーク朝はレバノン沿岸を300の新たに移住させたトルクメン人に分割しました。ローマはベイルートとバールベックを植民地および駐屯地と宣言し、ヘレニズム期の兵士たちとその子孫たちの名前は、シドン(Sidon)で発見された碑文で読み取れます。

 レバノンの十字軍の埋葬地の被葬者の古代DNA分析では、ヨーロッパから近東への移住と在来住民との混合が一般的で、ある期間にはヨーロッパ系および在来系と両者の混合子孫という異質な集団が共存していた、と示されています(関連記事)。しかし、十字軍によるヨーロッパ系と在来集団との混合は永続的な遺伝的影響を残さなかったようで、レバノンの現代人において十字軍系統は検出困難なほど「希釈」されました。十字軍の事例は、多くの征服と移住の後でさえ、近東青銅器時代系統が依然として近東現代人集団のゲノムで支配的である理由を説明できるかもしれません。

 したがって、これまでの古代DNA研究から、二つの未解決の問題が提起されます。まず、近東において一時的な混合事象は一般的だったのか、あるいは十字軍の事例は例外的だったのか、ということです。次に、近東現代人のゲノムは青銅器時代近東集団系統にほぼ由来しますが、全てではないので、どの青銅器時代後の事象が、近東現代人集団で観察される遺伝的多様性に寄与したのか、ということです。

 こうした問題の解明のため、近東における紀元前800~紀元後200年の新たな古代人のゲノムデータが生成され、それは鉄器時代2期(紀元前1000~紀元前539年)と鉄器時代3期(紀元前539~紀元前330年)とヘレニズム期(紀元前330~紀元前31年)とローマ前期(紀元前31~紀元後200年)の4期に区分されます。これらのゲノムデータは、近東の既知のゲノムデータと比較されました。それは、中期青銅器時代(紀元前2100~紀元前1550年頃)とローマ後期(紀元後200~634年)と十字軍期(紀元後1099~1291年)と現代で、過去4000年にわたっています。

 まず、ベイルートで発見された被葬者67人の側頭部の錐体骨からDNAが抽出されました。そのうち19人で有意なゲノムデータが得られ、網羅率は0.1~3.3倍です。この新たなデータと、既知の古代人および現代人のデータが組み合わされ、2つのデータセットが作成されました。セット1には、2012人の現代人および914人の古代人と815791ヶ所の一塩基多型が含まれます。セット2には、2788人の現代人および914人の古代人と539766ヶ所の一塩基多型が含まれます。

 これらの標本群のうち近親関係にあるのは、ペルシア帝国支配下の紀元前500年頃となる鉄器時代3期の女性SFI-43と男性SFI-44で、1親等の関係にあり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はともにT2c1です。セット2の全標本を対象とした主成分分析では、近東とヨーロッパとコーカサスとロシア草原地帯とアジア中央部および南部の集団が区別されます。現代のレバノンに居住していた古代人は、現代および古代の近東人とクラスタ化します。本論文で取り上げられた新標本群は、青銅器時代集団(シドン青銅器時代集団)と現代レバノン人の間でクラスタ化します。

 1親等の2人(SFI-43とSFI-44)は外れ値として表示され、同時代人とはクラスタ化せず、青銅器時代標本群近くに位置します。1親等の2人が古代レバノン人以外の集団に対して遺伝的類似性を有しているのか、検証されました。SFI-43は古代エジプト人とクレード(単系統群)を形成し、その系統の全てを古代エジプト人もしくは遺伝的に同等な集団と共有していた、と推測されます。SFI-44の系統はより複雑で、本論文のデータセットではどの集団ともクレードを形成しませんが、SFI-43・古代エジプト人・古代レバノン人とは系統を共有しているようです。

 SFI-43とSFI-44は古代エジプト人とクラスタ化し、現代もしくは古代レバノン人と現代エジプト人との間に位置しますが、SFI-44はSFI-43よりもレバノン人の近くに位置します。SFI-43とSFI-44は1親等の関係にあるものの、その遺伝的系統は異なるようなので、SFI-44が、SFI-43由来の系統と、本論文のデータセットにおける他の個体群もしくは集団との混合なのかどうか、qpAdm を用いて検証されました。SFI-43はSFI-44と関連する集団の系統から70%と、古代レバノン人関連集団から30%の混合としてモデル化できます。しかし、これらの系統の割合は、家系において1回以上の混合が起きていなかったら、2人の1親等の関係を反映していません。

 そこで、古代エジプト人と古代レバノン人との間の1親等の混合を表す交雑ゲノムが再現され、SFI-44がSFI-43と交雑ゲノムとの間の混合に由来するとモデル化できるのかどうか、検証されました。そのモデルでは、SFI-44は系統の50%をSFI-43から、50%を交雑ゲノムと類似した系統の個体から有している、と示されます。したがって、SFI-43はエジプト女性で、SFI-44はその息子となり、父親はエジプト人とレバノン人両方の系統を有する、と示唆されます。レバノンにおけるこの家族の構造は、当時の集団移動と異質な社会を強調しますが、この文化間混合が一般的だったのか、それとも例外的だったのか理解するには、追加の標本抽出が必要です。SFI-43とSFI-44は、地域的な個体群が各期間を表すよう集団化される以下の分析では除外されています。

 連続した8期間の遺伝的表現により、経時的に連続した2集団がクレードを形成するのかどうか、その系統が共有される祖先集団にすべて由来するのかどうか、もしくはその後の混合が発生し、2集団がその結果としてクレード関係を失ったのかどうか、検証されました。まずf4統計では、本論文のデータセットにおける「古代」と関連した遺伝的変化が、レバノンの連続した2期間で起きた、との結果が得られました。青銅器時代の後、鉄器時代2期の開始において、古代ヨーロッパ人および古代アジア中央部人と関連するユーラシア系統の増加に特徴づけられる、有意な遺伝的変化が明らかになりました。

 この検証では、鉄器時代2期と3期の間の有意な遺伝的違いは観察されなかったので、この2期間の標本群は1集団としてまとめられ、qpAdmを用いて鉄器時代の混合モデルが調べられました。レバノン鉄器時代集団は、在来の青銅器時代集団(63~88%)と古代アナトリア半島人もしくは古代ヨーロッパ南東部人(12~37%)の混合としてモデル化できます。また、ヨーロッパ人で典型的に見られる草原地帯的系統が、鉄器時代2期の始まりに近東に出現することも示されました。この外来系統の起源として可能性があるのは、青銅器時代の後、紀元前1200~紀元前900年頃に地中海東部地域を襲撃した「海の民」です。混合の成功モデルの一つでは、ベイルートから南方に約170kmに位置するアシュケロン(Ashkelon)の鉄器時代1期集団と関連する系統を含んでおり、以前には「海の民」関連の混合に由来するかもしれない、と推測されていました。さらに、古代エジプト考古学では、「海の民」はレヴァントを征服したものの、エジプトの征服には失敗した、とされています。

 鉄器時代におけるレバノンへのユーラシアの遺伝子流動が、古代エジプトに到達したのかどうか、時空間的に草原地帯系統を定量化することで検証され、古代エジプトは、レヴァントが鉄器時代に受けたユーラシア人からの遺伝子流動を受けたか、ユーラシア系統はエジプトでアシュケロンのように置換された、と示唆されます。アシュケロンでは、ベイルートの鉄器時代2期とは対照的に、ヨーロッパ系統がもはや鉄器時代2期集団では有意には見られません(関連記事)。レヴァントとエジプトからのさらなる鉄器時代標本により、鉄器時代の混合が起源集団の位置の結果として北から南への勾配を示すのか、それともこの期間のレヴァントにおける北方もしくは南方への成功した移住の規模の違いに由来するのか、解明されるでしょう。

 古代レバノンにおける第二の遺伝的変化は、ヘレニズム期とローマ前期で観察できます。本論文はこの2期間の個体群を1集団に統合しました。それは、この2期間の個体群の中に放射性炭素年代で重なる個体も存在したことと、f4統計では両期間の集団間で対称性が示されたからです。ヘレニズム期とローマ前期の集団は、在来のベイルート鉄器時代集団(88~94%)とアジア中央部・南部集団(6~12%)の混合としてモデル化できます。セット2において古代および現代レバノン人集団間で共有されるハプロタイプ区分の分析では、ヘレニズム期の2人(SFI-5とSFI-12)とローマ前期の1人(SFI-11)は、アジア中央部および南部人と過剰なハプロタイプを共有しており、qpAdmの結果が確認されました。

 古代レバノンとアジア中央部および南部との関係はまた、現代レバノン人のY染色体ハプログループ(YHg)に存在するL1a1(M27)でも現れます。YHg-L1a1は現在アジア中央部および南部では一般的ですが、他地域では稀です。YHg-L1a1である5人のレバノン人の合着年代を検証すると、紀元前450~紀元後50年頃となる男性1人に由来する、と明らかになり、これはヘレニズム期と重なります。

 ヘレニズム期のレバノンにおけるアジア中央部・南部系統の存在は、アレクサンドロス(マケドニア)帝国支配下の接続された地理を反映しており、それはアレクサンドロス帝国に先行したペルシア帝国(アケメネス朝、ハカーマニシュ朝)も同化し、5世紀にわたって東西間の接続を維持しました。これらの大帝国は、エジプトとレバノンの家族に直接的に見られるように、人々の移動と混合を促進し、本論文では近東における混合個体群が示されます。

 ヘレニズム期およびローマ前期とローマ後期との間の遺伝的変化の検証では、f4統計からはほとんど遺伝的変化が見られませんでした。一方、この時期のローマでは、近東とヨーロッパの間の有意な集団移動が指摘されています(関連記事)。ローマ後期個体群をヘレニズム期およびローマ前期集団と他の古代集団との混合としてモデル化すると、古代アナトリア半島人およびヨーロッパ南東部人を含む成功モデルが見つかります。しかし、この系統はすでに鉄器時代の始まりからレバノンに存在していたので、ローマ後期個体群における在来集団遺骸の要素は、人口構造に起因している可能性があります。とくに、ヘレニズム期およびローマ前期標本群が沿岸地域から得られたのに対して、ローマ後期標本群は遠い山岳地域から得られており、さらに、混合モデルはベイルート鉄器時代集団を在来系統の起源として用いると有意ではないので、ローマ後期個体群は先行する在来集団にその系統の全てが由来する、と示されます。

 ローマ後期から中世にかけて、アフリカ系統の増加が検出されますが、これは統計的有意性をわずかに下回ったままで、アフリカ東部人を混合モデルで用いると、中世レバノン人の系統の2.9%以下を占めます。レバノンで観察された最後の遺伝的変化は十字軍期の後に起きましたが、上述のように、十字軍によるヨーロッパ系と在来集団との混合は永続的な遺伝的影響を残さなかったようで、レバノンの現代人において十字軍系統は検出困難なほど「希釈」されました。

 レバノンの人類集団におけるこの最後の遺伝的変化は、十字軍の影響ではなく中世の後に起き、コーカサスおよびトルコからの集団と関連した系統の増加が明らかになります。混合により起きた連鎖不平衡(複数の遺伝子座の対立遺伝子同士の組み合わせが、それぞれが独立して遺伝された場合の期待値とは有意に異なる現象)崩壊を用いると、この混合はレバノンがオスマン帝国支配下にあった紀元後1640~1740年頃に起きた、と示されます。連鎖不平衡崩壊検証はまた、ヘレニズム期に起きた有意な混合を検出し、それは本論文で分析された古代個体群からのより直接的な推定と一致します。

 セット2のデータを用いて、古代および現代レバノン人のデータを混合グラフに適合させると、他の古代集団との関係が示されます。グラフは上述の結果を支持し、青銅器時代以降のレバノンにおけるかなりの遺伝的連続性を示します。その間の主要な混合事象は3回で、鉄器時代とヘレニズム期とオスマン帝国期です。それぞれ、3%と11%と5%の外来系統の遺伝的寄与があった、と推定されます。以下、この関係を示した本論文の図3です。
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 本論文は、鉄器時代からローマ期の近東古代人の全ゲノム配列データを新たに提示し、それは主要な歴史事象と集団移動により特徴づけられる期間に及んでいます。本論文のデータは、これらの事象の遺伝的結果を捕捉しますが、一般的集団の遺伝的構成への影響は最小限で、近東における大きな文化的移行は、これらの事例では同等の遺伝的移行とは合致しないことも示します。支配層の交替による文化的変化は大きかったものの、多数を占める非支配層の遺伝的構成には大きな影響が及ばなかった、ということでしょうか。

 本論文で示されたように、時系列から標本抽出された古代集団を用いて検出される小さな遺伝的変化は、利用可能な歴史的記録を補足しており、歴史学においても古代DNA研究の役割はますます大きくなっていくだろう、と予想されます。日本史の研究においても、近いうちに古代DNA研究の成果が頻繁に活用されるようになるかもしれません。そうすると、現代日本人の基本的な遺伝的構成が古墳時代までにほぼ確立したことや、その後の小さいものの明確に検出されるような、地域間の移動も確認されるかもしれません。もっとも、これはあくまでも現時点での私の推測で、じっさいにどうだったのか、日本列島の前近代人を対象とした古代DNA研究が進展するまで断定はできませんが。


参考文献:
Haber M. et al.(2020): A Genetic History of the Near East from an aDNA Time Course Sampling Eight Points in the Past 4,000 Years. The American Journal of Human Genetics.
https://doi.org/10.1016/j.ajhg.2020.05.008

ペルー人の低身長の遺伝的要因

 ペルー人の低身長の遺伝的要因に関する研究(Asgari et al., 2020)が公表されました。ペルー人の平均身長は、世界平均と比較すると低い水準にあり、平均身長は男性が165.3cm、女性が152.9cmです。この研究は、ペルー人の身長に関連する遺伝的要因を解明するため、リマに居住する3134人の遺伝的データと身長のデータを入手し、ゲノム規模関連解析(GWAS)を行ないました。その結果、アメリカ大陸先住民を祖先に持つことが、民族的に多様なペルー人集団における低身長と関連づけられる、と示されるとともに、FBN1遺伝子の集団特異的なミスセンス(アミノ酸が変わるような変異)多様体(E1297G)が、低身長と有意に関連することも明らかにされています。

 598人のペルー人からなる独立のコホートにおいて、この関連を確認したところ、マイナー対立遺伝子(アレル)頻度が4.7%であるこのミスセンス多様体(E1297G)の各コピーは、身長を2.2 cm低下させる、と明らかになりました(ホモ接合では4.4 cm低下することになります)。本論文はこれを、ありふれた身長関連多様体としては最も効果量が大きい、と評価しています。FBN1遺伝子は、細胞外マトリックス(細胞を支持してその増殖を制御する構造物)に関与するタンパク質であるフィブリリン1をコードしています。フィブリリン1はミクロフィブリルの主要な構造的要素です。

 G1297がホモ接合である個人の皮膚では、E1297がホモ接合である個人の皮膚よりも、フィブリリン1が豊富なミクロフィブリルの充填度合いが低く、ミクロフィブリルの縁は不規則でした。さらに、非アフリカ系現代人集団ではE1297G座位が正の選択を受けており、E1297多様体には、ペルー人集団に特異的な正の選択を示すわずかな証拠が見られることも明らかになりました。ペルー国内3地域の出身者150人におけるE1297Gの頻度比較では、アンデス山脈やアマゾン川流域のペルー人集団よりも沿海部のペルー人集団の方が高く、これは、低身長がペルーの沿海環境に関連した要因への適応の結果である可能性を示唆しています。

 現代ペルー人の形成過程は複雑だった、と考えられています。ペルーでは、まずアマゾン地域集団とアンデス地域集団および沿岸地域集団とが分岐し、その後でアンデス地域系統と沿岸地域系統とが分岐した、と推測されています(関連記事)。また、2000年前頃以後には地域的な遺伝的継続性が強く見られるようになった、と推測されています(関連記事)。このような人口構造を前提として、16世紀以降のヨーロッパ系(おもにスペイン系)集団の征服活動により、ヨーロッパ系とアメリカ大陸先住民系との混合が進み、現代ペルー人が形成されましたが、ヨーロッパ系の影響の比較的低い集団も存在し、そうした集団は孤立傾向にあったと示唆されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:ペルー人の身長が平均より低いことの遺伝的説明

 ペルー人の身長が低いことに関連する遺伝的バリアントが見つかったことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。このバリアントを2コピー有するペルー人(ホモ接合者)は、身長が平均4.4センチメートル低かった。

 ペルー人の身長は世界で最も低く、男性の平均身長は165.3センチメートル、女性は152.9センチメートルである。しかし、この現象の原因となる特有の遺伝子と過程は分かっていなかった。

 今回、Soumya Raychaudhuriたちの研究チームは、ペルー人の身長に寄与すると考えられる遺伝的要因を突き止めるため、ペルーのリマに居住する3134人の遺伝的データと身長のデータを入手し、ゲノム規模関連解析(GWAS)を行った。その結果、FBN1遺伝子の変異が見つかった。FBN1遺伝子は、細胞外マトリックス(細胞を支持してその増殖を制御する構造物)に関与するタンパク質をコードしている。次に、Raychaudhuriたちは、598人のペルー人からなる独立のコホートにおいて、この関連を確認した。このバリアント(E1297G)は、対立遺伝子当たり身長を2.2センチメートル低くする効果が認められた。

 そしてRaychaudhuriたちは、ペルー国内の3つの地域の出身者150人におけるE1297Gの頻度を比較した。出身地の内訳は、アマゾン地方が28人、沿岸部が46人、アンデス地方が76人だった。E1297Gの頻度が最も高かったのは沿岸部の集団であり、Raychaudhuriたちは、沿岸部の環境に関連した要因に対する順応の結果として低身長になった可能性があるという見解を示している。



参考文献:
Asgari S. et al.(2020): A positively selected FBN1 missense variant reduces height in Peruvian individuals. Nature, 582, 7811, 234–239.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2302-0

二足歩行の白亜紀のワニ類

 二足歩行の白亜紀のワニ類に関する研究(Kim et al., 2020)が公表されました。この研究は、大韓民国慶尚南道泗川市近郊のチャヘリ遺跡で、白亜紀前期の地層であるチンジュ層から発掘作業中に発見された複数の行跡(連続した足跡)化石を報告しています。この行跡化石は、現代のクロコダイルや食魚性クロコダイルやアリゲーターの祖先であるワニ類の新種(Batrachopus grandis)のものとされます。この行跡化石は、以前に発見されたbatrachopodidの行跡化石の2倍以上の大きさで、長さ18~24cmの足跡が含まれており、体長が最大3mだったと考えられます。

 この行跡化石は、幅が狭くて、後肢の足跡しかなく、踵から爪先までの明確な足跡があり、皮膚の痕跡が残っている部分もありました。これが4本足のワニ類の行跡であることを示唆する決定的な証拠は、前肢跡が後肢によって消されてしまったか、あるいは保存状態が劣悪だったために見つかっておらず、そのため、この新種ワニ類が二足歩行をしていた、と考えられます。この歩調は、過去に発見されたワニ類の行跡化石標本には見られませんでした。

 チャヘリ遺跡よりも後の遺跡でも行跡化石が発見されており、二足歩行のできる巨大翼竜類が地上で翼を庇いながら歩行した跡だと考えられていましたが、この発見で得られた知見からは、むしろワニ類の行跡化石だった可能性が示唆されています。この知見は、翼竜類は四肢を全て用いて歩行していたという痕跡化石の研究における一般的な見解を裏づけており、この新種ワニ類化石と同時代の形態的に類似した化石標本の再調査の必要性を明確に示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:古代の足跡化石は、2足歩行の巨大翼竜ではなく2本足のワニのものかもしれない

 白亜紀前期の地層であるチンジュ層(韓国)から発見された保存状態の良い大きな足跡の化石が、現生ワニ類の祖先のものだったことを報告する論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。これまでに発見された足跡化石は2足歩行をしていた巨大翼竜類のものだと考えられていたが、そうではなく、古代に生息していたワニ類の近縁種だった可能性があることが今回の研究で示唆されている。

 Kyung Soo Kim、Martin G. Lockleyたちの研究チームは、韓国・サチョン市近郊のチャヘリ遺跡で、発掘作業中に複数の行跡(連続した足跡)の化石を発見した。この行跡化石は、現代のクロコダイル、食魚性クロコダイル、アリゲーターの祖先であるワニ類の新種(著者たちがBatrachopus grandisと命名)のものとされる。この行跡化石は、以前に発見されたbatrachopodidの行跡化石の2倍以上の大きさで、長さが18~24センチメートルの足跡が含まれており、体長が最大3メートルだったと考えられる。この行跡化石は、幅が狭くて、後肢の足跡しかなく、踵からつま先までの明確な足跡があり、皮膚の痕跡が残っている部分もあった。これが4本足のワニ類の行跡であることを示唆する決定的な証拠は、前肢跡が後肢によって消されてしまったか、あるいは保存状態が劣悪だったために見つかっておらず、このことからB. grandisが2足歩行をしていたと考えられる。この歩調は、過去に発見されたワニ類の行跡化石標本には見られなかった。

 チャヘリ遺跡より後世の遺跡でも行跡化石が発見されており、2足歩行のできる巨大翼竜類が地上で翼をかばいながら歩行した跡だと考えられていたが、今回の研究で得られた知見からは、むしろワニ類の行跡化石だった可能性が示唆されている。今回の結果は、翼竜類は四肢を全て用いて歩行していたという痕跡化石の研究における一般的な見解を裏付けており、今回発見された化石と同時代の形態的に類似した化石標本を再調査する必要性を明確に示している。



参考文献:
Kim KS. et al.(2020): Trackway evidence for large bipedal crocodylomorphs from the Cretaceous of Korea. Scientific Reports, 10, 8680.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-66008-7

保阪正康『幻の終戦 もしミッドウェー海戦で戦争をやめていたら』

 中公文庫の一冊として、中央公論新社から2001年7月に刊行されました。本書の親本は、同じ題名で柏書房から1997年6月に刊行されました。本書は、ミッドウェー海戦後に太平洋戦争が終結していた可能性を探る、思考実験的な歴史書と言えるでしょうが、小説的な性格も多分にあるように思います。本書はまず第一部にて、ミッドウェー海戦へと至る経緯を、軍部の動向・思惑を中心に解説し、第二部で虚実を往来した「幻の終戦」を描いていきます。第一部での史実認識を前提として、その制約の下で、思考実験としての「幻の終戦」を模索する、という構成になっています。

 本書が「幻の終戦」の最重要人物として挙げているのが吉田茂です。吉田の能力・見識・気概こそ、困難な状況の打開に最も必要だった、というわけです。もちろん、吉田だけで状況を打開できるわけではなく、「同志」も必要になるわけで、宇垣一成や吉田の岳父ですでにほぼ隠居状態だった牧野伸顕なども挙げられていますが、とくに重要となるのが近衛文麿です。本書は、吉田が1942年6月のミッドウェー海戦後に終戦工作に本格的に乗り出し、1942年8月25日に第四次近衛内閣が成立する、という想定でいかに終戦工作が行なわれたのか、思考実験を続けます。

 本書の想定では、「第四次近衛内閣」は米英との講和交渉に乗り出し、1942年12月29日、正式に講和条約が締結される、という流れになります。本書の親本刊行後、当然のことながら、このような想定はあり得なかった、との批判があったようです。じっさい、近衛文麿が「覚醒」したところや、人物描写に勧善懲悪的なところが強いように見えるところなど、やはり本書の想定には無理があるように思います。何よりも、日本軍がミッドウェー海戦で大敗したとはいえ、まだ太平洋戦線で決定的に劣勢とはとても言えなかった状況で、日本側の事情だけを見ても、米英との講和が成立した可能性は限りなく皆無に近かったでしょう。

 また、米英側が対日講和に乗り出す経緯も、米英側の状況がかなり楽観的に想定されているように思います。本書は当時の軍部の情報軽視と楽観主義を批判しますが、米英側の想定に関しては、本書もまた楽観主義に陥っているように思います。本書は、吉田茂と米国駐日大使グルーとの深い信頼関係を、講和交渉開始の重要な前提としていますが、まだ太平洋戦線での圧倒的優位を確立しておらず、ヨーロッパ戦線でもドイツの劣勢が決定的ではないとはいえ、1942年後半の時点で米英側、とくに米国が日本との講和交渉に乗り出すことは、当時の米国世論からして限りなく可能性の低い想定でしょう。そもそも、日本側と米英側との対立の根本的要因とも言える中国問題にしても、本書が想定する、日本側の段階的な撤退や、満洲と日本との10年間の協力を米英は認める、との講和条件は、1942年段階ではかなり非現実的であるように思えます。日本が南方の占領地域から撤退した後、ヨーロッパの宗主国も撤退するという想定も、かなり無理があるでしょう。

 率直に言って、本書で展開された「幻の終戦」には、説得力がありませんでした。ただ、その前提としての史実解説や、思考実験としての「幻の終戦」での各人物のやり取りから見えてくる当時の状況など、日本近現代史に疎い私にとって参考になったところは少なくありませんでした。その意味で、本書を読んだのは無駄だった、とはまったく考えていません。また本書は、1942年時点で「幻の終戦」が実現した後の20世紀後半までの日本にも言及していますが、史実ほどの(世界に占める相対的地位という意味で)経済大国にはならなかった、との想定には基本的に賛同します。ただ本書は、「幻の終戦」後の日本が、時にひどい過ちを犯しつつも、比較的穏健な国家として成長していき、経済も国民生活もさほど悪くない、と想定していますが、私はもっと悪い状況を予想しています。

 仮に、ミッドウェー海戦後の「終戦」が実現するか、あるいは日本が日独伊三国同盟を締結しないなどして、そもそも太平洋戦争が起きないとすると、大日本帝国体制は基本的に維持されることになります。後者の場合、中国問題をどう解決するのか、ひじょうに難しいところです。仮に日本側の撤兵などで日中講和がいつかは成立するとしても、それまでに長い戦いが続く可能性は低くなく、日中ともに史実よりも被害が拡大したかもしれません。また、第二次世界大戦の結末が史実とはかなり異なっていたとしても、植民地独立の大きな流れはもはや止めようがないでしょうが、基本的に旧体制を維持した日本が台湾と朝鮮半島の独立(もしくは台湾に関しては中国への返還)を容易に認める可能性は低そうですから、植民地維持のためかなり疲弊してしまうかもしれません。その結果、20世紀後半の日本は、国民生活・経済力・自由度において、史実よりもかなり劣った水準になる可能性は低くないように思います。まあ、これも日本近現代史に疎い私の的外れな妄想かもしれませんが。

花粉不足時に葉をかじって開花を早めるマルハナバチ

 花粉不足時のマルハナバチの行動に関する研究(Pashalidou et al., 2020)が報道されました。日本語の解説記事もあります。植物と授粉媒介者は依存し合って生きています。マルハナバチのような授粉媒介者が不可欠な栄養を花に依存しているように、植物もその繁殖に授粉媒介者を必要としています。この共生関係は、春に気温が上昇して日が長くなるにつれて、越冬昆虫が目覚めると同時に春の花が開花することで、バランスが保たれます。しかしこの順序立ては狂いやすく、気候変動に脅かされます。たとえば、春早い時期に気温が上昇すると授粉媒介者が早く目覚め過ぎてしまう一方で、春の花はまだ開花しておらず、授粉媒介者の食料はありません。

 この研究は、絶食状態のマルハナバチが植物の開花時期を操作するために使う適応戦略を発見しました。花粉が不足しているコロニーの働きバチは口器を使って顕花植物の葉に独特な形の穴を開け、その結果、開花が2週間から1ヶ月と大幅に早まることを確認しました。この研究は、自分たちで傷を真似ても開花効果を再現できませんでした。これはハチの方法には未知なる独自の特徴があることを示唆しています。この知見は、マルハナバチが花という資源の地域利用可能性に影響する強力な作用因子であることを明らかにしました。授粉システムではこれまで推測されていた以上に、訪花昆虫の行動適応から気候変動に対応する柔軟性と回復力が得られる、と考えられます。


参考文献:
Pashalidou FG. et al.(2020): Bumble bees damage plant leaves and accelerate flower production when pollen is scarce. Science, 368, 6493, 881–884.
https://doi.org/10.1126/science.aay0496

アジア東部の早期現生人類におけるデニソワ人の遺伝的痕跡

 アジア東部の早期現生人類(Homo sapiens)における、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の遺伝的痕跡に関する研究(Massilani et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。現生人類はアジア東部に8万年前頃に存在していた可能性がありますが(関連記事)、最終的にどのようにアジア東部に定住したのか、ほとんど分かっていません。また、アジア東部における8万年前頃の現生人類の存在との見解には、疑問も呈されています(関連記事)。

 これまで、アジア東部における更新世人類の核ゲノムデータは、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類男性1個体でしか得られていませんでした。田园個体は遺伝的に、古代ヨーロッパ人よりも現代アジア東部人の方と密接に関連していましたが、他の古代ヨーロッパ人よりも、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)の方と、アレル(対立遺伝子)を多く共有していました(関連記事)。

 アジア東部がその北方で隣接するシベリアでは、2万年以上前の現生人類の核ゲノムデータが4個体分得られています。まず、45000年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された個体で、現代人への遺伝的寄与はなかった、と推測されています(関連記事)。次に、24000年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の少年(Mal’ta 1)で、アジア東部人よりもヨーロッパ西部人の方と遺伝的に関連しており、現代アメリカ大陸先住民集団の系統に1/3ほどの遺伝的影響を残した、と推定されています(関連記事)。31600年前頃となる残りの2個体は、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見され、ユーラシア東西両方の早期現生人類との遺伝的類似性を示します(関連記事)。マリタ遺跡少年は「古代北ユーラシア人(ANE)」を表し、31600年前頃のヤナRHS個体に表される広範に拡散していた「古代シベリア北部集団(ANS)」の子孫と考えられます。

 2006年に、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で採掘作業中に人類の頭蓋冠が発見されました。その現生人類としては異常な形態から、以前には、この個体はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)もしくはホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類される、という可能性が示唆されました。最近、この頭蓋冠の年代は放射性炭素年代測定法により較正年代で34950~33900年前と推定され、そのミトコンドリアDNA(mtDNA)はユーラシア現代人集団で広範に存在するハプログループ(mtHg)に分類される、と示されました(関連記事)。

 本論文は、このサルキート頭蓋冠の核ゲノムデータを報告します。常染色体とX染色体の平均網羅率はさほど変わらないため、頭蓋冠の頑丈な形態にも関わらず、サルキート個体は女性と推測されます。サルキート個体と、エチオピアのムブティ(Mbuti)の現代人、ネアンデルタール人、デニソワ人(関連記事)との間で共有される派生的アレルの割合が推定されました。その結果、現代人では32%、ネアンデルタール人では5%、デニソワ人では7%との結果が得られました。これは、現代ユーラシア人で見られる範囲内に収まり、サルキート個体は現生人類と示唆され、最近の形態学的分析と一致します。

 核ゲノムデータに基づき、サルキート個体と、2万年以上前の現生人類と、現代人131集団との間の、遺伝的類似性の程度が推定されました。サルキート個体は、4万年前頃の田园個体と類似しており、ユーラシア西部人よりもユーラシア東部人やアメリカ大陸先住民の方と密接に関連しています。サルキート個体と田园個体との比較では、どちらもほとんどの現代ユーラシア東部人およびアメリカ大陸先住民との遺伝的類似性は同等ですが、ユーラシア西部人との類似性では、田园個体よりもサルキート個体の方がアレルをより多く共有しています。さらに、サルキート個体は31600年前頃となるシベリア北東部のヤナRHSの2個体と同じくらいのアレルを4万年前頃の田园個体と共有していますが、田园個体とヤナRHSの2個体は相互にサルキート個体とよりもアレルの共有が少なくなっています。

 これらの結果は、サルキート個体とヤナRHSの2個体の祖先集団間の遺伝子流動が34000年前頃以前に起きた、と示唆します。つまり、ユーラシア東西早期現生人類集団の分岐に続いて、アジア東部とシベリアの早期現生人類集団間の遺伝子流動が起きた、ということです。ベルギーのゴイエット遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)は、これまでに分析された他のヨーロッパ人よりも、田园個体およびサルキート個体と多くのアレルを共有しています。サルキート個体は田园個体よりもゴイエットQ116-1個体とアレルを多く共有していることから、サルキート個体の祖先へユーラシア西部系統をもたらした遺伝子流動が起きた、と推測されます。

 2万年以上前の現生人類個体のゲノムデータを用いて、集団間の混合モデルが推定されました。本論文のモデルでは、田园個体が混合していない早期ユーラシア東部集団を表し、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で1954年に発見された38700~36200年前頃となる若い男性個体(関連記事)と、装飾品など豪華な副葬品で知られるロシアのスンギール(Sunghir)遺跡で発見された34000年前頃の1個体(Sunghir 3)と(関連記事)、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolni Vestonice)遺跡で発見された1個体とが、早期ユーラシア西部現生人類集団を表している、とされました。

 4万年前頃となる田园個体の6000年ほど後のサルキート個体は、田园個体関連アジア東部集団から75%、サルキート個体の3000年ほど後となるヤナRHSの2個体で表される古代シベリア北部集団(ANS)から25%の系統を受け継いでいる、とモデル化できます。以前の研究(関連記事)と一致して、ヤナRHSの2個体は早期ユーラシア東部人から1/3、早期ユーラシア西部人から2/3の系統を受け継いでいる、と推定されます。ユーラシア西部早期現生人類集団とサルキート個体との関係は複雑です。サルキート個体および田园個体、もしくはサルキート個体に限定されるアジア東部早期現生人類集団と、ANSとの間の双方向的遺伝子流動なしのモデルは、データと適合しません。したがって、34000年前頃以前に、ユーラシア東西の早期現生人類集団間の遺伝子流動が起き、それはおそらく、シベリアの早期植民者だったANSにより媒介されたのでしょう。以下、ユーラシアの早期現生人類集団間の混合モデルを示した本論文の図2です。
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 サルキート個体のゲノムにおけるネアンデルタール人系統の割合は1.7%で、他の早期ユーラシア人と類似しています。他のユーラシア全個体と同様に、サルキート個体のネアンデルタール人系統は遺伝的に、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡のネアンデルタール人(関連記事)よりも、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡で発見されたネアンデルタール人(関連記事)の方と類似しています。前者のネアンデルタール人を東方系、後者のネアンデルタール人を西方系とすると、現時点では、非アフリカ系現代人のゲノムに見られるネアンデルタール人系統のほとんどは、西方系との1回の交雑に由来すると推測されます。

 アジア東部の現代人は、ネアンデルタール人だけではなくデニソワ人のDNAも受け継いでいますが、アジア本土現代人集団のゲノムにおけるデニソワ人系統の割合は、ネアンデルタール人系統の割合と比較して10倍以上低くなっています。そのため、アジア本土現生人類集団に関しては、現代人よりも低網羅率のゲノムデータしか得られていない古代人において、デニソワ人系統が見られるのか、決定できませんでした。本論文は、汚染を組み込んだ遺伝子型尤度手法を用いて、低網羅率の古代ゲノムでも遺伝子移入されたネアンデルタール人およびデニソワ人のゲノム断片を識別できる、新たな隠れマルコフモデルを適用しました。

 本論文は、ネアンデルタール人および/もしくはデニソワ人のゲノムで現代アフリカ人のゲノムと異なる170万ヶ所の一塩基多型のデータを用いて、0.2 cM(センチモルガン)以上となるデニソワ人系統の断片を、サルキート個体で18ヶ所、田园個体で20ヶ所検出しました。シベリア早期現生人類であるヤナRHSの2個体とマリタ遺跡個体(Mal’ta 1)のゲノムでは、アジア東部の古代現生人類(田园個体とサルキート個体)と比較して、デニソワ人のDNAは1/3程度で、ANS(およびその子孫であるANE)のゲノムにおけるアジア東部系統のより低い割合と一致します。対照的に、45000年前頃となるシベリア西部のウスチイシム個体でも、2万年以上前となるヨーロッパのどの現生人類個体でも、ゲノムにはデニソワ人系統が検出されませんでした。したがって、サルキート個体と田园個体のゲノムは、アジア東部の現生人類の祖先が4万年前頃にはデニソワ人と(1回もしくは複数回)遭遇し、交雑した直接的証拠を提供します。サルキート個体と田园個体のゲノムにおけるデニソワ人系統の断片は少ないため、遺伝子移入の年代を推定するじゅうぶんな証拠とはなりません。しかし、サルキート個体と田园個体のゲノムにおけるデニソワ人系統の断片は1.3 cM以下なので、この2個体の祖先とデニソワ人との交雑は、この2個体の少なくとも1万年前に起きた可能性が高い、と推測されます。

 古代ゲノムから系統断片を推測する危険性の一つは、ゲノムの品質が遺伝子移入された断片を検出する能力に影響を与えるかもしれない、ということです。デニソワ人DNAの検出に影響を与える要因の多くが、ネアンデルタール人DNAの検出にも同様に影響を与えるという仮定のもとでは、AdmixFrogにより検出されたデニソワ人とネアンデルタール人の系統断片の比率が、デニソワ人系統の相対的な量のかなり堅牢な測定系(metric)になるかもしれません。サルキート個体と田园個体のゲノムでは、これらの比率はそれぞれ7.5%と8.1%です。シベリア北東部のヤナRHSの2個体では、3.9%(Yana 1)と4.7%(Yana 2)です。アジア東部早期現生人類2個体(サルキート個体と田园個体)とANSを表すシベリア北東部のヤナRHSの2個体のゲノムでは、ネアンデルタール人のDNA量に実質的な違いがないので、ANSのゲノムにはアジア東部早期現生人類2個体よりもデニソワ人のDNAが少ない、と示唆されます。

 さらに、サルキート個体と田园個体のゲノムにおけるデニソワ人断片が現代人のそれと比較され、ゲノム間の遺伝子移入された断片が偶然で予想されるよりも多く重複しているのか、推定されました。アジア東部古代人(サルキート個体と田园個体)のゲノムにおけるデニソワ人DNA断片は、いくつかの現代アジア人集団およびハワイ人のようなアジア人系統をある程度有する集団のゲノムで検出されるデニソワ人断片と、予想されるよりも多く重複します。対照的に、パプア人もしくはオーストラリア先住民で検出されるデニソワ断片との有意な重複は検出されませんでしたが、パプア人とオーストラリア先住民のゲノムにはアジア本土集団よりも20倍以上のデニソワ人DNAが存在します。

 少なくとも2つのデニソワ人集団が、アジア東部の現代人集団に遺伝的影響を及ぼし、オセアニアの現代人集団におけるデニソワ人系統は、そのうち1集団にのみ由来する、との見解が提示されています(関連記事)。デニソワ人のDNA断片の重複はこの見解と一致しており、サルキート個体および田园個体の祖先集団が、アジアの大半の現代人集団に遺伝的影響を残したデニソワ人と交雑した、と示唆されます。オーストラリア先住民およびパプア人とはそうした有意な重複が欠けており、オセアニア人集団がデニソワ人系統を有する契機となった交雑事象が、アジアの大半の現代人集団のそれとは異なっていた、と示唆されます。なお、オセアニア現代人集団とは異なるデニソワ人との交雑により、アジア東部集団にデニソワ人DNAがもたらされた、という点では同じながら、オセアニア現代人の祖先集団においても、デニソワ人との複数回の交雑があった、と推測する研究もあります(関連記事)。

 まとめると、34000年前頃となるモンゴル北東部のサルキート個体は、4万年前頃となる北京郊外の田园個体よりもユーラシア西部人系統をより多く有している、と示されます。これは、ユーラシア東西の現生人類集団の主要な分岐後に、ユーラシア西部からアジア東部への遺伝子流動が34000年前頃以前に起き、おそらくはシベリア北東部のヤナRHS遺跡2個体と関連したANS集団により媒介されたことを示唆します。また本論文は、これらの早期アジア東部人がデニソワ人のDNA断片を有しており、それはデニソワ人のDNAを、現在のアジア本土全域の集団にもたらしたものの、現代パプア人およびオーストラリア先住民にはもたらさなかった、早期現生人類とデニソワ人(1集団もしくは複数集団)との交雑事象に由来する、と示します。


参考文献:
Massilani D. et al.(2020): Denisovan ancestry and population history of early East Asians. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.06.03.131995

カリブ海諸島への人類の拡散

 カリブ海諸島への人類の拡散に関する研究(Nägele et al., 2020)が報道されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。考古学的証拠では、カリブ海諸島への最初の人類の移住は8000年前頃と推定されています。アメリカ大陸本土に近いトリニダード(Trinidad)島を別にすると、カリブ海諸島で確実な年代が得られている最古の遺跡群は5000年前頃で、バルバドス(Barbados)島やキューバ(Cuba)島やキュラソー(Curaçao)島やセント・マーチン(St. Martin)島に存在し、イスパニョーラ(Hispaniola)島とプエルトリコ(Puerto Rico)がそれに続きます。これらの遺跡の位置は、早期移住者がカリブ海全域にわたって長距離を急速に移動した、と示唆します。その結果、起源地を示すような漸進的な移住の波はありません。明確な考古学的手がかりの欠如のため、考古学者たちはカリブ海諸島と周辺地域の間のあり得る繋がりを示唆する人工物の様式比較に依拠してきました。一方、あり得る拡散経路を示唆する風向きや潮流も研究されてきました。

 2800年前頃以降、カリブ海諸島への新たな移住が始まりました。その到来は、カリブ海諸島における土器時代の始まりの指標となり、土器の明確な新様式が、永続的な居住と農耕に伴って始まるようです。考古学および遺伝学的証拠は、新たな到来者が南アメリカ大陸起源と示唆していますが、どのようにカリブ海諸島に到達したのか、議論になっています。この議論に関しては、2モデルが提案されてきました。一方は伝統的なモデルで、プエルトリコに到達するまで小アンティル諸島経由で北方へと漸進的に移動し、最終的にはさらに西方のイスパニョーラ島とキューバ島へと移動した、と想定されます。代替モデルでは、新たな移住者はまずプエルトリコに到達し、南方に拡大する前に小アンティル諸島を迂回した、と想定されます。この新たな拡大がどの経路で起きたにしても、新たな到来者はカリブ海諸島の在来の共同体と遭遇した可能性が高そうですが、その相互作用の性質は不明確です。

 カリブ海諸島の人口史解明のため、カリブ海諸島の16遺跡で発見された3200~400年前頃となる93人のゲノム規模データが生成されました。これらの人類遺骸は、「古代型」と「土器型」という2つの異なる考古学的区分に由来します。3200~700年前頃となる52人の古代型関連個体群はキューバ島の7遺跡で、1500~400年前頃となる41人の土器型関連個体群は、キューバ島とバハマ諸島(Bahamas)とプエルトリコとグアドループ(Guadeloupe)島とセントルシア(St. Lucia)島の9遺跡で発見されました。DNAの保存状態がよくないため、120万ヶ所のゲノム規模一塩基多型を標的とした方法が用いられました。

 さらに、93人のうち89人でミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が、47人の男性のうち40人でY染色体ハプログループ(YHg)が報告されます。mtHg頻度では、古代型個体群と土器型個体群とで、明確な違いが明らかになりました。キューバ島の3200~700年前頃となる個体群のほとんどがmtHg-D1(47%)とC1d(30%)だった一方で、以前に報告された個体群も含む土器型関連個体群では共通して、mtHg-D1とC1dが少なくなっています。全体的に、mtDNAの多様性は土器型関連個体群においてより高く、mtHg- B2・C1b・C1cが土器型関連個体群に特有です。

 これらの違いゲノム規模で調べるため、現代のアメリカ大陸先住民12集団を参照として、主成分分析が行なわれ、古代カリブ海諸島個体群は考古学的区分と一致して異なる2クラスタに分かれる、と明らかになりました。古代カリブ海諸島個体群は、古代および現代の先住民集団に対して、キューバ島の個体群も含めて土器型の年代の個体群は、南アメリカ大陸の現代の個体群とクラスタ化し、既知のバハマ諸島の個体群と同様でした(関連記事)。対照的に、キューバ島の3200~700年前頃となる古代型関連個体群は、現代アメリカ大陸先住民の多様性の範囲外に位置します。

 観察されたクラスタリングが異なる遺伝的類似性を反映しているのかどうか評価するため、遺跡単位で個体群を集団化してf4統計が実施され、検証された集団と、1000年前頃となるバハマ諸島の伝道師洞窟(Preacher’s Cave)個体群、および中央・南アメリカ大陸の古代人の分岐に先行する主要なアメリカ大陸先住民系統を表す、4900年前頃となるカリフォルニア州チャンネル諸島の前期サンニコラス(Early San Nicolas)の個体群(関連記事)との間の共有アレル(対立遺伝子)量が測定されました。予想されたように、伝道師洞窟(Preacher’s Cave)個体群は、同じ遺跡の個体群と最高の類似性を示し、それに続くのが土器型関連集団です。対照的に、キューバ島の3200~700年前頃となる個体群は全員、バハマ諸島集団のゲノムとは少ない類似性しか示さず、ペリコ洞窟(Cueva del Perico)遺跡の1個体(CIP009)はわずかにカリフォルニア州チャンネル諸島個体群と近くなります。これらの違いはおもに、土器型関連集団の現代南アメリカ大陸北東部集団とのより大きな類似性に起因します。

 この2集団が同じ祖先集団もしくは異なる祖先集団に由来するのか検証するため、qpWaveが用いられ、1個体もしくは個体群の1集団の遺伝的構成を説明する必要のある起源集団の最小数が推定されました。この分析は、祖先の少なくとも2つの分離した波に由来する集団と一致し、主成分分析で観察された層位が、遺伝的浮動だけでは説明できないことを示します。これはまた、クラスタリング分析でも反映されており、2つの分離した構成の結果です。

 93人の個体群と関連した放射性炭素年代測定結果は、両集団がカリブ海諸島に同時代に存在したことを示唆します。しかし、qpAdmを用いても、交雑のあらゆる顕著な水準は検出されず、例外は土器時代の1060~910年前頃となるプエルトリコのパスコデルインディオ(Paso del Indio)遺跡の1個体(PDI009)で、古代型関連系統をわずかに(13±7.7%)有しています。後のカリブ海諸島共同体の発展に関する古代型時代共同体の高まっていく影響を考えると、2集団間の混合の証拠がほとんどないのは驚くべきことです。しかし、この結果は本論文の移行期およびイスパニョーラ島のような大アンティル諸島の限定的な標本抽出に影響を受けているかもしれません。

 キューバ島では、最古級の2700~2500年前頃となる、ペリコ洞窟1個体(PDI009)とグアヤボブランコ(Guayabo Blanco)遺跡1個体(GUY002)に表される、2つの異なる系統も検出されました。これは、土器時代集団の到来前になる、カリブ海諸島西部への複数の早期拡散を示唆します。qpWaveでは、たとえばCIP009とグアヤボブランコ個体群という本論文のデータセットでは、最古級の個体群のうち何人かは、同じ祖先集団の子孫としてモデル化できません。qpGraphを用いて他の古代アメリカ大陸先住民ゲノムでCIP009をモデル化しようとすると、CIP009は、カリフォルニア州チャンネル諸島個体群を有する主要なアメリカ大陸先住民系統から分岐し、南・中央アメリカ大陸古代人が拡散する前のモデル、データが最もよく適合します。対照的に、全ての他の古代型関連個体群は、2500年前頃となるGUY002も含めて、モデルを改善するには南アメリカ大陸古代人から追加の遺伝子流動が必要です。まとめると、これらの結果は、土器時代集団の到来前に、カリブ海諸島西部への複数の拡散があったことを支持します。これらの早期拡散の起源地の決定は困難ですが、そのうち少なくとも1回は、南・中央アメリカ大陸古代人の多様化に先行する、北アメリカ大陸の放散事象と関連していたようです。

 2800年前頃以後、南アメリカ大陸起源の別の拡大が続き、それは考古学でよく証明されています。本論文のデータセットにおける土器時代のゲノムを用いてこの拡大をモデル化すると、小アンティル諸島経由で北方へと漸進的に移動する、南アメリカ大陸起源の人々の飛び石モデルが、プエルトリコからの南方への拡大を想定するモデルよりも適している、と分かります。しかし、2800~2200年前頃となる土器時代拡大の最初期から、土器関連系統を有する個体群はまだ見つかっていないので、この過程を正確にモデル化することは困難です。土器時代集団の拡大は、1500年前頃以後のいつかの時点で再開する前に、プエルトリコで少なくとも1000年は停滞し、一般的に、イスパニョーラ島とキューバ島の古代型時代共同体の存在により発展が停止されていた、と想定されています。本論文の結果は、キューバ島で500年前頃まで土器関連系統が検出されないことに見られるように、時間的間隙と一致します。しかし、これらの知見が、遺伝的転換期、もしくは世界の他地域で観察されてきた事例と類似した、混合の断絶的な事象を伴う相互作用のより複雑な歴史を表しているのか、まだ明確ではありません。

 本論文の新たな遺伝的証拠は、カリブ海諸島がアメリカ大陸本土起源の連続した集団により定住と再定住された、という見解を支持します。これは、頭蓋に基づく最近の研究(関連記事)とも整合的です。本論文は、カリブ海諸島への少なくとも3回の区別される拡散を支持し、それには2回の早期拡散が含まれ、そのうち1回は北アメリカ大陸における放散事象と関連しているようです。明らかに、土器時代の人々はカリブ海諸島を征服する航海能力を有していました。じっさい、カリブ海は「海の高速道路」として機能し、時折の予測不可能性にも関わらず、人々は頻繁に横断しました。カリブ海諸島の最初の植民の後、南アメリカ大陸からの別の拡大が続きました。新たな移住民はカリブ海諸島に到達すると、早期定住者の子孫と遭遇したに違いありませんが、驚くべきことに、交雑の証拠はほとんど見られず、その相互作用の性質と、後のカリブ海諸島共同体の発展における早期居住者の役割に関する問題を提起します。追加のデータと複数の証拠が、これらの問題をさらに調査し、カリブ海諸島の複雑な人口史に光を当てるために必要となるでしょう。


参考文献:
Nägele K. et al.(2020): Genomic insights into the early peopling of the Caribbean. Science.
https://doi.org/10.1126/science.aba8697

動物を誘引する土壌細菌の匂い

 動物を誘引する土壌細菌の匂いに関する研究(Becher et al., 2020)が公表されました。細菌は揮発性の化合物を多数生産し、ヒトなどの大型の生物はこれを感知します。ストレプトマイセス属(Streptomyces)の細菌は土壌中に広く存在し、雨が降った後の地面に特徴的な「土くさい」匂いの元になるゲオスミンという有機化合物を作ります。しかし、細菌がなぜゲオスミンを作るのか、理由は不明です。この研究は、野外実験と研究室での実験を組み合わせて、ストレプトマイセス属の出す匂いが土壌中に生息する動物、特に節足動物を誘引するかどうか、調べました。

 その結果、ストレプトマイセス属を餌として野外に多数のワナを仕掛けたところ、トビムシ(昆虫と非常に近い関係にある、翅のない小型の節足動物)がこの細菌に引き寄せられることを明らかにしました。研究室での実験では、トビムシはゲオスミンを触角で直接感知することが観察されました。また、トビムシがこの細菌を餌にすると、細菌の芽胞がトビムシの体に付着しました。その後トビムシは、芽胞を体表につけたまま、または摂取した芽胞を糞として環境中にまき散らしました。この研究は、これらの観察結果から、こうした細菌由来の匂い物質が果たす、動物を誘引して幅広い環境中に細菌を分散させるという生態学的役割が明らかになった、と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:土壌細菌が匂いを出して動物を誘引する

 ある種の土壌細菌が独特な匂いを放出して動物を誘引し、それが環境中での勢力拡大に役立っていることを明らかにした論文が、Nature Microbiology に掲載される。

 細菌は揮発性の化合物を多数生産し、ヒトなどの大型の生物はこれを感知する。ストレプトマイセス属Streptomycesの細菌は土壌中に広く存在し、雨が降った後の地面に特徴的な「土くさい」匂いの元になるゲオスミンという有機化合物を作る。しかし、細菌がなぜゲオスミンを作るのか、理由は不明である。

 今回、Klas Flärdhたちは野外実験と研究室での実験を組み合わせて、ストレプトマイセス属の出す匂いが土壌中に生息する動物、特に節足動物を誘引するかどうかを調べた。ストレプトマイセス属を餌として野外に多数のワナを仕掛けたところ、トビムシ(翅のない小型の節足動物で、昆虫と非常に近い関係にある)がこの細菌に引き寄せられることを明らかにした。研究室での実験では、トビムシはゲオスミンを触角で直接感知することが観察された。また、トビムシがこの細菌を餌にすると、細菌の芽胞がトビムシの体に付着した。その後トビムシは、芽胞を体表につけたまま、または摂取した芽胞を糞として環境中にまき散らした。

 著者たちは、これらの観察結果から、このような細菌由来の匂い物質が果たす、動物を誘引して幅広い環境中に細菌を分散させるという生態学的役割が明らかになったと述べている。



参考文献:
Becher PG. et al.(2019): Developmentally regulated volatiles geosmin and 2-methylisoborneol attract a soil arthropod to Streptomyces bacteria promoting spore dispersal. Nature Microbiology, 5, 6, 821–829.
https://doi.org/10.1038/s41564-020-0697-x

絶滅しにくい革新性のある鳥類

 革新性のある鳥類が絶滅しにくいことを報告した研究(Ducatez et al., 2020)が公表されました。革新を行なう能力は種を絶滅リスクに強くする、と長年考えられてきましたが、それを全球レベルで徹底的に検証することは困難でした。この研究は、世界の多くの地域から集めた8600種以上の鳥類のデータセットを解析しました。このデータセットには、種の食餌への新たな食物資源の取り込みや、新規の採餌法を記録した3800件以上の新規行動の情報が含まれます。

 新しい行動の一例として、ニュージーランドの鵜は、魚の捕り方を民間フェリーの動きに合わせることにより強い水流を利用する、と観察されています。この研究は、そうした行動データを種ごとの絶滅リスクの情報と照合しました。そのモデリングにより、革新的な行動を示す種は絶滅リスクが低く、絶滅リスクはそうした行動が増えるほどさらに低くなる、と明らかになりました。また、行動の可塑性は生息地の変化による鳥類の絶滅リスクを低下させるだけで、侵略種や乱獲に対する感受性には影響がないことも分かりました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:革新性を有する鳥類は絶滅しにくい

 新しい状況に対処するために行動を変化させる鳥類種は対処しない種よりも絶滅しにくいとすることを示した論文が、Nature Ecology & Evolution に掲載される。

 革新を行う能力は種を絶滅リスクに強くする、と長年考えられてきたが、それを全球レベルで徹底的に検証することは困難であった。

 今回、Simon Ducatezたちは、世界の多くの地域から集めた8600種以上の鳥類のデータセットを解析した。このデータセットには、種の食餌への新たな食物資源の取り込みや新規の採餌法を記録した3800件以上の新規行動の情報が含まれる。新しい行動の一例として、ニュージーランドの鵜(ウ)は、魚の捕り方を民間フェリーの動きに合わせることによって強い水流を利用することが観察されている。研究チームは、そうした行動データを種ごとの絶滅リスクの情報と照らし合わせた。そのモデリングにより、革新的な行動を示す種は絶滅リスクが低く、絶滅リスクが、そうした行動が増えるほどさらに低くなることが明らかになった。

 また、行動の可塑性は生息地の変化による鳥類の絶滅リスクを低下させるだけであって、侵略種や乱獲に対する感受性には影響がないことも分かった。



参考文献:
Ducatez S. et al.(2020): Behavioural plasticity is associated with reduced extinction risk in birds. Nature Ecology & Evolution, 4, 6, 788–793.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1168-8

大河ドラマ『麒麟がくる』第21回「決戦!桶狭間」

 1560年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)5月、今川軍が尾張に侵攻してきて、織田信長は今川配下の松平元康(徳川家康)を寝返らせようとしますが、現実的ではないとして元康は応じません。兵数では不利な織田軍ですが、信長は、今川軍が分散しているとの報告を受け、本隊の兵数が少ない可能性に賭けて出撃します。信長は、今川軍本隊を孤立させるよう攻撃を仕掛けていき、大将の今川義元を討ち取るべく今川軍本隊へと攻撃を仕掛け、ついに義元を討ち取ります。自分がまだ何者でもないことに焦燥する明智光秀(十兵衛)は、明智左馬助(秀満)とともに尾張に行き、帰蝶と再会した後、織田軍と今川軍の戦いを見聞に行きます。義元を討ち取って今後何をしたいのか、と光秀に問われた信長は、まず美濃を攻略する、と答えます。その後のことを光秀に訊かれた信長は、答えずに立ち去ります。

 今回は、大河ドラマでは定番の桶狭間の戦いが描かれました。信長の目的は最初から義元を討ち取ることだった、との解釈には同意しませんが(信長の当初の目標は。今川軍を敗走までさせなくとも、とりあえず打撃を与えて尾張から撤退させることだった、と私は考えています)、信長の不気味な優秀さを活かした設定になっており、ドラマとして面白くなっていたように思います。確か本作では今回が初登場となる佐久間信盛は、とくに見せ場があったわけではありませんが、信長に向ける視線が冷ややかなように見えるので、今後どのように描かれるのか、楽しみです。残念ながら今回で放送は中断となり、いつ再開になるのか、まだ確定していません。ここまではたいへん面白く視聴できたので、来年(2021年)の大河ドラマも当初の予定より撮影は遅れるでしょうから、来年1月までかかっても、何とか本作を完結させてもらいたいものです。

ミトコンドリアから予測される哺乳類における雑種の繁殖力

 ミトコンドリアから哺乳類における雑種の繁殖力を予測した研究(Allen et al., 2020)が報道されました。複数の動物種間で雑種が確認されており、クマやイヌ科やネコ科やクジラ目やウシ科といった哺乳類だけではなく、鳥類も同様で、蝶や蚊といった無脊椎動物でも古代および現代の遺伝子流動の広範なパターンが見られます。哺乳類では、種間の障壁はホールデンの規則に従い、F1(雑種第一代)の子の異型配偶子性の性(XYの雄)の単性不妊として現れます。F1間の交配がF2を産むのに失敗する事例では、繁殖力のある子は、繁殖力のあるF1雌と親種との間の戻し交配を通じて生まれることがあります。しかし、密接に関連する哺乳類種間の交雑から生まれたF1同士の間でも、生存可能で繁殖力のあるF2が生まれることもあります。2種間の対での遺伝的距離が、雑種の子がF2を産める能力と相関しているとしたら、その値(遺伝的距離)は雑種を予測するプロキシ(代理)として機能できます。これまでの研究では、この相関について肯定的見解と否定的見解が提示されていますが、近年のイトトンボに関する研究では、強い相関が示されています。

 遺伝的距離と生殖隔離が相関しているのか確認することも、生殖隔離の遺伝的構造の理解に重要です。そのためには、まず2種間で生存可能な子孫を産める能力があるのか、知らねばなりませんが、そのための飼育繁殖実験や野外データは一般的に不足しています。別の手法は、子が繁殖的に特徴づけられてきた種間交雑を利用する、あらゆる2種間のF1雑種の相対的繁殖力を正確に予測できる測定系(metric)の開発です。本論文では、F1の誕生が知られている哺乳類種間のミトコンドリアの遺伝的距離の相関に基づいて、堅牢で定量的な枠組みを開発し、両性のF1雑種に繁殖力があるのかどうか、あるいはホールデンの規則を示すのかどうか、定量的な測定を得ます。本論文は、よく特徴づけられたネコ科雑種体系でプロキシの精度を検証し、それを人類の事例研究に適応して、現生人類(Homo sapiens)とその最近縁な絶滅系統の相対的な潜在的不妊を評価します。

 まず、雑種の適合性にしたがって2区分されました。第1区分は、親種と戻し交配せずに繁殖可能な両性のF1が生まれる組み合わせです。第2区分は、F1は生まれるものの、ホールデンの規則に従うため、F1雌のみが親種との戻し交配により繁殖可能となる組み合わせです。第2区分には、雑種が不妊の組み合わせの種も含まれます。第1区分には7種、第2区分には6種の組み合わせが含まれます。ミトコンドリアのシトクロムb遺伝子(CYTB)1795個体分と制御領域を除く完全なミトコンドリアゲノム30個体分のデータが分析され、遺伝的距離が計測されました。

 この遺伝的距離の値が小さいと第1区分、大きいと第2区分に分かれますが、重複区間もあります。具体的には、第1区分の上限値の8.0%(モルモット種)と、第2区分の上限値の7.2%(ハタネズミ種)です。第2区分の上限値は12.9%(飼育ブタとインドネシアのイノシシ科の野生動物であるバビルサ)で、これを超える17.3%(ユキウサギとヨーロッパウサギ)になると、生存可能な雑種が生まれません。ただ、この繁殖区分は遺伝子流動とは厳密には関連していません。たとえば、遺伝的距離の値が2.3%のハツカネズミの亜種同士(Mus musculus musculusとMus musculus domesticus)や、2.4%のヒグマ(Ursus arctos)とホッキョクグマ(Ursus maritimus)の組み合わせは第1区分となりますが、遺伝子流動は非対称的です。核DNA配列はミトコンドリアと比較して欠如しているため、ミトコンドリアと同じパターンを示すのか、検証する能力は限定的です。それでも、核の4遺伝子座ではおおむね第1区分と第2区分が明確に分かれました。

 この遺伝的距離と繁殖力の相関をさらに検証するため、イエネコ(Felis catus)とジャングルキャット(Felis chaus)やベンガルヤマネコ(Prionailurus bengalensis)やサーバル(Leptailurus serval)といった野生ネコ科動物の交配事例が用いられました。全事例でF1雄は不妊です。そのため、上述の遺伝的距離と繁殖力の相関が有効だとすると、これらの組み合わせは遺伝的距離の値が7.2%以上で第2区分の範囲内に収まる、と予測されます。また、遺伝的距離の値が大きい組み合わせでは、雑種雄が繁殖力を回復するには、戻し交配の世代数がより多くなる、と予測されます。

 これらの予測はどちらもデータにより裏づけられます。イエネコと上述の野生ネコ科3種間の組み合わせは全て、遺伝的距離の値が7.5%以上で、遺伝的距離の値の増加と、雑種雄の繁殖力回復に必要な戻し交配世代数の増加が相関しています。具体的には、イエネコとジャングルキャットおよびベンガルヤマネコおよびサーバルとの組み合わせでは、遺伝的距離の値がそれぞれ7.5%と10.9%と11.3%、雑種雄が繁殖力を回復するために必要な戻し交配の世代数が、最小値ではそれぞれ2と3と4、平均値ではそれぞれ3と4と5になります。これは、アマゾンテンジクネズミ(Cavia fulgida)とモルモット(Cavia porcellus)の組み合わせが、遺伝的距離の値は8.0%で、雑種雄が繁殖力を回復するために必要な戻し交配の世代数が3だった、という研究とも一致します。

 動物園での事例も遺伝的距離と繁殖力の相関を確認します。ブタ(Sus domesticus)とバビルサ(Babyrousa celebensis)を同じ囲いに入れると、子は生まれないと予測されていたのに、数ヶ月後に5頭の子が生まれ、そのうち2頭は母親からの外傷で死亡したものの、残りの雄2頭と雌1頭はすべて生存し、不妊でした。ブタとバビルサの遺伝的距離の値は12.9%で、不妊の子が生まれるアカゲザル(Macaca mulatta)とマントヒヒ(Papio hamadryas)の組み合わせの遺伝的距離の値12.5%よりずっと大きかったわけではなく、雑種が生存できました。

 人類系統においても、後期ホモ属の現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)という、異なる分類群間での交配と「雑種」子孫の生存が確認されていますが、核ゲノム研究が進展する前のミトコンドリアの研究では、現生人類とネアンデルタール人の交雑に否定的な見解が提示されていました。これまでの研究からは、現生人類とネアンデルタール人の間には両性ともに繁殖能力のある子が生まれた、という可能性が指摘されています。

 本論文で確立されたプロキシを用いて、現生人類とネアンデルタール人など絶滅人類との相対的繁殖力が定量的に評価されました。まず本論文は、現生人類と絶滅人類3系統の組み合わせでの遺伝的距離を推定しました。この絶滅人類3系統とは、ネアンデルタール人とデニソワ人に加えて、早期ネアンデルタール人と分類してよさそうなスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された人骨群です(関連記事)。

 現生人類とこれら絶滅人類3系統の間の遺伝的距離の値は、第1区分の範囲では最低クラスとなります。ネアンデルタール人と現代および古代の現生人類の遺伝的距離の値(1.6%)は、ホッキョクグマとヒグマ(2.4%)およびハツカネズミの亜種同士(2.3%)の組み合わせを下回ります。この比較からは、繁殖力のある子孫の誕生に重要な生物学的障害を予測できるほど、古代の人類系統は相互にじゅうぶんには分岐していない、と考えられます。

 じっさい、古代ゲノム研究では、絶滅人類と現生人類との間の遺伝子移入は双方向で複数回起きた、と推測されています(関連記事)。デニソワ人とネアンデルタール人およびデニソワ人と現生人類との組み合わせは、ホモ属間では最大の遺伝的距離の値となり、デニソワ人が未知の起源集団から遺伝子移入を通じて獲得したミトコンドリア系統を有する、と示唆されます。なお、本論文はこのように指摘していますが、むしろ、ネアンデルタール人のミトコンドリア系統は本来デニソワ人に近く、後に現生人類に近い系統からの遺伝子移入により置換された、と想定する見解の方が有力になりつつあるように思います(関連記事)。

 人類にとって最近縁の現生分類群であるチンパンジー(Pan troglodytes)およびボノボ(Pan paniscus)との組み合わせの繁殖力も評価されました。1920年代にソ連では、ヒトの精子をチンパンジーの雌に受精させる実験が行なわれましたが、子は生まれず、その逆パターンの実験は計画段階に留まったそうです。現生人類系統とチンパンジー属系統(チンパンジーおよびボノボ)の分岐は、600万年前頃(関連記事)とも1345万~678万年前頃(関連記事)とも推定されていますが、いずれにしても、雑種における繁殖力の上限とされる200万年前頃という系統分岐年代を大きく超えています。本論文の分析では、遺伝的距離の値は、現生人類とチンパンジーの組み合わせで11.0%、現生人類とボノボで10.8%となり、第2区分の範囲内に収まります。これは、仮にこれらの組み合わせで雑種が生まれても、雑種はホールデンの規則に従うだろう、と示唆します。

 本論文は、CYTB分岐と相対的な雑種不妊との間に相関があると示し、CYTB分岐による遺伝的距離の値が、正確かつ迅速に雑種の相対的な不妊性を予測するプロキシとして使える、と示唆されます。具体的には、CYTB距離の値が7.2%を超える哺乳類種間の組み合わせの中には、F1がF2を産めない場合もあり、8.0%を超えると、全ての組み合わせで繁殖力のある子が生まれるには親種との戻し交配が必要となります。さらに、雑種雄の繁殖力回復に戻し交配が必要になると、追加の戻し交配の数は、遺伝的距離の値が大きくなるにつれて増加します。

 本論文はミトコンドリアDNAに基づいており、最近の研究では、ミトコンドリアと核の相互作用により種分化はもたらされる、と指摘されていますが、本論文の結果は、CYTBが雑種不妊の原因になる、と主張しているわけではありません。プロキシとしての遺伝的距離の値の使用は、完全に予測できるわけではありません。たとえば、ドブジャンスキー・ミュラー(Dobzhansky–Müller)モデルでは、不適合は分岐以降の時間とは無関係に、孤立集団のわずか2変異から生じる可能性が指摘されています。これは、密接に関連した集団同士で繁殖力のある雑種が生まれない可能性を意味しますが、そうした例はまだ報告されていません。

 プロキシの価値は、その予測力とプロキシデータの生成のしやすさの両方により決まります。数千の哺乳類分類群で公開されているミトコンドリアDNA配列では、組み合わせ間の遺伝的距離の値の計算は安価で単純で迅速です。ゲノム全体が同じセットで利用可能になると、この分析は、核ゲノムのどの領域が予測により適しているのか、もしくはより適していないのか、決定できるまでに拡張できます。近年におけるこの分野の進展の速さを考えると、核ゲノムでもプロキシとして適している領域が特定されるのは、さほど先のことではないかもしれません。このプロキシは、任意の哺乳類2種が雑種を産めるのか、という予測にも使用できます。これまで、動物保護において、飼育下での雑種を防ぐことが重視されてきましたが、これは野生種、とくに絶滅危惧種において交雑の果たしてきた重要な役割を考慮していません。この研究は、将来の動物保全活動にも使用できます。

 ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)やホモ・ナレディ(Homo naledi)といった過去25万年に生存した追加の絶滅人類集団の発見は、絶滅および現存ホモ属種間の繁殖力と交雑の限界の理解に関心を向けてきました。これら絶滅人類標本からミトコンドリアゲノムを得られれば、核ゲノムデータが得られずとも、本論文の手法でこの問題に対する回答が得られるかもしれません。本論文はこのように今後の展望を述べますが、ともに更新世人類で、フロレシエンシスはアジア南東部に、ナレディはアフリカ南部に存在していたので、ミトコンドリアでもDNA解析は難しそうです。


参考文献:
Allen R. et al.(2020): A mitochondrial genetic divergence proxy predicts the reproductive compatibility of mammalian hybrids. Proceedings of the Royal Society B, 287, 1928, 20200690.
https://doi.org/10.1098/rspb.2020.0690

『卑弥呼』第40話「結界」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年6月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが鞠智彦に会う決意を表明したところで終了しました。今回は、ヤノハが子供の頃を回想する場面から始まります。ヤノハが子供の頃に住んでいた日向(ヒムカ)にある邑の東側には結界が張られ、魔物が棲んでおり結界を越えれば死ぬので、誰も立ち入ってはならない、とされていました。ヤノハは同じ年頃の子供たちと結界を越えようとしますが、他の子供たちは怯えて逃げ出します。ヤノハが一人で森を通って結界を越えると、そこは浜辺でした。ヤノハの邑は四国の五百木(イオキ)から瀬戸内海を渡ってきたと思われる賊に襲撃され、ヤノハの義母は殺されましたから、海に近い、ということなのでしょう。

 海には難破船があり、森から虎が現れ、ヤノハを襲おうとします。すると、刀を持った男性が現れ、虎を制止させます。漢語を話す男性は、ヤノハが倭人だと気づき、森の西側の邑の倭人は立ち入り禁止と知っているだろう、とヤノハを咎めます。ヤノハは、なぜか分からないが、怖いものの話を聞くと、正体を知りたくて我慢できなくなる、と男性に理由を話します。すると、それまで険しい表情だった男性は穏やかな顔になり、ヤノハに名前を聞いた後、何何と名乗ります。虎の名前は藋(ディオ)です。何何は、5年前に日向の海岸に漂着し、乗船していた16人のうち8人が嵐で死に、5人はヤノハの邑の者に殺され、今では3人と1匹になった、とヤノハに打ち明けます。虎に同じ人数の邑人を狩らせると、邑を代表してヤノハの義母が来て、森に結界を張り邑人を立ち入り禁止にするので、虎を邑に近づけるな、と何何に提案します。何何はヤノハの義母を賢い人だったと評価し、この5年は平和だった、結界を破ったのはお前が初めてだ、とヤノハに話します。船を修理して漢(後漢)に帰るつもりはないのか、とヤノハに問われた何何は、霊帝に謀反を起こしたので帰れない、と答えます。何何は黄色の頭巾を着けており、黄巾の乱の残党でした。何何は、戦はもうごめんだ、と穏やかな表情で言います。何何のことは誰にも言わない、と誓うヤノハを何何は信じます。ヤノハは何何に頼んで虎を触り、邑に帰ったヤノハは義母にひどく叱られました。

 場面は替わって現在の山社(ヤマト)です。日見子(ヒミコ)たるヤノハが暈(クマ)の鞠智彦(ククチヒコ)と会うことにイクメは反対し、ミマト将軍は、筋を通すなら那(ナ)と和議を結ぶべきだ、とヤノハに進言します。ヤノハに問われたテヅチ将軍は、自分は山社に投降した戦人なので日見子様(ヤノハ)の決断に従うのみ、と答えます。ヤノハに問われたヌカデは、暈の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)以来、日見子様に運命を委ねた者なので、意見はない、と答えます。ヤノハに問われたミマアキは、頭では父(ミマト将軍)と姉(イクメ)が正しいと分かるが、これまで日見子様は我々が思いもよらぬ決断をしてことごとく功を奏してきたので、どう考えれば正解か悩んでいる、と答えます。するとヤノハは、ミマアキだけがこの場を楽しんでいるようだな、と言います。ヤノハは、ミマアキだけ残って他の者は退出するよう、命じます。父のミマト将軍から、日見子様は怒っているのか、と問われた娘のイクメは、恐らく怒っており、怒るとより冷静になる、と答えます。クラトは退出するヌカデから、ミマアキがまだ残ってヤノハと密談中と聞き、考え込むような表情を浮かべます。その様子を見たヌカデは、日見子様は欲しいものを必ず手に入れる方なので、お前の想い人(ミマアキ)も危ないぞ、とクラトに忠告します。

 ヤノハは唯一残ったミマアキに、これまでの身の回りの世話への感謝を述べ、今日限りで任を解いてイクメのみに自分の身の回りの世話をさせる、と言い渡します。ヤノハはミマアキに、もっと重責を任せるつもりでした。現在、ヤノハは日見子として、夜に神々と語らい明日のお天道様のご来光を祈っている上に、昼は政事(マツリゴト)まで執り行なっています。今は二役を兼ねているヤノハですが、必ず倭国を平らかに導くので、その時はミマアキに昼の政事を代わってもらいたい、と提案します。それは本来王の仕事では、と驚くミマアキに対して、ミマアキだけが自分の心を読めるから、とヤノハは理由を明かします。自分の世話役でなくなれば、ミマアキには禁忌はなくなり、女も抱き放題だ、とヤノハはミマアキに言います。自分は男が欲しくても秘め事にする以外方法はない、と言うヤノハは、想い人の一人二人はいるだろう、とミマアキに問いかけます。ミマアキほどの美しさなら、望めば女は皆振り向くはず、とヤノハに言われたミマアキは、どうかご勘弁を、と言って返答を避けます。ヤノハは、時間を置こう、政事に携わることを考えてみてくれ、とミマアキに言います。

 次にヤノハはヌカデを呼び、種智院イスズに鞠智彦と会うことにしたと伝えるよう、命じます。自分を日見子様と呼ぶヌカデに対して、他に人がいない時はヤノハでよい、とヌカデに言います。道中は物騒なので腕の立つ者二名を警護につける、と言ったヤノハは、まずクラトの名前を挙げます。するとヌカデは、クラトを危険な仕事につけると、お気に入りのミマアキが不機嫌になるぞ、とヤノハに忠告します。ミマアキとクラトは相思相愛の仲だ、とヌカデに聞かされたヤノハは、驚いた表情を浮かべます。ヤノハでも気づかないことがあるのか、とヌカデは意外そうに言います。ヌカデから話を聞いたヤノハが、子供の頃に結界を破って義母に怒られた時に言われた、お前のその好奇心、欲しいものを必ず手に入れる執着心で身を滅ぼさなければよいが、という忠告を思い出すところで、今回は終了です。


 今回は、子供の頃からのヤノハの好奇心と欲しいものへの執着心の強さが描かれ、ヤノハの基本的な個性が子供の頃に確立していた、と了解されます。注目されるのは、ヤノハの邑に漂着した黄巾の乱の残党が虎を飼っていたことで、ナツハがヤノハの弟であるチカラオだとすると、幼い頃より虎に親しみ、動物を操る能力を身に着けたのではないか、とも考えられます。まあ、結界を越えることは厳禁とされており、ヤノハもわざわざ弟を危地に追いやろうとはしないでしょうが、チカラオも姉に似て好奇心が強いのかもしれません。黄巾の乱の残党も登場したことで、雄大な規模の話になるだろう、との期待がさらに高まりました。

 ヤノハがミマアキに昼の政事を任せようとしたことは、予想はしていたものの、やや意外でした。『三国志』に見える、卑弥呼(日見子)となったヤノハを支える「男弟」の最有力候補は、ヤノハの弟のチカラオ(現在のナツハ?)だろう、と考えていたからです。そのミマアキとクラトが恋仲であることに、ヤノハは気づいていませんでした。そこでヤノハが義母の忠告を思い出したのは、何か引っかかることがあったからなのだろう、と思います。では、何に引っかかっているのか、というとまだ分かりませんが、ヤノハが日向の邑長に襲撃された時の、クラトの行動なのかもしれません。相思相愛の関係なら、クラトはもっとミマアキを案ずるような行動をとったのではないか、といった疑問をヤノハは抱いたのかもしれません(的外れかもしれませんが)。クラトは筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に残ったサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の残党の一味で、日見子となって日向を領地としていくヤノハを殺すことも躊躇っていないようですが、ヤノハはミマアキとクラトの関係をヌカデから知らされたことにより、情報収集と鋭い洞察力で、クラトの怪しさに気づいて危機を脱するのかもしれません。今回、鞠智彦は言及されただけで登場しませんでしたが、ヤノハとの会見でどのようなやり取りが交わされるのか、またヤノハへの強い憎悪を抱くヒルメの指示を受けたナツハが、鞠智彦の配下として同行してヤノハに対してどのような行動に出るのか、たいへん楽しみです。

鈴木眞哉『戦国時代の計略大全』

 PHP新書の一冊として、2011年6月にPHP研究所より刊行されました。奇襲・水攻め・火攻め・伏兵・内応などといった、合戦における奇策・計略の事例を紹介しています。軍記物や講談が出典の話も多いので、単に紹介するだけではなく、創作の可能性が高いなどといった評価もなされています。戦国時代の事例が中心なのですが、南北朝時代や平安時代末期など他の時代や、ヨーロッパなど日本以外の事例も紹介されています。

 本書は気軽に読める雑学本といった感じで、深く感銘を受けるということはないのですが、戦国時代を中心に多くの事例が取り上げられているので、一読の価値はあると思います。興味深かったのは「空城の計」の事例で、戦国時代や三国時代の話は知っていましたが、ヨーロッパにも似たような話があるようです。イングランドがノルマンディーに領地を有していた頃、フランスがノルマンディーのイングランドの城を攻めたところ、守将が三ヶ所あった城門を全て開放し、フランス軍は何か計略があると思って攻めてこなかったそうです。そこで、イングランド軍は出撃し、激闘の末フランス軍を撃退した、という話なのだそうですが、この話の真偽については言及されていませんでした。

多層的メカニズムによる短い染色体の減数分裂期組換え

 多層的メカニズムによる短い染色体の減数分裂期組換えに関する研究(Murakami et al., 2020)が公表されました。ほとんどの生物種における減数分裂のさいには、正確に染色体を分離するため、少なくとも1ヶ所のDNA交叉(乗り換え)により相同染色体間の組換えが必要とされます。組換えがランダムな位置で起こると、短い染色体での不分離が多くなる恐れがあるので、組換えの開始反応であるDNA二本鎖切断(DSB)の起こる位置はランダムではない、と考えられています。現在までに、DSBのタイミング・局在場所・数を調節するいくつかの経路が知られていますが、DSBのノンランダムな分布がどのように制御されているのかは分かっていません。減数分裂期のDSBは、ほぼ全ての真核生物に見られるSpo11と、Rec114やMer2などの補助的DSBタンパク質が染色体上で会合することにより生じます。

 この研究は、出芽酵母(Saccharomyces cerevisiae)を用いて、時間的に異なる複数の経路が統合的に働き、染色体上のRec114とMer2の結合を調節することにより、DSB形成を可能とする期間を制御している、と明らかにしています。減数第一分裂前期の終盤で相同染色体が互いに密着するさいに、Rec114とMer2が解離されます。一方、減数第一分裂前期の序盤では、複製のタイミングとセントロメアまたはテロメアからの距離が、Rec114とMer2の結合に影響します。さらに序盤に働くもう1つの機構により、Rec114とMer2の最も短い染色体への特異的結合が促進されます。この機構は選択圧の影響下にあり、高頻度で組換えを起こしやすいという、これら短い染色体に備わった特性が維持されます。このように、ある生物の核型と、これに付随する減数分裂時の染色体不分離のリスクが、その組換えの全体像の形態と進化に影響を及ぼします。これらの結果から、DSBを全ての相同染色体対へと確実に分配する多面的で進化の制約下にあるシステムについて、まとまった知見が得られました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:多層的メカニズムが短い染色体の減数分裂期組換えを保証する

遺伝学:短いものへの配慮

 減数分裂の際には、各染色体が複製される。各染色体が確実に1コピーずつ娘細胞に分配されるように、各染色体対は少なくとも1か所のDNA交叉(乗り換え)によって連結されている。この交叉はDNAの二本鎖切断(DSB)によって始まるが、切断はランダムに起こるので、最小の染色体では切断が1つも起こらない可能性がある。今回S Keeneyたちは、出芽酵母(Saccharomyces cerevisiae)で、最も短い染色体であっても少なくとも1か所は確実にDSBが起こるようにする仕組みを明らかにしている。このような染色体へのDSB導入を強化する仕組みは複数あり、そのうちの1つは、最も短い染色体に特異的に働くらしい。



参考文献:
Murakami H. et al.(2020): Multilayered mechanisms ensure that short chromosomes recombine in meiosis. Nature, 582, 7810, 124–128.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2248-2

髙倉純「北アジアの後期旧石器時代初期・前期における玉やその他の身体装飾にかかわる物質資料」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P16-22)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 更新世の遺跡で確認される玉やその他の身体装飾にかかわる物質資料は、人類進化に関する多くの考古学的議論において、ヒトの行動や認知の進化を議論するうえできわめて注目すべき題材です。それらは、モノによる社会的情報(年齢やジェンダー、婚姻・親族・階層・帰属集団など)の視覚的表示を通して、より複雑な象徴的コミュニケーションの達成を反映していると考えられてきたため、現生人類(Homo sapiens)による「現代人的行動」の構成要素の一つに挙げられてきました。その出現年代や帰属する生物学的人類集団との対応関係を突き止めることは、ユーラシアやアフリカにおける考古学的研究において重要な検討課題の一つと認識されてきました。

 遺跡調査の進展と資料の蓄積により、アフリカでは、玉やその他の身体装飾に関連する物質資料(のセット関係)の出現年代が、ヨーロッパの上部旧石器時代の開始年代よりもさかのぼる、と明らかにされてきました。一方、それらの出現年代は、現生人類の生物学的な進化が起きた年代と対応とておらず、モザイク的な出現状況を示唆することも指摘されています。また、ユーラシア西部では、初期上部旧石器時代(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)や前期上部旧石器時代(Early Upper Paleolithic、 EUP)の段階から、玉やその関連資料のセット関係の存在が確認されてきており、現生人類だけではなく、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が生存していたと考えられる年代の遺跡においても、該当資料検出の可能性が指摘されており、現生人類だけがモノを介して象徴的コミュニケーション行動を遂行していた、との見解は揺らぎつつあります。こうした研究の成果は結果的に、「現代人的行動」という認識の妥当性を問う契機にもつながっています。

 アジア北部では、近年、シベリアやモンゴルの旧石器時代遺跡において、玉やその他の身体装飾に関連する物質資料が相次いで確認され、象徴行動との関係から現生人類の進化や拡散の問題との関連が議論されています。こうした関連資料が、現生人類のユーラシアにおける拡散や文化形成をめぐる議論にどのような示唆を与えるのか、アジア北部での玉を中心とした身体装飾にかかわる物質資料の集成や比較検討の結果も踏まえて、本論文は検証します。身体装飾としては、オーカーなどの顔料による彩色も関連してきますが、本論文では、それらは玉への彩色あるいは玉との比較にかかわる議論のみが取り上げられています。

 アジア北部におけるIUPの存続年代は較正年代で48000~45000年前頃から39000~38000年前頃まで、EUPの存続年代はその後の29000~28000年前頃までと推定されています。地域としては、アルタイ山地(デニソワ洞窟、カラ・ボム遺跡、ストラーシュナヤ洞窟、ウスチ・カン洞窟、ウスチ・カラコル遺跡、マロヤロマンスカヤ洞窟、アヌイ2遺跡)、エニセイ河流域(マーラヤ・スィヤ遺跡)、バイカル湖周辺(ゲラシモーヴァⅠ遺跡、陸軍病院遺跡、マモヌイⅡ遺跡、シャーポヴァⅠ遺跡、ウスチ・カヴァ遺跡)、ザバイカル(パドズボンカヤ遺跡、ホーティク遺跡、カーメンカ遺跡A石器群、ワルワリナ山遺跡、トルバカ遺跡)、モンゴル(トルボル4遺跡、トルボル15遺跡、トルボル16遺跡、ドロルジ1遺跡)、北極圏(ヤナRHS遺跡)に分布する諸遺跡から、玉やその他の身体装飾にかかわる関連資料が出土しています。

 このうちデニソワ洞窟(Denisova Cave)11層の事例は、早くから注目されており、東洞11.2層出土のアカシカやエルクの歯を素材に穿孔がなされているペンダントは、放射性炭素年代測定値の較正年代で47000~38000年前頃との結果が得られています(関連記事)。これは、現時点でアジア北部におすい最古の装飾に関連する物質資料となっています。IUP石器群との伴出も指摘されていますが、石器群や生物学的人類集団との対応関係などについては、現時点では確定できません。デニソワ洞窟の事例以外に関しても、玉やそれに関連する資料は、いずれも上部旧石器時代に帰属しています。アジア北部においては現時点で、中部旧石器時代の石器群に伴出する玉やそれに関連する資料は確認されていないことになります。

 該当資料には、石・骨・角・歯・牙・貝。ダチョウ卵殻などが素材として利用されていました。体系的で明確な分類基準が示されている訳ではありませんが、形態的な特徴に基づき、ビーズ(Bead)・リング(Ring)・ペンダント(Pendant)・ブレスレット(Bracelet)・ヘッドバンド(Diadem)・その他(Unknown article)に分類されています。ビーズ・リング・ペンダント・ブレスレット・ヘッドバンドらは、いずれも形状からの類推に基づき、単独もしくは複数が紐などで組み合わせられ、身体にそのまま装着して使用されていた、と考えられています。ゲラシモーヴァI遺跡やマモヌイII遺跡、シャーポヴァI遺跡からの出土資料には、「その他(Unknown article)」に区分されているものもありますが、それらの中には穿孔の痕跡がなく、研磨や刻みによって装飾が加えられ、衣服の一部に組み合わされて使用されていた可能性が想定されているものも含まれています。多くの遺跡の出土資料に関しては、出土コンテクストなどの詳しい記載は示されていませんが、IUPのパドズボンカヤ遺跡では、オーカーによって彩色された、いくつかのペンダントが炉址の周辺からまとまって出土しており、顔料生産との関連も想起させます。こうした機能的な差異を反映する分類とは別に、形状・材質・製作技術・装飾・彩色の痕跡などを指標として、玉やその関連資料に関して以下のような4タイプが設定されています。

●タイプI
 厚さが薄く、平滑な形状を呈するもので、平面形状は主に円形や方形となるものです。石・骨・牙・歯・貝・ダチョウ卵殻など、さまざまな素材が利用されています。製作はおもに穿孔によっており、表裏での研磨は部分的なので、素材の自然面を留めているものが多く、製作は比較的容易だったと考えられています。オーカーなどによる彩色の痕跡が認められる場合が時にあるものの、刻みなどによる二次的な装飾はほとんど確認されていません。時期や地域を問わずこのタイプは出現しており、IUPのパドズボンカヤ遺跡やカーメンカ遺跡A石器群やトルボル4遺跡第5文化層、EUPのウスチ・カラコル遺跡(9.2層)やアヌイ2遺跡(13.2層)やマーラヤ・スィヤ遺跡やウスチ・カヴァ遺跡下層やドロルジ1遺跡やヤナRHS遺跡などで確認されています。

●タイプII
 素材となる石や歯や骨の立体的な形状を保持したまま、おもに切断や穿孔により製作されているため、形状が平滑ではないものです。研磨は部分的か、もしくはまったく認められません。オーカーなどによる彩色の痕跡が認められるものはありますが、刻みなどによる二次的な装飾はほとんど認められません。カーメンカ遺跡A石器群やカラ・ボム遺跡(OH-5石器群)など、IUPの石器群に伴出が認められますが、EUPに属するヤナRHS遺跡でも確認されています。

●タイプIII
 厚さが薄く、平滑な形状を呈するもので、円形や方形やヒト形を呈するものです。石や骨や角や牙など様々な素材が利用され、切断・全体的な研磨・穿孔により製作され、多くのものには単純な直線的刻みによる装飾が施されています。ほとんどの事例ではオーカーなどによる彩色の痕跡が確認されています。タイプIやIIと比較すると、製作にはより時間を要したと考えられています。カーメンカ遺跡A石器群やホーティク遺跡第3文化層やパドズボンカヤ遺跡などIUPでの伴出が認められますが、EUPになって増加する傾向が認められ、ストラーシュナヤ洞窟やアヌイ2遺跡(13.2層)やマーラヤ・スィヤ遺跡やゲラシモーヴァⅠ遺跡やシャーポヴァI遺跡やウスチ・カヴァ遺跡下層などで確認されています。

●タイプIV
 複数の面から構成される立体的な形状を有しているもので、軟らかい石や角や牙など、限られた素材だけを対象に製作されているのが特徴です。研磨や穿孔などの製作痕跡が明瞭で、なおかつ帯状や放射状などの意匠の刻みで、さまざまな二次的な装飾が加えられています。オーカーなどによる彩色や二次的な焼成の痕跡も頻繁に確認されています。アヌイ2遺跡(13.2層)やマーラヤ・スィヤ遺跡やゲラシモーヴァⅠ遺跡や陸軍病院遺跡やマモヌイII遺跡やシャーポヴァI遺跡やウスチ・カヴァ遺跡下層やホーティク遺跡第2文化層やヤナRHS遺跡など、おもにEUPに帰属するとみられる諸遺跡で確認されています。

 形状が平滑なのか複数の面から構成される立体的なものなのか、研磨などによる顕著な形状修正や複雑な装飾が認められるのか否か、という二つの指標を組み合わせて、4タイプが設定されています。定量的なデータによる検証という課題は今後に残されていますが、形状からの類推に基づく機能的な分類とは異なる基準を導入したこのタイプ分類により、IUPからEUPにかけて、タイプIIIやタイプIVが増加する、つまり、形状や装飾の多様化、製作工程の複雑化、素材選択の限定化という傾向が把握できるようになりました。また、素材からの顕著な形状修正が見られるタイプIIIや複雑な意匠の装飾がみられるタイプIVが、EUPになって本格的に出現すると明確化されたことにより、従来は相互が分離して議論されてきましたが、シベリアでは次の中期上部旧石器時代(Middle Upper Paleolithic、以下MUP)に盛行する骨角牙製彫像の製作技術や意匠との関連性に言及することも可能になってきました。

 アジア北部のIUPからEUPにかけての時期に見出された形状や装飾の多様化、製作工程の複雑化、素材選択の限定化という変化の傾向が、妥当な認識であったならば、それに対してどのような意味づけが可能なのか、ということが今後の議論における課題と考えられます。身体装飾にかかわる玉などの物質資料の変化は、アジア北部でのIUPからEUPにかけての文化変容を解き明かすうえで、重要な議論の対象の一つです。

 上述のように、玉やその他の身体装飾に関連する物質資料は、象徴的コミュニケーションの遂行を反映しているものとの観点から、現生人類の進化や拡散を論じるうえで重視されてきた経緯があります。しかし、一括りに「装飾品」といっても、形状・素材・製作技術・装飾や彩色の有無などに着目すると、上述のように様々なものが含まれており、身体装飾にかかわる物質資料が視覚的に表示・伝達していた社会的情報にも多様性があった、と予測できます。対象資料を一括りに認識するだけに留まらず、資料の多様性を踏まえて、社会的情報の伝達過程に変化を見出していこうとする議論が求められる、というわけです。

 ただし、身体装飾に関連する物質資料がどのような内容の社会的情報を、着装者とそれを視認する者との間で具体的に伝達していたのかに関しては、考古資料からアプローチすることが相当に困難な課題である点は認識しなければなりません。更新世の遺跡では、例外的に墓坑から着装に近い状態をとどめている玉が複数まとまって検出されることもありますが、ほとんどの事例は使用のコンテクストから分離され、本来は複数が組み合わさって機能していたと考えられるものが単独の状態で確認されています。そうした資料から、使用状況や着装者の性格を直接的に把握することは、あまり期待できないと言えるでしょう。伝達されていたメッセージの内容の直接的な解読ではなく、どのような状況でモノが作られ、コミュニケーションが遂行されようとしていたのか、という点に焦点を合わせることで、地域や時期にまたがる複数資料の比較、コミュニケーション行動の変容に関する解釈が現実的に可能になっていくのではないか、というわけです。そのためには、出土資料の製作・使用を取り巻いていた状況を明らかにし、解釈を導いていくための指標のモデル化が必要となります。

 身体装飾に関連するオーカーなどの顔料と玉が、象徴的なコミュニケーションが遂行されていた情報伝達システムのなかで、どのような特性を示すのかを比較するために、考古資料においても検証可能な複数の指標を導入する試論が提示されています。そのうち、形状や装飾の意匠の定形性、素材の入手・製作に要したコスト、どれだけ多く着装していたのか(量的表示の程度)といった指標は、玉やその関連資料の多様性とその時間的変容を、情報伝達システムとのかかわりで考察していくさいにも、有効な示唆を与えてくれると考えられます。これらは、伝達情報の広範囲にまたがる共通理解の形成、あるいは着装者が表示する社会的情報の差異性の強調にも関連する指標です。情報伝達システムの空間的広がりの性格や、コミュニケーション行動に関わっていた人々のなかでの着装者の役割・社会的立場の分化を推論していくうえで、大きな意味をもつ指標と想定されます。IUPからEUPにかけての玉やその関連資料の変化の背景を解明するためには、単純な「進化論」(単純→複雑)的現象の指摘に留まるとどまることなく、こうした指標を手がかりとして、比較と評価に取り組んでいかなければなりません。

 本論文は最後に、上述のアジア北部におけるIUPからEUPにかけて認められる玉やその関連資料について、今後の検討課題を挙げています。第一に、それらの素材がどこで、どのような状況下で入手されたのか、いかなる製作工程を踏まえて製作されていたのかに関しては、まだ充分な研究が試行されていないため、製作にいたるコストを正確に評価し、比較することが現状では難しい、と本論文は指摘します。素材の同定とその産地を推論するための古生態学的あるいは岩石・地質学的検討、そして製作技術に関する検討が欠かせない、というわけです。北海道を対象としたものですが、旧石器・縄文時代の岩石を素材とした玉を対象に、原産地を絞り込むための研究も始められています。同様の研究の展開がアジア北部においても求められます。第二に、形状や装飾の意匠の定形性、量的表示の程度といった問題については、3次元計測を含めた遺跡ごとでの定量的データの取得とその比較の手続きが有効と考えられます。


参考文献:
髙倉純(2020)「北アジアの後期旧石器時代初期・前期における玉やその他の身体装飾にかかわる物質資料」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P16-22

新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史

 新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史に関する研究(Ning et al., 2020)が公表されました。中国は近東の次に独自に穀物栽培の始まった地域で、南部の長江流域では天水稲作農耕が、北部の黄河(YR)流域では乾燥地帯雑穀農耕が行なわれました。中国北部は、黄河中流から下流の中原を含む広大な地域で、世界でも比較的古い都市文化の起源地として知られています。しかし、中国北部は中原を越えて広がっており、異なる生態地域にいくつかの他の主要河川系が含まれます。とくに、中国北東部の西遼河(WLR)地域は、雑穀農耕の採用と拡大において、黄河地域とは異なる重要な役割を果たした、と今では一般に受け入れられています。アワ(Setaria italica)とキビ(Panicum miliaceum)の両方が、少なくとも紀元前6000年以降、まず西遼河地域と黄河下流地域で栽培されました。その後の5000年間、中国北部の雑穀栽培はユーラシア東部全域とそれを越えて拡大しました。雑穀は、とくにトウモロコシとサツマイモが紀元後16~17世紀に導入されるまでは、アジア北東部において主要な基本食糧の一つでした。

 黄河と西遼河はともに、雑穀農耕に大きく依存した豊富な考古学的文化で知られています。中期新石器時代(紀元前4000年頃)までに、雑穀農耕へのかなり依存を伴う複雑な社会が、西遼河流域では紀元前4500~紀元前3000年頃となる紅山(Hongshan)文化として、黄河流域では紀元前5000~紀元前3000年頃となる仰韶(Yangshao) 文化として発展しました。紅山文化では、多くの翡翠装飾品を含む重要な供物を備えた公共儀式用の祭壇が発見されており、その中でも牛河梁(Niuheliang)遺跡の「女神神殿」が最も有名です。中期新石器時代の複雑な社会の確立は、急速な人口増加および文化的革新と関連していたようで、二つの主要な語族である、黄河流域のシナ・チベット語族と西遼河流域のトランスユーラシア諸語の拡散と関連していたかもしれませんが、後者の系統的統一性に関しては議論もあります。

 中期新石器時代までに支配的な生計戦略として作物栽培が確立していた黄河地域と比較して、西遼河地域の作物栽培への依存水準は、気候および文化の変化と関連して頻繁に変わりました。たとえば、古植物学と同位体の証拠から、西遼河地域の人々の食性への雑穀の寄与は、興隆窪(Xinglongwa)文化から紅山文化を経て紀元前2200~紀元前1600年頃となる夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化まで着実に増加しましたが、その後の紀元前1000~紀元前600年頃となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では、遊牧に部分的に置換されました。考古学者の多くは、この生計戦略の変更を気候変化への対応と関連づけましたが、かなりのヒトの移動がこれらの変化を媒介したのかどうか、まだ調べられていません。

 西遼河地域は北東部でアムール川(AR)地域と隣接しており、アムール川地域では有史時代まで、雑穀・オオムギ・マメ科植物のいくらかの栽培と組み合わせた狩猟や漁労や畜産への依存が続いてきました。中国北部と周辺地域での雑穀農耕の拡散に影響を及ぼした、黄河社会と西遼河社会との間の接触と相互作用の程度はほとんど知られていません。一般的には、これまでの古代ヒトゲノムの限定的な利用可能性を考えると、先史時代のヒトの移動と接触は、現代集団への影響と同様にこの地域に関してはまだよく理解されていません。本論文では、中期新石器時代以降の中国北部全域の主要な文化を表すさまざまな遺跡で発見された55人の古代ゲノムの遺伝的分析を提示します。その遺伝的構成の時空間比較により、中国北部における過去のヒトの移動と混合事象の概要を提供し、生計戦略の変化と比較します。

 中国北部全体で19遺跡の古代人107個体のDNAが解析されました。内訳は、アムール川地域では紀元前5525~紀元後250年頃となる3遺跡、西遼河地域では紀元前3694~紀元前350年頃となる4遺跡、黄河地域では紀元前3550~紀元前50年頃となる10遺跡、中間的な地域である陝西省の紀元前2250~紀元前1950年頃となる1遺跡と内モンゴル自治区の紀元前3550~紀元前3050年頃となる1遺跡です。このうち、DNAがじゅうぶんに保存されている55個体でゲノムデータが得られました。常染色体ゲノムの網羅率は0.03~7.53倍です。集団に基づく分析では1親等の関係は除外されました。以下、本論文で対象となった遺跡の地理的関係と年代を示した図1です。
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●中国北部古代個体群の遺伝的分類

 2077人の現代ユーラシア人の主成分分析では、中国北部の古代個体群は異なる集団に別れます。PC1軸では、中国北部の古代個体群はユーラシア東部現代人に分類され、アジア東部現代人に特徴的で適応的表現型に関連しているかもしれない、派生的アレル(対立遺伝子)を有しています。しかし、中国北部の古代個体群はPC2軸では異なる位置にあり、それはユーラシア東部現代人をほぼ南北で分離し、頂点はシベリア北部のガナサン人(Nganasan)、底は台湾のオーストロネシア語族集団です。

 本論文で対象となった古代個体群は3つの大きなクラスタを形成し、頂点がアムール川地域個体群、底が黄河地域個体群、西遼河地域個体群はその中間で、ほぼ地理的起源を反映しています。アジア東部人の多様性に焦点を合わせるため、高地チベット人を多数含むアジア東部現代人9集団が対象とされました。最初の2つの主成分分析では、オロチョン人(Oroqen)やホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)やシーボー人(Xibo)といったツングース語族と、チベット人、低地アジア東部集団が分離されました。ADMIXTURE分析では類似したパターンが示され、全古代個体群は3つの祖先的構成を有し、同じ河川流域の古代個体群は類似した遺伝的構成を共有しており、主成分分析と一致します。


●アムール川地域集団の長期の遺伝的安定性

 ユーラシア人とアジア東部人両方の主成分分析で、アムール川地域の前期新石器時代の2人および鉄器時代の3人と、西遼河地域の遊牧文化の青銅器時代の1人は、ほぼツングース語族話者であるアムール川地域現代人集団の範囲内に収まる密集したクラスタを形成します。アムール川地域の鉄器時代の1人は、アムール川地域集団クラスタの範囲外となり、主成分分析ではPC1軸でわずかにモンゴル語族話者に移動していますが、この個体のゲノムの低網羅率(0.068倍)と少量の汚染に起因する歪みの可能性があります。古代および現代のアムール川地域集団は、ADMIXTURE分析でも類似した遺伝的構成を示します。

 アムール川地域集団の組み合わせでは、アムール川下流地域の古代人も現代人も同様に、密接な遺伝的類似性が示されます。さらに、これらの集団が相互にほぼクレード(単系統群)であることも確証されます。例外的にアムール川地域集団に近い外部集団はシベリアのガナサン人とイテリメン人(Itelmen)で、この2集団は歴史的にアムール川地域集団関連遺伝子プールとの遺伝的交換を経てきました。またqpWave分析では、アムール川地域集団の組み合わせを外群との類似性の観点から区別できません。アムール川地域集団はアムール川地域外の集団との類似性に関して、時間の経過に伴う実質的な変化を示しませんが、厳密な意味での遺伝的連続性に関する既知の検証では、本論文の古代アムール川地域集団が現代アムール川地域集団の直接的祖先である、という仮説は棄却されます。これは、アムール川地域集団遺伝子プール内の層別化と、おそらくは現代アムール川地域集団形成期におけるアムール川地域集団間の遺伝子流動を示唆します。


●黄河地域個体群の遺伝的構成の経時的変化

 主成分分析では、中原の古代黄河地域個体群は、アムール川地域個体群と異なるクラスタを形成し、ADMIXTUREでは類似した遺伝的構成を共有します。しかし、古代黄河地域個体群間で、小さいものの有意な違いも観察されます。後期新石器時代の龍山(Longshan)文化個体群は、それ以前となる中期新石器時代の仰韶文化個体群よりも、中国南部およびアジア南東部の現代人集団の方と遺伝的により密接です。これは、中期新石器時代の仰韶文化期と後期新石器時代の龍山文化期の間の、黄河中流および下流地域における稲作農耕の顕著な増加の観察との遺伝的並行現象を示します。

 この後の青銅器時代と鉄器時代の個体群では、さらなる変化は検出されません。アムール川地域とは異なり、黄河地域の青銅器時代および鉄器時代個体群とクレードを形成する現代人集団は見つかりませんでした。現在中原において優勢な民族集団である漢人は、明確に中国南部およびアジア南東部集団との追加の類似性を示します。中国南西部のチベット・ビルマ語派のナシ人(Naxi)は、古代黄河地域集団から、大きく減少しているものの、依然として有意な違いを示します。これらの結果は、黄河地域集団間の長期にわたる遺伝的関連を示唆しますが、中国南部、たとえば長江流域の集団の移動による稲作農耕の北方への拡大と関連しているかもしれない、外因性の遺伝的寄与の重要な軸を有しています。

 中原の周辺地域の新石器時代個体群のゲノムは、黄河地域個体群の遺伝的構成が地理的に広範に分布していた、と示します。中期新石器時代となる内モンゴル自治区の廟子溝(Miaozigou)遺跡と、後期新石器時代となる陝西省の石峁(Shimao)遺跡の個体のゲノムは両方、黄河地域と西遼河地域の個体群の間に位置し、遺伝的に相互および古代の黄河地域集団と類似しています。黄河上流の後期新石器時代個体群は斉家(Qijia)文化と関連しており、類似の遺伝的パターンを示します。黄河地域農耕民とアムール川地域狩猟採集民の混合としてこれらの集団をモデル化すると、80%程度は黄河地域集団に由来します。黄河上流鉄器時代個体群のゲノムは、より高い黄河地域集団系統の割合を示し、ほぼ100%(94.7±5.3%)となります。

 考古学的研究は、紀元前1600年頃後のチベット高原の恒久的なヒトの居住において、斉家文化が存在したチベット高原北東周辺の中程度の標高地域の重要な役割を示唆します。最近の言語学的研究は、シナ・チベット語族の北部起源を支持しており(関連記事)、仰韶文化起源の可能性が高い、と示唆します。混合モデリングを利用して、現代のシナ・チベット語族集団と古代黄河地域集団との間の遺伝的つながりが調べられました。チベット人は、シェルパ人(Sherpa)と黄河上流後期新石器時代集団の混合としてモデル化されますが、他の起源集団も機能します。これは、以前に報告された混合兆候の在来起源の可能性を提供します。本論文のデータセットにおける他のシナ・チベット語族集団間では、ナシ人と中国南西部のイ人(Yi)は、本論文の解像度では黄河地域中期石器時代集団と区別できませんが、雲南省のラフ(Lahu)人と湖南省や湖北省のトゥチャ人(Tujia)や漢人は、中国南部およびアジア南東部集団と関連する遺伝子プールからの影響を示します。本論文の結果は、上述の言語学的および考古学的仮説適合的ですが、他のモデルも本論文の遺伝的データの解決にわずかに機能します。

●西遼河地域の遺伝子と生計の相関する変化

 西遼河地域は黄河地域とアムール川地域の間に位置し、頻繁な経時的遺伝的変化を示します。中期新石器時代の西遼河地域個体群は、主成分分析ではアムール川地域クラスタと黄河地域クラスタとの間に位置します。西遼河地域中期新石器時代となる紅山文化の3人(WLR_MN)は黄河地域クラスタにより近く、その近くの遺跡の1個体(HMMH_MN)はアムール川地域クラスタのより近くに位置します。f4統計では、この両集団は前期新石器時代個体群で表されるアムール川地域集団と中期新石器時代個体群で表される黄河地域集団の中間と確証されます。

 WLR_MNとHMMH_MNの両集団をアムール川地域集団と黄河地域集団の混合としてモデル化すると、アムール川地域集団の寄与はHMMH_MNで75.1±8.9%、WLR_MNで39.8±5.7%となります。同時代となる内モンゴル自治区の廟子溝遺跡の中期新石器時代個体群を考慮に入れると、中期石器時代の600kmの範囲内では、中原からの距離に比例して、おもに黄河地域集団関連構成からアムール川地域集団関連構成への急激な移行が観察されます。言語学的には、西遼河流域はトランスユーラシア諸語の起源と関連づけられてきており、アムール川地域集団と黄河地域集団の間の混合は、青銅器時代以降ますます強くなる、トランスユーラシア諸語下位集団と中国語下位集団との間の借用語の相関を見つけるかもしれません。

 中期石器時代西遼河地域のこの遺伝的不均質性に加えて、西遼河地域内の経時的比較も、遺伝的変化の興味深いパターンを示します。まず、夏家店下層文化関連の後期新石器時代個体群のゲノムは、主成分分析では古代黄河地域クラスタと重なり、西遼河地域中期石器時代個体群と比較して、シベリア集団との類似性は低くなっています。QpAdmモデリングでは、主要な黄河地域集団の寄与は、第二のソースとして、アムール川地域前期新石器時代集団を用いると88%、西遼河地域中期石器時代集団を用いると74%と推定され、中期新石器時代と後期新石器時代の間で、黄河地域関連集団からのかなりの北方への流入が示唆されます。

 興味深いことに、夏家店上層文化と関連する青銅器時代西遼河地域個体群は、再度遺伝的変化を示しますが、それは中期新石器時代から後期新石器時代の変化とは反対で、そのうち1個体(WLR_BA_o)は古代アムール川地域集団と区別できなくなります。WLR_BA_oはアムール川地域前期新石器時代集団と比較して、後の鉄器時代アムール川地域個体群および現代の複数のツングース語族集団と遺伝的類似性が高くなっています。WLR_BA_oは、アムール川地域集団関連遺伝子プールから西遼河地域集団への比較的近い過去の移動を表しているかもしれません。じっさい、西遼河地域青銅器時代の残りの2人は、西遼河地域後期新石器時代集団とWLR_BA_o(21±7%)の混合としてモデル化されます。以前の考古学的研究では、夏家店下層文化から夏家店上層文化への移行は、雑穀農耕により適さない乾燥した環境への気候変化と関連づけられ、西遼河地域内での南方への移動につながった、と示唆されていました。本論文の結果は、この過程の他の側面を強調します。それは、気候変化が牧畜経済をより有利として、すでに牧畜を営んでいた人々の流入につながったかもしれない、という可能性です。以下、中国北部における各地域個体群の遺伝的構成の変化を示した本論文の図2です。
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●まとめ

 本論文は、中国北部の全てではないにしても主要な遺跡のヒト遺骸の古代ゲノムの大規模な調査結果を提示します。とくに、黄河流域の仰韶文化や西遼河地域の紅山文化といった中国北部最初期の複雑な社会に生きた人々の最初のゲノムデータという点で、注目されます。これらの地域でゲノムデータの時系列を示すことにより、各地域の経時的な遺伝的変化が検出され、外部の遺伝的起源や社会経済的および環境的変化と関連づけることができました。

 限定的な食料生産を行なっていたアムール川地域集団の遺伝的構成の長期の安定性と対照的に、黄河地域と西遼河地域という複雑な雑穀農耕社会の二つの中心地では、過去6000年の頻繁な遺伝的変化が観察されます。西遼河地域の遺伝的構成は時間の経過に伴い、生計戦略の変化と密接に関連して変化します。より具体的には、中期新石器時代から後期新石器時代の間の雑穀農耕への依存の増加が、後期新石器時代西遼河地域集団におけるより高い黄河地域集団との遺伝的類似性と関連している一方で、青銅器時代の夏家店上層文化における牧畜への部分的移行は、黄河地域集団との類似性の低下と関連しています。また中期新石器時代には、西遼河地域で黄河地域集団関連遺伝的構成からアムール川地域集団関連遺伝的構成への地理的に急激な移行が観察されます。そうした空間的な遺伝的不均質性は、青銅器時代と鉄器時代の西遼河地域で持続したかもしれませんが、本論文のデータはそのように仮説を検証するのに充分ではありません。

 黄河地域における中期新石器時代から後期新石器時代への遺伝的変化もまた、中原における稲作農耕の強化と関連しており、人々の拡散による生計戦略変化の別の事例を提供するかもしれません。本論文のデータセットには、中原に稲作農耕をもたらしたかもしれない集団、とくに山東省と長江下流地域の新石器時代の人々の古代ゲノムが欠けています。中国全域の将来の研究、とくに最初の農耕民のゲノムが、本論文で報告されたゲノムの代表性の検証、精細な遺伝的・考古学的・地理的規模で検出された遺伝的変化の理解、考古学的文化と言語と遺伝子の間の進化的相関の検証に重要となるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。上述のように、本論文のデータセットには、中原に稲作農耕をもたらしたかもしれない、山東省と長江下流地域の新石器時代集団のゲノムが欠けています。最近公表された研究では、山東省と福建省の新石器時代個体群のゲノムデータが報告されています(関連記事)。しかし、稲作農耕の起源地と考えられる長江流域の新石器時代個体群のゲノムデータはまだ公表されていません。今後の課題はそこですが、アジア東部集団のさらに詳細な起源の解明には、旧石器時代個体群のゲノムデータが必要となるでしょう。

 山東省と福建省の新石器時代個体群のゲノムデータを報告した研究でも、アジア東部現代人が中国南北のさまざまな混合により形成された、と指摘されていますが、その主要な混合は新石器時代後に起きただろう、と推測されています。一方、本論文では、中国南部から中国北部への遺伝子流動が新石器時代に起きた、と推測されています。あるいは、新石器時代のこの遺伝子流動は現代人の遺伝的構成には大きな影響を与えていないのかもしれませんが、この問題の解明には、さらに地域と時代を拡大した古代ゲノム研究が必要となるでしょう。

 最近公表された別の研究(関連記事 )でも、漢人が中国南北の新石器時代集団に由来する集団間の混合で形成されていった、と指摘されています。アジア東部の古代ゲノム研究は、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたのですが、最近になって相次いで大規模で重要な研究が報告されており、今後の研究の進展が楽しみです。現時点では、新石器時代の中国には、アジア東部現代人により近い遺伝的構成の集団が北部に、オーストロネシア語族現代人集団と密接な遺伝的構成の集団が南部に存在した、と考えられます。これらの集団がどのように形成されたのか、また現代人集団はこれら祖型集団からどのように形成されていったのか、今後はより詳細に解明されていくでしょう。

 また、魏晋南北朝時代や唐代後期から五代十国時代やモンゴル帝国の拡大期などで、中国北部住民の遺伝的構成がどのように変わっていったのか、あるいはどの程度継続性があるのか、という問題も注目されます。現時点の解像度では、この期間の違いは検出されにくいかもしれませんが、今後の研究の進展で、より詳細に解明されていくのではないか、と期待されます。アジア東部における現代人集団その形成過程はかなり複雑と予想され、理解は困難でしょうが、すこしでも追いついていきたいものです。その形成過程はかなり複雑と予想され、理解は困難でしょうが、すこしでも追いついていきたいものです。


参考文献:
Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2

中石器時代から鉄器時代のフランスの人口史

 中石器時代から鉄器時代のフランスの人口史に関する研究(Brunel et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。過去1万年、ユーラシア西部集団は2回の大きな文化的変化を経てきました。最初は、新石器時代における狩猟採集生活様式から食料生産に基づき生活様式への移行です。その次が、紀元前三千年紀と紀元前二千年紀における冶金術の発展と改善で、青銅器時代となり、次に鉄器時代へと発展しました。古代ゲノムは過去の集団を特徴づけるのに役立ってきました。通時的連続は、ヨーロッパと定義された地域の時間的なゲノム規模動態を調査してきており、これらの文化的変化が、ユーラシア西部集団の遺伝的構成を深く変えた人口統計学的変化の結果だった、と明らかにしました(関連記事)。

 現在のフランスでは、これらの移行の基礎となる人口統計学的過程は、地域全体の規模ではまだ調査されていません。部分的なミトコンドリア配列情報もしくは部分的なY染色体配列に基づいて、個々の考古学的遺跡に限定された一握りの研究が行なわれてきただけです。その地理的位置により、フランスはヨーロッパ西部の集団移住の理解に戦略上重要な位置を占めます。北部の新石器時代線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)と、南部のインプレッサ・カルディウム複合(the Impressa and Cardial complexes、略してICC)という新石器化のヨーロッパ中央部および地中海の両方の傾向は、フランスで確立ましたが、その相互作用の程度は未解決のままです。さらに、青銅器時代と鉄器時代の始まりにおける、ヨーロッパ全域の冶金術の発展と拡大のランスにおける遺伝子プールへの影響は、まだ不明です。

 本論文は、農耕開始前の中石器時代から鉄器時代までの7000年にわたる人口統計学的動態を調査するため、54ヶ所の異なる考古学的遺跡から標本抽出された243人を遺伝的に分析し、完全なミトコンドリアゲノムと、Y染色体を含む核の一塩基多型データを提示します。分析された243人のうち、40人で直接的な放射性炭素年代測定結果が得られました。また、223人で完全なミトコンドリアゲノムが得られ、62人の男性でY染色体ハプログループ(YHg)が決定されました。これらヨーロッパ西部のデータは、これまで欠けていた地理的間隙を埋め、ヨーロッパにおける過去の人口動態のより全体的な視野を可能とします。


●フランスの中石器時代の基層

 フランスのシャラント(Charente)県アグリス(Agris)のレペラッツ(Les Perrats)遺跡の中石器時代5人のゲノムデータが生成されました。放射性炭素年代測定法による較正年代は紀元前7177~紀元前7057年で、この中には低網羅率のショットガン配列の3人が含まれます。この5人は全員ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)がU5bで、以前の研究で示されているように、mtHg-U5bは中石器時代のフランスでは主流で(85%)、U5a(15%)が続きます。

 フランスで発見された中石器時代狩猟採集民は、ゲノム規模の主成分分析では端に近く、ヨーロッパ西部中石器時代個体群の近くに位置します。14000年前頃となるイタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡個体の系統が、ヨーロッパ西部および中央部全域で完新世狩猟採集民において支配的である一方で、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された 19000年前頃の個体(Goyet Q-2)に表されるマグダレニアン(Magdalenian)関連系統が、イベリア半島では完新世まで続いていた、と報告されています(関連記事)。

 イベリア半島の狩猟採集民ではこの両系統が見られますが、他のほとんどの地域ではヴィラブルナ関連系統のみが存在します。フランスの狩猟採集民におけるこの後期更新世2系統の割合を調べるためqpAdmが用いられ、レペラッツ遺跡の狩猟採集民は、スペインの中石器時代のラブラナ(La Braña)もしくはカネス1(Canes1)遺跡の個体群と比較して、相対的に高いマグダレニアン関連系統(31.3~45.6%)を有しており、イベリア半島外の狩猟採集民におけるマグダレニアン関連系統が示唆されます。最近公表された研究でも、フランスで発見された新石器時代個体群のゲノムでマグダレニアン(ゴイエットQ2)関連系統が確認されています(関連記事)。


●フランス新石器時代における移住と混合の継続的な波

 新石器時代開始時のアナトリア半島新石器時代系統の到来は、単系統遺伝(父系と母系)でもゲノム規模でも明確です。紀元前5300年前頃に始まるフランスの新石器時代農耕民の母系は狩猟採集民よりも多様で、時間の経過に伴い頻度が変動します。前期および中期新石器時代個体群は、ヨーロッパ南部と遺伝的類似性をより多く共有しており、その遺伝的多様性は同時代のヨーロッパ集団に含まれます。LBK関連個体群のうち3人は、他のヨーロッパ中央部前期新石器時代(EN)個体群と遺伝的にクラスタ化し、LBK関連の他の早期農耕民と遺伝的浮動を共有します。フランス北東部の7100年前頃となるMor6個体は、LBK関連個体群として例外的に、イベリア半島EN個体群の遺伝的多様性の範囲内に収まり、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の共有されたアレル(対立遺伝子)の最高の割合を有します。qpAdmでその起源を検証すると、アナトリア半島新石器時代系統とゴイエットQ2の混合モデルが最適で、従来これはイベリア半島のEN個体群でのみ報告されてきた構成です。

 Mor6個体はゴイエットQ2系統の最北端の事例となります。これまで、ヨーロッパで新石器時代農耕民と混合したヨーロッパ西部の狩猟採集民集団におけるマグダレニアン(ゴイエットQ2)関連系統は、中石器時代狩猟採集民の遺伝的データの不足のため、明確ではありませんでした。イベリア半島におけるこの系統の観察は、ICCをLBK新石器時代移民と区別する特徴として解釈されてきました。ゴイエットQ2系統が、9100年前頃となるフランス西部のレペラッツ遺跡や、フランス中央部東方の15500年前頃となるRigney1(リニー1)遺跡や、ドイツ南西部の15000年前頃となるホーレフェルス(Hohlefels)および14600年前頃となるブルクハルツヘーレ(Burkhardtshöhle)という洞窟遺跡で発見された狩猟採集民で、ヴィラブルナ系統と一緒に見つかったという観察は、むしろこの混合がヨーロッパ西部の狩猟採集民の特徴であることを示唆します。本論文のデータセットで唯一の男性中石器時代個体のYHgがIである一方、フランスのLBK個体群のYHgは相対的に多様で、C1a2・G2a・H2に区分されます。

 フランス東部では、中期新石器時代への移行は、紀元前4700~紀元前4500年頃となるドナウ川圏のグロスガルタハ(Grossgartach)文化の個体群に代表されます。グロスガルタハ文化個体群は、mtHg頻度とゲノム規模両方の主成分分析では、同時代のヨーロッパ中央部個体群と近く、ドナウ川圏内の遺伝的均一性が示唆されます。フランス北部の中期新石器時代個体(BUCH2)は、アナトリア半島新石器時代系統とともに狩猟採集民系統を有しており、この狩猟採集民系統はゴイエットQ2系統とヴィラブルナ系統との混合です。ここでも改めて、ゴイエットQ2系統が新石器時代ではヨーロッパ南西部に固有ではない、と確認されます。

 しかし、LBK個体群からWHGへの微妙な変化が観察され、WHGとの共有アレルの増加が反映されています。これは、ヨーロッパ全域における他の古代集団からの観察を反映しており、割合はより高くなっています。この現象はフランスではひじょうに早く出現するようで、新石器時代でも時代が進むと、さらにWHG関連系統が強くなります。mtHgでも、中期新石器時代以降の農耕民で、中石器時代狩猟採集民に特有の系統がさまざまな頻度で見られるようになり、たとえばU5bです。フランス北東部のシャンパーニュ地域で支配的なこれらのmtHgは、在来の狩猟採集民と拡散してきた農耕民との混合のさまざまな割合を示唆します。紀元前4500年頃以降となる中期新石器時代の後半になると、フランス北部および南部の個体群は、主成分分析ではほとんど区別されません。イベリア半島とは異なり、フランスの古代集団における新石器時代系統の起源となった移民は、明確には確定できませんでした。qpAdmを用いると、フランスの中期新石器時代後半の個体群における狩猟採集民系統の起源は、フランス南部の個体群のみ、ゴイエットQ2的系統のさまざまな水準を有しており、異なる狩猟採集民集団との混合が示唆されます。


●フランスの鐘状ビーカー複合期

 新石器時代末に、鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex、略してBBC)が出現し、ヨーロッパ中に広がりました。BBCは地理的分布が広範で、在来の後期新石器時代および銅器時代文化と共存しているという点で、独特です。本論文はBBC関連の2人(CBV95およびPEI2)を報告しています。フランスのBBC関連個体群は、ユーラシア草原地帯系統のさまざまな割合を示します。フランス北部のCBV95は、本論文のデータセットでは草原地帯系統のヤムナヤ(Yamnaya)系統の割合が最高となり、YHg-R1b1a1bで、紀元前2500年頃のフランスにおいてYHg-R1bの存在の最初の明確な証拠となります。YHg-R1bは後期新石器時代のヨーロッパ中央部における草原地帯からの移民の到来と関連づけられており、ヨーロッパの他地域とフランス南部のBBC関連個体群で報告されていますが、青銅器時代前のイベリア半島ではほぼ見られません。

 BBC人工物を伴うフランス南西部のカルカソンヌ(Carcassonne)近くの埋葬遺跡で発見された男性個体PEI2は、主成分分析では新石器時代個体群の遺伝的多様性の範囲内に収まります。しかし、アナトリア半島新石器時代とヴィラブルナとヤムナヤ・サマラ(Yamnaya_Samara)の3集団をソースとした混合比率のモデル化では、PEI2で28.3%の草原地帯系統が検出されます。これらの観察は以前の知見と一致し、草原地帯系統が後に出現し、ヨーロッパ南西部ではヨーロッパの他地域よりも低い影響を及ぼした、と確証します。CBV95でもPEI2でも、混合モデルではヴィラブルナ系統は含まれず、既知の後期新石器時代個体群とは異なります。


●青銅器時代と鉄器時代の相対的な連続性

 フランスの青銅器時代の個体群は、低頻度ながら新たなmtHgであるU2・U4・Iを示します。ヨーロッパ東部集団と後期新石器時代ヨーロッパ中央部集団で最初に報告されたこれらのmtHgは、青銅器時代の始まりにおけるポントス草原地帯牧畜民の母系に由来する集団との遺伝子流動を示唆します。BBC関連個体CBV95における早期出現で示されているように、青銅器時代にはYHgの劇的な置換が起き、本論文の標本でも、YHg-R1bが既存の新石器時代系統の多様性を置換しました。青銅器時代では13人のうち11人、鉄器時代では10人のうち7人がYHg-R1bです。

 青銅器時代と鉄器時代のフランスの個体群は、主成分分析では共通の位置を占め、現代のヨーロッパ中央部個体群の方へと移動し、青銅器時代のブリテン島およびヨーロッパ中央部の遺伝的多様性の範囲内に収まり、草原地帯構成は均質化します。ヨーロッパ中央部とは対照的に、鉄器時代にはユーラシア東部の遺伝子型へのさらなる移動は見られません。代わりに、青銅器時代個体群間で不均一に分布していた草原地帯構成(30~70%)は均一になっていき、フランスのハルシュタット(Hallstatt)文化およびラ・テーヌ(La Tène)文化の個体群は、現代人および古代人の両方へと似た類似性を示します。

 これは、フランスにおける青銅器時代から鉄器時代への移行が、おもに文化拡散に起因しており、外部集団からの大きな遺伝子流動がなかったことを示唆します。この知見は、鉄器時代後半のケルト人がすでにヨーロッパ西部で確立されていた集団の子孫で、BBCの境界内にいた、という考古学的および言語学的仮説と一致します。しかし、青銅器時代までのヨーロッパ集団間の相対的な遺伝的均質性のため、ヨーロッパの異なる地域間のその後の移住は、これまでの水準の網羅率では容易に気づかれないかもしれない、と本論文は注意を喚起します。以下は、系統構成の経時的変化を示した本論文の図1です。
画像

●表現型関連の遺伝標識の分析

 変化する生活様式と環境への遺伝的適応の進化的年表を調べるため、身体および生理学的特性と関連する、73人の常染色体遺伝子座が分析されました。まず、目や肌の色(色素沈着)と関連する遺伝的多様体(SLC24A5・SLC45A2・GRM5・HERC2・IRF4・TYR)が調べられました。中石器時代狩猟採集民とアナトリア半島新石器時代農耕民は、色素沈着アレルで異なっており、後者は現代ヨーロッパでほぼ固定されている明るい肌と関連する派生的アレルを有していますが、前者はむしろ濃い色の肌と明るい色の目を有します。中石器時代個体群は、SLC45A2とGRM5遺伝子座で祖先的な色素沈着多様体を有しており、より濃い色の肌と関連しています。対照的に、フランスの新石器時代集団ではこれら2遺伝子座の派生的アレルが顕著に高くなっていますが(SLC45A2で24.9%、GRM5で38.4%)、現代ヨーロッパにおけるこれらのアレルの頻度(SLC45A2で93.8%、GRM5で68.9%)よりはずっと低くなっています。SLC24A5は明るい肌の色と関連している主要な変異で、本論文で分析された新石器時代集団の96%で見られ、現代ヨーロッパにおける99%に近くなっています。

 これらの結果は、フランスにおけるそれらの変異の異なる進化的年表を示唆し、明るい肌の色という類似した表現型は、いくつかの選択事象の結果である可能性が高そうですが、こうした特製の遺伝的決定はより複雑で、これら3遺伝子座だけではコードされていない可能性が高いでしょう。目の色に関連する多様体(HERC2とIRF4)を有する中石器時代個体は、青い目と関連するアレルを有しています。新石器時代には、これら2多様体の頻度はそれぞれ29.6%と24.4%に達しました。興味深いことに、これら2多様体は新石器時代後の軌跡が異なるようです。HERC2の頻度は青銅器時代に37.5%から上昇して現代ヨーロッパで最終的に63%以上に達しましたが、IRF4は青銅器時代の23.81%から現代の11%に低下しました。遺伝型の特定された新石器時代個体群は誰も現代ヨーロッパ人の乳糖耐性関連変異を有しておらず、この変異のもっと後の起源と一致します。

 現代ヨーロッパ人集団における最近の正の選択の痕跡を示す、いくつかの自然免疫関連多様体も分析されました。多くの免疫応答関連遺伝子(NOS2A・TOLLIP・CCL18・STAT6・IL3)に関して、現代ヨーロッパ人と派生的アレルの頻度が比較されました。その結果、これらの遺伝子座の選択が新石器時代に先行する一方で、TLR1–6–10遺伝子座(自然免疫応答関連のToll様受容体ファミリー)の多様体の頻度は、フランス新石器時代集団では現代ヨーロッパ人よりもずっと低い、と示唆されました。TLR1–6–10遺伝子クラスタは、ハンセン病か胚結核か他の結核への耐性と関連している可能性があります。本論文のデータは、農耕と家畜への接近の開始がこの遺伝子座への選択圧とはならなかった、と示唆します。同様に、SH2B3もしくはSLC22A4におけるセリアック病と関連する多様体は、さまざまな環境毒素の炎症と除去に果たす役割に起因する正の選択の標的だった可能性がありますが、フランス新石器時代集団では現代人集団の頻度には達していません。


●まとめ

 古代ゲノム研究によるフランスの7000年の人口史は、現代ヨーロッパ集団で依然として痕跡の見られる、多くは大きな文化変化と混合事象を伴う、連続的な移動事象を明らかにします。フランス西部の中石器時代個体群のゲノムデータは、ゴイエットQ2に表される上部旧石器時代のマグダレニアン関連系統の遅い存続が、イベリア半島に限定されていなかった、と示します。この知見は、マグダレニアン関連系統が見られる地域を拡大し、この混合がどこで起きたのか、という問題を提起します。ヨーロッパ西部からのより多くの個体が、マグダレニアン関連系統の歴史をよりよく特徴づける研究に必要です。

 フランス北部の新石器時代人がアナトリア半島の早期農耕民の子孫で、したがって在来の狩猟採集民とは異なる集団を形成した一方で、その後の狩猟採集民との混合が検出され、農耕共同体との漸進的な統合が支持されます。狩猟採集民との混合の過程は、広範ではあるものの、地域的な変性と起源を示します。しかし、フランス南部の利用可能なデータは乏しく、LBKとICCの間の接触が起きたのかどうか結論づけることも、それに続く新石器時代文化に存在するかもしれない遺産を識別することもできません。他のフランス北部および南部の他地域のゲノムデータが、中期および後期新石器時代の異なる文化集団の起源と関係に関する仮説を確証するのに必要です。

 常染色体遺伝子座の研究は、フランスの新石器時代の人々と現代ヨーロッパ人との間の違いを明らかにしました。派生的アレル頻度は、高緯度と食性変化への適応と一致する、色素沈着と食性と免疫に関連する遺伝子座への選択を示唆します。また、フランスの中石器時代狩猟採集民も新石器時代農耕民も乳糖耐性アレルを有しておらず、青銅器時代末までにのみこのアレルの存在を報告した、より東方の新石器時代集団に関する研究と一致します。

 本論文の重要な結果は、フランスにおける青銅器時代と鉄器時代の個体群間の遺伝的継続性ですが、鉄器時代の個体群間では異質性がより低下しています。そのような状況では、ヨーロッパのある地域から他地域へけいの移動の追跡はより困難になるので、より深い時空間的分析が必要です。

 最近、中石器時代と新石器時代のフランス全域を対象とした古代ゲノム研究が公表されましたが(関連記事)、本論文はそれよりもさらに対象とする時代を拡大しています。本論文の見解は、じゅうらいの研究と大枠では一致していますが、最近公表された研究と同様に、イベリア半島外での新石器時代におけるマグダレニアン(ゴイエットQ2)関連系統の存在を報告するなど、新たな知見を提示しています。ユーラシア西部、とくにヨーロッパの古代DNA研究はユーラシア東部よりもずっと進んでいますが、より詳細なヨーロッパ人口史の解明には、さらに古代ゲノムデータが必要となります。本論文では、フランスにおける青銅器時代と鉄器時代の集団間の相対的な遺伝的連続性が示されていますが、本論文で指摘されているように、より高解像度の研究が提示されれば、ある程度大きな遺伝的変化が見えてくるかもしれません。日本人の私としては、ユーラシア東部、とくにアジア東部とヨーロッパとの古代DNA研究の差が今後少しでも縮まっていくよう、期待しています。


参考文献:
Brunel S. et al.(2020): Ancient genomes from present-day France unveil 7,000 years of its demographic history. PNAS, 117, 23, 12791–12798.
https://doi.org/10.1073/pnas.1918034117

フランスとドイツの中石器時代と新石器時代の人類のゲノムデータ

 フランスとドイツの中石器時代と新石器時代の人類のゲノムデータに関する研究(Rivollat et al., 2020)が公表されました。採集から農耕への変化となる新石器時代への移行は、人類史における最重要事象の一つです。ユーラシア西部では、新石器時代の生活様式は、紀元前七千年紀から続く、レヴァント北部からのアナトリア半島経由の可能性が高い西方への拡大として示されてきました。二つの主要な考古学的によく定義された流れに沿って、農耕は拡大しました。一方はドナウ川沿いでのヨーロッパ中央部への拡大で、もう一方は地中海沿岸でのイベリア半島への拡大です。

 最近の大規模なゲノム研究では、農耕拡大は人々の拡散を通じての拡大によるものだったと示されますが、地域単位での研究では、拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の混合が複雑で地域的だった、と示唆されます。大陸経路はヨーロッパ南東部から中央部で比較的よく考古学的記録が見つかっており、とくに新石器時代線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)において、ひじょうに限定的な最初の生物学的相互作用を伴う急速な拡大が示されています。その後、千年紀以上にわたって、拡散してきた農耕民は在来の狩猟採集民と共存し、文化的交換を続けた証拠があります。ヨーロッパ南東部における新石器時代の拡大は地中海沿岸経路と関連しており、拡散してきた農耕民の最初の定住後の、少なくとも千年紀の狩猟採集民との増加する混合パターンが、イベリア半島で観察されます(関連記事)。これらの研究から浮かび上がってくる全体像は、ヨーロッパ全地域において、最初の拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の混合はほとんどなく、新石器時代が進むにつれて狩猟採集民系統が増加していった、というものです。新石器時代でも後期段階で検出された狩猟採集民要素は、カルパチア盆地とイベリア半島に地域的起源がある、と示されてきました。

 考古学的観点から、後期狩猟採集民と早期農耕民との間の相互作用のさまざまな様式を定義して示すことは容易ではなく、明確で正確な時空間的枠組みを生成するには、高解像度データと正確な分析手法が必要です。大陸経路に沿って、中石器時代集団と新石器時代集団との接触の証拠が西方に向かって増加します。全体として、最後の狩猟採集民の石器群は技術的および様式的に、初期農耕民の石器群にむしろ類似しています。狩猟採集民との接触兆候は、中石器時代後期の石刃と台形石器の範囲における、地域的伝統を有するほぼ細石器タイプです。移住農耕民と狩猟採集民の間の接触の考古学的兆候は、ドイツ南西部において、ヘッセン州の最初のLBK遺跡群だけからではなく、ファイインゲン(Vaihingen)からも報告されてきました。フランス北西部のラオゲット(La Hoguette)やドイツ西部のリンブルク(Limburg)の土器のような農耕民および狩猟採集民と土器を有する集団の間の共存は、LBK集落内で記録されています。集落内での共存の証拠はもはや観察できませんが、特定の狩猟採集民装飾品がヨーロッパ西部中央の埋葬地で観察されてきており、中期新石器時代を通じてこれらの異なる集団の共存伝統が継続したことを示唆します。

 地中海西部経路では、主な不確実性は、イタリアにおけるインプレッサ・カルディウム複合(Impresso-Cardial complex、略してICC)の拡散の起源です。後期の狩猟採集民集落はイタリア半島北東部に集中していますが、最初期の農耕民は南部に出現し、地理的にはほとんど重なりません。対照的に、最後の狩猟採集民と最初の農耕民の間の不連続性は、フランス南部ではもっと顕著です。これは、最後の狩猟採集民の石刃と台形石器のインダストリーと、最初の農耕民の道具一式の顕著な様式の違いに基づいています。これらの不一致は、文化的・人口的変化を合理的に主張します。しかし、フランス南部もしくはイベリア半島における中石器時代から新石器時代への遷移を提供する層序系列はわずかで、ほとんどの場合、明確な層序の間隙が記録されており、推定される地域的相互作用と一致させるのは困難です。新石器時代系列における連続的な石器群、もしくは稀な石器時代の再発は、地中海沿岸の最初の農耕民の植民後、少なくとも3世紀にわたってアルプス南部のみで見られます。

 ヨーロッパ北西部では、新石器時代の生活様式の到来はもっと複雑です。考古学的研究では、中石器時代から新石器時代への相互作用と交換の様相はひじょうに違いがあり、地域的な多様性が見られます。紀元前5850年以降となるICC開拓者集団によるフランス南東部の植民と、紀元前5300年頃までとなるフランス北東部の最初期農耕民集団による植民との間には、もっと顕著な年代的間隙さえあります。大西洋沿岸へと至るヨーロッパ西部の新石器時代農耕民集団拡大の二つの主要な流れの経路と、在来の中石器時代社会との相互作用の程度は両方、次の世紀の地域全体の物質文化で見られる多様性のモザイク状パターンを生み出しました。このパターンは文化水準でよく説明されてきましたが、とくに現在のフランスでは、現在まで利用可能なゲノムデータはありません。パリ盆地の農耕民のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究は、狩猟採集民に特徴的なmtDNAハプログループ(mtHg)、とくにU5の割合が、ヨーロッパ中央部および南部よりも高いことを強調し、さまざまな過程の作用を示唆します。

 本論文の目的は、現在のフランスおよびドイツを主要な対象として、新石器時代最初期段階の人類集団間の文化的および生物学的相互作用の複雑さと変異性を解明することです。本論文の対象研究地域は、ヨーロッパ中央部(ドナウ川経路)の初期農耕共同体と、フランス南部(地中海沿岸経路)の初期農耕共同体との収束、および在来の後期狩猟採集民とのさまざまな形の相互作用を包含するのに適しています。


●主成分分析

 本論文は、現在のフランスとドイツの12遺跡で発見された101人のゲノム規模データを新たに報告します。年代は紀元前7000~紀元前3000年頃で、中期石器時代が3人、新石器時代が98人です。約120万ヶ所の一塩基多型データ(平均網羅率0.6倍)と、mtDNAデータ(平均網羅率249倍)が得られました。一親等の関係は下流分析では除外されています。これらの新たなデータが、既知の古代人(629人)および現代人(2583人)と比較されました。また、古代人30個体の新たな放射性炭素年代測定結果も得られました。

 中期石器時代個体で新たに報告された、ドイツのバート・デュレンベルク(Bad Dürrenberg)の1個体(BDB001)とボッテンドルフ(Bottendorf)の2個体(BOT004およびBOT005)は、主成分分析ではヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の範囲内に収まります。後期新石器時代となる漏斗状ビーカー文化(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker Culture、略してTRB)関連のエルベハーフェル(Elb-Havel)のタンガーミュンデ(Tangermünde)遺跡の1個体(TGM009)は、WHGと新石器時代農耕民の間の中間に位置します。新たに配列された新石器時代個体群は、既知の地域的な2亜集団とクラスタ化します。一方は、ヨーロッパ中央部および南東部の新石器時代個体群で、もう一方は、PC1軸でわずかにWHGに寄っているヨーロッパ西部(イベリア半島とフランスとブリテン諸島)の新石器時代個体群です。4集団を対象としたf統計(単一の多型を対象に、複数集団で検証する解析手法)では、これらの観察はヨーロッパの狩猟採集民との類似性のさまざまな程度に由来する、と確認されます。ドイツのシュトゥットガルト・ミュールハウゼン(Stuttgart-Mühlhausen、略してSMH)とシュヴェツィンゲン(Schwetzingen、略してSCH)とハルバールシュタットHalberstadt(Schwetzingen、略してSCH)の前期新石器時代個体群(既知の44人と新たな42人)はLBKと関連し、ヨーロッパ中央部の早期農耕民集団の均一な遺伝的集団を形成します。

 フランスの新石器時代集団は、ヨーロッパ西部新石器時代個体群とクラスタ化しますが、ICCとなるフランス南部のペンディモン(Pendimoun、略してPEN)遺跡とレスブレギエーレス(Les Bréguières、略してLBR)遺跡の個体群は、さらにWHGへと寄っています。これは、他のあらゆる早期新石器時代個体群よりも高い狩猟採集民構成と、同時代のイベリア半島の西部早期農耕民集団と比較しての、混合の異なる歴史を示唆しています。PENおよびLBRの両遺跡については、狩猟採集民系統が少ないAと多いBという亜集団に区分されます。フランス南部の新石器時代個体群は、ヨーロッパ南東部および中央部農耕民の亜集団の範囲内に収まるアドリア海地域のICC関連個体群とは集団化しません。ヨーロッパ中央部および西部の両集団は依然として紀元前五千年紀と紀元前四千年紀に存在しており、ライン川沿いの地理的境界が示唆されます。フランス北部の中期新石器時代では、ギュルジー(Gurgy、略してGRG)遺跡とプリッセ・ラ・シャリエール(Prissé-la-Charrière、略してPRI)遺跡とフルーリー・シュル・オルヌ(Fleury-sur-Orne、略してFLR)遺跡の個体群が均質なように見える一方で、オベルネ(Obernai、略してOBN)遺跡の個体群は3集団を形成します。第1は同時代のヨーロッパ西部個体群と近く(OBN A)、第2はより強い狩猟採集民構成を有し(OBN B)、第3はヨーロッパ中央部農耕民と近くなっていますが(OBN C)、これら3集団は類似した文化的および年代的背景を共有しています。


●ヨーロッパ農耕民集団における一般的狩猟採集民系統の定量化

 qpAdmを用いて、直接的な放射性炭素年代の得られている新規および既知の新石器時代個体群の、経時的なヨーロッパ狩猟採集民系統の割合が推定されました(モデルA)。ヨーロッパ中央部および南部の各地域における農耕の最初期には、無視できる程度の狩猟採集民系統を有する顕著に類似したパターンが観察され、狩猟採集民系統は農耕確立の数世紀後に次第に増加していきました。追跡可能な狩猟採集民系統を有さない最後の個体群は、紀元前3800~紀元前3700年頃に消滅します。ヨーロッパ南東部は、セルビアの鉄門(Iron Gates)地域と関連する個体群で特定のパターンを示し、ブリテン諸島は新石器時代の到来時期における突然で一定した狩猟採集民構成を示します。新たにゲノム規模データが報告されたライン川東方の西部LBK集団は、狩猟採集民系統がより高く変動的と報告されている、ブルガリアのマラク・プレスラヴェッツ(Malak Preslavets)遺跡のようなヨーロッパ南東部とは対照的な、エルベ・ザーレ川中流地域とハンガリーのトランスダニュービア(Transdanubia)からの推定を確証します。しかし、現在のフランスでは状況が異なり、ヨーロッパ他地域と比較して全体的に狩猟採集民系統の最高の割合が観察されるだけではなく、フランス南部のPENおよびLBR遺跡の最古の個体群にも狩猟採集民系統が見られます。この観察はまた、単系統遺伝標識でも支持されます。フランス南部地域の西部早期農耕民におけるY染色体ハプログループ(YHg)は、狩猟採集民に由来するI2aのみです。対照的に、mtDNAではもっと一般的な新石器時代の遺伝的多様性が見られ、以前に報告されたように狩猟採集民起源の可能性がある2系統のmtHgであるU5およびU8も見られます。

 ライン川のすぐ西に位置する中期新石器時代のOBN遺跡の2個体(OBN B亜集団)も、ライン川東方のLBK遺跡集団とは対照的に、狩猟採集民構成の高い割合を示します。追加の狩猟採集民系統の割合を定量化するため、ドイツのLBK関連集団がアナトリア半島新石器時代系統とヨーロッパ狩猟採集民系統の混合としてモデル化され、OBN亜集団がLBK関連集団とヨーロッパ狩猟採集民との混合としてモデル化されました。その結果、このモデルはよく支持され、OBN B亜集団において狩猟採集民系統の最大31.8%の過剰が得られました。ライン川東方のLBK関連集団における強い狩猟採集民系統の欠如を考慮すると、これは最初の農耕民の到来に続く数世紀の間の在来集団からの遺伝子流動と推定されます。さらに、OBNの男性個体群のYHgは在来狩猟採集民からもたらされたI2a1a2とC1a2bのみで、ライン川のすぐ西方の地域における狩猟採集民系統のより大きな割合のさらなる証拠を提供します。


●ヨーロッパ狩猟採集民の遺伝的構造

 アナトリア半島新石器時代農耕民系統を有するヨーロッパ初期農耕民の共有された最近の系統と、ヨーロッパ本土全域での急速な拡大により、考古学で提案されているような、ゲノム水準で異なる新石器時代における農耕民拡大の複数の経路を区別することは、困難になっています。既知のデータでは、ヨーロッパ東部から西部へと、狩猟採集民系統の増加が観察されますが、これは単純に農耕起源地からの地理的距離の結果かもしれません。そこで、さまざまな拡大経路の兆候を検証するため、ヨーロッパの狩猟採集民系統における次第に出現してくる地理的構造を利用しました。本論文では、氷期後のヨーロッパの狩猟採集民系統は、それぞれ混合勾配のある主要な3クラスタにより説明されます。それは、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された 19000年前頃の個体(Goyet Q-2)的な系統と、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体と関連するWHG系統と、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)系統です。さらに、これらクラスタ間の2つの勾配が観察できます。一方は、イベリア半島の狩猟採集民により形成される(関連記事)ゴイエットQ2とWHGとの間の勾配で、もう一方は、ヨーロッパ南東部やスカンジナビア半島やバルト海地域の狩猟採集民により形成されるEHGとWHGの間の勾配です。

 この観察に続いて、全ヨーロッパ狩猟採集民個体がf4統計で検証されました。全ヨーロッパ集団で負のf4値が得られ、WHGクラスタと共有される系統が示唆される一方で、正の値はEHGの方へと引きつけられます。qpAdmでは、WHG関連のヴィラブルナとEHGとゴイエットQ2の混合としてヨーロッパの狩猟採集民個体群がモデル化でき、その最適なサブクレードが確立されます(モデルB)。早期農耕民との混合の兆候を示す狩猟採集民のいくつかに適合する、アナトリア半島新石器時代系統が追加されます。本論文はそれぞれの結果で、最も節約的なモデルを選択しました。ヨーロッパ南東部とスカンジナビア半島の狩猟採集民を含むEHGとWHGの間の勾配の個体群は、EHG 系統のかなりの割合を有するので、WHG個体群とは区別できます。上述のドイツの中石器時代個体群(BDBおよびBOT)はWHGクラスタの一部を形成します。

 以下では、ヨーロッパの農耕到来時期において、EHGとWHGの間の広範な系統勾配が、新石器時代の農耕民拡大で提案されているドナウ川経路と重なる、ヨーロッパ中央部および南東部の主要な地域(現在のドイツ・ハンガリー・セルビア・ルーマニア・ウクライナ)を覆っている、という観察を活用します。その結果、ICC土器と関連した地中海沿岸経路の前期新石器時代農耕民と、とくにフランスとスペインに到来した前期新石器時代農耕民が、EHGとWHGの間の勾配のEHG側からの系統は少なく、代わりにヴィラブルナ関連WHGおよびゴイエットQ2関連系統の支配的な混合兆候を示す、という仮説が提示されます。


●農耕民集団における異なる狩猟採集民系統の追跡

 狩猟採集民個体群と同様に、全新石器時代集団でもf4統計が実施され、新石器時代集団の狩猟採集民の東西勾配との類似性が推定されました。新石器時代集団のf4値はほとんど負で、ヴィラブルナとの共有された系統が示唆されますが、ヨーロッパ南東部のいくつかの集団ではEHGの共有された系統が同程度になる、と示唆されます。qpAdmを用いて、ヨーロッパの全新石器時代集団を対象に上述のモデルBでこれらの起源が定量化されましたが、多くの早期新石器時代集団では狩猟採集民構成がひじょうに少なかったことに起因して遠方のソースを用いたことで、モデルBはEHG構成を確実には検出できませんでした。

 そこで、分析をより近くのソースに限定し、WHG系統の代表として、また地中海沿岸経路の代理として、ライン川西方となるルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡の中石器時代個体が選ばれました。遺伝的には狩猟採集民に見えるものの、農耕文化との関連で発見されたハンガリーのKO1個体が、大陸経路の狩猟採集民系統として選ばれました。f4統計では、正のf4値は、EHGとWHGの間の勾配の代理としてKO1と共有された系統を示唆します。次に、負の値は、ロシュブールに代表されるWHGクラスタと過剰な共有された系統を示唆します。この結果は、ライン川東方の農耕民集団がKO1と、ライン川西方の農耕民集団がロシュブールとのとより多く共有された系統を有する、という傾向を示します。

 注目すべき例外は、ドイツのハーゲンのブレッターヘーレ(Blätterhöhle)遺跡の中期新石器時代集団の個体群と、ボーランドの紀元前4700~紀元前4000年頃となるレンジェル文化(Lengyel Culture)のブジェシチ・クヤフスキ集団(Brześć Kujawski Group、略してBKG)のN22個体(関連記事)と、タンガーミュンデ遺跡の1個体(TGM009)で、その全個体はWHG関連個体群との強い類似性を示しますが、ライン川東方に位置します。qpAdmで新石器時代集団の狩猟採集民構成がモデル化され、それには提案されている農耕民集団の両拡大経路で遭遇したかもしれない狩猟採集民2ソースが含まれます(モデルC)。狩猟採集民2ソースが支持される場合に、qpAdmで最適のモデルが選択されます。

 多くの新石器時代集団では狩猟採集民系統の割合がひじょうに低いので(10%未満)、最終的なソースを確実に特徴づけることは依然として困難です。それにも関わらず、支持されるモデルからの混合パターンは、明確な地理的兆候を示します。ヨーロッパ中央部(現在のハンガリー・オーストリア・ドイツ)のLBKと関連した新石器時代集団は、低い狩猟採集民系統の割合を有し、おそらくはEHGとWHGの間の勾配の狩猟採集民個体群との混合に由来し、それは起源前6000~紀元前5400年頃となる新石器時代農耕民集団の拡大の先行段階に、ヨーロッパ南東部で起きました。ドイツのライン川東方の中石器時代個体(BDB001)も対象としたf4統計では、LBK集団への在来集団の影響は支持されませんが、それはライン川西方のロシュブールと同じパターンです。これは、近隣に存在した、ヨーロッパ中央部のBDB001のようなロシュブール的狩猟採集民からの追加の遺伝子流動が、最初の新石器時代集団ではごく僅かだったことを示唆します。

 しかし、紀元前4000~紀元前3500年頃となるドイツのザクセン=アンハルト州のバールベルゲ(Baalberge)集団は、LBK集団へのKO1およびロシュブール的系統の両方の組み合わせと比較して、そのような狩猟採集民系統の顕著な増加を示します。バールベルゲ集団における最大で21.3±1.5%に達するWHG系統の増加は、在来のロシュブール的系統、もしくは考古学的データで示唆されているように、紀元前五千年紀にこの兆候を有する西方からの農耕集団の拡大により起きた、と示されます。本論文で対象とされたライン川西方の全ての新石器時代集団では、在来のロシュブール的狩猟採集民起源のように見える最初の農耕民集団も含めて、より高い狩猟採集民系統を有する異なるパターンが観察され、考古学的データと一致します。


●ヨーロッパ中央部における狩猟採集民系統の後期の存続

 ドイツ中央部の新石器時代集団とは対照的に、ドイツ北東部のタンガーミュンデ遺跡の1個体(TGM009)は、狩猟採集民系統の異なるパターンを示します。遠方のソースでモデル化すると、TGM009は63.6±5.2%のヴィラブルナ関連系統を有します。近くのソースを用いると(モデルC)、狩猟採集民系統は48.1±6.4%のKO1関連系統と、25.8±6.1%のロシュブール的系統に区分されます。KO1を通じてTGM009で観察されたEHG関連兆候が、スカンジナビア半島中石器時代との地域的な後期の接触という考古学的記録で示唆されているように、スカンジナビア半島狩猟採集民に由来するのかどうか決定するため、f4統計が適用されました。f4値は顕著に負で、TGM009がスカンジナビア半島狩猟採集民よりもヨーロッパ南東部狩猟採集民の方と多く系統を共有する、と示唆されます。そのため、ハンガリーのKO1の代わりにスウェーデンのムータラ(Motala)を用いたqpAdmモデルは、適合度が低くなました。

 TGM009の特定の場合では、紀元前3200~紀元前2300年頃となる、「新石器時代狩猟採集民」とみなされる円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPWC)の個体群が、外群のモデルCセットの適切な同時代の近位ソースであるのか、検証されました。その結果、アナトリア半島新石器時代系統とロシュブール系統とKO1系統の3方向モデルが支持されます。しかし、ムータラ狩猟採集民を外群として追加すると、4方向モデルが最も支持されます。それは、アナトリア半島新石器時代系統21.7±2.4%、ロシュブール系統24.4±6.2%、スウェーデンPWC系統12.6±1.1%、KO1系統41.3±7.3%です。ヨーロッパ中部~東部の黄土地帯周辺におけるPWC集団の小さいながらも安定した寄与は、ヨーロッパ中央部における後期新石器時代集団と最後の狩猟採集民集団との間の相互作用の複雑さを追加します。


●狩猟採集民と初期農耕民との間の混合年代の推定

 DATESを用いて、早期農耕民と狩猟採集民との混合時期がさらに調べられました。主成分分析でも見られたように、両集団はライン川を挟んで東西のパターンを示します。このパターンは、狩猟採集民系統の割合だけではなく、その質的な痕跡にも依存しています。PENおよびLBR遺跡のフランス南部4集団の推定年代は、拡散してきた農耕民が、紀元前5850年頃の到来後比較的早く(100~300年のうち、紀元前5740~紀元前5450年頃)に在来の狩猟採集民と混合した、と示唆します。これらの推定年代は、初期農耕の確立に関する考古学的データとも一致しますが、混合がイタリア半島で起きた可能性も除外できません。

 フランスの他地域では、LBK後の集団はより古い混合年代を示し、狩猟採集民構成は強く、新石器時代初期段階におけるWHG関連系統狩猟採集民との混合事象が推定されます。対照的に、フランス北部のOBN 遺跡では、異なる狩猟採集民系統の割合と対応する混合年代を有する、区別可能な集団間の異質性遺伝的兆候が明らかになります。OBN3集団の推定年代間の違いは、OBN集団が最近の継続する混合事象よりもむしろ、遺伝的下部構造を示す、と示唆されます。


●フランスにおけるゴイエットQ2の追跡

 ゴイエットQ2とヴィラブルナとアナトリア半島新石器時代系統をソースとしてqpAdmを用い、マグダレニアン(Magdalenian)関連のゴイエットQ2的系統が新たなヨーロッパ西部新石器時代集団で推測されました(モデルD)。ゴイエットQ2関連構成は、フランス西部のPRI個体群(6±3%)とパリ盆地のGRG個体群(3.7±1.3%)で観察されます。イベリア半島新石器時代集団と類似して、紀元前4300~紀元前4200年頃のPRI集団は、狩猟採集民構成の1つとしてゴイエットQ2でうまくモデル化でき、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後もゴイエットQ2構成を保持していたフランス西部の在来狩猟採集民との混合、もしくはもっと後の段階における新石器時代イベリア半島系統集団との遺伝的接触が示唆されます。注目されるのは、大西洋沿岸のPRI遺跡個体群が、ヨーロッパ狩猟採集民とのわずかに新しい年代(紀元前5200年頃)の混合を示唆していることで、これはフランス西端における新石器時代集団の到来がより遅かったことと一致します。


●ブリテン島およびアイルランド島とのつながり

 f4統計では、ブリテン島とアイルランド島の新石器時代集団が、他集団よりもフランスの大西洋沿岸のPRI集団と遺伝的浮動を共有しているのか、検証されました。以前の研究では、ブリテン島の初期農耕民集団は遺伝的にイベリア半島の農耕民集団と類似している、と示されていましたが(関連記事)、本論文でも改めて、LBR遺跡A亜集団とフランス中期新石器時代集団とイベリア半島中期新石器時代集団との類似性の共有が確認されました。これは、WHG 系統の多い狩猟採集民比率で示されます。しかし、本論文におけるフランス新石器時代遺跡群の結果に基づくと、イングランドとウェールズとスコットランドの集団は、大西洋沿岸経由だけではなく、ノルマンディーのFLR遺跡集団やパリ盆地のGRG遺跡集団やフランス南部のICC後のLBR遺跡A集団経由でも、地中海新石器時代集団とつながっている、と示唆されます。以下は、中石器時代から新石器時代にかけてのヨーロッパの狩猟採集民と農耕民の系統割合の変化を示した図4です。
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●まとめ

 ヨーロッパにおけるアナトリア半島農耕民系統は、多くの地域で報告されてきました。農耕生活様式と関連した個体群における狩猟採集民からの増加する遺伝子流動の再発パターンは、最初の接触および仮に「狩猟採集民再起」と呼ばれる事象の後に何世紀も起き、イベリア半島やヨーロッパ北部および中央部やカルパチア盆地やバルカン半島で観察されてきました。しかし、新石器時代農耕民集団拡大の主要な経路(ドナウ川沿いのヨーロッパ中央部への拡大と、地中海沿岸でのイベリア半島への拡大)に関する仮説では、ゲノムデータの比較は試みられてきませんでした。本論文が提示した一連の新たな結果は、両方の経路が交差した現在のフランスへの重要な洞察を提供します。ヨーロッパにおける異なる中石器時代の遺伝的基盤により、新石器時代集団で観察された混合狩猟採集民構成の質量に基づき、新石器時代の拡大経路の追跡が可能となります。

 フランス南部の新石器時代集団は地中海ICC拡大経路の一部で、他地域の拡大農耕民集団の早期と比較すると、異なる遺伝的構成を示し、大陸経路関連集団よりもかなり高い狩猟採集民構成の割合を示します(PEN遺跡B集団で最大56±2.9%)。フランス南部のPENおよびLBRの年代は、イタリア半島北西部のリグリーア州やフランス南東部のプロヴァンスやフランス南西部のラングドックといった地中海沿岸地域における最初の農耕民の定住よりも400年(16世代)ほど遅くなりますが、より近い世代での在来集団との混合事象(3~6世代前)が示唆されます。考古学的研究では、新石器化第2段階の地中海西部、とくに狩猟採集民の人口密度がより高い地域における、拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の相互作用の増加が主張されています。本論文でも、フランス南部の新石器時代集団の拡大期における、そうした相互作用の遺伝的痕跡が確認されました。これは考古学的観点から、狩猟採集民が最初期農耕民の後の物質文化内で観察される明確な変化に寄与してきた、と示唆されます。

 しかし、アドリア海沿岸東部のICC個体群では、より類似しているヨーロッパ中央部集団と比較して、わずかな狩猟採集民系統しか有していません。これは、イタリア半島のアペニン山脈の両側で観察される物質文化内の技術的伝統の差異に関する仮説と適合します。それは、起源がまだ不明のバルカン半島およびティレニアとつながるアドリア海伝統集団です。ティレニア側の強い狩猟採集民構成を、同じ地域の特定の土器伝統と関連づけ、これを狩猟採集民の新たな意味づけの結果とみなす見解は魅力的です。しかし、イタリア半島中央部および南部の利用可能なゲノムデータが不足しているため、この仮説を直接的に検証はできません。さらに、イベリア半島のICC個体群も、狩猟採集民系統をあまり有しません。まとめると、ICC関連個体群がそれ自体均一な遺伝的構成を有するという仮説は棄却され、相互作用のより地域的に微妙なシナリオが主張されます。

 ヨーロッパ中央部早期農耕民は、狩猟採集民構成の割合がひじょうに低く(平均して5%)、それは農耕民拡大の初期段階におけるハンガリーのトランスダニュービアでの混合に由来する可能性が高そうです。これは、考古学的記録の一般的な観察と合致するだけではなく、最初のLBK石器群が後期中石器時代の石刃および台形石器複合と類似している理由も説明できます。これは、ドイツ黄土地域全域の最初の農耕民の速い拡大を主張する、以前の古代DNA研究も確証します。ドイツ南西部および東部のLBK集団は、ルクセンブルクのロシュブール遺跡個体よりもハンガリーのKO1個体の方と類似性を多く共有しています。ドイツ南部の遺跡群の農耕民集団における推定混合年代は、SMHで19.2±3.8世代前、SCHで12.3±8.2世代前で、カルパチア盆地およびオーストリアの混合年代より新しいか、同時代となります。共有されるKO1的狩猟採集民系統の、一時的な遅延と微妙な増加から、LBK集団を年代的に追跡でき、考古学的研究により示唆されているように、トランスダニュービアの中核地域からのLBKの拡大というモデルとよく一致します。しかし、現在の解像度では、フランス北西部のラオゲットやドイツ西部のリンブルクのような早期LBK期においてはとくに、狩猟採集民およびより西方の遺跡群の南方からの影響を有する集団との接触に関する考古学的証拠の増加は説明されません。

 ヨーロッパ中央部の状況とは対照的に、ライン川西方地域は、紀元前五千年紀に異なる遺伝的構成を示します。最初の農耕民はロシュブール関連狩猟採集民構成をより高い割合で有しており、OBN遺跡B集団に分類されるアルザス地域の個体群の中には、後には最大で33.3±3%まで増加する事例も見られます。mtDNAデータは、この知見を支持します。紀元前五千年紀のフランスの全集団において、狩猟採集民と密接な関連のあるmtHg-U5・U8の平均的な割合は、ライン川東方のLBK集団の1.4%よりも高い15.5%です。フランス北部のLBK関連個体群のゲノムデータはありませんが、この狩猟採集民構成から、最初の農耕民集団が到来した後に混合が起きた、と推測できます。

 フランス北西部中央に位置するOBN遺跡の3集団におけるヨーロッパ狩猟採集民構成をqpAdmでモデル化すると、4.3~31.8%の間の狩猟採集民構成の増加が観察され、それは在来のロシュブール関連集団に区分されます。しかし、この手法は他の同時代のフランス集団には直接的に適用できません。それは、新石器時代農耕民集団拡大の地中海沿岸経路と関連した追加の移動の可能性があるからです。この場合、フランス北部における最初のLBK農耕民の到来に続き、双方向の狩猟採集民と農耕民の相互作用の単純な過程を複雑にする可能性があります。現在のゲノムデータでは、検出された兆候が、可能性のある南方からの遺伝的寄与により混乱しているのかどうか、決定できません。しかし、フランス北部におけるGRGおよびFLR遺跡集団の推定混合年代は、より古い混合事象が30世代(840~930年前)以上前に起きた、と示唆します。フランス北部における最初の新石器時代定住の確立した年代と一致して、南部ICCで得られた重複・同時代の年代は、フランス南部における最初の狩猟採集民の寄与の兆候と一致し、それに続いて狩猟採集民系統を有する集団が北方へ拡大します。

 フランス西部中央の大西洋沿岸のPRI 遺跡とパリ盆地のGRG遺跡の個体群で検出されたゴイエットQ2的狩猟採集民構成は、LGM後もゴイエットQ2的構成が残存したイベリア半島とのつながりを示唆します。それは、ゴイエットQ2的狩猟採集構成を有する在来だったかもしれない狩猟採集民との混合、もしくはイベリア半島の最初の農耕共同体との接触、あるいは紀元前五千年紀におけるイベリア半島からの新石器時代集団との交流に起因するかもしれません。考古学的データは、これら3仮説すべてと適合的です。しかし、PRIとイベリア半島との間の遺伝的類似性が示される一方で、上述のブリテン諸島と地中海新石器時代との間の類似性から、パリ盆地経由でのおもにノルマンディーと地中海地域とのつながりが最良の説明となります。イングランドとスコットランドとウェールズは、フランス西部よりも、フランス北部・南部およびイベリア半島の方と高い遺伝的類似性を示します。対照的に、新石器時代アイルランド集団は、他のブリテン集団よりもフランス北部沿岸および地中海地域との類似性が低くなっており、大西洋の枠組み内で説明できます。この全体的パターンは、ブリテン諸島西部および東部への新石器時代農耕民集団拡大は、異なる2つの現象と速度だった、という考古学的データから提示された仮説と一致します。

 まとめると、本論文で強調されるのは、地中海西部沿岸とライン川西方地域との間の文化的および生物学的相互作用の多様なパターンです。これは、新石器時代農耕民集団の拡大期における高い変動性を確証し、過程および持続期間と同様に、狩猟採集民構成の異なる割合を示します。狩猟採集民集団間の遺伝的構造により、初期農耕民における地域的な混合をたどることができ、ライン川西方ではヨーロッパ中央部および南東部と比較して狩猟採集民系統の割合が高いものの、それは在来のWHG関連集団に起因します。狩猟採集民と初期農耕民のゲノムデータ数は増加しており、中石器時代から新石器時代への移行期の地域的な動態の解明と、大小の地域的な規模での、時間の経過に伴う過程と発展の理解を深めるのに役立ちます。本論文の観察に基づくと、大まかなモデルでは、農耕民と狩猟採集民の相互作用の充分な範囲と詳細を一致させる可能性がますます低くなった、と明らかになり、将来の研究では、より多くの地域に焦点を当てたモデルの使用が提唱されます。


参考文献:
Rivollat M. et al.(2020): Ancient genome-wide DNA from France highlights the complexity of interactions between Mesolithic hunter-gatherers and Neolithic farmers. Science Advances, 6, 22, eaaz5344.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz5344