実父から子への性虐待が多い理由

 表題の発言を見かけました。正確には、表題の発言への批判をまずTwitterで見かけたのですが、昨日(2020年8月9日)当ブログに掲載した記事と関連しそうなので、短く取り上げます。まず、表題の発言(以下、ツリーになっているので先頭のみリンクを張りますが、続きを示す記号は省略します)は

実父から子への性虐待が多い理由に、男性が育児家事に主体的に取り組まないこの国の風土があると思う。パートナーのお腹に宿った命に喜び、無事に育つよう祈り、パートナーの体調に配慮し、やっと生まれた命。昼夜なく抱き、あやし、お腹を満たし、清潔にし、歌ってやり、何度も吐瀉物を浴び、排便の
世話をして大事に育てた子どもに性的ないたずらを出来るとしたら精神異常者。でも、日本の実父から子に対する性虐待は殆どそれが当てはまらないのではと思っている。中出ししたらいつの間にか妊娠し、いつの間にか生まれ、「辛いとか責められて面倒」と家にいる時間をなるべく少なくし、子に関わる
時間も持つことなくいたら、いつの間にか子が育っていた。同じ家の中にいても突然現れた他人であり肉体なんだと思う。手ずから育てたものを痛めつけられる人間は少ない。だが急に立ち現れた弱者に対しては、罪悪感を抱きにくいのでは。だっていつの間にかいたんだもん。反吐が出る。
偏見があることを承知で言うが、男親の「子の成長はあっという間」という言葉は、育児に関わっていない人間の言葉にも聞こえる。24時間365日幼い命を想っていれば、1日も1ヶ月も1年も、とても長く感じるものだから
【補足】コメントが増えて来たので補足すると、私は父親からも母親からも暴力に合いながら育って来た人間です。父親については人権意識の欠如から、母親については父からの経済的DV+身体的DVが子に連鎖する形で、の暴力だったと思う。あくまで今回は実父→子への性加害をミニ考察した形。
男親が子の人権を尊び、育児にコミットしているケースも勿論沢山見知っているし、日本中全ての男親が育児せず性加害するとも言っていない。日々子を慈しみ育てる世の全ての親に敬意を表すとともに、子を虐待する全ての親が地獄に落ちることを祈念します。


というものです。次に、この一連の呟きに対する批判は、

虐待のほとんどは実親で、しかも実母が圧倒的に多いけど、何の話ししてるんだろう。
性虐待だけの話をしてるなら性犯罪一般が圧倒的に男性の方が多いから、で終了だしな。他の国では珍しいなんてことも言うまでもなくないし。
「男性が育児家事に主体的に取り組まないこの国の風土」に問題があるとすれば、それによって母親の虐待が増えることだろうけど、母親については免責したいから訳わからんことになっちゃうんだろうな。そして「風土」という表現に強い他責性を感じるね。
家事育児に主体的に取り組みそうな男性は選ばれないというか、他の条件に家事育児に主体的に取り組むをオンしちゃうから、普通の男がいないとかなっちゃういつもの。


というものです。このやり取りに関して深く突っ込む能力と気力はないので、昨日の記事との関連に限定すると、実父から子供への性的虐待(そのほとんどは娘が被害者なのでしょう)と育児との間には、相関があっても不思議ではないように思います。育児に熱心な実父ほど、子供を性的に虐待することは少ないのではないか、というわけです。これを詳しく検証する能力と気力はないものの、その理由を述べると、ほぼ昨日の記事のコピペになってしまいますが、以下の通りです。

 現生人類(あるいは他の人類系統も)は双系的社会を基本としつつ多様な社会を築きましたが、ヒト上科、あるいはオランウータン属の事例があるのでヒト亜科に限定するとしても、基本的には非母系社会が特徴で、長い時間進化してきたように思います。おそらくこれは、近親交配回避の仕組みとして進化してきたのでしょう。近親交配の忌避は人類社会において普遍的に見られ、それは他の哺乳類種でも広く確認されることから、古い進化的基盤があると考えられます。近親交配回避の具体的な仕組みは、現代人も含む多くの霊長類系統においては育児や共に育った経験です(関連記事)。したがって、人類系統においては、チンパンジー属系統や、さらにさかのぼってオナガザル科系統との分岐前から現代までずっと、この近親交配回避の生得的な認知的仕組みが備わっていたことは、まず間違いないでしょう。つまり、人類系統あるいはもっと限定して現生人類系統で独自に近親交配回避の認知的仕組みが備わったこと(収斂進化)はとてもありそうにない、というわけです。

 その意味で、育児を殆ど或いは全くしないような実父が、子供(ほとんどの場合は娘)を性的に虐待しやすくなる、という相関があっても不思議ではないように思います。もっとも、これを証明するだけの能力と気力はなく、データを提示できるわけでもないので、私の思いつきにすぎませんが。なお、現生人類においては近親交配が低頻度ながら広範に見られる理由については、昨日の記事で述べているので、この記事では繰り返しません。

ペルー南部沿岸地域におけるインカ帝国期の移住

 ペルー南部沿岸地域におけるインカ帝国期の移住に関する研究(Bongers et al., 2020)が公表されました。解析技術の進展により多数の標本のゲノム規模分析が可能となり、古代DNA研究は過去を研究する強力な手法となりました。ゲノム規模データは、さまざまな地域の集団や個体群の系統の推測を高精度で可能とします。これにより、同じ地域での経時的な系統変化や、同時期に共存していた異なる系統の集団さえ特定できます。両パターンとも、最近の混合されていない移住もしくは在来集団と新たな移民との混合を含む、その地域への移住の証拠を提供します。

 しかし、古代DNA研究には、大陸および地球規模の遺伝的分析を好む傾向があり、より地域的な規模での移動を充分にはモデル化していない「時空間にわたる壮大な物語」をもたらす、との批判もあります。また、古代DNA研究は効率的に人々の移動を特定する一方で、そのような移動が起きた経緯と理由を説明する充分な背景もしくは理論を滅多に提供しない、との批判もあります。こうした規模・背景・標本数の問題は、移動の理解を制約します。それは、考古学的文化の問題のある仮定をもたらすからです。また、遺伝学的研究には移動を単なる説明的な「ブラックボックス」として扱う傾向がある、との批判もあります。こうした遺伝学的研究の批判により、古代DNAを含む単一タイプのデータは単独で移動を特定し説明できない、と明らかになりました。これらの複雑な問題の解明には学際的手法が必要です。

 異なるタイプのデータを統合し、各タイプがさまざまな時期と集団規模の人類学的モデルを検証する範囲を評価することが重要です。本論文は、複雑な社会の移動をより効率的に特定・文脈化・説明するために、地域規模での複数の独立した証拠を統合する学際的手法を採用します。この学際的手法は、ドイツ南部の後期新石器時代~初期青銅器時代の研究(関連記事)や、ランゴバルド人のゲノム解析(関連記事)といったいくつかの遺伝学的研究で採用されており、本論文ではペルー南部沿岸のチンチャ渓谷(Chincha Valley)の事例研究で示されます。チンチャ渓谷は、15世紀にインカの影響を受けた外来民の移動目的地にされたと報告されており、乾燥気候のため装飾された人工物など帰属の重要な指標や古代DNAが保存されやすいので、この調査に適しています。インカは、男性・女性・子供を追い立て、故郷から移動させた社会の一つです。このインカ帝国の強制移住政策は、アンデスの社会政治的景観を変えましたが、考古学的記録で特定することは困難です。また本論文は、この研究が先住民共同体との合意に基づいて行なわれた、と明記しています。


●学際的な事例研究

 移動は人類の行動において重要で、その要因は気候変動や軍事的脅威や上位権力による強制などさまざまです。人類の移動理由の理解は、人口史の解明に重要です。人類の移動に関しては、考古学・生物考古学・生物地球化学・言語学・遺伝学などにより研究されてきました。本論文が対象とするペルー南部沿岸のチンチャ渓谷では、1000~1400年頃となる後期中間期(Late Intermediate Period)にチンチャ王国として知られる複雑な政治体制が存在しました。16世紀の文献では、チンチャ王国は農民・漁民・商人を含む人々の相互依存的な共同体のネットワークで構成されている豊かな社会と記録されています。1400~1532年頃となる後期ホライズン(Late Horizon)にインカはチンチャ渓谷を統合し、交易ネットワークの拡大、インカとチンチャの領主が率いる「二重統治」政治システムの導入、外部居住者の強制移動をもたらしました。

 チンチャ渓谷中部での最近の考古学的研究により、44ヶ所の墓地遺跡に密集する500以上の墓が明らかになりました。墓は、地下の棺に遺骸を収めるタイプと、地上と地下の霊廟タイプがあります。本論文は、自然石で作られた地下の霊廟タイプの墓に葬られた遺骸の分析結果を報告しています。一方のUC-008の1号墓の大きさは3.09m×2.35mで、少なくとも117人が葬られており、織物・土器・トウモロコシおよびヒョウタンの破片が共伴します。UC-012の33号墓の大きさは2.15m×2.10mで、人数は不明ながら複数個体が葬られており、織物・トウモロコシ・ヒョウタンが共伴します。以前の研究の放射性炭素年代では、UC-008の1号墓が後期ホライズンおよび1532~1825年となる植民地期と推定されています。植民地期の人工物はチンチャ渓谷中部では発見されていないので、UC-008の1号墓に葬られた個体群の年代は後期ホライズンと示唆されます。

 まず、後期ホライズンにおける移動を示唆するいくつかの証拠が再調査されます。それは、土器・織物・ストロンチウム同位体データと、インカが政策の一部として外部住民をチンチャ渓谷も含めてインカ南部沿岸に移動させた、と主張する植民地期の文献を含んでいます。各証拠の限界が強調され、データセットの単一タイプだけでは移動を特定できず、その経緯と理由も説明できない、と示されます。次に、UC-008の1号墓とUC-012の33号に葬られた6人のゲノム規模データと、6人のうち4人の直接的な加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代が提示されます。


●チンチャ渓谷への移住の証拠

 土器は交易でもたらされ、導入先で模倣される可能性もあり、人類の移動の絶対的な指標になるわけではありません。しかし、適切に文脈化されれば、アンデス地域でも潜在的な移動の重要な指標となります。以前の調査では、チンチャ渓谷全体で中央部および北部沿岸様式の土器が見つかっています。チンチャ渓谷下流域のワカラセンティネラ(Huaca La Centinela)遺跡に近い6ヶ所の墓地では、後期ホライズンの55個の土器が発見され、パチャカマクインカ(Pachacamac-Inca)やチムー(Chimú)や「中央部~北部沿岸」様式を含む、多様な外来土器様式が識別されました。塊茎や果物の形の9個の瓶は、中央部~北部沿岸様式に見られます。

 織物はアンデス地域において集団を区別する重要な指標となりますが、同時代の土器よりも考古学的記録には残りにくい、という欠点もあります。UC-008の1号墓では、縦糸と横糸が組み合わされた平織りの北部沿岸地域の織物様式が、64%(141点のうち90点)で確認されました。チンチャ渓谷の住民が、北部沿岸地域の織物様式伝統の影響を受けたか、交易で入手した可能性は除外できません。しかし、外部の織物技術の模倣は難しく、外部技術の割合が高いので、そうした可能性は低そうです。

 ストロンチウム同位体比データは、人類の移動の指標となります。しかし、地質的特徴が均一な多くの沿岸地域間の移動を明らかにすることはできません。UC-012の33号墓で見つかった7人の歯のエナメル質からストロンチウム同位体比が測定されましたが、北部・中央部・南部の沿岸地域の同位体比の範囲と重複します。したがって、UC-012の33号墓で見つかった7人の出身地がアンデス地域とまでは特定できても、より正確な起源は不明です。

 植民地期の文献は、偏見が見られるものの、とくに後期ホライズンの移動パターンへの重要な手がかりを提供します。これらの文献は、強制移住に関するインカの政策を記載しています。インカは各州からかなりの人数を選んで新たな地域に移動させました。各事例の距離は異なりますが、一般的に故郷と類似した生態系が選ばれました。こうした移住は、インカ帝国に対する脅威の緩和と、経済支援が目的でした。チンチャ渓谷での強制移住を記載した文献もあり、その起源地は不明ですが、植民地期の複数の文献からは、北部沿岸地域の可能性が想定されます。これは、インカ帝国がチムーを征服し、それに続く蜂起を鎮圧して政治構造を解体した後に、以前はチムーに属していた北部沿岸地域集団を南部沿岸地域に移住させたためです。その中には、金細工師や漁民や水利管理の専門家も含まれていました。外来集団の到来は、チンチャ渓谷の後期中間期および後期ホライズで確認された、人口や灌漑や農業生産水準の増加と関連しているかもしれません。しかし、植民地期の前に外来集団がチンチャ渓谷に存在していたのか、そうだとして起源はどこなのか、またその理由は何なのか、インカ帝国による強制という証拠はあるのか、といった問題は、文献だけでは解決できず、複数のデータを統合することで可能となります。

 UC-008の1号墓の2人とUC-012の33号墓の4人のゲノム規模データが得られました(平均網羅率は0.71~1.65倍)。このうち、UC-008の1号墓の2人とUC-012の33号墓の2人で直接的な放射性炭素年代値が得られました。年代は1505~1645年(信頼区間95%では1415~1805年)で、後期ホライズンも含まれます。まず、6人が1もしくは2親等の親族ではない、と確認されました。次に、主成分分析やADMIXTURE分析やqpWave分析やf4・f3統計が行なわれました。これらの分析全てで、UC-008集団とUC-012集団は遺伝的にひじょうに類似している、との結果が得られました。UC-008集団とUC-012集団は互いにクレード(単系統群)で、その系統は均質です。UC-008集団とUC-012集団はペルー北部沿岸地域の古代個体群と最も類似しており、その系統だけで充分にモデル化できます。これは、アルゼンチンで発見された後期ホライズンの犠牲とされた少年と、インカ帝国期のトロントイ(Torontoy、聖なる谷)遺跡の個体と同じ系統です。ただ、本論文で用いられた古代の個体は、北部沿岸地域ではエルブルホ(El Brujo)遺跡、中央部沿岸地域ではリマ(Lima)で発見されたものに限定されています。チンチャ渓谷の後期ホライズンの6人は、遺伝的に古代のエルブルホ個体群と最も類似しているものの、もっと南、つまりエルブルホとリマの間に、さらに類似した集団が存在したかもしれません。つまり、より正確な起源地はまだ断定できません。


●まとめ

 本論文は、土器・織物・ストロンチウム同位体・ゲノム規模データ・植民地期の文献という複数の独立した証拠を統合して、チンチャ渓谷の後期ホライズンにおける人類の移動を分析しました。これらのデータは、植民地期の前にチンチャ渓谷へ外部集団が到来した、という点で一貫しています。チンチャ渓谷のUC-008の1号墓およびUC-012の33号墓の6人の遺伝的構成はひじょうに類似しており、ストロンチウム同位体からはアンデス沿岸地域起源が示唆されますが、ゲノム規模データは、その中でも北部沿岸地域起源の可能性が高い、と示します。チンチャ渓谷における北部沿岸地域様式の土器と織物も、この見解を支持します。

 このアンデス沿岸地域における北部から南部への移動手段・経路は、歩行・リャマの隊商・舟による沿岸航海が想定されます。チムーの首都であるチャンチャン(Chan Chan)では、交易場所として利用された可能性のある2ヶ所の隊商宿が発見されています。おそらくはチムーの領主の家臣だった商人は、バルサ製の筏を用いて、エクアドルの貝殻を入手し、アンデスを横断して輸送した可能性があります。北部沿岸地域からチンチャ渓谷に移動してきた集団も、海路もしくは陸路、あるいはその両方を利用したかもしれません。

 移動理由に関しては、本論文のデータはインカ帝国による移住モデルと最も適合しています。上述のように、植民地期の文献にはチンチャ渓谷への強制移住が見えます。チンチャ渓谷中央部には川と同鉱山があり、水利管理の専門家と鉱山労働者の移住の主要な目的地となり得ます。もしそうならば、インカ帝国は移住者に伝統的な衣服の着用を要求したので、チンチャ渓谷では北部沿岸地域様式の織物が見つかると予想され、じっさいにチンチャ渓谷では発見されています。これは、土器やストロンチウム同位体やゲノム規模データとも一致します。

 ただ、本論文で分析されたチンチャ渓谷の北部沿岸地域起源集団が、後期ホライズンよりも前に自主的に到来した可能性は、遺伝的に除外できません。たとえば、北部沿岸地域の商人がインカ帝国の前にチンチャ渓谷に到来しても不思議ではありません。しかし、ゲノム規模データからは、チンチャ渓谷の後期ホライズンの6人が、本論文の解像度では混合されていない北部沿岸地域系統と示され、文献および考古学的記録と一致する、より最近の移住を強く支持します。最近の古代DNA研究でも、インカ帝国による強制移住の可能性が示唆されています(関連記事)。後期中間期やその前のチンチャ渓谷の個体群の将来の分析により、後期ホライズンよりも前のチンチャ渓谷の集団が、他のペルー南部沿岸地域集団の特徴をより多く有するのか、評価できます。また、標本数が増えれば、北部沿岸地域から南部沿岸地域への移動がチンチャ渓谷でどの程度広がっていたのか、特定できるようになります。

 本論文は、学際的研究により、古代の移動をより詳細に解明しました。しかし、どれだけの人数が北部沿岸地域からチンチャ渓谷へ移動したのか、チンチャ渓谷における移民の割合はどの程度だったのか、チンチャ渓谷の共同体はどのくらい多様だったのか、移民がチンチャ渓谷の在来集団の社会生活に影響を与えたのか、といった未解決の問題が提起されます。本論文で提示されたような学際的手法は、全ての地域・時代で適用できるわけではありませんが、今後こうした研究が進められ、より詳細な人類史が解明されていくだろう、と期待されます。


参考文献:
Bongers JL. et al.(2020): Integration of ancient DNA with transdisciplinary dataset finds strong support for Inca resettlement in the south Peruvian coast. PNAS, 117, 31, 18359–18368.
https://doi.org/10.1073/pnas.2005965117