古代DNAに基づくユーラシア西部の現生人類史

 古代DNAに基づく近年のユーラシア西部の現生人類(Homo sapiens)史研究を整理した概説(Olalde, and Posth., 2020)が公表されました。ユーラシア西部における現生人類の遺伝的歴史は、過去10年にたいへん注目されてきた研究分野です。これまでの研究の大半は、新石器時代と青銅器時代に起きた大規模な文化的移行をより理解するため、超地域的視点に焦点を当ててきており、おもに8500~3000年前頃の個体群が対象でした。

 最近では、そうした大規模な手法は学際的な小地域研究により補完されており、それは過去の社会の通時的な再構築を目指し、古代DNA研究の将来の主流の方向性となる可能性が高そうです。さらに、ユーラシア西部全域の刊行された人類ゲノムの時間的分布を考慮すると、一方の側は上部旧石器時代と中石器時代、もう一方の側は鉄器時代に広く対応しています。この期間の研究もひじょうに興味深いものの、固有の課題もあり、それは、狩猟採集民遺骸としばしば乏しい古代DNA保存という利用可能性の低さと、歴史時代の集団間の減少した遺伝的差異を含みます。本論文は、最近明らかになってきたような、ユーラシア西部の古代DNA研究における新たな動向を取り上げます。


●ユーラシア西部狩猟採集民

 45000年前頃以降の大半において、ヨーロッパと近東の現生人類は狩猟採集戦略に依存していました。上部旧石器時代および中石器時代と新石器時代の一部地域では、集団の生活様式は狩猟採集でした。8500年前頃以降になって初めて、農耕が近東からヨーロッパに拡大してきました。この狩猟採集に依拠していた期間が長いにも関わらず、ヨーロッパと近東の刊行された古代ゲノムのうち、狩猟採集民個体群に由来するのは10%未満です。

 ヨーロッパの狩猟採集民に関する最初の大規模なゲノム規模研究は2016年に公表され、45000~7000年前頃の50人のゲノムが分析されて、その後のいくつかの研究の基礎となりました(関連記事)。遅くとも37000年前頃以降、ヨーロッパの全個体は後のヨーロッパ人集団とある程度の遺伝的類似性を有します。しかし、その研究ではヨーロッパの現生人類のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)系統は経時的に減少したと推定されましたが、最近の研究では、ヨーロッパの現生人類におけるネアンデルタール人系統の割合はほぼ一定だった、と推定されています(関連記事)。

 後のヨーロッパ人集団に寄与した最古のゲノムは、ロシア西部のコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で1954年に発見された37000年前頃の若い男性個体(関連記事)と、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)です。この2個体は相互に、ひじょうに異なる2系統の初期の分岐を表しており、より新しい別々の狩猟採集民集団と関連しています。

 ヨーロッパ全域で観察された最初の明確な遺伝的クラスタは、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群に因んでヴェストニツェと命名され、チェコからベルギーとイタリア南部までの34000~26000年前頃のゲノムを含みます。これらの個体群はグラヴェティアン(Gravettian)技術複合と関連しており、コステンキ14個体およびその姉妹系統である34000年前頃のロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡集団と、高い遺伝的類似性を共有しています。さらに、クリミア半島からの提案されたグラヴェティアン個体もまた、ヴェストニツェ遺伝的クラスタのより新しい個体群との類似性を示し、グラヴェティアン関連遺伝的構成の西方から東方への拡大が支持されます。

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の後、Goyet Q116-1個体で特定された遺伝的系統は、考古学的にはマグダレニアン(Magdalenian)と関連した個体群に現れ、その年代はイベリア半島では19000年前頃、ヨーロッパ中央部では15000年前頃です。15000年前頃のヨーロッパでは温暖化が起き、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に因んで命名された新たな遺伝的系統であるヴィラブルナの存在と同時に発生し、このヴィラブルナ系統は現代および古代の近東集団と有意なつながりを示します(関連記事)。このかなり均質な遺伝的構成は、イタリア(関連記事)からブリテン島(関連記事)にまたがるヨーロッパ全域に広範に拡大しました。

 ヴィラブルナ系統の起源はまだ議論されていますが、近東の上部旧石器時代個体群の最近の分析では、ジョージア(グルジア)とアナトリア半島でそれぞれ26000年前頃と15000年前頃に混合したそのような系統存在が明らかになっています。しかし、近東からヨーロッパへの長期的拡大というよりもむしろ、ヨーロッパ南東部の気候的な待避所からの二重の集団拡散が、これら2地域の遺伝的な祖先構成の説明として提案されてきました。他の氷期の待避所としてイベリア半島が提案されており、そこではマグダレニアン関連系統が、広範囲のヴィラブルナ系統とともに、中石器時代まで高い割合で残存していました(関連記事)。

 ヨーロッパ北東部では遅くとも8000年前頃までには、東部狩猟採集民(EHG)と命名された他の異なる遺伝的系統を有する個体群が、西部狩猟採集民(WHG)ヴィラブルナ系統と関連する個体群とともに東西に沿って遺伝的勾配を示します。スカンジナビア半島の中石器時代の狩猟採集民は、さらに東方に位置する集団と比較してずっと高い割合のEHG関連系統を有するので、この勾配の顕著な例外を表します(関連記事)。そのため、氷期後のスカンジナビア半島の定住は、北方からEHG、南方からWHGの拡大を伴っていたという二重経路で、その後で混合が起きた、と提案されています(関連記事)。

 ヨーロッパのほとんどで、狩猟採集民系統はその後に、新石器時代の拡大の結果として、農耕関連遺伝的構成にほぼ置換されました。しかし、バルト海地域のようなヨーロッパ北部の周辺では、狩猟採集民の遺伝的構成が中期新石器時代の5500年前頃まで、ヨーロッパにおける農耕民到達後も3000年ほど維持されました。ロシア西部のサマラ(Samara)地域の個体群は、EHG関連系統の東限となり、ウラル山脈のすぐ東のシベリア狩猟採集民は、ユーラシア東部集団との遺伝的類似性を示します。


●鉄器時代から歴史時代

 過去3000年の歴史は、現代人集団の最終的な形成の理解に重要です。人類の移動性が高まっているため、この期間の人口統計学的事象は小規模でも大規模でも豊富で、そのほとんどは歴史的な情報源で描かれています。しかし、歴史的記録の解釈は決定的ではないかもしれず、古代DNA研究には、記録にある事象の人口統計学的影響をよりよく理解するのに有益な手法となる可能性があります。じっさい、この分野の焦点はより最近の歴史に移り始めており、鉄器時代から現代までのヨーロッパと近東の遺伝的歴史を扱う研究が増加しています。

 ヨーロッパ南西部では、鉄器時代のイベリア半島人が、先行する青銅器時代にヨーロッパ全域に拡大した草原地帯関連系統を有するヨーロッパ中央部および北部集団から、引き続き遺伝子移入を受けていました。これは、大きな社会文化的変容の期間で、人口統計学的転換を伴っており、究極的にはヤムナヤ(Yamnaya)文化草原地帯牧畜民と関連する集団はまずヨーロッパ東部および中央部で、後にはヨーロッパ西部で、在来集団とのかなりの混合を通じて、大きな影響を残しました(関連記事)。侵入してくる草原地帯集団は、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの導入と関連しており、鉄器時代イベリア半島の非インド・ヨーロッパ語族地域もまた、この遺伝子流動の影響を受け、過去と現在の言語境界が明確な系統区分と必ずしも相関しないことを示します(関連記事)。

 ヨーロッパ北東部では、最近の研究により、ウラル語族現代人に特徴的なシベリア人関連系統の痕跡が、フェノスカンジアに遅くとも3500年前頃、バルト海地域東部には2500年前頃に到達していた、と明らかになりました(関連記事)。ポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)は、鉄器時代にはスキタイ人に支配されており、スキタイ人は広範な地域で文化要素を共有するさまざまな遊牧民部族族の連合です。これらの古代集団からのゲノムデータにより、スキタイ関連個体群は遺伝的に均質な集団ではない、と明らかになりました(関連記事)。スキタイ人は後期青銅器時代草原地帯牧畜民およびアジア東部集団と関連する系統のさまざまな割合でモデル化できます。

 レヴァントでは、遺伝子流動の兆候が鉄器時代とローマ期の個体群で検出されました。これらの個体群は、青銅器時代および現代の集団と全体的には遺伝的継続性を有するにも関わらず、おそらくは早期の歴史的事象と関連するヨーロッパ人関連構成をわずかに示します(関連記事1および関連記事2)。

 古代DNA研究で注目を集め始めている大きな事象は、紀元前三千年紀のギリシア人とフェニキア人の拡大です。これらの文化は長距離海上ネットワークの確立を通じて地中海沿岸に交易所を設けましたが、在来集団との統合の程度や、後の集団への遺伝的寄与といった重要な問題はさほど理解されていません。スペイン北東部のギリシア植民地の24個体のゲノム規模研究では、遺伝的に異なる2集団が報告されており、一方は在来のイベリア半島集団と、もう一方は同時代のギリシア集団との遺伝的類似性が指摘され、移民の継続的到来もしくは在来集団との限定的な交雑が示唆されます(関連記事)。

 スペインのイビサ島とイタリアのサルデーニャ島のフェニキア・カルタゴ文化個体群は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析(関連記事)とゲノム規模分析(関連記事)によって、遺伝的に先住集団とは異なるところがあり、在来集団からの多様な割合の遺伝的寄与とともに、地中海東部関連系統およびアフリカ北部関連系統を有する、と明らかになっています。同様のゲノム規模データの痕跡が、イベリア半島南部で少なくともローマ期には観察されていますが、より早期の同地域のフェニキア・カルタゴ文化関連個体群にさかのぼることができるかもしれず(関連記事)、これらの文化と関連した人類の移動が、長期間持続する遺伝的影響を地中海の一部集団に残した、と示唆されます(関連記事)。

 ローマは共和政確立後、ユーラシア西部で最大かつ最強の都市となりました。最近の研究では、帝政期のローマの成長は、地中海東部からの移民の影響を受けており、西方からの遺伝的影響の証拠はほとんどなかった、と明らかになっています(関連記事)。1500~1000年前頃となる中世前期には、文献に西ローマ帝国の支配地だった地域における「蛮族」集団の拡大が見え、しばしば大移動期とされます。西ゴートやランゴバルド(関連記事)やバイエルン(関連記事)やアレマン(関連記事)関連の墓地の被葬者の遺伝的構成に関する研究で一貫して明らかなのは、大規模な集団間の不均質性で、ヨーロッパ南部起源よりもむしろ、高頻度でおもにヨーロッパ中央部および北部関連系統の個体群が示されています。同様に複雑な状況はヴァイキングの拡大と関連した集団のゲノム分析でも示されるようになっており、1200~900年前頃となるヴァイキングの時代とその前には、スカンジナビア半島における人類集団の出入が文献に見えますが、それが確証されました(関連記事)。


●小地域の研究

 人類の古代DNA研究の新しい重要な動向は遺跡固有の分析で、古代社会の構造を解明するために学際的手法が用いられています。大規模な研究では複数のゲノムが同じ遺跡から得られ、密接に関連した個体群(たとえば、2~3親等程度)がしばしば見つかっています。これまで、そうした親族関係にある個体群は一般的に、集団遺伝分析から除外されていました。この手法は統計的検定で関連性バイアスを回避するのに適していますが、これら近親者の関係を調べることで、対象集団に関して多くの追加の情報が得られます。こうした研究には学際的手法が必要で、ゲノム・同位体・放射性炭素年代・形態・物質(考古学)のデータが統合されることで、集団内の社会文化的動態の理解を最大化します。

 そうした古代DNA分析に基づいて社会的構造を検証した研究の最初の事例が、装飾品など豪華な副葬品で有名なロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡です(関連記事)。スンギール遺跡の34000年前頃の4個体は遺伝的に密接な関係にない、と明らかになりました。さらに、有効人口規模の減少にも関わらず、近親交配の水準が低いことから、多くの現代狩猟採集民集団と同様に同族婚が避けられていた、と示唆されます。

 後の時代の集団では、複数の新石器時代と青銅器時代の遺跡で、遺跡固有の古代DNA研究により徹底的な調査が行なわれました。その一例は、ポーランドの球状アンフォラ(Globular Amphora)文化関連墓地です(関連記事)。この墓地の全被葬者には暴力的な死の痕跡が見られ、墓地内の4核家族を伴う拡大家族を表しています。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)の高い多様性とは対照的に、Y染色体ハプログループ(YHg)の多様性が低い場合には、父方居住体系と解釈されています。

 アイルランドやイギリスやスウェーデン(関連記事)やチェコやスイス(関連記事)の新石器時代の巨石埋葬遺跡文でも、社会構造が調査されました。一般的な傾向として、女性よりも男性の方が被葬者は多く、とくにブリテン島とアイルランド島とスイスの巨石墓でその傾向が見られます。さらに、YHgは経時的に維持されており、これらの巨石墓地が父系社会と関連している、と改めて示唆されました。興味深いことに、同時代の異なる遺跡に埋葬された個体群間の密接な近縁関係の事例も明らかになっています。これは、アイルランドの2ヶ所の巨石墓、エストニアの石棺墓、イングランドの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化の3ヶ所の遺跡で確認されており、これら複雑な埋葬構造が、選択された集団のために建てられた、と示唆されます。

 考古遺伝学的研究はまた、同位体分析や放射性炭素年代測定と効率的に組わせることができ、その事例として、後期新石器時代から中期青銅器時代のドイツ南部のアウグスブルクに近い地域に焦点を当てたものがあります(関連記事1および関連記事2)。中期青銅器時代のドイツ南部では、100個体以上のゲノム比較から、関連していな個体群よりも中核的家族の方が副葬品は多く、副葬品と親族関係との間に正の相関があると明らかになり、社会的不平等の証拠が提示されました。さらに、複数世帯が同じ遺跡に同じ家系で最大5世代にわたって埋葬されており、一般的には女性外婚制と父方居住により特徴づけられます。

 中世前期に関しては、上述のランゴバルドとアレマンとバイエルンという3ヶ所の小地域研究で、親族関係と社会構造が取り上げられています。ランゴバルドに関する研究(関連記事)では63個体が調査され、ハンガリーも含むパンノニアとイタリア北部のピエモンテ州の2ヶ所のランゴバルド人遺跡間および内部の比較が行なわれました。両遺跡の個体群は生物学的親族の周囲に葬られ、遺伝的にはヨーロッパ南部系統とヨーロッパ中央部および北部系統の割合はさまざまで、ヨーロッパ中央部および北部系統は墓地の豊富な副葬品と正の相関を示します。

 ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルク州のアレマン関連墓地は、性的な偏りのある埋葬遺跡を表しており、成人も幼児も男性のみで、戦士階級集団の可能性があります(関連記事)。さらに、このうち5個体は異なる3文化の副葬品と関連しているにも関わらず、父系では関連しています。ドイツ南部のバイエルンの6ヶ所の遺跡では紀元後500年頃の36人のゲノムが分析され、男性は現代の同地域集団と類似しているのに対して、女性は遺伝的異質性が高い、と明らかになりました(関連記事)。興味深いことに、細長い頭蓋骨を有するこれらの女性は、おそらく究極的にはヨーロッパ南東部起源です。

 まとめると、既知の学際的な小地域研究は、複数の証拠を通じて、ヨーロッパの過去の社会の埋葬が、しばしば父系的体系で組織されていると示唆するものの、他の地域と期間も対象とする将来の研究は、ユーラシア西部における変化する社会文化的動態のよりよい理解を、間違いなく提供するでしょう。


●まとめ

 本論文は、現在注目を集めている3分野を強調することで、ヨーロッパと近東の人類古代DNA分野の可能な研究方向性を検討しました。この発展を可能にするためには、ひじょうに分解されたDNAの分離と配列の新たな分子生物学的手法を開発する必要があります。それにより、追加の狩猟採集民遺骸やより困難な環境からのゲノムデータを回収できます。

 一方、ユーラシア西部集団間の遺伝的分化は広範な混合のために時代が降ると顕著に減少することが観察されており(関連記事)、伝統的なアレル(対立遺伝子)頻度に基づく手法ではしばしば検出困難な、微妙な遺伝的パターンをもたらしました。これは、歴史時代における増加する集団内の遺伝的異質性とともに、古代DNAに合わせた、より大規模な標本群の使用と、より高解像度の分析手法の開発を要求します。詳細で場合によっては自動化された血統復元を通じての地域の歴史調査の後には、学際的枠組み内の世界的傾向を識別できるよう、時空間を通じて社会的構造を比較するために、再度俯瞰する必要があるでしょう。


 本論文は、近年のユーラシア西部における古代DNA研究の進展を整理するとともに、新たな研究動向と今後の方針をも提示しており、たいへん有益だと思います。ユーラシア西部、とくにヨーロッパの古代DNA研究は他地域よりもずっと進展しているため、本論文で言及された論文のうち当ブログで取り上げたものも少なくありませんが、未読の論文も多く、既読の論文の内容を改めて整理できたとともに、新たな知見も多く得られました。古代DNA研究の進展は目覚ましいので、頻繁に本論文のような概説を読んでいく必要がある、と改めて思ったものです。

 本論文の提示した古代DNA研究の新たな動向は、小地域、場合によっては1遺跡での学際的な研究です。DNA分析と、同位体分析や放射性炭素年代測定や遺物分析(考古学)や遺骸分析(形態学)を組み合わせることにより、当時の社会構造が浮き彫りにされていきます。これは歴史時代にも有効な手法で、文献を補完できます。歴史学でも、今後は古代DNA研究がさらに重視されるようになっていくでしょう。日本人の私としては、日本列島でもそうした学際的研究が進展するよう、期待しています。また本論文は、そうした詳細な研究の蓄積の後には、改めて俯瞰していく必要があることも指摘しています。どの分野でも、専門化・蛸壺化が指摘されて久しく、専門的で詳細な研究の蓄積は基礎としてたいへん重要ではあるものの、広い視点でそれらを統合する必要があることも確かだと思います。


参考文献:
Olalde l, and Posth C.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 36-43.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.021

古代DNAに基づくアフリカの人類史

 古代DNAに基づく近年のアフリカの人類史研究を整理した概説(Vicente, and Nielsen., 2020)が公表されました。古代DNA研究の急速な進展により、人類史はより深く理解されるようになりました。たとえば、ある物質文化の変化が、人々の移動の結果なのか、あるいは文化の拡散によるものなのか、より詳しく推測できるようになりました。古代DNA研究はアフリカでも進展していますが、熱帯地域を多く含むため、古代人標本からDNAを抽出することが困難なこともあり、アフリカにおけるゲノム規模の古代DNA研究は、たとえばヨーロッパと比較すると僅かです。本論文投稿時点でのアフリカの古代人のゲノム規模論文は、北部に関しては4本、サハラ砂漠以南に関しては5本だけです。本論文は、これまでのアフリカの古代DNA研究を、現代人の遺伝的多様性の文脈で検証します。以下、本論文で対象とされた標本の地理と主成分分析と系統構成を示した図1です。
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●アフリカ北部の古代DNA

 アフリカ北部では、現代人集団はおもにユーラシアおよび中東集団と関連しており、サハラ砂漠以南のアフリカからの遺伝的寄与の水準はひじょうに低い、と推定されています。これが旧石器時代におけるユーラシアからアフリカへの「逆流」の結果なのか、新石器時代におけるアフリカ北部への農耕の導入と関連しているのか、という議論がありました。モロッコの15000年前頃人類遺骸のDNA解析では、アフリカ北部は完新世と農耕開始の前にユーラシアから顕著な遺伝子流動を受けた、と示されました(関連記事)。

 さらに、アフリカ北部の7000年前頃となる前期新石器時代の個体群もこの15000年前頃のモロッコ個体群系統を継承していましたが、後期新石器時代となる5000年前頃の集団はイベリア半島集団の遺伝的影響を受けており、ジブラルタル海峡間の遺伝子流動が示唆されます(関連記事)。これら前期および後期新石器時代の個体群の遺伝的構成の違いから、アフリカ北部における農耕拡大は文化(アイデア)と人々の移動の両方が含まれていた、と示唆されます。

 サハラ砂漠は、断続的な「緑のサハラ」の期間を除いて、人類の移動の地理的障壁でした。エジプトの現代人集団とミイラのDNAに関する研究では、サハラ砂漠を越えて南方から現代のアフリカ北部人への遺伝子流動は低水準で、最近起きたと示唆されています(関連記事)。しかし、このエジプトのミイラよりも古いモロッコの更新世や新石器時代の個体群は、サハラ砂漠以南のアフリカ人と遺伝的により類似しています。「緑のサハラ」は12000~5000年前頃なので、モロッコの15000年前頃の更新世個体群と7000年前頃の前期新石器時代個体群は、前者が「緑のサハラ」の前、後者がちょうどその期間に相当します。

 しかし、両個体群ともにサハラ砂漠以南のアフリカ人とは同じような遺伝的近縁を示しており、類似の遺伝的構造を示します。一方、アフリカ北部の現代人は、サハラ砂漠以南のアフリカ人系統をわずかにしか有していません。結果として、サハラ砂漠の湿潤期と乾燥期の循環は、アフリカ北部とサハラ砂漠以南のアフリカとの間の遺伝子流動の量に影響を与えたようですが、これらの移住の正確な動態は、理想的にはゲノム規模の古代DNA研究でさらに調査されねばなりません。


●サハラ砂漠以南のアフリカ

 サハラ砂漠以南のアフリカの現代人および古代人のDNA研究では、ひじょうに異なる2段階の歴史があった、と示唆されました。農耕開始前の狩猟採集民集団は、地理的位置が集団の遺伝的関係を密接に反映する、「距離による隔離」と関連していたようです。しかし、過去の狩猟採集民の長距離移住は除外できず、この問題に関しては古代DNA研究が重要となります。サハラ砂漠以南のアフリカの初期の歴史は、農耕開始後の比較的短い期間におけるも大規模な人口移動と対称的です。

 サハラ砂漠以南のアフリカにおける農耕の起源は依然として不明確ですが、作物栽培は少なくとも3地域独立して始まったと考えられており、それはサハラ・サヘル地域での7000年前頃と、エチオピア高原での7000~4000年前頃と、アフリカ西部の5000~3000年前頃です。サハラ砂漠以南のアフリカにおける農耕は、これらの起源地から他地域へと拡大し、アフリカ南端への家畜動物の到達は2000年前頃、作物栽培は1800年前頃です。現代人および古代人のゲノム調査から、アフリカにおける農耕集団の拡大に関する仮説が確認されました。


●サハラ砂漠以南のアフリカにおける食料生産者の移住

 サハラ砂漠以南のアフリカにおいて最初に解析された人類のゲノムは、エチオピアのモタ(Mota)の4500年前頃の個体に由来します(関連記事)。モタ個体とアフリカ東部現代人を比較すると、現代人ではモタ個体よりもユーラシア系統の割合が増加している、という明確な証拠が得られたことから、ユーラシアからアフリカ東部への「逆流」が明らかになりました。しかし、その後の研究により、アフリカ北東部の特定集団、たとえばスーダンのディンカ(Dinka)やヌエル(Nuer)集団と、アフリカ東部のサブエ(Sabue)狩猟採集民は、現代までユーラシア系統との混合がほとんどない、と示されました。

 8100年前頃までさかのぼるアフリカ東部および南部の15人のゲノム解析では、このアフリカ東部およびユーラシア系統を有する古代の牧畜民はアフリカ南部へと移動し、牧畜をもたらした、と明らかになりました。これは、常染色体やY染色体や乳糖耐性多様体に基づく以前の研究を確証し、アフリカ南部牧畜民のゲノムにおけるアフリカ東部系統の存在を示唆します。

 アフリカ東部における農耕導入は、ケニアとタンザニアの後期石器時代・牧畜新石器時代・鉄器時代と関連する41個体の研究により、さらに洗練されました(関連記事)。その研究では、牧畜民の拡大に関連する2段階の混合が推測されました。最初の混合事象は、レヴァントもしくはアフリカ北部集団と関連した非アフリカ系統を有する集団と、現代のディンカ人およびヌエル人と関連する集団との間で、アフリカ北東部において6000~5000年前頃に起きました。

 第二の混合事象は、第一の混合集団と、モタ個体やケニアの後期石器時代個体群と関連したアフリカ東部の狩猟採集民との間で、4000年前頃に起きました。この非アフリカ系統のアフリカ東部への拡散経路はまだ不明で、ナイル川渓谷もしくは「アフリカの角」経由だった、と提案されています。またこれらの知見は、牧畜新石器文化を形成した、少なくとも2回の年代的に異なるアフリカ東部への牧畜民の南進を指摘します。

 興味深いことに、遺伝的分析では、考古学的に異なる2つの牧畜新石器文化である、エルメンテイタン(Elmenteitan)とサバンナ牧畜新石器文化の集団間で差異が見つかりませんでした。これは、考古学的に異なる文化が必ずしも遺伝的に異なる集団であることを意味しない、と示唆します。その後のアフリカ東部における鉄器時代は、同様に複雑でした。現代バンツー語族と関連するアフリカ西部からの遺伝子流動に続くスーダンの関連する遺伝子流動は、この地域の鉄器時代開始と作物栽培導入を示します。

 バンツー語族の拡大はアフリカ西部で5000~3000年前頃に始まり、世界でも最大級の農耕拡大事象の一つです。アフリカ西部の考古学的記録では、増加する定住は農耕拡大とその後の鉄の使用により示されます。現在、サハラ砂漠以南のアフリカのほとんどの地域では、バンツー語族が主要な言語です。以前の遺伝学的研究では、バンツー語族集団の現在の分布は、言語と農耕(文化)のみの拡大というよりもむしろ、人々の移動の結果だった、と示唆されています。これは古代DNA研究により確認されており、アフリカの東部および南部の鉄器時代遺骸は、遺伝的に現在のアフリカ西部集団と集団化します。

 アフリカ南部の7個体のゲノムデータにより、2000年前頃となる後期石器時代の3個体は現代のコイサン狩猟採集民と関連しており、500~300年前頃となる鉄器時代の4個体はアフリカ西部現代人と関連している、と明らかになりました。これにより、アフリカ南部における大規模な集団置換が確認されました。コイサン狩猟採集民の後期石器時代の祖先は、アフリカ西部系統を有するバンツー語族農耕民の侵入により置換された、というわけです。

 アフリカ南部では、バンツー語族がコイサン狩猟採集民からかなりの量の遺伝子流動を受けました。対照的に、マラウイとモザンビークの現代人集団は、バンツー語族拡大前にこの地域に存在した狩猟採集民と僅かしか若しくは全く混合しておらず、バンツー語族の移住が複雑な過程だったことを示唆します。バンツー語族拡大期間における人口動態と移住経路をより明確にするには、さらなる古代DNA研究と、赤道付近のアフリカ現代人集団のより高い網羅率のゲノムデータが必要です。以下、アフリカにおける農耕開始前の集団分布と、牧畜および農耕の拡大経路を示した本論文の図2です。
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●サハラ砂漠以南のアフリカにおける深い人口史

 アフリカ全域で農耕集団が大規模に移住する前には、狩猟採集民集団が勾配パターンで関連しており、距離と遺伝的近縁性とが比例関係にあったようです。このパターンは、アフリカ南部のコイサン狩猟採集民の研究で示されているように、現代の狩猟採集民集団間の関係にも反映されています。同様に、古代DNA研究では、農耕開始前におけるアフリカ東部と南部の狩猟採集民集団間の遺伝的勾配が明らかになっています。

 この勾配はアフリカ西部・中央部のシュムラカ(Shum Laka)岩陰の古代狩猟採集民にも当てはまるかもしれず、この古代狩猟採集民は、現在のアフリカ西部・中央部の熱帯雨林狩猟採集民と関連しています(関連記事)。シュムラカ個体群は、図1bの主成分分析のPC1軸では、アフリカ南部狩猟採集民とアフリカ西部のニジェール・コンゴ語族集団との間に位置します。古代および現代の狩猟採集民のみを対象とした主成分分析と比較して、農耕民を含む主成分分析では、地理との相関が低下します。

 古代および現代の狩猟採集民の遺伝的系統は、アフリカ全域の集団間の長期的な勾配関係を示唆しているかもしれませんが、あらゆる大規模な移住がこのパターンの根底にあるのかどうか判断するには、古代DNA研究のデータが必要です。ヨーロッパの現代人および古代人のDNA研究から、距離による孤立のパターンは、とくに混合していない現代人集団が存在しない場合、遠い過去におけるいくつかの大規模な移動と置換を隠せる、との教訓が得られました。したがって、アフリカの深い歴史はまだ明らかにされていませんが、古代DNA研究はすでに推論に貢献し始めました。

 2000年前頃となるアフリカ南部の後期石器時代人の高網羅率のゲノムデータから、「Ju/'hoansi」集団を含む全ての現代コイサン集団は、アフリカ南部に牧畜をもたらしたユーラシア・アフリカ東部集団から9~22%の遺伝的影響を受けている、と明らかになりました(関連記事)。これは図1の主成分分析で示され、現代コイサン集団はアフリカ東部人の方へと近づいており、中にはバンツー語族との混合によりアフリカ西部人にも近づいている標本もあります。

 「Ju/'hoansi」集団は以前には、近隣集団との混合がほとんどなく、現生人類集団間の最初の分岐事象(変異率に基づき推定された20万~10万年前頃)を表すコイサン集団とされていました。混合していない後期石器時代個体を他のアフリカ人と比較すると、分岐年代は35万~26万年前頃にさかのぼり、これは現生人類系統が解剖学的・行動学的に現代的になっていった、中期石器時代の起源に近づきます。この見解では、コイサン集団と他の全集団との最初の分岐が322000年前頃、熱帯雨林狩猟採集民の分岐が221000年前頃、アフリカ西部と東部の分岐が137000年前頃と推定されています。階層的分岐系統樹モデルは、集団間の一般的な関連性を適切に推定しますが、これは人類史の簡略化された表現であり、遺伝子流動や移住や深い集団構造を含むもっと複雑なモデルが、将来の研究では考慮されねばなりません。

 いくつかの研究では、すでにアフリカ西部における深い合着系統の証拠が報告されており、現代ではもはや分離した集団としては存在しない、現代人とは遠い関係にある「ゴースト」集団による、深い起源の混合の可能性が示唆されています。最近の研究では、アフリカ集団におけるネアンデルタール人との混合が以前の推定よりも高かったと推定されており(関連記事)、アフリカ集団における深い人口構造が追加されました。

 また最近の別の研究では、連続分岐モデルというよりもむしろ、4祖先的集団間の放射モデルが示唆されています(関連記事)。この放射モデルには、コイサン集団とアフリカ中央部熱帯雨林狩猟採集民とアフリカ東部および西部人と「ゴースト現代」集団につながる系統が含まれています。さらに、このモデルには「ゴースト非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)」も追加され、アフリカ西部集団はゴースト古代型ホモ属系統からわずかに、ゴースト現生人類系統から多く、遺伝的影響を受けた、と推測されています。しかし、データに適合する他のモデルもあります。

 近年では、アフリカにおける現生人類の多地域起源の可能性を示唆する証拠が増えてきており(関連記事)、深いアフリカの歴史に関する将来の研究では、現実的なモデルのシミュレーションのより厳密な検証が必要です。さらに、地理および気候モデルが、古代DNA研究から得られた時系列データとともに、これらのモデルに組み込まれねばなりません。これは過酷な作業となりますが、いくつかの枠組みはすでに設定されており、古代DNAデータがアフリカ現代人集団のゲノムデータとともにより多く利用可能になると、将来の研究はアフリカにおける深い遺伝的歴史をさらに明らかにするでしょう。古代DNA研究と他分野からの補完的研究は、先史時代をさらに明らかにし続け、現生人類の過去と現在と将来を理解するのに役立つかもしれません。


 本論文は、近年進展したアフリカに関する主要な古代DNA研究を整理しており、たいへん有益だと思います。本論文でとくに重要とされている研究の多くは以前当ブログでも取り上げていましたが、見落としていたり、取り上げようと思って放置してしまったりしているものもあり、アフリカの人類史の流れを改めて確認できたとともに、新たに得た知見も多く、アフリカにおける古代DNA研究の現状を把握するのに適した論文だと思います。アフリカは熱帯地域を多く含んでおり、古代DNA研究に適していない地域と言えるでしょうが、それでも着実に進展していることが本論文で示されており、今後の研究の進展に期待しています。難しそうではありますが、サハラ砂漠以南のアフリカの更新世人類のDNAデータが得られれば、アフリカの人類史の解明に大きく貢献しそうなので、成功を願っています。なお、おそらくは本論文の投稿後に、サハラ砂漠以南のアフリカにおける完新世人類集団の複雑な移動と相互作用に関する研究が公表されており(関連記事)、今後もアフリカの完新世の古代DNA研究は進展していく、と期待されます。


参考文献:
Vicente M, and Schlebusch CM.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 8-15.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.008

大河ドラマ『麒麟がくる』第22回「京よりの使者」

 3ヶ月近くの中断を挟んでの放送再開となります。中断前は桶狭間の戦いまで進みましたが、再開後初回となる今回は、桶狭間の戦いから4年後となる1564年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)から始まります。明智光秀(十兵衛)は相変わらず家族とともに越前におり、貧しい生活を送っていました。当時、都では三好長慶が実権を握っており、将軍の足利義輝は傀儡となっていました。義輝は改元の申請を怠るなど(こうしたところはよく調べられているな、と思います)すっかり無気力になっており、細川藤孝は光秀を越前に訪ね、上洛して義輝の真意を探ってほしい、と光秀に依頼します。光秀は今後の自分の道を切り開くためにも、都に行くことを決断します。

 薬をめぐって望月東庵と言い争いになって診療所を出た駒は、伊呂波太夫・関白の近衛前久とともに大和を訪れ、近衛前久は大和の松永久秀を訪ね、久秀の息子の久通が義輝殺害計画に関わっているのではないか、と問い質しますが、久秀は一笑に付します。駒は大和で貧民たちに施しをしている僧侶の覚慶(足利義昭)と出会います。上洛した光秀は、三淵藤英から、義輝が三好長慶を討とうと考えていることを知らされます。義輝は光秀を三好長慶討伐の計画に加えようとしていましたが、冷静に考えて止めた、と伝えます。光秀は義輝に、織田信長を上洛させるよう、提案します。光秀は義輝に、信長を上洛させると約束しますが、改めてその困難を悟ります。その頃、病に伏せていた長慶が没します。

 久々の本放送となりましたが、これまでの人物関係描写が踏まえられており、近衛前久や覚慶という新たな重要人物も登場して楽しめ、今後の展開にも期待させる内容でした。今回は、光秀の娘の玉と藤孝との出会いが描かれ、後に藤孝の息子の忠興と玉が夫婦となる伏線なのでしょう。すでに松平元信(徳川家康)と藤吉郎(羽柴秀吉)から好意を寄せられている駒ですが、足利義昭とも面識ができ、さすがにご都合主義的になりすぎているかな、との感は否めません。もっとも、駒と家康・秀吉・義昭とのつながりが、今後の話に重要な役割を担うかもしれず、そこは大家の作だけに、期待しています。

一ノ瀬俊也『東條英機 「独裁者」を演じた男』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2020年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。東条英機については基本的な知識が欠けているので、首相就任前の軍人としての東条英機も詳しく取り上げている本書は、私にとって大いに有益な一冊となりました。東条英機が、その父である軍人の英教から強い反長州閥意識を受け継いだことは知っていましたが、英教の経歴についてはほとんど知らなかったので、この点も勉強になりました。英教は陸大一期生で首席という優秀な人物でしたが、狷介なところがあり、処世に長けていなかったようで、それが中将での退官の要因になったようです。また、英教は兵学では優秀だったものの、実戦指揮では優秀とは言い難く、日露戦争での失態が中将で退官することになった最大の直接的要因だったようです。

 東条英機は父親から強い影響を受けたようですが、異なる点もあります。それは旧藩とのつながりで、英教は出身の盛岡藩への帰属意識をまだ強く有していたようでしたが、息子の英機は幼年学校から士官学校を経て職業軍人となる過程で、出自の盛岡藩ではなく陸軍を「お家」とし、陸軍士官としての自尊心と天皇への忠誠を内面化していったようです。これは、1855年生まれで思春期に明治維新を体験した英教と、1884年生まれで誕生時から「近代」を生きた英機との世代差を反映しているのでしょう。この東条の世界観と信念は、最期まで変わらなかったようです。

 父の英教は退官前に中将に名誉進級した後に予備役編入となり、東条英機は上流とは言えない、当時日本で勃興しつつあった中産階級で育ちました。そこが、東条英機の「平民派」的な性格を育み、首相就任後にゴミ箱を確認するような行動を取った背景になったようです。また本書は、そのように上流階級ではなかった東条家が、日露戦争後の「戦後デモクラシー」の風潮に乗っていた、という側面も指摘します。日露戦争は徴兵されて出兵した国民だけではなく、財政面で「銃後」の国民にも多大な負担を強いました。その結果、国民の側に自分たちにも立場の上下に関わらず発言する権利がある、との観念が浸透していきます。本書は、昭和期の陸軍における「下剋上」的状況は、この日露戦争後の「戦後デモクラシー」に由来するかもしれない、と指摘します。

 東条英機は第一次世界大戦後、ドイツに留学します。これが、東条の軍人としての信念に大きな影響を与えました。東条は、今後の戦争が国力に依存すると強く認識し、戦争指導は統帥権の独立を前提としつつも、国力や政治との調和に基づかねばならない、と考えるようになりました。日露戦争後、次第に軍人の相対的地位が低下し、とくに第一次世界大戦後の世界的な軍縮傾向の中、軍人の間では不遇感と危機感が強くなっており、過去の栄光を持ち出して国民や政治家や官僚に強く出るわけにはいきませんでした。また、この軍人、とくに陸軍の不遇感が、功名を求めての「下剋上」的雰囲気を醸成した側面もあるようです。

 東条はドイツから帰国後、陸大教官を務めた後、歩兵連隊長に任ぜられますが、ここでは兵士たちの食事にも気を遣う「人情連隊長」と言われました。これは、軍事と国民との調和という信念もありますが、より実際的な問題として、第一次世界大戦後に日本でも知識層を中心に左翼思想が浸透する中、徴兵された国民の扱いが疎かだと、軍部への不信感を高めて左翼勢力の伸張を許してしまう、という危機感があったようです。そのため東条は、除隊後の国民の再就職にも力を入れました。

 ドイツに留学した東条は、永田鉄山などと陸軍の中堅将校団体に加わり、総力戦体制の確立を目指し、その後、陸相就任前にはとくに航空戦力を重視するようになります。当初、東条は小畑敏四郎と懇意にしていましたが、やがて感情的に強く反発し合い、犬猿の仲となります。これは、人事問題とも大きく関わっていますが、「統制派」で総力戦体制の構築を重視する東条と、精神主義的で対ソ連戦志向の「皇道派」との対立でもありました。永田が1935年に「皇道派」に惨殺されるなど、両者の対立は激化しますが、その翌年の二・二六事件の結果、「皇道派」は決定的に没落します。東条は、後に妻を介して小畑と和解しようとしたようで、単に狭量なだけの人物ではなかったようです。もっとも、小畑は拒絶したそうですが。

 陸相就任から首相就任直後までの東条は、内心では対米開戦をかなり迷っていたのではないか、と本書は推測します。東条も、内心では日中戦争(公的には「事変」扱いですが)に深入りしすぎたことを後悔していたものの、陸軍中堅層以下と国民からの突き上げ、何よりも東条自身も含めて陸軍首脳部としての対面で、とても中国から撤兵するとは言いだせない状況でした。斎藤隆夫の衆議院での「反軍演説」に代表されるように、陸軍は日中戦争で軍事的に圧倒していると吹聴しているのに、中国から領土や賠償金などを取れないとはどういうことだ、という思いは国民の間で広く共有されていました。多くの犠牲者(中国側の被害は日本側よりもはるかに多いわけですが)を出し、多額の予算を投じながら、米国の要求通りに中国から撤兵することはとてもできない、というわけです。もしそれをやれば、国民が日比谷焼打事件のような暴動を起こすか、陸軍強硬派が二・二六事件のように決起するかもしれない、と東条は恐れていました。

 東条は1941年8月に総力戦研究所から報告を受けており、対米戦が厳しいことも内心では気づいており、海軍の方から対米戦は不可と言ってもらいたかったのではないか、と本書は推測します。しかし、海軍の方は対米戦を想定して軍備を拡充してきた、つまり予算を取ってきた、という経緯があり、今さら対米戦不可とは対面上ひじょうに言い出しにくい状況にありました。本書は、東条を代表とする陸軍側も海軍も、対米交渉妥結にせよ対米開戦にせよ、相手に責任を押しつけたかったのではないか、と指摘します。ここは、人間心理としてひじょうによく理解できるというか、共感できるところです。まあ、一国の指導層がそういうことでは困るわけですが。

 東条は、対米開戦か否か、なかなか決断を下せない状況で、思いもかけず首相に就任します。結局、海軍の側も、対米戦不可とは明言できず、対米開戦に容認的な立場を示すことにより、対米開戦が決定されます。対米英開戦後、東条は首相就任後それまで悲愴な顔をしていることが多かったのに柔和な顔になり、開戦直後の真珠湾攻撃やマレー沖海戦での戦果を知り、たいへん嬉しそうな表情を見せたそうです。これは、期待以上の戦果を挙げたこともあるのでしょうが、何よりも、対米開戦か米国の要求を受け入れての「臥薪嘗胆」か、悩んでいた東条の心境は、どちらでもよいから早く決めて楽になりたい、というもので、それは天皇や他の指導者や国民も同じだったかもしれない、と本書は指摘します。これは人間心理としてよく理解できます。中国からの撤兵を伴う避戦による国民や右翼や軍部中堅層以下の憤激という目先の困難から逃れようとして、長期的にはもっと悲惨な事態に突入してしまった、ということでしょうか。対米英開戦時の日本人は狂っていた、というような言説を今でもよく目にしますが、「合理的な判断」の積み重ねという側面が多分にあるように思います。また、この決断の前提として、東条もそうですが、対米英戦は絶滅戦争にはならない、という日本の指導層の認識もあったようです。

 首相として対米英開戦を決断した東条は、緒戦の快進撃により求心力を高めたようにも見えますが、国民や右翼や皇道派などの反抗を警戒していた、と本書は指摘します。第一次世界大戦後にドイツに留学した東条は、ドイツが軍事面ではやや優勢だったにも関わらず敗北した理由として、国民が経済封鎖による飢餓に不満を抱き耐えられなかったから、ということをよく理解していました。そのため東条は、国民の間で不満が高まっていないか、強く警戒しました。その結果として、ゴミ箱を視察する首相という、現代では嘲笑されることの多い行動も見られたわけですが、本書は、東条が「人情宰相」として国民に親しまれるよう演技をしていた側面が多分にある、と指摘します。これは、東条が「平民派」として育ったことと関連しており、本書は、たとえば東条と敵対的関係にあった石原莞爾ならば、その傲岸不遜からして、東条のような総力戦体制の指導者を演じられなかっただろう、と指摘します。一方で本書は、永田鉄山ならばそうした役回りを案外器用にこなしたかもしれない、と指摘します。本書はとくに言及していませんが、こうした総力戦体制下の「平民派」として親しまれるような首相は、前任の近衛文麿にもとても務まらなかったでしょう。

 戦時指導者としての東条は、現在では精神力頼みの頑迷固陋な人物との印象も一部で根強いかもしれませんが、本書は、東条が精神力を強調したのは、陸相就任前から重視していた航空戦力の充実が日本の低い生産力では不可能である現状を認識し、ある意味で「合理的な」選択だったことを指摘します。物量を重視し、その不足を強く認識しているからこその、精神力強調だった、というわけです。本書は、当時の国民の一部にも、特攻作戦を「合理的」と認識するような風潮があった、と指摘します。

 東条はサイパン陥落後に、重臣たちに見放されたことを悟り、総辞職に追い込まれます。重臣たちに見放されては、東条が(少なくとも主観的には)忠誠を尽くしてきた天皇からの信用はもはや失われてしまう、との判断がありました。本書は、東条が帝大卒の官僚や政治家といった指導層とは関係が良好ではなく、それは「教養」の格差も一因だったことを指摘します。「平民派」として育ち、少年の頃よりずっと陸軍の世界に生きてきた東条にとって、そうした「教養」を身につけることが難しかったことは否定できないでしょう。また、政権末期の東条は、追い詰められて精神的に不安定なところがあったようです。

 敗戦後、東条は戦犯として逮捕され、死刑となります。東京裁判での東条は天皇の免責に尽力し、失言もあったものの、天皇の免責により日本を自陣営に確保しておこうと考えた米国側の意向もあり、天皇が訴追されることはありませんでした。東条は敗戦が決定すると、敵の脅威に怯えて簡単に降伏する無気力な指導層と国民とは夢にも思わなかった、そんな指導層と国民を信頼して開戦を決断した自分には指導者としての責任がある、と述べています。敗戦に対する国民への責任転嫁と言えますが、本書は、国民を総力戦の同志とみてきた東条にとって、敗戦は国民による掌返し・裏切りと感じられたのだろう、と指摘します。

 この国民への責任転嫁もそうですが、東条には器の小ささが目立ち、首相や陸相はもちろん、そもそも将官級の器でさえなかった、とも思われます。そんな東条が陸軍内で出世して首相にまで就任したのは、陸軍の利益を強引に貫く姿勢を崩さなかったからだ、と本書は指摘します。もちろん、東条が軍事官僚として優れた事務処理能力を有していたことも大きかったのでしょう。それでも、その時々で懸命に自分の立場を演じた東条には、「怪物」・「天才」ではない凡人としての生涯が見えてきて、もちろん東条は私よりもずっと優秀ではありますが、凡人の私にとっては、責任転嫁を図るようなところも含めて、歴史上の多くの有名人の中では身近な人物として感じられます。また、「平民派」的なところも、私にとって東条を身近に感じる要因となります。まあ、そうしたところが、東条が当時の指導層に嫌われたり軽蔑されたりした理由にもなったのでしょう。東条の生涯についてはよく知らなかったので、本書から得たものは多く、また興味深く読み進められました。

陶器製調理鍋に残る食習慣の痕跡

 陶器製調理鍋に残る食習慣の痕跡に関する研究(Miller et al., 2020)が公表されました。この研究は、1年間にわたって週1回の頻度で、素焼きの陶器製の調理鍋で同じ食材を繰り返し調理した後、最終回の調理だけレシピを変える実験を行ない、調理鍋の残渣が、最終回の調理によるものなのか、調理鍋が使用された期間中の調理の蓄積を表しているのか、を調べました。レシピには小麦・トウモロコシ・鹿肉などの食材が含まれていました。

 陶器製の調理鍋に存在した残渣は、調理された食事に由来する炭水化物・脂質・タンパク質から構成されており、この残渣の炭素同位体値と窒素同位体値の化学分析から、それぞれの調理鍋に存在する焦げた食物の残渣は最後に調理された食材のもので、毎回の調理により変化した、と示唆されました。調理鍋の内部表面に形成され、調理時に食物と最も直接的に接触していた薄い残渣層の化学組成は、それまでに調理された食事の混合物でしたが、最後に調理された食事のものに最もよく似ていました。さらなる分析から、脂質は、一定回数の調理を経て陶器の壁面に吸収され、レシピが変わってもすぐには置き換わらず、時間をかけてゆっくりと置き換わり、この調理鍋の使用期間中に調理された食材の混合物が形成される、と示唆されました。

 遺跡から出土した陶器製の調理鍋の3要素(炭化した内容物の残骸、内部表面上の残渣、陶器の壁面に吸収された脂質)を全て分析することにより、さまざまな時間規模で陶器製の調理鍋を使った調理活動を明らかにでき、古代文化で用いられたさまざまな資源を解明して、食事の支度に使用された陶器の寿命を推定できるかもしれない、というわけです。応用範囲の広そうな実験考古学的成果で、今後の研究の進展が注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:陶器製の調理鍋には食習慣の古代史が記録されている

 遺跡から出土した陶器製の調理鍋の3つの要素(炭化した内容物の残骸、内部表面上の残渣、陶器の壁面に吸収された脂質)を分析することは、考古学者たちが、古代文明で用いられた料理の習慣を時系列で詳しく明らかにするのに役立つ可能性がある。この知見は、1年間の調理実験によって得られたもので、今週、Scientific Reports で発表される。

 Melanie Miller、Helen Whelton、Jillian Swiftが率いる7人の考古学者チームは、1年間にわたって週1回の頻度で、素焼きの陶器製の調理鍋で同じ食材を繰り返し調理した後、最終回の調理だけレシピを変える実験を行い、調理鍋の残渣が、最終回の調理によるものなのか、調理鍋が使用された期間中の調理の蓄積を表しているのかを調べた。レシピには小麦、トウモロコシ、鹿肉などの食材が含まれていた。

 陶器製の調理鍋に存在した残渣は、調理された食事に由来する炭水化物、脂質、タンパク質からなっており、この残渣の炭素同位体値と窒素同位体値の化学分析から、それぞれの調理鍋に存在する焦げた食物の残渣は最後に調理された食材のものであり、毎回の調理によって変化したことが示唆された。調理鍋の内部表面に形成され、調理時に食物と最も直接的に接触していた薄い残渣層の化学組成は、それまでに調理された食事の混合物だったが、最後に調理された食事のものに最もよく似ていた。さらなる分析から、脂質は、一定回数の調理を経て陶器の壁面に吸収され、レシピが変わってもすぐには置き換わらず、時間をかけてゆっくりと置き換わり、この調理鍋の使用期間中に調理された食材の混合物が形成されることが示唆された。

 考古学者たちは、3種類の残渣を全て分析することで、さまざまな時間スケールで陶器製の調理鍋を使った調理活動を明らかにでき、古代文化で用いられたさまざまな資源を解明して、食事の支度に使用された陶器の寿命を推定できる可能性がある。



参考文献:
Miller MJ. et al.(2020): Interpreting ancient food practices: stable isotope and molecular analyses of visible and absorbed residues from a year-long cooking experiment. Scientific Reports, 10, 13704.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-70109-8

恋愛に関連しているかもしれない遺伝子

 恋愛に関連しているかもしれない遺伝子についての研究(Sadikaj et al., 2020)が公表されました。この研究は、親密な関係にある男女111組(計222人)に対して、20日間にわたり、本人たちの社会的行動(他者とほほ笑み合ったり笑い合ったりすること、皮肉なコメントをすること、他者に何かを頼んだり譲歩したりすることなど)、パートナーの行動の知覚、パートナーとの交流時の感情について自己申告してもらい、そのデータを調べました。222人中118人(女性65人、男性53人)からは、遺伝情報も得られました。

 その結果、CD38遺伝子の一塩基多型であるCD38.rs3796863が、恋愛パートナーとの日常的な相互作用における伝達行動(愛情表現など)に関連している、と明らかになりました。CD38.rs3796863には、AとCの2種類の多様体があります。そのためCD38遺伝子は、AA・CC・ACの3通りの組み合わせ、つまり遺伝型が存在します。この研究は、CC型の参加者では、AA型やAC型の参加者よりも伝達行動が活発なことを明らかにしました。CC型の参加者は、AA型やAC型の参加者よりもパートナーの伝達行動が活発だと感じており、否定的な感情(心配・欲求不満・怒りなど)を持つことが少ないことも明らかになりました。また、CC型の参加者は、パートナーとの関係の調整(関係の質や支援の知覚など)がより高い水準で行なわれた、と自己申告しました。

 この研究に参加したカップルには、1つのパターンが認められました。参加者自身の行動、パートナーの行動の知覚、否定的な感情と関係調整の経験が、参加者自身の遺伝型ともパートナーの遺伝型とも同じように関連していました。これらの知見からは、非ヒト動物の愛着行動に関連するCD38遺伝子の多様性が、ヒトとヒトの絆を支える行動や知覚において重要な役割を果たしている可能性が示唆されます。非ヒト動物の愛着行動とヒトの恋愛行動には共通の遺伝的基盤があるわけで、人類進化の観点からも注目される研究です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:ヒトは恋愛関係のダイナミクスに関連する遺伝子を持っているかもしれない

 ヒト以外の動物の愛着行動に関与するCD38遺伝子の多様性が、ヒトの日常生活における恋愛関係のダイナミクスに関連している可能性があることを報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

 今回、Jennifer Bartz、Gentina Sadikajたちの研究チームは、親密な関係にある男女111組(計222人)に対し、20日間にわたって、本人たちの社会的行動(他者とほほ笑み合ったり笑い合ったりすること、皮肉なコメントをすること、他者に何かを頼んだり、譲歩したりすることなど)、パートナーの行動の知覚、パートナーとの交流時の感情について自己申告してもらいそのデータを調べた。222人中118人(女性65人、男性53人)からは、遺伝情報も得た。

 今回の研究から、CD38遺伝子のSNP(一塩基多型)であるCD38.rs3796863が、恋愛パートナーとの日常的な相互作用における伝達行動(愛情表現など)に関連していることが明らかになった。CD38.rs3796863には、AとCの2種類のバリアント(対立遺伝子)がある。そのためCD38遺伝子は、AA、CC、ACの3つの組み合わせ、つまり遺伝型が存在する。Bartzたちは、CC型の参加者が、AA型やAC型の参加者よりも伝達行動が活発なことを明らかにした。CC型の参加者は、AA型やAC型の参加者よりもパートナーの伝達行動が活発だと感じており、否定的な感情(心配、欲求不満、怒りなど)を持つことが少なかった。また、CC型の参加者は、パートナーとの関係の調整(関係の質や支援の知覚など)がより高いレベルで行われたと自己申告した。

 今回の研究に参加したカップルには、1つのパターンが認められた。参加者自身の行動、パートナーの行動の知覚、否定的な感情と関係調整の経験が、参加者自身の遺伝型ともパートナーの遺伝型とも同じように関連していたのだ。

 以上の知見は、CD38遺伝子の多様性が、ヒトとヒトの絆を支える行動や知覚において重要な役割を果たしている可能性を示唆している。



参考文献:
Sadikaj G. et al.(2020): CD38 is associated with communal behavior, partner perceptions, affect and relationship adjustment in romantic relationships. Scientific Reports, 10, 12926.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-69520-y

バッタが群れになる原因となるフェロモン

 バッタが群れになる原因となるフェロモンに関する研究(Guo et al., 2020)が公表されました。ワタリバッタ類の大発生が、世界各地で農業および環境の安全を脅かしています。その中で、最も危険なバッタ種の一つであるトノサマバッタ(Locustia migratoria)は、全世界の農業に対する深刻な脅威になっています。ワタリバッタの孤独相から破壊的な群生相への相変異、および大群の形成では、集合フェロモンがきわめて重要な役割を担っています。しかし、既知の候補化合物で、ワタリバッタの集合フェロモンの基準を全て満たすものは存在しません。

 この研究は、行動アッセイ、電気生理学的記録、嗅覚受容体の特性評価、野外実験を用いて、4-ビニルアニソール(4VA;別名4-メトキシスチレン)がトノサマバッタの集合フェロモンであることを明らかにしています。群生相と孤独相の個体はいずれも、齢や性に関係なく4VAに強く誘引されました。4VAは群生相の個体から特異的に放出されますが、その産生は孤独相の個体でも4~5匹集まると誘発される、と明らかになりました。

 4VAは、トノサマバッタの触角の特定の感覚細胞(鐘状感覚子)の応答を特異的に誘発しました。また、4VAの特異的な嗅覚受容体としてOR35が特定されました。CRISPR–Cas9を用いてOR35をノックアウトすると、触角の電気生理学的応答が顕著に低下し、4VAの行動誘引性が損なわれました。さらに、野外での捕獲実験により、4VAの実験個体群および野生個体群に対する誘引性が確認されました。これらの知見は、トノサマバッタの集合フェロモンを特定したもので、ワタリバッタ類の新たな防除戦略を編み出すための洞察をもたらします。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


動物行動学:トノサマバッタを敵の大群に変えるフェロモン

 バッタが群れになる原因のフェロモンが明らかになったことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。この知見は、バッタの大量発生を制御する新しい方法の開発に役立つかもしれない。

 最も広範囲に分布し、最も危険なバッタ種の1つであるトノサマバッタ(Locustia migratoria)は、全世界の農業に対する深刻な脅威になっている。今回の研究で、Le Kangらの研究チームは、群生するトノサマバッタが放出する4-ビニルアニソール(4VA)という低分子有機化合物を特定した。この分子は、年齢や性別を問わず、全てのトノサマバッタに対して強力な誘引物質として作用する。孤独相のトノサマバッタ4~5匹を同じ場所に収容したところ、これらのトノサマバッタもこのフェロモンを産生し、放出し始めた。また、4VAは、野外実験でもトノサマバッタを誘引した。

 このフェロモンは、バッタの触角にある特定の感覚細胞(鐘状感覚子)によって検出され、この分子が嗅覚受容体OR35と特異的に結合する。Le Kangたちは、遺伝子操作でOR35を欠損させたトノサマバッタが、4VAに誘引されにくくなると報告している。

 Le Kangたちは、以上の知見に基づいて、今後の研究の有望なシナリオ候補をいくつか明示している。例えば、合成した4VAを屋外で使用し、トノサマバッタを罠におびき寄せて駆除できる可能性がある。また、4VA分子の活性を阻害する化学物質を放出することで、トノサマバッタが大群になって移動するのを防止できる可能性もある。こうしたシナリオやその他の関連戦略の実行可能性を検証するためには、さらなる研究が必要となる。


昆虫行動学:4-ビニルアニソールはトノサマバッタの集合フェロモンである

昆虫行動学:ワタリバッタを集合させるもの

 孤独相のワタリバッタは無害だが、集合して大群を形成すると農業および生態系に害が及ぶ。ワタリバッタ類の集合を促進する化合物の正体はこれまで不明であった。今回L Kangたちは、4-ビニルアニソール(4VA)と呼ばれる低分子有機化合物がトノサマバッタ(Locusta migratoria)の集合フェロモンであることを明らかにしている。4VAは群生相の個体によって特異的に放出され、雌雄両方の個体を誘引する。著者たちは、4VAの嗅覚受容体としてOR35を特定し、これが欠損するとトノサマバッタが集合しなくなることを示した。



参考文献:
Guo X. et al.(2020): 4-Vinylanisole is an aggregation pheromone in locusts. Nature, 584, 7822, 584–588.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2610-4

ムカシトカゲのゲノム

 ムカシトカゲのゲノムに関する研究(Gemmell et al., 2020)が公表されました。ムカシトカゲ(Sphenodon punctatus)は、かつてゴンドワナ大陸全域に広く存在したムカシトカゲ目爬虫類に属する唯一の現生種で、ニュージーランドに固有の象徴的な種です。絶滅したステム群爬虫類からは恐竜類・現生爬虫類・鳥類・哺乳類が進化しましたが、このステム群爬虫類との重要な接点であるムカシトカゲは、祖先的な羊膜類に関して重要な手掛かりをもたらします。

 この研究は、ムカシトカゲのゲノムを解析しました。ムカシトカゲのゲノムは約5 0億塩基対で、これまでに解読・構築された脊椎動物ゲノムの中で最大級となります。このゲノム解析と、他の脊椎動物ゲノムとの比較からは、ムカシトカゲの特異性を強める結果が得られました。系統発生学的解析からは、ムカシトカゲの系統が約2億5000万年前にヘビ類およびトカゲ類の系統から分岐した、と示されました。また、ムカシトカゲ系統の分子進化速度は速くはなく、断続的な進化が起きていたことも明らかになりました。

 このゲノム塩基配列解析からは、タンパク質・ノンコーディングRNAファミリー・反復エレメントの拡大が明らかになり、反復エレメントについては爬虫類の特徴と哺乳類の特徴との混合が示されました。これにより、ムカシトカゲの極めて低い活動時の体温・きわめて長い寿命・感染症に対する抵抗性を説明する、候補遺伝子群が明らかになりました。ムカシトカゲゲノムの塩基配列解読結果は、ムカシトカゲの生物学的研究や保全のみならず、四肢類の詳細な比較解析を行なうための価値ある情報資源となります。この研究はまた、ゲノム塩基配列解読に関連する技術的課題と文化的責務の両方に関する重要な洞察を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ゲノミクス:ムカシトカゲのゲノムから明らかになった羊膜類進化の古い特徴

ゲノミクス:象徴的な爬虫類のゲノムアセンブリ

 ムカシトカゲ(Sphenodon punctatus)は、他の全ての爬虫類との共通祖先を約2億5000万年前に有する爬虫類系統の最後の生き残りである。今回N Gemmellたちは、ムカシトカゲ1個体のゲノムを解読・構築することで、約5 Gbpというゲノムサイズを示し、注釈付けによって遺伝子1万7448個を明らかにするとともに、ゲノム全体に多くの反復配列が見られることを報告している。また、その進化速度はかなり遅いこと、さらには、ムカシトカゲの極めて低い活動時の体温、極めて長い寿命、感染症に対する抵抗性を説明する候補遺伝子群が明らかになった。



参考文献:
Gemmell NJ. et al.(2020): The tuatara genome reveals ancient features of amniote evolution. Nature, 584, 7821, 403–409.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2561-9

愛知県の縄文時代の人骨のゲノム解析

 愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の人骨(IK002)のゲノム解析に関する研究(Gakuhari et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。本論文は、すでに昨年(2019年)、査読前に公開されていました(関連記事)。その時と内容は基本的に変わっていないようなので、今回は昨年の記事で言及していなかったことや、査読前の論文公開後の関連研究などを中心に簡単に取り上げます。

 昨年の記事では省略しましたが、下書きを読み返して思い出したのが、伊川津貝塚遺跡だけではなく、同じく愛知県田原市の保美町貝塚遺跡と、大分県中津市本邪馬渓町の枌洞穴遺跡の、縄文時代の合計12人からのDNA抽出が試みられた、ということです。このうちIK002と枌洞穴遺跡の1個体(HG02)のみ、内因性DNA含量が1.0%以上でしたが、典型的な古代DNA損傷パターンを示したのはIK002だけでした。昨年、査読前論文を読んだ時にはとくに意識しませんでしたが、大分県の縄文時代遺跡の人類遺骸からの古代DNA解析に成功していたら、西日本では最初になるだろう「縄文人(縄文文化関連個体)」のゲノムデータが得られていたわけで、残念です。おそらく、西日本の「縄文人」のDNA解析の試みは続けられているでしょうから、今後の研究の進展に期待しています。また、昨年の記事では言及していませんが、性染色体の比率に基づく方法では、IK002は女性と推定されています。

 本論文は、IK002も含めて東日本の縄文人の密接な遺伝的近縁性を示すとともに、縄文人の祖先集団の拡散経路を検証しています。縄文人以外でIK002と遺伝的に比較的近縁なのは、現代人ではアイヌ集団で、古代人ではラオスの8000年前頃のホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民個体(La368)です(関連記事)。バイカル湖地域の24000年前頃のマリタ(Mal’ta)遺跡の1個体(MA-1)は、遺伝的にはユーラシア西部系と近縁ながら、アメリカ大陸先住民とのつながりも指摘されています(関連記事)。このMA-1の系統は、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体に代表される、古代シベリア北部集団(ANS)の子孫と推測されています(関連記事)。ANS はヨーロッパ人関連系統(71%)とアジア東部人関連系統(29%)との混合と推定され、ヨーロッパ人関連系統との推定分岐年代は39000年前頃です。

 IK002には、MA-1系統からの遺伝子流動の痕跡はほとんど検出されず、これはアジア東部および南東部の現代人も同様です。そのため本論文は、IK002にはユーラシア大陸を北方経路(ヒマラヤ山脈の北側)で東進してきた現生人類(Homo sapiens)の遺伝的影響は見られず、南方経路で東進してきた集団の子孫だろう、と推測します。ただ本論文は、他の縄文人個体では北方経路集団の遺伝的痕跡が見つかる可能性も指摘しています。本論文は、縄文人がユーラシア東部でもひじょうに古い系統で、南方経路で拡散してきた可能性を指摘し、現代人でもアメリカ大陸先住民やアジア東部および北東部集団は、おもに南方経路で東進してきた現生人類集団の子孫だろう、と推測しています。以下、昨年の記事でも掲載しましたが、より高画質なので、改めてIK002の系統関係を示した本論文の図4を掲載します。
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 以上、本論文についてごく簡単に見てきましたが、今年になって大きく進展した中国の古代DNA研究を踏まえると(関連記事)、本論文とはやや異なる想定も可能ではないか、と思います。とくに重要だと思われるのは、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(Wang et al., 2020)です(関連記事)。この研究では、出アフリカ現生人類集団は、まずユーラシア東西両系統に分岐します。ユーラシア西部系の影響を強く受けたのがANSで、アメリカ大陸先住民にも一定以上の影響を残し、アジア北東部(シベリア東部)の現代人も同様ですが、縄文人も含めてアジア東部集団は基本的にユーラシア東部系統に位置づけられます。

 ユーラシア東部系統は南北に分岐し、ユーラシア東部南方系統に分類されるのは、現代人ではアンダマン諸島のオンゲ人、古代人ではホアビン文化個体のLa368です。ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が分岐し、アジア東部系統はさらに北方系統と南方系統に分岐します。北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類男性1個体(関連記事)は、本論文ではユーラシア東部系統で最も早く分岐した系統と位置づけられていますが、Wang論文では、ユーラシア東部北方系統から早期に分岐した系統と位置づけられます。Wang論文で注目されるのは、縄文人がユーラシア東部南方系統(45%)とユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部南方系統(55%)の混合とモデル化されていることです。

 一方、本論文では、IK002系統からの遺伝的影響の推定は難しく、かなり幅があるのですが、本州・四国・九州を中心とする「本土日本人集団」に関しては8%程度の可能性が最も高い、と推定されています。しかし、台湾先住民のアミ人(Ami)へのIK002系統からの遺伝的影響は41%と「本土日本人集団」よりずっと高く、統計量で示された、「本土日本人」の方がアミ人よりもIK002と遺伝的類似性が高い、との結果とは逆となります。これは、アミ人がIK002系統から早期に分岐した異なる集団からの強い遺伝的影響を受けたからではないか、と本論文は推測しています。しかし、Wang論文のモデル化を踏まえると、これは台湾先住民であるアミ人と縄文人がともに、アジア東部南方系統から強い遺伝的影響を受けたのに対して、「本土日本人集団」ではアジア東部北方系統からの影響が強い(84~87%)ことを反映している、と整合的に解釈できそうです。もちろん、Wang論文のゲノムデータも充分とはとても言えないでしょうから、今後のゲノムデータの蓄積により、さらに改良されたモデルが提示され、縄文人、さらには現代日本人の起源もより正確に理解できるのではないか、と期待されます。以下、これらの系統関係を示したWang論文の図5です。
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 また本論文は、アジア東部および北東部(シベリア東部)やアメリカ大陸先住民の主要な祖先が南方経路で東進してきた、と推測していますが、Wang論文を踏まえると、これも異なる可能性が考えられます。これらの地域の現代人の主要な祖先はアジア東部北方系統と推測されますが、これはユーラシア東部北方系統から派生しており、北京近郊の4万年前頃の田园個体の系統もこれに分類されます。ユーラシア東部北方系統は4万年前頃までにはアジア東部沿岸地域まで到達していた可能性が高く、ANS集団のシベリア北東部への到達がそれより遅れたと考えると、アジア東部北方系統も北方経路で拡散してきた可能性が考えられます。ANSはユーラシア西部系統とアジア東部人関連系統との混合により形成されており、これはアジア東部北方系統の南方経路東進説とも矛盾しませんが、北方経路説とも矛盾しません。アジア東部北方系統、さらにはその祖先系統であるユーラシア東部北方系統がどの経路で東進してきたのか、現時点では確定できませんが、初期上部旧石器群(Initial Upper Paleolithic)の分布がユーラシア北方における現生人類拡散の指標だとすると、北方経路説の方が妥当だろう、と私は考えています。


参考文献:
Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2

Wang CC. et al.(2020): The Genomic Formation of Human Populations in East Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.25.004606

中国陝西省の石峁遺跡の発掘成果

 中国陝西省の石峁(Shimao)遺跡の発掘成果について報道されました。紀元前2300~紀元前1800年頃の石峁遺跡では、高台にある長方形の20段のピラミッド状建築物(ギザの大ピラミッドと比較して、高さは半分ですが、底面積は4倍とのことです)やその周囲を取り囲む全長10km以上の防壁、壁画や翡翠といった工芸品、生贄の証拠が見つかっているそうです。高台の最上部には、専用の貯水槽や工房、儀式用の神殿と見られる建造物を備えた複合施設もあったそうです。翡翠の産地は、石峁遺跡から最も近くても1600km離れているそうです。石には70個の浮き彫り細工(レリーフ)も見つかり、大蛇や怪物や半人半獣などの図像があり、中華地域における後の青銅器時代のものに似ているそうです。

 陝西省北部では、石峁遺跡と同じ時代の石造りの町が、70以上も発掘されているそうで、そのうち10の町は石峁遺跡と同じく禿尾河流域にあり、こうした衛星都市が強固な社会基盤となり、初期の石峁を形成していた可能性が指摘されています。石垣の内側では革新的な技術が見つかりました。それは、補強に使われた木の梁で、年代測定の結果、紀元前2300年の木と明らかになりましたが、こうした工法は以前には、後の漢王朝の時代に考案されたと考えられてきました。

 東壁の下では、6つの穴に80個もの人間の頭蓋骨が詰め込まれていましたが、体の骨は見つかりませんでした。頭蓋骨の数や配置から、壁の基礎を敷設するさいの儀式で首を切られた、と示唆されています。これは、中国史上最古の人身御供の事例となりそうです。犠牲者のほぼ全員が少女で、おそらくは敵対勢力に属していた捕虜だろう、と推測されています。これが、後の殷(商)王朝による大規模な人の生贄につながっていったのかもしれません。

 この記事は、僻地とも思える場所に紀元前2300年~紀元前1800年頃にこうした大規模な都市が栄えていたことは意外であるかのように示唆しますが、これは近世以降の関中の状況を当てはめた偏見のように思います。古代から中世にかけて、現代の陝西省一帯にはたびたび王朝の都が置かれましたし、先史時代においては、西方世界に近いその位置は、「先進的な」文化の導入に有利だった、とも考えられます。この記事でも、石峁が、東方の黄海沿岸地域だけではなく、西方のアルタイ地域も負決めてさまざまな地域との文化・技術・物資の交換していた、と指摘されています。ウシ・ヒツジなどの家畜や冶金技術など、中華地域は西方世界から「先進的な」文化を多く取り入れ、「発展」していった、と考えられます。

 石峁遺跡が紀元前1800年頃に放棄された理由については、地震・洪水・疫病ではなく、気候変動だった、と推測されています。紀元前2300年頃には、気候が比較的温暖・湿潤で、黄土高原に人口が流入していましたが、紀元前2000年から紀元前1700年にかけて急激な気候変動が起こり、乾燥した寒冷な気候になって、湖は干上がり、森は消え、砂漠が広がった、と推測されています。石峁遺跡については、経済がどう機能していたのか、その他の同時代文化とどのように交流していたのか、文字はあったのか、といった問題があり、今後の研究の進展が期待されます。

 後期新石器時代となる石峁遺跡については、最近注目していたので、この報道を取り上げました。それは、石峁遺跡の人類遺骸からゲノムデータが得られているためです(関連記事)。石峁遺跡の後期新石器時代個体群は、遺伝的には黄河中流域の中期新石器時代個体群と類似しています。この黄河流域新石器時代個体群と類似した遺伝的構成の集団が、現代のチベット人および日本人の主要な遺伝的祖先と推測されています(関連記事)。チベット人の形成過程については、最近より詳しく検証した研究が公表されています(関連記事)。

 黄河流域新石器時代集団がどのように形成されたのか、アジア東部の更新世人類のゲノムデータがほとんど得られていないため、不明です。日本列島やチベットと黄河流域の農耕開始の年代差から考えると、まず黄河流域で農耕集団が確立し、日本列島やチベットへと拡散していった、と想定するのが妥当でしょう。これら古代ゲノム研究により、シナ・チベット語族の起源は黄河流域新石器時代集団にある、と推測されています。

 一方、日本語はシナ・チベット語族とは大きく異なり、系統関係を追うことができません。同じく黄河流域新石器時代集団の遺伝的影響を強く受けているのに、日本列島の言語がシナ・チベット語族とは大きく異なる日本語である理由は、最近取り上げてみたものの(関連記事)、私の知見・能力ではよく分かりませんでした。この問題は、永久に確証が得られないかもしれませんが、古代ゲノム研究の進展に伴いより妥当な推測が可能かもしれず、その点でも今後の古代ゲノム研究に注目しています。

古代DNAに基づくユーラシア東部の人類史

 古代DNAに基づく近年のユーラシア東部の人類史研究を整理した概説(Zhang, and Fu., 2020)が公表されました。古代DNA研究により、人類の歴史と進化に関する知識が増えました。ユーラシア西部での研究により、人類集団の移動と混合に関する既存の仮説を比較して評価し、以前には考慮されていなかった新たな仮説の提唱が可能となりました。古代DNA研究はまだ揺籃期にあり、ユーラシア東部での研究はユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して遅れており、ユーラシア東部に関するほとんどの大規模な古代DNA研究は、ユーラシア草原地帯を対象としていました。多くの問題が未解決ですが、古代DNA研究は前進しており、ユーラシア東部の人類集団史に新たな知見を提供しつつあります。本論文は、ユーラシア東部集団に関する最近のさまざまな古代DNA研究を検証し、異なる系統と移住を論じ、現代人の遺伝的歴史への影響を強調します。


●後期更新世のユーラシア東部における現生人類集団

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)以前に、現生人類(Homo sapiens)はシベリア北東部からイベリア半島までユーラシア全域に拡散しました。しかし、ユーラシア東部の後期更新世のゲノム規模データはほとんどなく、ユーラシア東部南方(アジア東部南方とアジア南東部)からはまだ得られていません。本論文はまず、ユーラシア東部北方の後期更新世ゲノム規模データにより明らかになった、ユーラシア東部の現生人類の異なる系統をまとめます。

 ユーラシア東部の後期更新世においては主要な3人類集団が報告されています。まず、現代人への遺伝的寄与は実質的になかったと考えられる、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された45000年前頃の個体(関連記事)に代表される集団です。このウスチイシム個体のY染色体ハプログループ(YHg)はユーラシア東部で典型的なNOで、ゲノム規模データからは、ユーラシア西部の古代狩猟採集民とアジア東部の古代人および現代人の双方から同じ遺伝的距離にある、と示されています。これは、ウスチイシム個体がユーラシア東西の現代人の祖先の前、もしくは同時に分岐した集団に区分されることを示唆します。

 次に、アジア東部現代人と関連する現生人類集団で、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類男性1個体に代表されます(関連記事)。この田园個体は、ヨーロッパの古代人もしくは現代人よりも、アジア東部現代人・ほとんどのアジア南東部現代人・アメリカ大陸先住民の方と遺伝的に密接で、東方アジア人集団とヨーロッパ人集団が遅くとも4万年前頃までに分岐していたことを明らかにしました。この田园個体は、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)との遺伝的つながりを示しており、早期ヨーロッパ人と早期東方アジア人との間の分離は、単一集団の分岐ではなかった、と示唆されます。

 最後に、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体に代表される、古代シベリア北部集団(ANS)です(関連記事)。ANS はヨーロッパ人関連系統(71%)とアジア東部人関連系統(29%)との混合と推定され、ヨーロッパ人関連系統との推定分岐年代は39000年前頃です。バイカル湖地域の24000年前頃のマリタ(Mal’ta)遺跡の1個体(関連記事)と、17000年前頃のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の2個体は、他のユーラシア西部狩猟採集民よりもANSと密接に関連しており、ANS系統の子孫としてモデル化できます。これらの研究から、ANS関連系統は古代シベリア人においてかつて広範に拡散していた、と示唆されます。25000±1100年前頃には、ANS関連系統とアジア東部人関連系統の混合により、アメリカ大陸先住民祖型集団(38%程度がマリタ個体関連系統)が形成されました(関連記事)。これらの異なる系統は、後期更新世のユーラシア東部における現生人類集団の多様性を強調します。

 現生人類の地域的な遺伝的違いと適応を形成するうえで、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との交雑が重要な役割を果たしてきました(関連記事)。ユーラシア東部では、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)という、2つの異なる分類群の古代型ホモ属が確認されています。非アフリカ系現代人のゲノムに残るネアンデルタール人由来の領域は、おもに6万~5万年前頃の出アフリカ現生人類とネアンデルタール人との間の交雑によりもたらされた、と推測されています。デニソワ人は南シベリアとチベット高原で確認されており(関連記事)、アジア東部現代人もわずかにデニソワ人からDNAを継承している、と推定されています(関連記事)。今後、上部旧石器時代の人類のDNA解析が蓄積されていけば、現代人に見られる古代型ホモ属系統の多様性と、いつどこで交雑が起きたのか、ということもより解明されていくでしょう。


●ユーラシア東部における前期新石器時代の人口構造

 ユーラシア東部の前期新石器時代集団は、遺伝的に異なっていました。本論文はその中で主要な集団として、古代シベリア人(APS)と古代アジア東部北方人(ANEA)と古代アジア東部南方人(ASEA)と異なる基底部アジア人2集団(BA1およびBA2)を取り上げます。

 APSは9800年前頃となるシベリア北東部のコリマ(Kolyma)遺跡の個体(Kolyma1)に代表されます(関連記事)。APSは遺伝的にはおもにアジア東部人関連系統で構成され、ANS関連系統からも多少(16.6%程度)遺伝的影響を受けており、アメリカ大陸先住民と類似した遺伝的構成を示します(アメリカ大陸先住民よりもアジア東部系統の影響をやや強く受けています)。シベリアでは完新世に、現代シベリア人につながる新シベリア集団(NS)が拡散していき、おおむねAPSを置換しましたが、APSの遺伝的影響を強く残している集団も存在します。

 ANEAには、極東ロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡個体群(関連記事)や、淄博(Boshan)遺跡など中国山東省の新石器時代個体群(関連記事)、南シベリアのバイカル湖地域の7100~6300年前頃の15個体(関連記事)が含まれます。これら前期新石器時代個体群はクレード(単系統群)を形成し、アジア東部南方の古代人および現代人集団も含めてアジア他の全人類よりも、東部北方の現代人集団と近縁です。しかし、APS関連系統も淄博遺跡や悪魔の門遺跡やバイカル湖地域の個体群で攪乱されており、APS関連が遅くとも8000年前頃までにはANEAとつながりを有していた、と示唆されます。大規模な集団置換のない完新世に、悪魔の門遺跡地域では高水準の遺伝的連続性が観察されています。対照的にバイカル湖地域では、集団置換的事象があり、上部旧石器時代のAPS関連系統が前期新石器時代にはANEA関連系統を有する集団におおむね置換されましたが、APS、さらには一部がその母体となったANS関連系統が、青銅器時代集団でもわずかに確認されています(関連記事)。これらのパターンは、アジア東部北方全域におけるアジア東部北方系統の共有と、シベリアへの北上を示唆します。

 ASEA系統は、福建省の前期新石器時代個体群に代表されます(関連記事)。ASEA系統はANEAと大きく異なり、4600~4200年前頃の福建省の個体群でも確認されます。ASEA関連系統集団は、アジア南東部のいくつかの集団とオーストロネシア語族集団の主要な祖先となりました。ASEA関連系統の拡大の詳細は後述されます。

 BA1はおもに、8000~4300年前頃のホアビン文化(Hòabìnhian)個体群に代表されます(関連記事)。BA1は現代人ではアンダマン諸島のオンゲ(Onge)人とクラスタ化します。オンゲ人はアジア南部集団の系統の「第1層」となります。BA1は他のユーラシア東部集団と古くに分岐し、おそらくは田园個体に代表される系統と同じ頃で、ほとんどのアジア東部現代人には外群となります。BA2は日本列島の縄文文化の後半期(3800~2500年前頃)の集団と関連しており(関連記事)、アジア東部現代人および古代人の系統とはひじょうに早く分岐した、と推測されます。これら縄文文化関連個体群(縄文人)は、田园個体やホアビン文化狩猟採集民よりもアジア東部の南北の両個体群とより密接な関係にありますが、アメリカ大陸先住民の主要な祖先となった集団より早く、アジア東部の南北両系統と分岐した可能性が高い、と推測されます。

 チベット人系統は、チベット高原の古代人(関連記事)および現代チベット人により表されます。現代チベット人はアジア東部現代人と密接に関連しています。しかし、古代ユーラシア東部人との比較では、チベット人はアジア東部北方人とより密接に関連している、と明らかになります。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究では、現代チベット人において5200年前頃から部分的な母系継続性がある、と推測されており(関連記事)、まだ検出されていないチベット高原のより古い系統が示唆されます。現時点での証拠から、古代チベット人は以前の想定よりも複雑で多様だった、と示唆されますが、チベット高原の古代DNAはまだ不足しており、さらなる研究が必要です。以下、これらの系統の関係を示した本論文の図1です。
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●完新世のユーラシア東部における南方への移動

 完新世の人類集団の移住も、ユーラシア東部現代人の人口構造の形成に大きな役割を果たしました。完新世において、ユーラシア東部では少なくとも3つの主要な南方への移動があり、アジア東部南方におけるアジア東部北方関連系統の増加、アジア南東部のBA1と現在の中国からのアジア東部系統との混合、中国南部の古代人のゲノムに見られるオーストロネシア語族と密接に関連した系統により証明されます。

 アジア東部南方では、アジア東部北方人関連系統が増加していきました(関連記事)。アジア東部南方の後期新石器時代個体群では、ANEA関連系統の増加が見られます。さらに、アジア東部大陸部の全現代人は、ASEA関連系統よりもANEA関連系統の方と多くの類似性を示します。混合モデルでは、ANEA関連系統がアジア東部南方大陸部現代人に強い影響を与えたものの、ASEA関連系統は依然としてある程度存続している、と示されます。アジア東部北方の前期新石器時代集団では、黄河下流域の山東省集団が、アジア東部現代人全員に見られるANEA系統と最も密接に関連しています。一方、いくつかのアジア東部北方集団では、ASEA関連系統がわずかに見られます。

 アジア東部人関連系統のアジア南東部への拡大は4000年前頃に始まり、アジア東部南方からの遺伝子流動がアジア南東部現代人の遺伝的構成大きな影響を与えた、と示されています(関連記事)。しかし、アジア南東部の狩猟採集民に代表されるBA1の痕跡は、アジア南東部現代人において依然として見られ、アジア東部関連系統集団の複数回の移住とアジア南東部先住民集団との混合により特徴づけられる、複雑な移行が示唆されます。古代DNA研究からは、「第1層」としてのBA1と後に到来した「第2層」のアジア東部南方系の農耕民との混合により、アジア南東部現代人の遺伝的多様性が形成されたと推測され、これは以前の仮説と一致します。

 ASEA関連系統はオーストロネシア語族現代人と最大のつながりを示し、オーストロネシア語族の起源が中国本土南東部沿岸にある、という仮説と一致します。祖型オーストロネシア語族の子孫は台湾へと拡散したかもしれず、台湾先住民系統と漢人系統との最初の分岐は10000~8000年前頃と推定されています。バヌアツの3000年前頃の個体群は、アジア東部南方古代人でも前期新石器時代(8400~7500年前頃)よりも後期新石器時代(4600~4200年前頃)個体群の方と密接に関連しています。

 1900年前頃以降のフィリピンの個体群は、インドネシアの現代人および2300~1800年前頃の個体群とクラスタ化し、オーストロネシア語族関連系統とオーストロアジア語族関連系統の混合としてモデル化できます。これは、アジア南東部へのオーストロネシア語族の拡大が遅くとも、インドネシアでは2100年前頃までに、フィリピンでは1800年前頃までに起きたことを示唆します。全体的に、中国南部とオセアニアの古代DNAデータは、アジア東部南方からアジア南東部と太平洋南西部の島々への南下の波を示唆します。こうした南方への移動はユーラシア東部現代人集団の形成に大きな役割を果たし、遺伝子流動がユーラシア東部集団の歴史に大きな影響を与えた、と強調します。以下、これらの集団移動を示した本論文の図2です。
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●まとめ

 ユーラシア東部の古代DNA研究は進展していますが、アジア東部大陸部の研究はまだ不足しています。最近では、上述のようにアジア南東部やオセアニアの古代DNA研究も進展しており、高温多湿地域での古代DNA解析がますます期待されます。高温多湿地域での更新世遺骸のDNA解析は困難ですが、中国広西チワン族自治区で発見された22000年前頃のジャイアントパンダ(Ailuropoda melanoleuca)の遺骸のmtDNAが解析されており(関連記事)、人類遺骸への応用も可能でしょう。

 将来の研究は多くの未解決の問題に対処し、アジア東部におけるより高密度の標本抽出によって、集団変化と相互作用をより詳細に調べられます。たとえば、狩猟採集から農耕への移行はどのように進んだのか、遺伝的にはかなりの置換があったのか、それとも在来集団が農耕を採用したのか、といった問題です。よく研究されていない地域のデータは、過去の集団拡大への新たな洞察を提供し、現生人類の歴史をより深く解明するのに役立ちます。たとえば、チベット高原の古代DNAデータは、いつどのように農耕集団がチベット高原に拡大してきたのか、証拠を提供するでしょう。古代DNAデータは、古代型ホモ属からの自然選択と適応、たとえば高地適応が、どのように現生人類に影響を及ぼしたのか、解明するのに役立ちます。今後の古代DNA研究はユーラシア東部集団の複雑な歴史の解明に役立つでしょう。


 以上、ざっと本論文を見てきました。本論文は、近年のユーラシア東部の古代DNA研究を整理しており、たいへん有益だと思います。本論文を読めば、後期更新世から完新世にかけてのユーラシア東部の現生人類史に関する、現時点での概略を把握できるでしょう。ただ、おそらく本論文の投稿までに間に合わなかったために、本論文では研究されていない論文が査読前のものも含めてあり、ユーラシア東部関連でも古代DNA研究が急速に進展していることを示しています。

 査読前論文では、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究があります(関連記事)。本論文では、「縄文人」はBA2とされましたが、この研究では、本論文の表記を用いると、「縄文人」はBA1関連系統(45%)とASEA関連系統(55%)の混合と推定されています。近縁な分類群間の関係を系統樹で表現することには限界がある、という問題とも言えるでしょう。もちろん、「縄文人」がBA1とASEAの混合という推定もモデル化にすぎず、単純化されているわけで、どこまで妥当なのか、よりよいモデル化があり得るのではないか、といった問題は今後の研究の進展を俟つしかありません。

 新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(関連記事)では、アジア東部北方の黄河地域集団において、新石器時代に稲作農耕の北上に伴ってASEA関連系統が増加する、と示されています。本論文でも指摘された、アジア東部における人類集団の移動は、北方から南方だけではなくその逆もあった、というわけです。チベット人の形成過程に関しても、査読前論文が公開されており(関連記事)、本論文で指摘されたチベット高原のより古い系統がBA1関連系統と推測されています。最近、ヨーロッパと比較すると大きく遅れていたユーラシア東部の古代DNA研究が飛躍的に発展したので、今後の研究の進展にたいへん期待しています。


参考文献:
Zhang M, and Fu Q.(2020): Human evolutionary history in Eastern Eurasia using insights from ancient DNA. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 78-84.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.06.009

ホモ・ナレディの下顎小臼歯の分析と比較

 ホモ・ナレディ(Homo naledi)の下顎小臼歯の分析と比較に関する研究(Davies et al., 2020)が公表されました。ホモ・ナレディは南アフリカ共和国のライジングスター洞窟群(Rising Star Cave)で発見され、2015年に公表されたホモ属の新種です。ライジングスター洞窟においては、ディナレディ空洞(Dinaledi Chamber)で新生児から高齢個体まで少なくとも15個体分の化石が発見され、レセディ空洞(Lesedi Chamber)では成体と未成体を含む少なくとも3個体分の化石が確認されており、その年代は、中期更新世後期となる335000~226000年前頃と推定されています(関連記事)。

 ナレディは、個々の形態では他の人類系統と類似したものを示しますが、その組み合わせが独特なので、系統学的位置づけは困難です。ナレディは平均身長が約150cm(男性)、体重は約40kg~56kg、脳容量は推定465ml~560mlと推定されています(関連記事)。ナレディの脳容量はほとんどのホモ属の下限を下回りますが、頭蓋形態に関しては他のホモ属との類似性が指摘されています(関連記事)。ナレディの足と手に関しては、現代人的(派生的)特徴と祖先的特徴との混在が指摘されており(関連記事)、指や四肢や骨盤ではアウストラロピテクス属的な祖先的特徴が指摘されています。

 ナレディの歯も独特な組み合わせを示し、犬歯よりも後列の永久歯ではアフリカの他の人類のような特徴がない一方で、乳歯ではパラントロプス属のような特徴を示し、大臼歯の歯根ではホモ・ハビリス(Homo habilis)との類似性が見られます。下顎小臼歯の形態は人類の分類で有用とされており、ナレディの第1小臼歯(P3)はひじょうに特徴的と示唆されています。下顎小臼歯に関して、最近ではEDJ(象牙質とエナメル質の接合部)の形態が人類の分類にひじょうに有効かもしれない、と示されています。

 そこで本論文は、ナレディの小臼歯のEDJとCEJ(セメント-エナメル境)の形態を、アウストラロピテクス属・パラントロプス属・ホモ属と比較します。アウストラロピテクス属はアフリカ南部のアフリカヌス(Australopithecus africanus)、パラントロプス属はアフリカ南部のロブストス(Paranthropus robustus)、ホモ属は、ハビリスやエレクトス(Homo erectus)などアフリカ南部および東部の初期ホモ属と、ヨーロッパのネアンデルタール人と、さまざまな地域の現生人類(Homo sapiens)で、その他に分類の曖昧な人類遺骸が比較対象となります。この曖昧な分類の人類遺骸は、いずれも南アフリカ共和国で発見された、Stw 151とSK 96(通常はパラントロプス属に分類されます)と炉床洞窟(Cave of Hearths)個体です。

 EDJとCEJの形態の主成分分析により、ナレディのP3は他の人類系統分類群とは異なる、と明らかになりました。PC1軸では、ナレディはネアンデルタール人および現生人類と明確に区別され、PC2軸ではアウストラロピテクス・アフリカヌスやホモ・エレクトスと明確に区別されます。ナレディに最も近いのはパラントロプス・ロブストスで、非対称的な歯冠や高い近心側辺縁隆線(mesial marginal ridge)などの共有に起因します。しかし、PC3軸ではナレディとパラントロプス・ロブストスは明確に区別されます。

 第2小臼歯(P4)の主成分分析では、P3の主成分分析と同様にPC1軸で現生人類およびネアンデルタール人が他の分類群と明確に異なり、PC2軸でネアンデルタール人と現生人類が区別されます。ナレディはPC1軸ではネアンデルタール人および現生人類と他の分類群との中間に位置します。PC2軸ではアウストラロピテクス・アフリカヌスとパラントロプス・ボイセイが区別されず、ナレディはエレクトスなど他の早期ホモ属と区別されます。

 小臼歯のサイズに関しては、P3・P4ともに、ナレディは現生人類よりもかなり大きく、ネアンデルタール人とほぼ同じです。本論文の検証対象となった人類系統において、ナレディはP3よりもP4の方が平均して小さい唯一の分類群で、しかもその違いは著しく、これは特異的です。ただ、ホモ属標本の中には、ナレディに近いパターンを示すものもあります。アフリカ東部のKNM-ER 992およびKNM-ER 1507はP3よりもP4の方がやや小さく、これらはエレクトスに分類されます。Stw 151はP3よりもP4の方がやや大きく、STW 80はナレディのようにP3よりもP4の方が著しく小さくなっています。ネアンデルタール人と現生人類の個体でも、P3とP4のサイズが重なる場合もあります。

 本論文はこれらの分析から、ナレディの食性の生態的地位は他の人類集団とは異なるものだったもと推測します。以前の研究では、他の人類系統分類群と比較して、ナレディは内部の変異水準が低い、と指摘されています。小臼歯のEDJ形態は、ディナレディ空洞個体群内でもレセディ空洞個体群内でも均一です。歯の形態は遺伝性が高いと考えられており、ナレディの遺伝的多様性の低さを反映しているかもしれません。これは、既知のナレディ個体が、単一集団において相互に関連している可能性を示唆します。ただ、標本数の増加によりナレディの小臼歯の多様性が増加する可能性もあります。

 ナレディの小臼歯は先行する人類よりもおおむね小さく、ネアンデルタール人の変異幅と重なります。P3とP4のサイズに関して、P4よりもP3の方が著しく大きいという点で、上述のようにナレディは特異なパターンを示しますが、STW 80は初期ホモ属として唯一、ナレディと類似しています。ただ、P3とP4の両方を保持している個体は比較的少ないので、個体群内でのこのパターンの一貫性を調べるには、さらなる調査が必要になる、と本論文は指摘します。

 上述のように、ナレディの形態には祖先的特徴も強く見られますが、小臼歯に関しては初期ホモ属標本の大半といくつかの明確な違いを示します。一方、ホモ属としては祖先的特徴の強さが指摘されるハビリスは、主成分分析のPC2軸では中間的で、アウストラロピテクス属とより類似しています。これらの結果から、ナレディとエレクトスに表される派生的な小臼歯の形態は、より一般化されたハビリスのような祖先とは別に進化した可能性が示唆されます。

 南アフリカ共和国のスタークフォンテン(Sterkfontein)洞窟で発見されたStw 80は初期ホモ属と分類されており、南アフリカ共和国のスワートクランズ(Swartkrans)洞窟標本(SK 15)との強い類似性が指摘されてきました。上述のように、P3とP4のサイズに関してStw 80はナレディとの類似性を示します。これは、Stw 80とナレディとの系統関係を示唆しているかもしれませんが、それを確定するにはさらなる調査が必要です。

 P3の主成分分析において、PC1軸およびPC2軸でナレディに最も近い分類群は、上述のようにパラントロプス・ロブストスです。しかし、PC3軸では両者は明確に異なり、サイズにも明確な違いが見られます。そのため、両者の類似は成因的相同(相似)かもしれません。しかし、通常はパラントロプス属に分類されるSK 96(本論文では曖昧な分類とされます)を検証すると、問題は複雑になります。SK 96はP3形態では他のどの標本よりもナレディと類似していますが、上述のようにStw 80はP3とP4のサイズに関してナレディとの類似性を示し、さらにP4形態ではナレディと最も類似しています。

 SK 96などスワートクランズ洞窟の人類はナレディと系統的に関連しているかもしれませんが、Stw 80とナレディとの類似性からも同様の関連を想定できるかもしれません。スワートクランズ洞窟とスタークフォンテン洞窟の人類はナレディよりも100万年以上前と推定されており、ナレディは他のホモ属と早期に分岐した、と推測されています。炉床洞窟個体はナレディよりも数十万年古いと推定されていますが、その形態はネアンデルタール人や現生人類の方と類似しており、この点もナレディがホモ属系統において早期に分岐したことを示唆します。ただ、スワートクランズ洞窟とスタークフォンテン洞窟の人類とナレディとの類似性は、上述のように成因的相同で系統関係を意味しないかもしれません。

 ナレディの小臼歯の形態は、本論文で取り上げられた他の標本と比較すると、P3とP4の両方でよく発達した近心舌側咬頭や、強く発達した近心側辺縁隆線など、ひじょうに一貫しており均質です。これらの特徴的形態は、将来断片的な遺骸をナレディと分類するさいに役立つ可能性があります。以前にはパラントロプス・ロブストスに分類されていたSK 96は、P3のEDJ形態では異なっており、ホモ属に分類できるかもしれませんが、その詳細な関係についてはさらなる調査が必要です。

 本論文はナレディの小臼歯の形態を他の人類集団と比較し、まだ不明なところが分にあるナレディの系統関係にも言及しています。本論文の指摘のように歯は遺伝性が高いので、系統関係の分析には適した形態と言えるでしょう。しかし、標本数の少なさと個々の標本の不完全さにより、本論文でも明確な結論は提示されていません。これまでパラントロプス・ロブストスに分類されてきたSK 96が、ナレディとの類似性を示し、初期ホモ属に分類できるかもしれない、との見解は興味深く、ナレディがアフリカ南部の初期ホモ属から進化した可能性を示唆します。

 しかし、ナレディの派生的特徴を考えると、エレクトス系統とネアンデルタール人および現生人類の共通祖先系統が分岐した後に、ナレディが後者と分岐した、と推測する頭蓋データに基づく研究(関連記事)の方が妥当ではないか、とも思います。上述のように、ナレディはアウストラロピテクス属的な祖先的特徴を有する、と指摘されていますが、それは本論文でも可能性が指摘されている成因的相同で、創始者効果などにより特異な形態が進化し、祖先的に見えるような形態も出現した、というわけです。インドネシア領フローレス島のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)のように(関連記事)、孤立した集団の特異的な進化の結果として、祖先的に見えるような形態が出現することもあり得たのではないか、と思います。


参考文献:
Davies TW. et al.(2020): Distinct mandibular premolar crown morphology in Homo naledi and its implications for the evolution of Homo species in southern Africa. Scientific Reports, 10, 13196.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-69993-x

人類史における投擲能力

 人類史において、投擲能力はひじょうに大きな意味を有したのではないか、と思います。人類は一見すると、狩猟に相応しくない特徴を有している、と言えるかもしれません。人類は、狩りを行なう動物の多くよりも素早い動きと力強さの点で劣りますし、狩りを行なう動物のように鋭い牙や鉤爪を有しているわけでもありません。しかし、優れた認知能力・道具を作るのに必要な器用な手・長距離走に適した体形・投擲に適した腕と肩の構造などにより、人類は長期に亘って陸上で最強の狩猟者として君臨してきました(関連記事)。

 この中でもとくに重要なのは投擲能力で、人類の狩猟の効率を高め、その危険性を低下させました。また、狩猟でなくとも、襲ってきたり獲物を食べたりしている肉食動物を追い払うのにも投擲はたいへん有効です。人類の投擲能力の高さは、腰が回転すること、上腕骨のねじれが少ないこと、肩関節窩が上向きの非ヒト類人猿とは異なり横向きになっていることに由来します。現時点での化石記録によると、これら三つの特徴は短期間に一括して出現したのではなく、時間的に分散して現れたようです。腰が回転することと、上腕骨のねじれが少ないことはアウストラロピテクス属の化石で確認されており、肩関節窩が横向きになったのは、200万年前頃(~180万年前頃までの間?)に出現したホモ・エレクトス(Homo erectus)以降のようです。現時点では、高い投擲能力を可能とする派生的な解剖学的特徴が最初に一括して認められるのは200万年前頃以降のホモ・エレクトスと考えられています(関連記事)。

 人類進化史においては、投擲能力の向上と引き換えに、木登りの能力は低下してしまいましたから、投擲能力の向上をもたらすような形態学的変化には、当初から投擲が選択圧として作用したと考える方が妥当でしょう(関連記事)。この形態的な変化により、人類はより直立二足歩行に特化していき、長距離走の能力が向上しました。あるいは、ホモ属における直立二足歩行への特化に関しては、直立二足歩行よりもむしろ、投擲能力への選択圧の方が重要な役割を果たした可能性も考えられます。四肢の発生に関連する遺伝子群の特定により、この問題が解明されていくかもしれません。

 投擲能力の向上が人類史において重要な役割を果たしたかもしれないとはいっても、じっさいの投擲の証拠を提示するのはなかなか困難です。初期ホモ属が投擲を行なっていた証拠となるかもしれないのが、ジョージア(グルジア)にあるドマニシ(Dmanisi)遺跡です。ドマニシ遺跡では、185万年前頃までさかのぼるホモ属遺骸と石器が発見されていますが、峡谷の入口では大量の石が発見されており、ドマニシ人が動物に投石して逃げるか、投石により動物を狩っていた可能性が指摘されています(関連記事)。おそらく、人類はアウストラロピテクス属の頃から投擲を行なっており、捕食圧を減じるとともに、食料獲得の可能性を高め、それがホモ属になって投擲能力の向上によりさらに効率的になったのでしょう。

 更新世人類の投擲でとくに威力があったと思われるのは投槍で、やや間接的ではあるものの、投槍の証拠は28万年前頃のアフリカ東部で発見されています(関連記事)。おそらく現生人類(Homo sapiens)は、古くから槍を投げて獲物を仕留めていたのでしょう。また、現生人類は投槍器を用いますが、それはヨーロッパでは少なくとも4万年以上前までさかのぼる、と推測されています(関連記事)。現生人類は投擲能力を活かした道具を使用しており、これが、世界中へと拡散し、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など先住人類を置換した(一部交雑により現代人にも遺伝子が継承されています)一因になった、と言えそうです。

 現生人類に置換されてしまったネアンデルタール人が槍を投げていた確実な証拠はまだ得られていないと思いますが、ヨーロッパでは中期更新世の槍が確認されていますから、ネアンデルタール人が投槍を用いていても不思議ではありません。ネアンデルタール人が投槍器を用いた証拠は得られていませんが、投槍器なしで槍を獲物から20m程度の距離で投げても、獲物を仕留められる、と示されています(関連記事)。ネアンデルタール人は現生人類と比較して、より危険な近接狩猟を行なっていた、との見解が一般的ですが(関連記事)、ネアンデルタール人と更新世の現生人類とでは頭蓋外傷受傷率にあまり違いはない、とも指摘されています(関連記事)。少なくとも一部のネアンデルタール人は日常的に投擲行動を繰り返していた、と推測されていますから(関連記事)、ネアンデルタール人も投擲能力を活用した人類であったことは間違いないでしょう。また、ドイツで発見された30万年前頃木製棒は投擲に用いられた可能性が高い、と指摘されており(関連記事)、これは広義のネアンデルタール人系統か、あるいは別系統のホモ属の道具だったのでしょう。人類、少なくともホモ属が生き延びてきた要因の一つとして、その高い投擲能力は必ず挙げられねばならない、と思います。

岡本隆司『シリーズ中国の歴史5 「中国」の形成 現代への展望』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年7月に刊行されました。本書はいわゆる明清交代から現代までを扱っています。本書は、17世紀の混乱期に対して、アジア東部ではダイチン・グルン(大清国)が広範な地域の安定化をもたらした一方で、ヨーロッパでは諸勢力の競合がもたらされ、これが近代における東西の違いにつながった、との見通しを提示しています。これは、オスマン帝国による広範な地域の平和がもたらされた同時代のアジア南西部とも通ずるかもしれません。

 マンジュ(満洲、元は漢字文化圏で女真と表記されたジュシェン)起源のダイチン・グルンは、人口・経済力ともに明に遠く及ばない勢力で、明の領域を支配できたのも、明が反乱で首都を陥落させられ、明の将軍による手引きがあったからで、その覇権は多分に僥倖だった、と本書は指摘します。ダイチン・グルンの支配は、基本的に在来勢力による統治の承認で、直接的に干渉しようとはしませんでした。これは藩部についてで、本部18省は直接統治だった、と一般的には認識されているかもしれませんが、本書は、漢字文化圏(漢人)の本部18省に関しても、その基層社会は明代の統治を踏襲した、と評価しています。明代の統治が集権的だったので、ダイチン・グルンの本部18省の統治も集権的・直接的に見えるというわけですが、本書は、そもそも明代の統治が集権的だったのか、疑問を呈しています。明代も、基層社会を確実に把握できていたのか、疑わしいからです。

 こうしたダイチン・グルンの支配方式は外交関係にも現れており、朝鮮は明代の冊封体制のまま属国とされましたが、東進してきたロシアとは比較的対等な関係を築いています。これは、華夷秩序に基づく一元体制を志向し続けた明との大きな違いですが、ダイチン・グルンの支配層は自らが弱小勢力だったことを強く自覚していたからなのでしょう。日本など交易のみを認める互市関係も、そうした自己認識に基づいているとともに、武装商業集団として勃興したダイチン・グルンは、交易の統制が16~17世紀のような不安定な状況をもたらす、とよく理解していたのでしょう。

 こうしたダイチン・グルンの支配は、18世紀には安定しますが、不安定要因も現れます。それは漢人社会の急速な人口増加と経済成長で、元々基層社会を把握できていなかったダイチン・グルンは、官と民との分離傾向に悩まされようになり、18世紀後半以降は反乱が続いて不安定になります。また本書は、漢人社会の経済成長が、急速な人口増加により相殺され、庶民個々の生活水準が向上しなかったことを指摘します。さらに本書は、ヨーロッパとは異なり大規模な金融の信用体制をダイチン・グルン(というかアジア東部)は構築できず、これが産業革命・近代化を達成したヨーロッパと、遅れたアジア東部との違いになった、と指摘します。

 「中国」の近代は、西洋列強(日清戦争後は日本も)の侵略と共に、官と民との分離をいかに克服していくのか、という苦闘の歴史となります。この状況で、漢人知識層の間で、モンゴルや新疆やチベットも含めて一体的な「中国」を目指す機運が高まります。しかし、とくに非漢人地域では独立への機運が高まり、この問題は現代にも尾を引いています。「中国」の一体化を目指す立場からさらに厄介だったのは、この両問題が結びつき、各地域が独自に列強との経済的結びつきを深めていったことでした。通貨制度も一元化されず、「銀銭二貨制」から「雑種幣制」へと移行します。この状況は、単に外国の侵略によるのではなく、「中国」の一体化を主張した知識層自体が、社会・経済的につながりの深い在地勢力の支持に傾いていたからでした。

 蒋介石も打開できなかったこの状況が大きく変わる契機となったのは、日本の侵略が本格化したことでした。これにより国民党側も共産党側も総力戦体制の構築を進めねばならなくなり、日本の敗戦後の国共内戦でその傾向はさらに強化されました。内戦に勝った共産党政権(中華人民共和国)下で、通貨制度も含めた社会の一元化と中央権力の基層社会への浸透が進展しました。これは、冷戦下で中国が西側世界と切り離されたことも大きかったようです。

 共産党政権下の中国は、大躍進と文化大革命の混乱の後、「社会主義市場経済」に移行しますが、これは毛沢東が克服できなかった官と民との二元構造に適合していました。そのため中国では、経済大国となった今も、格差と腐敗というこの二元構造の弊害が大きな問題となっています。また本書は、習近平政権で強調されるようになった「中国の夢」の根幹にある「中華民族の偉大な復興」に疑問を呈します。「中華民族」は「多元一体」と定義されますが、そんな「一体」の「中華民族」は存在したことがない、と本書は指摘します。存在しなかったものを回復させることはあり得ず、復興も現実ではなく「夢」である、というわけです。ずっと以前から思っていましたが、「中華民族」という概念にはやはり無理がある、と言うべきでしょう。

 本書で『シリーズ中国の歴史』は完結となります。他の巻を取り上げた記事は以下の通りです。

渡辺信一郎『シリーズ中国の歴史1 中華の成立 唐代まで』
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_26.html

丸橋充拓『シリーズ中国の歴史2 江南の発展 南宋まで』
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_23.html

古松崇志『シリーズ中国の歴史3 草原の制覇 大モンゴルまで』
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_43.html

檀上寛『シリーズ中国の歴史4 陸海の交錯 明朝の興亡』
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_28.html

最終氷期における地球規模の急激な気候変動現象の同時発生

 最終氷期における地球規模の急激な気候変動現象の同時発生に関する研究(Corrick et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。グリーンランドの氷床コアから得られた最終氷期(11万5000~1万1700年前頃)の気候記録により、温暖期と寒冷期を繰り返す急激な気候振動が明らかになっています。こうした振動は、ダンスガード・オシュガー(DO)イベントとも呼ばれており、急速な温暖化の時期へと急激に移行した後、徐々に、そして急激に寒冷期に戻るという特徴があります。

 振動は100年から1000年の単位で準周期的に起きます。最終氷期には北極圏以外でも同様の急激な気候変動現象が発生した、と地球上の遠く離れた場所で得られた数多くの古気候記録によって確認されています。急激な移行の原因となる過程についてはよく分かっていませんが、いくつもの過程が関連していると推測されています。しかし、同程度の精度をもつ正確な古気候の年代測定法がないため、グリーンランドのDOイベントが、他の場所で起きた急激な気候変動と同時期に発生したかどうかを判断するのは困難です。

 この研究は、正確な年代で発表された高精度の洞窟生成物記録を63件収集しました。これらの記録は、北半球の中緯度地方から南半球の亜熱帯地方におよぶ地域の、最終氷期の気候を示します。この研究はこうしたデータセットを用いて、53の大規模および小規模の急激な温暖化現象について発生時期を調べたところ、グリーンランドの氷に記録されていた現象の発生時期は、アジアのモンスーン地域、南アメリカ大陸のモンスーン地域、ヨーロッパの地中海地域で急激な気候変動が発生した時期と同じだった、と明らかになりました。この知見から、北極圏の急激な温暖化現象が地球規模の急激な気候変動を引き起こした、と示唆されます。

 これにより、地球の両半球をまたいで気候現象がほぼ同時に発生するテレコネクション(遠隔地の大気や海洋の変動が結びついて相互に有意な相関関係にある現象、遠隔相関)が明らかになりました。これは、今後世界中で発生すると予測される急激な気候変動を考えるうえで重要です。また、この時期には現生人類(Homo sapiens)の拡散と非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)の絶滅という人類史の重要な事象が起きているので、その関連という点でも注目されます。


参考文献:
Corrick EC. et al.(2020): Synchronous timing of abrupt climate changes during the last glacial period. Science, 369, 6506, 963–969.
https://doi.org/10.1126/science.aay5538

『卑弥呼』第45話「死と誕生」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年9月5日号掲載分の感想です。前回は、山社(ヤマト)においてヤノハとナツハが対面したところで終了しました。今回は、暈(クマ)の国の以夫須岐(イフスキ)にて、鞠智彦(ククチヒコ)がイサオ王の館に向かう場面から始まります。鞠智彦は、新たな墓が築造中であることに注目します。本作では、この墓が奥津城(オクツキ、神道式の墓)と呼ばれています。この墓は円墳のようです。鞠智彦配下のウガヤは、これが誰の墓なのか、知りません。墓の築造を眺めていたイサオ王に、配下が鞠智彦の到着を報告し、ここに通すよう、イサオ王は命じます。誰の墓なのか、鞠智彦に尋ねられたイサオ王は、末の弟のための墓と答えます。墓の準備にはまだ若いのでは、と鞠智彦は怪訝に思います。イサオ王は、末の弟は息子のタケルと同い年で、タケルの死で自分は、人はいつ死ぬか分からないと学んだ、と鞠智彦に言います。面会したヤノハがどのような人物だったのか、イサオ王に尋ねられた鞠智彦は、奸智に長けた曲者だった、と答えます。その答えを聞いたイサオ王は、笑顔で鞠智彦に共に酒を飲もう、と提案します。息子亡き後、鞠智彦は息子同然なので、腹を割って話したい気分だ、とイサオ王は言います。すると鞠智彦は、鞠智の里の銘酒を2甕持ってきたので好都合、と応じます。

 山社(ヤマト)では、ミマアキがナツハの世話をしているようです。ナツハの食事を持ってきたミマアキは、山社に来て10日になるのに、自由に表に出られず苦労をかける、と詫びます。ミマアキはヤノハから、ナツハは客人なので最高のもてなしをするよう命じられていました。何か必要なものがあるか、ミマアキに尋ねられたナツハは、何も意思を示しませんが、ミマアキは、こちらからはお願いがあると言い、ナツハの土笛を預かりたい、と要望します。ヤノハはヌカデを呼び、ナツハの顔を近くで見ることに反対するミマト将軍とイクメを説得するよう、支持します。ヤノハがナツハのいる(軟禁されている、と言うべきでしょうか)小屋を見ていたことに気づいたヌカデは、なぜヤノハがナツハにそれほど興味を抱くのか、ヤノハに問いかけます。ヤノハはやや躊躇って恥じらいながら、遠目で見た時、皆が醜いというナツハを自分は美しいと思ったので、どちらが正しいのか間近で確認したい、と答えます。ナツハがどれほど危険かまだ分からないので、判断がつくまでもう少し待つよう、ヌカデはヤノハに進言します。そこへミマアキが現れ、ナツハには少なくとも敵意はなさそうだ、と言います。ナツハは狼や犬を自在に操る土笛をミマアキにあっさりと渡していました。

 イサオ王と鞠智彦は、イサオ王の館らしき場所で宴を始めます。盃が見事なことに感心するイサオ王に、鞠智の里の陶部(トウノベ)の作だ、と答えます。鞠智の里の酒人(サカト)が丹精込めた命の水をお召し上がりください、と鞠智彦はイサオ王に勧めますが、イサオ王の方は、まず鞠智彦から飲むよう勧めます。躊躇う鞠智彦に、宴では客人が先に酒を飲むものだ、とイサオ王は言います。鞠智彦が酒を飲んだのを確認して、イサオ王も酒を飲み、美味い、と言います。日見子(ヒミコ)と名乗る女(ヤノハ)は自分が示した和議を受け入れたのか、とイサオ王に問われた鞠智彦は、拒否し、戦わない戦いを望むと言ってきた、と答えます。暈と山社が永久に睨み合っていれば、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)は平和だろう、というわけです。面白いことを考える、とイサオ王は感心したように言います。どうするのか、鞠智彦に問われたイサオ王は、韓(カラ、朝鮮半島でしょうか)に行く道が閉ざされるなら論外で、那(ナ)や伊都(イト)と組もうとも叩き潰せ、と厳しく答えます。すると鞠智彦は、ヤノハの提案をイサオ王に伝えます。暈の社(ヤシロ、現在の八代市でしょうか)から速岐(ハヤキ、現在の佐世保市早岐でしょうか)に向い、庇羅島(ヒラノシマ、平戸島でしょう)より韓へ出向するなら、暈の舟を阻む理由はない、とヤノハは鞠智彦に提案していました。つまり、韓より鉄(カネ)の輸送を黙認するということか、とイサオ王に問われた鞠智彦は肯定します。タケルならどうするか、とイサオ王に問われた鞠智彦は、タケル王は日見彦(ヒミヒコ)なので、自分に判断を任せるだろう、と答えます。そなたならどうするのか、とイサオ王に問われた鞠智彦は、長引く戦は無益なので、日見子(ヤノハ)の提案を受け入れる、と答えます。

 イサオ王は侍女を退出させ、タケル王の館を訪問し、形見の品を取ってきた、と鞠智彦に伝えます。イサオ王はそこでトンカラリンの迷路を詳細に記した地図を見つけ、タケル王の屍を回収し、骨や腕や胸にいくつかの傷がついていたことに気づきました。鞠智彦はイサオ王に、タケル王はトンカラリンで自決したと伝えており、イサオ王はそれが嘘だと気づいていましたが(35話)、タケル王の遺骸を確認してそれを確信した、というわけです。イサオ王は鞠智彦に、今築造中の墓は息子のタケル王のもので、そこにはそなたも入る、と鞠智彦に伝えます。すると兵士2人が現れて鞠智彦を拘束します。話を聞いてほしい、と訴える鞠智彦に、息子のタケル王が日見彦の器ではなかったことを重々承知しているが、自害するよう説得せよと命じたのに、嬲り殺しにした、とイサオ王は厳しい表情で言い渡します。イサオ王はまず鞠智彦の手と脚を斬り、墓の頂に首だけ出して埋め、1日1回水を与える、と伝えます。鞠智彦は泣き叫び、後悔し、苦しみながら死んでいく、というわけです。イサオ王はその後で、鞠智彦の頭蓋骨を館に飾るつもりです。ところが、鞠智彦を拘束していた兵士2人が突如飛び道具で刺されて死亡します。鞠智彦は、館の者を全員殺したので、覚悟するよう、イサオ王に迫ります。自分を殺すのか、と愕然とするイサオ王は吐血します。イサオ王は、酒ではなく盃の縁に毒が塗られていたことに気づき、落命します。倒れたイサオ王を見ながら、自分が新たな暈の王である、と鞠智彦が言い放つところで、今回は終了です。


 今回やや意外だったのは、ヤノハがまだナツハの顔を近くで見ていなかったことです。前回の描写では、わりと近くで見ていたような感じでしたが。ヤノハは、皆が醜いと思うナツハの顔を、遠目で見た時に美しいと感じたので、どちらが正しいのか間近で確認したい、と考えています。この好奇心の強さがヤノハの強い個性となっていますが、義母が案じたように(40話)、それが身を亡ぼすことにもなりかねません。ナツハはヤノハを深く憎悪しているヒルメから、ヤノハを死よりもっと恐ろしい目に遭わせ、全てを奪い取ってやるよう、指示を受けています(39話)。ヤノハに土笛をあっさりと預けたナツハですが、どのような策でヤノハを陥れようとしているのか、注目されます。ヤノハのナツハへの好奇心は、今回の描写では単に顔の美醜だけのように思いますが、あるいは、ヤノハはナツハが弟のチカラオかもしれない、と気づいているのでしょうか。ヤノハがナツハ顔をまだよく見ていないとしたら、弟の顔を忘れてしまったようですから(17話)、弟と確信できなくても不思議ではありません。まあ、ナツハがチカラオと確定したわけではありませんが、これまでの話の流れからは、その可能性は高そうですから、ヤノハがナツハは弟だと気づいてどのような反応を示すのか、楽しみです。

 ヤノハとナツハとの関係も気になりますが、今回は鞠智彦とイサオ王の駆け引きが主題だったと言えるでしょう。ヤノハからイサオ王を殺すよう示唆された(43話)鞠智彦がどう動くのか、気になっていましたが、答えはイサオ王の殺害でした。イサオ王が鞠智彦を殺そうと考えたのは、息子のタケル王を嬲り殺しにされたからというよりは、自分の指示に叛き、嘘をついていたからのように思います。冷酷なイサオ王は、自分へのわずかな反逆も許さないのでしょう。イサオ王が毒を警戒しているのは明らかで、鞠智彦にまず酒を飲むよう勧めたところでは、さすがの鞠智彦もイサオ王には敵わないのかな、とも思いましたが、これまでの鞠智彦とイサオ王の登場回数からして、このまま鞠智彦が殺されることはないと考えたので、鞠智彦がどう切り抜けるのか、楽しみでした。その後、鞠智彦が平然と酒を飲み、それを見たイサオ王が酒を飲むところを、鞠智彦が慎重に観察しているような描写から、盃に毒を塗っているのだろうな、と予想できました。イサオ王は大物感のある人物でしたが、鞠智彦の方が一枚上だった、というわけです。イサオ王を毒殺した鞠智彦は、自分がイサオ王として暈の国に君臨するつもりなのでしょうか。鞠智彦は刺青を入れており、日見彦(卑弥弓呼)にはなれないでしょうから、自分の息子(鞠智彦に子供がいるのか、明示されていませんが)か縁者か配下の者をタケル王として、日見彦と称させるつもりでしょうか。鞠智彦が暈の王となったことで、山社連合と暈との「冷戦」も確定的になった、と言えそうです。今後は、サヌ王が建てたとされる、本州(さらに特定すると、おそらくは現在の奈良県)にあるらしい日下(ヒノモト)の国も絡んできそうですから、山社連合と暈との「冷戦」構造が確立しても、ヤノハと山社の危機はまだ続きそうで、面白い展開が続くのではないか、と期待しています。

8億年前に月に衝突した小型小惑星

 8億年前に月に衝突した小型小惑星に関する研究(Terada et al., 2020)が公表されました。地球上での侵食過程と地表更新過程は、古代の流星物質(小型小惑星)の衝突に関する研究と、その年代決定を困難にしています。これに対して、こうした流星物質衝突の影響を解明するためには、地球よりも風化と浸食の影響が大幅に少ない月のクレーターを調べるという方法もあります。この研究は、月周回衛星「かぐや」の観測データを用いて、月面にある直径20km超のクレーター59個の形成年代を推定しました。

 その結果、コペルニクスクレーターを含む8個のクレーターは、同時に形成されたものと明らかになりました。この研究は、コペルニクスクレーターから放出された物質の放射年代測定と、いくつかのアポロ計画における衝撃ガラス小球(隕石の衝突によって形成されたガラス状の玉)から得られたデータに基づいて、月では約8億年前に小惑星が降り注いだ、と結論づけました。また、この研究は、月で起こった小惑星のシャワーに似た現象が地球でも起こったに違いないと推測し、衝突クレーターのスケーリング則と衝突確率を用いて、クライオジェニアン紀(約7億2000万~6億3500万年前)の直前に、がチクシュルーブ衝突の原因となった隕石の約30~60倍に相当する、質量4京~5京kgの小惑星が地球に衝突した、という見解を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


惑星科学:8億年前の月に降り注いだ小惑星のシャワー

 月では、今から約8億年前に、流星物質(小型の小惑星)の爆撃があったことを示唆する論文が、Nature Communications に掲載される。この論文では、この衝突確率に基づいて、地球には、クライオジェニアン紀(約7億2000万~6億3500万年前)の直前に流星物質が衝突し、その総質量がチクシュルーブ衝突の原因となった隕石の約30~60倍だったという考えが提示されている。

 地球上での侵食過程と地表更新過程は、古代の流星物質の衝突を研究してその年代を決定することを困難にしている。これに対し、こうした流星物質衝突の影響を解明するためには月のクレーターを調べるという別の方法がある。月は、地球よりも風化と浸食の影響が大幅に少ないためだ。

 今回、大阪大学の寺田健太郎(てらだ・けんたろう)教授たちの研究チームは、月周回衛星「かぐや」の観測データを用いて、月面にある直径20キロメートル超のクレーター59個の形成年代を推定した。その結果、コペルニクスクレーターを含む8個のクレーターは、同時に形成されたものであることが分かった。寺田教授たちは、コペルニクスクレーターから放出された物質の放射年代測定と、いくつかのアポロ計画における衝撃ガラス小球(隕石の衝突によって形成されたガラス状の玉)から得られたデータに基づいて、月では約8億年前に小惑星が降り注いだと結論付けた。また、寺田教授たちは、月で起こった小惑星のシャワーに似た現象が地球でも起こったに違いないと推測し、衝突クレーターのスケーリング則と衝突確率を用いて、質量が4京~5京キログラムの小惑星が地球に衝突したという見解を示している。



参考文献:
Terada K, Morota T, and Kato M.(2020): Asteroid shower on the Earth-Moon system immediately before the Cryogenian period revealed by KAGUYA. Nature Communications, 11, 3453.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17115-6

北極に形成されつつある新たな海洋生態系

 北極に新たな海洋生態系が形成されつつあることを報告した研究(Huntington et al., 2020)が公表されました。北極圏太平洋を構成するチュクチ海とベーリング海北部は、海氷の季節的影響に支配された生産性の高い海洋陸棚域です。この海域は、夏季には海洋生物や海鳥が大量に生息し、海洋哺乳類の主要な移動用の回廊になっています。チュクチ海とベーリング海北部は、2017年から2019年までのひじょうに温暖な冬の間に著しい変化を示しました。しかし、こうした変化が異常なのか、今後は普通のことになっていくのか、明らかではありません。

 この研究は、2017年から2019年までの北極圏太平洋の物理学的観測結果と生物学的観測結果を報告しています。ここには、2017年以降の生態系の変化が含まれています。海氷域の減少と海水温の上昇は、この海域の生物学的特性に連鎖的な変化をもたらしました。たとえば、この海域では、この期間中に亜寒帯種が生息していました。北極圏太平洋では生態系の変化が長い間観測されてきましたが、2017年は、種の分布や各種事象の発生時期に関する過去の観測結果とは大きく異なる1年でした。この研究は、北極圏太平洋の地域海洋生態系が変化している可能性と、この変化の影響を解明するためのさらなる研究の必要性を指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


気候変動:北極に新しい海洋生態系が形成されつつあるのか

 北極圏太平洋の物理的特性と生物学的特性の変化が、2017年から2019年まで非常に温暖になったことに関連している可能性を示唆した論文が、Nature Climate Change に掲載される。

 北極圏太平洋を構成するチュクチ海とベーリング海北部は、海氷の季節的影響に支配された生産性の高い海洋陸棚域である。この海域は、夏季には海洋生物や海鳥が大量に生息し、海洋哺乳類の主要な移動用の回廊になっている。チュクチ海とベーリング海北部は、2017年から2019年までの非常に温暖な冬の間に著しい変化を示した。しかし、こうした変化が異常なのか、今後は普通のことになっていくことを示しているのかは明らかでない。

 この論文で、Henry Huntingtonたちの研究チームは、2017年から2019年までの北極圏太平洋の物理学的観測結果と生物学的観測結果を報告している。ここには、2017年以降の生態系の変化が含まれている。海氷域の減少と海水温の上昇は、この海域の生物学的特性に連鎖的な変化をもたらした。例えば、この海域では、この期間中に亜寒帯種が生息していた。北極圏太平洋では生態系の変化が長い間観測されてきたが、2017年は、種の分布や各種事象の発生時期に関する過去の観測結果とは大きく異なる1年だった。

 Huntingtonたちは、北極圏太平洋の地域海洋生態系が変化している可能性があり、この変化の影響を解明するためにさらなる研究が必要だと結論付けている。



参考文献:
Huntington HP. et al.(2020): Evidence suggests potential transformation of the Pacific Arctic ecosystem is underway. Nature Climate Change, 10, 4, 342–348.
https://doi.org/10.1038/s41558-020-0695-2

形態に基づく分類の困難

 人類進化研究でも遺伝学の研究者の中には、形態学に不信感を抱いている人がそれなりにいるように思います。たとえばハリス(Eugene E. Harris)氏は、その著書『ゲノム革命 ヒト起源の真実』において、形態学的特徴に依拠した分類・進化系統樹の危うさを指摘します(関連記事)。ハリス氏は元々自然人類学でも形態学を専攻しており、1990年代に大学院生だった頃には、自然人類学のなかでも遺伝学にたいする形態学の優位を確信していたそうです。しかしハリス氏は、ヒヒ族の系統樹をめぐる論争に関わったことから、形態学に基づく分類・進化系統樹がいかに危ういか、痛感したそうです。現生種でさえ、形態学に基づく分類・進化系統樹が危ういのに、(多くの場合断片的でしかない)化石に基づく分類・進化系統樹はなおさら危うい、というわけです。

 古代DNA研究の開拓者的存在とも言えるペーボ(Svante Pääbo)氏も、著書『ネアンデルタール人は私たちと交配した』において、形態学への不信を明らかにしています(関連記事)。ペーボ氏は現生人類(Homo sapiens)の起源をめぐる議論について、古生物学者や考古学者が謎を解明できるとは思わなかった、と率直に打ち明けています(同書P134)。古生物学者たちは、研究している古代集団の定義ついてさえ意見が分かれており、多くの異なる種に分類しようとする「細分派(スプリッター)」と、より少ない種にまとめようとする「併合派(ランパー)」が今も激しく議論している、というわけです。

 このような遺伝学の研究者の見解には確たる理由が根底にあり、それは、形態学では遺骸に頼らざるを得ないものの、それは断片的である場合がほとんどで、1個体の遺骸がほぼ揃っている事例は稀なのに対して、遺伝学ではきわめて断片的な遺骸、たとえば手の指骨の小断片からもその個体の全遺伝情報(ゲノム)を回収可能である、という非対称性に由来します。もちろん、全ての遺骸からDNAを解析できるわけではなく、年代が古くなるほど、また発見場所が低緯度地帯(より気温が高くなる)ほど、DNA解析は困難になります。その意味で、DNA解析の不可能な遺骸ではとくに、形態学が依然として重要であることに変わりはありません。また、表現型と遺伝子との関連には未解明部分が多く、今後も形態学と遺伝学により相互補完的に研究が進展していくことでしょう。しかし、そもそも形態よりもゲノムの方がはるかに多くの情報を引き出せるうえに、断片的な遺骸からゲノム解析が可能となると、遺骸の分類において遺伝学が形態学よりも圧倒的に優位である構造は、今後も変わらないでしょう。

 また、断片的な遺骸からの分類が危険なのは、『ゲノム革命 ヒト起源の真実』で指摘されているように、種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないことにもあります。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先系統と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。

 これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(関連記事)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。

 チンパンジー属系統と分岐した後の人類系統でも同様の問題が確認されています。後期ホモ属において遺伝的に詳細な系統関係が明らかになっているのは、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)です。これらが異なる種なのか否か、確定したとは言えませんが、種もしくは分類群での系統関係は、まず現生人類系統とネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統が分岐し、その後でネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が分岐した、と推測されています(関連記事)。つまり、デニソワ人とネアンデルタール人は現生人類よりも相互と近縁な関係にあります。

 しかし、まだ詳細な遺伝的基盤は不明ですが、手の小指の骨の形態では、デニソワ人がネアンデルタール人よりも現生人類の方と近縁です(関連記事)。これは、後期ネアンデルタール人特有の手の指の派生的特徴が、ネアンデルタール人の進化史でもかなり遅い時期に進化したためと推測されています。何らかの自然選択が作用したことによる適応なのか、それとも遺伝的浮動なのか不明ですが、ネアンデルタール人系統では10万年前頃以降に手の指の派生的特徴が急速に定着したようです。これとは対照的に、臼歯のサイズに関しては、ネアンデルタール人と現生人類が類似しており、デニソワ人は鮮新世人類に匹敵するくらい大きい、と指摘されています(関連記事)。これは、デニソワ人系統における何らかの自然選択が作用したことによる適応か、遺伝的浮動だった可能性が高いように思います。

 断片的な遺骸に基づく分類の難しさは、現生人類遺骸でも事例があります。モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された人類の頭蓋冠は、年代的には現生人類である可能性が高いものの、現生人類としては異常なその形態から、ネアンデルタール人もしくはホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類される、という可能性が示唆されました。その後、このサルキート個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)は、ユーラシア現代人集団で広範に存在するハプログループ(mtHg)に分類される、と示されました(関連記事)。しかし、母親が現生人類で父親がネアンデルタール人もしくはエレクトス系統という可能性も想定されます。

 この問題は、核ゲノム解析により決着し、サルキート個体は北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類男性個体(関連記事)と類似している、と明らかになりました(関連記事)。アジア東部における包括的な古代ゲノム研究(関連記事)を踏まえると、サルキート個体は出アフリカ現生人類でもユーラシア東部北方系に位置づけられます。もっとも、田园個体とは異なりサルキート個体は、基本的にはユーラシア西部系統に位置づけられる古代シベリア北部集団(複雑なことに、アジア東部系統の遺伝的影響も一定以上受けていますが)からも一定以上の遺伝的影響を受けています。ともかく、形態ではネアンデルタール人もしくはさらに現生人類とは遠い系統関係にあるエレクトスの可能性さえ指摘されていたサルキート個体が、ゲノムデータでは出アフリカ現生人類に分類されると明確に示されたことは、断片的な遺骸に基づく分類における、形態学に対する遺伝学の明らかな優位を示す、と言えるでしょう。

 この問題は、中国南部の雲南省や広西チワン族自治区で発見された、末期更新世の祖先的特徴を有するホモ属遺骸とも関わってきます。雲南省の馬鹿洞(Maludong)で発見された14310±340~13590±160年前のホモ属遺骸(関連記事)も、広西チワン族自治区(Guangxi Zhuang Autonomous Region)田東県(Tiandong County)林逢鎮(Linfeng Town)の独山洞窟(Dushan Cave)で発見された15850~12765年前のホモ属遺骸(関連記事)はともに、祖先的特徴が指摘されています。そこから、馬鹿洞人は未知の人類系統、独山人は非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類との交雑集団もしくは初期現生人類の頑丈型集団を表している、といった可能性が指摘されています。世界中に拡散した初期現生人類の遺骸はたいへん少なく、その形態的多様性と地域的特徴をじゅうぶん把握できていないことが、馬鹿洞人と独山人の分類を難しくしています。私は、どちらも初期現生人類の多様な形態を反映しているのではないか、との見解に傾いていますが、この問題の解明には古代DNA研究が必要でしょう。末期更新世のこの地域の古代DNA解析となると、かなり難しそうではありますが、近年のDNA解析技術の進展には目覚ましいものがあり、いつか成功するのではないか、と期待しています。

分断・孤立と交雑・融合の人類史

 人類史に限らず広く生物史において、地理的障壁の形成などにより分類群が分断され、生殖隔離が生じた後に地理的障壁が消滅もしくは緩和し、比較的近い世代で祖先を同じくする異なる分類群同士が交雑する、ということは一般的であるように思います。2007年の時点で現生人類(Homo sapiens)と非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との交雑を指摘した研究は、これを「孤立・交雑モデル」と把握しています(関連記事)。人類以外の具体例としてはヒヒ属があり、分岐と交雑と融合を含むその複雑な進化史が推測されており、その中には分岐した2系統が遺伝的にほぼ同じ影響を残して形成された新たな系統も含まれます(関連記事)。

 こうした分断・孤立による生殖隔離は、もちろん地理的障壁のみが原因で生じるわけではないものの、地理的障壁が大きな要因になっていることも間違いないでしょう。人類史に即して言えば、概して穏やかな間氷期には人類の居住範囲は拡大したようで、サハラ砂漠やアラビア砂漠のような居住に適さない地域も、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5・3の頃には、モンスーン活動の増加により植物が繁茂したこともありました(関連記事)。このような場合、他地域との「回廊」が開き、分断・孤立した分類群同士の再会の機会が訪れます。

 詳しくデータを提示できるほど勉強は進んでいませんが、人類史においては、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とが交互に訪れたのではないか、と思います。これは他の生物も同様ですが、生物としては生息域がかなり広範な部類に入るだろう人類にとっては、重要な意味を有する、と私は考えています。すでにホモ属出現前に人類はアフリカ東部と南部に拡散しており、古代型ホモ属はアフリカからユーラシアへと拡散し、西はイベリア半島、東はアジア東部および南東部にまで分布していました。それだけに、気候変動による環境変化に伴う地理的障壁の形成の結果として、分断されて孤立していき生殖隔離が生じるとともに、その後の気候変動による地理的障壁の消滅・緩和により、再会して交雑・融合することも起きやすかったというか、その影響を受けやすかったように思います。もちろん、各地域が一様に変化していくわけではなく、分断・孤立が大勢の時代にも交雑・融合が進んだ地域はあったでしょうし、逆に交雑・融合が大勢の時代にも孤立した集団が存在したことはあったでしょうが、大きな傾向として、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とに区分できるでしょう。


●人類進化のモデル

 こうした孤立・分断と交雑・融合の時代が相互に訪れていたことを前提とすると、人類進化のモデルとして注目されるのは、現生人類の起源に関する複雑な仮説です(関連記事)。この仮説では、メタ個体群(対立遺伝子の交換といった、あるレベルで相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群のグループ)モデルにおける、分裂・融合・遺伝子流動・地域的絶滅の継続的過程としての、進化的系統内の構造と接続性の重要性が強調されます。これは構造化メタ個体群モデルと呼ばれます。気候変動による地理的障壁の形成・強化などに伴う分裂・分断と、地理的障壁の消滅・緩和によるメタ個体群間の融合により、現生人類は形成されていった、というわけです。また、メタ個体群はある地域にずっと存続し続けるのではなく、環境変化を招来する気候変動や他のメタ個体群からの圧力などにより、移動することも珍しくない、という視点も重要になるでしょう。

 構造化メタ個体群モデルは、現生人類を特徴づける派生的な身体的形質が1地域で漸進的に現れたわけではない、という化石記録と整合的です。もちろん、メタ個体群の中には、現代人に大きな影響を残しているものも、ほぼ絶滅と言ってよいくらい現代に遺伝的影響が残っていないものもあるでしょう。その意味で、ひじょうに複雑な仮説であり、その確証は容易ではないでしょうが、今後の人類進化研究において重視されるべきモデルである、と私は考えています。

 分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しとは、異質化と均質化の繰り返しとも言えます。異質化とは、多様性の増加でもあります。ここで重要なのは、川端裕人『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』が指摘するように、多様性は分断・孤立に起因するところが多分にある、ということです(関連記事)。同書はアジア南東部を対象としており、中期~後期更新世における人類の多様化を指摘しますが、アフリカでも、中期更新世後期でもなお、現生人類とは大きく異なる系統だろうホモ・ナレディ(Homo naledi)が存在していました(関連記事)。

 また同書が指摘するように、現在では多様性が善と考えられています。しかし、それが多分に分断や孤立に起因するとなると、手放しで賞賛することはできません。一方で、現在では交流もまた善と考えられていますが、これが均質化・多様性の喪失を招来している側面も否定できません。現生人類のこれまでの行動から、もはや均質化の流れは止められないだろう、と同書は予測しています。深刻な矛盾をもたらしかねない「崇高な」諸々の価値観をどう共存させていくのか、現代社会の重要な問題になると思います。


●初期ホモ属の進化

 上記の構造化メタ個体群モデルは現生人類の起源を対象としていますが、ホモ属の起源にも当てはまるかもしれません。首から下がほとんど現代人と変わらないような「真の」ホモ属が出現したのは200万~180万年前頃のアフリカだと思われますが、それ以前、さらにはそれ以降も、ホモ属的な特徴とアウストラロピテクス属的な特徴の混在する人類遺骸が発見されています。これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。

 これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。南アフリカ共和国では、ホモ属的な特徴を有する200万年前頃の人類遺骸群が発見されていますが、これはアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)に分類されています(関連記事)。一方、分類に関して議論が続いているものの(関連記事)、アウストラロピテクス属的特徴も有するホモ属として、ハビリス(Homo habilis)という種区分が設定されています。

 ホモ・ハビリスは240万年前頃から存在していたとされていますが、ホモ・エレクトス(Homo erectus)が出現してからずっと後の144万年前頃までケニアで存在していた可能性も指摘されています(関連記事)。233万年前頃のハビリスと分類されている人類遺骸からは、ホモ属が当初より多様化していった可能性も指摘されています(関連記事)。またエチオピアでは、ホモ属的特徴を有する280万~275万年前頃の人類遺骸も発見されています(関連記事)。

 300万~200万年前頃の人類遺骸は少ないので、ホモ属の初期の進化状況は判然としませんが、ホモ属的な派生的特徴が300万~200万年前頃のアフリカ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により「真の」ホモ属が形成されていった、との構造化メタ個体群モデルの想定には、少なくとも一定以上の説得力があるように思います。ホモ属の出現に関して、現時点ではアフリカ東部の化石記録が多いと言えるでしょうが、最古のホモ・エレクトスとも主張されている204万~195万年前頃の化石が南アフリカ共和国で発見されており(関連記事)、アフリカ北部では240万年前頃(関連記事)、レヴァントでは248万年前頃(関連記事)の石器が発見されているので、あるいはアフリカ全域とレヴァントまで含めて、ホモ属の形成を検証する必要があるかもしれません。


●ネアンデルタール人の進化

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の進化に関しても、当然現生人類とは異なる側面が多分にあるとしても、構造化メタ個体群モデルが一定以上有効かもしれません。中期更新世のヨーロッパには、異なる系統のホモ属が共存していた可能性が高そうです。ポルトガルの40万年前頃のホモ属遺骸にはネアンデルタール人的特徴が見られない一方で(関連記事)、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸には、頭蓋でも(関連記事)頭蓋以外でも(関連記事)ネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが混在しており、フランスの24万~19万年前頃のホモ属遺骸でもネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが確認され(関連記事)、イタリアの45万年前頃のホモ属の歯にもネアンデルタール人的特徴が見られます(関連記事)。

 こうした形態学からの中期更新世のヨーロッパにおける異なる系統のホモ属の共存の可能性は、考古学的記録とも整合的と言えそうです(関連記事)。遺伝学でも、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸とネアンデルタール人との類似性が指摘されており、さらには、中期更新世にアフリカから新技術を有して新たに拡散してきた人類集団が、ネアンデルタール人の形成に影響を及ぼした可能性も指摘されています(関連記事)。形態学・考古学・遺伝学の観点からは、ネアンデルタール人的な派生的特徴が中期更新世のヨーロッパ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流によりネアンデルタール人が形成された、と考えるのが現時点では節約的なように思います。

 じっさい、ネアンデルタール人が気候変動などにより移動していた証拠も得られています。おそらく、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返しており、寒冷期に人口が減少し、温暖期に人口が増加したのでしょう。ドイツの中部旧石器時代の遺跡の検証から、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返していたのではないか、と推測されています(関連記事)。当然この過程で、時には集団(メタ個体群)が絶滅することもあったでしょう。じっさい、西方の後期ネアンデルタール人集団の間では、相互に移動・置換があったのではないか、と推測されています(関連記事)。


●ネアンデルタール人とデニソワ人の関係

 ネアンデルタール人とその近縁系統となる種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関係でも、孤立・分断と交雑・融合の繰り返しが示唆されます。ネアンデルタール人とデニソワ人の推定分岐年代には幅がありますが、現時点では70万~50万年前頃の間と想定しておくのが無難でしょうか(関連記事)。この分岐は孤立・分断の結果なのでしょうが、ネアンデルタール人遺骸の主要な発見地がヨーロッパとアジア南西部および中央部で、デニソワ人遺骸の発見地が現時点では南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡とチベットに限定されていることから、両者の主要な生息域は一部重なりつつも大きく異なっていた可能性が高く、地理的障壁の結果と考えるのが妥当でしょう。

 デニソワ人の現代人への遺伝的影響はアジア東部でも見られますが、パプア人やオーストラリア先住民にはそれよりもずっと強い影響が残っており(関連記事)、アジア東部から南東部にかけて分布していた、と考えられます。デニソワ洞窟における人類の痕跡は断続的なので(関連記事)、デニソワ人の主要な生息域はアジア東部および南部で、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。ネアンデルタール人はヨーロッパからユーラシア草原地帯を西進してアルタイ地域に到達し、異なる遺伝的系統のネアンデルタール人個体がアルタイ地域で確認されていることから(関連記事)、デニソワ人と同じく、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。

 大まかには、ネアンデルタール人はユーラシア西部、デニソワ人はユーラシア東部を主要な生息域として、時に両者の生息域の端(辺境)である南シベリア(ネアンデルタール人にとっては東端、デニソワ人にとっては西端)で遭遇していた、と言えそうです。気候変動による環境変化により、両者が接触しなかった期間は短くなかったと考えられ、それ故に分岐していったのでしょうが、おそらく気候が温暖な時期には、ネアンデルタール人による(何世代を要したのか不明ですが)ユーラシア草原地帯の長距離移動もあったのでしょう。

 アルタイ地域では、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑は一般的と推測されており、交雑による遺伝的不適合の強い証拠が見られない、と指摘されています(関連記事)。ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先系統が現生人類系統と分岐した後にネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が分岐したため、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑では、現生人類との交雑の場合よりも遺伝的不適合が生じない可能性は高いだろう、と思います。

 上述のヒヒ属の事例からは、遺伝的不適合度の低そうなネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が同じくらいの遺伝的影響を有する融合集団の存在も想定されます。じっさい、そうした融合系統(ネアンデルタール人よりもややデニソワ人の方の影響が大きい、と推定されます)が、アジア東部および南部・パプア・オーストラリア先住民の共通祖先集団と交雑した、との見解も提示されています(関連記事)。それでもネアンデルタール人とデニソワ人が完全に融合せず、別系統として存続し続けてきたのは、両者の遭遇自体が一般的ではなく(遭遇した場合の交雑は一般的ですが)、基本的には地理的障壁によりそれぞれ分断・孤立していたからなのでしょう。


●ユーラシアの現生人類における分断と融合

 出アフリカ後のユーラシアにおける現生人類の動向も、分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しにより解釈することが必要なように思います。最終氷期の終わりには、ユーラシア東西で複数のひじょうに分化した集団が存在しており、これらの集団は他集団を置換したのではなく、混合していった、と指摘されています(関連記事)。ユーラシア西部では、現代のヨーロッパ集団とアジア東部集団との遺伝的違い(平均FST=0.10)と同じくらいの、遺伝的に異なる少なくとも4集団が存在し、新石器時代に混合して異質性は低下していき(平均FST=0.03)、青銅器時代と鉄器時代には現代のような低水準の分化(平均FST=0.01)に至りました。ユーラシア東部では、アムール川流域集団と新石器時代黄河流域農耕民と台湾鉄器時代集団との間で、比較的高い遺伝的違い(平均FST=0.06)が存在したものの、現在では低くなっています(平均FST=0.01~0.02)。こうした完新世における遺伝的均質化の動因としては、農耕の採用やウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などといった生業面での優位性が大きかったように思います、

 これらユーラシア現生人類集団は、元々単一の(7万~5万年前頃の)出アフリカ集団に主要な遺伝的起源があると推測されますが(関連記事)、末期更新世には多様化していたのでしょう。しかし末期更新世と比較すると、現代ユーラシアでは東西ともに遺伝的には均質化が進んでおり、完新世を交雑・融合傾向の強い時代と把握できそうです。5万年前頃には比較的均質だった出アフリカ現生人類集団が、末期更新世の頃までには多様化していき、完新世において遺伝的均質化が進展した、という大まかな見通しを提示できるでしょう。ただ、完新世の人類集団は更新世と比較して一般的に大規模なので、これは均質化への抵抗要因として作用する、とも考えられます。

 こうしたユーラシア現生人類集団における末期更新世までの遺伝的多様化は、拡大により相互の接触が困難になった、という事情もあるものの、その後でユーラシア東西ともに遺伝的均質化が進展したことを考えると、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)によりユーラシア各地域の現生人類集団は分断・孤立していき、遺伝的違いが大きくなった、と考えられます。LGMをやや幅広く設定すると(関連記事)、33000~15000年前頃です。これは、遺伝的にだけではなく、文化的にも違いをもたらすのに充分な時間です。語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、と指摘されています(関連記事)。

 LGMを含む前後の15000~20000年間ほどが分断・孤立傾向の強い時代だとしたら、5万~4万年前頃には類似した言語を有していた集団間で、異なる語族が形成されても不思議ではありません。おそらく、末期更新世にはユーラシアにおいて多様な言語が存在しており、それらが消滅・吸収されていった結果、現代ユーラシアのような言語状況が形成されたのでしょう。それでも、ヨーロッパのバスク語やアジア東部の日本語・アイヌ語・朝鮮語のように、孤立的な言語が今でも存続しています。この問題に関しては、アメリカ大陸の事例も考えねばならないのですが、私の知見があまりにも不足しているので、今回は取り上げません。


●日本人とチベット人の遺伝的構造の類似性と言語の違い

 集団の遺伝的構造と言語は相関していることも多いものの、違うこともあります。日本人とチベット人はその典型かもしれません。ここでは、「日本人」でもおもに本州・四国・九州を中心とする「本土」集団が対象です。上述のように、ユーラシア東部の人類集団は末期更新世には遺伝的に多様でしたが、完新世には均質化していき、アジア東部に限定しても同様です。アジア東部の広範な地域を対象とした古代DNA研究(関連記事)では、アジア東部現代人集団は複雑な分岐と融合を経て形成された、と示されます。まず、出アフリカ現生人類はユーラシア東西系統に分岐します。ユーラシア東部系統は南北に分岐し、ユーラシア東部北方系からアジア東部北方系とアジア東部南方系が分岐します。現時点のデータでは、ユーラシア東部南方系と、ユーラシア東部北方系に由来するアジア東部北方系およびアジア東部南方系の複雑な融合により、アジア東部現代人の各地域集団が形成された、とモデル化されます。アジア東部北方系とアジア東部南方系の分岐は、おそらくLGMによる分断・孤立を反映しているのでしょう。

 この見解を前提とすると、日本人とチベット人は、類似した遺伝的構造の形成過程を示します(関連記事)。それは、おもに狩猟採集に依拠していた古層としての在来集団と、後に到来したアジア東部北方新石器時代集団との混合により形成され、遺伝的には後者の影響の方がずっと高い、ということです。古層としての在来集団は、チベット人の場合はユーラシア東部南方系で、アンダマン諸島現代人集団や後期更新世~完新世にかけてのアジア南東部狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団が含まれます。古層としての在来集団は、日本人の場合は「縄文人」で、ユーラシア東部南方系統とユーラシア東部北方系から派生したアジア東部南方系統との混合だった、と推測されます。現代日本人と現代チベット人において高頻度で見られる、現代世界では珍しいY染色体ハプログループ(YHg)Dは、おそらくユーラシア東部南方系に由来するのでしょう。

 アジア東部北方系は、仰韶(Yangshao)文化や龍山(Longshan)文化といった黄河中流および下流域農耕集団に代表されます。言語学では、チベット・ビルマ語族が含まれるシナ・チベット語族の起源は7200年前頃で(関連記事)、シナ・チベット語族の拡散・多様化は5900年前頃に始まった(関連記事)、との見解が提示されています。チベット人に関しては、集団の遺伝構造と言語との間に強い相関がある、と言えそうです。もちろん、新石器時代においてすでにアジア東部北方系とアジア東部南方系との混合が推測されているように(関連記事)、集団の遺伝的構造と言語とをあまりにも単純に相関させることは危険で、現代の中国語(漢語)にしても、アジア東部北方系のシナ・チベット語族と、おそらくはアジア東部南方系の先オーストロネシア語族などとの混合により形成されていったのでしょう。

 一方、日本人に関しては、アジア東部北方系の言語をシナ・チベット語族系統と想定すると、集団の遺伝的構造と言語とが相関しません。これは朝鮮人に関しても同様と言えるでしょう。日本語も朝鮮語も、おそらくはLGMによる分断・孤立でユーラシア東部において形成された多様な言語群の一つだったのでしょうが、完新世において同系統の言語群が消滅・吸収され、現在は孤立言語のようになったのでしょう。日本語の形成に関しては、アイヌ語との関係も含めて以前短くまとめましたが(関連記事)、その後も勉強が進んでおらず、確たることはとても言えません。

 単純化すると、集団の遺伝的構造と言語とは相関しないこともある、と言って終えられます。まあ、これでは何も言っていないのに等しいので、もう少し考えると、アジア東部北方系の言語が基本的にはシナ・チベット語族系統のみだったとすると、バヌアツの事例(関連記事)が参考になるかもしれません。これは以前に、日本語の形成過程で参考になるかもしれない事例として取り上げました(関連記事)。遺伝的には、バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人はパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなくオーストロネシア諸語のままです。

 日本語の形成過程にたとえると、オーストロネシア系集団が「縄文人」、パプア系集団がアジア東部北方系の影響のひじょうに強い、おそらくは弥生時代以降に日本列島に到来した集団に相当します。アジア東部北方系集団の日本列島への到来が短期間に多数の人々によりなされたのではなく、長期にわたる緩やかなもので、その後の人口増加率の違いにより現代日本人のような遺伝的構成が形成されたとすると、交易などの必要性から先住民集団である「縄文人」の言語が大きな影響力を維持した、とも考えられます。

 一方、アイヌ語と日本語とが大きく違うことを考えると、「縄文人」の言語は地域的な違いがあれども基本的にはアイヌ語系統で、上記のような日本語が選択された過程は日本列島ではなく遼河地域から朝鮮半島のどこかで起き、そこから日本列島にもたらされた、とも考えられます。しかし、現時点では東日本に限定されているものの、「縄文人」は時空間的にかなり異なる集団でも遺伝的に均質ですから(関連記事)、更新世に日本列島に到来した(4万年前頃以降)集団が、外部とはさほど遺伝的交流なしに進化した、とも考えられます。

 北海道「縄文人」の祖先集団と他地域の「縄文人」の祖先集団とが、LGMによる分断・孤立で分岐していったとすると、日本語とアイヌ語がとても同系統と確認できないくらいに分化していっても不思議ではありません。「縄文人」の言語は、北海道もしくは東北地方か関東か東日本までと、西日本とで大きく異なっており、日本語は西日本の「縄文人」の(一部集団の)言語に起源がある、というわけです。ただこの場合、「縄文人」の遺伝的多様性がもっと高くてもよさそうにも思いますが、あるいは、今後西日本の「縄文人」のゲノムが解析されれば、東日本「縄文人」との一定以上の違いが明らかになるのでしょうか。

 もう一つ想定されるのは、アジア東部北方系の言語は、後にはシナ・チベット語族に一元化されたものの、新石器時代のある時点までは多様だった、というものです。集団の遺伝的構造と言語が相関しているとは限りませんから、LGMによる分断・孤立で言語が多様化していき、その後の融合過程で遺伝的にはアジア東部北方系が成立したものの、その言語は均質ではなく、日本語祖語も朝鮮語祖語も含まれていた、という想定です。チベットに拡散したアジア東部北方系集団の言語はシナ・チベット語族で、朝鮮半島やさらに日本列島に向かった集団の言語は大きく異なっていた、というわけです。

 結局のところ、自分の勉強不足のため日本語の形成過程はよく分からず、単に複数の想定を列挙しただけで、しかもこれらの想定以外に「正解」がある可能性も低くないので、何ともまとまりのない文章になってしまいました。日本語の起源はたいへん難しい問題ですが、おそらくはアイヌ語とともに、LGMによる分断・孤立で多様化した言語が、現代では孤立した言語として生き残っている事例で、バスク語と同様なのでしょう。現代世界でも言語の喪失は大きな問題となっていますが、LGMの後から現代までに、現代人がもう永久に知ることのできない、少なからぬ喪失言語があったのでしょう。

ホモ・フロレシエンシスについてのまとめ

 インドネシア領フローレス島で発見されたホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)についてまとめます。フロレシエンシスについては、2008年3月(関連記事)と2014年8月(関連記事)と2016年9月(関連記事)にまとめ記事を掲載しており、それから4年近く経過したので、基本的には前回のまとめ以降の知見を簡単に列挙していきます。前回までのまとめ記事で述べましたが、フロレシエンシスの遺骸はまずフローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟で発見され(遺骸の下限年代は6万年前頃、フロレシエンシスと関連していると考えられる石器群の下限年代は5万年前頃)、その祖先かもしれない70万年前頃の人類遺骸が、フローレス島中央のソア盆地では、マタメンゲ(Mata Menge)遺跡で発見されています。

 2009年に公表されていたものの、前回までのまとめ記事では言及できなかった研究では、リアンブア洞窟において更新世のフロレシエンシスから完新世の現生人類まで類似した石器技術が継続した、と指摘されています(関連記事)。中期更新世でも前期となる70万年前頃のマタメンゲ遺跡の石器群と、中期更新世~後期更新世にかけてのリアンブア洞窟の石器群は技術的に類似している、というわけです。アジア南東部島嶼部の石器群の変遷に関しては、更新世~完新世にかけての技術的連続性が指摘されていますが、それはリアンブア洞窟でも同様というわけです。現生人類(Homo sapiens)が存在したとはとても考えられない時代から、まず間違いなく現生人類ではない人類はすでに絶滅していただろう完新世まで、人類系統の違いにも関わらず石器製作技術が共通していることは、人類史における大きな謎と言えるでしょう。

 ただ、リアンブア洞窟の石器群は、更新世と完新世とで違いも見られます。完新世になると、更新世とは石材の選択が異なっていたり、石器が研磨されるようになったり、火で加熱処理がされたりするようになります。製作技術的により複雑さの要求される手斧も製作されるようになります。リアンブア洞窟においては、石器技術では様式1(Mode 1)のオルドワン(Oldowan)的な石器技術がずっと見られ、大きな剥片を製作して洞窟に持ち込み、小さな剥片を製作するという更新世~完新世にかけての共通点とともに、上記のような相違点も見られ、それは製作者の生物学的系統の違いを反映しているのではないか、と指摘されています。

 一方、東ティモールのジェリマライ(Jerimalai)遺跡の後期更新世の石器群を分析した研究では、ジェリマライ遺跡の石器群とリアンブア洞窟の石器群とでは、再加工された有茎という類似性が認められるものの、マタメンゲ遺跡の石器群で指摘されている有茎は類型学的にはそれらと同等ではなく、偶然の産物だろう、と指摘されています(関連記事)。さらにこの研究は、ジェリマライ遺跡とリアンブア洞窟遺跡の石器群が現生人類によって製作されたか、現生人類の影響を受けて製作された可能性を提示しています。これは、スンダランドからオセアニアへといつ現生人類が到来したのか、という問題と関わっており、複数の地域から報告が提示されているものの、疑問も呈されており、確定的とはとても言えません(関連記事)。

 リアンブア洞窟では5万年前頃に動物相でも石材でも大きな変化があり、これは噴火に起因する、と推測されています(関連記事)。この研究では二つの可能性が提示されており、一方は、噴火後もフロレシエンシスがフローレス島で生き残っており、リアンブア洞窟に戻ってきた、というものです。もう一方は、フロレシエンシスは噴火後に絶滅したかフローレス島の他の場所を生活圏としたためリアンブア洞窟に戻らず、石材選好性の顕著な変化は現生人類の出現に起因する、というものです。またこの研究は、可能性は低いと指摘しつつも、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のようなフローレス島では未確認の人類が新たにリアンブア洞窟にやってきた可能性にも言及しています。

 リアンブア洞窟のネズミの身体サイズの変化を分析した研究では、リアンブア洞窟一帯は、62000年前頃以降、じゅうらいの開けた草原地帯からより閉鎖的な森林環境への移行が始まり、火山砕屑物による動物記録の空白期間(50000~47000年前頃)を挟んで、森林環境へと移行した、と推測されています(関連記事)。これは、リアンブア洞窟における動物相の変化とも一致します。ただ、リアンブア洞窟において考古学的記録から消滅した動物が絶滅したとは限らない、とも指摘されています。上述のリアンブア洞窟における動物相と石材の変化を分析した研究でも指摘されていましたが、これはフロレシエンシスに関しても当てはまるでしょう。

 フローレス島の更新世鳥類化石を分析した研究では、マタメンゲ遺跡でもリアンブア洞窟でも、鳥類化石と人類の痕跡との密接な関連が見られる、と指摘されています(関連記事)。しかし、マタメンゲ遺跡では、人類が鳥類を食べたり装飾品に利用したりするといった明確な直接的証拠は見つからず、これはリアンブア洞窟遺跡でも同様です。この研究は、死肉漁りをしている鳥類の観察により、人類が食料を見つけていた可能性を指摘しています。ただ、この研究では、直接的な比較データが不足しているので、あくまでも予備的な分析にすぎない、とも指摘されています。その意味で、フローレス島の非現生人類ホモ属(フロレシエンシス系統)が鳥類を直接的に利用していた可能性もあると考えるべきでしょう。

 フロレシエンシスの祖先がどの系統の人類なのか、議論が続いていますが、大別すると、ジャワ島というかスンダランドのホモ・エレクトス(Homo erectus)か、エレクトスよりもさらに祖先的、つまりアウストラロピテクス属的な特徴を有する分類群ではないか、という見解に二分されるように思います。後者の見解では、たとえば、分類に色々と議論はあるものの(関連記事)、ホモ・ハビリス(Homo habilis)から派生した、と想定されます。フロレシエンシスの形態の包括的な分析では、フロレシエンシスがエレクトスの子孫系統である可能性はほぼなく、ハビリスのみの姉妹群か、ハビリスやエレクトスやエルガスター(Homo ergaster)や現生人類を構成する系統群の姉妹群である、と指摘されています(関連記事)。この研究では、フロレシエンシスは175万年以上前に(後に現生人類が派生する)エレクトス系統と分岐し、まだ知られていない出アフリカによりアジア南東部にまで到達した、と示唆しています。この場合、アフリカでフロレシエンシスに進化してからフローレス島に到達したか、出アフリカの後、どこかでフロレシエンシスに進化したのではないか、と想定されています。

 頭蓋冠の分析・比較では、フロレシエンシスの正基準標本とされるLB1がエレクトスと区分すべきクレード(単系統群)に属する、との見解が提示されています(関連記事)。この研究では、ホモ属は、ルドルフェンシスやエルガスターや名称未定の新種群といった最初期の分類群が分岐した後、大きくエレクトスと現生人類の2系統に区分される、と推測されています。これは、フロレシエンシスの祖先をエレクトスとする説に区分されますが、この研究では、ジャワ島のガンドン(Ngandong)遺跡とサンブンマチャン(Sambungmacan)遺跡で発見された中期更新世以降(おそらく、後期更新世にまではくだらないでしょう)の人骨群が現生人類と分類されており、これには否定的な研究者が少なくなさそうですから、この研究によりフロレシエンシスの系統的位置が確定した、とは言えないでしょう。

 ヒト上科の現生種および化石標本の頭蓋データから、ヒト科の進化的放散による多様化を検証した研究では、フロレシエンシスは他のホモ属から最も早く分岐した、と推測されています(関連記事)。これは、フロレシエンシスがエレクトスよりもっと祖先的なホモ属系統、たとえばハビリスから進化した、とする見解と整合的です。この研究では、その後のホモ属の分岐で、ルドルフェンシス(Homo rudolfensis)系統と他のホモ属系統が分岐する、と推測されており、ルドルフェンシスはフロレシエンシスよりも現生人類に近い系統となります。

 LB1とさまざまな人類の頭蓋形態を比較した研究では、LB1は健康な現代人のみならず病変の現代人とも明確に区別でき、全体的には非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と類似している、と指摘されています(関連記事)。古代型ホモ属のなかでもとくにLB1と類似しているのは、広義のエレクトス、具体的には180万~170万年前頃のジョージア(グルジア)のドマニシで発見された人類遺骸です。ただ、この研究は、LB1と広義のエレクトスとの類似性が、人類進化系統樹におけるフロレシエンシスの位置づけを直ちに決定するわけではない、と慎重な姿勢を示しています。

 近年の古代DNA研究の進展には目覚ましいものがありますが、フロレシエンシスでは古代DNAの抽出・解析はまだ成功しておらず、その可能性はきわめて低そうです。ただ、タンパク質解析が成功する可能性は低くないかもしれず、フロレシエンシスの系統的位置づけを可能とする遺伝的情報が得られる可能性はあると思います(関連記事)。フロレシエンシスのDNA解析には成功していませんが、フローレス島の小柄な(平均身長約145cm)人類集団ランパササ(Rampasasa)のゲノム解析では、ランパササ集団の低身長にフロレシエンシスが遺伝的影響を与えた可能性は低い、と推測されています(関連記事)。ランパササ集団は、非アフリカ系現生人類系統において、ヨーロッパ系やアジア東部系との分岐後に、身長を低下させるような選択圧を受けてきた、と推測されています。フロレシエンシスに関しては、島嶼化による小型化の可能性が発見当初から指摘されていましたが、そのような島嶼化はランパササ集団でも起きた可能性が高く、人類史において少なくとも2回独立して起きた、と考えられます。

 フロレシエンシスの脳および身体サイズの進化に関する研究では、その小柄な体格は島嶼化による選択圧のためだろう、と推測されています(関連記事)。ただ、フロレシエンシスにおいて脳サイズの進化パターンが身体サイズのそれとは異なる、とも推測されています。島嶼化は脳と身体のサイズにおいて、それぞれ異なる進化パターンを引き起こすかもしれない、というわけです。この研究では、フロレシエンシスの脳サイズに関して、脳の可塑性により縮小したにも関わらず認知能力が維持されたか、複雑な脳機能の再編により認知能力がそのまま維持された、と推測されています。この研究では、フロレシエンシスの祖先がエレクトスとは断定されていないものの、フロレシエンシスの祖先として、エレクトスよりも祖先的で小柄なアフリカの人類集団を想定することは倹約的ではない、とも指摘されています。総合的に考えると、フロレシエンシスの脳および身体サイズの縮小の最も倹約的な説明は島嶼化で、フロレシエンシスの祖先はアジア南東部のエレクトスである可能性が最も高い、というわけです。

 フロレシエンシスの足に関する研究では、現代人の死体の研究に基づくと191mmと推定されていたLB1の「最大の足の長さ」が再検証されています(関連記事)。生前には筋肉や皮膚などで平均2.73%長くなるので、LB1の生前の足は196mmと推定されます。LB1の大腿骨の最大長は280mmなので、生前のLB1の足の大腿骨に対する長さの割合は0.7となります。これは、平均0.542(0.493~0.589)という現代人の割合をはるかに超えているため、フロレシエンシス固有の特徴と考えられました。しかし、この研究は、LB1に分類された人骨群が本当にすべてLB1のものなのか、再検証し、LB1の足の長さは175mm(生前は180mm)と推定しています。これは、大腿骨との長さの比率では0.64とまだ現代人の範囲を超えていますが、以前の推定値をずっと下回っています。また、この研究は、推定されたLB1の足の骨のいくつかは現代人の手の骨とひじょうによく似ていると指摘し、リアンブア洞窟で発見された人骨群の各個体への分類と復元の見直しと、LB1を病変の現生人類とする見解も考慮して、リアンブア洞窟の人骨群を再検証するよう、提案しています。LB1を含めてフローレス島の6万年前頃までの人類化石群を病変の現生人類と考えることは無理があると思いますが、個々の遺骸の各個体への分類や、その結果としてのLB1の復元が妥当だったのか、という検証は必要になってくるかもしれません。

 フロレシエンシスとの関連で注目されるのは、ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)で発見された67000~50000年以上前の人類遺骸で、の歯・手・足の形態の組み合わせがひじょうに独特であることから、ホモ属の新種ルゾネンシス(Homo luzonensis)と分類されました(関連記事)。ルゾネンシスは、手と足の形態がアウストラロピテクス属のアファレンシス(Australopithecus afarensis)やアフリカヌス(Australopithecus africanus)と類似しており、歯はさらにさまざまな人類との類似性が指摘されています。ルゾネンシスの大臼歯はかなり小さく、歯冠の比較からも、アジアのエレクトスや南シベリアのデニソワ人(Denisovan)とは異なるものの、第一大臼歯には、インドネシアのいくつかのエレクトス化石との類似性が見られるそうです。ルゾネンシスの大臼歯の外部形態は現生人類と類似していますが、歯冠・EDJ(象牙質とエナメル質の接合部)・歯根には祖先的特徴が見られ、アウストラロピテクス属とパラントロプス属を含む早期人類と類似しています。ルゾネンシスのEDJは、フロレシエンシス以外の人類とは異なる形態を有しています。ルゾネンシスの小臼歯は他の人類と比較して大きいというか、大臼歯と小臼歯のサイズの比率が他の人類と大きく異なり、例外はパラントロプス属くらいです。

 ルゾネンシスの系統的位置づけはフロレシエンシスよりも難しそうですが、これらの形態的類似性の中には収斂進化の結果であるものも含まれている可能性が高そうで、その場合は系統的関係の根拠とはなりません。現時点では、フロレシエンシスもルゾネンシスもスンダランドのエレクトスから派生し、島嶼化により特異な形態の組み合わせが進化したのではないか、と考えています。アジア南東部には、フロレシエンシスやルゾネンシス以外にも、特異な形態の組み合わせの人類が存在したかもしれず、フロレシエンシスとルゾネンシスの系統的位置づけも含めて、今後の研究の進展が楽しみです。

天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』

 シリーズ「中世から近世へ」の一冊として、平凡社より2018年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。随分前に読んだ本か記事では、松永久秀は出自不明とされていたように記憶しています。本書では、久秀の出自は摂津国の五百住の土豪だった可能性が高い、とされています。久秀は当時としてはそれなりの身分の生まれだったようですが、父の名前も伝わっていないくらいですから、土豪でも有力ではなかったようです。とはいえ、子供の頃に武士としての素養や読み書きを習得し、さらに教養を得られるような階層の出身だった、とは言えそうです。

 久秀が三好長慶に重用されたのは、久秀が統治にも軍事にも優れた人物だったこともありますが、三好家の事情もあったようです。阿波から畿内へと勢力を拡大した三好家ですが、長慶の父である元長が政争に敗れて自害に追い込まれ、譜代の家臣も多数殉じたため、長慶の代には、畿内での活動には家臣が足りない状況でした。そこで長慶は、摂津の土豪を積極的に登用していったようです。久秀もそうして長慶に登用された一人で、有能だったために台頭し、ついには三好家中で一族の代表格とも言うべき三好長逸と共に長慶に次ぐ地位に至ります。

 このように三好家において久秀が破格の出世を遂げたことと関連しているのでしょうが、長慶は旧来の家格秩序を破壊していく傾向がありました。関東にほとんど縁のなかった伊勢家が鎌倉幕府執権の北条を名乗り、越後守護代の長尾家が関東管領の上杉の名跡を継承し、祖父の代から三代かけて成り上がり、父殺しの汚名を負ってしまった斎藤高政(義龍)が室町幕府名門の一色を名乗ったように、当時の「下剋上」は一方で既存の家格秩序を尊重するもので、それにより社会的軋轢を減じていたところがありました。しかし長慶は、より上位の家格の名跡を継承するわけでもなく、官位を昇進させていき、久秀にいたっては長慶の存命中に長慶と同じ位階に昇進します。

 また、後の織田信長もそうだったように、京都の支配者はともかく将軍を擁し、幕府秩序を少なくとも形式的には尊重しました。信長は、足利義昭追放後も、その嫡子を「大樹(将軍)若君」として庇護・推戴し、ことあるごとに同道していたくらいです(1575年までは)。しかし長慶は、幕府秩序を無視して京都および畿内とその近国の支配を進めていき、朝廷も財力がなく奉仕できない義輝から長慶を頼るようになっていきます。また長慶は、大和など縁のない国への勢力拡大を進めていきますが、同時代の戦国大名がそうした場合に侵出先の国の守護職を得ることなどで正当化を図っていったのに対して、長慶にはそうした動向が見られません。

 こうした幕府秩序の無視が当時の諸大名には異様に映り、上述の長慶の家格秩序無視の傾向もあって、三好を敵視する大名が増え、長慶も将軍の足利義輝との和睦を決断します。しかし、義輝は幕府秩序を無視してきた長慶を脅威に思って敵視し続け、長慶の追い落としを画策し続けたようです。この義輝の対応は、将軍として尤もではありますが、それが落命の原因ともなりました。「急進的」という言葉を安易に使うべきではないでしょうが、長慶は当時としてはかなり「急進的」で、その後に台頭してきた年下の織田信長の方が、私にはよほど「守旧的」というか「現実的」にさえ見えてしまいます。長慶のこうした傾向は、父と多くの譜代重臣たちを一度に失い、家格に頼らず三好家を立て直して勢力をしていかねばならなかった事情に由来するのでしょうか。久秀の大和支配も、単に久秀の野心ではなく、三好家の勢力拡大の一環として行なわれたようです。この久秀の大和支配でも、中世の大和における支配者とも言えた興福寺に対して、久秀の方が織田時代よりも強い対応を示しており、既存秩序を軽視する長慶の傾向は、家臣の久秀にも見られます。

 有力ではないと思われる摂津の土豪から、三好家において三好長逸と共に当主の長慶に次ぐ地位に昇進した久秀の運命が大きく変わったのは、1565年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に起きた将軍の義輝殺害事件(永禄の変)でした。まず、1563年に長慶の後継者の義興が死亡し、長慶の甥である義継が後継者となります。本書は、久秀が義興の死に落胆した様子を取り上げています。その翌年に長慶が死亡し、久秀はすでに息子の久通に家督を譲っていた状況で、永禄の変が起きます。以前は久秀が永禄の変の首謀者の一人とされていましたが、当時久秀は大和におり、襲撃に参加したのは息子の久通でした。本書は、義継と久通が義輝を殺害した理由として、義輝が将軍権威の脅威となる三好を敵視し、両者は表面上和睦を維持しながら、関係が悪化したことを背景として指摘します。その上で本書は、先代ほどの苦労を知らない義継と久通が、一気に討幕を企図したのではないか、と推測しています。永禄の変における久秀の真意は不明ですが、義輝の弟の義昭を保護していることなどからも、義継と久通に批判的だったのではないか、と本書は推測しています。

 永禄の変の後、久秀は三好三人衆に追い落とされ、苦境に立ちます。これは、久秀と三好三人衆とが永禄の変以前から激しく対立していたことを意味しない、と本書は指摘します。そもそも、三好三人衆が成立したのは永禄の変の後でした。永禄の変の後、久秀の弟で丹波を任されていた内藤宗勝(松永長頼)が戦死し、三好家は丹波での勢力を大きく後退させてしまいます。さらに、久秀が助命して保護していた義昭が朝倉家の調略により出奔し、反三好陣営に格好の大義名分を与えてしまいます。こうした松永一族の失態と、摂津の有力ではない土豪から成り上がってきた久秀への反感が以前より三好一族の間であったためか、三好三人衆が形成され、三好三人衆は義継を担いで松永一族を追い落とします。

 三好三人衆は大和にも侵攻し、久秀は苦境に立たされますが、義継が三好三人衆と対立して久秀を頼り、上洛して将軍就任を図る義昭が織田や毛利や上杉とともに久秀とも連携したことで、久秀は苦境を脱していきます。義昭にとって、久秀は宿敵ではなく命の恩人であり、頼るに足る存在でした。久秀は義昭擁立勢力の一端を担っており、織田信長とはすでにその上洛前から通じていました。上洛してきた信長に茶器を献上することで久秀は信長に赦されて臣従したわけではなく、勢力に大きな格差はあれども、信長と久秀は義昭を推戴して新たな秩序を築く(もしくは室町体制を復興する)大名同士として同盟関係にありました。また本書は、織田軍が京都に向けて進軍を開始してから短期間で京都と周辺を制圧できた一因として、毛利が三好三人衆を牽制すべく軍事行動を起こしたことも指摘しています。義昭の上洛と将軍就任には、織田軍以外の勢力の貢献も少なくなかった、というわけです。

 義昭の将軍就任後も、畿内情勢は安定しませんでした。1570年後半、織田信長と義昭は三好三人衆や朝倉や浅井や本願寺との戦いで窮地に追い込まれ、朝廷も担ぎ出して講和を結んでいきます。この過程で、久秀は三好三人衆や阿波三好家当主の三好長治や篠原長房との和睦交渉をまとめ、義昭と信長が窮地から脱するのに貢献します。しかし、この後、久秀と義昭の関係が悪化していきます。そもそも久秀は、三好三人衆と対抗するために義昭を推戴しました。

 しかし、三好三人衆や阿波三好家と和解したことにより、三好と将軍の対峙という長慶の頃の構図が再現されます。また、久秀と講和した篠原長房が、将軍の義昭に赦免されたと称して毛利領に攻め込み、毛利が信長に抗議して義昭の斡旋による講和を依頼したことも、毛利を自勢力の有力大名と頼みにしている義昭に、久秀への不信感を募らせることになりました。さらに、義昭が久秀の宿敵である筒井順慶を赦免して優遇したことも、久秀と義昭との関係を悪化させました。しかし、久秀はあくまでも義昭と対立したのであり、直ちに信長と対立したわけではありませんでした。

 久秀は筒井順慶に惨敗するなど時として苦境に立たされつつも、義継のもと長慶のころのような三好家の結束が再現され、本願寺や浅井や朝倉なども敵に回した義昭は苦境に追い込まれます。そこで義昭は、本願寺と縁戚関係にある武田信玄に、信長と本願寺との和睦の仲介を命じますが、これは信長には受け入れ難いものでした。結局、武田は織田との対決に踏み切り、1573年1月の時点では、信長と義昭は圧倒的に不利な状況に追い込まれ、反義昭・信長陣営の久秀も勢力を拡大していきました。本書は、筒井順慶と武田信玄を自陣営に引き入れようとした義昭の判断が大局的には妥当だと言えても、自勢力同士の利害関係の配慮に欠けており、大きなものを失ってしまった、と指摘します。追い込まれた義昭は信長への敵対を明示し、信長の説得にも応じました。本書は、義昭は「信長包囲網」を形成したのではなく、追い詰められて信長を見限った、と指摘します。

 このように、情勢は久秀に有利に動いているように見えましたが、1573年2月以降に三好三人衆筆頭の三好長逸が死に、同年4月12日に武田信玄が病死して武田軍が三河から甲斐ら退去し、三好長治が信長との和睦に動いたことなどから、情勢は一気に信長有利に傾きました。こうして、同年7月に義昭は京都から追放され(上述のように、信長は義昭の嫡子を擁しており、この時点では室町幕府体制を否定していません)、同年のうちに、8月には朝倉、9月には浅井、11月には三好本宗家が相次いで信長に滅ぼされました。久秀は義継の死後に信長に降伏を申し入れ、多聞山城を引き渡し、久通の子を人質とする条件で久秀は赦免されました。本書は、朝倉・浅井・三好本宗家が相次いで滅ぼされた中、久秀のみが赦された理由として、久秀が築いた豪壮華麗と言われた多聞山城を明け渡すと提案したことと、久秀と信長との対立は、久秀と義昭との対立が原因となっており、久秀自身が信長とはほとんど戦っていないことと、1570年後半の信長の危機のさいに、阿波三好家との和睦交渉をまとめた久秀の交渉能力を挙げています。

 こうして久秀は織田家臣となり、大和の支配は尾張出身の塙(原田)直政と大和の豪族である筒井順慶に委ねられることになりました。1575年、長篠の戦いで武田軍を破り、越前を奪還した信長は右近衛大将に就任します。信長は室町幕府とは異なる新たな武家政権の樹立を明示しますが、これが従来の武家秩序を常識とする勢力の反感を買い、信長は本願寺・毛利・上杉・武田など広範な勢力から敵視され、攻撃されることになります。もちろん、これら諸勢力にとって、境目など現実的な利害関係から織田との関係が悪化したため、従来の武家秩序の尊重を大義名分として掲げた、という側面も多分にあるとは思います。

 久通と塙直政との関係は良好だったようで、松永家は大和での勢力維持に塙直政を頼りにしていたようです。しかし、塙直政は1576年に本願寺との戦いで討ち死にし、信長は大和の支配権を久秀にとって宿敵の筒井順慶に与えます。本書は、これが久秀にとってかなり不満で、信長に叛く要因になったのではないか、と指摘します。一方、信長の方は、久秀が何に不満を抱いているのか、よく理解できていなかったようです。塙直政と筒井順慶とで久秀にとって何が違うのか、と信長は疑問に思っていたのでしょう。こうした家臣団同士、あるいは同盟者同士の利害関係を信長がよく理解できていなかったことは、金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』でも指摘されています(関連記事)。

 信長からの久秀の離反には成算があり、当時、上杉謙信と毛利輝元という東西の有力大名が信長の勢力圏へと侵攻していました。しかし、上杉謙信は加賀で織田軍を破った後に西進するのではなく能登の平定を優先し、信長が大和の国人を速やかに調略して久秀を孤立させたことで、信貴山城に籠った久秀は織田軍に攻め立てられ、切腹に追い込まれます。久秀は挙兵後わずか2ヶ月ほどで鎮圧されてしまいましたが、これは大きな影響を残した、と本書は指摘します。それは、信長への謀反は将軍への忠節であり、義昭を中心に毛利・本願寺・上杉・武田による反織田同盟という受け皿があることを知らしめたからです。本書は、信長は家臣団を統制する正統性を作れておらず、独自の家臣団を有する外様や、自力で敵地を平定して信長から預けられた与力を自分の家臣に再編成した明智光秀や羽柴秀吉に、信長に叛く動機を与えてしまった、というわけです。久秀死後に、別所長治や荒木村重などが信長に叛き、ついには明智光秀の謀反により、信長は自害に追い込まれます。

 本書は、久秀の動向だけではなく、三好家の盛衰、さらには大和を中心に畿内の政治情勢、戦国時代における下剋上の位置づけと三好長慶の特異性などを扱っており、この分野に詳しくない私にとって勉強になりました。本書は、久秀が戦ったのは戦国時代の人々にとって常識だった室町の身分秩序であり、その改革こそが久秀の下剋上で、それを完成させたのは久秀と同様に出自が明確ではない羽柴秀吉だった、と本書は指摘します。

 久秀は戦国時代や江戸時代にも見られる出頭人で、主君(久秀の場合は三好長慶)に重用され、家格の壁を乗り越えて出世していきました。本書は、長慶に取り立てられた久秀が三好本宗家に忠誠を尽くした、と指摘します。しかし、そうした出頭人が主君の死により失脚することは珍しくなく、久秀も長慶死後に危機を迎えますが、将軍の義昭を推戴して一定の地位を保ちます。それでも、久秀は結局没落してしまい、秩序の不安定な時代に比較的低い階層から成り上がり、その地位を保ち続けることは難しい、と改めて思い知らされます。戦国時代の勉強はもう20年近く停滞していますが、やはりこの時代は面白く、今後も時間を作って本書のような一般向けの良書を読んでいきたいものです。

人類史における集団と民族形成

 現代人は複数の帰属意識を持つことができ、これは現生人類(Homo sapiens)の重要な特徴でもあるのでしょう。これは、現生人類が家族という小規模な集団と、それらを複数包含するより大規模な集団とを両立させていることと関連しているのでしょう。チンパンジー属は比較的大規模な集団を形成しますが、家族的な小規模集団は形成せず、ゴリラ属は家族的な小規模集団を形成しますが、より大規模な集団を形成するわけではありません。現生人類が複数の帰属意識を持つことと関連していると思われるのが、現生人類は所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、ということです。現生人類は、父系にかなり偏った社会から母系にかなり偏った社会まで、多様な社会を築きますが、父系と母系のどちらが本質的というよりは、双系的であることこそ現生人類社会の基本的特徴だろう、というわけです(関連記事)。

 こうした双系的社会を形成する前の人類社会がどのようなものだったのかは、現生近縁種や化石近縁種が参考になるでしょう。ヒト上科(類人猿)は、オランウータン属がやや母系に傾いているかもしれないとはいえ、現生種は現代人の一部を除いて基本的には非母系社会を形成する、と言うべきでしょう。チンパンジー属とゴリラ属と人類を含むヒト亜科で見ていくと、現生ゴリラ属はある程度父系に傾いた「無系」社会と言うべきかもしれませんが、チンパンジー属は父系的社会を形成します。現代人の直接の祖先ではなさそうで、お互いに祖先-子孫関係ではなさそうな、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とイベリア半島北部の49000年前頃のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)について、前者は雄よりも雌の方が移動範囲は広く(関連記事)、後者は夫居制的婚姻行動の可能性が指摘されていることからも(関連記事)、ヒト亜科の最終共通祖先の社会は、単に非母系というだけではなく、ある程度以上父系に傾いていた可能性が高いように思います。人類系統も、単に非母系というよりは、父系に強く傾いた社会を長く形成していた可能性は高いように思います。

 現生人類(あるいは他の人類系統も)は双系的社会を基本としつつ多様な社会を築きましたが、ヒト上科、あるいはオランウータン属の事例があるのでヒト亜科に限定するとしても、基本的には非母系社会が特徴で、長い時間進化してきたように思います。おそらくこれは、近親交配回避の仕組みとして進化してきたのでしょう。近親交配の忌避は人類社会において普遍的に見られ、それは他の哺乳類種でも広く確認されることから、古い進化的基盤があると考えられます。近親交配回避の具体的な仕組みは、現代人も含む多くの霊長類系統においては育児や共に育った経験です(関連記事)。したがって、人類系統においては、チンパンジー属系統や、さらにさかのぼってオナガザル科系統との分岐前から現代までずっと、この近親交配回避の生得的な認知的仕組みが備わっていたことは、まず間違いないでしょう。つまり、人類系統あるいはもっと限定して現生人類系統で独自に近親交配回避の認知的仕組みが備わったこと(収斂進化)はとてもありそうにない、というわけです。

 しかし、現生人類においては近親交配が低頻度ながら広範に見られます。最近も、アイルランドの新石器時代社会の支配層における近親交配が報告されました(関連記事)。これはどう説明されるべきかというと、そもそも近親交配を回避する生得的な認知的仕組み自体が、さほど強力ではないからでしょう。じっさい、現代人と最近縁な現生系統であるチンパンジー属やゴリラ属でも、親子間の近親交配はしばしば見られます(関連記事)。人口密度と社会的流動性の低い社会では、近親交配を回避しない配偶行動の方が、適応度を高めると考えられます。おそらく、両親だけではなく近い世代での近親交配も推測されているアルタイ地域のネアンデルタール人が、その具体的事例となるでしょう(関連記事)。

 近親交配を推進する要因としてもう一つ考えられるのは、上述のアイルランドの新石器時代の事例や、エジプトや日本でも珍しくなかった、支配層の特権性です。支配層では、人口密度などの点では近親交配の必要性がありませんが、こうした近親交配は社会的階層の上下に関わらず、何らかの要因で閉鎖性を志向するもしくは強制される集団で起き得る、と考えられます。支配層の事例は分かりやすく、神性・権威性を認められ、「劣った」人々の「血」を入れたくない、といった観念に基づくものでもあるでしょう。より即物的な側面で言えば、財産(穀類など食糧や武器・神器・美術品など)の分散を避ける、という意味もあったと思います。財産の分散は、一子(しばしば長男もしくは嫡男)相続制の採用でも避けられますが、複数の子供がいる場合、できるだけ多くの子供を優遇したいと思うのが人情です。こうした「えこひいき(ネポチズム)」も、人類の生得的な認知的仕組みで、他の霊長類と共通する古い進化的基盤に由来します(関連記事)。

 生得的な認知的仕組みが相反するような状況で、その利害得失を判断した結果、支配層で近親交配が制度に組み込まれたのではないか、というわけです。近親交配の制度的採用という点では、財産の継承も重要になってくると思います。その意味で、新石器時代以降、とくに保存性の高い穀類を基盤とする社会の支配層において、とくに近親交配の頻度が高くなるのではないか、と予想されます。もっとも、農耕社会における食糧の貯蔵の先駆的事例はすでに更新世に存在し、上部旧石器時代となるヨーロッパのグラヴェティアン(Gravettian)が画期になった、との見解もあるので(関連記事)、更新世の時点で、財産の継承を目的とした近親交配もある程度起きていたのかもしれません。

 もちろん、近親交配回避の認知的仕組みは比較的弱いので、支配層における制度的な近親交配だけではなく、社会背景にほとんど起因しないような個別の近親交配も、人類史において低頻度で発生し続けた、と思われます。近親交配の忌避は、ある程度以上の規模と社会的流動性(他集団との接触機会)を維持できている社会においては、適応度を上げる仕組みとして選択され続けるでしょう。しかし、人口密度や社会的流動性が低い社会では、時として近親交配が短期的には適応度を上げることもあり、これが、人類も含めて霊長類社会において近親交配回避の生得的な認知的仕組みが比較的緩やかなままだった要因なのでしょう。現生人類においては、安定的な財産の継承ができるごく一部の特権的な社会階層で、「えこひいき(ネポチズム)」という生得的な認知的仕組みに基づき、近親交配が選択されることもあり得ます。その意味で、人類社会において近親交配は、今後も広く禁忌とされつつ、維持されていく可能性が高そうです。

 こうした進化史を前提として、現生人類は双系的社会を形成していますが、それがいつのことなのか、不明です。所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けることの考古学的指標となるかもしれないのが、物質の長距離輸送です。これが集団間の交易だとすると(同一集団が物質を入手して長距離移動した可能性も否定できませんが)、広範な社会的つながりの存在を示し、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けることがその基盤になっているかもしれない、というわけです。こうした物質の長距離輸送は中期石器時代のアフリカで20万年以上前の事例も報告されており(関連記事)、現生人類の広範な社会的つながりこそ、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他の非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)に対する優位をもたらした、との見解には根強いものがあります(関連記事)。しかし、ネアンデルタール人でも物質の長距離輸送の事例が報告されており、しかも異なる文化間でのことなので、交易と呼んで大過ないかもしれません(関連記事)。そうすると、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けることは、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の段階ですでに存在しており、そこからずっとさかのぼる可能性も考えられます。

 どこまでさかのぼるのかはともかく、現生人類が、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けるように、複数の帰属意識を有することは確かです。民族もそうした集団への帰属意識の一つですが、現代においては大きな意味を有している、と言っても大過はなさそうです(普段はほとんど意識していない人も少なくないでしょうし、現代日本ではその割合が多いかもしれませんが)。民族について、20世紀第4四半期以降、近代において「創られた伝統」と強調する人が日本でも増えてきたように思いますが、近代における民族の「虚構性」はあり、前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多いとしても、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。民族の基本は共通の自己認識でしょうが、「客観的に」判断するとなると、文化の共通性となるでしょうから、文字資料のない時代にも、考古学的にある程度以上の水準で「民族的集団」の存在を認定することは可能だと思います。ただ、前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えています。

 民族の形成について、私が多少なりとも語れるのは日本(もしくは、「ヤマト」など他により相応しい呼称はあるでしょうが)民族と漢民族くらいですが、どの要素を重視するかで見解が異なるのは当然だろう、と思います。私は、漢民族や日本民族のような規模の大きい民族となると、その構成員の自認という観点からも、近代以降の形成とみなすのが妥当だろう、と考えています。ただ、どちらも民族意識の核となる構成要素が前近代に見られることは否定できず、もっと前に設定する見解も間違いとは言えない、と思います。

 たとえば、漢民族が戦国時代~秦漢期に形成されたと想定することも可能でしょうが、その場合、日本民族の形成時期は遅くとも平安時代にはさかのぼり、天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)という表現に示される(ここで朝鮮が視野に入っていないことに、その後の日本の世界認識の重要な論点が含まれている、と言えそうです)、と私は考えています。日本の漢詩文は、形式・題材・美意識のすべてにおいて、唐からの直輸入だった9世紀前半と比較すると、9世紀後半には、漢詩文という形式をとりながら、日本の身近な風景や人物に題材がとられるようになり、その美意識にも独自のものが見られるようになるとともに、日本で編纂された類書も、9世紀前半には中華地域的視点に限られていたものの、10世紀前半には日本の事象も対象とされていき、これらは「本朝意識」の芽生えとも言え、「国風文化」や、その本格的な始まりを告げる10世紀初頭の『古今和歌集』の編纂に象徴される和歌の「復興」もそうした文脈で解されます(関連記事)。

 現代とより直接的につながるという意味での「伝統社会」の形成を民族形成の指標とするならば、20年前頃に私が今よりもずっと強く東洋史に関心を抱いていた頃によく言われていた?「東アジア伝統社会論」が参考になりそうです。これは、中華地域や朝鮮半島や日本列島の「伝統社会」は、15~18(もっと限定して16~17)世紀に形成された、というもので、漢民族も日本民族もその頃の形成となります。私は、日本の「伝統社会」は平安時代から18世紀前半にかけてじょじょに形成され、南北朝時代や戦国時代は大きな変動期ではあるものの、そこが決定的な画期ではない、と今では考えています。「東アジア伝統社会論」とは異なるところもありますが、17世紀前後に漢字文化圏で「伝統社会」が形成された、との見解はおおむね妥当なように思います。

 まとめると、漢民族と日本民族の形成時期に関する私見は、(1)構成員の多数の自認を重視すると共に近代以降、(2)民族意識の核となる構成要素を重視すると、漢民族は戦国時代~秦漢期、日本は遅くとも平安時代、(3)現代とより直接的につながるという意味での「伝統社会」の形成を重視すると共に17世紀前後となります。その意味で、漢民族の形成は精々近現代だが日本民族は縄文時代に形成された、というような見解は私にとって論外となります。一方、漢民族は戦国時代~秦漢期に形成されたが、日本は明治時代で、さかのぼっても精々江戸時代というような見解も、基準が統一されていないように思えるので、支持できません。

三葉虫の眼球

 三葉虫の眼球に関する研究(Schoenemann, and Clarkson., 2020)が公表されました。この研究は、デジタル顕微鏡を用いて、1846年に現在のチェコ共和国のロジェニツェ(Loděnice)近郊で発見された、約4億2900万年前の三葉虫 (Aulacopleura koninckii)の化石を再調査しました。この化石は、高さ1~2mmで、後頭部に2つの突出した半楕円形の眼があり、そのうちの1つは脱落していました。本論文は、この眼球化石の内部構造のいくつかが、多くの現生昆虫や現生甲殻類の複眼の内部構造と類似している、と報告しています。

 その一つが、個眼(直径35μm)という視覚ユニットで、個眼には、感桿という透明な管の周りに集まった光検出細胞が含まれています。本論文は、個々の個眼を取り囲む暗色の輪が色素細胞からできており、この色素細胞が個眼と個眼の間の障壁として作用していた、との見解を提示しています。個眼の上には、分厚い水晶体に加えて、薄い円錐晶体と考えられる化石がありました。この円錐晶体を通過して、光が感桿に集束すると考えられます。

 この個眼のサイズが小さいことから、三葉虫は明るい浅瀬に生息し、日中に活動していた可能性がひじょうに高い、と示唆されます。水晶体の直径が小さい方が、明るい条件下で光を効率的に集められるからです。また、個眼と個眼の間に色素細胞の障壁が存在したことから、この三葉虫が現生の多くの昆虫や甲殻類の複眼と同様に、個々の個眼が全体像の小さな部分に寄与するモザイク視覚を有していた、と示唆されています。

 これらの知見は、約4億2900万年前の三葉虫の眼球の化石の内部構造が、現生ミツバチの眼球の内部構造とほとんど同じであることを示しています。これは、多くの現生昆虫や現生甲殻類の複眼の構造と機能が、古生代(約5億4200万~2億5100万年前)以降ほとんど変化していないことを示唆するとともに、古代の三葉虫の生活様式を解明する手がかりになっています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:三葉虫の生活様式の手掛かりをもたらした4億2900万年前の眼球の化石

 4億2900万年前の三葉虫の眼球の化石の内部構造が、現生ミツバチの眼球の内部構造とほとんど同じであることを明らかにした論文が、Scientific Reports に掲載される。この新知見は、多くの現生昆虫や現生甲殻類の視覚の原理が、少なくとも5億年前から変わっていないことを示唆している。

 今回、Brigitte SchoenemannとEuan Clarksonは、デジタル顕微鏡を用いて、1846年にロジェニツェ(チェコ共和国)近郊で発見された三葉虫 (Aulacopleura koninckii)の化石を再調査した。この化石は、高さ1~2ミリメートルで、後頭部に2つの突出した半楕円形の眼があり、そのうちの1つは脱落していた。Schoenemannたちは、この眼球の化石の内部構造のいくつかが、多くの現生昆虫や現生甲殻類の複眼の内部構造と類似していることを報告している。その1つが、個眼(直径35マイクロメートル)という視覚ユニットで、個眼には、感桿という透明な管の周りに集まった光検出細胞が含まれている。Schoenemannたちは、個々の個眼を取り囲む暗色の輪が色素細胞からできており、この色素細胞が、個眼と個眼の間の障壁として作用していたという考えを示している。個眼の上には、分厚い水晶体に加えて、Schoenemannたちが薄い円錐晶体と考える化石 があった。この円錐晶体を通過して、光が感桿に集束すると考えられる。

 この個眼のサイズが小さいことから、A. koninckiiが明るい浅瀬に生息し、日中に活動していた可能性が非常に高いと示唆される。水晶体の直径が小さい方が、明るい条件下で光を効率的に集められるからだ。また、個眼と個眼の間に色素細胞の障壁が存在したことから、この三葉虫が現生の多くの昆虫や甲殻類の複眼と同様に、個々の個眼が全体像の小さな部分に寄与するモザイク視覚を有していたことが示唆されている。

 以上の知見は、多くの複眼の構造と機能が、古生代(5億4200万~2億5100万年前)以降ほとんど変化していないことを示唆するとともに、古代の三葉虫の生活様式を解明する手掛かりになっている。



参考文献:
Schoenemann B, and Clarkson ENK.(2020): Insights into a 429-million-year-old compound eye. Scientific Reports, 10, 12029.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-69219-0

生態系の劣化と生息地の消失による生物多様性の喪失

 生態系の劣化と生息地の消失による生物多様性の喪失に関する研究(Chase et al., 2020)が公表されました。人新世において、生息地の消失は生物多様性の喪失につながる大きな要因ですが、生息地の消失が正確にはどのように表れ、その規模がどの程度なのかは、今なお重要な議論となっています。「受動的抽出(passive sampling)」仮説では、生物種は、自然生息地におけるそれらの個体数および分布に比例して失われるとされるのに対して、「生態系劣化(ecosystem decay)」仮説では、より小さく孤立した生息地における生態学的過程の変化により、単純に生息地の消失のみから予測されるより多くの種が失われる、とされています。これら2つの仮説の一般化可能な検証は、サンプリング設計が不均一で、規模に大きく依存する種の豊富さの見積もりに焦点が絞られていたために、限界がありました。

 本論文は、さまざまなサイズの多数の生息地断片から得た、重要な複数のタクソンの集団レベルの個体数に関する123件の研究結果を分析し、受動的抽出と生態系劣化がそれぞれ生物多様性の喪失に及ぼす影響を評価しました。その結果、全体として生態系劣化仮説が支持される、と明らかになりました。調査努力量を考慮に入れると、全ての研究・生態系・タクソンにわたり、より小さな生息地断片に由来する生物多様性の見積もりでは、より大きな断片のサンプルに由来する予想と比べて、個体数と種数は少なく、群集の均一性は低い、と明らかになりました。しかし、一部の研究(たとえば、生息地が消失してから100年以上が経過している場合など)では、手付かずの生息地には本来存在しなかった種による組成的な置換の結果として、生態系劣化に起因する生物多様性の喪失は全体的パターンからの予測を下回っていました。この研究は、生息地の消失が生物多様性の変化に及ぼす非受動的な影響を組み入れることで、将来の土地利用における生物多様性のシナリオを改良し、生息地の保全および回復の計画を改善できる、と結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:生態系の劣化が生息地の消失による生物多様性の喪失を悪化させる

生態学:小さな生息地断片では個体群動態の変化が生物多様性を低下させる

 生息地が失われたら、生物多様性はどうなるのか。生物多様性が喪失することは分かっているが、それが正確にどのように起こるのかについては、大きな混乱と疑問が残されている。果たして生物多様性の喪失は、種の喪失は自然生息地におけるそれらの個体数および分布に比例するとする「受動的抽出(passive sampling)」過程によって起こるのか、それとも小さな生息地断片での生物学的過程は大きな断片のものとは異なると仮定し、そうした差異によって小さな生息地では生息地の消失のみから予想されるより多くの種が減少するとする「生態系劣化(ecosystem decay)」過程によって起こるのか。今回J Chaseたちは、かつては同一の景観に含まれていたさまざまなサイズの多数の生息地断片から得た、複数の種の個体数に関する123件の研究データを用いて、これら2つの仮説を検証した。その結果、生態系劣化仮説が強く支持された。すなわち、全ての研究、生態系、分類群にわたって、より小さな生息地断片では、より大きな断片のサンプルに由来する予測よりも個体数と種数が少なく、群集の均一性が低いことが分かった。これらの知見は、土地利用の変化による生物多様性の喪失に関してより現実性の高い予測を行うための重要な一歩になると、著者たちは述べている。



参考文献:
Chase JM. et al.(2020): Ecosystem decay exacerbates biodiversity loss with habitat loss. Nature, 584, 7820, 238–243.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2531-2

人間のネットワークの同調性

 人間のネットワークの同調性に関する研究(Shahal et al., 2020)が公表されました。これまでの研究では、小規模な人間集団における同調が調べられてきましたが、こうした実験では、ネットワークの動態を支配するパラメーターの制御が不充分でした。この研究は、ネットワークを構成するプロのバイオリン奏者間の関係を制御することで、奏者間の同調を調べました。この研究は、16人のバイオリン奏者に1つの音楽フレーズを繰り返し演奏させました。それぞれのバイオリンからの出力が集められ、各奏者への入力は、ノイズキャンセリングヘッドホンを介して制御されました。それぞれのバイオリン奏者からは、他の奏者が見えませんでした。この研究は一連の実験で、バイオリン奏者が自分のバイオリンの音を聴いてから他の奏者のバイオリンの音を聴くまでに遅れが生じるように調節し、バイオリン奏者の組み合わせと遅れの長さを変えながら同様の試験を繰り返しました。

 その結果、バイオリン奏者は、テンポを3倍まで変化させて、他の奏者と同調できる、と明らかになりました。また個々の奏者は、フラストレーションのたまるシグナル(たとえば、同じグループにテンポの合っていない演奏者がいるなど)を無視して、安定した同調を実現できることも明らかになりました。このようにネットワークの構造と関係の変化に適応する能力は、以前のモデルでは予測されていなかった、同調性を実現するための新たな戦略を生み出す可能性があると考えられます。バイオリン奏者は同調性を維持するために色々な戦略を用いており、同調を記述するために用いられている現行のモデルが人間には適用できない、と示唆されました。これらの知見は、交通管理や感染症のエピデミック(地域的流行)の管理や株式市場の動態などの研究分野にも影響を与える可能性があり、進化の観点からも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


人間行動学:バイオリン奏者が人間のネットワークの同調性に手掛かりをもたらす

 複雑なネットワークを構成する人々の同調について、バイオリン奏者が参加した一連の実験結果を報告する論文が、Nature Communications に掲載される。この研究から、バイオリン奏者が同調性を維持するためにいろいろな戦略を用いることが判明し、同調を記述するために用いられている現行のモデルが人間に適用できないことが示唆された。今回の知見は、交通管理、感染症のエピデミック(地域的流行)の管理、株式市場の動態の研究などの分野にも影響を与える可能性がある。

 これまでの研究では、小規模な人の集団における同調が調べられてきたが、こうした実験では、ネットワークの動態を支配するパラメーターの制御が不十分だった。

 今回、Moti Fridmanたちの研究チームは、ネットワークを構成するプロのバイオリン奏者間の関係を制御することで、奏者の間の同調を調べた。Fridmanたちは、16人のバイオリン奏者に1つの音楽フレーズを繰り返し演奏させた。それぞれのバイオリンからの出力が集められ、各奏者への入力は、ノイズキャンセリングヘッドホンを介して制御された。それぞれのバイオリン奏者からは、他の奏者が見えなかった。一連の実験の中で、Fridmanたちは、バイオリン奏者が自分のバイオリンの音を聴いてから他の奏者のバイオリンの音を聴くまでに遅れが生じるように調節し、バイオリン奏者の組み合わせと遅れの長さを変えながら同様の試験を繰り返した。その結果、バイオリン奏者は、テンポを3倍まで変化させて、他の奏者と同調できることが分かった。また、個々の奏者は、フラストレーションのたまるシグナル(例えば、同じグループにテンポの合っていない演奏者がいるなど)を無視して、安定した同調を実現できることも明らかになった。このようにネットワークの構造と関係の変化に適応する能力は、以前のモデルでは予測されていなかった、同調性を実現するための新たな戦略を生み出す可能性があると考えられる。



参考文献:
Shahal S. et al.(2020): Synchronization of complex human networks. Nature Communications, 11, 3854.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17540-7

『科学の人種主義とたたかう』の紹介記事

 アンジェラ・サイニー(Angela Saini)氏の著書『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(東郷えりか訳、作品社、2020年)の紹介記事を読みました。同書には興味がありますが、購入を躊躇っているので、この紹介記事は参考になりました。内容は、ある程度私の予想した通りかな、という感じで、不勉強な私にとって得るものが多そうではあるものの、これから読もうと考えている本や論文を後回しにしても読もう、という気にはなりませんでした。この紹介記事では、

サイニー本に関して、日本だと、安藤寿康、もっと俗っぽい人なら橘玲などが物申したいことがあるだろう。ぜひ書評を書いてほしい。

とありますが、すでに橘玲氏は同書に言及しています。橘氏は同書について、「科学の人種主義」としてサイニー氏は行動遺伝学と遺伝人類学を批判している、と紹介しています。橘氏によると、サイニー氏は『交雑する人類』(関連記事)の著者であるデイヴィッド・ライク(David Reich)氏に取材し、ライク氏から「われわれが築く社会的な構造と相関する集団間の系統の違いは実際にあります」と断言され、大きなショックを受けたそうです。橘氏は(おそらく同書から)以下のように引用しています。

ライクはアメリカの黒人と白人のあいだには、表面上の平均的な違い以上のものがあるかもしれないとほのめかす。それは認知的、心理的な違いにおよぶ可能性すらあり、アメリカにやってくるまで、それぞれの集団グループは7万年にわたって別個にそれぞれ異なる環境に適応してきたためなのだ。これだけの時間の尺度のあいだに、自然選択は双方に異なった形で作用し、一皮むいた以上に深いところの変化を生み出したかもしれないと彼は示唆する。ライクは思慮深く、これらの違いが大きなものだとは自分は考えず、1972年に生物学者のリチャード・ルウォンティンが推定したように、個人間の差異よりもわずかに大きい程度だろうと付け足す。それでも、こうした違いは存在しないとは考えていないのだ

 橘氏によると、ライク氏は(ヒト集団のちがいを否定する)サイニー氏に対して、「まったく悪気のない人びとが科学と矛盾することを言うのは少々辛いものがあります。悪気のない人には正しいことを言ってもらいたいからです」と語ったそうです。私はライク氏の見解をほぼ全面的に支持します。以前、サイニー氏による書評を当ブログで取り上げましたが(関連記事)、率直に言って、「科学の人種主義」に対するサイニー氏の認識はかなり疑問です。

 サイニー氏の認識はおそらく現在のアメリカ合衆国(やイギリス?)の学界や報道業界の「主流派」では常識で、日本でも、サイニー氏のような認識を「最新の常識」として、それに反するような見解を「保守反動」とか「意識が低い」とか「差別主義」とか言って批判・罵倒・嘲笑する人が、それなりにいるかもしれません。確かに、集団遺伝学が悪用される危険性はありますし、現実にその研究成果の一部は悪用されていますが(関連記事)、上記の紹介記事にあるような、「そもそも人間をグループ分けする必要があるところに問題があるのだ」という認識にはまったく同意できません。

 ライク氏は、集団遺伝学でも古代DNA研究において現在最先端を行く一人ですが、サイニー氏以外の「主流派(と思われる人々)」からも批判を受けています(関連記事)。確かに、古代DNA研究に関して「主流派」の懸念に尤もなところはありますし、それはライク氏も率直に認めて、今後改善を図っていく考えのようです。その意味で、サイニー氏のような「主流派」の批判にも有意義なところはあるでしょうが、正直なところ、サイニー氏に関しては、その批判が行き過ぎというか、的外れなところが多分にあるのではないか、と私は考えています。

南パタゴニアの人類の古代ゲノムデータ

 南パタゴニアの人類の古代ゲノムデータを報告した研究(Nakatsuka et al., 2020)が公表されました。南パタゴニアは南アメリカ大陸の南緯49度の南側の地域で、フエゴ島(Isla Grande de Tierra del Fuego)の12600年前頃(以下、全て較正年代です)とされるトレス・アリョイ(Tres Arroyos)岩陰遺跡での痕跡以来現在までずっと、人類が居住していました。ごく一部の遺跡は13000~8500年前頃の前期完新世と8500~3500年前頃の中期完新世にさかのぼりますが、遺跡密度は3500年前頃以降の後期完新世でかなり増加しました。この期間の人々の移動と関連していた可能性のある複数の文化変化に関する証拠が、考古学では提示されてきました。

 最初の変化は、遅くとも6700年前頃となるカヌーと銛の使用を含む航海技術と関連しており、アシカや他の鰭脚類の狩猟が沿岸にいない時期でもできるようになり、フエゴ諸島における遊動的な狩猟採集民集団の定住を可能としました。この技術開発は、在来の陸上狩猟採集民に起源があるか、アイデアの模倣もしくは人々の移動を経由しての北方からの技術拡大を反映している、と仮定されてきました。

 第二の変化は西フエゴ諸島で起き、道具の素材や形態の変化を伴います。おそらくは西フエゴ諸島南部のオトウェイ・サウンド(Otway Sound)からもたらされた緑色の黒曜石は、6700~6300年前頃となるこの最初の期間の特徴的な標識で、5500~3100年前頃となる後期には、異なる素材の大型両面石器投射尖頭器が出現します。緑色黒曜石使用の中断は、産地の場所についての文化的知識の喪失を反映しており、景観に不慣れな新たな人々の到来に起因しているかもしれない、と仮定されてきました。

 第三の変化には、人口増加や技術的革新の証拠を伴う、地域全体の2000年前頃までの変化が含まれています。ビーグル海峡の考古学的記録からは、尖頭器の意匠の多様化が示され、狩猟戦略の変化・再編成・拡大として解釈されてきました。フエゴ島北部では、投擲武器として紐に結びつけられた石の球体であるボレアドラス(boleadoras)の使用が、1500年前頃までに終了します。さらに、投射武器の先端に用いられた有茎尖頭器の新たなタイプが2000年前頃までに出現します。900年前頃にはそのサイズが縮小し、これは弓矢技術の出現と関連していました。これら後期完新世の尖頭器と歴史時代の尖頭器の類似性は、少なくとも2000年前頃からの文化的継続性の要素を記録しますが、技術は模倣でき、類似の環境が並行的な革新につながるかもしれないので、これは遺伝的継続性を証明しません。

 ヨーロッパ人は16世紀に南アメリカ大陸に到来すると、南パタゴニアには異なる地形に最適化された二つの広範な生存戦略を取っていた先住民5集団が存在した、と記録しています。それは、東部と北部の高地および低地と、西部と南部の島々を伴う不規則な海岸です。陸上の狩猟採集民には、本土の東斜面に沿って居住していたアオニケンク(Aónikenk)もしくは南テウェルチェ(Southern Tehuelche)集団と、フエゴ島北部に居住していたセルクナム(Selk’nam)もしくはオナ(Ona)集団が含まれます。これら2集団はおもにラマ属(グアナコ)と鳥の狩猟、および海岸の貝採取に依存していました。ビーグル海峡地域のヤマナ(Yámana)もしくはヤーガン(Yaghan)集団と、西フエゴ諸島のカウェスカル(KawésqarもしくはKawéskar)もしくはアラカルフェ(Alacalufe)集団は、航海用カヌーで容易に入手できる海洋資源に強く依存していました。ミトレ半島(Mitre Peninsula)に位置するフエゴ島南東端のハウシュ(Haush)もしくはマネケンク(Mánekenk)集団は航海技術を有していませんでしたが、考古学的証拠から、陸棲および海棲の獲物を狩っていた、と示唆されます。これら5集団間の関係が議論されてきており、異なる集団間の婚姻は境界では一般的だったとも、それは稀だったとも主張されています。

 ゲノム規模研究は、人々の移動が考古学的記録に明らかな変化を伴うのかどうかに関する、直接的情報を提供できます。母系ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)と父系Y染色体ハプログループ(YHg)という単系統遺伝の分析では、南パタゴニアの人々では、mtHgはCとDしかなく、YHgの多様性は低い、と示されています。これは、強い遺伝的浮動と孤立による創始者集団におけるボトルネック(瓶首効果)と一致します。以前の研究では、パタゴニアの現代人61人と1000年前頃の4人のゲノム規模データが報告され、過去から現代までのかなりの程度の遺伝的連続性が示されました。陸上狩猟採集民のセルクナム集団は、海洋資源に強く依存していたカウェスカル集団およびヤマナ集団と同じ割合でアレル(対立遺伝子)を共有していました。別の研究では、6600年前頃と4700年前頃の2人が、南アメリカ大陸の他地域のあらゆる古代および現代集団よりも、同地域の1000年前頃の個体群および歴史時代集団と密接に関連している、と示されました。

 しかし、いくつかの問題は解決されていません。まず、この地域では過去からずっと遺伝的継続性があったのか、それとも技術的変化と関連する検出可能な変化があったのか、という問題です。その技術的変化は、(1)6700年前頃の海洋食性への特化、(2)5500~3100年前頃の緑色黒曜石の豊富な使用のような技術的変化、(3)2000年前頃のボレアドラスから有茎尖頭器への移行、のどれか、あるいは複数なのかが、問題となります。その他にも問題はあります。(4)隣接する南パタゴニア集団間の遺伝子流動はどの程度でしたか?(5)ミトレ半島の住民は遺伝的に、海洋資源に依存する集団もしくは陸上資源に依存する集団に類似していましたか?(6)古代集団はヨーロッパ人との接触後にどのように関係していますか?

 本論文はこれらの問題に答えるため、ミトレ半島と南アメリカ大陸南部内陸部では最初となるものも含めて、5800~100年前頃の南パタゴニアの19人の新たなゲノム規模データと、アルゼンチンの草原地帯(パンパ)の2400年前頃の1個体のゲノム規模データを報告します。この地域の人々の古代DNAデータ(ヨーロッパ人との接触前が6人、接触後が11人)を報告した以前の研究(関連記事)と比較して、本論文のデータは、とくにフエゴ島の東部と北部において、時空間的間隙を埋めます。I12367とキョウダイの関係にあると判明した1個体(I12365)は分析対象外となります。なお本論文では、先住民との合意の下で研究が行なわれた、と明記されています。以下、南パタゴニアの古代人の標本の位置と年代を示した本論文の図1です。
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●父系および母系の特定と集団規模推定と表現型との関連

 南パタゴニア人のmtHgはCもしくはDのみで、フエゴ諸島北部ではmtHg-D1g5・C1c、ビーグル海峡地域ではmtHg-C1b、ミトレ半島ではmtHg-C1b・D1g5の割合が高い、と示されます。mtHg-D1g5はアルゼンチンとチリの古代人および現代人で広範に見られ、地理的に構造化された内部クレード(単系統群)があるので、おそらくはコーノ・スール(南アメリカ大陸南部)への人類の初期移住段階で分化しました。後期完新世のフエゴ島~区部の1個体ではmtHg-D4h3aが見られ、現在では南北アメリカ大陸両方の太平洋沿岸に集中しています。YHgは全てQ1a2aです。YHg- Q1a2a1aは、ミトレ半島の後期完新世の1個体(YHg-Q1a2a1b)を除く、父系がより詳細に解明された全個体で観察され、現代の南アメリカ大陸全域では類似の構造が見られます。

 条件つきヘテロ接合性分析では、古代パタゴニア集団は、多型部位の変異率が現在世界で最も低い多様性の集団と同じくらいである、と明らかになりました。これは、父系および母系の単系統遺伝分析に基づく以前の推測と一致しており、持続的な集団規模の小ささを示唆します。古代の個体群の高網羅率の全ゲノム配列データが欠如しているので、集団のボトルネックの年代は特定できませんでした。以前に報告された耐寒性と関連するいくつかの多様体が調べられましたが、標本規模が小さいため、経時的な有意なアレル頻度変化を推定するのに不充分で、自然選択の検証はできませんでした。


●遺伝的系統と地理および言語との相関

 対称性f4統計では、最初のパタゴニア人はアルゼンチンの草原地帯の7700年前頃の個体もしくは6800年前頃の個体、あるいはチリ中央部の5100年前頃の個体と比較して、後のパタゴニア人とより多くのアレルを共有していると示されるので、南パタゴニアにおける遺伝的継続性の有意な程度が検出されます。ADMIXTUREや主成分分析など複数の分析と併せると、中期完新世個体群は後期完新世個体群と異なり、重要な例外は、後の西フエゴ諸島個体群へとわずかに移動するチリのアヤエマ(Ayayema)遺跡の4700年前頃の個体で、重要な遺伝的事象を反映した標識です。後期完新世には、南パタゴニアの遺伝的構造は地理・食性および技術・言語集団と相関し、ビーグル海峡地域と西フエゴ諸島と南アメリカ大陸本土南部およびフエゴ諸島北部ではクラスタが大きく分離します。しかし、勾配も存在し、ミトレ半島の個体群は南アメリカ大陸本土南部およびフエゴ諸島北部個体群とビーグル海峡地域個体群との間の勾配を形成し、現代ヤマナ人は西フエゴ諸島個体群とビーグル海峡地域個体群との間に位置します。

 対での遺伝的浮動距離を地理・年代・言語距離・生存戦略の違いと相関させると、4変数全てで有意でした。この相関とヨーロッパ側の南アメリカ大陸侵出初期の記録に基づき、各地域の後期完新世集団は、西フエゴ諸島がカウェスカル、ビーグル海峡地域がヤマナ、ミトレ半島がハウシュ、フエゴ諸島北部がセルクナム、南アメリカ大陸南部本土がアオニケンクと命名されました。1500~500年前頃のこれらの地域の個体群の自己認識がどのようなものだったのか不明なので、これは過度な単純化で、5集団の下位構造も隠されてしまいます。ただ、遺伝的データが伝統的な用語と矛盾せず、じっさいに強く相関するので、本論文ではこれらの用語が使われます。


●4700年前頃の海洋集団と陸上集団の遺伝的分化

 f4統計での最古の個体群ともっと新しい個体群との比較では、チリの6600年前頃のプンタサンタアナ(Punta Santa Ana)個体とアルゼンチンの5800年前頃のラアルシロサ2(La Arcillosa 2)個体は遺伝的に、海洋および陸上両方を含む後の集団と遺伝的に等距離です。さらに、6600年前頃のプンタサンタアナ個体と5800年前頃のラアルシロサ2個体は、この地域外の全てのアメリカ大陸集団と遺伝的に等距離でした。考古学および同位体データに基づくと、西フエゴ諸島のプンタサンタアナ個体は、おもに海洋性食性に依存する南パタゴニア最初の個体ですが、ラアルシロサ2個体は、おもに陸上食性に依存していました。これは上記の問題(1)の回答になります。南パタゴニアにおける海洋適応の最初の出現は、北からの移住事象により説明されません。

 しかし、後期完新世のカウェスカルおよびヤマナ集団は、6600年前頃のプンタサンタアナ個体もしくは5800年前頃のラアルシロサ2個体よりも、チリの4700年前頃のアヤエマ個体に有意に密接に関連しています。古代のセルクナムやアオニケンクやハウシュ個体群が、4700年前頃のアエヤマ個体と有意な類似性を示さないことから、アヤエマ個体の系統は、陸上資源におもに依存したセルクナムやおそらくはアオニケンクのような東部集団よりも、海洋カヌーが利用可能な海洋資源におもに依存した後の集団に大きく貢献している、と示唆されます。これは歴史時代へと持続し、4700年前頃のアエヤマ個体は、100年前頃のセルクナム集団の個体とよりも、100年前頃のヤマナ集団の個体の方とアレルを多く共有しています。

 したがって、海洋資源特化への変化の考古学的証拠とは対照的に、西フエゴ諸島での5500~3100年前頃の緑色黒曜石の使用中断の変化は、本論文の遺伝的知見と相関します。これは、この地域の後期完新世の人々と有意な追加の遺伝的類似性を有している、海洋適応していたアヤエマの4700年前頃の個体の期間に起きました。これは上記の問題(2)の回答となります。南パタゴニア北端のこの個体が南パタゴニアの後の海洋適応した集団と特定の遺伝的類似性を示すことは、この期間の集団変化と一致します。具体的には、南パタゴニア全域での海洋適応集団を接続する遺伝子流動が示唆されますが、そうした遺伝子流動の方向は本論文の遺伝的分析では決定できません。パタゴニア外の全集団はこれら最初のパタゴニア集団と対称的に関連しており、この広範な地域内の重要な移動にも関わらず、これらの変化が南アメリカ大陸南端の地域的な発展に起因することと一致します。


●中期~後期完新世の北パタゴニアから南パタゴニアへの遺伝子流動

 4700年前頃以後のパタゴニアと他地域との間の遺伝的相互作用を検証するため、後期完新世(1500~100年前頃)と中期完新世(4700年前頃)のパタゴニア集団間の対称性が、他のアメリカ大陸集団と比較してf4統計で検証されました。一貫して重要な唯一の標識は、パタゴニアのずっと北方に位置するチリ中央部のコンチャリ(Conchali)の700年前頃の個体が、中期完新世個体群と比較して、アオニケンクやハウシュやヤマナやセルクナムといった後の集団の一部と過剰なアレル共有を示すことです。f4統計では、これが南パタゴニアからチリ中央部への遺伝子流動に起因するという証拠はありません。qpAdmを用いて、チリのコンチャリの700年前頃の個体を、チリの5100年前頃のロスリーレス(Los Rieles)個体と、あらゆる後期完新世パタゴニア集団との混合としてモデル化すると、この遺伝子流動の方向へのさらなる支持が得られます。コンチャリ個体は一貫して、後期完新世パタゴニア系統を有さないとモデル化され、南パタゴニア系統のチリ中央部への大規模な北進の可能性はほとんどありません。

 qpAdmを用いて後期完新世南パタゴニア集団をモデル化すると、海洋適応のカウェスカルおよびヤマナ集団が、700年前頃のコンチャリ個体関連系統45~65%と、残りが4700年前頃のアヤエマ個体関連系統との混合としてモデル化できます。これらのモデルは、qpAdmの外群間でチリの6600年前頃のプンタサンタアナ個体と5800年前頃のアルゼンチンのラアルシロサ2個体とでも連携しますが、対称的に、プンタサンタアナ個体もしくはラアルシロサ2個体をアヤエマ個体の代わりに第2ソースとして用いると、適合しません。これらの結果は、南パタゴニアにおいて6600~5800年前頃の集団から後期完新世海洋適応集団への直接的な遺伝的継続性があったとしても僅かだと示唆しており、中期完新世における南パタゴニア群島のかなりの再移住と一致します。

 対照的に、東部のセルクナム集団はアヤエマ個体関連系統とではモデル化できず、代わりにコンチャリ個体関連系統50~60%と、残りがラアルシロサ2個体関連系統もしくはプンタサンタアナ個体関連系統との混合としてのみ適合します。ハウシュ集団は、コンチャリ個体関連系統50~60%と、残りが中期完新世集団のいずれか(本論文の解像度では特定できません)の混合でモデル化できます。アオニケンク集団は、コンチャリ個体関連系統50~60%と、残りがプンタサンタアナ個体関連系統もしくはアヤエマ個体関連系統とりの混合でモデル化され、ラアルシロサ2個体関連系統は適合しません。後述の追加分析では、アオニケンク集団がセルクナム集団と最も類似した系統を有しているので、コンチャリ個体関連系統とプンタサンタアナ個体関連系統との混合の方がモデル化として適しているようです。

 これらの結果から言えるのは、後期完新世の南パタゴニア人のqpAdmモデルは全て、チリの700年前頃のコンチャリ個体関連系統から約半分を、残りは中期完新世の南パタゴニア系統(チリの6600年前頃のプンタサンタアナ個体関連系統もしくはチリの4700年前頃のアヤエマ個体関連系統)を継承し、南パタゴニア系統は遅くとも6600年前頃には相互に分岐した、ということです。これは、この地域全体の分岐した集団相互へと混合する、チリの700年前頃のコンチャリ個体関連系統から南パタゴニアへの遺伝子流動により説明できますが、逆方向では説明できず、チリの700年前頃のコンチャリ個体関連系統が、チリの6600年前頃のプンタサンタアナ個体関連系統もしくはチリの4700年前頃のアヤエマ個体関連系統を有するとモデル化できることを予測しますが、これはf4統計でもqpAdmでもqpGraphでも支持されません。

 まとめると、本論文の分析から、南パタゴニアに影響を及ぼした3回の主要な北から南への遺伝子流動が示唆されます。最初はチリの6600年前頃のプンタサンタアナ個体関連系統を遅くとも6600年前頃までに、2回目はチリの4700年前頃のアヤエマ個体関連系統を南パタゴニア群島に遅くとも2000年前頃までに、3回目はチリの700年前頃のコンチャリ個体関連系統を遅くとも2000年前頃までに南パタゴニア全域にもたらしました。

 アルゼンチンの2400年前頃のラグナトロ(Laguna Toro)個体のようなパタゴニア外の集団の遺伝的類似性を共有する過剰なアレルは検出されませんでした。しかし、参照データは少なく、とくに弱点となるのは、おそらくはアオニケンクやセルクナム集団と遺伝的に相互作用しただろう、アルゼンチン草原地帯と南パタゴニア地域との間のさらに南の個体群のデータが欠けていることです。将来の古代DNA標本抽出により、このような集団が中期~後期完新世に南パタゴニアの人々と交雑したのか、検証できるようになるでしょう。非アメリカ人と特異に関連する集団からの系統は、あらゆる個体群で見つからず、南パタゴニア個体群の以前の分析と一致します。


●隣接する南パタゴニア集団間の遺伝的混合

 後期完新世パタゴニア集団間の遺伝的関係が、対称性f4統計で調べられました。これは上記の問題(4)の回答となります。セルクナム集団は遺伝的に近隣集団の中間に位置し、その北方のアオニケンク集団は、その東方および南方のハウシュおよびヤマナ集団よりも、セルクナム集団と多くのアレルを共有しています。同様に、ハウシュおよびヤマナ集団は、アオニケンク集団よりもセルクナム集団の方とアレルを多く共有しています。したがって、qpAdmを用いて、セルクナム集団は63.8±9.2%のアオニケンク集団関連系統と、36.2%のヤマナ集団関連系統の混合としてモデル化できます。DATESを用いると、この混合年代は1902±282年前と推定されます。

 ミトレ半島のハウシュ集団も遺伝的には近隣集団間の中間に位置し、ヤマナ集団はセルクナム集団と比較してハウシュ集団に近く、セルクナム集団はヤマナ集団と比較してハウシュ集団に近くなっています。ハウシュ集団が混合と直接的に確認され、これは上記の問題(5)の回答となります。qpAdmを用いての各系統の個別モデル化では、ヤマナ集団関連系統が10.2~44.8%と推定されます。ハウシュ集団間でかなりの系統の違いがあることから、集団間の混合が標本抽出期間に活発だったかもしれない、と示唆されます。平均的な推定混合年代は1334±171年前です。

 ヤマナ集団も近隣集団間で遺伝的に中間に位置し、セルクナム集団はカウェスカル集団と比較してヤマナ集団に近く、カウェスカル集団はセルクナム集団と比較してヤマナ集団に近くなっています。これは、セルクナム集団がカウェスカル集団およびヤマナ集団と等しく関連している、と報告した過去の研究では検出されませんでした。これは、以前の研究が単一のセルクナム集団個体の100塩基対の配列に依存していたからと考えられます。ヤマナ集団は、カウェスカル集団関連系統54.2±14.4%とセルクナム集団関連系統44.2%の混合としてモデル化できます。ヤマナ集団の1個体はカウェスカル集団関連系統が83.3±16.7%と推定されますが、他の個体はカウェスカル集団関連系統が51~56%と推定されます。DATESでは、混合年代が1627±313年前と推定されます。

 これらの結果から、2200~1200年前頃に南パタゴニア集団間で活発な混合があり、一方の端であるアオニケンク集団からもう一方の端であるカウェスカル集団にわたる勾配があり、その時以来遺伝子流動は緩やかになった、と示されます。最近になって遺伝子流動が緩やかになったことは、文化的分化が最近になるほど大きくなった可能性を示唆します。


●混合図モデル

 本論文はqpGraphを用いて、データに混合図を適合させ、異なる南パタゴニア集団および他の南アメリカ大陸集団との相互関係をモデル化しました(図3)。このモデルは、本論文の個々の知見の多くを把握しています。アルゼンチン草原地帯集団であるラグナトロの2400年前頃の個体は、全ての南パタゴニア個体群と等しく関連しています。チリの4700年前頃のアヤエマ個体関連系統は、海洋適応集団である1500~100万年前頃のヤマナと800年前頃のカウェスカルに遺伝的影響を及ぼしたものの、他の南パタゴニア集団には影響を及ぼさなかった、とモデル化され、これは後の海洋適応集団特有の遺伝的多様性が4700年前頃までに発達した事実を反映しています。アエヤマは南パタゴニア西部に位置しますが、他のより古い中期完新世パタゴニア人は違うので、アエヤマ個体関連系統の移住がより古い系統を置換した、と示唆されます。

 南パタゴニア人は、4700年前の後にチリ中央部の700年前頃のコンチャリ個体と関連する集団からの遺伝子流動を受け、これは後期完新世の主要な北から南の遺伝子流動を反映しています。これは上記の問題(3)の回答です。このモデルは、一方の端ではカウェスカル集団、もう一方の端ではアオニケンク集団との相互の混合として、系統の混合を反映しています。これは上記の問題(4)の回答です。このモデルにより、陸上および海洋適応集団との文化的特徴の混在を有する400年前頃のハウシュ集団が、500年前頃の陸上適応セルクナム集団と、1500~100年前頃の海洋適応ヤマナ集団との間の混合としてモデル化できる、と確証されます。これは上記の問題(5)の回答です。以下、この混合図モデルを示した本論文の図3です。
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●同地域の現代と古代の個体群との関連性

 現代のヤマナ集団とカウェスカル集団が古代集団と比較され、各地域の現代の個体群は同地域の古代集団の構成員と集団化すると明らかになり、以前の知見と一致します。本論文はこの知見を、カウェスカルのすぐ北に住む、カウェスカル集団と遺伝的に最も類似しているチョノ(Chono)やチロート(Chilote)やウィジチェ(Huilliche)集団に拡大しました。また本論文は、現代パタゴニア集団の追加のデータセットを、混合図の古代集団とともに分析しました。

 本論文は、現代のヤマナとカウェスカルとウィジチェとそのすぐ北に位置するヒュイリチェ(Pehuenche)集団を、植民地期の混合を反映しているヨーロッパ人系統と、ヨーロッパ人との接触前の在来のアメリカ大陸先住民系統と、チリ中央部の700年前頃のコンチャリ個体関連系統の混合としてモデル化できました。その結果、コンチャリからの距離に沿って、ヒュイリチェとウィジチェとカウェスカルからヤマナ集団へのチリ中央部(コンチャリ)関連系統の減少勾配が観察されます。したがって、古代DNAは、パタゴニアにおけるコンチャリ個体関連系統の地理的勾配の南部のみを把握しています。将来の古代DNA標本抽出により、この勾配の発展の起源と年代について追加の詳細が提供できるでしょう。


●まとめ

 本論文の結果は、南パタゴニアにおける最初の海洋適応が、すでに海洋適応戦略を用いていた人々による北方から南パタゴニアへの大規模な移民に起因する、という仮説は間違いだと立証します。これは上記の問題(1)の回答です。そうではなく、在来の人々がこの技術を採用するか、独自に開発しました。しかし本論文の結果は、後の北西からの人々の流入を示唆します。この最初の植民は、中期完新世個体群の祖先をもたらした波に続いて起きたかもしれません。これは、海洋適応していたチリの4700年前頃のアヤエマ個体関連系統をもたらし、以前に南パタゴニアで確立されていたチリの6600年前頃のプンタサンタアナ個体関連系統と5800年前頃のラアルシロサ個体関連系統を置換しました。

 この新たな移民の到来は、西フエゴ諸島とビーグル海峡地域において、緑色黒曜石の使用の中断と大型両面尖頭器の導入により特徴づけられる、5500~3100年前頃の石器技術の変化と関連しているかもしれません。これは上記の問題(2)の回答です。さらに、チリ中央部からの第三の系統が4700~2000年前頃に拡大しました。これは、人口増加の標識としての遺跡密度の増加や、2000年前頃以降に出現した、投擲武器の先端としての有茎尖頭器の使用に特徴づけられる新たな狩猟技術(槍や矢)により置換されたボレアドラスの使用中止のような、後期完新世に起きた様々な過程と関連しているかもしれません。これは上記の問題(3)の回答です。歴史時代と現代において北部・中央部・南部パタゴニア集団間で共有される言語族は、この標識と関連しているかもしれません。

 後期完新世では、とくに2200~1200年前頃から、隣接集団間の遺伝子流動が検出され、その後は減少します。これは上記の問題(4)の回答です。もっともらしい想定は、ハウシュ集団が遺伝的に混合した人々から海洋および陸上適応技術のいくつかを採用した、というものです。遺伝的データは、ハウシュ集団が社会的にこの時期に仲間の交換を通じてつながっていた、と示します。ハウシュ集団はセルクナムやアオニケンク集団と同じチョン(Chon)語族の言語を話しますが、ヤマナ集団の言語は孤立しているか、カウェスカル集団と関連しています。しかし、それにも関わらず、言語の境界を越えての遺伝子流動がありました。ヨーロッパ人到来後の南パタゴニアにおける集団継続性は、現代のヤマナおよびカウェスカル集団と同地域の古代の個体群との遺伝的類似性により支持されます。これは上記の問題(6)の回答です。

 パタゴニア以外のアルゼンチン集団との遺伝的交換の証拠は見つかりませんでした。これは、アルゼンチン草原地帯の2400年前頃となるラグナトロ個体もしくは現代チェイン(Chane)人との遺伝的類似性の欠如に基づきます。しかし、数千年にわたるチリ中央部から、およびアルゼンチン草原地帯内の人々の大規模な移動の証拠は見つかっています。さらなる研究の重要な目標は、パタゴニアでも南部(とくに西海岸)だけではなく、中央部・北部における追加の古代DNA標本抽出の実行です。本論文では、中央および西パタゴニアでの現代人集団の分析により、北から南への遺伝子流動を反映するチリ中央部関連系統の勾配が検出されており、世界でも独特なこの地域の先住民文化を形成した人々の間の、相互作用へのより高い解像度と追加の洞察を提供します。


参考文献:
Nakatsuka N. et al.(2020): Ancient genomes in South Patagonia reveal population movements associated with technological shifts and geography. Nature Communications, 11, 3868.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17656-w

古代の人類間の遺伝子流動

 古代の人類間の遺伝子流動に関する研究(Hubisz et al., 2020)が報道されました。遺伝子流動が過去数十万年の人類集団間で起きたことはよく確認されています。古代の遺伝子流動の最もよく研究された事例は、アフリカからユーラシアに拡散してきた現生人類(Homo sapiens)と、ユーラシアの在来人類集団であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との間で5万年前頃に起きた交雑です。この時の交雑により現代人はネアンデルタール人からDNAを継承しており、非アフリカ系現代人のDNAの1~3%はネアンデルタール人に由来します。また、ネアンデルタール人と近縁な種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)に由来するDNA領域は、オセアニア現代人のゲノムに2~4%存在します。

 他に多くの混合事象が提案されており、古代人類における複雑な相互作用が示唆されます。その中には、ネアンデルタール人とデニソワ人との間の遺伝子流動(関連記事)や、10万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散した現生人類からネアンデルタール人へ(関連記事)、おそらくはホモ・エレクトス(Homo erectus)だろう「超古代型」人類からデニソワ人へ(関連記事)、他の未知の古代型人類からアフリカのさまざまな現生人類集団へ(関連記事)、といった組み合わせの遺伝子流動が含まれます。

 相互作用のネットワークがより複雑になるにつれて、標準的な方法で遺伝子流動を検証したり、遺伝子移入された領域を特定したりすることが、ますます困難になります。たとえばアフリカ現代人に関して、デニソワ人との場合と比較して、ネアンデルタール人との間の共有アレルの過剰が示唆されています。この観察結果は、ネアンデルタール人とアフリカ現代人の祖先との間の遺伝子流動か、超古代型人類からデニソワ人への遺伝子流動によりデニソワ人とアフリカ現代人との間のアレル(対立遺伝子)共有が減少したことで、説明できるかもしれません。なお、この観察結果に関しては、本論文では取り上げられていませんが、その後の研究(関連記事)で示された、アフリカ現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合がじゅうらいの推定よりもずっと高い、という知見により説明できそうです。

 さらに、遺伝子流動の存在を示す強力な証拠がある場合でも、特定の遺伝子移入された領域を識別することは困難です。この問題の解明は、ネアンデルタール人から現生人類もしくはデニソワ人から現生人類の場合よりも、超古代型人類からデニソワ人から現生人類および現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動事象の方がずっと困難です。それは、両方ともずっと古い年代に起きたと仮定されており、遺伝子移入されたハプロタイプは組換えによりずっと解体されていることと、超古代型人類の利用可能な配列がないからです。また、ネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムデータが少ないことも制約となります。そのため、現在の手法は、古代の人類における交雑事象を検出するのに理想的ではなく、もっと最近の遺伝子移入を特定するというより容易な問題に最適化されています。さらに、これらの手法はいくつかの要約統計量のみを用います。ゲノム標識がより微妙な場合、モデルベースの手法を用いて全データを組み込む必要があります。

 本論文は、ARGweaver-Dという強力でひじょうに一般的な新手法を報告します。これは、集団の分岐年代・規模変化・移住事象を含む、一般的な人口統計学的モデルを条件とする祖先の組換え図(ARG)を標本抽出します。ARGweaver-Dの導入後、シミュレーション研究が提示されます。これは、限定的なゲノム数を用いた時でさえネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入を上手く検出でき、現生人類からネアンデルタール人、超古代型人類からデニソワ人やアフリカ現代人の祖先を含む、より古い移住事象を検出する能力も有します。本論文はこの手法をアフリカ現代人と古代の人類に適用し、現生人類と古代型人類との間の遺伝子移入の新たな事例と以前に報告された事例の両方を特徴づけます。


●ARGweaver-Dの能力評価

 ARGweaver-Dは任意の人口統計学的モデルを条件として、ARGを標本抽出できます。ARGweaver-DはARGweaverの主要な拡張で、使用者の定義した集団モデルを条件としてARGを推定できます。このモデルは、過去に系統を共有する現代集団の任意の数で構成でき、最も祖先的な分離時点における単一の任意交配集団に合着します。集団規模は各集団の時間間隔ごとに個別に特定できます。集団間の移住事象も追加でき、それらは即座に起きると推定され、使用者定義の時間と確率を伴います。通常、ARGweaver-Dの使用に適した人口統計学的モデルは、文献から、もしくは前処理段階での方法を適用して取得できます。

 ARGweaver-Dの能力と精度は、現生人類へのネアンデルタール人からの遺伝子移入の特定のシミュレーションで評価されました。全体的に、ARGweaver-Dは条件付き確率場(CRF)よりもパフォーマンスが向上しており、長い断片ではさほど改善されませんが、短い断片では改善が顕著です。ARGweaver-Dにより推定される、人類系統の分岐と各系統間の交雑関係と有効人口規模は図3にまとめられており、ネアンデルタール人とデニソワ人の系統では有効人口規模の減少が想定されます。以下、本論文の図3です。
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 ARGweaver-DとCRFで、現代のパプア人・バスク人・アフリカ人(マンデンカ人およびサン人)におけるネアンデルタール人およびデニソワ人系統の検出も比較されました。いずれも、パプア人においてネアンデルタール人よりもデニソワ人に由来するDNA領域が多いと予測されているにも関わらず、ネアンデルタール人の方が多い、との結果が得られています。これは、デニソワ人からの遺伝子移入を検出する能力が低いことで説明できます。それは、デニソワ人のゲノムデータが南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡で発見された個体からしか得られていないのに、パプア人(およびオーストラリア先住民)の祖先と交雑したデニソワ人は、アルタイ地域とはずっと前に分岐した系統であることに起因します。

 一方、ネアンデルタール人に関しては、高品質なゲノムデータが得られているアルタイ地域(デニソワ洞窟)個体とクロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡個体の比較で、クロアチア個体の方が非アフリカ系現代人の祖先集団と交雑したネアンデルタール人系統により近い、と推測されています(関連記事)。ARGではこの情報が反映されており、現代パプア人との間の遺伝子移入系統の平均合着年代は、クロアチアのネアンデルタール人とで262000年前、アルタイ地域ネアンデルタール人で326000年前、デニソワ人で396000年前です。バスク人の場合、クロアチアのネアンデルタール人との平均合着年代は236000年前で、アルタイ地域のネアンデルタール人との292000年前よりも新しくなっています。

 ARGweaver-Dではネアンデルタール人から現代アフリカ人への約0.5%の遺伝子移入が検出され、誤検知の可能性も、ネアンデルタール人と交雑したユーラシア現生人類集団の一部のアフリカへの「逆流」による可能性もあります(関連記事)。また上述のように、10万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散した現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入が推測されているので、その領域が検出された可能性もあります。少ない標本では、2集団間の移住方向の決定が困難な場合もあります。

 次に、ARGweaver-Dのより古い遺伝子移入事象を検出する能力が評価されました。そのため、アフリカの人口史のモデルを用いて、現代人の標本がシミュレートされました。これらのシミュレーションには、現生人類からネアンデルタール人、標本抽出されていない「超古代型」人類からデニソワ人、「超古代型」人類から現代アフリカ人系統という、3つの移住(遺伝子移入)事象が含まれます。デニソワ人とアフリカ人への遺伝子移入をもたらした「超古代型」人類は、同じ系統とは限りません。その結果、分岐年代が古い(違いが大きくなります)ほど、また遺伝子流動事象が新しいほど、検出する能力が高いと明らかになりました。偽陽性率は、事後確率閾値0.5で1%未満となり、ARGweaver-Dには古い遺伝子移入事象を検出する能力がある、と確認されます。


●古い遺伝子移入

 ARGweaver-Dの能力と精度が確認されたので、ARGweaver-Dを用いて、現代人および非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)のゲノムが分析されました。全体的に、アルタイ地域とクロアチアのネアンデルタール人の両方で、現生人類からの遺伝子移入領域が最も高く(3%程度)検出されますが、このモデルの真陽性率が30~55%だとすると、この値はほぼ確実に過小評価です。対照的に、わずか0.37%の領域が現生人類からデニソワ人への遺伝子移入として分類されます。

 現代人のどの地域集団についても言えますが、常染色体よりもX染色体の方で、デニソワ人およびネアンデルタール人由来のゲノム領域の割合がずっと少ない、と明らかになっており(関連記事)、それは本論文が対象とした現代人集団でも確認されました。対照的に、アルタイ地域とクロアチアのネアンデルタール人では、X染色体において現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入の高網羅率が観察され、常染色体よりもやや高いくらいです。ただ、常染色体ではかなりの変動が見られ、1・6・21・22番などいくつかの常染色体ではX染色体よりも高い網羅率が予測されます。クロアチアのネアンデルタール人はアルタイ地域のネアンデルタール人より7万年後となるものの、常染色体における現生人類系統の枯渇は示されず、負の選択がその間に現生人類から遺伝子移入された領域を大きくは喪失させなかった、と示唆されます。しかし、アルタイ地域のネアンデルタール人と比較して、クロアチアのネアンデルタール人の一部の染色体では網羅率の減少が見られ、その最大のものはX染色体です。

 他の移住(遺伝子移入)事象は、より低水準で検出されます。デニソワ人のゲノムの1%は、超古代型人類からの遺伝子移入と特定されます。これを6%と推定する先行研究と比較すると低く、これは超古代型人類が現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先系統と分岐したのがやや新しく、150万年前頃よりも100万年前頃に近かったことを示唆します。それでも、超古代型人類からデニソワ人へと遺伝子移入されたと推定される2700万塩基対の配列が得られました。ARGweaver-Dではさらに、ネアンデルタール人ゲノムのうち、アルタイ地域個体の0.75%、クロアチア個体の0.70%が超古代型人類からの遺伝子移入と予測します。ただ、これは推定偽陽性率(0.65%)をわずかに超えるだけなので、確定的とは言えません。

 超古代型人類からデニソワ人、およびおそらくはネアンデルタール人への遺伝子移入事象からは、その後のデニソワ人やネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入事象を通じて、超古代型人類のDNAが現生人類に継承される可能性を提起します。じっさい、超古代型人類からデニソワ人へと遺伝子移入された領域の15%は、デニソワ人からアジア南東部の一部およびオセアニアの現代人集団に遺伝子移入された配列と重複しており、その多くには、超古代型人類からの遺伝子移入と一致する多くの多様体が含まれます。また、超古代型人類からネアンデルタール人への遺伝子移入領域の35%が、少なくとも1人のアフリカ現代人で観察されます。とくに、6番染色体の1領域は、超古代型人類からからネアンデルタール人への遺伝子移入領域と重なります。現生人類からネアンデルタール人への古い遺伝子移入の年代は、正確には特定できないものの、30万~20万年前頃と推定されます。超古代型人類からデニソワ人への遺伝子移入は、225000年以上前と推定されます。


●遺伝子移入領域の機能分析

 上述のように、本論文のいくつかの観察では、現生人類からネアンデルタール人への古い遺伝子移入では選択が欠如していたかもしれない、と示唆されました。そこで、選択が作用したかもしれない領域を検証したところ、ネアンデルタール人とデニソワ人から現生人類への遺伝子移入領域で、4ヶ所の1000万塩基対の「砂漠(他集団からの遺伝子移入に由来するDNAが全く、あるいは殆ど存在しない領域)」が見つかりました。遺伝子移入率は1/1000未満です。

 これらの「砂漠」では、現生人類からネアンデルタール人へのかなり高い網羅率が観察されており、遺伝子移入の偏りは一方向性と示唆されます。2ヶ所の「砂漠」では、とくにアルタイ地域のネアンデルタール人において、現生人類からネアンデルタール人への網羅率がひじょうに高くなっています。注目されるのは、3番目の領域がFOXP2遺伝子と重なっていることです。2007年に、ネアンデルタール人にも現代人型のFOXP2遺伝子変異が存在すると明らかになり(関連記事)、現生人類からネアンデルタール人に導入されたのではないか、と考えたくなりますが、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入領域は、現代人型のFOXP2遺伝子変異の上流に位置します。

 ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入における「砂漠」についてさらに調べると、1000万塩基対以上の30領域が特定されました。しかし、これらの「砂漠」は、規模が一致する無作為に選択された一連のゲノム領域と有意に異なるわけではありません。遺伝子移入された領域における機能要素の濃縮もしくは枯渇に関しては、遺伝子移入された非翻訳領域やプロモーターやコーディング領域といった機能的領域の濃縮が、クロアチアのネアンデルタール人よりもアルタイ地域のネアンデルタール人で高い傾向にある、と明らかになりました。これは、負の選択から予想されるパターンとは反対です。


●まとめ

 ARGweaver-Dの使用は比較的小さな標本規模(最大で約100の半数体ゲノム)に限定されますが、この設定でも、とくに古い遺伝子移入事象において、優れた能力を発揮します。またARGweaver-Dには、遺伝子流動の検出に関して、他の手法と比較していくつかの利点があります。たとえば、遺伝子移入されていない個体を参照配列として用いる必要がなく、複数の事象に由来する遺伝子移入を特定でき、それは標本抽出されている集団からもそうでない集団からも可能です。本論文は遺伝子移入に焦点を当てましたが、ARGweaver-Dは人口統計学的なARG推論の一般的手法でもあり、他にも多くの応用の可能性があります。

 ネアンデルタール人のゲノムにおける現生人類由来の領域は3%と推定されましたが、真陽性と偽陽性の推定率に基づく大まかな推定では7%と示唆されます。これは、非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合(2~3%)より高くなります。この現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入は30万~20万年前頃に起きたと推定され、5万年前頃となる非アフリカ系現代人の主要な祖先集団とネアンデルタール人との交雑とは異なる事象だったようです。

 ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体は、デニソワ人に近い系統から現生人類に近い系統へと置換された、と推測されています(関連記事)。本論文が示した現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入は、これと関連しているかもしれません。この置換の下限年代は27万年前頃と推定されていますが(関連記事)、ネアンデルタール人個体群におけるmtDNAと核DNAの系統樹の相違からは、異なる進化史も想定されます(関連記事)。

 20万年以上前の現生人類とネアンデルタール人との交雑に関しては、遺伝的証拠だけではなく化石証拠も提示されており、ギリシア南部では21万年前頃となる現生人類的な頭蓋が発見されています(関連記事)。現生人類からネアンデルタール人への古い遺伝子移入が起きたと推定される年代に、ユーラシアに(広義の)現生人類が存在していた、というわけです。これら早期現生人類は後に絶滅し、現代人にはネアンデルタール人を経由してのみ遺伝的痕跡を残しているかもしれません。

 現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入における機能的影響の可能性に関しては、遺伝子移入された領域を検出する能力に影響を与える既知および未知の要因により、解明は困難です。遺伝子移入を検出する能力が高いネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入の場合でも、遺伝子近くの枯渇や時間の経過に伴う遺伝子移入領域の低下といった主張には疑問も呈されています(関連記事)。ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入における負の選択の最も強い証拠は、X染色体および他のいくつかの「砂漠」における枯渇です。しかし、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入事象では、X染色体における枯渇は見られず、ネアンデルタール人のゲノムにおける「砂漠」を検出するには、標本が少なすぎます。

 一方、以前にネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入で特定された「砂漠」では、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入では枯渇が見られない、と確認されました。アルタイ地域のネアンデルタール人と比較してクロアチアのネアンデルタール人では、X染色体における現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入のわずかな減少が見られます。これは、アルタイ地域個体がクロアチア個体よりも7万年古いという両者の年代の違いのため、その間に遺伝子移入領域を除去する弱い負の選択が作用した、と想定することにより説明できます。負の選択が観察されないことは、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入により導入された多様性が適応度を高めたのか、それともネアンデルタール人集団が有害な多様体を効率的に除去するにはあまりにも小さかったのか、という問題を提起します。この問題は、追加の古代型ホモ属の標本で解決できるかもしれません。

 ARGweaver-Dでは、デニソワ人のゲノムにおける超古代型人類から遺伝子移入された1%の領域も特定されました。以前にはこの割合は6%と推定されていました。本論文により示された新たな推定は、この超古代型人類が現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先系統からさほど遠い関係にはなく、両者の分岐年代が150万年前頃よりも100万年前頃に近い、と示唆します。デニソワ人のゲノムにおける超古代型人類由来の領域が2700万塩基対特定され、そのうち約15%が、デニソワ人と現生人類との交雑を通じて、一部の現代人集団に継承された、と推定されます。つまり、一部の現代人のゲノムのうち約400万塩基対は、2回の遺伝子移入事象を通じてもたらされ、遺伝学的に未知の超古代型人類に由来することになります。

 本論文は、この超古代型人類がホモ・エレクトス(Homo erectus)である可能性を指摘します。ただ、100万年前頃に近い分岐年代だとすると、イベリア半島で確認されているホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)が超古代型人類かもしれません。それはともかく、さらに、現時点での検出能力の問題により、超古代型人類からの遺伝子移入領域が6倍になる可能性もあります。インドネシアとパプアニューギニアの島々の14集団161人の網羅率30倍以上となる高品質なゲノム配列(関連記事)の適用により、この超古代型人類に由来する領域をさらに特定できるかもしれません。

 上述のように、アフリカ現代人における未知の超古代型人類からの遺伝子移入の可能性が指摘されています。ARGweaver-Dでは、このパターンの割合は低く、推定される偽陽性率よりもやや低くなっています。しかし、配列されていない集団から遺伝子移入を特定する能力は、遺伝子移入された集団の規模に強く依存します。より大きな集団で、その集団内の合着がより深いと、どの系統が超古代型人類からの遺伝子移入により説明できるのか、決定するのがより困難になります。

 アフリカ人に関して、本論文は23700人という集団規模を用いました。より小さな集団規模を用いると、ARGweaver-Dでは超古代型人類からアフリカ人への遺伝子移入がより多く推定されますが、偽陽性率がずっと高くなる可能性もあります。ARGweaver-Dの欠点の一つは、それが人口統計学的モデルに依存しており、間違ったモデルを選択すると、誤った結果が生じることです。本論文では、ARGweaver-Dが適度な誤指定に対してかなり堅牢と示されましたが、ARGweaver-Dの実行前には、慎重な人口統計分析により、できるだけ最良のモデルを使用する必要があります。

 本論文では、現生人類からデニソワ人と、超古代型人類からネアンデルタール人という組み合わせで、わずかな遺伝子移入が検出されました。これらの遺伝子移入事象は以前の研究では報告されていないため、予測は誤検出率とおおむね一致する、と予想されました。現生人類からデニソワ人の遺伝子移入事象では、シミュレーションから推定された偽陽性率(0.41%)よりもわずかに低い割合(0.37%)が予測されました。しかし、超古代型人類からネアンデルタール人への遺伝子移入事象では、0.75%が予測され、推定偽陽性率(0.65%)よりわずかに高くなります。

 これらの断片は小さすぎるので、強力な結論を提示できませんが、ホモ・エレクトスがデニソワ人と交雑したならば、おそらくは中東でネアンデルタール人と交雑した可能性もあります。あるいは、ネアンデルタール人のゲノムにおけるホモ・エレクトス由来のDNAは、ネアンデルタール人がデニソワ人との交雑により継承したのかもしれません。本論文では言及されていませんが、アルタイ地域ではネアンデルタール人とデニソワ人との交雑が一般的だった、と推測されています(関連記事)。現時点で報告されている遺伝子流動事象の数を考慮すると、2集団が重複している時空間ではいつでも、遺伝的交換(交雑)が起きた可能性は高い、と仮定するのが合理的かもしれません。


参考文献:
Hubisz MJ, Williams AL, Siepel A (2020) Mapping gene flow between ancient hominins through demography-aware inference of the ancestral recombination graph. PLoS Genet 16(8): e1008895.
https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1008895

実父から子への性虐待が多い理由

 表題の発言を見かけました。正確には、表題の発言への批判をまずTwitterで見かけたのですが、昨日(2020年8月9日)当ブログに掲載した記事と関連しそうなので、短く取り上げます。まず、表題の発言(以下、ツリーになっているので先頭のみリンクを張りますが、続きを示す記号は省略します)は

実父から子への性虐待が多い理由に、男性が育児家事に主体的に取り組まないこの国の風土があると思う。パートナーのお腹に宿った命に喜び、無事に育つよう祈り、パートナーの体調に配慮し、やっと生まれた命。昼夜なく抱き、あやし、お腹を満たし、清潔にし、歌ってやり、何度も吐瀉物を浴び、排便の
世話をして大事に育てた子どもに性的ないたずらを出来るとしたら精神異常者。でも、日本の実父から子に対する性虐待は殆どそれが当てはまらないのではと思っている。中出ししたらいつの間にか妊娠し、いつの間にか生まれ、「辛いとか責められて面倒」と家にいる時間をなるべく少なくし、子に関わる
時間も持つことなくいたら、いつの間にか子が育っていた。同じ家の中にいても突然現れた他人であり肉体なんだと思う。手ずから育てたものを痛めつけられる人間は少ない。だが急に立ち現れた弱者に対しては、罪悪感を抱きにくいのでは。だっていつの間にかいたんだもん。反吐が出る。
偏見があることを承知で言うが、男親の「子の成長はあっという間」という言葉は、育児に関わっていない人間の言葉にも聞こえる。24時間365日幼い命を想っていれば、1日も1ヶ月も1年も、とても長く感じるものだから
【補足】コメントが増えて来たので補足すると、私は父親からも母親からも暴力に合いながら育って来た人間です。父親については人権意識の欠如から、母親については父からの経済的DV+身体的DVが子に連鎖する形で、の暴力だったと思う。あくまで今回は実父→子への性加害をミニ考察した形。
男親が子の人権を尊び、育児にコミットしているケースも勿論沢山見知っているし、日本中全ての男親が育児せず性加害するとも言っていない。日々子を慈しみ育てる世の全ての親に敬意を表すとともに、子を虐待する全ての親が地獄に落ちることを祈念します。


というものです。次に、この一連の呟きに対する批判は、

虐待のほとんどは実親で、しかも実母が圧倒的に多いけど、何の話ししてるんだろう。
性虐待だけの話をしてるなら性犯罪一般が圧倒的に男性の方が多いから、で終了だしな。他の国では珍しいなんてことも言うまでもなくないし。
「男性が育児家事に主体的に取り組まないこの国の風土」に問題があるとすれば、それによって母親の虐待が増えることだろうけど、母親については免責したいから訳わからんことになっちゃうんだろうな。そして「風土」という表現に強い他責性を感じるね。
家事育児に主体的に取り組みそうな男性は選ばれないというか、他の条件に家事育児に主体的に取り組むをオンしちゃうから、普通の男がいないとかなっちゃういつもの。


というものです。このやり取りに関して深く突っ込む能力と気力はないので、昨日の記事との関連に限定すると、実父から子供への性的虐待(そのほとんどは娘が被害者なのでしょう)と育児との間には、相関があっても不思議ではないように思います。育児に熱心な実父ほど、子供を性的に虐待することは少ないのではないか、というわけです。これを詳しく検証する能力と気力はないものの、その理由を述べると、ほぼ昨日の記事のコピペになってしまいますが、以下の通りです。

 現生人類(あるいは他の人類系統も)は双系的社会を基本としつつ多様な社会を築きましたが、ヒト上科、あるいはオランウータン属の事例があるのでヒト亜科に限定するとしても、基本的には非母系社会が特徴で、長い時間進化してきたように思います。おそらくこれは、近親交配回避の仕組みとして進化してきたのでしょう。近親交配の忌避は人類社会において普遍的に見られ、それは他の哺乳類種でも広く確認されることから、古い進化的基盤があると考えられます。近親交配回避の具体的な仕組みは、現代人も含む多くの霊長類系統においては育児や共に育った経験です(関連記事)。したがって、人類系統においては、チンパンジー属系統や、さらにさかのぼってオナガザル科系統との分岐前から現代までずっと、この近親交配回避の生得的な認知的仕組みが備わっていたことは、まず間違いないでしょう。つまり、人類系統あるいはもっと限定して現生人類系統で独自に近親交配回避の認知的仕組みが備わったこと(収斂進化)はとてもありそうにない、というわけです。

 その意味で、育児を殆ど或いは全くしないような実父が、子供(ほとんどの場合は娘)を性的に虐待しやすくなる、という相関があっても不思議ではないように思います。もっとも、これを証明するだけの能力と気力はなく、データを提示できるわけでもないので、私の思いつきにすぎませんが。なお、現生人類においては近親交配が低頻度ながら広範に見られる理由については、昨日の記事で述べているので、この記事では繰り返しません。

ペルー南部沿岸地域におけるインカ帝国期の移住

 ペルー南部沿岸地域におけるインカ帝国期の移住に関する研究(Bongers et al., 2020)が公表されました。解析技術の進展により多数の標本のゲノム規模分析が可能となり、古代DNA研究は過去を研究する強力な手法となりました。ゲノム規模データは、さまざまな地域の集団や個体群の系統の推測を高精度で可能とします。これにより、同じ地域での経時的な系統変化や、同時期に共存していた異なる系統の集団さえ特定できます。両パターンとも、最近の混合されていない移住もしくは在来集団と新たな移民との混合を含む、その地域への移住の証拠を提供します。

 しかし、古代DNA研究には、大陸および地球規模の遺伝的分析を好む傾向があり、より地域的な規模での移動を充分にはモデル化していない「時空間にわたる壮大な物語」をもたらす、との批判もあります。また、古代DNA研究は効率的に人々の移動を特定する一方で、そのような移動が起きた経緯と理由を説明する充分な背景もしくは理論を滅多に提供しない、との批判もあります。こうした規模・背景・標本数の問題は、移動の理解を制約します。それは、考古学的文化の問題のある仮定をもたらすからです。また、遺伝学的研究には移動を単なる説明的な「ブラックボックス」として扱う傾向がある、との批判もあります。こうした遺伝学的研究の批判により、古代DNAを含む単一タイプのデータは単独で移動を特定し説明できない、と明らかになりました。これらの複雑な問題の解明には学際的手法が必要です。

 異なるタイプのデータを統合し、各タイプがさまざまな時期と集団規模の人類学的モデルを検証する範囲を評価することが重要です。本論文は、複雑な社会の移動をより効率的に特定・文脈化・説明するために、地域規模での複数の独立した証拠を統合する学際的手法を採用します。この学際的手法は、ドイツ南部の後期新石器時代~初期青銅器時代の研究(関連記事)や、ランゴバルド人のゲノム解析(関連記事)といったいくつかの遺伝学的研究で採用されており、本論文ではペルー南部沿岸のチンチャ渓谷(Chincha Valley)の事例研究で示されます。チンチャ渓谷は、15世紀にインカの影響を受けた外来民の移動目的地にされたと報告されており、乾燥気候のため装飾された人工物など帰属の重要な指標や古代DNAが保存されやすいので、この調査に適しています。インカは、男性・女性・子供を追い立て、故郷から移動させた社会の一つです。このインカ帝国の強制移住政策は、アンデスの社会政治的景観を変えましたが、考古学的記録で特定することは困難です。また本論文は、この研究が先住民共同体との合意に基づいて行なわれた、と明記しています。


●学際的な事例研究

 移動は人類の行動において重要で、その要因は気候変動や軍事的脅威や上位権力による強制などさまざまです。人類の移動理由の理解は、人口史の解明に重要です。人類の移動に関しては、考古学・生物考古学・生物地球化学・言語学・遺伝学などにより研究されてきました。本論文が対象とするペルー南部沿岸のチンチャ渓谷では、1000~1400年頃となる後期中間期(Late Intermediate Period)にチンチャ王国として知られる複雑な政治体制が存在しました。16世紀の文献では、チンチャ王国は農民・漁民・商人を含む人々の相互依存的な共同体のネットワークで構成されている豊かな社会と記録されています。1400~1532年頃となる後期ホライズン(Late Horizon)にインカはチンチャ渓谷を統合し、交易ネットワークの拡大、インカとチンチャの領主が率いる「二重統治」政治システムの導入、外部居住者の強制移動をもたらしました。

 チンチャ渓谷中部での最近の考古学的研究により、44ヶ所の墓地遺跡に密集する500以上の墓が明らかになりました。墓は、地下の棺に遺骸を収めるタイプと、地上と地下の霊廟タイプがあります。本論文は、自然石で作られた地下の霊廟タイプの墓に葬られた遺骸の分析結果を報告しています。一方のUC-008の1号墓の大きさは3.09m×2.35mで、少なくとも117人が葬られており、織物・土器・トウモロコシおよびヒョウタンの破片が共伴します。UC-012の33号墓の大きさは2.15m×2.10mで、人数は不明ながら複数個体が葬られており、織物・トウモロコシ・ヒョウタンが共伴します。以前の研究の放射性炭素年代では、UC-008の1号墓が後期ホライズンおよび1532~1825年となる植民地期と推定されています。植民地期の人工物はチンチャ渓谷中部では発見されていないので、UC-008の1号墓に葬られた個体群の年代は後期ホライズンと示唆されます。

 まず、後期ホライズンにおける移動を示唆するいくつかの証拠が再調査されます。それは、土器・織物・ストロンチウム同位体データと、インカが政策の一部として外部住民をチンチャ渓谷も含めてインカ南部沿岸に移動させた、と主張する植民地期の文献を含んでいます。各証拠の限界が強調され、データセットの単一タイプだけでは移動を特定できず、その経緯と理由も説明できない、と示されます。次に、UC-008の1号墓とUC-012の33号に葬られた6人のゲノム規模データと、6人のうち4人の直接的な加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代が提示されます。


●チンチャ渓谷への移住の証拠

 土器は交易でもたらされ、導入先で模倣される可能性もあり、人類の移動の絶対的な指標になるわけではありません。しかし、適切に文脈化されれば、アンデス地域でも潜在的な移動の重要な指標となります。以前の調査では、チンチャ渓谷全体で中央部および北部沿岸様式の土器が見つかっています。チンチャ渓谷下流域のワカラセンティネラ(Huaca La Centinela)遺跡に近い6ヶ所の墓地では、後期ホライズンの55個の土器が発見され、パチャカマクインカ(Pachacamac-Inca)やチムー(Chimú)や「中央部~北部沿岸」様式を含む、多様な外来土器様式が識別されました。塊茎や果物の形の9個の瓶は、中央部~北部沿岸様式に見られます。

 織物はアンデス地域において集団を区別する重要な指標となりますが、同時代の土器よりも考古学的記録には残りにくい、という欠点もあります。UC-008の1号墓では、縦糸と横糸が組み合わされた平織りの北部沿岸地域の織物様式が、64%(141点のうち90点)で確認されました。チンチャ渓谷の住民が、北部沿岸地域の織物様式伝統の影響を受けたか、交易で入手した可能性は除外できません。しかし、外部の織物技術の模倣は難しく、外部技術の割合が高いので、そうした可能性は低そうです。

 ストロンチウム同位体比データは、人類の移動の指標となります。しかし、地質的特徴が均一な多くの沿岸地域間の移動を明らかにすることはできません。UC-012の33号墓で見つかった7人の歯のエナメル質からストロンチウム同位体比が測定されましたが、北部・中央部・南部の沿岸地域の同位体比の範囲と重複します。したがって、UC-012の33号墓で見つかった7人の出身地がアンデス地域とまでは特定できても、より正確な起源は不明です。

 植民地期の文献は、偏見が見られるものの、とくに後期ホライズンの移動パターンへの重要な手がかりを提供します。これらの文献は、強制移住に関するインカの政策を記載しています。インカは各州からかなりの人数を選んで新たな地域に移動させました。各事例の距離は異なりますが、一般的に故郷と類似した生態系が選ばれました。こうした移住は、インカ帝国に対する脅威の緩和と、経済支援が目的でした。チンチャ渓谷での強制移住を記載した文献もあり、その起源地は不明ですが、植民地期の複数の文献からは、北部沿岸地域の可能性が想定されます。これは、インカ帝国がチムーを征服し、それに続く蜂起を鎮圧して政治構造を解体した後に、以前はチムーに属していた北部沿岸地域集団を南部沿岸地域に移住させたためです。その中には、金細工師や漁民や水利管理の専門家も含まれていました。外来集団の到来は、チンチャ渓谷の後期中間期および後期ホライズで確認された、人口や灌漑や農業生産水準の増加と関連しているかもしれません。しかし、植民地期の前に外来集団がチンチャ渓谷に存在していたのか、そうだとして起源はどこなのか、またその理由は何なのか、インカ帝国による強制という証拠はあるのか、といった問題は、文献だけでは解決できず、複数のデータを統合することで可能となります。

 UC-008の1号墓の2人とUC-012の33号墓の4人のゲノム規模データが得られました(平均網羅率は0.71~1.65倍)。このうち、UC-008の1号墓の2人とUC-012の33号墓の2人で直接的な放射性炭素年代値が得られました。年代は1505~1645年(信頼区間95%では1415~1805年)で、後期ホライズンも含まれます。まず、6人が1もしくは2親等の親族ではない、と確認されました。次に、主成分分析やADMIXTURE分析やqpWave分析やf4・f3統計が行なわれました。これらの分析全てで、UC-008集団とUC-012集団は遺伝的にひじょうに類似している、との結果が得られました。UC-008集団とUC-012集団は互いにクレード(単系統群)で、その系統は均質です。UC-008集団とUC-012集団はペルー北部沿岸地域の古代個体群と最も類似しており、その系統だけで充分にモデル化できます。これは、アルゼンチンで発見された後期ホライズンの犠牲とされた少年と、インカ帝国期のトロントイ(Torontoy、聖なる谷)遺跡の個体と同じ系統です。ただ、本論文で用いられた古代の個体は、北部沿岸地域ではエルブルホ(El Brujo)遺跡、中央部沿岸地域ではリマ(Lima)で発見されたものに限定されています。チンチャ渓谷の後期ホライズンの6人は、遺伝的に古代のエルブルホ個体群と最も類似しているものの、もっと南、つまりエルブルホとリマの間に、さらに類似した集団が存在したかもしれません。つまり、より正確な起源地はまだ断定できません。


●まとめ

 本論文は、土器・織物・ストロンチウム同位体・ゲノム規模データ・植民地期の文献という複数の独立した証拠を統合して、チンチャ渓谷の後期ホライズンにおける人類の移動を分析しました。これらのデータは、植民地期の前にチンチャ渓谷へ外部集団が到来した、という点で一貫しています。チンチャ渓谷のUC-008の1号墓およびUC-012の33号墓の6人の遺伝的構成はひじょうに類似しており、ストロンチウム同位体からはアンデス沿岸地域起源が示唆されますが、ゲノム規模データは、その中でも北部沿岸地域起源の可能性が高い、と示します。チンチャ渓谷における北部沿岸地域様式の土器と織物も、この見解を支持します。

 このアンデス沿岸地域における北部から南部への移動手段・経路は、歩行・リャマの隊商・舟による沿岸航海が想定されます。チムーの首都であるチャンチャン(Chan Chan)では、交易場所として利用された可能性のある2ヶ所の隊商宿が発見されています。おそらくはチムーの領主の家臣だった商人は、バルサ製の筏を用いて、エクアドルの貝殻を入手し、アンデスを横断して輸送した可能性があります。北部沿岸地域からチンチャ渓谷に移動してきた集団も、海路もしくは陸路、あるいはその両方を利用したかもしれません。

 移動理由に関しては、本論文のデータはインカ帝国による移住モデルと最も適合しています。上述のように、植民地期の文献にはチンチャ渓谷への強制移住が見えます。チンチャ渓谷中央部には川と同鉱山があり、水利管理の専門家と鉱山労働者の移住の主要な目的地となり得ます。もしそうならば、インカ帝国は移住者に伝統的な衣服の着用を要求したので、チンチャ渓谷では北部沿岸地域様式の織物が見つかると予想され、じっさいにチンチャ渓谷では発見されています。これは、土器やストロンチウム同位体やゲノム規模データとも一致します。

 ただ、本論文で分析されたチンチャ渓谷の北部沿岸地域起源集団が、後期ホライズンよりも前に自主的に到来した可能性は、遺伝的に除外できません。たとえば、北部沿岸地域の商人がインカ帝国の前にチンチャ渓谷に到来しても不思議ではありません。しかし、ゲノム規模データからは、チンチャ渓谷の後期ホライズンの6人が、本論文の解像度では混合されていない北部沿岸地域系統と示され、文献および考古学的記録と一致する、より最近の移住を強く支持します。最近の古代DNA研究でも、インカ帝国による強制移住の可能性が示唆されています(関連記事)。後期中間期やその前のチンチャ渓谷の個体群の将来の分析により、後期ホライズンよりも前のチンチャ渓谷の集団が、他のペルー南部沿岸地域集団の特徴をより多く有するのか、評価できます。また、標本数が増えれば、北部沿岸地域から南部沿岸地域への移動がチンチャ渓谷でどの程度広がっていたのか、特定できるようになります。

 本論文は、学際的研究により、古代の移動をより詳細に解明しました。しかし、どれだけの人数が北部沿岸地域からチンチャ渓谷へ移動したのか、チンチャ渓谷における移民の割合はどの程度だったのか、チンチャ渓谷の共同体はどのくらい多様だったのか、移民がチンチャ渓谷の在来集団の社会生活に影響を与えたのか、といった未解決の問題が提起されます。本論文で提示されたような学際的手法は、全ての地域・時代で適用できるわけではありませんが、今後こうした研究が進められ、より詳細な人類史が解明されていくだろう、と期待されます。


参考文献:
Bongers JL. et al.(2020): Integration of ancient DNA with transdisciplinary dataset finds strong support for Inca resettlement in the south Peruvian coast. PNAS, 117, 31, 18359–18368.
https://doi.org/10.1073/pnas.2005965117

中国のモソ人に関する本の紹介記事

 中国南西部のモソ人に関する本『女たちの王国:「結婚のない母系社会」中国秘境のモソ人と暮らす』(曹惠虹著、秋山勝訳、草思社、2017年)を取り上げた記事がなかなか話題になっているようです。モソ人については『性の進化論』でも取り上げられていたので知っていましたが(関連記事)、同書ではモソ人の生活が詳しく紹介されているようです。この記事によると、モソ人の社会は母系制で、結婚制がなく、女性には性的自由があり、財産の相続権は女性にしかないばかりか、そもそも男性には交渉権がないそうです。徹底した女性の性的自由こそフェミニズムの目的とするこの記事は、モソ人の社会をフェミニストの理想が体現されている、と評価します。

 正直なところ、この記事のフェミニズム理解には、藁人形論法ではないか、との疑問が残り、この記事が、というか同書が紹介するモソ人社会の認識の妥当性についても、判断を保留せねばならないところがかなりあるかな、とは思います。まあ、フェミニズムは一人一派といった発言もよく聞くので、フェミニストを自任する人の中には、同書で描かれたようなモソ人社会を理想視する人もいるのかもしれませんが。そもそも、私のフェミニズム理解がお粗末というか、あまりにも勉強不足なので、この記事のフェミニズム理解について的確に反論することはできません。フェミニズムについては、新自由主義や優生思想との関連などに興味があるのですが、これまであまりにも勉強不足でしたし、優先順位がそこまで高いわけでもないので、能力の問題もあり、深入りせずに今後も一般向けの言説を読むに留めておくつもりです。

 同書によると、近隣社会は13世紀のモンゴル軍襲来を期に父系社会へと転換していったのに対して、モソ人社会は母系制を維持したそうです。モソ人は交通不便な地域に居住していることからも、「原始社会」をよく保持しているのではないか、と考える人がいても不思議ではありません。しかし、モソ人の言語はチベット・ビルマ語族に分類されるようですから、その主要な起源が黄河中流および下流域の仰韶文化・龍山文化集団にある、との最近の知見(関連記事)を踏まえると、新石器時代黄河流域集団の文化的(おそらくは遺伝的にも)影響を強く受けている、と考えられます。その意味で、モソ人が「原始社会」をよく保持しているのか、かなり疑わしいように思われます。

 ただ、女性の地位低下という観点からは、モソ人が「原始社会」を比較的よく保持している、と考える人もいるかもしれません。中国史において、新石器時代には大きくなかった性差が青銅器時代に拡大した(女性の地位低下ですが、殷・西周期に関しては同位体分析の明確な証拠が得られていないので、具体的に性差の拡大が確認されているのは春秋時代以降)、との見解(関連記事)が提示されているように、社会の複雑化とそれに伴う組織的な軍事力の整備などにより、男性と比較して女性の地位が相対的に低下することは、人類史において珍しくないかもしれません。ただ、性差の小さい社会から性差が大きい社会(多くの場合は相対的な女性の地位低下)への変容は珍しくないとしても、モソ人社会のような明らかな女性優位社会は珍しく、またそのような社会が過去に一般的だったことを示すような人類学や考古学の証拠もないでしょう。その意味でも、モソ人社会が「原始社会」を比較的よく反映している、とは言いにくいように思います。

 また、モソ人が母系社会を守ってきたとしても、それがいつからなのか不明で、人類の「原始社会」が母系的だった証拠にはならないと思います。そもそも、女性の相対的な地位低下という形での性差拡大が、母系社会から父系社会への転換を示す、とも言えないでしょう。人類にとってチンパンジー(Pan troglodytes)とともに最近縁の現生種であるボノボ(Pan paniscus)の社会は、チンパンジー社会と比較して雌の地位が高いとされていますが、ボノボもチンパンジーも父系的な社会を形成しています。ボノボの母親は娘よりも息子の方の交配を支援する傾向にありますが、これも雌が出生集団を出ていくというボノボの父系的社会を反映しているからでしょう(関連記事)。

 ボノボも人類も含まれるヒト上科は、オランウータン属がやや母系に傾いているかもしれないとはいえ、現生種は現代人の一部を除いて基本的には非母系社会を形成する、と言うべきでしょう。チンパンジー属とゴリラ属と人類を含むヒト亜科で見ていくと、現生ゴリラ属はある程度父系に傾いた「無系」社会と言うべきかもしれません。現代人の直接の祖先ではなさそうで、お互いに祖先-子孫関係ではなさそうな、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とイベリア半島北部の49000年前頃のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)について、前者は雄よりも雌の方が移動範囲は広く(関連記事)、後者は夫居制的婚姻行動の可能性が指摘されていることからも(関連記事)、ヒト亜科の最終共通祖先の社会は、ある程度以上父系に傾いていた可能性が高いように思います。

 しかし現生人類(Homo sapiens)は、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、双系的社会が基本と言えるように思います(関連記事)。上述のアウストラロピテクス属やパラントロプス属やネアンデルタール人の事例からは、チンパンジーと分岐した後の人類系統も、チンパンジー属のような父系的社会を形成し、高い認知能力に由来する柔軟な行動を示す現生人類において、父系にかなり偏った社会からモソ人社会に見られるようなかなり母系に偏った社会まで、多様な社会を築くようになったのだと思います。ただ、ネアンデルタール人など現生人類以外の人類の中にも、双系的社会を築いた系統がいたかもしれません。

 現生人類(あるいは他の人類系統も)は双系的社会を基本としつつ多様な社会を築きましたが、ヒト上科、あるいはオランウータン属の事例があるのでヒト亜科に限定するとしても、基本的には非母系社会が特徴で、長い時間進化してきたように思います。おそらくこれは、近親交配回避の仕組みとして進化してきたのでしょう。近親交配の忌避は人類社会において普遍的に見られ、それは他の哺乳類種でも広く確認されることから、古い進化的基盤があると考えられます。近親交配回避の具体的な仕組みは、現代人も含む多くの霊長類系統においては育児や共に育った経験です(関連記事)。したがって、人類系統においては、チンパンジー属系統や、さらにさかのぼってオナガザル科系統との分岐前から現代までずっと、この近親交配回避の生得的な認知的仕組みが備わっていたことは、まず間違いないでしょう。つまり、人類系統あるいはもっと限定して現生人類系統で独自に近親交配回避の認知的仕組みが備わったこと(収斂進化)はとてもありそうにない、というわけです。

 しかし、現生人類においては近親交配が低頻度ながら広範に見られます。最近も、アイルランドの新石器時代社会の支配層における近親交配が報告されました(関連記事)。これはどう説明されるべきかというと、そもそも近親交配を回避する生得的な認知的仕組み自体が、さほど強力ではないからでしょう。じっさい、現代人と最近縁な現生系統であるチンパンジー属やゴリラ属でも、親子間の近親交配はしばしば見られます(関連記事)。人口密度と社会的流動性の低い社会では、近親交配を回避しない配偶行動の方が、適応度を高めると考えられます。おそらく、両親だけではなく近い世代での近親交配も推測されているアルタイ地域のネアンデルタール人が、その具体的事例となるでしょう(関連記事)。

 近親交配を推進する要因としてもう一つ考えられるのは、上述のアイルランドの新石器時代の事例や、エジプトや日本でも珍しくなかった、支配層の特権性です。支配層では、人口密度などの点では近親交配の必要性がありませんが、こうした近親交配は社会的階層の上下に関わらず、何らかの要因で閉鎖性を志向するもしくは強制される集団で起き得る、と考えられます。支配層の事例は分かりやすく、神性・権威性を認められ、「劣った」人々の「血」を入れたくない、といった観念に基づくものでもあるでしょう。より即物的な側面で言えば、財産(穀類など食糧や武器・神器・美術品など)の分散を避ける、という意味もあったと思います。財産の分散は、一子(しばしば長男もしくは嫡男)相続制の採用でも避けられますが、複数の子供がいる場合、できるだけ多くの子供を優遇したいと思うのが人情です。こうした「えこひいき(ネポチズム)」も、人類の生得的な認知的仕組みで、他の霊長類と共通する古い進化的基盤に由来します(関連記事)。

 生得的な認知的仕組みが相反するような状況で、その利害得失を判断した結果、支配層で近親交配が制度に組み込まれたのではないか、というわけです。近親交配の制度的採用という点では、財産の継承も重要になってくると思います。その意味で、新石器時代以降、とくに保存性の高い穀類を基盤とする社会の支配層において、とくに近親交配の頻度が高くなるのではないか、と予想されます。もっとも、農耕社会における食糧の貯蔵の先駆的事例はすでに更新世に存在し、上部旧石器時代となるヨーロッパのグラヴェティアン(Gravettian)が画期になった、との見解もあるので(関連記事)、更新世の時点で、財産の継承を目的とした近親交配もある程度起きていたのかもしれません。

 もちろん、近親交配回避の認知的仕組みは比較的弱いので、支配層における制度的な近親交配だけではなく、社会背景にほとんど起因しないような個別の近親交配も、人類史において低頻度で発生し続けた、と思われます。近親交配の忌避は、ある程度以上の規模と社会的流動性(他集団との接触機会)を維持できている社会においては、適応度を上げる仕組みとして選択され続けるでしょう。しかし、人口密度や社会的流動性が低い社会では、時として近親交配が短期的には適応度を上げることもあり、これが、人類も含めて霊長類社会において近親交配回避の生得的な認知的仕組みが比較的緩やかなままだった要因なのでしょう。現生人類においては、安定的な財産の継承ができるごく一部の特権的な社会階層で、「えこひいき(ネポチズム)」という生得的な認知的仕組みに基づき、近親交配が選択されることもあり得ます。その意味で、人類社会において近親交配は、今後も広く禁忌とされつつ、維持されていく可能性が高そうです。

川戸貴史『戦国大名の経済学』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2020年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、大名領国の収入と支出の分析から、戦国時代の日本経済の構造、さらにはアジア東部および南東部とのつながりまでを対象としており、戦国大名の領国経営という一見すると細かい主題ながら、広い視野を提示しているように思います。こうした一般向け書籍では、細かな論証を取り上げつつ(これも具体的な事例が多く、楽しめましたが)、大きな構造も視野に入れて提示する、という構成が理想的だろう、と私は考えています。その意味で、本書は有益であり、楽しめました。

 戦国大名の権益・収入について、各大名の出自に規定されるところがあった、と本書は指摘します。領国に古くから勢力を有して発展してきたような大名では、家臣も含めて領国内の既得権益者への配慮を欠かせない、という側面が多分にあります。その意味で、本書が取り上げている北条(後北条)氏は、領国として関東にほとんど権益を有していなかったことから、検地など権利関係の再編をやり安かった、という側面はあるかもしれません。北条氏の領国統治は、検地や貫高制の整備など、「先進的」と評価されることが多いように思いますが、それもほぼ無縁だった関東で領国を拡大したことに起因するのかもしれません。

 戦国時代の日本とアジア東部および南東部とのつながりは、16世紀半ばになって、日本において効率的な精錬法の導入による銀産出の増大・高品質化したことが促進した、と言えそうです。銀への需要を高めていた明王朝には、アメリカ大陸を支配したイベリア半島勢力からの銀も流入し、日本も世界経済に強く組み込まれていきました。この過程で、明王朝での銅銭供給が停滞したことで、貨幣を宋銭や明銭(およびそれらの模鋳銭)に依存していた日本では銭不足が起きます。その対応策として撰銭令が出され、本書は、織田信長の撰銭令が従来のそれに依拠していないとして、その画期性を評価しつつも、結局は市場の動向を読みきれておらず、銭不足の中、日本が石高制へと向かっていた、と展望しています。戦国時代の権力者は、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康といえども、思い付きで経済を動かすことはほとんど不可能だった、と本書は指摘します。

クローン造血の構造パターンと選択圧

 クローン造血の構造パターンと選択圧に関する二つの研究が公表されました。一方の研究(Loh et al., 2020)は、クローン選択の手段になる単一遺伝子遺伝と多遺伝子遺伝を報告しています。体細胞変異を有してクローン増殖した血液細胞(クローン性造血)は、一般に加齢に伴って獲得され、血液癌のリスクを高めくす。これまでに特定された血液クローンは、あらゆる染色体上に、多様で大規模なモザイク状の染色体変化、つまり欠失・重複・コピー数変化を伴わないヘテロ接合性の喪失(CN-LOH)を含んでいますが、ほとんどのクローンの増殖を駆動する選択優位性の源については不明です。

 この研究は、変異クローンに選択優位性を与える遺伝子や変異、生物学的過程を明らかにするため、イギリスバイオバンクの登録者482789人の血液由来DNAから得た遺伝型解析データを調べました。この研究は、19632の常染色体モザイク変化を特定し、これらの変化と遺伝性の遺伝的変動との関連を解析しました。その結果、7遺伝子で、大きな効果を持つ稀な遺伝性のコーディング多様体とスプライシング多様体が52種類見つかりました。

 これらの多様体は特定のCN-LOH獲得変異を持つクローン性造血に対する脆弱性の大幅な増加と関連しています。獲得変異では体系的に、MPL遺伝子における遺伝性リスク対立遺伝子の置換や、FH・NBN・MRE11・ATM・SH2B3・TM2D3遺伝子における相同染色体への複製が起きていた。それらの遺伝子のうちの3つ(MRE11・NBN・ATM)は、DNA損傷やテロメア短縮後の細胞分裂を制限するMRN–ATM経路の構成因子をコードしており、他の2つ(MPLとSH2B3)は幹細胞の自己複製を調節するタンパク質をコードしています。

 さらに、ゲノム全体にわたるCN-LOH変異は、その相同な(対立遺伝子の)他方との置換により、造血細胞の増殖を促進する対立遺伝子を含む染色体部分を生じさせる傾向があり、これによって、血液細胞の増殖形質に対する多遺伝子性の駆動力を増加させる、と明らかになりました。容易に獲得された、相同な対応領域を含む染色体部分と置換を起こす変異は、広範な遺伝性の変動と相互作用して、生涯にわたり細胞形成の課題となるようです。


 もう一方の研究(Terao et al., 2020)、日本における加齢に関連する造血クローン間の染色体変化を報告しています。発癌や加齢の生物学的性質が、ヒト集団を区別する要因によりどの程度形作られているのか、まだ分かっていません。変異を獲得した造血クローンは加齢に伴って増え、血液癌がんにつながる可能性があります。この研究は、バイオバンク・ジャパンのコホートの日本人参加者179417人において検出された33250の常染色体のモザイク状の染色体変化と、それらのイギリスバイオバンクの類似データとの比較に基づき、造血系細胞におけるゲノム変異とクローン選択の共通のパターンと集団特異的パターンについて報告しています。

 長寿の日本人集団では、モザイク染色体変化が90歳以上の人の35.0%以上(標準誤差1.4%)で検出され、これは、こうしたクローンの存在が加齢とともに必然になる傾向を示唆しています。日本人とヨーロッパ人では、それぞれの造血クローンのゲノムで変異が存在する位置に重要な差異がある、と明らかになりました。これらの差異から、各集団における慢性リンパ球性白血病(ヨーロッパ人により多く見られます)とT細胞性白血病(日本人により多く見られます)の相対的比率が予測されました。慢性リンパ球性白血病の3種類の変異前駆体(トリソミー12、染色体13qの喪失、コピー数変化を伴わないヘテロ接合性の13qの喪失)を持つ割合は、日本人ではヨーロッパ人の1/6~1/2であることから、これら2集団では、クローンにかかる選択圧が、臨床的に明らかな慢性リンパ球性白血病を発症するずっと前から異なっている、と示唆されます。

 日本人集団とイギリス人集団では、B細胞系譜およびT細胞系譜から生じるクローンの割合もひじょうに異なっており、この差異からは、各集団におけるB細胞癌およびT細胞癌の相対的比率が予測されました。この研究は、遺伝性リスク対立遺伝子の重複あるいは除去を引き起こすモザイク染色体変化の素因となる多様体を受け継いでいる、これまでに報告されていない6座位を特定しました。これらには、NBN・MRE11・CTU2遺伝子での効果の大きいまれな多様体(オッズ比28~91)が含まれます。この研究は、クローンにかかる選択圧がヒト集団に特異的な要因により調節される、と推測しています。したがって、世界中の集団について、クローン選択や癌についてのさらなるゲノム特性解析を行なう必要があります。これらの研究は、人類進化史的観点からも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:日本における加齢に関連する造血クローン間の染色体変化

遺伝学:単一遺伝子遺伝と多遺伝子遺伝はクローン選択の手段になる

遺伝学:クローン造血の構造パターンと選択圧を明らかにする

 今回、2つの研究によって、クローン造血に関連する遺伝的変化が報告されている。P Lohたちは、英国バイオバンクの参加者の血液由来DNAを解析することで、クローン造血の選択を引き起こす変異や変化を明らかにしている。彼らは、モザイク染色体変化やコピー数変化を伴わないヘテロ接合性の喪失(CN-LOH)を発見し、DNA損傷チェックポイントや幹細胞の自己複製に関連する変異も見いだした。Lohたちは、多遺伝子性リスクスコアの予測法を開発することにより、CN-LOH事象が、増殖を促進する遺伝性バリアントをクローン選択する強力なドライバーであると提案している。寺尾知可史(理化学研究所ほか)たちは、日本のバイオバンクの試料のデータを調べることによって、モザイク染色体変化の共通のパターンおよび集団特異的なパターンを特定している。こうした集団間の違いによって、ヨーロッパ人集団と日本人集団における造血系悪性腫瘍の発生率の差異が説明できる可能性がある。寺尾たちは、モザイク染色体変化の選択を起こす素因となる遺伝性バリアントに加えて、集団特異的な要因が加齢に伴うクローン造血の選択圧を決めると示唆している。



参考文献:
Loh P, Genovese G, and McCarroll SA.(2020): Monogenic and polygenic inheritance become instruments for clonal selection. Nature, 584, 7819, 136–141.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2430-6

Terao C. et al.(2020): Chromosomal alterations among age-related haematopoietic clones in Japan. Nature, 584, 7819, 130–135.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2426-2

『卑弥呼』第44話「貢ぎ物」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年8月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが鞠智彦に、暈のイサオ王はそなた以上の逸材だろうか、と問いかけるところで終了しました。今回は、アカメが弩でナツハを狙っている場面から始まります。アカメはヤノハからナツハを殺すよう指示が出るのを待っていますが、一向に指示が出ないことを不審に思っています。それどころか、山社(ヤマト)の門は開けられ、ナツハに率いられている犬と狼が攻め込むのではないか、とアカメは懸念します。しかし、狼が攻め込むことはなく、ヤノハとの会見を終えた鞠智彦(ククチヒコ)が山社の門から出て、狼と犬もナツハの指示により撤退します。アカメは、これが鞠智彦の指示だと気づきます。そのアカメへ、ヤノハはナツハを殺さないよう、指示を出します。イクメは、楼観にある鏡以外の全ての鏡を集めるよう、ヤノハに指示されたことに驚きますが、それが暈(クマ)との和議の条件だ、と大和は説明します。10日後に鞠智彦の兵が来るまでに、全ての鏡を宝殿に移すよう、ヤノハはイクメに指示します。それは和議ではなく敗北だ、と反対するイクメに対して、那(ナ)・伊都(イト)・末盧(マツロ)・都萬(トマ)の各国の王に、自分が会見したいと書状を送るよう、ヤノハはイクメに命じます。訝るイクメに対して、これは同盟の申し出で、長い睨み合いの始まりだ、とヤノハは説明します。

 阿閇島(アヒノシマ、現在の藍島と思われます)では、ワニという男性と穂波(ホミ)の重臣であるトモが会見していました。阿閇島のひび割れた岩は、月読命(ツクヨノミコト)が兎に化身し、跳ねた跡と言われている、とワニがトモに説明します。その話は月読命を奉ずるウサ一族の伝説ではないのか、とトモに問われたワニは、天照大御神を奉ずるワニ一族が、この一帯に巣くう月の兎を蹴散らす前の話だ、とワニは答えます。それ以来、阿閇島はワニ一族の領地になったのか、とトモに問われたワニは、ここにはどの国も近づけない、と答え、那の厳しい監視を突破して阿閇島まで来たワニを称えます。決死の覚悟だった、と言うトモに、そこまでして自分に会いに来たのは、日向(ヒムカ)を侵した不届き者、つまり山社を建国した日見子(ヒミコ)と名乗るヤノハのことだな、とワニに問われたトモは肯きます。すでに刺客を放ったと聞いたが、とワニに問われたトモは、日見子(卑弥呼)と名乗る女子(ヤノハ)は予想以上にしたたかで、千穂の鬼を制した日見子はサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の末裔なので、戦いを回避すべしと言う五支族の方々もいる、と答えます。古の五支族の結束を鈍らせるとは、聞きしに勝る曲者だな、とワニは言います。現状打開を模索するトモは、五支族再結束のため、サヌ王宗家のお言葉が必要だ、とワニに願い出ます。サヌ王が築いたとされる日下(ヒノモト)に参じたいのか、とワニに問われたトモは肯きます。しかし、穴門(アナト、現在の山口県でしょうか)の国から東は戦乱の真っただ中で、海路を選ぼうとも内海(ウチウミ、瀬戸内海でしょうか)には無数の海賊が跋扈しており、日下に生きて到達するのは万に一つも不可能だ、とワニは懸念します。するとトモは、だからワニの力が必要だ、と懇願します。古の五支族の中で、軍事力と航海術を併せ持つのはワニとアズミの二家だが、アズミは小舟での戦に長けた一族で、長い航海はワニ一族のみのお家芸だから、というわけです。しかし、外海(ソトウミ)に位置する阿閇島から内海に出るには難所中の難所である穴門の関を抜けねばならない、と懸念するワニに対して、その難所を抜ける秘密の航路を知るのもワニ一族と聞いている、とトモは言います。トモの決意が堅そうなのを見て、ワニも決意を固めます。ワニ一族が日下の国に向かうのは百年ぶりとのことで、ワニも日下がいかなる国となっているのか、知りません。

 山社では、神聖な鏡を全て暈に差し出すことに、クラトが疑問を抱いていましたが、日見子(ヤノハ)には自分たちの見えない景色が見えるので案ずるな、とミマアキは言います。ヤノハはこの決断にまだ不満なイクメに対して、それ以上の貢ぎ物を鞠智彦から受け取るのだ、と説明します。それは、犬と狼を率いるナツハでした。ヤノハは参上したナツハに、獣を自在に操る技は見事だった、と声をかけます。まだ少年のナツハが犬と狼を率いていることに、ミマト将軍もヌカデも驚きます。身体の左側半分だけ黥を入れられているナツハは、この時代の価値観では醜いとされますが、醜いどころかなかなか美しいではないか、とヤノハがナツハに声をかけ、ヤノハが不敵な表情を浮かべるところで、今回は終了です。


 今回は、ヤノハとナツハとの対面までが描かれました。まず気になるのは、イサオ王を殺すよう、ヤノハに示唆された鞠智彦の返答ですが、今回は明示されず、鞠智彦の思惑は今後明かされていくのでしょう。作中ではトメ将軍とともに屈指の大物と描写されている鞠智彦ですが、イサオ王は鞠智彦を上回るような大物で、鞠智彦も畏れているような場面がありましたから、鞠智彦がヤノハの提案を受けて、イサオ王にどう対処するのか、注目されます。暈は『三国志』の狗奴国でしょうから、ヤノハが建てた山社国(邪馬台国)とは対立する、と予想されます。しかし、ヤノハの鞠智彦への提案からは、両者の対立は表向きで、裏では和議が結ばれている、とも考えられます。そうすると、鞠智彦がイサオ王を殺すか失脚させるのかもしれません。ただ、『三国志』によると、卑弥呼(日見子)を擁立する国々と狗奴国は戦っていたとありますから、鞠智彦はイサオ王を殺せず、山社と暈との戦いが始まり、長く続くのでしょうか。もっとも、これも山社というかヤノハが魏にそう説明しただけで、実際は山社と暈との間で「冷戦」が続いているのかもしれません。

 トモとワニとの会見は、サヌ王が建てたとされる日下がいよいよ作中で登場することを予感させ、たいへん楽しみです。ただ、日下が現在どうなっているのか、九州の人々は知らないようです。本作では邪馬台国は現在の宮崎県にあったと設定されているようですが、最終的に倭国の「首都」は現在の奈良県、具体的には纏向遺跡一帯に移るのではないか、とも考えられます。日下がどこにあるのか、まだ作中では明示されていませんが、おそらくは現在の奈良県にあり、ヤノハの存命中に両者は接触し、何らかの和議が結ばれ、暈など一部を除き、西日本全域を統合する政治勢力(数十年前に一般的だった用語で言うと大和朝廷)が成立するのではないか、と予想しています。

 ヤノハとナツハがついに対面したことも注目されます。ナツハはヤノハの弟であるチカラオだと予想しているのですが、ナツハを見たヤノハは、ナツハが弟だと気づいていないようです。ヤノハは弟の顔を忘れてしまったようですから(第17話)、単に気づいていないだけかもしれませんが、ナツハがヤノハとは無関係の人物である可能性も考えられます。ナツハの方も、ヤノハを見てもとくに動揺した様子を見せません。ナツハも、姉の顔を忘れてしまった可能性もありますが、郷里を海賊に襲われたさい、義母を見殺しにして自分を見捨てた、と姉のヤノハを恨んでおり、そのため、ヤノハに復讐しようとしているのかもしれません。ナツハが、ヤノハを深く恨んでいるヒルメを慕っているのも、単に亡き義母の面影を追いかけているのではなく、ヤノハへの強い憎悪を抱く「同志」だからなのかもしれません。また、ナツハが驚愕した、ヒルメから与えられた使命がどのようなものなのかも気になります。もっとも、ナツハがヤノハの弟ではない可能性もあるので、また別の背景があるのかもしれませんが。今回は、サヌ王一族が近いうちに登場することを予感させる描写もありましたし、今後ますます壮大な話が展開されるのではないか、と期待されます。次回もたいへん楽しみです。

離島における進化

 離島における進化についての研究(Liu et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。何百万年もの間、大洋に浮かぶ島々は生物多様性の宝庫であり、固有の種が繁栄してきました。離島で動植物がどのように定着し進化するのか、という疑問に対してさまざまな理論が提示されていますが、長い時間軸で発生する進化過程の考え方を検証することは、長年の課題となっていました。近年はDNA解析や3Dイメージングや計算科学といった最先端技術により、生物相の歴史的な多様化プロセスの分析が可能となりました。

 この研究は、フィジーの南太平洋群島におけるアリの進化的・生態学的変化を調査し、離島で進化がどのように発生するかについて、従来の理論を検証しました。フィジーのように大洋の遠隔にある小さな島々は、生態学的過程と進化的過程の相互作用の研究のためには最適な、「自然の実験場」のような機能を果たしてくれます。しかし最近まで、アリに関する研究はさほど多くありませんでした。そこでこの研究は、フィジーに生息する種数の最も多いウロコアリ属のうち、罠型顎を持つアリのアギトアリに焦点をあて、2007年のフィジーにおける現地調査で収集された多数の標本を分析しました。

 この研究は、アギトアリで観察された、島に侵入してからの時間経過に伴う外部形態の変化と分布の変化が、どのように「タクソン・サイクル」と呼ばれる仮説理論に適合しているのか、分析しました。タクソン・サイクル理論によれば、種は島に定着した後、分布範囲を拡大し、やがて衰退していき、時として絶滅するという、予測可能な「ライフサイクル」をたどります。また、この周期は、別の新たな定着者によって繰り返されます。

 この研究は、フィジー諸島固有のウロコアリ属種のDNAを解析しました。この種はこれまでフィジーの島々でしか見つかっていない固有種です。また、地域的および世界的に分布しているウロコアリ属に近縁なアリの標本も収集対象に含まれました。DNA配列に基づいて系統樹が構築され、それぞれの種がどれほど系統的に近縁かどうか、示されました。その結果、フィジーに固有のアギトアリ種の14種すべてが、複数のコロニーからではなく、単一のコロニーから派生した、と明らかになりました。

 これらの結果は、タクソン・サイクル仮説で想定されることと矛盾します。この仮説においては、後から外来種が到着して定着し、拡散と衰退の新たな分類群周期が始まる、と考えるからです。定着化が繰り返されなかった理由として、最初に到来したアギトアリの定着者らが多様化し、適した生存場所をすべて占領してしまったため、新参の外来種の進入の扉を閉ざした可能性が指摘されています。また、フィジー諸島は地理的にどこからも隔離されているため、新参の外来種自体がやって来なかった可能性も指摘されています。

 タクソン・サイクル仮説に従えば、種は島に定着した後、各生息地で生存に適した場所(ニッチ)に特殊化しながら生息範囲を大幅に拡大させます。フィジーに固有の14種のアギトアリの分布を調べたところ、定着してからまもなく、最初の系統が2つに分かれ、1つの系統は低地に生息地を拡大させ、もう1つの系統は高地で生息地を拡大した、と明らかになりました。さらに、アギトアリの主要な形態的特徴を測定し、適応放散によって生存するためのニッチを確立したのかどうか、検証されました。

 適応放散は、しばしば離島で発生します。最も有名な例は、ダーウィンフィンチというガラパゴス諸島に生息する鳥についての研究です。種数や外部形態が多様になるという現象は、多くの場合、競争相手や捕食者が欠落することで、アリの適応放散を可能にするニッチ空間が多いためです。マイクロCTスキャナーの使用により、フィジーのそれぞれのアリ種の3Dモデルが作成され、アリの体や顎(下顎の骨)や眼のサイズも測定されました。この分析により、各種の生息ニッチに関係したアリの多様性は適応放散の結果である、と明らかになりました。たとえば、高地に分布する系統のアリは、体をより大きく進化させ、大型の獲物を捕獲することが可能になりました。これらのアリはまた、狩りの仕方の決め手となる短い下顎を発達させました。

 タクソン・サイクル仮説では、種が、特殊化した生息場所(ニッチ)に次第に適応するにつれ、個体数および生息地の範囲が減少すると予測していますが、この予測は、高地に住むフィジーのアギトアリにのみ当てはまっていました。また、高地に生息する種の個体群が時間とともに小さくなり、個体群間の遺伝的変異が大きいことも明らかになりました。これは、この種がフィジー諸島全体に分散し繁殖して(遺伝子交流)する能力が低いことを示唆しています。この競争力の喪失は、フィジーにおける現在進行中の大きな環境問題である森林破壊の脅威と相まって、古くから分布するこれらの特殊なアリ個体群の存続をさらに危うくする、と懸念されます。生息地が地理的に限られ、分散する能力も限られているこれらの固有種は、森林破壊によって種の絶滅を早められてしまう可能性があります。

 今後の計画として、集団ゲノミクスと系統進化学および形態学研究を組み合わせた分析アプローチが、フィジーのすべての種のアリに適用されることが予定されています。アギトアリのデータが、タクソン・サイクルの仮説とどの程度密接に一致しているかは、まだ明らかではありませんが、昨年発表されたフィジーのオオズアリ属のアリにおける調査研究と同様に、仮説を「部分的にのみ証明した」、と言えます。フィジーの島々における進化が、仮説により予測可能な段階をたどるのか、または毎回異なるランダムな過程をたどるのかどうか判断するには、より多くのデータが必要です。


参考文献:
Liu C. et al.(2020): Colonize, radiate, decline: Unraveling the dynamics of island community assembly with Fijian trap‐jaw ants. Evolution, 74, 6, 1082–1097.
https://doi.org/10.1111/evo.13983

ネアンデルタール人から非アフリカ系現代人へと再導入された遺伝子

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)から非アフリカ系現代人へと再導入された遺伝子に関する研究(Rinker et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。この研究はすでに昨年(2019年)査読前に公開されており、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)から現生人類(Homo sapiens)への遺伝子移入の機能的結果と適応度に関する研究で引用されていたので、当ブログでもすでに言及していました(関連記事)。

 現代人でユーラシア集団はアフリカ集団と比較して人口が多いにも関わらず、遺伝的多様性は低い、と明らかになっています。この不均衡は、ユーラシア現代人の祖先である現生人類集団が、5万年前頃の出アフリカのさいに経験した遺伝的ボトルネック(瓶首効果)を反映しています。このユーラシア現代人の祖先集団の有効人口規模は、同時代のアフリカ集団の20% 未満と推定されています。この出アフリカボトルネックとその後の人口動態の結果として、何百万ものアレル(対立遺伝子)がユーラシア現代人集団の祖先で失われました。

 現生人類の出アフリカボトルネックの50万年以上前に、ネアンデルタール人および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の祖先を含むアフリカの他の人類集団がユーラシアへと移動しました。ネアンデルタール人とデニソワ人のDNA解析により、そのゲノムの復元が可能となりました。世界中の現代人のゲノムとネアンデルタール人のゲノムを比較すると、ユーラシアの現生人類が5万年前頃にネアンデルタール人と交雑した、と明らかになりました。この古代の遺伝子移入の遺産は、ユーラシア現代人のゲノムに反映されており、1~3%がネアンデルタール人由来と推定されています。

 ネアンデルタール人からの遺伝子移入は、ユーラシア集団にネアンデルタール人系統で派生した新たなアレルを導入しました。これらのアレルのうちいくつかは非アフリカ環境に適応していたので、ユーラシアの現生人類には有益でした。しかし、ネアンデルタール人との交雑は、現生人類と比較して有効人口規模が小さいため、有害なアレルが蓄積されることに起因して、遺伝的コストも伴います(関連記事)。ユーラシア現代人の古代型系統の分布はランダムではなく、ネアンデルタール人系統が一般的な多くのゲノム領域とともに、ネアンデルタール人系統の長い「砂漠(ネアンデルタール人由来のDNAが存在しない領域)」を伴います。これらのパターンは、遺伝子移入されたアレルへの選択と浮動の長期作用を反映しており、交雑直後に負の選択が最も強く作用します(関連記事)。

 ユーラシア現代人集団に残っているネアンデルタール人のハプロタイプの遺伝子移入されたアレルは、肌・免疫・神経疾患のリスクを含む多様な特徴と関連しています。たとえば、OAS1遺伝子座の遺伝子移入されたネアンデルタール人のハプロタイプは自然免疫反応と関連していますが、このハプロタイプは機能に影響を与える可能性のある祖先型アレルも有しています。ほとんどの先行研究は、現生人類におけるネアンデルタール人由来のアレル(NDA)の効果を特定して検証することに焦点を当ててきましたが、古代の交雑は、より古代的で機能的なアレルがユーラシア人のゲノムに再導入された経路として機能したかもしれません。

 本論文は、古代型と現代型とシミュレートされたゲノムの分析により、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入が、以前に失われた機能的な祖先型アレルを現生人類ユーラシア人集団に再導入した、という仮説を評価します。本論文の結果は、ネアンデルタール人集団がユーラシア現代人(時として全ての現代人)の祖先で失われた数十万の祖先型アレルの貯蔵庫として機能し、これらのアレルの多くはネアンデルタール人との交雑により再導入された後にユーラシア人で機能的効果を有した、と示します。


●RAとNDA

 現生人類系統とネアンデルタール人系統が分岐した後、現生人類系統において祖先で分離した多くのアレルが失われました。その一部は全ての現生人類で失われましたが、他は、たとえば出アフリカボトルネックのさいにユーラシア集団でのみ失われました。ネアンデルタール人やデニソワ人のような非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)では継承された、現生人類の全てや一部集団で失われたアレルは、古代型ホモ属との交雑経由で現生人類ユーラシア集団に再導入された可能性があります。ユーラシア集団内では、そのような古代型ホモ属との交雑により再導入されたアレル(RA)は、まず遺伝子移入されたハプロタイプに限定され、多くは古代型ホモ属の派生的アレルとの高い連鎖不平衡(LD)を保持します。

 以下、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先に存在したアレルは「祖先型人類アレル」と呼ばれます。遺伝子移入されたネアンデルタール人のハプロタイプに関するユーラシア人でのみ観察された祖先人類アレルは「再導入されたアレル」(図1b)、ネアンデルタール人系統で最初に出現したアレルは「ネアンデルタール人型派生アレル(NDA)」(図1a)と呼ばれます。アフリカ人集団の年代と存在に基づき、RA間のいくつかの異なる進化史も区別されます(図1c)。まず、祖先型アレルが人類とチンパンジーの共通祖先に存在していた場合(RAA)と、人類系統がチンパンジー系統と分岐した後から、ネアンデルタール人系統と現生人類系統とが分岐する前に人類系統で生じた場合(RHA)です。それぞれ、現生人類アフリカ人系統で維持されている場合と、失われた場合が想定され、AFR+とAFR–で表されます。ただ、RHAの特定にはサハラ砂漠以南のアフリカ現代人集団においてアレル頻度が1%以上必要となるので、現代人のゲノムデータだけでは推測できず、本論文では分析対象外となります。本論文の目的は、ユーラシア現代人におけるRAの存在と機能を評価し、それをNDAと対比させることです。以下、本論文の図1です。
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●ユーラシア現代人集団に存在する数十万のRA

 まず、ユーラシア現代人3集団(ヨーロッパとアジア東部および南部)において、ネアンデルタール人の多様体と完全な連鎖不平衡にあるものの、ネアンデルタール人系統の派生型ではなく、祖先型である多様体が特定されました。本論文の手法は、多くのRAがどのNDAとも完全な連鎖不平衡を保持していないと予想されることから、おそらくは保守的なものです。RAは広く見られ、遺伝子移入されたハプロタイプの80%以上はRAsを含んでおり、ハプロタイプあたり平均17のRA となります。

 全体では、209176のRAが特定されました。アジア南部および東部集団は、それぞれヨーロッパ集団よりも多くのRAを有しており、おそらくは人口史の違いと、アジア東部集団で以前に観察されたより多いネアンデルタール人系統を反映しています。各集団で観察されたRA/NDA比は、ヨーロッパが0.46、アジア南部が0.65、アジア東部が0.53で、シミュレーション予測と一致します。RAはNDAよりもクラスタ化されており、ハプロタイプの長さとあまり相関していません。


●RAとNDAで異なる機能効果予測

 RAとNDAはネアンデルタール人のハプロタイプでユーラシア集団に導入されましたが、異なる起源と進化史を有しています。NDAは最初に有効人口規模の小さいネアンデルタール人集団で出現したので、有害な効果を有しており、遺伝子移入されたユーラシア集団では負の選択を受けた可能性が高い、と予測されます。対照的に、RAはより大きな祖先人類集団に起源があり、耐性のある可能性がより高い、と示唆されます。多様体効果はこの予測を支持し、RAはNDAよりも良性の傾向が見られます。これらの結果は、NDAがRAよりも多くの負の選択係数を有する、と予測する進化モデリングと一致します。NDAはRAと比較して、調節要素が枯渇しています。

 RAの中にはいくつかの異なる進化史が存在したかもしれず(図1c)、それぞれは異なる機能的予測を示唆します。より古い年代だと、再導入された祖先型アレル(RAA)は、再導入された人類型アレル(RHA)よりも有害性が低い、と予測されます。RAA の約70%では、対応するアレルは依然としてアフリカ集団で存続していますが(RAA・AFR+型)、アジア東部集団の22%、アジア南部集団の28%、ヨーロッパ集団の30%程は、アフリカ現代人では存在しません(RAA・AFR−型)。これらのRAA・AFR−型多様体は、派生的アレルがネアンデルタール人から遺伝子移入される前の現生人類において高頻度で、現生人類特有の正の選択に起因したかもしれない可能性が高い事例を表しています。これらのRAA・AFR−型多様体は、現在では遺伝子移入のみに由来して現生人類集団に存在します。アフリカ集団におけるこれらの多様体の喪失と一致して、RAA・AFR−型多様体は、ユーラシア集団においてRAA・AFR+型多様体よりも低頻度で存在します。


●遺伝子移入ハプロタイプと計測的な人類の特徴および疾患リスクとの関連

 以前のゲノム規模関連研究(GWAS)では、遺伝子移入されたハプロタイプの多様体と人類の表現型とが関連づけられました。RAの中にはこれら以前の分析で考慮されたものもありますが(ただ、以前の分析ではRAと認識されていませんでしたが)、アフリカ現代人に存在するアレルは、これらの研究がNDAに焦点を当てていたため、考慮されませんでした。ユーラシア人のRAは2197の有意で顕著な関連をGWASカタログとタグづけし、NDAでは2547となります。このパターンは、ヨーロッパ人の遺伝子移入されたハプロタイプと関連に分析を限定しても類似していました。全体的に、NDAと関連した表現型の70%以上は、少なくとも1つのRAと等しく強い関連性を有します。

 NDAとRAによりタグ付けされた表現型の多くは、頭蓋底幅や身長などのように形態計測可能で、他のいくつかは男性脱毛症や皮膚の色素沈着などのような外部特徴に影響を及ぼします。RAは、癌やアルツハイマー病や双極性障害のような神経疾患を含む多くの病気と関連しています。ネアンデルタール人系統から分岐した後、これらの遺伝子座において派生的アレルが現生人類集団で固定されるようになり、これらの祖先型アレルは遺伝子移入によってのみ現代人に存在するので、RAA・AFR−型は興味深い現象です。

 たとえば、微生物群集との相互作用に潜在的な役割を果たす上皮組織で発現するゲル形成ムチンであるMUC19遺伝子近くのRAA・AFR−型(rs11564258)は、クローン病と炎症性腸疾患の両方と強く関連しています。この遺伝子座は、潜在的な適応的遺伝子移入の走査で特定されました。また、RAA・AFR−型と、顔面形態やBMIや睡眠表現型や喫煙者の代謝水準体重との間の関連も見つかりました。全体的にこれらの結果は、遺伝子移入されたハプロタイプと関連する特徴の数を拡大し、これらのハプロタイプの原因となる遺伝子移入された多様体候補を解釈する進化的背景を提供します。


●RAとNDAで異なる表現型との関連パターン

 RAとNDAとの間の高い連鎖不平衡は、あらゆる関連の原因としてのいずれかの遺伝子移入された多様体クラスの直接的な識別を防ぎます。しかし、ヨーロッパ人における有意なGWAS特性関連を有する遺伝子移入されたハプロタイプは、関連のない遺伝子移入されたハプロタイプと比較して、RAのより高い割合を含みます。NDAと比較してのRAの濃縮は、機能的なNDAに対する選択、および/あるいはRAを含む機能的ハプロタイプのより大きな耐性を反映しているかもしれません。RHAとRAA・AFR−型ではなく、RAAとRAA・AFR+型を考慮すると、この濃縮は維持されます。RAA・AFR−型の違いの欠如は、これらの箇所の数の少なさと、ヨーロッパ人におけるより低いアレル頻度の結果に起因するかもしれません。

 ネアンデルタール人のハプロタイプと表現型との間の関連に関する以前の分析では、遺伝子発現への影響の役割が強調されました。そこで、遺伝子型組織発現(GTEx)計画で取り上げられた48組織における、発現量的形質遺伝子座(eQTL)間のRAとNDAの出現率が評価されました。遺伝子移入されたeQTLはGTExの組織全てで見つかり、ヨーロッパのRA(16318)の18%とヨーロッパのNDA(31822)の16%が少なくとも1組織でeQTLです。各RAが少なくとも1つのNDAと関連している一方で、遺伝子移入されたハプロタイプのRAとNDAの数はある程度相関しています。

 GWAS遺伝子座の分析のように、eQTL を有さない遺伝子移入されたハプロタイプと比較して、少なくとも1つの遺伝子移入されたeQTL を有する遺伝子移入されたヨーロッパ人のハプロタイプでは、RAの有意に高い割合とNDAのより低い割合が示されます。RAA・AFR−型を除く全てのRA区分は、有意に濃縮されました。活性組織により遺伝子移入されたハプロタイプを含むeQTLを階層化しても、この結果は当てはまります。

 遺伝子移入されたeQTLの中で、NDAに対するRAの比率は組織により異なります。13組織では、RA/NDA比が全体的にゲノムよりも有意に高くなります。たとえば、遺伝子移入された前頭前皮質eQTLの間では、RA/NDA比は0.83ですが、全ての遺伝子移入された領域で観察された全体的な比率は0.47です。遺伝子移入されたハプロタイプは、とくに脳において、遺伝子調節を制御する、と以前の研究では示されてきました。脳組織は、RAのeQTLで強化された13組織のうち8組織で構成されており、おそらくは脳全体の共有された調節構造に起因します。RAのeQTLはまた、腎臓・副腎・精巣・坐骨神経でも豊富です。RAのeQTLは、粘膜組織と唾液腺からの遺伝子移入されたeQTLでは予想よりも少なくなっています。まとめると、eQTLを含む遺伝子移入されたハプロタイプは、RAのより高い割合を含み、対称的にNDAの割合は低く、RAのeQTLは組織間で均一に分布していません。


●ヨーロッパとアフリカ集団におけるRAの遺伝子調節関連

 上述のように、形質および遺伝子発現と関連するほとんどの遺伝子移入されたハプロタイプは、RAを含みます。しかし、連鎖不平衡が高いと、特定のRAもしくはNDAが原因なのかどうか、判断困難となります。そこで、関連するNDAとは無関係に、RA調節活性が評価されました。まず、ヨーロッパ人とアフリカのヨルバ人のリンパ芽球様細胞株(LCL)の集団間eQTLデータが分析されました。ネアンデルタール人型ではない遺伝子移入されたハプロタイプで、ヨーロッパではRAであり、ヨルバ人に存在するeQTLが特定されました。もしユーラシア人に再導入された全てのアレルが、ヨーロッパ人とヨルバ人の両方で遺伝子発現に類似の影響を及ぼす場合、ヨルバ人には存在しない関連したNDAよりもむしろ、RAが発現に影響を及ぼし、遺伝子移入は遺伝子調節効果を有する祖先的アレルを再導入した、と示唆されます。

 LCLのeQTLデータでは、2564のRAがヨーロッパ人ではeQTL、180のRAがヨルバ人ではeQTLで、42のRAが両集団でeQTL効果を示しました。これらRAのeQTLは、9遺伝子の発現に影響を及ぼします。ヨーロッパ人のRAは、ヨルバ人の対応するアレルで観察されたものと同様に、効果の同じ方向性と類似した程度を有します。たとえば、SDSLおよびHDHD5の両遺伝子はそれぞれ、4つの集団間のRAのeQTLを有しており、これはヨーロッパ人とヨルバ人の両方で遺伝子発現に類似した影響を及ぼします。これらの結果は、RAがNDAとは無関係にユーラシア人の遺伝子調節に影響を及ぼす、と示唆します。


●RAがNDAとは無関係に発現に影響を及ぼす可能性

 RAが関連するNDAとは無関係にヨーロッパ人の発現に直接的に影響を及ぼすのかどうか、決定するために、集団間eQTLの1つにおいて、遺伝子移入されたアレルの組み合わせの調節活性が機能的に分析されました。HDHD5遺伝子座は、4つの集団間のRAeQTLと、ヨルバ人には欠けておりヨーロッパ人では1つの遺伝子移入されたNDAを有する、2000塩基対領域を含んでいるので、対外実験の標的として適しています。HDHD5は22番染色体に位置し、猫目症候群領と関連する染色体異常と関連するタンパク質を含む加水分解酵素領域です。

 NDAとRAの4通りの組み合わせを用いて、LCLのルシフェラーゼ受容体分析が行われました。遺伝子移入されていないヨーロッパ人の配列を有する受容体構成は、基準を超える有意なルシフェラーゼ発現を引き起こしました。この活性は、関連するNDAを有する場合と有さない場合のRA(NDA–RAおよびEUR–RA)と、RAを有さないNDA(NDA–EUR)を有するよう合成された構成と比較されました。両方のRAを有する配列は、有意により低いルシフェラーゼ活性を有し、NDA–RAとEUR–RA配列の活性に有意な違いはありませんでした。

 これらの結果は、集団間のeQTLデータと一致し、活性の変化がNDAとは無関係と示します。ヨーロッパ人とヨルバ人のLCLからの超並列レポーターアッセイ(MPRA)データは、1つの特有の集団間RAeQTLと関係しています。まとめると、これらの集団間eQTLとルシフェラーゼ受容体とMPRAの結果は、HDHD5遺伝子座における調節効果の再導入にRAが関与している証拠を提供します。ルシフェラーゼ分析とMPRAデータは、ヨーロッパ人のゲノム内のこれらRAの機能的寄与が、遺伝子移入されたハプロタイプに存在するNDAとは無関係だった、と示します。


●RAがNDAよりも遺伝子調節活性を有している可能性

 MPRAは最近、K562およびHepG2細胞の隣接配列400塩基対における、590万の多様体の遺伝子調節効果を定量化しました。本論文では、調節活性で検証された全てのユーラシア人の遺伝子移入されたアレルが特定されました。互いに400塩基対内のものを除外することで、42016のRAと26063のNDAの独立した調節効果を特徴づけることができました。合計で、検証されたRAのうち527はNDAとは独立して異なる調節活性を有し、252のNDAは、RAとは独立して異なる活性を有します。各ユーラシア集団では、RAはNDAよりも独立した調節活性を有する可能性が有意に高い、と示されます。NDAと比較してRA間の活性の強化は、最小限の活性閾値とRA区分の範囲全域で保持されます。

 活性のあるRAの割合は、遺伝子移入されていない多様体の場合の割合と類似していますが、NDAは一貫して、遺伝子移入されていない多様体よりも活発である可能性が低くなっています。少ないアレルの頻度と、遺伝子移入された多様体への遺伝子移入されていない多様体の連鎖不平衡分布とを一致させても、この結果は変わりませんでした。したがって、NDAはRAと比較して有意により低い独立した調節活性を有していますが、RAは遺伝子移入されていない多様体と調節活性の類似した水準を有します。


●議論

 本論文は、ネアンデルタール人と現生人類の間の交雑経由での再導入にのみ起因する、ユーラシア現代人における何十万ものアレルの存在を示しました。ほんどのNDAはRAと高い連鎖不平衡にあり、シミュレーションと計算の結果、RAは現生人類においてNDAよりも耐性がある、と示唆されました。じっさい、ゲノム規模関連とeQTL を有する遺伝子移入されたハプロタイプでは、RAはNDAよりも高頻度です。本論文では、遺伝子移入されたハプロタイプのRAが、関連するNDAと独立した遺伝子調節効果を有する、と示す複数の証拠が提示されました。

 遺伝子移入されたアレルの異なる組み合わせの体外実験分析は、連鎖不平衡を解きほぐす詳細な実験的手法を提供します。eQTLとMPRAのデータを用いて、少なくとも500のRAがNDAとは独立して調節活性を有する、と示されました。これらの分析からさらに、NDAはRAと比較して調節活性が低下しており、RAは遺伝子移入されなかった多様体と似た水準の活性を有する、と示されました。これは、調節効果を有するNDAに対する選択と一致します。これらの結果に照らすと、遺伝子移入されたアレルの異なる進化史が古代の交雑の分析では考慮されねばならない、と結論づけられます。

 RAは一部の組織、とくに脳の遺伝子移入されたeQTLで濃縮されていますが、他はそうではなく、逆にNDAは枯渇しています。これらのパターンは、脳と精巣におけるネアンデルタール人のアレルのアレル特有の下方制御、および脳組織におけるネアンデルタール人のeQTLの濃縮と定量的に一致します。これらを踏まえて、RAとNDAの調節効果は、遺伝的多様性と調節環境への制約の強さに基づいて組織間で異なっている、と結論づけられます。これを支持するのは、神経組織と精巣は遺伝子発現の選択水準が極端で(神経組織は高く、精巣は低い、とされます)、有意なRA/NDA比の違いを示す、ということです。ネアンデルタール人のアレルに対する選択の証拠のない追加の組織全体のRAeQTL濃縮の範囲を考慮すると、RA/NDA比の違いは、各組織の調節制約内で作用する選択圧の混合の結果と提案されます。

 とくに、二つの排他的な進化のシナリオは、観察されたRAとNDAとの間の違いを説明できるかもしれません。まず、遺伝子調節機能を有する遺伝子移入されたハプロタイプのRAと比較してのNDAの枯渇は、一般的に(関連記事)、およびある組織で(関連記事)、および調節領域全体で、以前に示されたNDA選択を反映しているかもしれません。この選択により、NDAの豊富なハプロタイプの調節領域は枯渇します。じっさい、ネアンデルタール人アレルと脳と精巣の既知のアレル特有の下方制御を有する2つの組織は、遺伝子移入されたeQTL 間のNDAで有意に枯渇した組織の中にあります。このシナリオは、MPRA分析でRAと他のヒト多様体両方と比較しての調節活性のNDAの枯渇により、さらに支持されます。

 第二に、遺伝子移入されたRAは、関連するNDAへの負の選択を緩和するか、自身へと選択さえされるかもしれません。このシナリオでは、OAS1遺伝子座で示唆されているように、古代の交雑は有益なもしくは少なくとも有害ではない調節機能を有するアレルを回復し、これらのRAはいくつかの遺伝子移入されたハプロタイプの維持に寄与しました。このシナリオの証拠を評価するため、最近の正の選択の証拠を伴う領域2セットの遺伝子移入が分析されました。強い最近の正の選択を受けた可能性の高い遺伝子移入されたハプロタイプ(関連記事)は、有意により低いRA水準を有しており、RAが遺伝子移入後の正の選択のほとんどの事例の動因ではなかった、と示唆されます。

 また、現生人類と古代型ホモ属との分岐後に現生人類系統で正の選択を受けたと予測される、ゲノム領域のRA構成が分析されました。これらの領域における遺伝子移入されたハプロタイプは、ユーラシアの各集団でRAへ有意に濃縮されていました。これは、高いRA/NDA比を有する遺伝子移入されたハプロタイプが、現生人類特有の重要な領域に保持された可能性が高い、と示唆します。それにも関わらず、本論文の結果は、NDAは全体的に耐性が低く、機能的背景においてRAと比較して枯渇が促進された、と示します。

 さらに、RA間の異なる進化史は、現生人類におけるRAの効果に影響を与えるかもしれません。アフリカ現代人(RAA・AFR+型とRAA・AFR−型)およびヒトとチンパンジーの祖先(RAAとRHA)に基づいて分類されたRAの分析から、RAの区分におけるいくつかの違いが明らかになりました。たとえば、アフリカ現代人に存在するRAAはユーラシア人において高頻度で、アフリカ現代人に存在しないRAA と比較して、GWASもしくはeQTLでハプロタイプが豊富です。これは、再導入時に、RAA・AFR+型がRAA・AFR−型よりも耐性があることを示唆します。しかし、ユーラシア人におけるRAA・AFR−型は少なく、違いを検出する能力が低下します。同様に、多様体効果予測アルゴリズムからは、より古いRAAはより新しいRHAよりもわずかに良性と示唆されます。またRAAは、GWAS形質関連では濃縮されますが、RHAは違います。

 一部の分析で見られるRA区分間の違いにも関わらず、全てのRAはNDAと異なります。RAは現生人類の祖先に遺伝的背景があり、選択がより効率的に作用する、相対的により大きな人口で維持されてきたからです。以前の研究では、遺伝子移入経由での現生人類への弱い有害性のNDAの伝播における要因として、ネアンデルタール人集団の小さな有効人口規模が示唆されました(関連記事)。対照的に、相対的に有効人口規模の大きい祖先人類集団におけるより効率的な選択をRAはより長く受けているので、全てのRA区分がほとんどの分析でNDAと異なる理由を説明できます。

 また本論文の結果は、同じような年代の遺伝子移入されていない多様体と比較して、RAの機能的効果の異なる予測をすべきなのか、という問題を提起します。RAの中で、異なる進化史はいくつかの分析で異なる機能的特性を示します。上述のように、RAは何十万年もネアンデルタール人系統で隔離されていました。結果として、RAは遺伝子移入されていないアレルと比較して、現生人類においてはより有害な効果を有する、と予測できるかもしれません。しかし、本論文の分析では、とくにNDAと比較した場合、RAは一般的に遺伝子移入されていない多様体と同様に作用します。したがって将来の研究では、ネアンデルタール人と現生人類との交雑を解釈するさいには、遺伝子移入された多様体の間の異なる進化史が考慮されねばなりません。

 RAのさらなる分析は、古代人類集団の遺伝学の研究にも関連します。たとえば、ユーラシア人に存在する何万ものRAがアフリカ現代人集団には存在しません。これら古代の多様体は、アフリカ人とユーラシア人との間の自然選択の効率における違いに関する継続中の議論に情報を提供するとともに、50万年以上前にアフリカに存在した古代の遺伝的多様性への解明の手がかりを提起します。最後に、本論文はネアンデルタール人に焦点を当てましたが、おそらくデニソワ人から現生人類への遺伝子移入も、とくにデニソワ人系統を高水準で有するアジア人集団で、失われたアレルを再導入しました。

 結論として、本論文が示したのは、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入は、現生人類ユーラシア人集団の祖先で失われたアレルを再導入し、これら何百ものRAが機能している、ということです。これは、人類集団間の共有された祖先の多様性を説明する重要性と、交雑事象がアレル多様性のボトルネックの効果を調整するかもしれない方法を示します。RAとその異なる進化史は、ハプロタイプとゲノムの両方の規模におけるネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入の分析において、考慮されねばなりません。


参考文献:
Rinker DC. et al.(2020): Neanderthal introgression reintroduced functional ancestral alleles lost in Eurasian populations. Nature Ecology & Evolution, 4, 10, 1332–1341.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1261-z

『卑弥呼』第4集発売

 待望の第4集が発売されました。第4集には、

口伝23「膠着」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_39.html

口伝24「交渉」
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_18.html

口伝25「光」
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_49.html

口伝26「剛毅」
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_14.html

口伝27「兵法家」
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_40.html

口伝28「賽は投げられた」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_16.html

口伝29「軍界線」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_39.html

口伝30「人柱」
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_8.html

が収録されています。連載時には「第*話」となっていましたが、単行本では「口伝*」となっています。単行本では「真説・邪馬台国伝」との副題がつけられています。それぞれの話については、上記の記事にて述べているので、ここでは繰り返しません。第23話が掲載された『ビッグコミックオリジナル』2019年9月5日号は昨年8月20日の発売ですから、もう1年近く前のことになります。第4集では「鬼」たちとの接触の直前までが描かれ、単行本でしか本作を読んでいない人は、続きが気になるところでしょう。その意味で、上手い区切り方だと思います。

 本作の魅力は、話の壮大さにある、と私は考えています。すでに、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の一族が日向(ヒムカ)から東方へと向かった話が作中で語られていますから、今後、現在の奈良県、もっと具体的に言えば纏向遺跡一帯も舞台になるのではないか、と予想されます。さらに、おそらく第6集に所収されるでしょうが、曹操や劉備とともに遼東の公孫氏も言及されており、朝鮮半島と中華王朝も関わってくるのではないか、と思われます。日本の古墳では呉の年号銘の銅鏡も発見されていますから、あるいは呉も関わってくるかもしれず、その点も楽しみです。

大相撲七月場所千秋楽

 これまで当ブログでは名古屋場所と表記してきましたが、東京の両国国技館開催となったので、七月場所としました。今年(2020年)は新型コロナウイルスの流行により、春場所が無観客での開催、夏場所が中止となり、七月場所は名古屋ではなく東京開催で、観客は2500人までに制限されました。色々と批判はあるでしょうが、千秋楽まで無事開催されたことは何よりでした。2011年もそうでしたが、今年も、「平穏な日常」がいかに大切なものなのか、またそれがいかに脆いものなのか、改めて痛感しています。

 優勝争いは、白鵬関が10日目に全勝で単独首位に立ち、このまま独走するのかと思ったら、11日目・12日目と連敗し、しかも膝を痛めて13日目から休場に追い込まれました。白鵬関といえども、出稽古禁止で調整が難しかったこともあるでしょうし、全盛期よりも力が落ちていることもあるのでしょう。全盛期の白鵬関ならば、こうした展開で優勝を逃すことはほとんどなかったでしょう。2日目から途中休場となった鶴竜関はもっと深刻で、いつ引退しても不思議ではありません。横綱不在が近いうちに現実化するかもしれず、相撲協会も不安でしょう。

 白鵬関の途中休場により、優勝争いは、次の横綱候補である新大関の朝乃山関と、幕内に戻ってきた元大関の照ノ富士関が引っ張ることになりました。両者は13日目に1敗同士で対戦し、照ノ富士関が上手さと力強さを見せて勝ちました。14日に、照ノ富士関は正代関に敗れて2敗となり、朝乃山関は照強関の注文相撲にはまった感じで負けて3敗となりました。これで、優勝争いは2敗の照ノ富士関と3敗の朝乃山関・正代関・御嶽海関に絞られました。

 千秋楽は、結び前の一番で照ノ富士関と御嶽海関が対戦し、結びの一番で朝乃山関と正代関が対戦するという、優勝争いに絡む4人の対戦が組まれました。照ノ富士関が勝てば優勝が決まりますが、御嶽海関が勝てば久々の巴戦(3人では1994年春場所以来)になるという点でも、大いに注目されました。照ノ富士関と御嶽海関の一番は、照ノ富士関が外四つながら両上手を取って速攻で寄り切って勝ち、実に2015年夏場所以来となる2回目の優勝を決めました。結びの一番では朝乃山関が厳しい攻めで正代関を押し出して勝ち、12勝3敗としました。

 照ノ富士関の復活は見事でしたが、脆さもあり、全盛期の力にはまだとても及ばないと思います。しかし、大関再昇進は難しいかもしれないものの、関脇にまで戻る可能性は高そうです。御嶽海関と正代関が近いうちに大関に昇進するかもしれないとはいえ、朝乃山関は次の横綱の最有力候補と言えるでしょうが、まだ実力が足りないのは否めません。とはいえ、鶴竜関の引退が見えてきて、白鵬関も全盛期からは随分と衰えていますから、近いうちに横綱に昇進する可能性は低くないでしょう。ただ、今場所後半の崩れ方を見ると、横綱に昇進できるのか、不安も残ります。横綱不在を避けるためにも、朝乃山関にはもう一段階上の強さを身に着けてもらいたいものです。

 貴景勝関は11日目に勝ち越しを決め、12日目から休場となりました。貴景勝関は今場所明らかに状態が悪かったのですが、何とか勝ち越して角番を脱出できたのは何よりでした。貴景勝関は研究されてきており、怪我も絶えないため、押し相撲一本で横綱に昇進するのは難しそうで、白鵬関と鶴竜関が引退したとしても、大関の地位を維持するのが精一杯となりそうです。とはいえ、四つ相撲での貴景勝関の弱さを見ると、これから四つ相撲に変えようとしたら大関陥落の可能性は高そうですから、今後も押し相撲を貫くのがよいのでしょう。

ホラアナライオンのmtDNA解析

 絶滅したホラアナライオン(Panthera spelaea)のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Stanton et al., 2020)が公表さました。ホラアナライオンは更新世末(最後の化石記録は較正年代で14219±112年前)に絶滅するまで、全北区全域で頂点捕食者でした。ホラアナライオンは現生ライオンより大きく、更新世の洞窟芸術からは、ホラアナライオンには鬣がなかった、と示唆されます。しかしホラアナライオンは、集団生活や求愛儀式のようないくつかの行動的特徴を現生ライオンと共有していました。

 ホラアナライオンの分類に関しては議論があり、ライオン(Panthera leo)の亜種(Panthera leo spelaea)もしくはトラ(Panthera tigris spelaea)とより密接に関連している、と主張されてきました。とくに、ホラアナライオンと現生ライオンとの間の分岐年代の分子推定は、研究によりかなり異なっており、60万年前頃とも、293万~123万年前頃とも推定されています。以前の研究では、ATP8と制御領域の348塩基対に基づき、ホラアナライオンにおける二つの主要なmtDNAハプログループ(mtHg)が特定され、標本の年代とそのmtHgとの間には関連があり、一方のmtHgは41000年前頃に消滅した、と示されました。

 頭蓋と下顎の形態学的分析では、アラスカのヤクート(Yakutia)とカナダのユーコン準州のホラアナライオンはヨーロッパのホラアナライオンよりも小さいと示され、ベーリンジア(ベーリング陸橋)のライオンは異なる亜種(Panthera spelaea vereshchagini n.subsp)と結論づけられました。しかし、ホラアナライオンに関する全ての遺伝学的な先行研究は、小さなミトコンドリア断片のみを用いたか、限定的な標本数に基づいていたので、ホラアナライオン間およびホラアナライオンと現生ライオンとの間の系統的構造は、ほとんど未解決のままでした。

 この研究では、ホラアナライオンの全生息範囲を対象に、放射性炭素年代測定法の限界(5万年前頃)を超えた古い年代化石記録も含めて、31頭のホラアナライオンのミトコンドリアゲノム多様性が調査されました。また、複数の新たな放射性炭素年代が測定され、遺伝的データを利用しての曖昧もしくは放射性炭素年代測定法の限界を超えた年代の標本の年代推定と、ライオンとホラアナライオンとの間の分岐年代の推定と、ホラアナライオンの種内ミトコンドリア多様性の調査が可能となりました。以下、本論文で分析されたホラアナライオン標本の位置と年代を示した本論文の図2です。
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 ミトコンドリアゲノム分析では、ホラアナライオンと現生ライオンはそれぞれクレード(単系統群)を形成します。ホラアナライオン標本の年代は、おもに放射性炭素年代測定法に基づいていますが、それが利用できなかったり、限界年代(5万年前頃)を超えたりしたような場合は、遺伝学的に年代が推定されました。これらに基づき、ホラアナライオンと現生ライオンとの分岐は185万年前(信頼区間95%で291万~52万年前)と推定されました。これは以前の推定年代(293万~123万年前)とおおむね一致します。一方、全ゲノム配列を活用して、派生的アレル(対立遺伝子)と雄X染色体とミスマッチ率から、化石記録に依拠せずに推定された両者の分岐年代は50万年前頃です(関連記事)。放射性炭素年代のみを用いて分析した場合の両者の推定分岐年代は55万年前頃(396万~17万年前頃)です。本論文は、分子時計の不確実性も考慮して、より妥当と考えられる化石記録も考慮した古い推定分岐年代の方を採用しています。ただ、この推定年代は化石記録による較正に大きく依拠しているので、将来改訂される可能性もある、と本論文は指摘します。

 ホラアナライオンにおけるもっとも深い推定分岐年代は97万年前(信頼区間95%で161万~20万年前)で、他の個体群と最も早く分岐したA系統は、シベリア北東部のビリビノ(Bilibino)で2008年に発見された643394年前の1個体のみで代表されます。ただ、この標本の出所が不確かなことや、この標本と同一個体かもしれない他の標本の年代が61000年前や28700年前と推定されていることなどから、本論文はA系統の推定に関して注意を喚起しています。

 ホラアナライオンにおける次に深い分岐は578000年前(信頼区間95%で124万~108000年前)で、残りの標本はこのクレードBとクレードCに分類されます。クレードBには419000~28000年前頃の標本が、クレードCには311000~136000年前頃の標本が含まれます。興味深いことに、mtHgと地理との間には強い関連性がありました。クレードBとCの間には地理的重複もありますが、クレードBはほぼベーリンジアに限定され、1標本を除いてヤナ川の東方で発見されました。クレードCはオランダからシベリア東部までユーラシア全域に分布しますが、1標本を除いてベーリンジアでは見つかっていません。28000年前頃より新しい標本は全てクレードCに分類され、クレードBはホラアナライオンの絶滅の1万年以上前に消滅したかもしれません。以下、ホラアナライオンの系統関係を示した本論文の図1です。
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 本論文の結果は、ホラアナライオンが前期更新世に現生ライオン系統と分岐した、と示唆します。前期更新世は、159万年前頃のホラアナグマの分岐や、250万年前頃のアフリカとユーラシアのハイエナの分岐など、大型動物相の多様化において重要な時期だったようです。本論文の結果は、ホラアナライオンと現生ライオンを形態と遺伝的データに基づいて異なる種と仮定した以前の研究と一致します。mtHgに基づくと、ホラアナライオン系統では、971000年前頃にA系統とBC系統が分岐し、578000年前頃にB系統とC系統が分岐した、と推定されますが、いずれも完新世の前までに絶滅しました。これらの分岐は、現生ライオン亜種間の分岐よりもかなり古くなります。

 ホラアナライオンのB系統とC系統は中期更新世に分岐し、それ以降は異なる地域に分布していたようです。この地理的分布は、ホラアナライオンでもベーリンジア個体群の頭蓋と下顎がヨーロッパ個体群よりも顕著に小さい、という以前の知見と一致します。さらに、ホラアナライオンはベーリンジア個体群とヨーロッパ個体群とで獲物の好みが違っていた可能性が高く、前者はバイソンとウマを、後者はトナカイを選好したようです。これも、本論文が提示した遺伝的データと一致し、ベーリンジアのホラアナライオンは亜種(Panthera spelaea vereshchagini)と考えられます。ただ、本論文の知見はあくまでもmtDNAに基づくものなので、核ゲノムではもっと複雑なホラアナライオンの進化史が見えてくるかもしれません。


参考文献:
Stanton DWG. et al.(2020): Early Pleistocene origin and extensive intra-species diversity of the extinct cave lion. Scientific Reports, 10, 12621.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-69474-1

同位体分析から推測される初期人類の食性

 同位体分析から初期人類の食性を推測した研究(Martin et al., 2020)が公表されました。安定同位体分析により、過去の生物の生態・生理・食性を推定できます。初期人類の食性は、骨・歯の分析や同位体分析などに依存しています。しかし、同位体分析においては、栄養価の指標になるコラーゲンと窒素の同位体は、たとえば100万年以上前ではめったに保存されていません。初期人類の食性は多くの場合炭素同位体に依存しており、骨や歯のような化石ではあまり保存されていません。炭素同位体組成は、最終的な植物源の光合成経路を反映しており、過去の植生進化の復元と、人類も含めてアフリカの動物の食性調査に役立ちました。

 アフリカの人類の炭素同位体分析は、C3およびC4植物全体を反映します。たとえばアフリカ東部では、初期アウストラロピテクス属の食性はほぼC3植物に由来しますが、パラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)などもっと新しい人類は、その食性をほぼC4植物に依存しています(関連記事)。しかし、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)もしくはケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)のように、初期アウストラロピテクス属もしくは同年代の人類でも、食性でC4植物の顕著な割合を示す系統も存在します。アフリカ中央部では、アウストラロピテクス・バーレルガザリ(Australopithecus bahrelghazali)がC4植物環境で食料を調達していた初期人類の別の事例となります。

 炭素同位体分析の重要な結果として、大きな歯を有するアウストラロピテクス属の分類群間の炭素13値の顕著な違いがあり、アフリカ南部のパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とアフリカ東部のパラントロプス・ボイセイが異なる資源を利用していた、と示されます。こうした結果は歯の微視的使用痕でも裏づけられています(関連記事)。本論文は、カルシウムと炭素の同位体を利用して、ケニアのトゥルカナ(Turkana)盆地の初期人類や共存していた霊長類の食性を調べます。脊椎動物におけるカルシウム同位体の研究から、カルシウム同位体44/42の比率の減少が栄養価の増加と関連している、と明らかになっています。

 まず、現生ゴリラの調査により、カルシウム同位体値と食性との関係が改めて確認されました。次に、トゥルカナ盆地の初期人類も含む霊長類(69個体)のカルシウム安定同位体が分析され、−0.69‰~−1.88‰の範囲と明らかになりました。初期人類との食性の類似が指摘されることもあるヒヒ属は、カルシウム同位体値が低く、化石ヒヒ属(Parapapio)はそれよりもずっと高い値を示します。これは摂食選好の違いを反映しているかもしれませんが、アフリカの現生種であるアヌビスヒヒ(Papio anubis、オリーブヒヒ)は広範に分布しているので、本論文のデータでは地理的多様性を反映できていない可能性もあります。

 現生種のゲラダヒヒ(Theropithecus gelada)はC3草本植物に強く依存していると以前から推測されており、本論文のカルシウム同位体値でも、草本に依存しているとの結果が得られました。化石ゲラダヒヒ属2種(Theropithecus brumpti、Theropithecus oswaldi)のカルシウム同位体値は、現生ゲラダヒヒからさほど逸脱していません。しかし、ゲラダヒヒ属でもオズワルディと比較して大型のブランプティの一部個体は大型肉食動物と同じ値の範囲内にあり、ブランプティのカルシウム同位体値の範囲が広いことから、ブランプティは雑食と推測されます。

 化石人類のカルシウム同位体値では、共にアフリカ東部に生息していたアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)とケニアントロプス・プラティオプスは、区別できませんでした。プラティオプスの炭素同位体値がC3植物とC4植物の混合環境での摂食を明確に示したのに対して、アナメンシスの方は、アルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)と同様のほぼ純粋なC3植物食性を示唆します。以前の頭蓋形態に関する研究では、アナメンシスは硬いものを接触していた可能性が示唆されていましたが、歯の微視的使用痕と炭素同位体分析に基づくその後の研究では、C3植物環境の柔らかいものを食べていた、と推測されています。アナメンシスのカルシウム同位体値は、アフリカ東部の現代および化石の木の葉食動物とほとんど重なっており、果物や草など様々なC3植物を摂食していた、と示唆されます。ただ、アナメンシスの一部個体は、酸素同位体値に基づくとより開放的な環境でも過ごした可能性があり、食料を獲得する場所と生息する場所とが分離されていたかもしれません。

 初期ホモ属のカルシウム同位体値は分散しており、雑食もしくは肉食選好が示唆されます。ただ、これはトゥルカナ盆地における初期ホモ属、たとえばハビリス(Homo habilis)やルドルフェンシス(Homo rudolfensis)やエレクトス(Homo erectus)の分類が明確ではないことを反映しているかもしれず、その場合、初期ホモ属内では植生が不均質だったかもしれません。また、初期ホモ属はゲラダヒヒ属のオズワルディと類似したカルシウム同位体値を示しますが、炭素同位体値は異なります。

 パラントロプス・ボイセイは、初期ホモ属やゲラダヒヒ属のオズワルディやトゥルカナ盆地の草の葉食哺乳類とも異なるカルシウム同位体値を示します。炭素13値とカルシウム同位体値を同時に比較した分析でも、ボイセイは他の人類および非人類草の葉食哺乳類の範囲とは重ならず、形態や歯の微視的使用痕や炭素同位体分析で強調されていたように、独自性を示します。ボイセイは、果物のような柔らかいものを食べていた、と推測されています(関連記事)。ボイセイの食性はかなり特異で、そのカルシウム同位体値は、トゥルカナ盆地の他の人類だけではなく、より低いカルシウム同位体値を示すアフリカ南部の同じパラントロプス属のロブストスとも明らかに異なります。

 興味深いことに、共にアフリカ南部に生息していたパラントロプス・ロブストスとアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)では、炭素13値にもカルシウム同位体値にも違いがありません。ロブストスの食性に関しては、アフリカ南部の同時代の初期ホモ属とともに柔軟だった、と以前の研究では推測されていました。本論文の分析と炭素13値もしくは歯の微視的使用痕からは、アフリカ東部のボイセイが特殊な食性だったのに対して、アフリカ南部のロブストスは柔軟な食性だった、と示されます。これらの結果は、ロブストスとボイセイという明らかに咀嚼機能を共有する分類群間の食性の不一致を示し、歯と顎の特徴のみに基づくパラントロプス属の単系統性という主張に疑問を投げかけます。

 パラントロプス属の分類に関しては、以前取り上げました(関連記事)。日本ではよく「頑丈型猿人」と呼ばれるパラントロプス属はアフリカでのみ確認されており、東部のエチオピクス(Paranthropus aethiopicus)およびボイセイと南部のロブストスの3種に分類されています。パラントロプス属の系統関係については、エチオピクスからボイセイとロブストスが派生したとの見解が一般的には有力ですが、アフリカ南部のアウストラロピテクス・アフリカヌス→ロブストスの系統と、アフリカ東部のアウストラロピテクス・アファレンシス→エチオピクス→ボイセイの系統に分かれる、との見解もあります。もしそうならば、これら3種はクレード(単系統群)を形成せず、パラントロプス属という区分も成立しません。

 本論文は、アフリカ南部のパラントロプス・ロブストスとアウストラロピテクス・アフリカヌスの食性の類似を示しており、パラントロプス属とされてきた3種がクレード(単系統群)を形成しない、という見解と整合的です。ただ、食性の違いは、霊長類全般に見られる柔軟性に基づく、異なる環境への適応とも解釈できます。最近の研究では、230万~200万年前頃にアフリカ南部で大きな生態系と動物相の変化があり、広義のホモ・エレクトスもこの期間にアフリカの他地域、おそらくは東部から南部に拡散してきた、と推測されています(関連記事)。もしそうならば、ロブストスがエチオピクスから派生した一部系統で、東部から南部に拡散してきた、とも考えられます。そうすると、パラントロプス属という区分も成立することになりますが、この問題は今後の研究の進展を俟つしかなさそうです。


参考文献:
Martin JE. et al.(2020): Calcium isotopic ecology of Turkana Basin hominins. Nature Communications, 11, 3587.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17427-7

大津透『律令国家と隋唐文明』第2刷

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年4月に刊行されました。第1刷の刊行は2020年2月です。本書は、律令の導入を中心に、古代日本が隋と唐から文化・制度をどのように受容していったのか、概説します。碩学の著者らしく、その射程は律令に留まらず仏教や儒教にも及んで、広くまた深く掘り下げられており、新書とはいえ、たいへん密度が高くなっています。いつか、時間を作って再読しなければなりませんし、本書で提示された天皇号推古朝採用説についても、今後調べ続けていかねばならない問題だと思います。

 本書は日本における律令制導入の契機として、対外的緊張関係を指摘します。アジア東部において、紀元後6世紀後半以降、隋、続いて唐という巨大勢力が出現し、朝鮮半島諸国でも高句麗や百済で集権化が進みます。日本における乙巳の変もその文脈で解されます。とくに、唐が朝鮮半島に軍事的に介入し、百済と高句麗が滅ぼされる過程で、日本が唐に白村江の戦いで惨敗したことは、日本の支配層に危機感を抱かせ、西日本で百済式の山城が築かれるとともに、律令制への導入が進みました。本書は、日本における律令制導入の画期を天武朝としており、その延長線上に大宝律令がある、と指摘します。

 また本書は、隋や唐と当時の日本では社会構造に大きな違いがあり、律令をそのまま導入したわけではなく、かなり変更されていることも指摘します。とくに違いが大きいのは君主(天皇)関連で、天皇は律令制前の君主(大王)像を多分に継承していました。しかしこれも、桓武天皇よりもさらにさかのぼって聖武天皇以降の君主権強化の流れの中で、天皇も儀礼などにおいて中華皇帝に近接していき、平安時代前期には天皇の「中華皇帝化」が一定以上進行します。これにより、天皇は制度化されていき、君主権強化という当初の目的からは遠ざかった感は否めませんが、一方で、天皇という枠組みが安定したことも間違いなく、これが現在まで千数百年以上天皇が続いた要因なのでしょう。