分断・孤立と交雑・融合の人類史

 人類史に限らず広く生物史において、地理的障壁の形成などにより分類群が分断され、生殖隔離が生じた後に地理的障壁が消滅もしくは緩和し、比較的近い世代で祖先を同じくする異なる分類群同士が交雑する、ということは一般的であるように思います。2007年の時点で現生人類(Homo sapiens)と非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との交雑を指摘した研究は、これを「孤立・交雑モデル」と把握しています(関連記事)。人類以外の具体例としてはヒヒ属があり、分岐と交雑と融合を含むその複雑な進化史が推測されており、その中には分岐した2系統が遺伝的にほぼ同じ影響を残して形成された新たな系統も含まれます(関連記事)。

 こうした分断・孤立による生殖隔離は、もちろん地理的障壁のみが原因で生じるわけではないものの、地理的障壁が大きな要因になっていることも間違いないでしょう。人類史に即して言えば、概して穏やかな間氷期には人類の居住範囲は拡大したようで、サハラ砂漠やアラビア砂漠のような居住に適さない地域も、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5・3の頃には、モンスーン活動の増加により植物が繁茂したこともありました(関連記事)。このような場合、他地域との「回廊」が開き、分断・孤立した分類群同士の再会の機会が訪れます。

 詳しくデータを提示できるほど勉強は進んでいませんが、人類史においては、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とが交互に訪れたのではないか、と思います。これは他の生物も同様ですが、生物としては生息域がかなり広範な部類に入るだろう人類にとっては、重要な意味を有する、と私は考えています。すでにホモ属出現前に人類はアフリカ東部と南部に拡散しており、古代型ホモ属はアフリカからユーラシアへと拡散し、西はイベリア半島、東はアジア東部および南東部にまで分布していました。それだけに、気候変動による環境変化に伴う地理的障壁の形成の結果として、分断されて孤立していき生殖隔離が生じるとともに、その後の気候変動による地理的障壁の消滅・緩和により、再会して交雑・融合することも起きやすかったというか、その影響を受けやすかったように思います。もちろん、各地域が一様に変化していくわけではなく、分断・孤立が大勢の時代にも交雑・融合が進んだ地域はあったでしょうし、逆に交雑・融合が大勢の時代にも孤立した集団が存在したことはあったでしょうが、大きな傾向として、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とに区分できるでしょう。


●人類進化のモデル

 こうした孤立・分断と交雑・融合の時代が相互に訪れていたことを前提とすると、人類進化のモデルとして注目されるのは、現生人類の起源に関する複雑な仮説です(関連記事)。この仮説では、メタ個体群(対立遺伝子の交換といった、あるレベルで相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群のグループ)モデルにおける、分裂・融合・遺伝子流動・地域的絶滅の継続的過程としての、進化的系統内の構造と接続性の重要性が強調されます。これは構造化メタ個体群モデルと呼ばれます。気候変動による地理的障壁の形成・強化などに伴う分裂・分断と、地理的障壁の消滅・緩和によるメタ個体群間の融合により、現生人類は形成されていった、というわけです。また、メタ個体群はある地域にずっと存続し続けるのではなく、環境変化を招来する気候変動や他のメタ個体群からの圧力などにより、移動することも珍しくない、という視点も重要になるでしょう。

 構造化メタ個体群モデルは、現生人類を特徴づける派生的な身体的形質が1地域で漸進的に現れたわけではない、という化石記録と整合的です。もちろん、メタ個体群の中には、現代人に大きな影響を残しているものも、ほぼ絶滅と言ってよいくらい現代に遺伝的影響が残っていないものもあるでしょう。その意味で、ひじょうに複雑な仮説であり、その確証は容易ではないでしょうが、今後の人類進化研究において重視されるべきモデルである、と私は考えています。

 分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しとは、異質化と均質化の繰り返しとも言えます。異質化とは、多様性の増加でもあります。ここで重要なのは、川端裕人『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』が指摘するように、多様性は分断・孤立に起因するところが多分にある、ということです(関連記事)。同書はアジア南東部を対象としており、中期~後期更新世における人類の多様化を指摘しますが、アフリカでも、中期更新世後期でもなお、現生人類とは大きく異なる系統だろうホモ・ナレディ(Homo naledi)が存在していました(関連記事)。

 また同書が指摘するように、現在では多様性が善と考えられています。しかし、それが多分に分断や孤立に起因するとなると、手放しで賞賛することはできません。一方で、現在では交流もまた善と考えられていますが、これが均質化・多様性の喪失を招来している側面も否定できません。現生人類のこれまでの行動から、もはや均質化の流れは止められないだろう、と同書は予測しています。深刻な矛盾をもたらしかねない「崇高な」諸々の価値観をどう共存させていくのか、現代社会の重要な問題になると思います。


●初期ホモ属の進化

 上記の構造化メタ個体群モデルは現生人類の起源を対象としていますが、ホモ属の起源にも当てはまるかもしれません。首から下がほとんど現代人と変わらないような「真の」ホモ属が出現したのは200万~180万年前頃のアフリカだと思われますが、それ以前、さらにはそれ以降も、ホモ属的な特徴とアウストラロピテクス属的な特徴の混在する人類遺骸が発見されています。これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。

 これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。南アフリカ共和国では、ホモ属的な特徴を有する200万年前頃の人類遺骸群が発見されていますが、これはアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)に分類されています(関連記事)。一方、分類に関して議論が続いているものの(関連記事)、アウストラロピテクス属的特徴も有するホモ属として、ハビリス(Homo habilis)という種区分が設定されています。

 ホモ・ハビリスは240万年前頃から存在していたとされていますが、ホモ・エレクトス(Homo erectus)が出現してからずっと後の144万年前頃までケニアで存在していた可能性も指摘されています(関連記事)。233万年前頃のハビリスと分類されている人類遺骸からは、ホモ属が当初より多様化していった可能性も指摘されています(関連記事)。またエチオピアでは、ホモ属的特徴を有する280万~275万年前頃の人類遺骸も発見されています(関連記事)。

 300万~200万年前頃の人類遺骸は少ないので、ホモ属の初期の進化状況は判然としませんが、ホモ属的な派生的特徴が300万~200万年前頃のアフリカ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により「真の」ホモ属が形成されていった、との構造化メタ個体群モデルの想定には、少なくとも一定以上の説得力があるように思います。ホモ属の出現に関して、現時点ではアフリカ東部の化石記録が多いと言えるでしょうが、最古のホモ・エレクトスとも主張されている204万~195万年前頃の化石が南アフリカ共和国で発見されており(関連記事)、アフリカ北部では240万年前頃(関連記事)、レヴァントでは248万年前頃(関連記事)の石器が発見されているので、あるいはアフリカ全域とレヴァントまで含めて、ホモ属の形成を検証する必要があるかもしれません。


●ネアンデルタール人の進化

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の進化に関しても、当然現生人類とは異なる側面が多分にあるとしても、構造化メタ個体群モデルが一定以上有効かもしれません。中期更新世のヨーロッパには、異なる系統のホモ属が共存していた可能性が高そうです。ポルトガルの40万年前頃のホモ属遺骸にはネアンデルタール人的特徴が見られない一方で(関連記事)、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸には、頭蓋でも(関連記事)頭蓋以外でも(関連記事)ネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが混在しており、フランスの24万~19万年前頃のホモ属遺骸でもネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが確認され(関連記事)、イタリアの45万年前頃のホモ属の歯にもネアンデルタール人的特徴が見られます(関連記事)。

 こうした形態学からの中期更新世のヨーロッパにおける異なる系統のホモ属の共存の可能性は、考古学的記録とも整合的と言えそうです(関連記事)。遺伝学でも、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸とネアンデルタール人との類似性が指摘されており、さらには、中期更新世にアフリカから新技術を有して新たに拡散してきた人類集団が、ネアンデルタール人の形成に影響を及ぼした可能性も指摘されています(関連記事)。形態学・考古学・遺伝学の観点からは、ネアンデルタール人的な派生的特徴が中期更新世のヨーロッパ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流によりネアンデルタール人が形成された、と考えるのが現時点では節約的なように思います。

 じっさい、ネアンデルタール人が気候変動などにより移動していた証拠も得られています。おそらく、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返しており、寒冷期に人口が減少し、温暖期に人口が増加したのでしょう。ドイツの中部旧石器時代の遺跡の検証から、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返していたのではないか、と推測されています(関連記事)。当然この過程で、時には集団(メタ個体群)が絶滅することもあったでしょう。じっさい、西方の後期ネアンデルタール人集団の間では、相互に移動・置換があったのではないか、と推測されています(関連記事)。


●ネアンデルタール人とデニソワ人の関係

 ネアンデルタール人とその近縁系統となる種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関係でも、孤立・分断と交雑・融合の繰り返しが示唆されます。ネアンデルタール人とデニソワ人の推定分岐年代には幅がありますが、現時点では70万~50万年前頃の間と想定しておくのが無難でしょうか(関連記事)。この分岐は孤立・分断の結果なのでしょうが、ネアンデルタール人遺骸の主要な発見地がヨーロッパとアジア南西部および中央部で、デニソワ人遺骸の発見地が現時点では南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡とチベットに限定されていることから、両者の主要な生息域は一部重なりつつも大きく異なっていた可能性が高く、地理的障壁の結果と考えるのが妥当でしょう。

 デニソワ人の現代人への遺伝的影響はアジア東部でも見られますが、パプア人やオーストラリア先住民にはそれよりもずっと強い影響が残っており(関連記事)、アジア東部から南東部にかけて分布していた、と考えられます。デニソワ洞窟における人類の痕跡は断続的なので(関連記事)、デニソワ人の主要な生息域はアジア東部および南部で、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。ネアンデルタール人はヨーロッパからユーラシア草原地帯を西進してアルタイ地域に到達し、異なる遺伝的系統のネアンデルタール人個体がアルタイ地域で確認されていることから(関連記事)、デニソワ人と同じく、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。

 大まかには、ネアンデルタール人はユーラシア西部、デニソワ人はユーラシア東部を主要な生息域として、時に両者の生息域の端(辺境)である南シベリア(ネアンデルタール人にとっては東端、デニソワ人にとっては西端)で遭遇していた、と言えそうです。気候変動による環境変化により、両者が接触しなかった期間は短くなかったと考えられ、それ故に分岐していったのでしょうが、おそらく気候が温暖な時期には、ネアンデルタール人による(何世代を要したのか不明ですが)ユーラシア草原地帯の長距離移動もあったのでしょう。

 アルタイ地域では、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑は一般的と推測されており、交雑による遺伝的不適合の強い証拠が見られない、と指摘されています(関連記事)。ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先系統が現生人類系統と分岐した後にネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が分岐したため、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑では、現生人類との交雑の場合よりも遺伝的不適合が生じない可能性は高いだろう、と思います。

 上述のヒヒ属の事例からは、遺伝的不適合度の低そうなネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が同じくらいの遺伝的影響を有する融合集団の存在も想定されます。じっさい、そうした融合系統(ネアンデルタール人よりもややデニソワ人の方の影響が大きい、と推定されます)が、アジア東部および南部・パプア・オーストラリア先住民の共通祖先集団と交雑した、との見解も提示されています(関連記事)。それでもネアンデルタール人とデニソワ人が完全に融合せず、別系統として存続し続けてきたのは、両者の遭遇自体が一般的ではなく(遭遇した場合の交雑は一般的ですが)、基本的には地理的障壁によりそれぞれ分断・孤立していたからなのでしょう。


●ユーラシアの現生人類における分断と融合

 出アフリカ後のユーラシアにおける現生人類の動向も、分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しにより解釈することが必要なように思います。最終氷期の終わりには、ユーラシア東西で複数のひじょうに分化した集団が存在しており、これらの集団は他集団を置換したのではなく、混合していった、と指摘されています(関連記事)。ユーラシア西部では、現代のヨーロッパ集団とアジア東部集団との遺伝的違い(平均FST=0.10)と同じくらいの、遺伝的に異なる少なくとも4集団が存在し、新石器時代に混合して異質性は低下していき(平均FST=0.03)、青銅器時代と鉄器時代には現代のような低水準の分化(平均FST=0.01)に至りました。ユーラシア東部では、アムール川流域集団と新石器時代黄河流域農耕民と台湾鉄器時代集団との間で、比較的高い遺伝的違い(平均FST=0.06)が存在したものの、現在では低くなっています(平均FST=0.01~0.02)。こうした完新世における遺伝的均質化の動因としては、農耕の採用やウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などといった生業面での優位性が大きかったように思います、

 これらユーラシア現生人類集団は、元々単一の(7万~5万年前頃の)出アフリカ集団に主要な遺伝的起源があると推測されますが(関連記事)、末期更新世には多様化していたのでしょう。しかし末期更新世と比較すると、現代ユーラシアでは東西ともに遺伝的には均質化が進んでおり、完新世を交雑・融合傾向の強い時代と把握できそうです。5万年前頃には比較的均質だった出アフリカ現生人類集団が、末期更新世の頃までには多様化していき、完新世において遺伝的均質化が進展した、という大まかな見通しを提示できるでしょう。ただ、完新世の人類集団は更新世と比較して一般的に大規模なので、これは均質化への抵抗要因として作用する、とも考えられます。

 こうしたユーラシア現生人類集団における末期更新世までの遺伝的多様化は、拡大により相互の接触が困難になった、という事情もあるものの、その後でユーラシア東西ともに遺伝的均質化が進展したことを考えると、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)によりユーラシア各地域の現生人類集団は分断・孤立していき、遺伝的違いが大きくなった、と考えられます。LGMをやや幅広く設定すると(関連記事)、33000~15000年前頃です。これは、遺伝的にだけではなく、文化的にも違いをもたらすのに充分な時間です。語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、と指摘されています(関連記事)。

 LGMを含む前後の15000~20000年間ほどが分断・孤立傾向の強い時代だとしたら、5万~4万年前頃には類似した言語を有していた集団間で、異なる語族が形成されても不思議ではありません。おそらく、末期更新世にはユーラシアにおいて多様な言語が存在しており、それらが消滅・吸収されていった結果、現代ユーラシアのような言語状況が形成されたのでしょう。それでも、ヨーロッパのバスク語やアジア東部の日本語・アイヌ語・朝鮮語のように、孤立的な言語が今でも存続しています。この問題に関しては、アメリカ大陸の事例も考えねばならないのですが、私の知見があまりにも不足しているので、今回は取り上げません。


●日本人とチベット人の遺伝的構造の類似性と言語の違い

 集団の遺伝的構造と言語は相関していることも多いものの、違うこともあります。日本人とチベット人はその典型かもしれません。ここでは、「日本人」でもおもに本州・四国・九州を中心とする「本土」集団が対象です。上述のように、ユーラシア東部の人類集団は末期更新世には遺伝的に多様でしたが、完新世には均質化していき、アジア東部に限定しても同様です。アジア東部の広範な地域を対象とした古代DNA研究(関連記事)では、アジア東部現代人集団は複雑な分岐と融合を経て形成された、と示されます。まず、出アフリカ現生人類はユーラシア東西系統に分岐します。ユーラシア東部系統は南北に分岐し、ユーラシア東部北方系からアジア東部北方系とアジア東部南方系が分岐します。現時点のデータでは、ユーラシア東部南方系と、ユーラシア東部北方系に由来するアジア東部北方系およびアジア東部南方系の複雑な融合により、アジア東部現代人の各地域集団が形成された、とモデル化されます。アジア東部北方系とアジア東部南方系の分岐は、おそらくLGMによる分断・孤立を反映しているのでしょう。

 この見解を前提とすると、日本人とチベット人は、類似した遺伝的構造の形成過程を示します(関連記事)。それは、おもに狩猟採集に依拠していた古層としての在来集団と、後に到来したアジア東部北方新石器時代集団との混合により形成され、遺伝的には後者の影響の方がずっと高い、ということです。古層としての在来集団は、チベット人の場合はユーラシア東部南方系で、アンダマン諸島現代人集団や後期更新世~完新世にかけてのアジア南東部狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団が含まれます。古層としての在来集団は、日本人の場合は「縄文人」で、ユーラシア東部南方系統とユーラシア東部北方系から派生したアジア東部南方系統との混合だった、と推測されます。現代日本人と現代チベット人において高頻度で見られる、現代世界では珍しいY染色体ハプログループ(YHg)Dは、おそらくユーラシア東部南方系に由来するのでしょう。

 アジア東部北方系は、仰韶(Yangshao)文化や龍山(Longshan)文化といった黄河中流および下流域農耕集団に代表されます。言語学では、チベット・ビルマ語族が含まれるシナ・チベット語族の起源は7200年前頃で(関連記事)、シナ・チベット語族の拡散・多様化は5900年前頃に始まった(関連記事)、との見解が提示されています。チベット人に関しては、集団の遺伝構造と言語との間に強い相関がある、と言えそうです。もちろん、新石器時代においてすでにアジア東部北方系とアジア東部南方系との混合が推測されているように(関連記事)、集団の遺伝的構造と言語とをあまりにも単純に相関させることは危険で、現代の中国語(漢語)にしても、アジア東部北方系のシナ・チベット語族と、おそらくはアジア東部南方系の先オーストロネシア語族などとの混合により形成されていったのでしょう。

 一方、日本人に関しては、アジア東部北方系の言語をシナ・チベット語族系統と想定すると、集団の遺伝的構造と言語とが相関しません。これは朝鮮人に関しても同様と言えるでしょう。日本語も朝鮮語も、おそらくはLGMによる分断・孤立でユーラシア東部において形成された多様な言語群の一つだったのでしょうが、完新世において同系統の言語群が消滅・吸収され、現在は孤立言語のようになったのでしょう。日本語の形成に関しては、アイヌ語との関係も含めて以前短くまとめましたが(関連記事)、その後も勉強が進んでおらず、確たることはとても言えません。

 単純化すると、集団の遺伝的構造と言語とは相関しないこともある、と言って終えられます。まあ、これでは何も言っていないのに等しいので、もう少し考えると、アジア東部北方系の言語が基本的にはシナ・チベット語族系統のみだったとすると、バヌアツの事例(関連記事)が参考になるかもしれません。これは以前に、日本語の形成過程で参考になるかもしれない事例として取り上げました(関連記事)。遺伝的には、バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人はパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなくオーストロネシア諸語のままです。

 日本語の形成過程にたとえると、オーストロネシア系集団が「縄文人」、パプア系集団がアジア東部北方系の影響のひじょうに強い、おそらくは弥生時代以降に日本列島に到来した集団に相当します。アジア東部北方系集団の日本列島への到来が短期間に多数の人々によりなされたのではなく、長期にわたる緩やかなもので、その後の人口増加率の違いにより現代日本人のような遺伝的構成が形成されたとすると、交易などの必要性から先住民集団である「縄文人」の言語が大きな影響力を維持した、とも考えられます。

 一方、アイヌ語と日本語とが大きく違うことを考えると、「縄文人」の言語は地域的な違いがあれども基本的にはアイヌ語系統で、上記のような日本語が選択された過程は日本列島ではなく遼河地域から朝鮮半島のどこかで起き、そこから日本列島にもたらされた、とも考えられます。しかし、現時点では東日本に限定されているものの、「縄文人」は時空間的にかなり異なる集団でも遺伝的に均質ですから(関連記事)、更新世に日本列島に到来した(4万年前頃以降)集団が、外部とはさほど遺伝的交流なしに進化した、とも考えられます。

 北海道「縄文人」の祖先集団と他地域の「縄文人」の祖先集団とが、LGMによる分断・孤立で分岐していったとすると、日本語とアイヌ語がとても同系統と確認できないくらいに分化していっても不思議ではありません。「縄文人」の言語は、北海道もしくは東北地方か関東か東日本までと、西日本とで大きく異なっており、日本語は西日本の「縄文人」の(一部集団の)言語に起源がある、というわけです。ただこの場合、「縄文人」の遺伝的多様性がもっと高くてもよさそうにも思いますが、あるいは、今後西日本の「縄文人」のゲノムが解析されれば、東日本「縄文人」との一定以上の違いが明らかになるのでしょうか。

 もう一つ想定されるのは、アジア東部北方系の言語は、後にはシナ・チベット語族に一元化されたものの、新石器時代のある時点までは多様だった、というものです。集団の遺伝的構造と言語が相関しているとは限りませんから、LGMによる分断・孤立で言語が多様化していき、その後の融合過程で遺伝的にはアジア東部北方系が成立したものの、その言語は均質ではなく、日本語祖語も朝鮮語祖語も含まれていた、という想定です。チベットに拡散したアジア東部北方系集団の言語はシナ・チベット語族で、朝鮮半島やさらに日本列島に向かった集団の言語は大きく異なっていた、というわけです。

 結局のところ、自分の勉強不足のため日本語の形成過程はよく分からず、単に複数の想定を列挙しただけで、しかもこれらの想定以外に「正解」がある可能性も低くないので、何ともまとまりのない文章になってしまいました。日本語の起源はたいへん難しい問題ですが、おそらくはアイヌ語とともに、LGMによる分断・孤立で多様化した言語が、現代では孤立した言語として生き残っている事例で、バスク語と同様なのでしょう。現代世界でも言語の喪失は大きな問題となっていますが、LGMの後から現代までに、現代人がもう永久に知ることのできない、少なからぬ喪失言語があったのでしょう。

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