天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』

 シリーズ「中世から近世へ」の一冊として、平凡社より2018年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。随分前に読んだ本か記事では、松永久秀は出自不明とされていたように記憶しています。本書では、久秀の出自は摂津国の五百住の土豪だった可能性が高い、とされています。久秀は当時としてはそれなりの身分の生まれだったようですが、父の名前も伝わっていないくらいですから、土豪でも有力ではなかったようです。とはいえ、子供の頃に武士としての素養や読み書きを習得し、さらに教養を得られるような階層の出身だった、とは言えそうです。

 久秀が三好長慶に重用されたのは、久秀が統治にも軍事にも優れた人物だったこともありますが、三好家の事情もあったようです。阿波から畿内へと勢力を拡大した三好家ですが、長慶の父である元長が政争に敗れて自害に追い込まれ、譜代の家臣も多数殉じたため、長慶の代には、畿内での活動には家臣が足りない状況でした。そこで長慶は、摂津の土豪を積極的に登用していったようです。久秀もそうして長慶に登用された一人で、有能だったために台頭し、ついには三好家中で一族の代表格とも言うべき三好長逸と共に長慶に次ぐ地位に至ります。

 このように三好家において久秀が破格の出世を遂げたことと関連しているのでしょうが、長慶は旧来の家格秩序を破壊していく傾向がありました。関東にほとんど縁のなかった伊勢家が鎌倉幕府執権の北条を名乗り、越後守護代の長尾家が関東管領の上杉の名跡を継承し、祖父の代から三代かけて成り上がり、父殺しの汚名を負ってしまった斎藤高政(義龍)が室町幕府名門の一色を名乗ったように、当時の「下剋上」は一方で既存の家格秩序を尊重するもので、それにより社会的軋轢を減じていたところがありました。しかし長慶は、より上位の家格の名跡を継承するわけでもなく、官位を昇進させていき、久秀にいたっては長慶の存命中に長慶と同じ位階に昇進します。

 また、後の織田信長もそうだったように、京都の支配者はともかく将軍を擁し、幕府秩序を少なくとも形式的には尊重しました。信長は、足利義昭追放後も、その嫡子を「大樹(将軍)若君」として庇護・推戴し、ことあるごとに同道していたくらいです(1575年までは)。しかし長慶は、幕府秩序を無視して京都および畿内とその近国の支配を進めていき、朝廷も財力がなく奉仕できない義輝から長慶を頼るようになっていきます。また長慶は、大和など縁のない国への勢力拡大を進めていきますが、同時代の戦国大名がそうした場合に侵出先の国の守護職を得ることなどで正当化を図っていったのに対して、長慶にはそうした動向が見られません。

 こうした幕府秩序の無視が当時の諸大名には異様に映り、上述の長慶の家格秩序無視の傾向もあって、三好を敵視する大名が増え、長慶も将軍の足利義輝との和睦を決断します。しかし、義輝は幕府秩序を無視してきた長慶を脅威に思って敵視し続け、長慶の追い落としを画策し続けたようです。この義輝の対応は、将軍として尤もではありますが、それが落命の原因ともなりました。「急進的」という言葉を安易に使うべきではないでしょうが、長慶は当時としてはかなり「急進的」で、その後に台頭してきた年下の織田信長の方が、私にはよほど「守旧的」というか「現実的」にさえ見えてしまいます。長慶のこうした傾向は、父と多くの譜代重臣たちを一度に失い、家格に頼らず三好家を立て直して勢力をしていかねばならなかった事情に由来するのでしょうか。久秀の大和支配も、単に久秀の野心ではなく、三好家の勢力拡大の一環として行なわれたようです。この久秀の大和支配でも、中世の大和における支配者とも言えた興福寺に対して、久秀の方が織田時代よりも強い対応を示しており、既存秩序を軽視する長慶の傾向は、家臣の久秀にも見られます。

 有力ではないと思われる摂津の土豪から、三好家において三好長逸と共に当主の長慶に次ぐ地位に昇進した久秀の運命が大きく変わったのは、1565年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に起きた将軍の義輝殺害事件(永禄の変)でした。まず、1563年に長慶の後継者の義興が死亡し、長慶の甥である義継が後継者となります。本書は、久秀が義興の死に落胆した様子を取り上げています。その翌年に長慶が死亡し、久秀はすでに息子の久通に家督を譲っていた状況で、永禄の変が起きます。以前は久秀が永禄の変の首謀者の一人とされていましたが、当時久秀は大和におり、襲撃に参加したのは息子の久通でした。本書は、義継と久通が義輝を殺害した理由として、義輝が将軍権威の脅威となる三好を敵視し、両者は表面上和睦を維持しながら、関係が悪化したことを背景として指摘します。その上で本書は、先代ほどの苦労を知らない義継と久通が、一気に討幕を企図したのではないか、と推測しています。永禄の変における久秀の真意は不明ですが、義輝の弟の義昭を保護していることなどからも、義継と久通に批判的だったのではないか、と本書は推測しています。

 永禄の変の後、久秀は三好三人衆に追い落とされ、苦境に立ちます。これは、久秀と三好三人衆とが永禄の変以前から激しく対立していたことを意味しない、と本書は指摘します。そもそも、三好三人衆が成立したのは永禄の変の後でした。永禄の変の後、久秀の弟で丹波を任されていた内藤宗勝(松永長頼)が戦死し、三好家は丹波での勢力を大きく後退させてしまいます。さらに、久秀が助命して保護していた義昭が朝倉家の調略により出奔し、反三好陣営に格好の大義名分を与えてしまいます。こうした松永一族の失態と、摂津の有力ではない土豪から成り上がってきた久秀への反感が以前より三好一族の間であったためか、三好三人衆が形成され、三好三人衆は義継を担いで松永一族を追い落とします。

 三好三人衆は大和にも侵攻し、久秀は苦境に立たされますが、義継が三好三人衆と対立して久秀を頼り、上洛して将軍就任を図る義昭が織田や毛利や上杉とともに久秀とも連携したことで、久秀は苦境を脱していきます。義昭にとって、久秀は宿敵ではなく命の恩人であり、頼るに足る存在でした。久秀は義昭擁立勢力の一端を担っており、織田信長とはすでにその上洛前から通じていました。上洛してきた信長に茶器を献上することで久秀は信長に赦されて臣従したわけではなく、勢力に大きな格差はあれども、信長と久秀は義昭を推戴して新たな秩序を築く(もしくは室町体制を復興する)大名同士として同盟関係にありました。また本書は、織田軍が京都に向けて進軍を開始してから短期間で京都と周辺を制圧できた一因として、毛利が三好三人衆を牽制すべく軍事行動を起こしたことも指摘しています。義昭の上洛と将軍就任には、織田軍以外の勢力の貢献も少なくなかった、というわけです。

 義昭の将軍就任後も、畿内情勢は安定しませんでした。1570年後半、織田信長と義昭は三好三人衆や朝倉や浅井や本願寺との戦いで窮地に追い込まれ、朝廷も担ぎ出して講和を結んでいきます。この過程で、久秀は三好三人衆や阿波三好家当主の三好長治や篠原長房との和睦交渉をまとめ、義昭と信長が窮地から脱するのに貢献します。しかし、この後、久秀と義昭の関係が悪化していきます。そもそも久秀は、三好三人衆と対抗するために義昭を推戴しました。

 しかし、三好三人衆や阿波三好家と和解したことにより、三好と将軍の対峙という長慶の頃の構図が再現されます。また、久秀と講和した篠原長房が、将軍の義昭に赦免されたと称して毛利領に攻め込み、毛利が信長に抗議して義昭の斡旋による講和を依頼したことも、毛利を自勢力の有力大名と頼みにしている義昭に、久秀への不信感を募らせることになりました。さらに、義昭が久秀の宿敵である筒井順慶を赦免して優遇したことも、久秀と義昭との関係を悪化させました。しかし、久秀はあくまでも義昭と対立したのであり、直ちに信長と対立したわけではありませんでした。

 久秀は筒井順慶に惨敗するなど時として苦境に立たされつつも、義継のもと長慶のころのような三好家の結束が再現され、本願寺や浅井や朝倉なども敵に回した義昭は苦境に追い込まれます。そこで義昭は、本願寺と縁戚関係にある武田信玄に、信長と本願寺との和睦の仲介を命じますが、これは信長には受け入れ難いものでした。結局、武田は織田との対決に踏み切り、1573年1月の時点では、信長と義昭は圧倒的に不利な状況に追い込まれ、反義昭・信長陣営の久秀も勢力を拡大していきました。本書は、筒井順慶と武田信玄を自陣営に引き入れようとした義昭の判断が大局的には妥当だと言えても、自勢力同士の利害関係の配慮に欠けており、大きなものを失ってしまった、と指摘します。追い込まれた義昭は信長への敵対を明示し、信長の説得にも応じました。本書は、義昭は「信長包囲網」を形成したのではなく、追い詰められて信長を見限った、と指摘します。

 このように、情勢は久秀に有利に動いているように見えましたが、1573年2月以降に三好三人衆筆頭の三好長逸が死に、同年4月12日に武田信玄が病死して武田軍が三河から甲斐ら退去し、三好長治が信長との和睦に動いたことなどから、情勢は一気に信長有利に傾きました。こうして、同年7月に義昭は京都から追放され(上述のように、信長は義昭の嫡子を擁しており、この時点では室町幕府体制を否定していません)、同年のうちに、8月には朝倉、9月には浅井、11月には三好本宗家が相次いで信長に滅ぼされました。久秀は義継の死後に信長に降伏を申し入れ、多聞山城を引き渡し、久通の子を人質とする条件で久秀は赦免されました。本書は、朝倉・浅井・三好本宗家が相次いで滅ぼされた中、久秀のみが赦された理由として、久秀が築いた豪壮華麗と言われた多聞山城を明け渡すと提案したことと、久秀と信長との対立は、久秀と義昭との対立が原因となっており、久秀自身が信長とはほとんど戦っていないことと、1570年後半の信長の危機のさいに、阿波三好家との和睦交渉をまとめた久秀の交渉能力を挙げています。

 こうして久秀は織田家臣となり、大和の支配は尾張出身の塙(原田)直政と大和の豪族である筒井順慶に委ねられることになりました。1575年、長篠の戦いで武田軍を破り、越前を奪還した信長は右近衛大将に就任します。信長は室町幕府とは異なる新たな武家政権の樹立を明示しますが、これが従来の武家秩序を常識とする勢力の反感を買い、信長は本願寺・毛利・上杉・武田など広範な勢力から敵視され、攻撃されることになります。もちろん、これら諸勢力にとって、境目など現実的な利害関係から織田との関係が悪化したため、従来の武家秩序の尊重を大義名分として掲げた、という側面も多分にあるとは思います。

 久通と塙直政との関係は良好だったようで、松永家は大和での勢力維持に塙直政を頼りにしていたようです。しかし、塙直政は1576年に本願寺との戦いで討ち死にし、信長は大和の支配権を久秀にとって宿敵の筒井順慶に与えます。本書は、これが久秀にとってかなり不満で、信長に叛く要因になったのではないか、と指摘します。一方、信長の方は、久秀が何に不満を抱いているのか、よく理解できていなかったようです。塙直政と筒井順慶とで久秀にとって何が違うのか、と信長は疑問に思っていたのでしょう。こうした家臣団同士、あるいは同盟者同士の利害関係を信長がよく理解できていなかったことは、金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』でも指摘されています(関連記事)。

 信長からの久秀の離反には成算があり、当時、上杉謙信と毛利輝元という東西の有力大名が信長の勢力圏へと侵攻していました。しかし、上杉謙信は加賀で織田軍を破った後に西進するのではなく能登の平定を優先し、信長が大和の国人を速やかに調略して久秀を孤立させたことで、信貴山城に籠った久秀は織田軍に攻め立てられ、切腹に追い込まれます。久秀は挙兵後わずか2ヶ月ほどで鎮圧されてしまいましたが、これは大きな影響を残した、と本書は指摘します。それは、信長への謀反は将軍への忠節であり、義昭を中心に毛利・本願寺・上杉・武田による反織田同盟という受け皿があることを知らしめたからです。本書は、信長は家臣団を統制する正統性を作れておらず、独自の家臣団を有する外様や、自力で敵地を平定して信長から預けられた与力を自分の家臣に再編成した明智光秀や羽柴秀吉に、信長に叛く動機を与えてしまった、というわけです。久秀死後に、別所長治や荒木村重などが信長に叛き、ついには明智光秀の謀反により、信長は自害に追い込まれます。

 本書は、久秀の動向だけではなく、三好家の盛衰、さらには大和を中心に畿内の政治情勢、戦国時代における下剋上の位置づけと三好長慶の特異性などを扱っており、この分野に詳しくない私にとって勉強になりました。本書は、久秀が戦ったのは戦国時代の人々にとって常識だった室町の身分秩序であり、その改革こそが久秀の下剋上で、それを完成させたのは久秀と同様に出自が明確ではない羽柴秀吉だった、と本書は指摘します。

 久秀は戦国時代や江戸時代にも見られる出頭人で、主君(久秀の場合は三好長慶)に重用され、家格の壁を乗り越えて出世していきました。本書は、長慶に取り立てられた久秀が三好本宗家に忠誠を尽くした、と指摘します。しかし、そうした出頭人が主君の死により失脚することは珍しくなく、久秀も長慶死後に危機を迎えますが、将軍の義昭を推戴して一定の地位を保ちます。それでも、久秀は結局没落してしまい、秩序の不安定な時代に比較的低い階層から成り上がり、その地位を保ち続けることは難しい、と改めて思い知らされます。戦国時代の勉強はもう20年近く停滞していますが、やはりこの時代は面白く、今後も時間を作って本書のような一般向けの良書を読んでいきたいものです。

人類史における集団と民族形成

 現代人は複数の帰属意識を持つことができ、これは現生人類(Homo sapiens)の重要な特徴でもあるのでしょう。これは、現生人類が家族という小規模な集団と、それらを複数包含するより大規模な集団とを両立させていることと関連しているのでしょう。チンパンジー属は比較的大規模な集団を形成しますが、家族的な小規模集団は形成せず、ゴリラ属は家族的な小規模集団を形成しますが、より大規模な集団を形成するわけではありません。現生人類が複数の帰属意識を持つことと関連していると思われるのが、現生人類は所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、ということです。現生人類は、父系にかなり偏った社会から母系にかなり偏った社会まで、多様な社会を築きますが、父系と母系のどちらが本質的というよりは、双系的であることこそ現生人類社会の基本的特徴だろう、というわけです(関連記事)。

 こうした双系的社会を形成する前の人類社会がどのようなものだったのかは、現生近縁種や化石近縁種が参考になるでしょう。ヒト上科(類人猿)は、オランウータン属がやや母系に傾いているかもしれないとはいえ、現生種は現代人の一部を除いて基本的には非母系社会を形成する、と言うべきでしょう。チンパンジー属とゴリラ属と人類を含むヒト亜科で見ていくと、現生ゴリラ属はある程度父系に傾いた「無系」社会と言うべきかもしれませんが、チンパンジー属は父系的社会を形成します。現代人の直接の祖先ではなさそうで、お互いに祖先-子孫関係ではなさそうな、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とイベリア半島北部の49000年前頃のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)について、前者は雄よりも雌の方が移動範囲は広く(関連記事)、後者は夫居制的婚姻行動の可能性が指摘されていることからも(関連記事)、ヒト亜科の最終共通祖先の社会は、単に非母系というだけではなく、ある程度以上父系に傾いていた可能性が高いように思います。人類系統も、単に非母系というよりは、父系に強く傾いた社会を長く形成していた可能性は高いように思います。

 現生人類(あるいは他の人類系統も)は双系的社会を基本としつつ多様な社会を築きましたが、ヒト上科、あるいはオランウータン属の事例があるのでヒト亜科に限定するとしても、基本的には非母系社会が特徴で、長い時間進化してきたように思います。おそらくこれは、近親交配回避の仕組みとして進化してきたのでしょう。近親交配の忌避は人類社会において普遍的に見られ、それは他の哺乳類種でも広く確認されることから、古い進化的基盤があると考えられます。近親交配回避の具体的な仕組みは、現代人も含む多くの霊長類系統においては育児や共に育った経験です(関連記事)。したがって、人類系統においては、チンパンジー属系統や、さらにさかのぼってオナガザル科系統との分岐前から現代までずっと、この近親交配回避の生得的な認知的仕組みが備わっていたことは、まず間違いないでしょう。つまり、人類系統あるいはもっと限定して現生人類系統で独自に近親交配回避の認知的仕組みが備わったこと(収斂進化)はとてもありそうにない、というわけです。

 しかし、現生人類においては近親交配が低頻度ながら広範に見られます。最近も、アイルランドの新石器時代社会の支配層における近親交配が報告されました(関連記事)。これはどう説明されるべきかというと、そもそも近親交配を回避する生得的な認知的仕組み自体が、さほど強力ではないからでしょう。じっさい、現代人と最近縁な現生系統であるチンパンジー属やゴリラ属でも、親子間の近親交配はしばしば見られます(関連記事)。人口密度と社会的流動性の低い社会では、近親交配を回避しない配偶行動の方が、適応度を高めると考えられます。おそらく、両親だけではなく近い世代での近親交配も推測されているアルタイ地域のネアンデルタール人が、その具体的事例となるでしょう(関連記事)。

 近親交配を推進する要因としてもう一つ考えられるのは、上述のアイルランドの新石器時代の事例や、エジプトや日本でも珍しくなかった、支配層の特権性です。支配層では、人口密度などの点では近親交配の必要性がありませんが、こうした近親交配は社会的階層の上下に関わらず、何らかの要因で閉鎖性を志向するもしくは強制される集団で起き得る、と考えられます。支配層の事例は分かりやすく、神性・権威性を認められ、「劣った」人々の「血」を入れたくない、といった観念に基づくものでもあるでしょう。より即物的な側面で言えば、財産(穀類など食糧や武器・神器・美術品など)の分散を避ける、という意味もあったと思います。財産の分散は、一子(しばしば長男もしくは嫡男)相続制の採用でも避けられますが、複数の子供がいる場合、できるだけ多くの子供を優遇したいと思うのが人情です。こうした「えこひいき(ネポチズム)」も、人類の生得的な認知的仕組みで、他の霊長類と共通する古い進化的基盤に由来します(関連記事)。

 生得的な認知的仕組みが相反するような状況で、その利害得失を判断した結果、支配層で近親交配が制度に組み込まれたのではないか、というわけです。近親交配の制度的採用という点では、財産の継承も重要になってくると思います。その意味で、新石器時代以降、とくに保存性の高い穀類を基盤とする社会の支配層において、とくに近親交配の頻度が高くなるのではないか、と予想されます。もっとも、農耕社会における食糧の貯蔵の先駆的事例はすでに更新世に存在し、上部旧石器時代となるヨーロッパのグラヴェティアン(Gravettian)が画期になった、との見解もあるので(関連記事)、更新世の時点で、財産の継承を目的とした近親交配もある程度起きていたのかもしれません。

 もちろん、近親交配回避の認知的仕組みは比較的弱いので、支配層における制度的な近親交配だけではなく、社会背景にほとんど起因しないような個別の近親交配も、人類史において低頻度で発生し続けた、と思われます。近親交配の忌避は、ある程度以上の規模と社会的流動性(他集団との接触機会)を維持できている社会においては、適応度を上げる仕組みとして選択され続けるでしょう。しかし、人口密度や社会的流動性が低い社会では、時として近親交配が短期的には適応度を上げることもあり、これが、人類も含めて霊長類社会において近親交配回避の生得的な認知的仕組みが比較的緩やかなままだった要因なのでしょう。現生人類においては、安定的な財産の継承ができるごく一部の特権的な社会階層で、「えこひいき(ネポチズム)」という生得的な認知的仕組みに基づき、近親交配が選択されることもあり得ます。その意味で、人類社会において近親交配は、今後も広く禁忌とされつつ、維持されていく可能性が高そうです。

 こうした進化史を前提として、現生人類は双系的社会を形成していますが、それがいつのことなのか、不明です。所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けることの考古学的指標となるかもしれないのが、物質の長距離輸送です。これが集団間の交易だとすると(同一集団が物質を入手して長距離移動した可能性も否定できませんが)、広範な社会的つながりの存在を示し、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けることがその基盤になっているかもしれない、というわけです。こうした物質の長距離輸送は中期石器時代のアフリカで20万年以上前の事例も報告されており(関連記事)、現生人類の広範な社会的つながりこそ、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他の非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)に対する優位をもたらした、との見解には根強いものがあります(関連記事)。しかし、ネアンデルタール人でも物質の長距離輸送の事例が報告されており、しかも異なる文化間でのことなので、交易と呼んで大過ないかもしれません(関連記事)。そうすると、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けることは、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の段階ですでに存在しており、そこからずっとさかのぼる可能性も考えられます。

 どこまでさかのぼるのかはともかく、現生人類が、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けるように、複数の帰属意識を有することは確かです。民族もそうした集団への帰属意識の一つですが、現代においては大きな意味を有している、と言っても大過はなさそうです(普段はほとんど意識していない人も少なくないでしょうし、現代日本ではその割合が多いかもしれませんが)。民族について、20世紀第4四半期以降、近代において「創られた伝統」と強調する人が日本でも増えてきたように思いますが、近代における民族の「虚構性」はあり、前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多いとしても、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。民族の基本は共通の自己認識でしょうが、「客観的に」判断するとなると、文化の共通性となるでしょうから、文字資料のない時代にも、考古学的にある程度以上の水準で「民族的集団」の存在を認定することは可能だと思います。ただ、前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えています。

 民族の形成について、私が多少なりとも語れるのは日本(もしくは、「ヤマト」など他により相応しい呼称はあるでしょうが)民族と漢民族くらいですが、どの要素を重視するかで見解が異なるのは当然だろう、と思います。私は、漢民族や日本民族のような規模の大きい民族となると、その構成員の自認という観点からも、近代以降の形成とみなすのが妥当だろう、と考えています。ただ、どちらも民族意識の核となる構成要素が前近代に見られることは否定できず、もっと前に設定する見解も間違いとは言えない、と思います。

 たとえば、漢民族が戦国時代~秦漢期に形成されたと想定することも可能でしょうが、その場合、日本民族の形成時期は遅くとも平安時代にはさかのぼり、天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)という表現に示される(ここで朝鮮が視野に入っていないことに、その後の日本の世界認識の重要な論点が含まれている、と言えそうです)、と私は考えています。日本の漢詩文は、形式・題材・美意識のすべてにおいて、唐からの直輸入だった9世紀前半と比較すると、9世紀後半には、漢詩文という形式をとりながら、日本の身近な風景や人物に題材がとられるようになり、その美意識にも独自のものが見られるようになるとともに、日本で編纂された類書も、9世紀前半には中華地域的視点に限られていたものの、10世紀前半には日本の事象も対象とされていき、これらは「本朝意識」の芽生えとも言え、「国風文化」や、その本格的な始まりを告げる10世紀初頭の『古今和歌集』の編纂に象徴される和歌の「復興」もそうした文脈で解されます(関連記事)。

 現代とより直接的につながるという意味での「伝統社会」の形成を民族形成の指標とするならば、20年前頃に私が今よりもずっと強く東洋史に関心を抱いていた頃によく言われていた?「東アジア伝統社会論」が参考になりそうです。これは、中華地域や朝鮮半島や日本列島の「伝統社会」は、15~18(もっと限定して16~17)世紀に形成された、というもので、漢民族も日本民族もその頃の形成となります。私は、日本の「伝統社会」は平安時代から18世紀前半にかけてじょじょに形成され、南北朝時代や戦国時代は大きな変動期ではあるものの、そこが決定的な画期ではない、と今では考えています。「東アジア伝統社会論」とは異なるところもありますが、17世紀前後に漢字文化圏で「伝統社会」が形成された、との見解はおおむね妥当なように思います。

 まとめると、漢民族と日本民族の形成時期に関する私見は、(1)構成員の多数の自認を重視すると共に近代以降、(2)民族意識の核となる構成要素を重視すると、漢民族は戦国時代~秦漢期、日本は遅くとも平安時代、(3)現代とより直接的につながるという意味での「伝統社会」の形成を重視すると共に17世紀前後となります。その意味で、漢民族の形成は精々近現代だが日本民族は縄文時代に形成された、というような見解は私にとって論外となります。一方、漢民族は戦国時代~秦漢期に形成されたが、日本は明治時代で、さかのぼっても精々江戸時代というような見解も、基準が統一されていないように思えるので、支持できません。

三葉虫の眼球

 三葉虫の眼球に関する研究(Schoenemann, and Clarkson., 2020)が公表されました。この研究は、デジタル顕微鏡を用いて、1846年に現在のチェコ共和国のロジェニツェ(Loděnice)近郊で発見された、約4億2900万年前の三葉虫 (Aulacopleura koninckii)の化石を再調査しました。この化石は、高さ1~2mmで、後頭部に2つの突出した半楕円形の眼があり、そのうちの1つは脱落していました。本論文は、この眼球化石の内部構造のいくつかが、多くの現生昆虫や現生甲殻類の複眼の内部構造と類似している、と報告しています。

 その一つが、個眼(直径35μm)という視覚ユニットで、個眼には、感桿という透明な管の周りに集まった光検出細胞が含まれています。本論文は、個々の個眼を取り囲む暗色の輪が色素細胞からできており、この色素細胞が個眼と個眼の間の障壁として作用していた、との見解を提示しています。個眼の上には、分厚い水晶体に加えて、薄い円錐晶体と考えられる化石がありました。この円錐晶体を通過して、光が感桿に集束すると考えられます。

 この個眼のサイズが小さいことから、三葉虫は明るい浅瀬に生息し、日中に活動していた可能性がひじょうに高い、と示唆されます。水晶体の直径が小さい方が、明るい条件下で光を効率的に集められるからです。また、個眼と個眼の間に色素細胞の障壁が存在したことから、この三葉虫が現生の多くの昆虫や甲殻類の複眼と同様に、個々の個眼が全体像の小さな部分に寄与するモザイク視覚を有していた、と示唆されています。

 これらの知見は、約4億2900万年前の三葉虫の眼球の化石の内部構造が、現生ミツバチの眼球の内部構造とほとんど同じであることを示しています。これは、多くの現生昆虫や現生甲殻類の複眼の構造と機能が、古生代(約5億4200万~2億5100万年前)以降ほとんど変化していないことを示唆するとともに、古代の三葉虫の生活様式を解明する手がかりになっています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:三葉虫の生活様式の手掛かりをもたらした4億2900万年前の眼球の化石

 4億2900万年前の三葉虫の眼球の化石の内部構造が、現生ミツバチの眼球の内部構造とほとんど同じであることを明らかにした論文が、Scientific Reports に掲載される。この新知見は、多くの現生昆虫や現生甲殻類の視覚の原理が、少なくとも5億年前から変わっていないことを示唆している。

 今回、Brigitte SchoenemannとEuan Clarksonは、デジタル顕微鏡を用いて、1846年にロジェニツェ(チェコ共和国)近郊で発見された三葉虫 (Aulacopleura koninckii)の化石を再調査した。この化石は、高さ1~2ミリメートルで、後頭部に2つの突出した半楕円形の眼があり、そのうちの1つは脱落していた。Schoenemannたちは、この眼球の化石の内部構造のいくつかが、多くの現生昆虫や現生甲殻類の複眼の内部構造と類似していることを報告している。その1つが、個眼(直径35マイクロメートル)という視覚ユニットで、個眼には、感桿という透明な管の周りに集まった光検出細胞が含まれている。Schoenemannたちは、個々の個眼を取り囲む暗色の輪が色素細胞からできており、この色素細胞が、個眼と個眼の間の障壁として作用していたという考えを示している。個眼の上には、分厚い水晶体に加えて、Schoenemannたちが薄い円錐晶体と考える化石 があった。この円錐晶体を通過して、光が感桿に集束すると考えられる。

 この個眼のサイズが小さいことから、A. koninckiiが明るい浅瀬に生息し、日中に活動していた可能性が非常に高いと示唆される。水晶体の直径が小さい方が、明るい条件下で光を効率的に集められるからだ。また、個眼と個眼の間に色素細胞の障壁が存在したことから、この三葉虫が現生の多くの昆虫や甲殻類の複眼と同様に、個々の個眼が全体像の小さな部分に寄与するモザイク視覚を有していたことが示唆されている。

 以上の知見は、多くの複眼の構造と機能が、古生代(5億4200万~2億5100万年前)以降ほとんど変化していないことを示唆するとともに、古代の三葉虫の生活様式を解明する手掛かりになっている。



参考文献:
Schoenemann B, and Clarkson ENK.(2020): Insights into a 429-million-year-old compound eye. Scientific Reports, 10, 12029.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-69219-0