鳥類の認知能力の基盤

 鳥類の認知能力の基盤に関する二つの研究が公表されました。日本語の解説記事もあります。なぜ一部の鳥類が、哺乳類とは全く異なる前脳組織を有するにもかかわらず哺乳類と同様の認知能力を有するのか、1世紀にわたり議論されてきました。哺乳類の大脳皮質に認められる特徴的な層状構造の代わりに、鳥類の脳外套には高いニューロン密度が特徴的に認められます。一方の研究(Stacho et al., 2020)は、ハトおよびフクロウの脳外套の解剖学的特徴を検討し、この領域のニューロン構造を極めて詳細に視覚化できました。この研究は、類縁性の遠い各種鳥類において脳外套の線維構造およびニューロン回路が、哺乳類の皮質の層状構造と極めて似ていることを見つけました。この構造は、鳥類の他に例をみない認知能力の背景となっている可能性があります。

 もう一方の研究(Nieder et al., 2020)は、ハシボソガラスに視覚刺激に反応するよう訓練して、そのニューロン反応を観察しました。その結果、霊長類の前頭前皮質と同様に、カラスの脳外套には、意識があることの標識と考えられる、見たものに対する哺乳類の知覚に対応するようなニューロン活動が認められた、と報告されています。これら2件の研究は、意識などの複雑な認知能力を可能にする哺乳類の皮質に類似したニューロン構造が、3億2千万年前頃の鳥類と哺乳類の最小共通祖先においてすでに存在していた可能性がある、と示唆します。あるいは、そうした構造は、きわめて異なる前脳組織を有する両種において、収斂進化の過程によりそれぞれ独立に発生したのかもしれません。


参考文献:
Nieder A, Wagener L, and Rinnert Rinnert.(2020): A neural correlate of sensory consciousness in a corvid bird. Science, 369, 6511, 1626–1629.
https://doi.org/10.1126/science.abb1447

Stacho M. et al.(2020): A cortex-like canonical circuit in the avian forebrain. Science, 369, 6511, eabc5534.
https://doi.org/10.1126/science.abc5534

現生人類の自己家畜化の遺伝的基盤

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、現生人類(Homo sapiens)の自己家畜化の遺伝的基盤に関する研究(Zanella et al., 2019)が報道されました。現生人類(Homo sapiens)は、家畜種を対応する野生種から区別する特徴を想起させる、一連の頭蓋顔面と向社会的特徴を示します(関連記事)。家畜化は、種がより友好的で、より攻撃的ではないよう育てられる時に生じる、遺伝的変化一式を含みます。たとえば家畜化されたイヌやキツネでは、より小さい歯と頭蓋、たれ耳、より短く巻いた尾です。

 これは、現生人類がその進化において家畜化過程を経て、その影響は形態や認知能力に関わっている、という仮説につながりました。現生人類は、その祖先の多くよりも攻撃的ではなく、協力的と推測されています。現生人類は、脳が大きいものの頭蓋はより小さく、眉弓が顕著ではなく、これは自己家畜化の特徴と考えられています。現生人類の自己家畜化という見解は19世紀初めのブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach)の見解にまでさかのぼり、現生人類と家畜の類似性には19世紀後半にダーウィン(Charles Robert Darwin)も注目していました。しかし、管理された繁殖を重視するダーウィンは、家畜化と現生人類の自己家畜化を異なる現象として把握し、自己家畜化という見解を発展させることはありませんでした。

 しかしその後、現生人類の形態および認知行動の特徴は、非ヒト動物の家畜化とのひじょうに類似した進化過程から生じる、という可能性が指摘され、現生人類の自己家畜化説として洗練されてきました。最近の研究では、家畜化と選択的繁殖の確かな区別が提示され、自己家畜化の概念がネコやイヌやボノボにも拡張されています。この過程は現生人類の漸進的な地理的拡大のさいに、さらに進んだかもしれません。

 しかしこれまで、現生人類の自己家畜化説は、二つの要因のために決定的な証拠の提示には失敗してきました。それは、どのような発達および遺伝的メカニズムが家畜化の根底にあるのか、理論水準でさえ一貫した説明が欠けていたことと、現生人類の自己家畜化の場合にこれらのメカニズムを具体的に検証できる適切な実験体系が欠如していたことです。したがって、自己家畜化の根底にある同じメカニズムを仮定しなければなりません。現生人類の自己家畜化に関しては、穏やかな神経堤不足の結果である、との見解も提示されていますが、家畜化および現生人類への家畜化の拡張の神経堤症的基礎は、まだ実験的に検証されていません。

 ウィリアムズ(ウィリアムズ・ボイレン)症候群(WBS)とその領域重複症候群は、それぞれ、7番染色体の領域(7q11.23)の28遺伝子(ウィリアムズ症候群に重要な領域、WBSCR)の半接合欠失と半重複により起き、神経堤に関連する頭蓋顔面異形症や認知・行動的特徴、具体的には顔面縮小・退縮や過度の有効性や反応性攻撃性の減少を示します。GTF2Iやそのパラログ(遺伝子重複により生じた類似の機能を有する遺伝子)といったWBS遺伝子の構造的多様体は、家畜化されたイヌやキツネで典型的な超社会性の基盤にある、と示されてきました。

 本論文では、WBSCR遺伝子のうち、クロマチン制御のBAZ1B(ウィリアムズ症候群転写因子、WSTFとしても知られています)に焦点が当てられており、家畜化と関連する頭蓋顔面の特徴と関係する一連の証拠に基づいています。これらの証拠は、アフリカツメガエル(Xenopus laevis)、ノックアウトマウス、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)などから得られています。

 以前の研究で、7q11.23に由来する患者の人工多能性幹細胞(iPSC)の分析から、多能性状態ですでに明らかで、分化時にさらに悪化した、主要な疾患関連転写調節不全が解明されました。本論文はこれを利用して、機能(神経堤の移動と誘導)と転写およびクロマチン調節不全の両観点において、WBSおよび同じ遺伝子領域に起因するASD(自閉スペクトラム症)の患者の神経堤におけるBAZ1B量の影響を詳細に分析し、これにより、NCを制御する依存回路であるBAZ1B量を定義します。

 次に本論文は、頭蓋顔面形態発生の基礎となるこれら実験的に決定されたBAZ1B依存回路を適用して、これまで相関性のみだった古代ゲノム分析の証拠を調べます。これにより、現生人類においてBAZ1B制御と調節変化を有する遺伝子との間の主要な収斂が明らかになります。頭蓋顔面神経堤症におけるBAZ1B発現量の定義と、家畜化関連古代ゲノム研究への適用から、現生人類の顔の形態への主要な調節因子としてBAZ1Bが特定されました。AZ1B遺伝子は、神経堤細胞の挙動を制御し、発現量が低いと神経堤移動の減少を、高いと神経堤移動の増加をもたらします。

 これにより、神経堤に基づく(自己)家畜化の説明の中心にある、予測の実験的検証が提供されます。それは、現生人類の顔が穏やかな神経堤症の事例としてその形態を獲得した、というものです。現代人集団のBAZ1B遺伝子では、現時点で利用可能なネアンデルタール人およびデニソワ人のゲノムでは見られない、かなりの数の蓄積された変異が高頻度で見られます。そのため、BAZ1B遺伝子が、ネアンデルタール人やデニソワ人といった近縁系統と比較したさい、現生人類の顔を異なるものにした要因と推測されました。これら同じ遺伝子の多くは他の家畜化された動物でも選択されてきたので、現生人類も進化史において比較的最近の家畜化過程を経験したのではないか、と考えられます。現生人類はネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と、諸説によりかなりの幅があるものの、およそ80万~50万年前頃(関連記事)に分岐した後、こうした自己家畜化を進展させていったのではないか、というわけです。

 この研究に関わっていない生物人類学者のランガム(Richard Wrangham)氏は、多くの異なる遺伝子が家畜化に役割を果たしている可能性が高いので、BAZ1Bの進化的重要性を読み取りすぎてはならない、と注意を喚起しています。BAZ1Bはひじょうに重要な遺伝子の一つではあるものの、他に候補遺伝子が複数存在することは明らかだ、というわけです。一方、同じくこの研究に関わっておらず、進化生物学と認知科学を専攻するフィッチ(William Tecumseh Fitch III)氏は、ヒトの自己家畜化と動物の家畜化との間の「正確な類似」に懐疑的です。これらは類似点と相違点の両方を備えた過程で、一つもしくはいくつかの遺伝子の変異が、家畜化に関わる多くの遺伝子の良いモデルにはならないだろう、というわけです。現生人類の家畜化については、仮説が多数あります。ランガム氏は、初期人類が協力的な社会を形成するさいに、進化的圧力により「アルファ」もしくは攻撃ではない特徴の仲間が選択された、との見解を支持します。攻撃性を好む遺伝子に対して、最初期に選択が作用したのではないか、というわけです。現在まで、現生人類は自身を管理している唯一の種とされます。


参考文献:
Zanella M. et al.(2019): Dosage analysis of the 7q11.23 Williams region identifies BAZ1B as a major human gene patterning the modern human face and underlying self-domestication. Science Advances, 5, 12, eaaw7908.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw7908

信頼性を伝える顔の特徴

 信頼性を伝える顔の特徴に関する研究(Safra et al., 2020)が公表されました。社会的信頼は、積極的な社会的成果(経済実績の向上や犯罪率の低下など)に関連しています。しかし、信頼が何によって生じるのか、明確になっていません。その理由の一つは、社会的信頼の変化を長期間にわたって定量的に記録することが困難であるためです。この研究は、信頼性の歴史的変遷をたどるため、肖像画の信頼性評価を生成するアルゴリズムを設計しました。このアルゴリズムの妥当性は、最初に、人間の参加者が格付け評価した顔の写真を用いて検証されました。続いて行なわれた検証で、このアルゴリズムは、表示された顔画像の年齢・性別・感情により信頼性の知覚が異なる、という科学文献に示された結果を再現しました。

 この研究は、ロンドンの国立肖像画美術館所蔵の1505~2016年のイギリス人の肖像画のコレクション1962点を分析し、信頼性を伝える特徴が年を追うごとに有意に増加したことを見いだしました。この結果は、Web Gallery of Artに登録されているヨーロッパ西部19ヶ国の1360~1918年の肖像画4106点でも再現されました。肖像画における信頼性を伝える特徴の増加が、社会的信頼の変化を反映しているとする仮説にしたがって、このアルゴリズムは、ソーシャルメディアに投稿された6都市で撮影された2277枚の自撮り写真に適用されました。その結果、ヨーロッパ価値観調査と世界価値観調査で個人間の信頼と協力が高いと評価された都市で撮影された画像には、信頼性を伝える特徴が多い、と明らかになりました。この研究は、16~20世紀に信頼性を伝える特徴の増加に影響を与えた可能性のある要因を検討し、この増加が、より民主的な制度の台頭など制度的変化よりも、1人当たりGDPの増加と強く関連していることを明らかにしました。生活水準の改善と関連しているのではないか、というわけです。進化的な観点からも注目される研究だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


心理学:肖像画は「信頼性」の歴史的変遷をたどるのに役立つ

 ヨーロッパ人の肖像画において信頼性を伝える顔の特徴が西暦1500~2000年の間に増加し、こうした顔の特徴が社会的信頼の変化を示唆していることを明らかにした論文が、Nature Communications に掲載される。この知見は、顔画像処理アルゴリズムを用いて得られたもので、顔面筋の収縮の分析によって判明した信頼性を伝える顔の特徴の増加が、この期間中に生活水準が改善したことと関連していることも示唆している。

 社会的信頼は、積極的な社会的成果(経済実績の向上や犯罪率の低下など)に関連している。しかし、信頼が何によって生じるのかは明確になっていない。その理由の1つは、社会的信頼の変化を長期間にわたって定量的に記録することが困難なことにある。

 今回、Nicolas Baumardたちの研究チームは、信頼性の歴史的変遷をたどるため、肖像画の信頼性評価を生成するアルゴリズムを設計した。このアルゴリズムの妥当性は、最初に、人間の参加者が格付け評価した顔の写真を用いて検証された。続いて行われた検証で、このアルゴリズムは、表示された顔画像の年齢、性別、感情によって信頼性の知覚が異なるという科学文献に示された結果を再現した。

 Baumardたちは、国立肖像画美術館(英国ロンドン)所蔵の1505~2016年のイギリス人の肖像画のコレクション1962点を分析し、信頼性を伝える特徴が年を追うごとに有意に増加したことを見いだした。この結果は、Web Gallery of Artに登録されている西ヨーロッパ19か国の1360~1918年の肖像画4106点でも再現された。

 肖像画における信頼性を伝える特徴の増加が社会的信頼の変化を反映しているとする仮説に従って、このアルゴリズムは、ソーシャルメディアに投稿された6都市で撮影された2277枚の自撮り写真に適用された。その結果、ヨーロッパ価値観調査と世界価値観調査で個人間の信頼と協力が高いと評価された都市で撮影された画像には、信頼性を伝える特徴が多いことが判明した。

 Baumardたちは、この期間中に信頼性を伝える特徴の増加に影響を与えた可能性のある要因を検討し、この増加が、制度的変化(より民主的な制度の台頭など)よりも1人当たりGDPの増加と強く関連していることを明らかにした。



参考文献:
Safra L. et al.(2020): Tracking historical changes in trustworthiness using machine learning analyses of facial cues in paintings. Nature Communications, 11, 4728.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-18566-7

大相撲秋場所千秋楽

 今場所は初日から白鵬関と鶴竜関の両横綱が休場となり、混戦が予想されましたが、じっさい、8日目の時点で全勝力士どころか1敗力士もおらず、4敗での優勝や4力士以上での優勝決定戦も想定されました。しかし、優勝争いは4敗までは下がらず、14日目を終えた時点で、2敗の正代関と3敗の貴景勝関・翔猿関に絞られました。まず、正代関と翔猿関が対戦し、翔猿関は健闘しましたが、やはり地力の違いが出たのか、正代関が土俵際で突き落として勝ち、13勝2敗で初優勝を果たしました。翔猿関が勝っていれば巴戦の可能性も残っていたので残念ですが、この結果は当然とも言えます。

 正代関は場所後に大関に昇進することになりそうですが、直近3場所がいずれも関脇で、8勝→11勝→13勝の合計32勝となります。大関昇進の目安とされる33勝には1勝だけ足りませんが、関脇で3場所連続の勝ち越しとなり、過去には北の湖関や千代大海関が合計32勝ながら優勝して大関に昇進しており、妥当なところでしょう。最近は横綱不在が多いので、やや甘い昇進基準とも言えるかもしれませんが、横綱の休場は正代関の責任ではないので、問題ないと思います。正代関は今場所の内容から横綱昇進も期待されますが、できれば白鵬関に力勝負で勝って横綱に昇進してもらいたいものです。翔猿関は新入幕で大健闘し、貴景勝関には完敗でしたが、正代関には健闘し、来場所番付が上がっても勝ち越せるかもしれません。

 大関への足固めが期待された関脇3人は明暗がはっきり分かれて、正代関が強い相撲を続けて優勝を果たしたのに対して、御嶽海関は勝ち越すのがやっとで8勝7敗、大栄翔関は大きく負け越して5勝10敗でした。御嶽海関は強さとともに脆さも見られ、2回優勝してはいますが、大関昇進は難しいかもしれません。大栄翔関は、まだ力不足でしょうか。横綱昇進の足固めの場所になると期待された朝乃山関は初日から3連敗で、その後の10連勝で立て直したものの、千秋楽の貴景勝関との結びの一番でも敗れ、10勝5敗に終わりました。まだ精神的な脆さがありますが、「正統派」的なところがあるので、相撲協会やマスコミの期待は大きいようです。

 今場所は、初日から両横綱が休場しましたが、途中休場も目立ちました。新型コロナウイルスの流行により出稽古禁止となり、調整が難しくなっていることも大きいでしょうが、以前よりも八百長が減っているという推測が妥当なのだとしたら、1場所15日で年6場所(先々場所は中止になりましたが)という現行体制に根本的な問題がある、と言うべきでしょう。両横綱のうち、鶴竜関はいよいよ追い詰められたという感じで、来場所引退しても不思議ではありません。白鵬関は、ある程度体調が整えば、まだ最強だとは思いますが、それでも5回以上優勝するとはとても思えず、来年前半で引退しても不思議ではありません。

 正代関は覚醒した感があり、横綱に最も近いとさえ言えそうですが、来場所前に29歳になるので、横綱として長く務めることは難しそうです。朝乃山関も26歳でそこまで若いわけではなく、24歳と横綱・大関陣で最も若い貴景勝関は押し相撲で安定感に欠けますから、かなり危機的な人材不足の状況にあることは間違いありません。日本社会全体の少子高齢化が進む中、旧悪と指弾されそうな要素の多い大相撲界に進みたいと考える少年も、息子を力士にさせたいと考える保護者も少ないでしょうから、大相撲の水準低下も仕方ないところでしょうか。

ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体での系統関係

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のY染色体DNA解析に関する研究(Petr et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。本論文はすでに今年(2020年)3月、査読前に公開されていました(関連記事)。その時と内容は基本的に変わっていないようですが、多少の変更点や私の見落としおよび間違い(平均網羅率など)があるので、それらを訂正しつつ以前の記事を基本的には流用し、以前は掲載しなかった図も取り上げるとともに、その後のネアンデルタール人やデニソワ人に関する知見も取り入れます。


 古代DNA研究により、移住・置換・遺伝子流動など、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類(Homo sapiens)の複雑な進化史が明らかにされてきましたが、古代型ホモ属と現生人類の関係の考察は、大半が常染色体に基づいています。一方、ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAは、それぞれ母系と父系での単系統のみの遺伝情報を示しますが、性特異的な移住やその他の文化現象のような人口史の多様な側面に独自の視点を提供します。

 ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類においては、mtDNAと常染色体での系統関係の不一致が明らかにされてきました(関連記事)。常染色体ゲノムでは、ネアンデルタール人およびデニソワ人系統が現生人類系統と765000~550000年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。しかしmtDNAでは、ネアンデルタール人はデニソワ人よりも現生人類と近縁で、その推定分岐年代は468000~360000年前頃です。43万年前頃のスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)集団は早期ネアンデルタール人とされていますが、mtDNAでは現生人類よりもデニソワ人の方と近縁で、常染色体ではネアンデルタール人系統に位置づけられます(関連記事)。

 これらの知見から、ネアンデルタール人は元々デニソワ人に近いmtDNAを有しており、後に現生人類と関連する早期系統からの遺伝子流動経由で完全に置換された、との見解が提示されています。ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体は、古代型ホモ属と現生人類の間の分岐や遺伝子流動に関する重要な情報を追加できます。しかし、ネアンデルタール人のY染色体のわずかなコーディング配列を除いて、これまでネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体の研究はありませんでした。スペイン北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡(関連記事)やベルギーのスピ(Spy)遺跡およびロシアのコーカサス地域のメズマイスカヤ(Mezmaiskaya)遺跡(関連記事)のネアンデルタール人のY染色体は解析されてきましたが、Y染色体全体の包括的な研究を可能とする内在性DNAは、じゅうぶんは得られていませんでした。

 本論文は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡のデニソワ人2個体と、スピ遺跡とメズマイスカヤ遺跡とエルシドロン遺跡(エルシドロン1253)のネアンデルタール人1個体ずつのY染色体DNAを改めて解析しました。デニソワ人は、84100~55200年前頃のデニソワ4(Denisova 4)と136400~105600年前頃のデニソワ8(Denisova 8)、ネアンデルタール人は、39000~38000年前頃のスピ94a(Spy 94a)と45000~43000年前頃のメズマイスカヤ2(Mezmaiskaya 2)と53000~46000年前頃のエルシドロン1253(El Sidrón 1253)です。Y染色体のうち計690万塩基対(エルシドロン1253のみは56万塩基対)が標的領域とされ、平均網羅率は、デニソワ4が1.4倍、デニソワ8が3.5倍、スピ94aが0.8倍、メズマイスカヤ2が14.3倍、エルシドロン1253が7.9倍です。

 これらの解析の結果、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体はそれぞれ単系統群(クレード)を形成する、と明らかになりました。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核(というか常染色体)ゲノムとは異なり、ネアンデルタール人と現生人類が近縁と明らかになりました。現代人のY染色体ハプログループ(YHg)で最も早く分岐したのはA00ですが(関連記事)、ネアンデルタール人のY染色体系統は、デニソワ人系統とネアンデルタール人および現生人類の共通祖先系統が分岐した後で、全現生人類系統と分岐したことになります。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核ゲノムのそれとは一致せず、mtDNAのそれと一致します。

 Y染色体の各系統の推定分岐年代は、YHg-A00と非アフリカ系現代人系統では249000(293000~213000)年前頃です。非アフリカ系現代人とデニソワ人とでは、デニソワ8が707000(835000~607000)年前頃、デニソワ4が708000(932000~550000)年前頃です。非アフリカ系現代人とネアンデルタール人とでは、スピ94aが353000(450000~287000)年前頃、メズマイスカヤ2が370000(420000~326000)年前頃、エルシドロン1253が339000(408000~275000)年前頃です。父系となるY染色体の推定分岐年代は、現生人類およびネアンデルタール人の共通祖先系統とデニソワ人の祖先系統とが70万年前頃、現生人類系統とネアンデルタール人系統とが35万年前頃、ネアンデルタール人3個体では10万年前頃です。以下、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体と現生人類のY染色体系統樹(図2A)と合着年代(図2B)を示した本論文の図2です。
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 Y染色体におけるデニソワ人系統と現生人類系統の推定分岐年代は、常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代とよく一致しており、現生人類系統とデニソワ人系統のY染色体の分岐は単純な集団分岐の結果と示唆されます。一方、Y染色体におけるネアンデルタール人系統と現生人類系統の推定分岐年代は常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代よりもかなり新しく、mtDNAで推測されている、現生人類に近い系統からネアンデルタール人系統への遺伝子流動と一致します。エルシドロン遺跡のネアンデルタール人のY染色体に関する研究(関連記事)では、現生人類系統とネアンデルタール人系統の推定分岐年代は588000年前頃です。一方、本論文ではそれが35万年前頃とかなり新しく、その理由として本論文は、以前の研究ではデータ量が限定的だったことを指摘しています。

 上述のように、ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体における系統関係は、mtDNAのそれと一致し、核(というか常染色体)ゲノムのそれとは一致しません。これは、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と分岐した後の(広義の)現生人類系統において、現代人系統と早期に分岐した(父系においての)絶滅系統がネアンデルタール人系統と交雑し、ネアンデルタール人系統にデニソワ人系統よりも現生人類系統に近いmtDNAとY染色体をもたらした、と考えられます。以前の研究では、現生人類からネアンデルタール人への数%程度とわずかな遺伝子流動が指摘されており(関連記事)、最近の研究ではこの遺伝子流動は30万~20万年前頃に起き、割合は3~7%と推定されています(関連記事)。ギリシアでは21万年以上前のおそらくは広義の現生人類遺骸が発見されており、ヨーロッパにおける20万年以上前のネアンデルタール人広義の現生人類系統との交雑はじゅうぶん考えられるでしょう(関連記事)。

 他系統からの3~7%程度の遺伝子流動という条件において、他系統のmtDNAとY染色体への置換は、通常の進化ではひじょうに起きにくいと考えられます。しかし、有効人口規模が現生人類よりも小さいネアンデルタール人においては、現生人類よりも多い有害な変異の蓄積の可能性が指摘されており(関連記事)、じっさい、ネアンデルタール人3個体のエクソン領域に関しては、現代人よりも有害なアレル(対立遺伝子)を多く有している、と明らかになっています。本論文は、有効人口規模が小さい場合のシミュレーションにより、ネアンデルタール人のY染色体が現生人類のY染色体よりも適応度がわずかでも低い場合、完全置換率に強い影響を与える、と明らかにしました。

 具体的には、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動を5%と仮定した場合、5万年後の置換率は、ネアンデルタール人のY染色体適応度が1%低いと25%に増加し、2%低いと50%に増加します。こうした予測は、Y染色体と同じく単系統遺伝となるmtDNAにも当てはまります。これらの結果は、ネアンデルタール人におけるより高い遺伝的荷重が、ネアンデルタール人のmtDNAおよびY染色体という単系統遺伝の置換可能性の増加と相関していることを示します。繁殖と受精力におけるY染色体の重要性を考慮すると、Y染色体の有害な変異または構造的多様体が、のシミュレーションよりも適応度にずっと大きな影響を与えるかもしれない、と本論文は指摘します。以下、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の核(常染色体)ゲノムとmtDNAとY染色体の系統関係(図3A)と、Y染色体系統の置換率(図3B)を示した本論文の図3です。
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 後期ネアンデルタール人のY染色体は、37万~10万年前頃の間に、ネアンデルタール人やデニソワ人よりも現生人類系統と近縁な絶滅系統からもたらされた、と推測されます。上述のように、早期ネアンデルタール人である43万年前頃のSH集団は、mtDNAでは後期ネアンデルタール人よりもデニソワ人に近いと明らかになっていますが、Y染色体でも同様だろう、と本論文は予測しています。後期ネアンデルタール人のゲノムから推測される、現生人類からネアンデルタール人への限定的な遺伝子流動を考慮すると、後期ネアンデルタール人におけるmtDNAとY染色体の完全な置換は意外ですが、ミトコンドリアと常染色体の不一致は集団遺伝学理論では予測されており、動物の種間交雑では比較的一般的です。本論文は、2集団間の交雑における単系統遺伝子座の遺伝的荷重の違いが、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAとY染色体の置換の要因だろう、と指摘します。

 本論文はひじょうに興味深い結果を提示しており、今後、古代型ホモ属のY染色体DNA解析数さらに増えていくよう、期待しています。デニソワ人と確認されている個体はネアンデルタール人と比較してひじょうに少ないので、古代型ホモ属のY染色体DNA解析は当分ネアンデルタール人が中心となりそうですが、まず注目されるのは、本論文でも言及されている早期ネアンデルタール人のSH集団です。SH集団は43万年前頃と後期ネアンデルタール人やデニソワ人よりもずっと古いだけに、Y染色体DNAの解析は難しいかもしれませんが、何とか成功してもらいたいものです。また、ネアンデルタール人系統内でも核DNAとmtDNAで系統の不一致が指摘されているので(関連記事)、Y染色体ではどうなのか、さらに詳しい研究の進展が期待されます。


 以上、ほぼ以前の記事からの流用ですが、本論文の内容をざっと見てきました。査読前の論文を取り上げた後も、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の関係について、興味深い研究が複数提示されています。たとえば、ネアンデルタール人と現生人類との複数回の交雑を指摘した研究や(関連記事)、ネアンデルタール人から非アフリカ系現代人へと再導入された遺伝子に関する研究(関連記事)です。デニソワ人に関しては、アジア東部の早期現生人類においてデニソワ人の遺伝的影響が指摘されており、これは現代パプア人やオーストラリア先住民の祖先集団の事例とは異なるデニソワ人との交雑事象を反映している、と推測されています(関連記事)。

 ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑も指摘されており、アルタイ地域ではデニソワ人とネアンデルタール人との交雑が一般的だったと推測されていますが、12万~4万年前頃となるユーラシア西部のネアンデルタール人8個体のゲノムでは、デニソワ人系統は殆ど或いは全く検出されませんでした(関連記事)。非アフリカ系現代人全員のゲノムには、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡で発見された5万年前頃のネアンデルタール人と関連する古代型ホモ属に由来する領域が2%ほどある、と推定されています(関連記事)。ユーラシア西部ではデニソワ人は確認されていないため、ユーラシア西部現代人集団のゲノムには、基本的にデニソワ人由来の領域はない、と考えられますが、アイスランド現代人のゲノムには、わずかながらデニソワ人由来の領域が確認されています(関連記事)。

 アルタイ地域のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)のネアンデルタール人の高品質なゲノム配列からは、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団は、デニソワ洞窟の個体(デニソワ5)に代表される東方系のネアンデルタール人よりもヴィンディヤ洞窟個体(Vindija 33.19)に近いものの、チャギルスカヤ洞窟個体とも同等に密接な関係にある、と示唆されています(関連記事)。つまり、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団を表す個体は、まだ発見されていないかゲノムデータが得られていない、と考えられます。この未知の個体のゲノムには、デニソワ人由来の領域がわずかながら存在する、と推測されます。

 このように、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の関係は複雑で、相互に複数回の交雑があった、と考えられます。mtDNAの違いから哺乳類における雑種の繁殖力を予測した研究では、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人は、繁殖力のある子孫の誕生に重要な生物学的障害を予測できるほど、相互にじゅうぶんには分岐していない、と指摘されています(関連記事)。さらに、現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先と分岐した未知の人類系統が、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統(関連記事)や、アフリカの現生人類(関連記事)と交雑した、との見解も提示されています。今後、新たな手法の開発により、後期ホモ属間の複雑な関係がさらに解明されていくだろう、と期待されます。


参考文献:
Petr M. et al.(2020): The evolutionary history of Neanderthal and Denisovan Y chromosomes. Science, 369, 6511, 1653–1656.
https://doi.org/10.1126/science.abb6460

大河ドラマ『麒麟がくる』第25回「羽運を運ぶ蟻」

 1566年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、覚慶(足利義昭)は還俗しますが、越前には入れません。足利義栄が将軍に任ぜられるのではないか、と焦る細川藤孝は朝倉義景に面会に行きますが、会えませんでした。1567年、織田信長は美濃を平定し、藤田伝吾からの手紙により、光秀たちも安心して美濃に帰れると分かり、光秀は母とともに美濃に一時的に帰国しますが、まだ流浪の身である自分に忸怩たる思いがあることを母に打ち明けます。

 光秀は稲葉山(岐阜)城で稲葉良通(一鉄)と再会します。信長と面会した光秀は、信長から自分に仕官するよう誘われたものの断り、足利義輝殺害後どうすればよいか悩んでいる、と答えます。信長も、自分が今後どうすべきか悩んでいる、と光秀に打ち明けますが、同時に、戦は嫌いではない、皆に喜ばれるのが好きなので、そのような戦をしたいが、周囲には敵も多く、どこを攻めればよいのか悩んでいると光秀に尋ね、光秀は信長に上洛して大きな国を作るよう勧めます。しかし、次の将軍に擁立すべき義昭の器量を問われた光秀は返答に窮します。光秀が越前に戻ると、細川藤孝と足利義昭が光秀邸を訪れていました。義昭は、助けがあれば将軍を務められ、一人の僧侶としてよりも貧しい人々を救える、と光秀に打ち明け、義景への助力働きかけを光秀に依頼します。光秀は義昭の器量を見直し、義景に義昭を推戴するよう、進言します。松永久秀からも義昭支援を依頼されていた義景は、義昭を受け入れると決断します。しかし、光秀は息子が飼っていた鼠を探すために大事な話を中断する義景を見て、改めて義景の器量に不安を抱いたようです。

 今回は、今後の展開、さらには本能寺の変へと至る光秀と信長との関係で、ひじょうに重要と思われるやり取りが描かれました。本作の信長は、子供の頃に母親から愛されず、愛情を求める人物として描かれてきました。その意味で、皆に喜ばれるために戦をする、という信長の行動原理はよく分かります。さらに、斎藤道三から光秀への遺言とも考えられる「大きな国」を伝えられた信長は、まだ漠然としているとはいえ、遠い将来の目標を見つけたようにも思います。あるいは、信長の征服戦争がいつまでも続きそうだと悟った光秀が、それを阻止するため本能寺の変を起こした、という話になるのかもしれません(非道阻止説)。

青銅器時代レヴァント南部集団のゲノム解析

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、青銅器時代レヴァント南部集団のゲノム解析に関する研究(Agranat-Tamir et al., 2020)が報道されました。紀元前3500~紀元前1150年頃となる青銅器時代は、現在のイスラエルとヨルダンとレバノンとパレスチナ自治政府とシリア南西部を含むレヴァント南部の形成期でした。この時期には、レヴァント南部全域の大規模な文化崩壊が起き(関連記事)、人口および文化的に後の時代が形成されていきました。

 紀元前1150~紀元前586年頃となる鉄器時代には、フェニキアの都市国家と同様に、聖書に見えるイスラエルやユダヤやアモンやアラム・ダマスカスのような領域的王国が台頭しました。後期青銅器時代の大半において、レヴァント南部はエジプト帝国により支配されていましたが、鉄器時代後半には、メソポタミアを中心とするアッシリアやバビロニアといった帝国に支配されていました。考古学的および歴史学的研究では、青銅器時代と鉄器時代の間の大きな変化が指摘されています。それは、前期青銅器時代のクラ・アラクセス(Kura-Araxes)伝統と関連した北方(コーカサス)集団の文化的影響や、鉄器時代の始まりに西方から到来したペリシテ人のような「海の民」の影響です。

 青銅器時代のレヴァント南部の住民は一般的に「カナン人」、つまりカナンの地の住民と呼ばれています。カナン人という用語は、アマルナ(Amarna)やアララハ(Alalakh)やウガリット(Ugarit)の粘土板といった紀元前二千年紀のいくつかの記録や、紀元前8~紀元前7世紀やそれ以降の聖書に見えます。聖書では、カナン人はイスラエルよりも前のカナンの地の住民とされています。紀元前二千年紀のカナンは都市国家の体系で組織化されており、支配層は都市中心から農村(と一部の牧畜民)を支配しました。これらの都市国家の物質文化は比較的均一でしたが、この均一性が遺伝的系統にまで及ぶのか、不明です。遺伝的系統と物質文化が完全に一致する可能性は低そうですが、過去の古代DNA分析では、時として強く関連すると示されています。他の事例では、遺伝子と文化の間の直接的一致は確立できません。本論文ではいくつかの事例が議論されます。

 以前の古代DNA研究では、レヴァント南部の4ヶ所の青銅器時代遺跡の13人のゲノム規模データが報告されています。紀元前2300年頃(移行期青銅器時代)となるヨルダンのアインガザル(‘Ain Ghazal)遺跡の3人、紀元前1750年頃(中期青銅器時代)となるレバノンのシドン(Sidon)遺跡の5人、紀元前1250年頃(後期青銅器時代)となるイスラエルのテルシャドゥド(Tel Shadud)遺跡の2人、紀元前1650~紀元前1200年頃(中期および後期青銅器時代)となるイスラエルのアシュケロン(Ashkelon)遺跡の3人です。

 これらの個体群の系統は、それ以前の在来集団およびザグロス山脈の銅器時代の人々(以前はイランChLとされていました)と関連する集団との混合としてモデル化できます。青銅器時代シドン集団は、現代の同地域集団の主要な祖先集団(93±2%)としてモデル化できます。イスラエルのガリラヤのペキイン(Peqi'in)洞窟の銅器時代個体群の研究では、この在来集団の系統は、早期アナトリア半島農耕民と関連する追加の構成を含んでいた、と示されています(関連記事)。このアナトリア半島農耕民系統は、レヴァント南部の後の青銅器時代集団では見られませんが、シドンやアシュケロンの沿岸部集団は例外です。これらの観察は、銅器時代から青銅器時代の移行期における集団置換の程度を示しており、銅器時代文化と前期青銅器時代文化との間の中断を指摘する考古学的証拠と一致します。

 本論文は三つの問題を検証します。まず、カナン人の物質文化と関連した遺跡間の遺伝的均質性の程度の決定です。次に、ザグロスおよびコーカサス関連系統を青銅器時代レヴァント南部にもたらした遺伝子流動の、年代・程度・起源を解明するためのデータ分析です。最後に、追加の遺伝子流動事象が青銅器時代以降にどの程度影響を与えたのか、という評価です。これらの問題の解明のため、移行期青銅器時代から前期鉄器時代まで約1500年にまたがる、青銅器時代71人と鉄器時代2人のゲノム規模の古代DNAデータが生成されました。これらのデータがレヴァント南部における青銅器時代および鉄器時代の既知のデータと組み合わされ、現在のイスラエルとヨルダンとレバノンにまたがる、すべてカナン人の物質文化を示す9遺跡93人のデータセットが生成されました。

 異なる遺跡から標本抽出された個体群は、とくにシドンやアシュケロンのような沿岸部地域住民において、いくつかの事例では微妙ではあるものの有意な違いがあるにも関わらず、一般に遺伝的に類似しています。ほぼ全ての個体が、この時期以前の在来新石器時代集団と近東北東部集団との混合としてモデル化できます。しかし、混合の割合は経時的に変化し、青銅器時代におけるレヴァント南部の人口動態を明らかにします。現代のユダヤ人集団とレヴァントのアラブ語話者集団を含む、青銅器時代のレヴァントと地理的および歴史的に関連する現代人集団のゲノムは、青銅器時代のレヴァントと銅器時代のザグロス地域の集団と関連する人々から50%もしくはそれ以上の系統を有している、と示されます。またこれらの現代人集団は、利用可能な古代DNAデータではモデル化できない系統も示しており、青銅器時代以降のレヴァント南部への追加の大きな遺伝的影響の重要性が強調されます。


●データセット

 レヴァント南部の5遺跡から計73人のDNAが抽出されました。イスラエル北部のテルメギド(Tel Megiddo)遺跡からは35人で、その大半は中期~後期青銅器時代ですが、1人は移行期青銅器時代、1人は前期鉄器時代です。ヨルダン中央部のバクア(Baq‛ah)遺跡からは21人で、その大半は後期青銅器時代です。イスラエル中央部のイェハド(Yehud)遺跡からは13人で、年代は移行期青銅器時代です。イスラエル北部のテルハツォル(Tel Hazor)遺跡からは3人で、年代は中期~後期青銅器時代です。イスラエル北部のテルアベルベトマアカ(Tel Abel Beth Maacah)遺跡からは1人で、年代は鉄器時代です。1人を除く全個体のDNAは錐体骨から抽出されました。これらの新たなデータは、上述のレヴァント南部の青銅器時代の13人と、アシュケロン遺跡の鉄器時代の7人の既知のデータと組み合わされました。

 主成分分析では、777人のユーラシア西部現代人も対象とされました。ただ、常染色体で少なくとも3万ヶ所の一塩基多型(系統推定が堅牢となる閾値)が得られていない個体は除外され、古代人では68個体が分析対象とされました(図1B)。青銅器時代~鉄器時代のレヴァント南部の個体群(青色および緑色)は密集したクラスタを形成しますが、イスラエル北部のメギド(Megiddo)遺跡のうち3人と、以前に外れ値として特定されたアシュケロン遺跡集団IA1(鉄器時代1)は例外です。現代人および古代人計1633人を対象にADMIXTUREを実行すると、主成分分析と定性的に一致しており、外れ値であるメギド遺跡とアシュケロン遺跡IA1集団以外の全個体は類似の系統を有する、と示唆されます(図1C)。以下、本論文で分析対象となった標本の場所(A)と主成分分析(B)と系統構成(C)を示した本論文の図1です。
画像

 データセット内の親族関係では、1~3親等の関係にある17人が特定されました。この17人は7家族に分類され、テルメギド遺跡で5家族、バクア遺跡で2家族です。ほとんどの家族では、高い一塩基多型網羅率を有する構成員のみが分析に用いられました。メギド遺跡の外れ値3人のうち2人は、兄妹もしくは姉弟でした(家族4、I2189およびI2200)。低網羅率の個体群と密接な関係にある親族を除く62人が、さらなる分析に用いられました。


●複数遺跡間の高度の遺伝的類似性

 テルメギド遺跡の高網羅率の26人は、地理と考古学的期間と主成分分析に基づいて、移行期青銅器時代(メギドIBA、1人)、中期~後期青銅器時代(メギドMLBA、22人)、鉄器時代(メギドIA、1人)、外れ値2人(メギドI2200およびメギドI10100)に区分されました。これらの集団と本論文のデータセットにおける他の集団が、より広範な地域とより古い年代を含む他の遺跡の既知のデータと比較されました。それは、前期青銅器時代コーカサス(アルメニアEBA)、中期~後期青銅器時代コーカサス(アルメニアMLBA)、銅器時代ザグロス山脈(イランChL)、銅器時代コーカサス(アルメニアChL)、新石器時代レヴァント南部(レヴァントN)、新石器時代ザグロス山脈(イランN)、新石器時代アナトリア半島(アナトリアN)です。

 レヴァントの青銅器時代と鉄器時代の集団間の系統の割合における多様性を検証するため、qpWaveが用いられました。qpWaveは、潜在的な集団の組み合わせごとに、共通の祖先集団の子孫、つまりクレード(単系統群)と一致するのか、検証します。qpWaveはf4形式(Testi、Testj;Outgroupk、Outgroupl)の対称性検証統計の計算により機能し、検証対象(Testi、Testj)が外群に関してクレードを形成するならば、期待値はゼロです。遠い関係の一連の外群を用いると、メギドとアシュケロンIA1とシドンの外れ値を除いて、レヴァント南部の青銅器時代および鉄器時代の全個体は、外群に関して相互に対のクレードである、と明らかになりました。

 続いてqpWaveで集団の下部構造が調べられました。メギド遺跡の外れ値2人は、他集団とクレードを形成しませんでしたが、相互とはクレードを形成します。アシュケロンIA1はヨーロッパ系統を有している、と以前の研究では推定されており(関連記事)、同時代の集団と遺伝的に異なる事例は、とくに意外ではありません。qpWaveにおけるシドン遺跡個体群の有意な違いは、主成分分析において他のレヴァント南部青銅器時代集団と大まかにはクラスタを形成するという事実にも関わらず、注目に値します。それはとくに、シドン個体群がとヨーロッパ人関連の混合を有さない沿岸部のアシュケロン遺跡の2集団(青銅器時代と鉄器時代のアシュケロンLBAとアシュケロンIA2)とクレードを形成する、と明らかになったからです。

 この観察は、シドンとアシュケロンの両遺跡がレヴァント南部外の他の地中海沿岸集団とつながりのある港町だった、という事実と関連しているかもしれません。そのため、レヴァントの内陸部青銅器時代集団では欠けている系統構成がもたらされた、というわけですが、この仮説の検証は、地中海東方周縁部の高解像度の古代DNA標本抽出が欠けているので、困難です。シドン個体群の遺伝的特徴は、ペキイン洞窟の銅器時代レヴァント個体群が、シドン個体群へと一部の系統を伝えたものの、アインガザル個体群には伝えなかった、という以前の知見とも一致します。シドン個体群内の下部構造の証拠は見つかりましたが、一部はレヴァント南部内陸部集団とクレードを形成しており、シドン遺跡のかなりの「国際的」性質を反映しているかもしれません。

 より微妙な集団構造を明らかにするため、アルメニアMLBAやナトゥーフィアン(Natufian)のような遺伝的に検証集団とより密接な外群を追加して、qpWave分析が繰り返されました。このより強力な外群セットにより、バクアおよびメギドIBAも、残りの集団と対でのクレードになっていない、という証拠が提供されます。したがって、これらの遺跡間の遺伝的類似性の広範な観察を超えて、青銅器時代のレヴァント南部では、微妙な系統不均質も観察されます。


●青銅器時代のレヴァント南部における遺伝子流動

 以前の研究では、アインガザル遺跡とシドン遺跡の青銅器時代個体群は、それ以前の在来集団(レヴァントN)と銅器時代ザグロス山脈の人々と関連する集団(イランChL)の混合としてモデル化されています。レヴァントN関連系統を、アインガザル個体群は56±3%、シドン個体群は48±4%有している、と推定されています。qpAdmを用いると、レヴァントN関連系統の割合は、アシュケロンLBAが54±5%、アシュケロンIA2が42±5%と推定されます。次に、qpAdmを用いて本論文で報告されたデータの同じモデルを検証すると、ほとんどの中期~後期青銅器時代集団は、レヴァントN関連系統を48~57%有する、というモデルと適合しました。これらの系統の割合は統計的に区別できず、qpWaveで対でのクレードを形成することと一致する、という事実を確証します。広範な外群集団を用いた時でさえ、バクア集団だけはこのモデルに適合しませんでした。これは、バクア個体群全体の系統の不均質性の結果かもしれません。

 ザグロス関連系統構成を検証するため、起源と年代に焦点が当てられました。銅器時代ザグロスの人々は、現時点でこの系統構成の最良の代理集団ですが、青銅器時代におけるザグロスからレヴァント南部への直接的な文化拡大の考古学的証拠はありません。対照的に、青銅器時代のレヴァント南部集団とコーカサス(現代のコーカサスおよびアナトリア半島東部のような近隣地域)との間のつながりは考古学的に支持されています。これらの事象の年代に関して考古学では、紀元前三千年紀前半におけるコーカサスのクラ・アラクセス文化とレヴァント南部のヒルベットケラク(Khirbet Kerak)文化との間の類似性が指摘されており、文字記録の証拠では、たとえば紀元前14世紀のアマルナ文書のように、紀元前二千年紀における多くの非セム人や古代近東北東部のフリル語の個人名が記載されています。したがって、銅器時代ザグロス構成は、コーカサス、さらにはもっと直接的に古代近東の北東部地域を通ってレヴァント南部に到来したかもしれない、と推測されます。しかし、古代近東の北東部地域からの古代DNA標本はありません。この移動は、短期の波に限定されておらず、青銅器時代を通じて複数回の波があったかもしれません。

 遺伝子流動の起源が直接的にザグロス地域からというよりはむしろコーカサスからなのかどうか検証するため、qpAdmが実行され、イランChLが前期青銅器時代コーカサス集団(アルメニアEBA)と置換されました。その結果、コーカサスモデルはザグロスモデルと類似の支持を受ける、と明らかになりました。次に、アルメニアEBAをより古いコーカサス集団(アルメニアChL)およびイランChLの混合としてモデル化すると、アルメニアEBAはこのモデルに適合しました。まとめると、本論文のデータは、レヴァント南部におけるザグロス関連系統のレヴァント南部への到来経路が、コーカサス、もしくは直接的にザグロス地域あるいは中間地を経由してのものだった、というモデルと適合します。

 レヴァント南部におけるザグロス関連系統の混合の年代を検証するため、移行期青銅器時代から前期鉄器時代まで、本論文のデータセットにおける広範な年代の個体群が用いられました。個体群それぞれのqpAdmに基づく系統推定を用いると、ほぼ全ての個体は新石器時代レヴァントおよび銅器時代ザグロスと関連する集団の混合モデルと適合しました。例外の一つはメギドMLBA個体で、このモデルとの適合が弱くなっています。もう一つの例外はバクア遺跡の3人で、新石器時代レヴァントおよび銅器時代ザグロスとの混合としてのモデル化が困難であることは、系統の不均質性を反映しているかもしれない、と示唆されます。

 これらの結果は、外より多くの群集団を用いても定性的に変わりませんでした。本論文のデータセットで最古級となる移行期青銅器時代の個体群は、すでに有意なザグロス関連系統を有している、と明らかになり、この遺伝子流動が紀元前2400年前頃以前に始まった、と示唆されます。これは、紀元前三千年紀のクラ・アラクセス複合の人々が、レヴァント南部へと文化的にだけではなく、ある程度の人々の移動でも影響を与えたかもしれない、という仮説と一致します。本論文のデータも、移行期青銅器時代後のザグロス関連系統の割合の増加を示唆します。しかし、ザグロス関連系統の増加が中期~後期青銅器時代に継続して起きたのか、複数回の異なる移住事象があったのか決定するには、個体数と期間が不充分である、と本論文は注意を喚起します。

 メギド遺跡の2つの外れ値(兄妹もしくは姉弟の組み合わせを含む3個体)は、レヴァント南部への遺伝子流動の年代と起源に関する追加の証拠を提供します。この3人はK10層で相互に近接して発見され、放射性炭素年代測定法で紀元前1581~紀元前1545年(家畜)と紀元前1578~紀元前1421年(埋葬)と推定されていますが、3人のうち1人(I10100)の骨の直接的な年代は紀元前1688~紀元前1535年です。この3人が他の個体と異なっている理由は、コーカサスもしくはザグロス関連の遺伝的構成がずっと高く、北東からレヴァント南部への進行中の遺伝子流動を反映しているからです。3人のうち2人の新石器時代レヴァント構成は、I2200では22~27%、I10100では9~26%です。

 外れ値の兄妹もしくは姉弟(I2189とI2200)のストロンチウム同位体分析では、2人がメギド遺跡付近で育ったと示唆されているので、この外れ値3人が移民第一世代だった可能性は低そうです。これは、メギド遺跡の外れ値3人の直近の祖先がメギド遺跡に到来した可能性を示唆します。この仮説の直接的支持は、密接に関連する集団を含む敏感なqpAdmモデル化では、この2人のレヴァント南部の北東方向地域の起源集団として唯一機能するのが、アルメニアMLBAである一方で、イランChLおよびアルメニアEBAではない、という事実に由来します。外群にイランChLを追加しても、この結果は変わらないか、モデル化に失敗しません。他のレヴァント集団はどれも類似の混合パターンを示しません。これは、レヴァントへのある程度の遺伝子流動が青銅器時代後半に起きたことを示し、この遺伝子流動の起源がコーカサスだったことを示唆します。

 まとめると、本論文の分析は、コーカサスもしくはザグロス集団と関連する人々からレヴァントへの遺伝子流動が、すでに移行期青銅器時代には起きつつあり、それが一時的もしくは継続的に、中期~後期青銅器時代において少なくとも内陸部の遺跡では持続した、と示します。


●青銅器時代以降のレヴァント集団のさらなる変化

 青銅器時代以降のレヴァントにおける集団変化を検証するため、さまざまな古代起源集団の混合としてのレヴァント地域アラブ語話者と、レヴァントにおける古代の人々の子孫(ユダヤ人)の伝統を有する集団がモデル化されました。qpAdmでは、外群と関連する集団と起源集団との間での混合は推測されませんが、ほぼ全てのレヴァント現代人および地中海集団は、古代集団が有していない、有意なサハラ砂漠以南アフリカ関連混合を有しています。

 これによりqpAdmの多くの主要な外群が除去され、この文脈での手法の有用性が減少します。とくに、qpAdmを適用して、ユーラシア西部現代人集団の大半への単一の機能するモデルを得ることはできませんでした。代わりに、LINADMIXと呼ばれる手法が開発されました。これはADMIXTUREの出力に依存し、制約付きの最小二乗法を用いて、対象となる集団への想定される起源集団の寄与を推定します。補足的な手法として、擬似ハプロタイプChromoPainter(PHCP)と呼ばれる手法が開発されました。これは、ハプロタイプに基づく手法であるChromoPainterの、古代ゲノムへの適用です。

 まず、これらの手法は、qpAdmでモデル化できた系統の割合の再計算により、本論文の文脈において系統の有意義な推定を提供する、と確証されました。LINADMIXとPHCPは両方とも、qpAdmと定性的に類似した推定を生成します。これらの手法をさらに確証するため、本論文と類似の設定で現代人集団の系統の割合を推定する能力を検証するよう設計された、シミュレーションが実行されました。そのために、第三のより遠い関係にある集団を有する場合とそうでない場合とで、2つの密接に関連した古代人集団の混合として、現代人集団が生成されました。

 どちらの手法でも、遠い関係の起源集団の系統の割合は最大4%のエラーで、密接に関連した起源集団の割合は最大10%のエラーで推定されました。したがって、LINADMIX の基礎であるADMIXTUREは、系統の割合を定量化する手法としてある程度の危険性があると知られているものの、本論文で分析された集団と類似した系統起源を有する個体群の事例では、本論文の結果から、LINADMIXとPHCPは両方ともひじょうに有益である、と示唆されます。

 現代人集団のLINADMIX分析では、一塩基多型で遺伝子型決定された293集団1663人の現代人および古代人のデータセットが用いられ、対照として用いられた現代のイングランド人・トスカーナ人・モロッコ人集団とともに、14の現代ユダヤ人およびレバノン人集団に焦点が当てられました。LINADMIXを用いて、現代人17集団のそれぞれが、4起源集団の混合としてモデル化されました。それは、(1)中期~後期青銅器時代構成の代表としてのメギドMLBA(最大集団となります)、(2)ザグロスおよびコーカサスの代表としてのイランChL、(3)アフリカ東部起源集団の代表としての現代ソマリア人(この地域の古代人集団の遺伝的データが欠如しているため)、(4)後期新石器時代から前期青銅器時代の古代ヨーロッパ人の代表としてのヨーロッパLNBAです。

 また、17の現代人集団にPHCPが適用されました。PHCPとLINADMIXを比較すると、ソマリアとヨーロッパLNBAの構成に関して、またイランChLとメギドMLBAの組み合わされた寄与でも、よく一致する、示されます。しかし、イランChLとメギドMLBAのそれぞれの寄与に関して、おそらくはメギドMLBAとイランChLがすでにひじょうに類似した集団であるという事実のため、逸脱します。堅牢でLINADMIXとPHCPにより共有される結果のみを考慮するため、メギドMLBAとイランChLが、本論文の主要な結果として中東を表す単一の起源集団に組み合わされました。起源集団として青銅器時代レヴァント集団の異なる代表を用い、ADMIXTUREパラメータへの摂動を使用して、推定の堅牢性とこれらの結論が実証されました。これらの組み合わせによる結果から、レヴァントと関連する現代人集団は、青銅器時代レヴァント南部および銅器時代ザグロス地域からかなりの系統構成を有する、と示唆されます。それにも関わらず、他の潜在的な系統起源があり得るので、より多くの古代標本が洗練された人口史を可能とするかもしれません。

 また分析の結果、青銅器時代以降レヴァント南部に、ヨーロッパ関連系統(ヨーロッパ関連構成を41%有するアシュケナージ系ユダヤ人を除くと平均8.7%)と同様に、追加のアフリカ東部関連構成(アフリカ東部構成を80%有するエチオピアのユダヤ人を除くと平均10.6%)があった、と示されます。アフリカ東部関連構成は、エチオピアのユダヤ人とアフリカ北部人(モロッコ人とエジプト人)で最高となり、ドゥルーズ派を除く全てのアラブ語集団に存在します。ヨーロッパ関連構成は、ともにヨーロッパに居住した歴史を有するアシュケナージとモロッコのユダヤ人と同様に、ヨーロッパの参照集団(イングランド人とトスカナ人)で最高でした。この構成は、ベドウィンとエチオピアのユダヤ人を除く全ての他集団に、わずかながら存在します。

 予想通り、イングランドおよびトスカーナ集団には、中東関連系統はわずかしかありません。LINADMIXとPHCPでは、メギドMLBAとイランChLの相対的寄与の推定に不確実性がありますが、それにも関わらず、結果とシミュレーションからは、追加のザグロス関連系統が青銅器時代以降、レヴァント南部に浸透してきた、と示唆されます。最高のザグロス関連構成を有する集団を除いて、PHCPではザグロス関連構成のより低い程度が推定されているので、ザグロス関連系統のPHCPによる検出は、この構成の存在の指標である可能性が高そうです。じっさい、4起源集団全てのLINADMIXとPHCPの結果の検証では、多くのアラビア語集団における比較的大きなザグロス関連構成が観察され、ザグロスおよびコーカサスと関連する集団(必ずしも、これらの特定地域に由来するとは限りませんが)からの遺伝子流動は、鉄器時代後も継続した、と示唆されます。

 まとめると、現代人集団のパターンは、青銅器時代後に起き、おそらく歴史的文献で知られている過程と関連している、人口統計学的過程を反映しています。これらは、アラブ語集団に存在するものの、エチオピアではないユダヤ人集団にはより低い割合で存在するアフリカ東部関連構成を含んでおり、それはレヴァント集団へのザグロス関連の寄与と同様です。このザグロス関連構成は、検証されたうちでは北端の集団で最高となり、青銅器時代と鉄器時代の後でさえ、ザグロス関連集団の寄与があった、と示唆されます。


●まとめ

 本論文の結果は、歴史的記録や「カナン人」としての物質文化の共有に基づいて知られていた、紀元前二千年紀のレヴァント南部のおもな住民の包括的な遺伝的状況を提供します。本論文では、三つの基本的な問題に答えるため、詳細な分析が行なわれました。それは、これらの人々はどの程度遺伝的に均質だったのか、それ以前の人々との比較で可能性の高い起源は何なのか、青銅器時代以降、この地域ではどの程度系統に変化があったのか、ということです。

 以前の遺伝的分析では、レヴァント南部の中期~後期青銅器時代の人々が、それ以前の在来集団(レヴァントN)と、銅器時代ザグロス関連集団とのほぼ等しい共有としてモデル化され、北東地域からレヴァント南部への移動が示唆されました。本論文はこの過程に関して、考古学と時空間的に多様な遺伝的データの両方を考慮に入れて、より詳細な分析を提供しました。この期間に、レヴァント南部とザグロス地域との間で直接的な文化的つながりの証拠はほとんどないので、コーカサスがこの系統の起源である可能性が高そうです。本論文はこれらのデータを用いて、これら2つの想定を比較し、遺伝的データが両方と適合する、と結論づけました。

 メギド遺跡の外れ値個体は、直近の祖先が移民第一世代だったと推測されますが、遺伝子流動が青銅器時代を通じて継続したことと、遺伝子流動の少なくとも一部はザグロスよりもむしろコーカサスに由来する可能性が高い、と示した点でとくに重要です。この外れ値2個体は、本論文のデータセットにおいて、ザグロスもしくはコーカサス関連系統の最高の割合を示します。この外れ値の分析は、ザグロスと比較してコーカサス起源の有意により強い証拠をもたらしますが、この結論は、ザグロス地域の中期~後期青銅器時代の古代DNAデータが利用可能になれば、修正されるかもしれません。

 次に新石器時代レヴァント構成の低い2個体(兄弟のI10769とI10770)は、メギド遺跡の宮殿と関連している可能性が高い巨大墓の近くで発見されており、2人が支配的な社会的地位(カースト)と関連していた可能性を提示します。じっさい、遺跡で発見された紀元前15世紀の楔形文字の粘土板に記されているメギド遺跡のすぐ南に位置する町であるタアナク(Taanach)の支配者と、エジプトで発見された紀元前14世紀のアマルナ文書に記されたメギドとタアナクの支配者たちは、フルリ語(古代近東の北東部で話された言語で、コーカサスも含まれるかもしれません)の名前を有しています。これは、今まで示唆的ではあったものの、これらの都市の支配者集団の少なくとも一部は、古代近東の北東部に起源がある、といういくつかの証拠を提供します。

 本論文では、コーカサスは現在のアルメニアの古代集団により代表されますが、レヴァント南部と文化的つながりがあったと知られている地域は、もっと広範です。レヴァント南部への文化的影響の証拠は、おもに前期青銅器時代のクラ・アラクセス文化(考古学)と、中期~後期青銅器時代のフリル語(言語的証明)に焦点が当てられます。これら二つの複合はコーカサスおよびアナトリア半島東部とその近隣地域に拡大しました。本論文で分析されたアルメニアの遺跡は、これらの文化のこれまでで最高の代表です。アルメニアの前期青銅器時代個体群(アルメニアEBA)は、前期青銅器時代のクラ・アラクセス文化墓地で、その後の中期~後期青銅器時代個体群(アルメニアMLBA)は、アルメニア北西部のアラガツォトゥン(Aragatsotn)州で発見されました。本論文で分析された新石器時代および銅器時代のアナトリア半島個体群は、アナトリア半島北西部で発見されており、コーカサスの一部ではないことが重要です。銅器時代ザグロス個体群はイランのカンガーヴァル(Kangavar)渓谷で発見されており、クラ・アラクセス文化の影響の境界に位置します。

 「カナン人」という用語は大まかに定義されており、青銅器時代に都市国家で組織化されていた集団の集合を指しているので、原則として遺伝的一貫性に欠ける可能性があります。本論文で調査された個体群は、現在のレバノンとイスラエルとヨルダンの9遺跡に由来し、広範な地域にわたります。本論文の分析で明らかになったのは、シドン遺跡(およびバクア遺跡のより少ない個体)を除いて、これらの個体群が他の同時代および近隣の集団よりも、相互に密接であるという意味で均質である、ということです。これは、「カナン人」の考古学的および歴史学的分類が共有された系統と相関している、と示唆します。

 これは、紀元前二千年紀にエーゲ海地域観察されたパターンと類似しています。当時のエーゲ海地域では、ミノアやミケーネという文化的分類が、これら集団内の潜在的に微妙な系統の違いにも関わらず、複数の遺跡にわたって遺伝的同質性を示しました。別の事例は、ユーラシア西部草原地帯における紀元前三千年紀後期と紀元前二千年紀前期の「ヤムナヤ(Yamnaya)」牧畜民です。こちらは、紀元前二千年紀の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化複合で、類似の文化的慣行を共有する人々が広く異なる系統を有するように、他の場所で見られるパターンとは対照的です。いずれにせよ、本論文でも示されたそのような関連の検出だけでは、過去の集団的自己認識が遺伝学と関連していたことを証明できません。

 本論文で調べられた集団で、他集団とわずかに異なるのはシドンだけです。本論文は、この観察が誤差である可能性に対する証拠を提供します。むしろ、本論文の結果からは、シドン集団の相対的な遠隔は、シドン集団が遺伝的に不均質で、異なるレヴァント南部集団との類似を示す異なる個体群を有しているという事実に由来する、と示唆されます。紀元前二千年紀に、シドンは主要な港湾都市で、地中海東部とは交易関係でつながっていたので、顕著な遺伝子流動がもたらされ、内陸部の都市よりも集団が不均質になったかもしれません。これは、シドン集団に最も類似しているのが、同じく沿岸都市のアシュケロン集団である理由かもしれません。シドン集団と類似している唯一の内陸部集団がアベルベトマアカで、おそらくは沿岸部との地理的近接のためです。シドン集団以外ではバクア集団も、外群集団を多くすると、他の集団からやや逸脱します。バクア遺跡はシリア砂漠の端に位置しているので、この集団は、まだ遺伝的に標本抽出されていないより東方の集団と混合したかもしれません。これは、バクア遺跡の個体群がその系統パターンにある程度の変動性を示す、という事実に反映されている可能性があります。

 本論文は青銅器時代に焦点を当てていますが、鉄器時代の新たな2標本も報告しており、一方はメギド遺跡、もう一方はアベルベトマアカ遺跡で発見されました。この2人は、中期~後期青銅器時代個体群で観察されたものと類似した系統パターンを示し、この地域の青銅器時代末の破壊が、各遺跡での遺伝的不連続につながったとは限らないことを示唆します。とくに、アベルベトマアカ遺跡とメギド遺跡はともに内陸部の都市で、青銅器時代から鉄器時代の移行期を通じての遺伝的連続性は、レヴァント南部の他の遺跡の典型ではなかったかもしれません。たとえば、ペリシテ人の沿岸部都市であるアシュケロン遺跡の鉄器時代2集団の一方(ASH_IA1)は、青銅器時代から鉄器時代の移行期に、ヨーロッパ南部関連集団の移動の証拠を示しました(関連記事)。

 かなりのサハラ砂漠以南のアフリカ人との混合を有する現代中東集団における系統の割合の推定は、地中海の異なる地域の混合の複数起源と同様に困難です。本論文ではこの問題が、二つの統計的手法の開発と、これらの手法間の比較、シミュレーション、入力の摂動に基づく推論の堅牢性の検証により対処されました。歴史的もしくは遺伝的にレヴァント南部と関連する14の現代人集団が調べられ、レヴァント南部集団系統へのアフリカ東部とヨーロッパと中東(レヴァント南部青銅器時代集団およびザグロス関連銅器時代集団の組み合わせ)の寄与が検証されました。アラビア語集団およびユダヤ人集団はともに、中東関連系統を50%以上有する、というモデルと適合します。これは、あらゆるこれらの現代人集団が、中期~後期青銅器時代のレヴァントもしくは銅器時代ザグロスに居住していた人々からの直接的な系統を有することを意味するのではなく、むしろ、古代の代理が中東と関連し得る集団からの系統を有する、と示唆されます。

 ザグロスもしくはコーカサス関連系統のレヴァント南部への流入は、青銅器時代後も続いたようです。また、アフリカ東部関連系統が青銅器時代後に、ほぼ南から北への勾配でレヴァント南部に入ってきたことも明らかになりました。さらに、反対方向の勾配(北から南)を有するヨーロッパ関連系統も観察されました。レヴァント南部とザグロスから到来する系統構成の分離が困難であることを考慮すると、将来の研究の重要な方向性は、各現代人集団の系統の軌跡を高解像度で再構築し、レヴァント南部青銅器時代に由来する人々が、後の時代の他の人々とどのように混合したのか、過去3000年の豊富な考古学的および歴史的記録で知られている過程の文脈において理解することです。


参考文献:
Agranat-Tamir L. et al.(2020): The Genomic History of the Bronze Age Southern Levant. Cell, 181, 5, 1146–1157.E11.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.044

青木健『ペルシア帝国』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2020年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。まず、「ペルシア」の語源はシュメール語で「名馬の産地」を意味する「パラフシェ」で、紀元前三千年紀にアッシリア語の「パルスアシュ」となり、イラン高原西北部を指す言葉として定着しました。後の「ペルシア」であるイラン高原西南部は、紀元前三千年紀後半以降、シュメール語やアッカド語で「アンシャン」と呼ばれており、後にエラム語で「アンザン」と呼ばれるようになりました。紀元前9世紀、中央アジアもしくはコーカサスから移動してきたイラン系アーリア民族の一派がイラン高原西北部の「パルスアシュ」に定着し、「パルスア人」と呼ばれるようになります。パルスア人は後続のイラン系アーリア民族の南下・西進により「パルスアシュ」から押し出され、イラン高原西南部の「アンシャン」付近にまで進出しました。この時、集団名ではなく地名の方が変わって「パルスアシュ」となり、紀元前6世紀後半には、古代ペルシア語「パールサ」と呼ばれるようになります。

 本書はこのように「ペルシア」の前提を把握したうえで、最初の「ペルシア帝国」であるハカーマニシュ王朝の興亡を解説します。日本でも知られるようになってきたと思いますが、最初の「ペルシア帝国」は初期に王家簒奪が起きています。最初の王家はチシュピシュ家で、「帝国」の開祖はクールシュ2世でした。チシュピシュ王朝は紀元前7世紀後半、宗主国をエラムから新アッシリアに変更し、新アッシリア滅亡後は、イラン高原西北部を支配するメディア王国に服属しました。クールシュ2世は父のカンブージヤ1世とメディア王の娘との間に生まれます。本書は、クールシュ2世が西アジアを征服できた理由について、判然としないものの、母親を通じてのメディア王国とのつながりが大きかったのではないか、と推測しています。

 クールシュ2世は中央アジアのアーリア系遊牧民マッサゲタイとの戦いで奇襲を受けて落命し、後を継いだのはその長男のカンブージヤ2世でした。カンブージヤ2世は、エジプトを征服しましたが、紀元前522年、急死します。その後の混乱を収めて巨大勢力の君主として君臨したのがダーラヤワウシュ1世です。カンブージヤ2世は暗殺されたのか、そうだとして弟なのか別人なのか、この間の事情は定かではありませんが、ともかく最終的にダーラヤワウシュ1世がチシュピシュ王家に対する簒奪者として君主の地位に就いたことは間違いありません。ダーラヤワウシュ1世は、チシュピシュ王家とは4世代前の父系祖先を同じくする、という系図を喧伝しましたが、おそらく多くの研究者はこれに懐疑的で、本書も同様です。

 ダーラヤワウシュ1世は即位時にまだ祖父も存命だったようで、若かったのでしょう。そのため、統治機構を整備するだけの時間的余裕があり、それは連邦的性格を有していた、と本書は指摘します。ダーラヤワウシュ1世は比較的短期間で反対勢力を鎮圧し、ハカーマニシュ王朝の「帝国」が成立します。ダーラヤワウシュ1世はチシュピシュ王家の娘であるウタウサを正妻とし、その間の息子クシャヤールシャン1世が後継者となります。チシュピシュ王家もそうでしちが、ハカーマニシュ王家も近親婚が盛んでした。クシャヤールシャン1世の治世に起きたのがギリシアとの戦いで、西洋史では大きく扱われてきましたが、「ペルシア帝国」にとってこれは辺境の出来事で、重要だったのは中枢のバビロンで起きた叛乱だった、と本書は指摘します。3回にわたる叛乱の結果、バビロンは徹底的に破壊されます。

 クシャヤールシャン1世の後継者となったアルタクシャサ1世は、ハーレムに閉じ籠った暗君との評価が一般的なようですが、本書は、「帝国」の行政機構がよく機能しており、軍事遠征など「余計なことをしなかった」ことなどから、名君と言えるかもしれない、と指摘します。ダーラヤワシュ2世の頃から、「帝国」では西部諸州の叛乱が頻発するようになります。これは、経済的な先進地域である西部から政治的中心地である東部へと徴収された富が、勢力拡大の限界に伴う軍事的停滞により、軍隊への支払いという形での社会還元を阻害したからでした。この動向の中、エジプトが「帝国」の支配下から脱し、アルタクシュサ2世の時代には、西部諸州が「中央政府」から独立していきます。アルタクシュサ2世の後継者となった息子のアルタクシュサ3世は、異母兄弟を100人以上、従兄弟たちや女性王族も多数殺害し、王位は安定しましたが、その息子の代でハカーマニシュ王家が断絶する原因ともなりました。アルタクシュサ3世は在位中武断的方針を貫き、西部諸州を再度支配下に置くとともに、エジプトも奪還しました。しかし、「帝国」の根本的問題の解決には遠かった、と本書は指摘します。

 アルタクシュサ3世の死後、息子のアルタクシュサ4世が即位しますが、宦官の傀儡で、その宦官を討とうとして逆に殺されます。その後、大王位に擁立されたのは明らかに王族ではなかったアルタシヤータ将軍で、ダーラヤワシュ2世の父系曾孫という系図が作られました(ダーラヤワシュ3世)。ダーラヤワシュ3世は自身を擁立した宦官の殺害には成功したものの、これにより「中央政府」の統制力はさらに低下したようです。ハカーマニシュ王家の出身ではないダーラヤワシュ3世が各属州に権威を承認されたとは言い難い状況で、アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)のマケドニアが「帝国」に侵攻してきます。本書は、アレクサンドロス3世による「帝国」の征服は、西洋史の観点ではその軍事的才能を示したとされるものの、イラン史の観点では解体傾向に歯止めのかからない「帝国」へ絶好の機会に侵攻してきた、と指摘します。3回の会戦に敗れたダーラヤワシュ3世は紀元前330年に逃亡中に殺害され、後継者争いを繰り返しながらも長期にわたって大勢力を維持した「帝国」は滅亡します。アレクサンドロス3世はハカーマニシュ王家の生き残りの王女2人を自身の側室としますが、アレクサンドロス3世の死後、2人はアレクサンドロス3世の正妻に殺され、ハカーマニシュ王家は断絶します。

 この後、イラン高原を含む西アジアを支配した大勢力は、ギリシア系のセレウコス朝とパルティア系のアルシャク朝でした。この間ペルシア州では、地方政権としてフラタラカー朝とペルシス朝が存在しました。アルシャク朝は、ハカーマニシュ王家のアルタクシュサ2世の末裔と称していました。遊牧民であるアルシャク朝は、度々拠点を移しつつ、勢力を拡大しました。アルシャク朝の統治体制はハカーマニシュ朝とは大きく異なっていたようで、しばしば土着の王国をそのまま温存しました。

 この地方政権時代を経て、ペルシア州からサーサーン朝という政治勢力が勃興し、大勢力を築きます。サーサーン朝の始祖はサーサーン・フワダーイ(サーサーン卿)という人物とされます。サーサーン卿の息子パーバグは紀元後208年頃、アルシャク朝に叛きます。222年、パーバグが没して長男のシャーブフルが跡を継ぎますが、直後に事故死し、弟のアルダフシール1世が即位します。アルダフシール1世は224年にアルシャク朝最後の王を討ち取り「エーラン・シャフル=アーリア民族の帝国」の「シャーハーン・シャー=皇帝」と名乗ります。本書はサーサーン王朝の国名を、他称の「ペルシア帝国」ではなく、「エーラーン帝国」と表記し、君主の称号を日本語では馴染みにくい「諸王の王」ではなく、「皇帝」で統一します。エーラーン帝国で本書が注目しているのは海軍力の増強で、帝国全体としては大陸国家であるものの、サーサーン家の直轄領に限れば多分に海洋国家としての性質を備えており、インド洋貿易の観点からもペルシア湾海軍の存在は有意だった、と本書は指摘します。

 初期のエーラーン帝国では、パルティア系大貴族の存在感が無視できないものだったようで、これはアルシャク朝末期にパルティア系大貴族が相次いでサーサーン朝に帰順したことを反映しているようです。本書は初期エーラーン帝国を、「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」と指摘しています。経済的には、エーラーン帝国の基盤はメソポタミア平原にあり、メソポタミア平原とペルシア州を結ぶ地域の都市がサーサーン朝の直轄領を形成しました。支配層はあたかも「アーリア民族の帝国」であるかのように装っているものの、「メソポタミア=ペルシア二重経済帝国」としての性格も有する、と本書は指摘します。また、直轄領以外の地域ではサーサーン朝の支配力は急激に低下し、きわめて封建的な要素を残したパルティア系大貴族が君臨していました。ここが上述の「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」的側面となります。

 サーサーン朝の軍事拡大路線は、270年のシャーブフル1世の死でいったんは終了します。シャーブフル1世の死後、次第にマズダー教(ゾロアスター教)がサーサーン朝において勢力を拡大し、ついには宗教界で覇権を握るに至ります。ただ本書は、アルダシフール1世からシャーブフル2世までのマズダー教は、9世紀以降のゾロアスター教では認められないような要素を含んでおり、ザラスシュトラ・スピターマ(ゾロアスター)の名称も見えないことなどから、「ゾロアスター教」と呼べるのか、疑問を呈しています。

 4世紀になると、サーサーン王家の内紛や若年・幼年皇帝の出現もあり、パルティア系大貴族が復権します。周辺では唯一の大国であるローマ帝国との戦いでも、軍を指揮するのは皇帝自身ではなく、旧パルティア系大貴族でした。ローマ帝国がキリスト教迫害から公認へと方針を転換すると、キリスト教徒はエーラーン帝国の潜在的味方ではなく敵とみなされるようになり、大規模な迫害が始まります。これと関連して、エーラーン帝国では「神々の末裔」との皇帝観念が消え、新たな帝国イデオロギーの創出をマズダー教神官団が担いました。

 このように、4世紀はエーラーン帝国の変容期として重要ですが、この期間の大半で皇帝だったのは誕生前に「即位」したシャーブフル2世で、ナルセフ1世時代に失った北メソポタミアとアルメニア王国を奪回した、帝国興隆の時代とも言えます。本書はこの時期を、官僚制の成熟と国制の安定とも、対ローマ戦で旧パルティア系大貴族が軍を率いていたように、皇帝権力が失墜したとも評価できる、と指摘します。旧パルティア系大貴族に圧迫されていったサーサーン皇室の財政を支えたものとして本書が注目するのは「国際」貿易で、上述のペルシア湾海軍はこの点で重要な役割を果たしたようです。

 皇帝権力が失墜傾向にある中、4世紀末から5世紀前半にかけて帝位にあったヤザドギルド1世は、大貴族を多数殺害したり、強大化しすぎたマズダー教神官団を牽制すべくキリスト教を保護したりと、皇権強化を企図したものの、それが反感を買って大貴族たちにより殺害されたようです。キリスト教を保護したヤザドギルド1世でしたが、キリスト教徒からマズダー教神官への攻撃が過激化していくと、治世晩期に方針を変え、パルティア系大貴族でマズダー教の熱心な信仰者であるミフル・ナルセフ・スーレーンを大宰相に任命します。それまで、エーラーン帝国には大宰相という役職はありませんでした。ミフル・ナルセフはその後5代の皇帝で大宰相を務め、エーラーン帝国の政策に影響を及ぼしました。ヤザドギルド1世の後、しばらくは皇帝暗殺がないので、大宰相にパルティア系大貴族が就任する慣行は、サーサーン朝皇帝とパルティア系大貴族との妥協の結果ではないか、と本書は推測します。

 ミフル・ナルセフはマズダー教を帝国内で熱心に広めましたが、その中核教義は現在ゾロアスター教の正統教義として認識されている二元論ではなく、時間の神ズルヴァーンの下で、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神アフレマン(アンラ・マンユ)が闘争を繰り広げる、というものでした。ここでも、ゾロアスター教の教祖とされるザラスシュトラ・スピターマに関する伝説は欠落しています。本書はこの競技を、マズダー教の最終教義となる「マズダー教ズルヴァーン主義」と定義しています。ただ本書は、これを帝国イデオロギー混乱期の最終段階の象徴にすぎない、と指摘します。ヤザドギルド2世の時代に、サーサーン朝皇帝は「神々の末裔」たる現人神からゾロアスター教の守護者たるカウィ王朝の末裔としての立場へと変わります。本書は、ヤザドギルド2世が中央アジアに長期対陣する中で、中央アジア系のゾロアスター教伝承に触れ、揺れ動いていた帝国イデオロギー問題の最終的決着を図ったのではないか、と推測します。

 ヤザドギルド2世没後の兄との内乱を制したのはペーローズ1世でした。この内乱で兄を支持したらしいミフル・ナルセフは、この内乱を生き延びるものの、ローマ帝国との交渉に赴いたところで消息不明となります。その長男のズルヴァーン・ダードはペーローズ1世時代に「犯罪者」として失脚します。こうしてスーレーン家は没落し、それと共にエーラーン帝国イデオロギー混迷期の最終段階を担った「マズダ教ズルヴァーン主義」の痕跡も消え去った、と本書は指摘します。スーレーン家に代わってエーラーン帝国の実権を握ったのはミフラーン家でした。

 ペーローズ1世は父のヤザドギルド2世に倣って、東方から新規導入したゾロアスター教の整備を進めます。また、従来のサーサーン朝皇帝が対ローマ帝国の西部戦線に注力したのに対して、ヤザドギルド2世からホスロー1世までは、東部戦線を重視する傾向にありました。ペーローズ1世は首尾よく東方でキダーラを破りますが、これはさらに東方で台頭してきた遊牧民エフタルとの共同作戦の成果だろう、と本書は推測します。ところが、そのエフタルがバクトリアを制圧したため、ペーローズ1世は481年にエフタルを攻めたものの敗れ、しかも捕虜となってしまいます。皇太子を人質として貢納金を支払うことでエフタルと講和したペーローズ1世ですが、貢納金の支払いを完了し、皇太子が帰還した484年に、側近の制止を振り切り、再度大軍でエフタルを攻めます。ペーローズ1世はまたしても大敗し、30人の息子とともに玉砕し、ゾロアスター教神官たちと共に捕虜となったペーローズ1世の娘はエフタル王の妻とされました。

 このエーラーン帝国始まって以来の大惨事が、エーラーン帝国の転機だった、と指摘します。エーラーン帝国では、遊牧民と定住民という構図で遊牧民側が政治権力を掌握する、というイスラム・イラン史の大前提が、ペーローズ1世の時代前には当てはまらず、都市住民が政治権力と経済力を掌握していた、というわけです。しかし、エフタルの台頭により、都市住民と遊牧民の軍事バランスが逆転します。このように冴えなかったペーローズ1世の時代ですが、エーラーン帝国社会では貨幣経済が急速に浸透します。

 ペーローズ1世戦死後の大混乱を勝ち抜いて即位したのは、ぺーローズ1世の弟のヴァラーフシュ1世でした。が、実権を掌握したスフラー・カーレーンにより短期間で退位させられ、その甥のカヴァード1世が即位しました。カヴァード1世はスフラー・カーレーンの失脚後、政治改革を進めたものの、反感を買って退位させられ、幽閉先から脱出してエフタルを頼って復位します。復位後のカヴァード1世は、詳細不明ながら改革に成功し、大貴族の勢力は削減され、経済状況は好転し、息子のホスロー1世時代にはゾロアスター教の正統教義が確立します。

 母方の身分が見劣りするためか、即位後のホスロー1世は兄弟や従兄弟たちを殺害し、改革を進めます。ホスロー1世は税制を現物徴収から定額貨幣に改め、人頭税を導入しました。こうした税制改革は後にイスラム勢力にも継承されました。ホスロー1世は税収増により軍制改革を進め、ローマ帝国だけではなく、エフタルなど遊牧民勢力も脅威として台頭してきたことを受けて、4軍管区制を導入し、海軍を再建しました。これにより海上交易が盛んになったようで、陸路の交易の担い手がソグド人だったのに対して、海路の交易の担い手は多様だったようです。またホスロー1世の時代には、東ローマ(ビザンティン)帝国のユスティニアヌス帝がアカメデイアを閉鎖したため、追放されたギリシア人学者たちがエーラーン帝国に亡命してきて、エーラーン帝国の文化に影響を与えたようです。

 エーラーン帝国を立て直したホスロー1世は、540年、ユスティニアヌス帝治下のビザンティン帝国に宣戦布告します。直接的な契機というか名分は、東ゴート王国からの救援要請でした。この戦いは、エーラーン帝国優位の条件で562年に講和が締結されます。まだ講和締結前だったとはいえ、ビザンティン帝国との戦いがほぼ落ち着いた557年、ホスロー1世は突厥と結んでエフタルを攻撃し、瓦解に追い込みます。ホスロー1世は、エチオピアのアクスム王国に制圧されたイエメンにも570年に侵攻し、衛生国としています。このようにホスロー1世の軍事行動は一定以上の成果を収めましたが、軍司令官職を分割しつつも、あくまでも大貴族の勢力均衡に拘泥した点が、ホスロー1世の軍事政策の限界だった、と本書は評価します。

 本書は、ホスロー1世の改革が一定の成功を収めたことは認めつつも、ホスロー1世が579年に没してからわずか63年でエーラーン帝国が滅亡したことを重視し、ホスロー1世の軍制改革は、意図がよかったとしても、結果的にはパルティア系大貴族の叛乱を次々に誘発してしまい、アルダシフール1世が築いた「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」の基礎を根底から覆した、と指摘します。また本書は、税制改革と同時期に、少なくともサーサーン家の直轄領では人口の都市集中が見られ、貨幣経済をさらに振興させたものの、反面ではサーサーン朝初期以来帝国経済を支えてきた農業を推戴させた可能性がある、と指摘します。本書の見解は、アラブ人イスラム教徒は再度全盛期を迎えたエーラーン帝国を正面から打破したのではなく、イスラム教興隆前にエーラーン帝国は実質的に解体しつつあった、というものです。

 ホスロー1世の死後、即位したのは皇太子だったオフルマズド4世でした。当初、オフルマズド4世の治世は東方でのエフタル残党の殲滅など順調でしたが、580年代半ば以降、大貴族粛清に乗り出し、次の粛清対象とされたヴァフラーム・チョービン・ミフラーンが叛乱を起こし、その混乱の中でオフルマズド4世は処刑されます。ヴァフラーム・チョービンは、アルダシフール1世の支配はサーサーン家による簒奪なので、正しいアルシャク家の支配を回復する、という名目で591年3月9日にエーラーン皇帝に即位します。本書は、上述の軍司令官職に大貴族を起用し続けた点とともに、現人神思想からゾロアスター教の守護者という帝国のイデオロギー転換がまだ効果を挙げていなかった点を、この王朝簒奪の要因として指摘します。極論を言えば、ゾロアスター教の守護者なら誰でも支配の正統性を主張できるからです。

 オフルマズド4世の長子であるホスロー2世は、オフルマズド4世の死後即位しましたが、ヴァフラーム・チョービンに敗れてビザンティン帝国に亡命し、ビザンティン皇帝マウリキウスの娘を娶り、コーカサス諸国をビザンティン帝国に割譲するという条件で、ビザンティン帝国からの援助を得ることに成功しました。ホスロー2世は591年夏、ヴァフラーム・チョービンを破ってサーサーン朝皇帝に復辟します。ヴァフラーム・チョービンは敗走して西突厥に亡命した後、ホスロー2世の刺客により殺害されます。

 ホスロー2世は浪費家で、私生活での享楽に耽溺するだけではなく、政治でも軍事でも成功を求める野心的な人物でもあり、対外強硬策と大貴族粛清を同時に追求し始めます。本書はホスロー2世を、エーラーン帝国とビザンティン帝国の勢力が均衡し、ゾロアスター教とキリスト教が東西で教勢を分かち合っていた古代末期の世界秩序を、最終的に破滅させた重要人物と評価しています。ホスロー2世はまたしても大貴族粛清の反動で起きた叛乱を何とか乗り切り、大宰相を置かず、皇帝権力の強化には成功した、と言えるかもしれません。叛乱を何とか制圧した浪費家のホスロー2世の宮廷は爛熟を迎えます。しかし本書は、隆盛を極めているかに見える帝国内部の商工業が、時として拉致してきた外部の民に依存していることや、キリスト教徒人口の増加など、帝国の脆弱性を指摘します。キリスト教徒が増加したのは、職人・商人への蔑視が強いゾロアスター教に対して、それらにより容易に順応できるキリスト教の方が、当時の社会情勢に適合的だったからです。

 エーラーン帝国の命運を大きく変えた戦いは、ビザンティン帝国の内紛から始まりました。ビザンティン帝国の指揮官フォカスが叛乱を起こし、ホスロー2世にとって恩人だったマウリキウス帝が処刑され、その長子のテオドシウスがエーラーン帝国に亡命してきます。これを好機と考えたホスロー2世は602年にフォカスに宣戦布告しますが、ビザンティン帝国との戦いは長期化します。610年、フォカスを殺害して即位したヘラクレイオスからホスロー2世へと講和の使節団が派遣されますが、テオドシウスの即位に拘るホスロー2世はこれを皆殺しにし、ビザンティン帝国に全面的に攻勢に出ます。エーラーン帝国軍はコンスタンティノープルに迫りながら、海軍の不足で陥落させられず、さらに、620年代前半にティグリス川で大氾濫が起きたため、エーラーン帝国は経済的にも疲弊していました。それでも、これまでの軍事的成功により自我が肥大しきったホスロー2世は壮大な軍事作戦を実行し続け、ついには628年に宮廷内の陰謀により処刑されます。

 ホスロー2世の死後、その息子のカヴァード2世が擁立され、直ちにビザンティン帝国との間の停戦交渉が始まりますが、カヴァード2世はその最中の628年9月に疫病で死亡し、その息子のアルダシフール3世が即位します。この後、アルダシフール3世もすぐに殺害され、シャフルヴァラーズ・ミフラーンの短期間の簒奪を経て、ホスロー2世の長女でカヴァード2世の姉妹妻だったポーラーン・ドゥフトが擁立されます。数々の粛清で、サーサーン家にはもう男系相続人がいなかったのかもしれません。ここでようやくエーラーン帝国とビザンティン帝国の間に和議が締結されますが、その条件はエーラーン帝国が全占領地をビザンティン帝国に返還するというもので、この26年に及ぶ「世界大戦」はエーラーン帝国の敗北で終わります。ポーラーン・ドゥフトは短期間で廃位され、短期間の簒奪を経て、ポーラーン・ドゥフトの妹であるアードゥルミーグ・ドゥフトが擁立されます。アードゥルミーグ・ドゥフトも短期間で簒奪され、その簒奪者も短期間で失脚した後、ポーラーン・ドゥフトが再度擁立されます。しかし、ポーラーン・ドゥフトも632年に殺害されます。

 ホスロー2世の死からここまでわずか4年ほどですが、エーラーン帝国では政変が相次ぎ、数少なくなったサーサーン王家の人々も相次いで没し、まさに末期状況を呈します。この4年に及ぶ内乱後のエーラーン帝国では、各地の有力貴族が軍閥化し、ホスロー2世の浪費と無理な軍事行動と災害に対する無策により、経済は破綻していました。この混乱のなかで擁立されたのは、ホスロー2世の孫と伝わるヤザドギルド3世ですが、本当にホスロー2世の孫なのか、不明です。この状況でエーラーン帝国軍は相次いで、北上してきたイスラム教徒の軍に敗れます。これらの戦いではエーラーン帝国軍が質量ともに圧倒していたとされますが、エーラーン帝国はビザンティン帝国との長期の戦いとメソポタミア平原の災害により疲弊していたことから、本書は疑問を呈しています。

 637年、ついに帝都のテースィーフォンがイスラム教徒の軍により陥落させられます。642年、ネハーヴァンドの戦いでエーラーン帝国軍はイスラム教徒の軍に大敗し、混乱期に大宰相を務め続けたペーローズ・ホスローは戦死し、サーサーン家の直轄軍も解体しました。これにより、帝室としてのサーサーン家は実質的に消滅します。ヤザドギルド3世はこの後逃亡を続けますが、651年に殺害されます。本書は、サーサーン朝が滅亡してもエーラーン帝国が存続した可能性はある、と指摘します。本書は、サーサーン朝の凋落はホスロー1世の制度改革の運用面での失敗により確定的になった、と指摘します。貨幣経済が隆盛に向かう中で、過度に軍事力に依存するのは時代遅れだった、というわけです。

 サーサーン朝の没落をエーラーン帝国の消滅にまで拡大させたのは、帝国の経済力と軍事力を自発に極限まで消耗させたホスロー2世で、その後の4年の内乱で、サーサーン家と代替可能な大貴族も無意味に蕩尽させられた、と本書は指摘します。さらに、イスラム教徒軍との戦いで連敗したことにより、エーラーン帝国の機構自体が解体されました。イスラム教勢力の支配下で、都市部ではイスラム教への改宗が進み、逆に農村は10世紀までゾロアスター教文化の拠点でした。サーサーン朝の大貴族たちは、イスラム教勢力に順応するか徹底抗戦して滅亡し、あるいは唐王朝に亡命しました。ヤザドギルド3世の次男ペーローズは、唐王朝で将軍に任命されています。

 本書は最後に、ハカーマニシュ朝もサーサーン朝も自称したことのない「ペルシア帝国」 という概念を検証します。ハカーマニシュ朝はペルシア州を基盤に勃興し、「大王」はペルシアの一部族により占められ、イデオロギーの中心はペルシア州で、ペルシア人貴族が特権的な身分を保持したという点で、外国人がハカーマニシュ朝を「ペルシア帝国」と認識するのは当然だった、と本書は指摘します。一方、サーサーン朝の自称は「アーリア民族の帝国(エーラーン・シャフル)」でしたが、軍事力をペルシア州出身のサーサーン家とパルティア系大貴族が担っており、「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」と言うべき存在でした。サーサーン朝は経済的には、サーサーン家の直轄領だったメソポタミア平原からペルシア州が中核を占め、「ペルシア=メソポタミア二重経済帝国」と言うべき存在でした。その意味で、サーサーン朝も「ペルシア帝国」と呼べる、と本書は指摘します。

 イスラム期には、ペルシア人もアーリア民族も特権を保持しておらず、経済的にもペルシア州は主要な地位を占めていないので、これ以降にペルシア州に成立したイスラム国家を「ペルシア帝国」と把握するのは難しく、これ以降のペルシア史は取るに足りない地方史の連続である、と本書は指摘します。ヨーロッパでは、ビザンティン帝国の保守的な知識層の認識に由来して、東方の勢力が「ペルシア帝国」と呼ばれました。一方イランでは、サーサーン朝の領域を継承したという意味で、「ペルシア帝国」は存続している、と無理やりではあるものの主張できなくもなかった、と本書は指摘します。この観点から本書が画期としているのはサファヴィー朝で、君主は「シャー」と名乗り、オスマン帝国との対峙は、あたかもかつてのエーラーン帝国とビザンティン帝国との対立の再現でした。この「ペルシア帝国」意識は、パフラヴィー朝にも存続しましたが、1979年のイラン・イスラム革命で、「ペルシア帝国」という共同幻想を継承する国家は地上から消え、現在では復活する見込みすらありません。ハカーマニシュ朝とサーサーン朝の通史には疎かったので、本書を興味深く読み進められました。Twitterなどでは本書への批判も見られますが、それらも踏まえつつ、今後も何度か再読するつもりです。

淡水生態系の健全性にとって重要な腐肉食性のカメ

 淡水生態系の健全性にとって重要な腐肉食性のカメに関する研究(Santori et al., 2020)が公表されました。コイは、オーストラリアの多くの地域で有害生物とされ、その死骸が分解して生じる副産物であるアンモニアは、高濃度になると動物に対して毒性を示します。この研究は、ホークスビュー環礁で捕獲された雄の淡水性のカメ(Emydura macquarii)を4匹ずつ5集団に分け、コイの死骸を入れた人工湿地の水質に、腐肉食性のカメが及ぼす影響を測定しました。

 それぞれの人口湿地には、流水を満たしたタンク、カメが日光浴をするためのセメントブロック、隠れ場所としてのプラスチック製トンネルを入れ、そこに4匹のカメを入れたものと入れないものを設定しました。コイの死骸は、カメに食べ尽くされるか、完全に分解してしまうまで人工湿地に放置された。カメを入れた人工湿地では、コイの死骸が3倍速く除去され、アンモニア濃度の低下と溶存酸素濃度の回復に示されるように、水質がより早く初期の状態に戻りました。水生動物は、呼吸するために溶存酸素を必要とします。

 マレー・ダーリング集水域は、オーストラリアの農業生産の40%を支える河川系で、280万人以上の住民の主たる水源でもあります。マレー・ダーリング集水域に生息する淡水ガメはひじょうに少なく、その原因は、路上死とキツネによる巣の破壊です。コイの死骸を食べるカメが少なくなっているため、オーストラリア政府は天然のコイウイルスを導入して侵入種のコイを減らす計画を立てていますが、この研究は、そうした計画によりマレー・ダーリング集水域の水質と生態系が深刻な影響を受ける可能性を指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:淡水生態系の健全性にとって非常に重要な腐肉食性のカメ

 オーストラリアで発見された脆弱な淡水性のカメ種Emydura macquariiの研究から、このカメが、魚の死骸をあさることで河川系の水質を制御する役割を果たしている可能性のあることが示唆された。この知見を報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

 コイは、オーストラリアの多くの地域で有害生物とされ、その死骸が分解して生じる副産物であるアンモニアは、高濃度になると動物に対して毒性を示す。今回、Ricky-John Spencerたちの研究チームは、ホークスビュー環礁で捕獲された雄のE. macquariiを4匹ずつ5グループに分けて用い、コイの死骸を入れた人工湿地の水質に腐肉食性のカメが及ぼす影響を測定した。それぞれの人口湿地には、流水を満たしたタンク、カメが日光浴をするためのセメントブロック、隠れ場所としてのプラスチック製トンネルを入れ、そこに4匹のカメを入れたものと入れないものを設定した。コイの死骸は、カメに食べ尽くされるか、完全に分解してしまうまで人工湿地に放置された。カメを入れた人工湿地では、コイの死骸が3倍速く除去され、アンモニア濃度の低下と溶存酸素濃度の回復に示されるように、水質がより早く初期の状態に戻った。水生動物は、呼吸するために溶存酸素を必要とする。

 マレー・ダーリング集水域は、オーストラリアの農業生産の40%を支える河川系であり、280万人以上の住民の主たる水源でもある。マレー・ダーリング集水域に生息する淡水ガメは非常に少なく、その原因は、路上死とキツネによる巣の破壊にある。コイの死骸を食べるカメが少なくなっているため、オーストラリア政府は天然のコイウイルスを導入して侵入種のコイを減らす計画を立てているが、Spencerたちは、この計画によってマレー・ダーリング集水域の水質と生態系が深刻な影響を受ける可能性があるという見解を示している。



参考文献:
Santori C. et al.(2020): Scavenging by threatened turtles regulates freshwater ecosystem health during fish kills. Scientific Reports, 10, 14383.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-71544-3

新石器時代から青銅器時代の近東人類集団の遺伝的構成

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、新石器時代から青銅器時代の近東人類集団の遺伝的構成に関する研究(Skourtanioti et al., 2020)が報道されました。農耕開始以降、近東は複雑で初期国家水準の社会の形成において影響力のある地域で、19世紀以来大きな考古学的関心を集めてきました。過去10年の古代DNA研究の発展により、近東における新石器時代開始の過程に関する問題も明らかになってきました。アナトリア半島南部・中央部やレヴァント南部やイラン北西部の近東農耕民は在来の狩猟採集民の子孫で、この地域における狩猟採集から農耕への移行は、地域間のわずかな遺伝子流動を伴う生物学的に継続的な過程だった、と示されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 約2000年後、この状況は変わりました。これら前期完新世集団とは対照的に、アナトリア半島西部・中央部とレヴァント南部とイラン(ザグロス地域)とコーカサスの銅器時代および青銅器時代の集団は、相互に遺伝的差異がより少なくなっており、この期間は、より大きな地域にまたがる遺伝子流動の広範な過程により特徴づけられる、と示唆されます(関連記事)。しかし、この過程の時空間的範囲は、この広範な地域の中継地となり得るアナトリア半島中央部・東部の古代人ゲノムが不足しており、より高密度の標本抽出が必要となるため、よく理解されていません。現在まで、アナトリア半島全域にまたがる「新石器時代一式」の特徴の空間的分布からは、より広範な地域と相関する異質な複数回の事象の過程だった、と示唆されます。しかし、集団移動がアナトリア半島内のこれらの地域の形成に重要な役割を果たしたのかどうか、未解明です。

 アジア西部全域で、人々および物質および/あるいはアイデアの移動の考古学的証拠がよく記録されています。コーカサス南部では、考古学的研究から、後期新石器時代のメソポタミア北部との関係が示唆されており、アナトリア半島東部では、メソポタミア世界とほぼ関連している、いくつかの広範な事象により特徴づけられる文化的つながりのネットワークが証明されています。これらは、紀元前五千年紀における、メソポタミア南部のウバイド文化のトロス山脈まで達する、メソポタミア上流部への浸透を含みます。

 コーカサス南部では、紀元前五千年紀後半~紀元前四千年紀半ばに、メソポタミア上流部からの強い影響により、この浸透が続きました。紀元前四千年紀半ば~末にかけて、「中期および後期ウルク拡大」と呼ばれる別のメソポタミア南部の影響が、メソポタミア上流部とアナトリア半島東部のユーフラテス川とティグリス川の上流部に到達しました。同時に、一般的にはコーカサス南部起源と考えられているクラ・アラクセス(Kura-Araxes)文化が、紀元前3000~紀元前2900年頃にアナトリア半島東部およびレヴァント北部・南部へと拡大しました。これらの事象の証拠は多くの発掘から得られており、とくに、アナトリア半島東部のマラティヤ平野のアルスラーンテペ(Arslantepe)遺跡の長期にわたる広範な発掘により明らかです。レヴァント北部では、メソポタミア北部との物質的つながりが紀元前四千年に出現し始め、広範な文化的接触もしくは集団移動の結果と考えられてきました。

 したがって、主要な問題は、人類集団・物質文化・アイデア・それらの組み合わせのうち、何が移動していたのか、ということです。これらの初期の発展は、中期青銅器時代(MBA)からの地中海東部における「グローバル化」の増加につながり、それは海陸の経路を通じての資源利用と管理の強化により特徴づけられます。しかし、中期および後期青銅器時代(LBA)の人類遺骸が不足しているため、人類の移動性の役割は不明確で、困難な問題になっています。この点で、トルコのアムク川流域のアララハ遺跡は、この時期の300人以上の被葬者が発見されているため、古代DNA研究の適用にとって例外的な格好の事例となります。

 この移動の性質の理解が、本論文の主題となります。本論文では、先史時代のアナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス南部低地の主要な遺跡の人類遺骸のゲノム規模データの、大規模な分析が提示されます。本論文の目標は、近東のこの地域のゲノム史を、新石器時代から中期および後期青銅器時代の相互につながった社会への移行にまたがって、体系的な標本抽出により復元することです。新たな古代のゲノム規模データセットは110人から構成され、アナトリア半島中央部・北部とアナトリア半島東部とコーカサス南部低地とレヴァント北部の4地域を含み、それぞれ期間は先史時代の2000~4000年にまたがっています。

 紀元前六千年紀半ばのアナトリア半島北部・中央部およびコーカサス南部低地集団は密接につながっている、と明らかになりました。これらの集団は、アナトリア半島北部から現代のイラン北部となるコーカサス南部およびザグロス地域にかけて、遺伝的勾配を形成します。この勾配は、紀元前6500年頃の両地域を生物学的に接続する混合事象の後に形成されました。アナトリア半島全域の銅器時代および青銅器時代集団も、ほぼこの遺伝的勾配の子孫です。対照的にレヴァント北部では、銅器時代と青銅器時代の間の大きな遺伝的変化が特定されました。この移行期にレヴァント北部集団では、ザグロス・コーカサス地域およびレヴァント南部の両方と関連する系統を有する、新たな集団からの遺伝子流動がありました。これは、社会的志向、おそらくはメソポタミアの都市中心部の台頭に対応における変化を示唆していますが、まだ遺伝的に標本抽出されていません。


●標本分析

 124万ヶ所の系統特定に有益な一塩基多型を対象として、アナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス南部の4000年にわたる先史時代の110人のゲノム規模データが得られました。このうち9人の年代は紀元前六千年紀となる後期新石器時代から前期銅器時代(LN/EC)で、アナトリア半島中央部・北部のボアズキョイ・ビュユッカヤ(Boğazköy-Büyükkaya)と、アナトリア半島南部・レヴァント北部のテルクルドゥ(Tell Kurdu)と、コーカサス南部低地のアムク川流域のメンテシュテペ(Mentesh Tepe)およびポルテペ(Polutepe)で発見されました。残りの101人の年代は、紀元前四千年紀~紀元前二千年紀となる後期銅器時代から後期青銅器時代(LC-LBA)で、アナトリア半島南部・レヴァント北部では現代のテルアッチャナ(Tell Atchana)となるアララハ(Alalakh)と現代のテル・マルディフ(Tell Mardikh)となるエブラ(Ebla)、アナトリア半島中央部・北部ではキャムリベルタルラシ(Çamlıbel Tarlası)とイクジテペ(Ikiztepe)、アナトリア半島東部ではアルスランテペ(Arslantepe)とティトリスヘユク(Titriş Höyük)、コーカサス南部低地ではアルハンテペ(Alkhantepe)です。

 詳細な集団遺伝分析では、網羅率や汚染など品質要件を満たしていない16人が除外され、合計94人のゲノム規模データが分析されました。このうち77人は加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代が得られました。これらは遺跡もしくは地域と年代により集団化されました。それは、ビュユッカヤEC(銅器時代)が1個体、キャムリベルタルラシLC(後期銅器時代)が12個体(近親者を除くと9個体、以下同様です)、アルスランテペEBA(前期青銅器時代)が4個体、アルスランテペLCが18個体(17個体)、ティトリスヘユクEBAが1個体、イクジテペLCが11個体、アララハ中期~後期青銅器時代(MLBA)が26個体(25個体)、アララハ中期~後期青銅器時代(MLBA)外れ値が1個体、エブラ前期~中後期青銅器時代(EMBA)が11個体、テルクルドゥ前期銅器時代(EC)が5個体、テルクルドゥ中期銅器時代(MC)が1個体、コーカサス低地LCが1個体、コーカサス低地後期新石器時代(LN)が2個体です。

 これらのデータは、約800人の既知の古代人の遺伝的データと組み合わされました。その中で、アナトリア半島の17個体が本論文のアナトリア半島集団とともに分析されました。それは、テペシク・シフトリク(Tepecik-Çiftlik)遺跡のテペシクN(新石器時代)、バルシン(Barcın)遺跡のバルシンC(銅器時代)、ゴンドリュレ・ヘユク(Gondürle-Höyük)遺跡のゴンドリュレヘユクEBA、トパヘユク(Topakhöyük)遺跡のトパヘユクEBA、カマン・カレヒユク(Kaman-KaleHöyük)遺跡のK.カレヒユクMLBAです。


●アナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス低地におけるLN/ECの遺伝的構造

 これまで、新石器時代アナトリア半島の遺伝子プールに関する知識は、西部のバルシンおよびメンテシェ(Menteşe)遺跡(本論文ではバルシンNとされます)と、中央部コンヤ平原のボンクル(Boncuklu)遺跡と、南部のテペシク・シフトリク遺跡からしか得得られていませんでした。これらの個体群の年代は紀元前九千年紀~紀元前七千年紀で、本論文のLN/EC個体群へと継承されます。新石器時代から青銅器時代の近東の遺伝的構造を概観するため、まず現代人と古代人を対象に主成分分析が行なわれました。全体的に、バルシンN とイラン・コーカサス古代個体群との間で、LN/EC個体群はPC2軸に沿って散在しています。テルクルドゥECはPC1軸に沿って新石器時代および銅器時代レヴァント個体群へと僅かに移動します。ビュユッカヤECは、現在までに報告されているあらゆるアナトリア半島新石器時代個体からさらに離れて位置し、新石器時代および銅器時代イラン個体群へと移動します。コーカサス低地LN(ポルテペおよびメンテシュテペ遺跡)の2個体はPC2軸に沿って、ビュユッカヤECと銅器時代イラン個体群との間で上方に位置します。

 主成分分析で観察された質的差異を検証するため、f4統計によりユーラシア西部のより早期の集団と、LN/EC集団の遺伝的類似性が比較されました。ビュユッカヤECおよびコーカサス低地LNはバルシンNと、コーカサス狩猟採集民(CHG)およびイランNとのアレル(対立遺伝子)をより多く共有している点で異なりますが、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)やヨーロッパ東部狩猟採集民(EEF)やアナトリア半島の続旧石器時代個体やレヴァントの続旧石器時代・新石器時代個体群とは共有アレルが少なくなっています。qpAdm を用いてf4統計を要約することにより、ビュユッカヤECとコーカサス低地LNの両方を、バルシンN とイランN(24~31%)の2者混合としてモデル化できます。主成分分析でバルシンN とビュユッカヤECの間の中間に位置するテペシクNも、同じモデルに適合します(イランNが22%)。イランNをCHGと置換することにより、ビュユッカヤECは適切なモデル(CHGが24%)が得られますが、コーカサス低地LNではこのモデルは適合しません。

 主成分分析と一致して、テルクルドゥECはバルシンN とイランNの混合の勾配には収まりませんが、古代レヴァント集団とのさらなる類似性を示します。f4統計では、テルクルドゥECは、同じ地域のほぼ1000年後の個体(テルクルドゥMC)を含む他のあらゆる新石器時代~前期銅器時代のアナトリア半島集団よりも、先土器新石器時代レヴァント個体群(レヴァントN)とより多くの類似性を有します。バルシンNと比較すると、テルクルドゥECはヨーロッパ西部・東部・南東部の中石器時代狩猟採集民との類似性が有意に低くなっています。上述のバルシンN とイランN/CHGの混合モデルは、テルクルドゥECでは支持されません。代わりに、テルクルドゥECは、バルシンN とイランN(15.5±3.7%)もしくはCHGとレヴァントN(36.6±7.1%)の3者混合としてよくモデル化できます。


●新石器時代の混合と銅器時代および青銅器時代集団の共通の遺伝的構成

 LN/EC個体群とは対照的に、LC-LBA個体群はユーラシア西部人の主成分分析では密集し、イランとコーカサスとレヴァントとアナトリア半島西部の古代人集団により区分されるLN-EC勾配にほぼ収まります。本論文の仮説は、アナトリア半島中央部・北部および東部のLC-LBA集団がこのより古い遺伝的構造の子孫で、同じ系統構成を共有しているかもしれない、というものです。

 主成分分析と一致して、外群f3およびf4統計では、LN-EC勾配と類似しているLC-LBA集団の共通の遺伝的構成が示唆されます。まず、外群f3統計(ムブティ、LC-LBA、検証集団)では、共通の外群であるムブティからのLC-LBAと検証集団との間の平均的な共有された遺伝的浮動が測定され、検証集団がバルシンNやテルクルドゥECやビュユッカヤECのようなヨーロッパとアナトリア半島とレヴァント北部の新石器時代および銅器時代集団の時に、最高値に達しました。次に、バルシンNとテルクルドゥECを追加すると、f4統計(ムブティ、検証集団、バルシンN/テルクルドゥEC 、X)では、ユーラシア西部の一連の古代検証集団に関して、バルシンNもしくはテルクルドゥECとLC-LBA集団(X)との間の違いが特徴づけられます。イランNおよび/もしくはCHGは一貫して、テルクルドゥEC およびバルシンNと比較すると、LC-LBAとの過剰な類似性を示します。イランおよびコーカサスの銅器時代および青銅器時代集団は、年代的にLC-LBAにより近く、主成分分析ではイランN/CHGとLC-LBAの間に位置しますが、バルシンと比較すると、一部のLC-LBA集団とのみより多くのアレルを共有します。

 LC-LBA集団の共有された混合構成の時間的側面をさらに調べるため、最近開発された手法であるDATESを用いて混合年代が推定されました。上述のように、LN-EC勾配はバルシンNとイランN/CHGの割合の変化であり、両方が起源集団として選択されました。しかし、イランNおよびCHG両方の標本規模は小さく、イランNでは多くの一塩基多型が欠けているため、第二起源集団の代理としてコーカサス現代人(アルメニア、ジョージア、アゼルバイジャン、アブハズ、イングーシ)が用いられました。

 標本規模がじゅうぶんに大きく、LC-LBA集団で年代の古いLC(後期銅器時代)3集団(キャムリベルタルラシLCが9個体、イクジテペLCが11個体、アルスランテペLCが17個体)に焦点が当てられました。これら全個体の推定をまとめると、バルシンNとコーカサス現代人を遺伝子プールの代理として用いたさいに、105±19世代前という堅牢な混合年代が得られました。1世代28年と仮定すると、この推定はLC-LBA個体群の年代の3000年前頃の混合事象と等しく、紀元前6500年頃に相当します。ブレはあるものの類似の推定年代は、キャムリベルタルラシLCとイクジテペLCとアルスランテペLCという個々の銅器時代集団で観察されます。混合年代は別の2手法(ALDERおよびrolloffp)でも推定されましたが、全体的にはDATESと一致しました。

 さらに、コーカサス低地LN とビュユッカヤEC、コーカサスの既知のEBA個体群、イランC(銅器時代) を含む、EC(前期銅器時代)勾配上の他の古代集団にも分析が拡大されました。紀元前3100年頃のコーカサスEBA個体群はアナトリア半島LC個体群と類似しており、121±35世代前という類似の混合年代が得られました。重要なことに、より古いコーカサス低地LN2個体とビュユッカヤEC1個体(紀元前5600年頃)は、34±15世代前というもっと最近の混合年代が推定されました。これは暦年代で紀元前6500年頃となり、LC個体群から推定される混合事象の年代と一致します。


●銅器時代と青銅器時代集団の混合モデル化

 LC-LBA集団の系統構成を説明するには、バルシンNおよびイランNの両関連系統が必要だと示されましたが、時空間的にLC-LBA集団により近い古代集団の代替的組み合わせも、同様に適合モデルを提供できるかもしれません。真の人口史をより反映している可能性が高い妥当な混合モデルを得るには、密接に関連した候補起源集団間を正確に区別することが重要です。qpAdmを用いて、全LC-LBA集団が、一方は新石器時代アナトリア半島系統、もう一方はイランおよびコーカサス集団関連系統という2起源集団の混合として、モデル化されました。新石器時代アナトリア半島系統では、新石器時代もしくは前期青銅器時代の3集団(バルシンN、テルクルドゥEC、ビュユッカヤEC)が用いられました。イランおよびコーカサス集団関連系統では、イランNおよびCHGと、同じ地域のより新しい銅器時代および青銅器時代集団が用いられました。LC-LBA集団の混合兆候は、イランおよびコーカサス集団よりも古いものの、代理として用いられました。それはLC-LBA集団が、LC-LBA個体群に寄与したまだ標本抽出されていない遺伝子プールを表しているかもしれないからです。

 バルシンNとイランNの混合は多くのLC-LBA集団を適切に説明しますが、アララハMLBAとエブラEMBAとアルスランテペLCとバルシンCとコーカサス低地LCでは失敗しました。イランN関連系統の寄与は、21±9%~38±6%です。バルシンNとCHGの代替モデルでは、CHG関連系統の推定寄与がわずかに高く、27±13%~41±7%ですが、12集団のうち8集団はCHGとモデル化できません。銅器時代および青銅器時代集団では、イランCがイランNと類似の結果を示しますが、推定寄与の割合はより高くなります(34~53%)。イランC自体は、イランNとバルシンN(37±3%)の混合としてモデル化でき、LC-LBAのモデル化の結果とよく一致します。対照的に、コーカサス集団、とくに銅器時代から青銅器時代(En/BA)集団は、ほとんどLC-LBに適合しません。

 バルシンNをテルクルドゥECと置換して、混合モデル化が繰り返されました。一般的にテルクルドゥECとのモデルは、LC-LBA集団とよく適合しますが、それはバルシンN(22個体)と比較してテルクルドゥEC(5個体)の標本規模がずっと小さいことに起因する、モデルと実際の対象集団との間の不一致を検出する統計的能力の低下の不自然な結果かもしれないので、注意が必要です。古代イラン集団とのモデルが複数のLC-LBA集団で適合しない一方で、テルクルドゥECとCHGの混合は、CHGの割合が13±19%から40±9%まで多様ではあるものの、バルシンCを除く全LC-LBA集団でモデル化できます。

 CHGを後のコーカサス集団と置換すると、同じくバルシンCを除いて、より高いコーカサス関連系統の寄与(40~67%)を有する同じパターンが示されます。バルシンNを外群セットに追加後に分析を繰り返しても、ほとんどの結果は同じままでした。しかし、テルクルドゥECを有する同じ地域のLC-LBA2集団、つまりエブラEMBAとアララハMLBAはこのモデルから逸脱し、テルクルドゥECは単純な2者混合モデルでは適切な代理ではないかもしれない、と示唆されます。したがって、古代イラン集団は全体的に、コーカサス集団よりも代理として敵辣に機能するようですが、さらに比較するにはより高解像度のデータが必要です。

 ビュユッカヤECは、本論文のデータセットにおいては、アナトリア半島内でLC-LBA集団と類似の遺伝的構成を有する最初の個体です。したがって、後のLC-LBA集団がさらなる外部からの寄与なしに同じ遺伝子プールから派生した、という想定も検証されました。F4(ムブティ、X、ビュユッカヤEC、LC-LBA)統計からは、ビュユッカヤECがLC-LBA集団よりも、バルシンNのようなヨーロッパ・アナトリア半島農耕民とより多くのアレルを共有している、と示唆されます。同様に、バルシンNが外群に含まれる場合、ほとんどのLC-LBA集団はqpAdmでビュユッカヤECと姉妹集団としてモデル化できません。ほとんどのLC-LBA集団は、古代イラン/コーカサス集団の第二系統への追加により適切にモデル化されますが、アララハMLBAとエブラEMBAは、古代レヴァント南部集団からのかなりの寄与を必要とします。

 全体的に、qpAdm分析と組み合わせた、後期新石器時代および後期銅器時代集団の両方から得られた同じ混合年代の推定に基づくと、LC-LBA集団も新石器時代の遺伝的勾配から派生したものの、先行集団よりもかなり均質化していた、と示唆されます。イランの古代集団はコーカサス集団よりも東方の起源のより適切な代理となりますが、メソポタミア内からのまだ標本抽出されていない代理が、このイラン/コーカサス関連系統の真の歴史的起源集団を表しているかもしれないので、本論文の結果の字面通りの解釈は要注意です。


●青銅器時代レヴァント北部の遺伝的置換

 テルクルドゥとエブラとアララハの各遺跡により代表されるレヴァント北部は、4区分で最も顕著な遺伝的置換を示します。最後となる中期銅器時代テルクルドゥ1個体(テルクルドゥMC)の後の2000年以内に、アムク川流域内および周辺の集団(アララハMLBAとエブラEMBA)の遺伝的構成は、同時代のアナトリア半島人とほぼ同じに変化しました。しかし、ビュユッカヤEC とのqpAdmモデル化では、アララハMLBAとエブラEMBAは依然として、古代レヴァント南部集団とのつながりに関して、他のアナトリア半島集団と異なっている、と示唆されます。それらの違いはまた、エブラEMBA とアララハMLBA が、バルシンNやコーカサス集団のようなより古い集団との関係について他のLC-LBA集団とは異なっている、と示されるf4統計でも確認されます。

 さらに、バルシンN/テルクルドゥECおよび/もしくは古代コーカサス集団は、qpAdmではエブラEMBAおよびアララハMLBAを充分にモデル化できず、その仮定起源集団は真の祖先の適切な代理を表していない、と示唆されます。基底系統としてより古いテルクルドゥECと、地理的に近いアルスランテペLCとで、潜在的な代理起源集団として代替的なモデルを用いると、どちらも適合は改善されませんでした。しかし、混合モデルは、第三の起源集団としてレヴァント南部集団の追加により適切になり、この場合の各系統の割合は、テルクルドゥECが27~34%、後のコーカサス集団が36~38%、レヴァントEBAが28~38%となります。

 テルクルドゥECの後の追加の遺伝子流動と一致して、アナトリア半島集団もしくはコーカサス集団の遺伝子プールを起源集団として用いると、アララハMLBAで他のLC-LBA集団よりも新しい推定混合年代が得られ、アナトリア半島LCとは78±27世代前(紀元前3880±746年前)、コーカサスEBAとは44±8世代前(紀元前3060±224年前)です。アナトリア半島LCもしくはコーカサスEBAのどちらかを一方、レヴァントCをもう一方の起源集団として用いると、指数関数的減衰は適合できませんでした。


●アララハにおける個体の移動性の証拠

 レヴァント北部のアララハMLBA全員の遺伝的分析は、主成分分析における外れ値のため、女性1個体(ALA019)を除いて行なわれました。ALA019は井戸の底で発見され、考古学的および人類学では、放射性炭素年代が紀元前1568~紀元前1511年で、いくつかの治癒した外傷の証拠がある異常な埋葬を表している、と指摘されています。ユーラシア人の主成分分析では、ALA019は遺伝的に、古代イランおよびトゥーラン(現在のイランとトルクメニスタンとウズベキスタンとアフガニスタン)の銅器時代および青銅器時代個体群とより密接でした。これらの集団は西から東の遺伝的勾配を表しており、バルシンNおよびイランNおよびシベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連する系統のさまざまな割合を有しています。

 主成分分析で観察されたALA019の遺伝的類似性は、外群f3統計で確認されました。コーカサスおよび西方草原地帯の他の古代集団も高い類似性を示しますが、f4統計(ムブティ、X、トゥーラン、ALA019)からは、ALA019が他のトゥーラン個体群とは、多かれ少なかれイランNもしくはWSHGと時としてアレルを共有することにより区別されると示唆され、この地域における遺伝的勾配の存在と一致します。メソポタミア南部のような近隣地域からの古代ゲノムの欠如を前提にすると、ALA019の起源として最も他可能性が高いのは、イラン東部もしくはアジア中央部のどこかです。


●青銅器時代前のアナトリア半島とコーカサス南部全域の遺伝的均質化

 本論文は、年代では紀元前六千年紀以降を対象とし、シリア(レヴァント北部)とアナトリア半島は4000年、コーカサス南部は2000年に及びます。さらに、混合年代の推定により、新石器時代へと1000年さかのぼることが可能となりました。アナトリア半島西部(マルマラ海周辺地域)とコーカサス南部低地への後期新石器時代/前期銅器時代(紀元前六千年紀)の遺伝的勾配が明らかになり、この遺伝的勾配は後期新石器時代の開始(紀元前6500年頃)以降の混合過程により形成されました。この勾配の東端はアナトリア半島(西部の)系統をわずかに伴うザグロス山脈を超えて、銅器時代と青銅器時代のアジア中央部にまで達しました(関連記事)。南方では、アナトリア半島系統はレヴァント南部の新石器時代集団に存在し、北方でコーカサス(のおもに山岳地帯)の銅器時代および青銅器時代集団に存在し、これは後期新石器時代の混合の結果である可能性が最も高そうです。

 広範な地域の遺伝的均質化の証拠は、父系でのみ継承されるY染色体系統からも得られます。この地域の全ての時空間的集団では、Y染色体ハプログループ(YHg)はほぼ共通してJ1a・J2a・J2b・G2aです。低頻度のYHg-H2・T1aも加えて、これらは新石器時代までさかのぼるか、すでに上部旧石器時代に存在していた(関連記事)遺伝的遺産の一部を形成します。いくつかの注目すべき例外は裏づけに乏しいものの、それにも関わらず、長距離移動と拡張されたYHg多様性の重要な証拠を提供します。たとえば、YHg-R1b1a2(V1636)・R1b1a1b1b(Z2103)は17000年以上前に分岐したと推定されているので、アルスランテペ遺跡の主要な期間にポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの早期の侵入の直接的証拠はありません。アララハ遺跡のALA084個体で見つかったYHg-L2(L595)は、以前には銅器時代イラン北部の1個体と、コーカサス北部のマイコープ(Maykop)文化後期の3人で報告されていました。このYHg-L2の3人は、本論文で示された共通のアナトリア半島/イラン関連系統の勾配に由来する系統を有しており、コーカサス山脈北側の草原地帯の南端にも達する、広範な分布を示唆します。

 紀元前七千年紀の西から東への遺伝的勾配の形成の年代推定により、常染色体と父系・母系の単系統という両方の指標で観察されたこれらの遺伝的標識の文脈化が、人類の移動性と社会経済的慣行の変化という考古学的証拠を伴って可能となりました。紀元前6500~紀元前6400年頃は、アナトリア半島新石器時代の重要な分岐点でした。なぜならば、以前には食糧生産共同体が皆無かほとんどなかった地域に、定住共同体の突然で大量の拡大が見られたからです。その後、コーカサス南部では、新石器時代生活様式が突如出現し、紀元前6000年頃となる外来の家畜動物と栽培種の導入は、近隣地域の新石器時代集団とのある種の相互作用と、最終的には侵入を示唆しており、その中でザグロス地域とカスピ海地域に沿ったアナトリア半島南西部は、新石器時代文化導入の最も適した候補地の一つでした。

 これらの事象に関連して、近東内の家畜化されたヤギ集団の遺伝的構造が崩壊し始め、銅器時代までには近東全域のヤギの群が、新石器時代東西両集団からの系統を有する、と明らかになりました。この混合の正確な年代は不明ですが、人類と家畜との間の類似から、家畜は交易ネットワークを通じてのみ移動したのではなく、人々と共にも移動し、それは物質文化やアイデアや慣行も同様だった、と示唆されます。これは、たとえばコーカサス南部の円形新石器時代建造物により示唆されており、メソポタミア北部でとティグリス川およびユーフラテス川流域のアナトリア半島側で紀元前六千年紀に発展しつつあった、ハラフ伝統を想起させます。

 後期青銅器時代までの続く数千年に、遺伝的連続性はアナトリア半島北部・中央部と東部で持続し、これは後の集団との遺伝的類似性と、新石器時代後の新たな系統の欠如により支持されます。これは、この時期の激しい文化的相互作用の考古学的証拠に基づく集団変化に関する、以前の仮説とは矛盾します。たとえば、トルコの黒海沿岸のイクジテペ遺跡には、強いバルカンとの類似性を有する物質文化が含まれており、これは黒海全域の集団との直接的接触を示す、と議論されてきましたが、これらの接触は遺伝子流動を伴わないようです。

 アルスランテペ遺跡は別の代表的事例を提供します。前期銅器時代の始まりにおいて、アルスランテペ遺跡の考古学的証拠は、コーカサスとのつながりを有する牧畜民集団によるアルスランテペの占拠につながった、破壊的な社会政治的紛争の存在を強く示唆します。主成分分析とf4統計では、この期間の2個体は、コーカサスとポントス・カスピ海草原からの集団との過剰な類似性を示しますが、後のアルスランテペEBA個体群は、このコーカサスとの類似性を共有していません。これは、仮定された人口の相互作用が一時的で小規模だったに違いないものの、アルスランテペEBAの小さな標本規模(4個体)が検出に充分ではなかったかもしれない、と示唆します。微妙な遺伝子流動はアルスランテペ遺跡の最近の知見と一致しており、アルスランテペ遺跡を占拠したEBA牧畜民は、コーカサスからの侵入集団というよりはむしろ、ザグロス山脈周辺を移動するよく確立された在来集団だった可能性の方が高い、と示唆されます。

 アルスランテペ遺跡の遺伝的景観は、メソポタミア世界との相互作用に関して重要な示唆も有します。考古学的証拠では、紀元前四千年紀にメソポタミア集団はアナトリア半島南東部とシリア北部に植民地を確立し、これはウルク拡大と呼ばれる期間です。しかし、ウルクの拡大は、在来エリート層の経済・政治・文化的関心をメソポタミア南部へと新たに向ける、社会文化的変化の複雑で深い過程でもありました。アルスランテペ遺跡の人工物はこの複雑さを反映しており、本論文で示された遺伝的継続性は、遺伝子伝達なしに、在来集団がこれらより広範なウルクの特徴とアイデアを採用した、という考えを支持します。


●レヴァント北部における集団と領域国家の動態

 アナトリア半島の他地域とは対照的に、レヴァント北部は遺伝的構造で新石器時代後の変化を追跡できる近東の地域として際立っています。エブラ遺跡とアララハ遺跡の人類の遺伝子プールは、コーカサスとレヴァント南部の両方からの追加の遺伝的寄与を必要とするより複雑なモデルによってのみ説明できる、と明らかになりました。本論文で提案されたモデルにおいてコーカサスと関連する起源集団の包含は、この置換がレヴァントへのコーカサス南部のクラ・アラクセス文化の拡大と関連しているのかどうか、という問題を提起します。この拡大はレヴァントで紀元前2800年頃に記録されており、アナトリア半島東部およびコーカサス南部高地からの移動/移住と関連しているかもしれません。しかし、本論文の結果はいくつかの理由でこの想定を支持しません。まず、アナトリア半島東部のようなクラ・アラクセス文化のおもな拡大地域において、コーカサス関連系統の実質的な増加は見つかりません。次に、コーカサス南部高地からの集団は、クラ・アラクセス文化関連個体群も含めて、第二起源集団としても適合しませんでした。最後に、コーカサス南部からレヴァント北部への提案されている拡大経路の中間に位置する集団である、アナトリア半島東部のアルスランテペ遺跡個体群とのモデルも同様です。

 その結果、これらの解釈上の警告は、テルクルドゥ集団と青銅器時代エブラおよびアララハ集団との間の2000年に起きたかもしれない、複数の遺伝子流動事象を含む、代替的な歴史的想定の検討を必要とします。しかし、文字記録や考古学的および古気候学的証拠からは、より短い期間、つまり前期銅器時代の終わりが、政治的緊張と集団移動に関してひじょうに重要だった、と示唆されます。たとえば、この期間には、中期青銅器時代の始まりにエブラ遺跡は2回破壊され、再建されました。前期銅器時代の終わりから後期青銅器時代まで、アムク川流域へと侵入する人類集団に言及する文字記録は広範に存在します。これらの集団はアモリ人やフルリ人などと呼ばれましたが、その(文化的)自己認識の形成背景や地理的起源に関しては、まだ議論が続いています。最近の仮説では、これらの集団の到来が4200年前頃の大旱魃における気候変動による集団移動と関連づけられており、この大旱魃はメソポタミア北部のハブール川前流域の放棄と、近隣の居住可能地域の探索へとつながった、と指摘されています。

 これを考慮すると、アララハとエブラで推定された系統は、まだ標本抽出されていないメソポタミア北部のEBA集団遺伝的構成を最もよく表しているかもしれない、と示唆されます。次の中期~後期青銅器時代には、王国/帝国間の領土支配の動態の変化がエブラおよびアララハの社会文化的発展に影響を及ぼしたとしても、遺伝的混乱の証拠は見つかりません。それにも関わらず、アジア中央部起源の可能性があるアララハ遺跡の1個体の事例は、中期および後期青銅器時代の地中海東部社会の「国際主義」の文脈内で解釈できるかもしれない知見です(関連記事)。この現象のさまざまな社会的特徴と、これらが個人の生活史にどのように反映されているのか、ということに関して、今後の研究が必要です。


●まとめ

 全体的に、本論文の大規模なゲノム分析は、2つの主要な遺伝的事象を明らかにします。まず、後期新石器時代に、アナトリア半島とコーカサス南部にまたがる遺伝子プールが混ざり、混合勾配が生じました。次に、前期銅器時代に、レヴァント北部集団が、メソポタミアからのまだ標本抽出されていない近隣集団を含む可能性が高い過程で、遺伝子流動を受けました。アルスランテペ遺跡において微妙で一時的な遺伝子流動を検出できるとしても、均質な銅器時代および青銅器時代のアナトリア半島集団の遺伝子プール内の地域規模の集団動態と関連する問題の解明は、現在の分析手法では解決できないかもしれない、と本論文は認識しています。

 さらに、本論文の標本抽出は数と地理的範囲において以前の研究との比較で拡大していますが、メソポタミアの人類遺骸の重要な地域ではまだ標本抽出されていません。したがって、本論文で提示された近東の遺伝的景観は示唆的ですが、まだ不完全です。それにも関わらず、前期~後期青銅器時代間のアナトリア半島とコーカサス南部とレヴァント北部の累積的な遺伝的データセットからは、後期新石器時代と前期青銅器時代の遺伝的事象に続いて、この地域では遺伝的に異なる集団の侵入はなかった、と示唆されます。この結論は、複雑な青銅器時代の社会政治的実体の形成についての我々の理解に関して、ひじょうに重要です。


参考文献:
Skourtanioti E. et al.(2020): Genomic History of Neolithic to Bronze Age Anatolia, Northern Levant, and Southern Caucasus. Cell, 181, 5, 1158–1175.E28.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.044

アラビア半島内陸部におけるMIS5の現生人類の足跡(追記有)

 アラビア半島内陸部における海洋酸素同位体ステージ(MIS)5の現生人類(Homo sapiens)の足跡に関する研究(Stewart et al., 2020)が報道されました。アジア南西部はアフリカとユーラシアの間の重要な生物地理学的出入口なので、アフリカとユーラシア全域における人類と動物相の拡散および進化の理解に重要です。アフリカ外の現生人類(Homo sapiens)化石の年代は、ギリシアで21万年前頃(関連記事)、レヴァントで18万年前頃(関連記事)までさかのぼり、現生人類はアラビア半島内陸部に遅くとも85000年前頃には到来していた、と示されています(関連記事)。しかし、早期現生人類の出アフリカの性質を理解することは、最初の非アフリカ現生人類遺骸と直接的に関連する古環境および古生態系のデータの解像度が低いため、困難なままです。

 本論文は、サウジアラビアのネフド砂漠西部のアルアトハル(Alathar)湖堆積物で発見された、人類および非人類哺乳類の足跡と化石を報告します。本論文の主張は、それらの足跡の年代は最終氷期で、アフリカ外の初期現生人類と同年代なので、アラビア半島における現生人類の最初の証拠を表している可能性が高い、というものです。足跡の長期保存に影響を与える特有の環境と化石生成論的要因は、足跡の集団、とくに保存状態が類似しているものは、ひじょうに短い時間、通常は数時間か数日以内に形成されたと想定できる、と意味します。干潟における現生人類の足跡の実験的研究により、2日以内に細部が失われ、足跡は4日以内に認識できなくなり、類似の観察は他の非人類哺乳類の足跡でも見られる、と明らかになりました。したがって、本論文の調査結果は、現生人類がユーラシアに拡散し始めた時、後期更新世の現生人類と動物とその環境の間の密接な生態学的相互作用を調べる特有の機会を提供します。

 古アルアトハル湖は、ネフド砂漠南西部の砂丘の窪み内に位置します。堆積物の厚さは約1.8mです。光刺激ルミネッセンス法(OSL)では、足跡や化石の下層は121000±11000年前、上層は112000±10000年前と推定されています。珪藻の古生態学と堆積物分析から、アルアトハルはその大半の期間において貧栄養環境で浅い淡水湖だった、と示唆されます。これはMIS5となる近隣の淡水古湖堆積物の年代と一致しており、レヴァントとアフリカ北東部をつなぐ「淡水回廊」の南部に位置しています。ネフド砂漠西部の淡水湖の存在は、人類と動物にとって重要な資源と生息可能な景観を提供しました。

 人類・ゾウ・ウマ・ウシの足跡や化石に示されるように、アルアトハル淡水湖にはさまざまな大型哺乳類が集まりました。湖面は踏みつけられており、水不足から草食動物が集まる乾季を反映しているようで、その時点で湖が干上がっていた、という堆積物の証拠と一致します。足跡は376個が報告され、7個が人類のものと特定されました。MIS5のレヴァントとアラビア半島における現生人類拡大の化石および考古学的証拠と、この頃のレヴァントにはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が存在しないこと(と本論文は主張しますが、これはまだ断定できないように思います)から、アルアトハル湖の足跡を残したのは現生人類と考えられます。さらに、アルアトハル湖の人類の足跡のサイズは、ネアンデルタール人よりも早期現生人類の方と一致します。

 人類の足跡のうち4個は、アルアトハル湖の南西端に沿って互いに隣接していました。その類似した方向と相互の距離とサイズの違いから、2~3人の足跡と推測されます。人類の足跡は僅かですが、足跡と化石から3点の重要な観察ができます。まず、足跡は古アルアトハル湖全体に散在しており、方向はさまざまなので、単純に方向性の決まった湖を横断する移動ではなかった、ということです。次に、とはいえ、人類の足跡は多くの非人類動物と同様に、ほぼ南方への移動を示唆していることです。最後に、古アルアトハル湖では、動物化石に屠殺の証拠が見られず、石器も発見されていませんが、屠殺の証拠の欠如に関しては、化石表面の保存状態が悪いためかもしれません。これは、後期更新世人類による湖畔生息地の集中的かつ繰り返しの使用が記録されている、ネフド砂漠西部の他の古湖堆積物とは対照的です。これらの観察から、現生人類はアルアトハル湖を一時的に訪れただけと推測されます。それは、おそらく乾季の到来と水資源の減少により始まった、長距離移動中の飲料水と狩猟採集のための一時的な滞在場所として使われたかもしれません。

 足跡ではゾウ(7個)とラクダ(107個)が多く、成体と仔がいる群だった、と推測されます。非人類動物の足跡は全体的に方向性がなく、湖近くの移動が地理的もしくは地質的に制約されていないことを示唆し、おそらくは開けた景観だったことを反映しています。一部の足跡は湖岸への出入りを示します。足跡の北から南への傾向はおそらく、水資源獲得とは対照的に、降水量の季節的な変化と関連する移動とより一致しており、これは草食動物間の湖岸への垂直的な移動を伴います。これは南方へと向かうゾウの足跡でとくに明白で、類似の北から南への季節性の移動がアフリカ東部の現代ゾウ集団で観察されてきました。ゾウはとくに、淡水資源とかなりの植物バイオマスの地域的存在を示唆しますが、足跡のサイズは他のあらゆる現生分類群よりも大きな種であることを示唆します。ゾウは近隣のレヴァントでは40万年前頃以降存在せず、更新世人類の食性における重要性を考慮すると、アラビア半島におけるゾウの存在は拡散する現生人類にとってとくに魅力的だったかもしれません。有蹄類の足跡の一部は、巨大なウシ、おそらくはMISに近くの遺跡で確認されているアフリカスイギュウ属の形態およびサイズと一致します。1個の小さなウマの足跡は、後期更新世のアジア南西部で一般的だった野生ロバを表しているかもしれませんが、有蹄類の足跡の一組は、おそらく中間サイズのウシのものです。

 足跡に加えて233個の化石が発見され、オリックスとゾウが含まれています。足跡のある堆積物から侵食される化石の発見と、足跡および化石全体の類似の分類群から、足跡の形成と骨の堆積が同年代だったと示唆されます。しかし、いくつかの歯の化石の直接的なウラン系列法分析は、化石標本における予期せぬもっと複雑な化石生成史を示しているようです。歯の跡のある骨から肉食動物の存在が推測され、現代のアフリカのサバンナ生態系のように、肉食動物は草食動物の集中によりアルアトハル湖に近づいた可能性が高そうです。化石の歯のエナメル質の炭素13分析から、草食動物の植生におけるC4草本のかなりの割合が示唆されますが、近隣の中期更新世遺跡よりも青草の消費は少ないようです。ゾウの歯のエナメル質の連続同位体分析からは、季節性移動により説明できるかもしれない水と植生の持続的な供給源が示唆され、類似の結果は近隣の中期更新世遺跡でも報告されています。

 まとめると、アルアトハル湖の堆積物と足跡のデータは、乾季における水資源の充分な半乾燥環境と一致します。湖や川は大型哺乳類にとって景観の中心として機能します。資源が不足し、草食動物が小さな水飲み場の周りに集まる乾季には、湖や川は狩猟採集民にとっても魅力的です。また湖や川は、季節性の移動にさいして効果的な回廊として機能するかもしれず、考古学的データからは、後期更新世のアラビア半島のホモ属はひじょうに遊動的で、中期更新世のホモ属よりもアラビア半島内陸部へと深く拡散しました。本論文は、後期更新世の現生人類と中型および大型草食動物との間の直接的な時空間の関連を示し、アラビア半島における現生人類と非人類哺乳類による移動と景観利用は強く関連していた、と示唆されます。考古学的証拠の欠如から、現生人類はアルアトハル湖を短期間訪れただけだった、と示唆されます。これらの知見から、最終間氷期の乾季における現生人類の一時的な湖畔の利用は、おもに飲料水の必要性と結びついていた、と示唆されます。また、これらの足跡を残した現生人類と現代人との関係は不明で、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していない集団だった可能性もじゅうぶん考えられます。


参考文献:
Stewart M. et al.(2020): Human footprints provide snapshot of last interglacial ecology in the Arabian interior. Science Advances, 6, 38, eaba8940.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aba8940


追記(2020年9月26日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

日本語とオーストロネシア語族との関係

 日本語とオーストロネシア語族との関係を指摘した研究(崎山., 2001)を読みました。もう20年近く前(2001年)の論文となるので、あるいは近年の言語学の知見を踏まえてかなりの修正が必要になるかもしれませんが、近年大きく発展した古代DNA研究、とくに、今年(2020年)になって飛躍的に進展したアジア東部の古代DNA研究(関連記事)の観点からもと興味深い内容なので、取り上げます。


 複数の言語が接触すると、接触したそれぞれの言語の文法部分に変化が現われる場合もあれば、各言語の文法部分が提供され、新たな一つの言語が生みだされる場合もあります。後者は混合語と呼ばれ、ピジンあるいはクリオール(母語となったピジン)はその一例です。混合のため文法のどの部分が提供されるかは、接触した各言語ごとに異なりますが、あらゆる部分からの供出が起こるこ、と明らかになっています。また、接触する言語の特徴により、ピジン化や混合の仕方も一様ではありません。したがって、言語混合は先住民に匹敵する量の外来者がないと不可能とか、文法と単語が別の系統から来るのは難しいとかいった見解は成立しない、と本論文は指摘します。

 ピジンは言語混合の一つのあり方で、言語混合と同義で論じるべきではありません。ピジンには横浜ピジンのような一世代的(片言的)な形態からオセアニアのメラネシア・ピジンのように約300万人により使用される国家語まで多様です。元の言語の話し手にとって、ピジン化した新しい言語は、元の言語が単純化した(舌足らずの)ように聞こえます。ピジンは元の言語の非体系的部分の合理化を行なっている場合も少なくありません。ピジンは表現可能な内容が限定された不完全な言語である、との見解は言語学でも根強く存在します。これまで比較言語学では、一言語における歴史的な混合という現象が原則として認められてきませんでした。混合言語を認めることは、比較言語学の依拠する「語族」という概念の成立基盤を揺るがしかねない危険思想でもあるからです。したがって言語学では今でも、混合の事実は認めるとしても、「混合はピジン英語や隠語にみられる程度」との見解もあります。

 本論文は、日本語とオーストロネシア語族など他言語との比較から、日本語は混合言語として形成された、と主張します。そのさいに重要な影響を与えたのがオーストロネシア語族で、そのうち、語彙面では西部マレー・ポリネシア語派の要素が多く残る一方で、文法面ではオセアニア語派の特徴が顕著である、と本書は指摘します。本論文はこれに関して、縄文時代中期から古墳時代までの3000年間、オーストロネシア語族が波状的に渡来したことに起因する、と推測します。

 日本語の形成に関与したもう一方の言語として本論文が想定するのは、ツングース語族です。古代日本語は動詞・形容詞の活用語尾の多くをツングース語族に負っている、と本論文は指摘します。上代および現代日本語では連体修飾に二つの語順が存在しますが、これは言語混合の可能性がある、と本論文は指摘します。日本語において、原オーストロネシア語の人称代名詞一人称複数の包括・排除の区別が失われたのは言語接触に基づき、これは日本語の形成における深い混合の跡を反映している、と本論文は推測します。ただ本論文は、民族学的にツングース民族は、紀元前千年紀にアジア東部に拡散した、いわゆるアルタイ化の担い手で、日本列島が本格的にアルタイ化するのは弥生時代からと推定されているので、縄文後晩期とは約3000年の間隙があり、言語混合の開始の時期など今後解明すべき問題はまだ残っている、と指摘します。


 本論文はこのように主張しますが、近年の古代DNA研究の進展を踏まえると、日本語とオーストロネシア語族との関係はたいへん注目されます。日本列島の現代人集団は、大別すると、北海道のアイヌ、本州・四国・九州を中心とする「本土」、南方諸島の琉球に三区分されます。このうち、日本語と琉球語は、方言なのか同じ語族の別言語なのか、まだ決定的になっていませんが、同一系統の言語であることは間違いないでしょう。以下、まとめて日本語として扱います。一方アイヌ語は、日本語とは大きく異なる系統の言語です。日本語とオーストロネシア語族との関係で注目される古代DNA研究に関しては、アジア東部現代人集団がどのように形成されてきたのか、現時点で最も優れていると私が考えているモデルの概要を以下に述べます(関連記事)。

 非アフリカ系現代人の主要な遺伝的祖先となった出アフリカ現生人類(Homo sapiens)集団はまず、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐し、ユーラシア東部系統は南方系統と北方系統に分岐します。ユーラシア東部南方系統に位置づけられるのは、現代人ではパプア人やオーストラリア先住民やアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。一方、ユーラシア東部北方系統からはアジア東部系統が分岐し、アジア東部系統はさらに南方系統と北方系統に分岐します。アジア南東部北方系統は新石器時代黄河地域集団、アジア東部南方系統は新石器時代の福建省や台湾の集団(おそらくは長江流域新石器時代集団も)に代表され、オーストロネシア語族現代人の主要な祖先集団(祖型オーストロネシア語族集団)です(関連記事)。現代において、日本列島「本土集団」や漢人やチベット人などアジア東部現代人集団の主要な遺伝的祖先はアジア東部北方系統ですが、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、チベット人はユーラシア東部南方系統との、日本列島「本土集団」は「縄文人(縄文文化関連個体群)」との混合により形成されました。「縄文人」は、ユーラシア東部南方系統(45%)とアジア東部南方系統(55%)との混合と推定されています。

 これらの古代DNA研究の成果を踏まえると、縄文人はアジア東部南方系統の共有という点で、祖型オーストロネシア語族集団と遺伝的に近い関係にある、と言えます。つまり、縄文人の言語が祖型オーストロネシア語族と近縁だった、あるいは一定以上の影響を受けた可能性があるわけです。縄文人がどのように形成されたのか不明ですが、縄文人の大まかな形態は、細かな地域差・時期差が指摘されているとはいえ、地域では北海道から九州まで、年代は早期から晩期前半までほとんど同一で、縄文人と同じ形態の人類集団は日本列島以外に存在しないことから、日本列島における独自の混合により形成された可能性が高そうです(関連記事)。

 そこで問題となるのが、日本列島現代人において最も縄文人の遺伝的影響が強く残っていると推定されているアイヌ集団(関連記事)の言語(アイヌ語)とオーストロネシア語族との関係です。これについて、近年の言語学の知見をまったく知らないので、的外れな発言になるかもしれませんが、2005年の論文(橋尾., 2005)でも、アイヌ語とオーストロネシア語族が同系かもしれないと指摘されていることから、アイヌ語がオーストロネシア語族と近縁な関係にあるというか、祖型オーストロネシア語族の影響を一定以上残している、とも考えられます。その意味でも、縄文人の言語が祖型オーストロネシア語族と近縁だった、あるいは一定以上の影響を受けた可能性は、真剣に検証すべきではないか、と思います。

 日本語とアイヌ語が大きく異なることに関しては、日本語もアイヌ語も祖型オーストロネシア語族と別系統の言語との混合により形成され、分岐してから長い時間が経ったことにより説明できるように思いますが、言語学の知見は皆無に近いので、的外れなことを言っているかもしれません。さらに、アジア東部南方系統でも、アイヌ集団の主要な祖先と祖型オーストロネシア語族集団の主要な祖先との分岐が更新世だとしたら、言語学で指摘されているアイヌ語とオーストロネシア語族の共通性が検出されるには古すぎるかもしれない、という問題もあります。ただ、言語学でも議論が分かれるくらいの共通性となると、更新世の分岐でも不思議ではないかもしれませんが、門外漢の思いつきにすぎません。

 上述のように、日本語がオーストロネシア語族とツングース語族との混合により形成されたとすると、その融合がいつだったのかが問題となりますが、日本列島にツングース語族をもたらしたのは、弥生時代以降に日本列島にアジア東部北方系統をもたらした集団である可能性が高いように思います。しかし、シナ・チベット語族はアジア東部北方系統集団に由来する可能性が高い、と指摘されています(関連記事)。この問題をどう説明すべきか、以前にも一度試みたものの(関連記事)、とても確信は持てません。それでも、以下で改めて私見を述べます。

 この問題で参考になりそうなのは、バヌアツの事例です(関連記事)。遺伝的には、バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人はパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなくオーストロネシア諸語のままです。アジア東部北方系統集団は、拡散の過程で朝鮮半島や日本列島などにおいて大きな遺伝的影響を現代人集団に残しましたが、その過程で先住民の言語が置換されず、基本的には継承されたかもしれない、というわけです。この想定が妥当だとすると、アジア東部北方系統集団はアジア北東部への拡散の過程で、ツングース語族集団と混合し、その言語を継承して日本列島へと到来した、と考えられます。日本列島でも、先住の縄文人よりもこのツングース語族集団の方が現代「本土集団」には大きな遺伝的影響を残していますが、だからといって遺伝的に優勢な集団の言語により置換されたのではなく、独自の混合言語が成立した、というわけです。これを基盤に、漢字文化の導入にともなって漢語の影響も受けつつ、日本語が成立していった、と考えられます。

 あるいは、アジア東部北方系統集団の言語は、後にはシナ・チベット語族におおむね一元化されたものの、新石器時代のある時点までは多様だった、とも考えられます。集団の遺伝的構造と言語が相関しているとは限りませんから、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)による分断・孤立で言語が多様化していき、その後の融合過程で遺伝的にはアジア東部北方系が成立したものの、その言語は均質ではなく、日本語や朝鮮語に影響を与えた諸言語も含まれていた、という想定です。チベットに拡散したアジア東部北方系統集団の言語はシナ・チベット語族で、朝鮮半島やさらに日本列島に向かった集団の言語は大きく異なっていた、というわけです。

 別の可能性として考えられるのは、日本語の形成にさいしてオーストロネシア語族の影響をもたらしたのは、弥生時代以降に日本列島に到来した稲作農耕民集団だった、という想定です。黄河中下流域集団では、中期~後期新石器時代に、稲作農耕の痕跡顕著な増加とともに、遺伝的にはアジア東部南方系統の割合の上昇が指摘されています(関連記事)。黄河中下流域への稲作の導入が、長江流域など中国南部のアジア東部南方系統集団の一定以上の移住を伴っていたとすると、日本列島に稲作をもたらした集団の言語に祖型オーストロネシア語族の影響が残り、それが弥生時代以降に日本列島に到来した可能性も考えられます。縄文人の言語とは別の経路で、日本語に祖型オーストロネシア語族の影響が伝わっている、というわけです。

 ここまで色々と憶測してきましたが、言語学の知見が皆無に近いので、最近の研究を踏まえておらず、的外れな見解になってしまったかもしれません。ただ、今となってはやや古いとはいえ、言語学の見解と最近の古代DNA研究とが符合するところもあるのではないかと考え、一度私見を述べておこうと思い立った次第です。縄文人の言語に祖型オーストロネシア語族の影響があるとして、では縄文人のもう一方の主要な祖先であるユーラシア東部南方系統の言語はどのようなもので、縄文時代、あるいは現代に影響を残しているのかなど、調べねばならないことはまだ多いものの、それは今後の課題とします。


参考文献:
崎山理(2001)「オーストロネシア語族と日本語の系統関係」『国立民族学博物館研究報告誌』第25巻第4号P465-485
https://doi.org/10.15021/00004071

橋尾直和 (2005)「琉球語・アイヌ語・日本語諸方言とオーストロネシア語の若干の比較」『高知女子大学文化論叢』第7号P39-51
https://ci.nii.ac.jp/naid/120006541555

ヴァイキングのゲノム解析

 ヴァイキングのゲノム解析に関する研究(Margaryan et al., 2020)が報道されました。ヴァイキング(Viking)は、襲撃・探検・略奪などを意味する「víking」という古ノルド語(古北欧語)に由来します。紀元後750~1050年頃となるヴァイキング時代の事象は、ヨーロッパの政治・文化・人口地図を変えました。スカンジナビア半島からのヴァイキングの拡散は、アメリカ大陸からアジアの草原地帯へと広がる交易と植民を確立しました。ヴァイキングは着想・技術・言語・信念・慣行をこれらの地域に輸出し、新たな社会経済的構造を発展させ、文化的影響を同化させました。

 本論文では、ヴァイキング時代のゲノムの歴史を調べるため、紀元前2400年頃の青銅器時代から紀元後1600年頃の近世までの遺跡で発見された442人の遺骸から抽出されたDNAのショットガン配列が提示されます。これらの古代DNAデータは、3855人の現代人および1118人の古代人の既知のデータとともに分析されました。以下、本論文で取り上げられた標本の位置と年代を示した本論文の図1です。
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●スカンジナビア人の系統とヴァイキング時代の起源

 ヴァイキング時代のスカンジナビア人集団は共通の文化的背景を有していましたが、この時点ではスカンジナビア人の自己認識を表す共通の言葉はありませんでした。単一の「ヴァイキング世界」が存在するというよりはむしろ、スカンジナビア半島とバルト海周辺地域の沿岸部集団間での遠洋航海の採用に続く、急速に成長する海洋探検・交易・戦争・植民から、一連の相互に関連するヴァイキング世界が出現しました。したがって、ヴァイキング現象が、最近になって共有された遺伝的背景を有する人々にどの程度当てはまるのか、あるいはスカンジナビア半島において集団変化が鉄器時代(紀元前500~紀元後700年頃)からヴァイキング時代の移行とどの程度つながっているのか、不明です。

 本論文で取り上げられたヴァイキング時代のスカンジナビア半島の個体群は大まかには、青銅器時代以降の古代ヨーロッパ個体群の多様性内に収まりますが、複雑な微細構造を示唆する集団間の微妙な違いもあります。たとえば、ゴットランド島の多くのヴァイキング時代個体群は、バルト海地域の青銅器時代個体群とクラスタ化し、バルト海全域の移動性を示唆します。f4統計を用いて草原地帯牧畜民および新石器時代農耕民と対比させると、ノルウェーのヴァイキング時代の個体群がそれ以前となる鉄器時代個体群と類似した分布を示すのに対して、スウェーデンとデンマークのヴァイキング時代個体群は、アナトリア半島の新石器時代農耕民へのより強い類似性を示します。

 qpAdmを用いると、集団の大半は、狩猟採集民・農耕民・草原地帯関連系統の3者混合としてモデル化できる、と明らかになります。3者モデルは、スウェーデンとノルウェーとバルト海地域の一部集団では却下され、コーカサス狩猟採集民もしくはアジア東部人関連系統を含む4者モデルで適合できます。アジア東部人関連系統は、以前に報告されたシベリアからの遺伝子流動と一致します(関連記事1および関連記事2)。

 ヴァイキング時代のスカンジナビア集団と年代的に最も近い鉄器時代集団との遺伝的連続性を調べると、ほとんどのヴァイキング時代集団は、単一の鉄器時代系統を起源として用いると適合でき、大まかにはさらに2区分される、と明らかになりました。一方はイングランドの鉄器時代系統で、ブリテン諸島とデンマークのヴァイキング時代個体群のほとんどとなり、もう一方はスカンジナビア半島の鉄器時代系統で、ノルウェーとスウェーデンとバルト海地域に由来します。

 注目すべき例外はスウェーデン南部に位置するケルダ(Kärda)の個体群で、中世前期となるハンガリーのロンゴバルド個体群のみが、単一の祖先集団として適合します。一方の適合性の低い集団は、追加の北東部系統、たとえばラドガ(Ladoga)のヴァイキング時代個体群か、あるいは追加の南東部系統、たとえばユトランド半島のヴァイキング時代個体群を含めると、モデル化できます。本論文の分析からは全体的に、ヴァイキング時代スカンジナビア半島集団の遺伝的構成はおもに、先行する鉄器時代集団の系統に由来するものの、系統の微妙な違いと、南と東の両方からの遺伝子流動も明らかになる、と示唆されます。これらの観察は考古学的知見とほぼ一致します。


●スカンジナビア半島におけるヴァイキング時代の遺伝的構造

 ヴァイキング時代のスカンジナビア半島の精細な集団構造を解明するため、網羅率0.5倍以上となる298人(新たな289人と既知の9人)の遺伝子型補完が行なわれ、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示します。IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)により現代ヨーロッパ人個体群の参照パネルと共有されるゲノム断片が推定されました。

 多次元尺度構成法とUMAP(機械学習による非線形次元削減手法)を用いての遺伝的クラスタ化から、ヴァイキング時代のスカンジナビア半島個体群は、地理的起源により3集団にクラスタ化し、それぞれ現代の同地域集団と密接な類似性を有する、と示されます。一部の個体、とくにゴットランド島とスウェーデン東部の個体群は、ヨーロッパ東部人との強い類似性を有しています。これはおそらく、バルト海系統を有する個体群を反映しており、バルト海地域の青銅器時代個体群とのクラスタ化は、UMAP分析とf4統計で明らかです。

 ChromoPainterと参照パネルの使用により、長くて共有されたハプロタイプが識別され、微妙な集団構造が検出されます。現代人集団との類似性を有するスカンジナビア半島の系統構成が明らかになり、本論文ではこれらが「デンマーク的」・「スウェーデン的」・「ノルウェー的」・「北大西洋的」と呼ばれます。つまり、ブリテン諸島からスカンジナビア半島に及ぶ可能性がある個体群です。

 ノルウェー的およびスウェーデン的構成はそれぞれ、ノルウェーとスウェーデンでクラスタ化しますが、デンマーク的および北大西洋的構成は広く見られます。意外なことに、ユトランド半島(デンマーク)のヴァイキング時代個体群には、スウェーデン的およびノルウェー的遺伝的構成が欠けています。また、スカンジナビア半島内の遺伝子流動は、大まかには南から北の方向で、デンマークからノルウェーおよびスウェーデンへの移動が支配的だった、と明らかになります。

 ノルウェーとスウェーデンの現代サーミ人集団との類似性を有する、ノルウェー北部の古代人2個体(VK518およびVK519)が特定されました。VK519はおそらく、ノルウェー的祖先も有しており、サーミ人集団と他のスカンジナビア半島集団との間の遺伝的接触を示唆します。

 遺伝的データは、現代の国境よりもむしろ、地形的境界により構造化されています。したがって、ヴァイキング時代のスウェーデン南西部は遺伝的に、スウェーデン本土中央部よりもデンマークのヴァイキング時代集団とより類似しており、おそらくは遺伝子流動を妨げた地理的障壁に起因します。

 遺伝的多様性は、条件付きヌクレオチド多様性と、ChromoPainterの結果に基づく推定系統の多様性により定量化されました。この多様性は、以下に示す本論文の図3で視覚化されました(図3b)。
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 遺伝的多様性は、均質なスカンジナビア半島の内陸部および北部から、多様なカテガット海峡地域(デンマーク東部およびスウェーデン西部)およびバルト海地域まで顕著に異なっており、ヴァイキング時代の相互作用と交易におけるこれらの海域の重要な役割を示唆します。ゴットランド島では、スウェーデン的構成よりも、多くのデンマーク的および北大西洋的、さらに追加の「フィンランド的」系統の遺伝的構成があり、ヴァイキング時代のゴットランド島への広範な海上接触が示唆されます。

 ゴットランド島とエーランド島に関する本論文の結果は、これらがローマ期(紀元後1~400年)から続く重要な海洋共同体だった、と指摘する考古学的知見と一致します。類似のパターンはランゲラン島のようなデンマーク諸島中央部でも見られますが、より低水準です。本論文のデータからは、これらの島々における遺伝的多様性がヴァイキング時代の前期(紀元後8世紀頃)から後期(紀元後9~11世紀頃)にかけて増加し、それは経時的な地域間の相互作用の増加を反映している、と示唆されます。ヴァイキング時代のスカンジナビア半島内の遺伝的構造の証拠は、スカラ(Skara)のような「国際的」中心地の多様性と、ゴットランド島のような交易志向の島々を伴っており、この時期の海路の重要性を強調します。


●ヴァイキングの移住

 本論文のゲノムデータの精細な系統分析は、歴史学と考古学で報告されてきたパターンと一致します。それは、東方への移動がおもにスウェーデン的系統を含む一方で、ノルウェー的系統を有する個体群はアイスランドやグリーンランドやアイルランドやマン島に移動した、というものです。アイスランドとグリーンランドにおける最初の入植も、北大西洋的系統を有する個体群を含んでいました(関連記事)。デンマーク的系統はイングランド現代人で見られ、歴史的記録・地名・姓・現代人の遺伝的構成と一致しますが、ブリテン諸島におけるヴァイキング時代のデンマーク的系統は、ユトランド半島およびドイツ北部から紀元後5~6世紀にかけて移住してきたアングロサクソン系統とは区別できません。

 イングランドのドーセットとオクスフォードのヴァイキング時代遺跡個体群では、デンマーク的およびノルウェー的系統とともに北大西洋的系統も含まれます。これらの遺跡が敗れて捕虜となったヴァイキング時代の襲撃隊を表しているならば、これらの襲撃は異なる起源の個体群から構成されていたことになります。このパターンは、デンマークのトレルボルグ(Trelleborg)の戦士墓地の同位体データからも示唆されます。同様に、現在のロシアにあるグニェズドヴォ(Gnezdovo)の古代人標本におけるデンマーク的系統の存在は、東方への移住がスウェーデンからのヴァイキング個体群で完全には構成されていなかったことを示唆します。

 本論文の結果は、「ヴァイキング」の自己認識がスカンジナビア半島の遺伝的系統の個体群に限定されていなかったことを示します。スカンジナビア半島様式で埋葬されたオークニー諸島の2個体は、遺伝的に現代のアイルランドおよびスコットランド集団と類似しており、おそらくは最初に刊行されたことになるピクト人のゲノムです。オークニー諸島の他の1個体は50%のスカンジナビア半島人系統を有しており、そのような5個体がスカンジナビア半島で発見されました。これは、ピクト人集団がヴァイキング時代までにスカンジナビア半島の文化へと統合された可能性を示唆します。


●スカンジナビア半島へのヴァイキング時代の遺伝子流動

 デンマークとノルウェーとスウェーデンの標本における非スカンジナビア半島系統は、既知の交易経路と一致します。たとえば、フィンランドおよびバルト海系統は現代のスウェーデンに達しましたが、デンマークとノルウェーのほとんどの個体には見られません。対照的に、スカンジナビア半島西部集団はブリテン諸島集団からの系統を受け継いでいます。スカンジナビア半島におけるヨーロッパ南部系統(50%以上)の最初の証拠はデンマークとスウェーデン南部のヴァイキング時代で見られます。


●グリーンランドからの消滅

 グリーンランド南西部では紀元後980~1440年に、おそらくはアイルランドから到来したスカンジナビア半島系統を有する人々が定住していました。グリーンランドにおけるこれらの集団の運命については議論されていますが、その消滅の原因はおそらく、ヨーロッパにおける社会的もしくは経済的過程(たとえばスカンジナビア半島内の政治的関係や交易体系の変化)と気候変動を含む自然的過程でした。

 データに基づくと、グリーンランドのヴァイキング集団は、スカンジナビア半島人(ほぼノルウェー起源)とブリテン諸島の個体群との間の混合で、アイスランドの最初の定住者と類似していました。グリーンランドのヴァイキング個体群のゲノムにおける長期の近親交配の証拠は見つかっていませんが、グリーンランドにおける居住の後期の高網羅率ゲノムの1個体で確認されています。この結果は、比較的短期の人口減少説を支持するかもしれず、以前の人口統計学的モデルおよび考古学的知見と一致します。また、グリーンランドのヴァイキングのゲノムにおける古エスキモーやイヌイットやアメリカ大陸先住民といった他集団からの系統の証拠の欠如は、骨格遺骸と一致します。これは、グリーンランドのヴァイキング集団と他の集団間の性的接触がなかったか、ひじょうに小規模でのみ起きたことを示唆します。


●最初のヴァイキング航海集団の遺伝的構成

 海上襲撃は数千年にわたる航海文化で普遍でしたが、ヴァイキング時代はとくにこの活動により部分的に定義されています。しかし、ヴァイキングの戦争の正確な性質と構成は不明です。襲撃もしくは外征の1例が直接的な考古学的痕跡を残しました。エストニアのサルメ(Salme)では、スウェーデンからの41人の暴行死の男性が2隻の船に埋葬され、高い社会的地位を与えられていた武器が共伴していました。重要なことに、サルメ遺跡の船の埋葬は、最初に文献に見える襲撃(イングランドでの紀元後793年の事例)よりも半世紀近く先行します。

 サルメ遺跡の被葬者のうち34人のゲノムの親族分析により、並んで埋葬された4兄弟と、4兄弟のうち1人の3親等程度の親戚が明らかになりました。サルメ遺跡個体群の系統は、ヴァイキング時代の他の被葬者と比較して相互に類似しており、親族も含む高位の人々の比較的遺伝的に均質な集団が示唆されます。サルメ遺跡の5人の親族は、本論文のデータセットにおける唯一の親族ではありません。その他にこの親族2組が特定され、相互に数百km離れた場所で発見されており、ヴァイキング時代の個体群の移動性を明確に示します。


●ヨーロッパ北部における正の選択

 系統だけの経時的変化で説明できる以上の、過去1万年に顕著に変化したアレル(対立遺伝子)頻度を有する一塩基多型が調べられました。予想されたように、選択の最有力候補はラクターゼ(乳糖分解酵素)をコードするLCT遺伝子領域近くの一塩基多型で、その頻度は青銅器時代の後に増加しました(関連記事)。本論文のデータセットでは、乳糖分解酵素活性持続(LP)アレル(rs4988235)の頻度と青銅器時代以降の進化が調べられました。ヴァイキング時代集団はLCTのLP一塩基多型において、現代のヨーロッパ北部集団とひじょうに類似した頻度を有しています。逆に、青銅器時代スカンジナビア半島個体群では、紀元前2700~紀元前2200年頃の縄目文土器(Corded Ware)文化や紀元前2500~紀元前1900年頃の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化と関連するヨーロッパ中央部個体群と同様に、乳消費の証拠にも関わらず、この一塩基多型は低頻度でした。本論文の鉄器時代標本ではその中間の頻度で、この時期に乳糖分解酵素活性持続の頻度が上昇した、と示唆されます。乳糖分解酵素活性持続の頻度は、青銅器時代ではスカンジナビア半島よりもバルト海地域の方で高く、スカンジナビア半島における乳糖分解酵素活性持続の頻度増加を説明する、2地域間の遺伝子流動と一致します。

 以前に特定された他の選択候補領域としては、先天性免疫に関わるToll様受容体のうち3つ(TLR6・TLR1・TLR10)の関連遺伝子や、ヒト白血球抗原(HLA)領域や、色素沈着と関連するSLC45A2およびSLC22A4遺伝子があります。本論文で明らかになった、ヴァイキング時代の前に始まる選択の追加の候補も明らかになりました。これは、古代のヴァイキングと現代のスカンジナビア半島集団の間で共有されている表現型を示唆します。これらの領域には、癌抑制遺伝子DCCと重なるものや、結腸直腸との関連が示唆されるものや、免疫応答のAKNAタンパク質関連遺伝子と重なるものや、二次免疫反応と関連するものが含まれます。


●スカンジナビア半島における複雑な形質の進化

 複雑な形質と関連する一塩基多型指標における最近の集団分化の痕跡を調べるため、ヴァイキング時代の個体群の遺伝子型とデンマーク現代人の遺伝子型が比較されました。ヴァイキング時代の多因子遺伝スコアは3つの形質で異なっていました。それは、黒髪と直毛と統合失調症です。ただ、直毛と統合失調症は、検査数を考慮した後では有意ではありませんでした。現時点では、アレル頻度で観察された違いが、ヴァイキング時代と現代との間のこれらアレルに作用する選択と、ヴァイキング時代標本の民族的多様性が高いといったような他の要因のどちらに起因するのか、決定できません。ヴァイキング時代と現代の標本における高頻度の黒髪関連アレルの数の二項検定も有意で、この痕跡がいくつかの大きな効果の遺伝子座により完全に駆動されているわけではない、と示唆されます。


●現代の集団におけるヴァイキングの遺伝的遺産

 現代スカンジナビア半島集団がヴァイキング時代の該当地域個体群と増加した系統を共有しているのかどうか検証するため、D統計が実行され、古代の個体が現代の2集団のどちらとより多くのアレルを共有するのか、検証されました。ヴァイキング時代の個体群は、スカンジナビア半島系統から微妙に現代の該当地域集団に移動しています。

 さらに、fineSTRUCTUREを用いて、現代人集団における古代系統が調べられました。スカンジナビア半島内では、ほとんどの現代人集団はヴァイキング時代の該当地域個体群と類似しています。例外はスウェーデン的系統で、現代のスウェーデン人内では15~30%しか存在しません。スウェーデンの一方のクラスタは古代フィンランド集団とより密接で、もう一方のクラスタはデンマークおよびノルウェー集団とより密接に関連しています。デンマーク的系統は今では、地域全体で高くなっています。

 スカンジナビア半島外では、ヴァイキング時代集団の遺伝的遺産は一貫して限定的です。小さなスカンジナビア半島系統構成はポーランドに存在します(最大5%)。ブリテン諸島内では、デンマーク的系統がどの程度、先行するアングロサクソン系統に起因するのか、評価は困難ですが、ヴァイキング時代の寄与はイングランドでは6%を超えません。遺伝的効果は他の方向でより強くなります。オークニー諸島の一部の北大西洋的個体群は文化的にスカンジナビア半島人になりましたが、アイスランドやノルウェーや他地域でも発見され、現代にも遺伝的影響を残しています。現代ノルウェーの個体群では、北大西洋的系統が12~15%で、この系統はスウェーデンではより均一で10%程度です。


●まとめ

 本論文のゲノム分析は、ヴァイキング時代の歴史記録と考古学的証拠により提起された長年の問題に光を当てます。大まかには、スカンジナビア半島外のヴァイキングの長く議論されてきた移動が確認されました。ヴァイキングは現代のデンマークとノルウェーとスウェーデンからブリテンと北大西洋諸島へと向かい、またバルト海地域を越えて東方へと航海していきました。しかし、ヨーロッパの西端で古代のスウェーデン的およびフィンランド的系統が、東方ではデンマーク的系統が見られ、現代の歴史的集団とは異なります。そうした個体群の多くは、文化と大陸をまたがる複雑な交易・襲撃・植民ネットワークとともに形成された混合系統を有する共同体の出身である可能性が高そうです。

 ヴァイキング時代には、スカンジナビア半島の異なる地域が均一にはつながっておらず、この地域の明確な遺伝的構造が形成されました。スカンジナビア半島はおそらく、限定的な数の輸送地帯と海上の飛び地から構成され、活発な外部との接触と、スカンジナビア半島の残りの陸地への限定的な遺伝子流動を伴っていました。ヴァイキング時代のスカンジナビア半島の一部地域は、とくにノルウェー中央部とユトランド半島と大西洋の集落で、比較的均一でした。これは、ゴットランド島やエーランド島のような、人口が多い南部の交易共同体の強い遺伝的多様性とは対照的です。沿岸部共同体の高い遺伝的異質性は集団規模の増大を示唆し、後期ヴァイキング時代の町であるシグトゥーナ(Sigtuna)に関して以前に提案された都市化モデルを、時空間的に拡張します。シグトゥーナは、ヨーロッパ北部のヴァイキング時代の終わりにすでに存在していた、「国際的」交易中心地と示唆されています。人々と商品と戦争を広げる大規模な交易と文化のネットワーク形成は、スカンジナビア半島の中心地に影響を与えるのに時間がかかり、それは中世へと既存の遺伝的差異を保持しました。

 本論文の知見から、ヴァイキング時代は単純にスカンジナビア半島鉄器時代集団の直接的な継続だったわけではない、と示されます。代わりに、南方と東方からスカンジナビア半島への遺伝子流動が観察され、それは鉄器時代に始まり、ヴァイキング時代を通じて継続し、起源集団は増加し続けました。スカンジナビア半島の内外を問わず、多くのヴァイキング個体は非スカンジナビア半島系統を高水準で有しており、それはヨーロッパ全域で継続する遺伝子流動を示唆します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:ヨーロッパでのバイキングの海外遠征に関する遺伝学的知見

 このほど行われた古代人のゲノムの解析で、ヨーロッパ各地の住民の遺伝的構成にそれぞれ特定のバイキングの集団が影響を与えていたことが明らかになったことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。

 バイキング時代(西暦750~1050年頃)のスカンジナビア人集団の海外遠征によって、ヨーロッパの政治的、文化的、人口統計学的な地図が塗り変わった。今回、Eske Willerslevたちの研究チームは、その時代のゲノム史を突き止めるため、青銅器時代(紀元前2400年頃)から近代初期(西暦1600年頃)までのヨーロッパとグリーンランドの古代人類442人のゲノムの塩基配列を解読した。

 今回の研究で、Willerslevたちは、バイキング時代における南方と東方からスカンジナビアへの外来遺伝子の流動を観察し、またバイキングがスカンジナビアから外の世界に確かに移動していたことの証拠を得た。つまり、デンマークのバイキングが英国に向かい、スウェーデンのバイキングが東方のバルト海へと航行し、ノルウェーのバイキングがアイルランド、アイスランド、グリーンランドへ渡ったのだ。その一方で、今回の解析では、現代のスウェーデン人集団との類似性が認められる祖先の実例がヨーロッパの西端域で、また現代のデンマーク人集団との類似性が認められる祖先の実例がヨーロッパの東部で見つかった。Willerslevたちは、これらの祖先が、さまざまな文化と大陸を結ぶ複雑な取引、襲撃、定住のネットワークによって集まった、祖先が混在する地域集団の出身者だと考えている。

 今回の解析の一環として、Willerslevたちは、エストニアのサルメにある埋葬地で採取したバイキング34個体のゲノム塩基配列を解析し、海外遠征に近親者が同行していたことを示す証拠を得た。4人の兄弟が並んで埋葬されていることが確認されたのだ。また、今回の研究で得られたデータセットには、この家族の近親者がさらに2人含まれており、それぞれ数百キロメートル離れた場所で見つかった。このことはバイキング時代における個人の移動性を示していると、Willerslevたちは指摘している。


集団遺伝学:バイキング世界の集団ゲノミクス

Cover Story:バイキングの旅路:ゲノム塩基配列から描き出された大昔の船旅の地図

 表紙は、世界最大級のバイキング復元船『シー・スタリオン号』である。バイキング時代(紀元750~1050年頃)におけるスカンジナビア人集団の海洋進出は、ヨーロッパの政治地図、文化地図、人口地図を一変させた。今回E Willerslevたちは、この期間のゲノム史を調べている。彼らは、ヨーロッパおよびグリーンランド各地の考古学的遺跡に由来する、青銅器時代(紀元前2400年頃)から近世(紀元1600年頃)までの442個体のゲノム塩基配列を解読した。その結果、スカンジナビアでは南方と東方からかなりの遺伝子流動があったことが見いだされた。また、大陸各地でのバイキングの異なる移動の様子も明らかになった。すなわち、デンマークのバイキングはイングランドへ向かい、スウェーデンのバイキングは東へ進んでバルト地域へ行き、ノルウェーのバイキングはアイルランド、アイスランド、グリーンランドへ移動し、その一方でスカンジナビアへも新たな人々が西方から流入していたのである。さらに著者たちは、エストニアのサルメにあるバイキングの墓地遺跡から出土した34個体のゲノム塩基配列を解読し、4人の兄弟が並んで埋葬されているのを発見した。数百キロメートル離れた場所ではこの家族の近縁者も発見されており、バイキング時代を特徴付ける集団の移動性が浮き彫りになった。



参考文献:
Margaryan A. et al.(2020): Population genomics of the Viking world. Nature, 585, 7825, 390–396.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2688-8

『卑弥呼』第47話「凶手」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年10月5日号掲載分の感想です。前回は、クラトが穂波(ホミ)の重臣であるトモに、恋仲のミマアキの殺害を依頼したところで終了しました。今回は、伊都(イト)に講和の使者として赴いていたミマアキが、山社(ヤマト)に帰還する場面から始まります。伊都のイトデ王から山社へは王冠も含めて豪華な献上品が送られ、イクメもヌカデも目を見張ります。ヌカデが見たことのない石だと思ったのは、瑠璃(今回はガラスを指します)でした。ミマアキは、瑠璃が漢からもたらされた工芸品で、熱を用いて作られ、天竺(インド)より西方で生まれたものだ、と説明します。ミマアキとイクメとヌカデの報告から、山社と伊都・那(ナ)・末盧(マツロ)との同盟が確定したことを把握したヤノハは、3人に休みを与えます。姉のイクメから、穂波(ホミ)に派遣されたクラトの帰還にはもう数日かかるだろう、と聞かされたミマアキは嘆息します。

 夜、楼観で休んでいるヤノハはアカメから報告を受けます。ヤノハの予想通りだった、とアカメは報告し、ヤノハは顔をしかめます。これが何を指すのか、今回は明かされませんでしたが、クラトが裏切り者であることをヤノハは疑っているのでしょうか。ヤノハはアカメとともに楼観から降り、警備兵の注意をそらし、ナツハがいる(軟禁されている、と言うべきでしょうか)小屋を訪ねます。ヤノハは、ナツハがミマアキの報告通り喋れないと判断します。ナツハの顔を初めて間近で見たヤノハは、何か気づいたようですが、それを追求しようとはしません。ナツハが弟のチカラオかもしれない、とヤノハは気づいたのでしょう。ナツハが心から自分の配下になったのか、まだ鞠智彦(ククチヒコ)の僕なのか分からないが、一つ頼みを聞いてほしい、とヤノハは言い、ナツハに回収していた狼や犬を自在に操る土笛を渡します。

 穂波では、ヲカ王がクラトに、山社に献上する特産の米や器類を託していました。これら献上品を運ぶ奴婢の1人が腰を痛め(おそらく穂波の重臣であるトモの指示なのでしょう)、トモ自分の奴婢に代わりを命じます。その奴婢はアチという名の巨漢でした。穂波から山社への帰還の道中、夜になり休憩しているところで、クラトはアチに、どの武器を使うのか、尋ねます。アチが使うのは、紐の先に金属製の鏃のようなものを装着した縄鏢(ジョウヒョウ)という武器でした。アチは一撃で鹿を倒し、縄鏢の威力をクラトに見せつけます。アチに昼の王となるべき人物の殺害の具体的な計画を問われたクラトは、聖地の山社には特別な許可がなければ、参拝目的以外で余所者は立ち入れないので、帰るふりをして一刻ほど森で待機し、穂波の特別な土産を渡し、内々の話があるといって、自分が昼の王となるべき友人を砦の外に呼び出す、と答えます。親友を殺すとはさぞ気が重いだろう、とアチに言われたクラトは沈んだ表情を浮かべます。アチに昼の王となるべき友人の名を問われたクラトが、葛藤しているような表情を浮かべつつ、ミマアキと答えるところで今回は終了です。


 今回注目されるのは、まずクラトによるミマアキ暗殺計画です。これはおそらく失敗するのでしょうが、ヤノハがアカメに調べさせていたこととの関連が気になります。ヤノハはミマアキとクラトが恋仲であることをヌカデに聞かされるまで知りませんでしたから、そこでクラトに何らかの疑念を抱き、アカメに調べさせていた、ということでしょうか。あるいは、クラトとは無関係のことをアカメに調べさせていたのかもしれませんが、ヤノハがナツハに狼や犬を自在に操る土笛を返却したことから考えて、クラトのミマアキ暗殺計画を阻止するよう依頼した可能性が高いように思います。クラトとミマアキの運命が気になります。おそらく、ミマアキはこの危機を切り抜けるでしょうから、クラトが死に追いやられるか亡命することになりそうです。ただ、ヤノハは大胆ですから、クラトを改心させて今後も使い続け、クラトが通じているトモとも接触し、日下(ヒノモト)にいるとされるサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の末裔の動向を探るのかもしれません。また、ナツハの顔を初めて間近で見たヤノハの心境も注目されます。おそらくヤノハは、ナツハが弟のチカラオだと気づいたのでしょうが、それを追求せず、重要な依頼をするところは、これまでに描かれてきた冷徹な判断ができる人物像と合致します。ヤノハとナツハの今後の関係も、本作の見どころの一つとなりそうで楽しみです。

チンパンジーの行動多様性と環境

 チンパンジーの行動多様性と環境に関する研究(Kalan et al., 2020)が公表されました。生物種や生物個体群において発達する行動特性と文化特性は、その生物種や生物個体群が生息する環境によって形成される場合もあります。たとえば、行動の種類が多ければ、長期間にわたって環境の変動性に対処する上で役立つ可能性があります。この研究は、個体群レベルでの31のチンパンジーの行動(洞穴の使用や水浴びから、採餌戦略、道具の使用まで)に関するデータベースを用いて、この関係を検証しました。この研究は、144のチンパンジーの群れによる特定の行動の使用が、いろいろな時間スケールで、(1)降水量の変動性、(2)サバンナ生息地と森林生息地の使用状況、(3)氷河期の避難地であった森林からの距離という3つの環境変動性の尺度に関連しているのか、分析しました。

 その結果、250万~1万年前となる更新世の氷河期に避難地であった森林から遠く離れた場所で生活していたチンパンジー個体群の方が、行動レパートリーの多様性が高い、と明らかになりました。この研究は、長い期間をかけて避難地の森林から離れていった個体群の方が、森林の近くから動かなかった個体群よりも新しいタイプの文化的行動を採用する可能性が高かった、と推測しています。また、チンパンジーの行動多様性は、サバンナで生活したチンパンジー個体群の方が森林生息地で生活した個体群よりも高く、大きな降雨の季節性を経験した個体群においても高い、と明らかになりました。これは、行動多様性が現在の環境変動性によっても形成されることを示唆しています。環境の変動性が、大型類人猿の行動と文化の多様化を促進する要因だったことを示唆する結果で、チンパンジーに限らずゴリラや人類の進化史においても注目される観点です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物学:変動性の高い環境で生活するチンパンジーの群れの方が行動の多様性が高い

 過去と現在に変動性の高い環境で生活したチンパンジーの群れの方が、より安定した環境で生活したチンパンジーの群れよりも行動のレパートリーの多様性が高いことを明らかにした論文が、今週、Nature Communications に掲載される。144の野生のチンパンジー群集のデータを使った今回の研究から、環境の変動性が、大型類人猿の行動と文化の多様化を促進する要因であったことが示唆された。

 生物種や生物個体群において発達する行動特性と文化特性は、その生物種や生物個体群が生息する環境によって形作られることがある。例えば、行動の種類が多ければ、長期間にわたって環境の変動性に対処する上で役立つ可能性がある。今回、Ammie Kalanたちの研究チームは、個体群レベルでの31のチンパンジーの行動(洞穴の使用や水浴びから、採餌戦略、道具の使用まで)に関するデータベースを用いて、この関係を検証した。Kalanたちは、144のチンパンジーの群れによる特定の行動の使用が、いろいろな時間スケールで、(1)降水量の変動性、(2)サバンナ生息地と森林生息地の使用状況、(3)氷河期の避難地であった森林からの距離という3つの環境変動性の尺度に関連しているかを分析した。

 この分析結果によれば、更新世(約250万~1万年前)の氷河期に避難地であった森林から遠く離れた場所で生活していたチンパンジー個体群の方が、行動レパートリーの多様性が高かった。Kalanたちは、長い期間をかけて避難地の森林から離れていった個体群の方が、森林の近くから動かなかった個体群よりも新しいタイプの文化的行動を採用する可能性が高かったと考えている。また、チンパンジーの行動多様性は、サバンナで生活したチンパンジー個体群の方が森林生息地で生活した個体群よりも高く、大きな降雨の季節性を経験した個体群においても高かった。このことは、行動の多様性が、現在の環境変動性によっても形作られることを示唆している。



参考文献:
Kalan AK.. et al.(2020): Environmental variability supports chimpanzee behavioural diversity. Nature Communications, 11, 4451.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-18176-3

大河ドラマ『麒麟がくる』第24回「将軍の器」

 1565年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、将軍の足利義輝は松永久秀の息子である久通を含む三好勢に襲撃されて殺害されます(永禄の変)。次の将軍の有力候補と目される、義輝の弟の覚慶(足利義昭)は興福寺一条院に幽閉されます。義輝を殺すつもりがなかった久秀は覚慶を訪ね、覚悟を問い質します。久秀の意を受けた細川藤孝は、覚慶を甲賀へ脱出させます。永禄の変を知った明智光秀(十兵衛)は、久秀を訪ねて義輝殺害について問い質し、見通しが甘かった、と久秀は答えます。久秀は激昂する光秀に銃を渡して自分を撃てと言いますが、光秀は何とか思いとどまります。久秀は、幕府を擁護すべきなのか、迷っていました。朝倉義景は光秀に覚慶が将軍の器なのか確かめさせようとしており、久秀からそれを聞かされた光秀は甲賀の覚慶を訪ねます。率直に死にたくないと打ち明ける覚慶が将軍の器に相応しいのか、光秀は不安に思いますが、それを知りつつ、三淵藤英と細川藤孝は覚慶を擁立しようとします。光秀は朝倉義景に問われて、覚慶は将軍の器ではない、と答えます。この間に朝廷では、足利義栄が将軍に推挙されました。

 今回は、義輝の殺害とその後の将軍位をめぐる政争が描かれました。光秀が義昭の擁立により出世していったことを考えると、光秀が覚慶の将軍としての器量に疑問を抱き、擁立に消極的である、という話になったことは意外でした。もっとも、後に光秀は将軍に就任した義昭を見限っているわけで、今回の光秀と覚慶の出会いは、その伏線なのかもしれません。これまでの義輝との関係や実直な人物像からは、光秀が覚慶の将軍としての器量に不安を抱くことは、自然なように思います。今後、光秀がどのような心境の変化で覚慶を擁立していこうとするのか、注目されます。

家畜ウマのアナトリア半島起源説の検証

 家畜ウマのアナトリア半島起源説を検証した研究(Guimaraes et al., 2020)が公表されました。5500年前頃となるウマの家畜化は、古代世界で最重要の技術革新の一つです。馬力の利用により、ウマは輸送に革命を起こし、交易・戦争・移住のパターンに影響を及ぼしたので、古代世界の政治・経済・社会関係は変化しました(関連記事)。考古学と有機残留物と遺伝的分析からは、家畜ウマはアジア中央部草原地帯に起源があり、その後でヨーロッパ東部、さらに遅れてアジア南西部に拡大した、と示唆されます。とくに、カザフスタンのボタイ狩猟採集文化のデータからは、紀元前四千年紀中期~後期までに、ウマは銜を装着させられ、搾乳され、TRPM1遺伝子座の関わる毛色で選択がなされ、囲いに入れられて集中管理されていた、と示唆されます。

 しかし、最近の古代ゲノム研究では、現代の家畜ウマがアジア中央部に由来する、との見解に疑問が呈されており、それは、ボタイ文化のウマは野生馬とされてきたモウコノウマ(Equus ferus przewalskii)の祖先で、古代もしくは現代の家畜ウマの主要な祖先ではない、と明らかになったからでした(関連記事)。家畜ウマの起源地として第二の有力候補はイベリア半島でしたが、最近の別の研究では、その可能性が除外されました。イベリア半島の野生ウマは絶滅し、現代のウマのゲノムには顕著な痕跡を残していない、と示されたからです。ウマの家畜化の有力な起源地として今も残るのは、ポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)とアナトリア半島です。ただ、ポントス・カスピ海草原は以前から有力な候補地でしたが、アナトリア半島は、野生ウマの利用の長い歴史と古典古代におけるウマの繁殖への高い評価にも関わらず、ウマの家畜化の過程における役割に関して充分には調査されてきませんでした。


●先行研究

 アナトリア半島、より一般的にアジア南西部における家畜ウマの起源は、複雑な考古学的難問であり続けています。文献・図像学・考古学的データの組み合わせからは、紀元前三千年紀の半ばから後期までに、家畜ウマが近隣の山岳地域からメソポタミア(現代のイラクおよびシリア北東部)に導入された、と推測されており、メソポタミアでは楔型文字で「山のロバ」と呼ばれています。当初は少なかったウマですが、紀元前二千年紀の技術革新である戦車(チャリオット)の拡大と関連して、アジア南西部では数世紀以内に増加しました。「ウマの文化」で歴史的に知られているユーラシア草原地帯におけるウマの家畜化は、紀元前四千年紀、もしくは紀元前五千年紀に始まった可能性が高いので、アジア南西部のウマはこれら早期の家畜ウマの子孫と長く主張されてきました。アジア南西部のウマは、ポントス・カスピ海草原との相互作用圏とのよく理解されていない過程、もしくは人類集団の移動によりもたらされた、と想定されています。

 他の仮説は、アナトリア半島がシリア・メソポタミアへの家畜ウマの伝播に中心的役割を果たした、というもので、初期家畜ウマへのアナトリア半島の寄与が示唆されてきました。考古学的データでは、前期および中期完新世のアナトリア半島において普段から利用されていた野生ウマ(Equus ferus)とアジアの野生ロバの亜種であるヨーロッパ野生ロバ(Equus hemionus hydruntinus)の広範な存在が示唆されます。考古学的証拠で示される紀元前九千年紀から紀元前二千年紀にかけての人類とウマの相互作用の継続から、アナトリア半島の野生ウマが家畜ウマの起源集団だった、という仮説が導かれます。しかし、野生ウマと家畜ウマの骨格遺骸を区別する信頼できる形態学的基準がないため、野生在来ウマの家畜化という仮説の検証が妨げられてきました。したがって、紀元前三千年紀後半の家畜ウマの後半な出現をもたらした文化的過程とメカニズムは理解しにくいままです。本論文は、アナトリア半島中央高原の豊富なウマ遺骸の利用により、古遺伝学を用いたアナトリア半島ウマ家畜化仮説の最初の厳密な検証を提示します。

 完全な現代のミトコンドリアゲノムは18の主要なハプログループ(AからR)を明らかにしました。その分岐年代はほぼ新石器時代とその後の期間です。対照的に、古代のウマのミトコンドリアの超可変領域の研究では、ウシやヒツジやブタと比較して、ミトコンドリア系統におけるずっと高い遺伝的多様性が示されました。さらに、家畜ウマで観察されたほとんどのミトコンドリア系統は、すでに家畜化前に存在しました。古代のウマに関するこれらの分析からは、ウマの家畜化の起源を時空間的に特定できる明確な系統地理的構造が得られませんでした。これらの知見は、ユーラシア北部の野生ウマの移動性が一貫した集団再編を可能とし、野生の在来雌ウマを繰り返し取り入れ、系統地理的構造の確率を妨げたと示唆している、と解釈されました。

 対照的に、現生家畜ウマは顕著に少ない雄でのみ伝わるY染色体系統を示し、現代の家畜ウマで特定されるハプロタイプは1つだけなので、ウマの単一の家畜化事象が主張されました。しかし、古代標本のゲノム分析では、家畜化前の先史時代集団における追加の雄系統を示し、遺伝的に多様な雄の創始者が初期の家畜化に関わっている、と明らかにしました。この多様性はその後、おそらくは鉄器時代に始まりローマ期へ、さらに紀元後7世紀~9世紀にかけての、ビザンツ帝国とサーサーン朝(エーラーン帝国)の戦争およびイスラム教勢力の征服期に続く、より直接的な人類の選択の結果として減少しました。ウマの毛色と関連する遺伝子座からの古遺伝学的証拠から、毛色の多様化は青銅器時代に始まり、家畜化過程の初期段階と関連している、と主張されました。新たな毛色の出現は野生の対応種と比較して家畜分類群で一般的なので、家畜ウマ特定の有用な指標を提供します。

 現在まで、アナトリア半島における家畜ウマの起源は理解しにくいままですが、よく層序化された考古学的文脈からのウマ遺骸の注意深い回収により、古遺伝学的手法の進歩とともに、今ではアナトリア半島における家畜ウマの起源の過程に取り組むことも可能になります。この研究では、解剖学的形態および/もしくは生物測定的基準の欠如により妨げられる可能性のあるウマ遺骸の形態的特定と、ミトコンドリアDNA(mtDNA)・Y染色体DNA・毛色と関連する常染色体DNA指標の古遺伝学的分析を組み合わせ、アナトリア半島における家畜ウマ出現の時空間的動態を追跡します。毛色は、基本的なものが鹿毛(bay)・青毛(black)・栗毛(chestnut)・葦毛(gray)、希釈された表現型としてシルバー様(silver)・佐目毛(cream)、斑模様としてオベロ(overo)・トビアノ(tobiano)・サビノ(sabino)、ヒョウ状の斑点です。この研究では、アナトリア半島中央部8ヶ所とコーカサス6ヶ所の計14ヶ所の先史時代遺跡で発見された100頭以上のウマ遺骸が分析されます。これらのウマ遺骸は完新世の大半にわたり(紀元前9000~紀元後1000年)、近東の歴史における重要な問題となる、アナトリア半島における家畜ウマの起源への洞察が得られます。


●形態およびDNA分析

 111頭のウマ遺骸が分析され、そのうち77頭で古代DNAが得られました。現代のウマで以前に定義された14のmtDNAハプログループ(mtHg)と、以前には特定されていなかったmtHgが1つ確認されてXと命名され、これはO・P・Qの亜系統となります。また、10頭からロバ(Equus asinus)に特徴的なmtHgが得られました。7頭では以前の研究においてヨーロッパ野生ロバ(Equus hemionus hydruntinus)に分類されたアジアノロバ(Equus hemionus)のクレード(単系統群)H1に属するmtHgが得られ、本論文ではヨーロッパ野生ロバのmtHgとして扱われます。

 57頭のうち48頭で遺伝子型決定と形態学的分析が一致しました。形態学的に野生ウマもしくは家畜ウマに分類された40頭のうち38頭は対応するmtDNAを示します。ヨーロッパ野生ロバ6頭のうち3頭とロバ11頭のうち7頭でも一致が得られました。形態学的に種区分できなかった20頭は、mtDNA解析により、16頭のウマと2頭のロバと2頭のヨーロッパ野生ロバに識別されました。形態学的に曖昧な4頭でのみ、遺伝子型と形態学が一致しませんでした。形態的にヨーロッパ野生ロバに分類された2頭ではウマのmtDNAが、形態的にウマと分類された2頭はロバとヨーロッパ野生ロバのmtDNAを有していました。分類されなかった1頭は、遺伝的に交雑個体、より正確にはラバと決定されました。この個体はウマのmtDNAとロバのY染色体DNAを有していたからです。


●母系の通時的パターン

 紀元前4500年以前のアナトリア半島の12頭のmtHgはPもしくは以前には特定されていなかったXです。PもXも同時代もしくはそれ以前の標本においてはアナトリア半島以外では確認されていません。これは、mtHg-PおよびXがアナトリア高原在来の野生ウマに固有であることを示唆します。紀元前2200年以降、アナトリア半島におけるこのパターンは大きく変わり、13の新たなmtHgが青銅器時代と鉄器時代に出現しました。青銅器時代よりも前にアナトリア半島で主流だったmtHg-Pは、青銅器時代以降は6%(33頭のうち2頭)にすぎず、その2頭の年代も青銅器時代初期の紀元前2000年頃です。さらに、紀元前3300年前頃以降、mtHg-Xはもはや検出されなくなります。

 青銅器時代以降の標本で新たに検出されたmtHgは、おもに11頭のQと5頭のGと5頭のNです。これらの結果は、紀元前三千年紀後半から続くほぼ完全な集団置換を示唆し、アナトリア半島およびメソポタミアにおけるウマ管理の出現と拡散に関する図像学や文献の証拠とよく一致します。コーカサスでは、最古の標本は紀元前三千年紀にさかのぼり、mtHgはQです。残りの13頭のうち11頭は、mtHg-A・B・C・E・FG・G・Qに分類されます。まとめると、アナトリア半島とコーカサスにおけるこのmtHgの変化は、統計的にひじょうに有意です。13頭のうち2頭はmtHg-Pに分類され、おそらくはアナトリア半島在来の母系が後期青銅器時代にコーカサスでも存続していたことを示します。


●父系と雑種

 本論文の標本でY染色体DNAデータは少なく、青銅器時代よりも古い遺骸からは得られませんでしたが、青銅器時代以降の19頭ではY染色体DNA配列が得られました。このうち12頭はウマ(Equus caballus)、6頭はロバ(Equus asinus)、1頭はより一般的にはロバとして識別されるタイプに分類されます。12頭のウマのうち5頭のY染色体ハプログループ(YHg)は、以前に報告されている4タイプのうち2タイプに由来します。そのうち5頭が現代のウマでは主流のHT-1で、4頭はすでに消滅したHT-3で、3頭は網羅率が低いため決定できませんでした。1頭はY染色体ではロバに分類されますが、mtDNAではウマに分類され、交雑種のラバが鉄器時代にさかのぼることを反映しています。この個体のmtHgはLで、青銅器時代以前にはアジア南西部には存在しませんでした。


●毛色

 毛色の多様性と関連する一塩基多型が決定されました。25頭のウマ、8頭のロバ、1頭のヨーロッパ野生ロバ、1頭のラバで関連する一塩基多型が得られました。本論文の標本で欠けている毛色関連のアレル(対立遺伝子)はオベロと佐目毛だけです。したがって、古代ユーラシア北部ですでに観察されている毛色関連の変異の多様性の大半は、青銅器時代のアジア南西部に存在したことになります。青銅器時代以降の25頭で毛色が決定されました。7頭は野生型の鹿毛で、1頭はサビノを有す目鹿毛、8頭は栗毛のシルバー様、栗毛のトビアノと栗毛のシルバー様とヒョウ状の斑点と青毛が2頭ずつ、1頭がトビアノの鹿毛です。1頭はDNAの保存が充分ではなかったので、栗毛か鹿毛か決定できませんでした。

 予測通り、6頭のロバとヨーロッパ野生ロバには、人類が家畜ウマで選択した一塩基多型の変異はありませんでした。ラバと特定された1標本はASIPおよびMC1R遺伝子の両方で変異を有しており、母であるウマに由来する可能性が高く、ウマでは鹿毛のトビアノと関連しています。前期青銅器時代の1標本は、栗毛でmtHgがPなので、アナトリア半島在来の母系と推測されます。この組み合わせは、アナトリア半島在来の雌ウマが前期青銅器時代に家畜ウマの群に組み込まれたことを示唆します。


●アナトリア半島の野生および家畜ウマ

 以上の結果から、家畜ウマはおそらくユーラシア草原地帯からコーカサスとアナトリア半島に遅くとも紀元前2000年までには導入された、と結論づけられます。この結論は、アナトリア半島において、在来ウマ集団では紀元前4500年以前にはmtHg-P・Xしか存在せず、mtHg-Xは以前には報告されていなかったmtHg-O-P-Q系統と近縁な系統である、という事実に基づいています。今まで、これらのmtHgは同時代もしくはそれ以前のユーラシアの他地域では見つかっていません。さらに、mtHg-Xは完新世のアナトリア半島でのみ確認され、おそらくは紀元前5500年頃以後に消滅しました。これらの知見は、mtHg-P・Xが、前期および中期完新世にアナトリア半島で人類に狩られていた野生ウマの在来系統を反映している、という本論文の結論を支持します。

 mtHg-P・Xはアナトリア半島で後期更新世および前期完新世に独立して進化し、近隣の野生ウマ集団との遺伝子流動は殆ど若しくは全くなく、それはアナトリア半島とユーラシア北部を分離する地理的障壁、つまりコーカサス山脈やザグロス山脈やボスポラス海峡に起因する、と本論文は提案します。アナトリア半島は野生ウマの遺伝的に異なる集団の故地で、動物考古学的知見に基づくと、そうした野生ウマが新石器時代と銅器時代に消費されていた、と示す最初の証拠を本論文は提示します。新石器時代や銅器時代や前期青銅器時代のウマ遺骸は、これらアナトリア半島在来の野生ウマを表しています。紀元前2000年頃に、この在来野生ウマのmtHg頻度が有意に減少し、Pは稀になり、Xは完全に消滅します。おそらく、青銅器時代前のウマ遺骸におけるmtHg-Xの低頻度は、アナトリア半島ではなぜ歴史時代にmtHg-Xが残らなかったのか、説明します。

 アナトリア半島におけるこの在来mtHgの衰退と並行して、コーカサスとアナトリア半島ではmtHgが2から14と顕著に増加します。そのmtHgの全ては、ヨーロッパ南東部とカザフスタンにおいて、銅器時代や前期青銅器時代と同様に現代のウマで特定されていました。これらの研究では、mtHgはユーラシアにおける系統地理的構造を示さず、広範なユーラシア草原地帯全域の顕著な物理的障壁の欠如と一致します。これは、ユーラシア草原地帯におけるウマ集団が任意交配だったことを示唆しており、現代の家畜ウマ集団の高い多様性を説明できる可能性が高そうです。これは、コーカサスとアナトリア半島における家畜ウマの導入時に本論文のデータセットで観察された、急速な多様化も説明するでしょう。この外来系統の突然の出現は、紀元前三千年紀末におけるウマと騎乗の文献および図像学的証拠の出現と一致し、家畜形態のかなりの輸入を主張し、それ故に独立した在来の家畜化過程に反対します。

 毛色関連アレルの分析からも、この見解が支持されます。青銅器時代のアナトリア半島とコーカサスのウマは、ユーラシア草原地帯における家畜化で選択されてきたと考えられる毛色多様体と対応する変異を有していたからです。毛色の希釈もしく斑模様に関連する変異は、本論文のデータセットでは紀元前1200年頃以後と遅く出現しました。本論文の遺伝的データからは、青銅器時代にアナトリア半島に導入された家畜ウマはユーラシア北部でそれ以前に見られる変異を有しているので、おもに広範なユーラシア北部から輸入された血統に由来する、という結論が導かれます。この外来集団の究極的な地理的起源は現時点でのデータでは定義できませんが、黒海北部のユーラシア草原地帯が最も有力な候補のようです。

 アナトリア半島在来のmtHg-Pは、現代のウマと同様にアナトリア半島とコーカサスの青銅器時代の家畜ウマにも低頻度(約8%)ながら存続しており、アナトリア半島の野生雌ウマが家畜の群に組み込まれ、それはおそらくアナトリア半島における家畜ウマ導入の直後で、野生の在来系統が絶滅する前だった、と明らかになりました。この可能性は、青銅器時代の4頭のうち少なくとも2頭がmtHg-Pを有している、という分析結果と一致します。これらmtHg-Pを有する個体は毛色関連アレルの変異も有しており、母系祖先がアナトリア半島在来集団に由来する、という可能性が最も高そうです。これは他地域でも観察されたパターンで、在来の雌ウマが家畜の群に組み込まれ、高いミトコンドリアゲノム多様性が生じました。本論文の結果は、前期青銅器時代に家畜ウマが導入された後の狩猟から牧畜への急速な移行を示唆し、それは動物相遺骸の低頻度により示唆される、アナトリア半島とコーカサスにおける野生ウマ集団の衰退と相関している可能性が高い、と推測されます。

 アナトリア半島とコーカサスにおける2つのYHg(HT-1およびHT-3)の通時的パターンは、ユーラシア北部での記録と類似した集団動態の可能性を示唆します。ユーラシア北部では、現代のウマで優勢なYHgであるHT-1が、家畜化開始の直後に顕著に増加し、中世までに家畜ウマの遺伝子プールに固定されましたが、HT-3はその消滅まで経時的に衰退しました。アナトリア半島のデータセットでは、HT-1およびHT-3は紀元前2000年頃には同等の頻度ですが、HT-3は経時的に衰退し、コーカサスにおいて最後に確認されているHT-3の個体の年代は紀元前1300年頃です。このY染色体多様性の減少は、おそらく種牡馬の強い選択の結果です。

 ユーラシア北部、とくにポントス・カスピ海草原は、現時点ではアナトリア半島へと導入された家畜ウマの最有力起源地候補なので、導入経路はヨーロッパ南東部とコーカサスの2通りが考えられます。ボスポラス海峡横断経路は、前期青銅器時代となる紀元前2600~紀元前2300年頃のバルカン半島南部における、家畜ウマの最初の動物考古学的証拠に基づいています。この遺跡では、10頭のウマの毛色が推定され、ひじょうに偏った分布が明らかになりました。それは、10頭のうち6頭のホモ接合性青毛で、そのうち4頭はヒョウ状の斑点を有し、2頭の鹿毛ウマもヒョウ状の斑点を有していますが、栗毛は検出されませんでした。このパターンは、栗毛が最初の毛色多様体だったのに対して、青毛とヒョウ状の斑点に関連する変異がひじょうに稀だった(25頭のうち2頭)、アナトリア半島とコーカサスにおける本論文の結果とひじょうに対照的です。これらの違いは、バルカン半島南部からアナトリア半島への家畜ウマ集団の導入という仮定と整合的ではありません。さらに、紀元前三千年紀のアナトリア半島西部においてウマを管理した考古学的証拠はなく、ボスポラス海峡経路説は支持する追加の証拠はほとんどありません。

 対照的に、南コーカサスとアナトリア半島中央部で広範に同時代に出現するいくつかの外来mtHgと毛色変異の特定から、コーカサス経由での拡散経路が主張されます。北コーカサスにおける紀元前3300年頃のマイコープ(Maikop)文化の集落と埋葬におけるウマの骨と図像の豊富さから、騎乗はマイコープ文化期に始まった、と示唆されます。さらに、最近の古代人のゲノム研究から、銅器時代の草原地帯とコーカサスの人々の間の継続的な遺伝子流動が示されており(関連記事)、青銅器時代には、メソポタミアとアナトリア半島とコーカサス南北と草原地帯間での人類集団の遺伝子流動が明らかになっています。

 人類集団間のこの交換は、4200年前頃の事象として知られる、寒冷化と乾燥化の1世紀にわたる期間に強化されるようです。この期間は、草原地帯の生計戦略と社会的ネットワークに影響を及ぼしたかもしれません。現在の証拠では、この気候事象はコーカサスとアナトリア半島における非在来ウマのmtHgおよび毛色の到来とほぼ同時期で、ウマの飼育とおそらくはインド・ヨーロッパ語族の拡大と関連しているようです。コーカサスの南側のウマ飼育の拡散が始まった文化的過程は、現時点で扱うのは困難ですが、紀元前三千年紀後半に始まる、コーカサスとそれに続くアナトリア半島への人類集団の移動と関連しているかもしれません。


●その他のウマ類

 本論文では、アナトリア半島中央部の前期鉄器時代(紀元前1100~紀元前800年頃)の遺跡で、雌ウマと雄ロバの間に生まれたラバが特定されました。ラバは形態に基づいて特定され、最近ではゲノムデータに基づいてヨーロッパの鉄器時代とローマ期で確認されています。いくつかの標本がアジア南西部において青銅器時代と鉄器時代の遺跡でラバとして仮定的に特定されてきましたが、本論文で示された個体は、アジア南西部におけるラバの最古となるゲノム証拠です。

 野生ロバはアナトリア半島原産ではないので、雄ロバは家畜だったに違いありません。アナトリア半島中央部の前期鉄器時代のラバの母親である雌ウマは、外来のmtHgで、その仔には2つの毛色変異を伝えたので、家畜でした。鉄器時代のアナトリア半島におけるラバの存在は、アジア南西部へと移動してきた家畜ウマの新たな役割を反映しています。アジア南西部では、家畜ロバは紀元前四千年紀以降用いられており、ウマ類の交雑(ロバとアジアノロバ)の伝統は紀元前三千年紀に出現しました。この状況は、ウマのアジア南西部のウマ類経済への真の統合を反映しており、意図的な家畜技術の初期の事例です。紀元前1600~紀元前1178年頃となるヒッタイト期の家畜の価格表に記載されている最も高価な種であるラバは、明らかにひじょうに高く評価されていました。

 ウマに加えて、本論文の結果は、新石器時代と銅器時代と青銅器時代のアナトリア半島の人々が、かつてはアナトリア半島の大半に生息していたヨーロッパ野生ロバも狩っていた、という明確な証拠を提示します。これは些細な結果ではありません。なぜならば、ヨーロッパ野生ロバの形態学的識別が明白ではなく、本論文で確定した結果は、性別における遺伝子型決定と形態学的決定との間の不一致を示すからです。同時に、これはこの研究チームの以前の結果も確証しました。それは、アジアノロバの他の亜種がアナトリア高原に生息していなかったことを示します。

 本論文で示されたアナトリア半島におけるヨーロッパ野生ロバの最も新しい証拠は紀元前2200年頃で、以前の報告と一致します。したがって、統合されたデータからは、ヨーロッパ野生ロバはアナトリア半島において野生在来ウマと同じ頃となる後期青銅器時代に絶滅し、それはおそらく、4200年前頃の事象と関連した乾燥化や、増加する家畜との牧草地資源をめぐる競争や、おそらくはエリート層の狩猟慣行と関連した狩猟圧力を含む、複数の要因の同じ組み合わせに起因します。


●まとめ

 完新世の9000年にわたるアナトリア半島と南コーカサスの古代ウマ類遺骸の研究により、ミトコンドリア系統の経時的動態が分析され、アナトリア半島が家畜ウマの起源地であるという仮説が検証されました。本論文では、前期および中期完新世に普段から利用されていたアナトリア半島在来の野生ウマのmtHgが特定されました。しかしその遺伝的変化のパターンは、在来ウマ集団を含む漸進的な過程を反映しておらず、むしろ現在の家畜ウマにも存在する外来系統の紀元前2000年頃の突然の出現を示します。これらの輸入されたウマは、家畜化前には野生在来ウマに欠けていた毛色を有する、と示されました。さらに、青銅器時代へのアナトリア半島のmtHg-Pの持続は、家畜の群への在来雌ウマの限定的な取り込みを示唆します。

 これらの変化パターンは、家畜ウマがおそらくコーカサス地域経由でアナトリア半島へ青銅器時代に導入されたことを示唆し、アナトリア半島と南コーカサスにおける家畜ウマの利用開始の年代を提供します。また本論文の結果は、アナトリア半島におけるウマの独立した家畜化という仮説にも反対します。本論文の結果から、アナトリア半島は家畜ウマ系統の主要な起源ではなかったものの、他地域で観察されたように、在来母系は輸入された家畜ウマの群に取り込まれ、在来のロバとも交雑してラバが生まれた、と示唆されます。輸入された家畜ウマの究極的な起源はまだ決められませんが、ウマの家畜化の起源地としてアナトリア半島が除外されることで、黒海隣接地域へとさらなる関心が向けられます。


参考文献:
Guimaraes S. et al.(2020): Ancient DNA shows domestic horses were introduced in the southern Caucasus and Anatolia during the Bronze Age. Science Advances, 6, 38, eabb0030.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abb0030

森恒二『創世のタイガ』第7巻(講談社)

 本書は2020年9月に刊行されました。第7巻は、タイガたちのいる現生人類(Homo sapiens)の集落がネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に襲撃され、リカとユカなど拉致された女性たちをタイガたちが奪回に行く場面から始まります。タイガにより飼われている狼のウルフが敵であるネアンデルタール人の気配を察知し、タイガたちはネアンデルタール人を発見して攻撃しますが、ネアンデルタール人は少なく、逃げるばかりでした。またしてもネアンデルタール人たちの囮に引っかかった、とタイガたちは悟ります。

 奪回部隊を率いるナクムの指示により、アキルという男性が捕虜になったネアンデルタール人男性に拉致された女性たちの行方を尋問します。アキルは現生人類とネアンデルタール人との間に生まれ、ネアンデルタール人社会で育ったこともあるか、以前は現生人類とネアンデルタール人との間の穏やかな交流もあり、その時にネアンデルタール人の言語を習得したのでしょうか。或いは、捕虜にしたネアンデルタール人から言語を習得したのかもしれません。女性たちはもう遠くに連れ去られた、と聞いたナクムたちは愕然とします。アラタは、ネアンデルタール人が陽動作戦をとったことに衝撃を受けていました。ネアンデルタール人は、タイガたちが狼を使うと想定して囮部隊を用意していた、というわけです。

 集落の守りもあるため、奪回部隊の半数は集落に戻ることになります。タイガはティアリに集落に戻るよう促しますが、ティアリは奪回部隊に戻ります。二十数人となった奪回部隊は、2~3倍はいると思われるネアンデルタール人相手に強い不安を抱きつつも立ち向かおうとします。タイガたちのいる集落を襲撃したネアンデルタール人たちは、一時的な野営地と思われる場所に集まり、宴会を開いていました。現生人類の女性たちはネアンデルタール人男性に次々と犯されていき、ユカも犯されますが、その間もユカは呆然としたままでした。

 夜、奪回部隊は休憩していましたが、ティアリは休んでいる暇はない、と焦り、兄のナクムに抗議します。タイガはティアリから、ネアンデルタール人が現生人類の女性を奴隷とするために拉致したのではない、と聞かされます。以前のネアンデルタール人は、現生人類の女性たちを拉致しても殺さず、子供を産ませて奴隷にしていましたが、今は現生人類の女性たちを拉致して奴隷にしてもすぐに殺し、子供を産ませてもその子供さえ殺すようになりました。史実では、現生人類が勢力を拡大して北のネアンデルタール人が滅ぶはずなのに、現在勢力を拡大しているのは軍隊のように組織的な行動をとるネアンデルタール人であることに、アラタは強い疑問と不安を抱きます。このままでは、滅ぶのは現生人類の方だ、というわけです。タイガは、そうさせないために自分たちは来た、リカコもユカも殺させない、と強く誓います。そもそも、自分がオーストラリアへの旅行で洞窟を見ようと提案したことで、過去に行ってしまったことを思い出したアラタは、強く後悔します。

 偵察に出ていた男から、ネアンデルタール人が「熊の岩山」と呼ばれる拠点にいる、との報告が奪回部隊に入ります。昔そこには現生人類が住んでいたそうですが、南下してきたネアンデルタール人に奪われたようです。ネアンデルタール人たちは拠点で宴会を開いており、女たちを連れて帰って奴隷にしたい、と言ってきた男たちに、指揮官らしきドゥクスは要請を却下します。自分たちの新たな王は「色つき」を認めない、「色つき混じり者」を全て殺す、北の民(ネアンデルタール人)だけが人間なのだ、と言います。

 ネアンデルタール人の砦を見つけた奪回部隊は、ナクムの方針により、ネアンデルタール人たちの一部が狩猟に出かけた隙を襲撃することにしました。20~30人のネアンデルタール人が狩猟に出たことを確認した奪回部隊は、20人程度しかいないのに、70人のネアンデルタール人たちを襲撃しようとしていました。ナクムは、まず投槍で敵をできるだけ減らし、敵に武装させる隙を与えないよう、指示を出します。ついに奪回部隊はネアンデルタール人に襲いかかり、最初の投槍で12~13人を倒しますが、依然として人数で不利な状況は変わりません。しかし、狼のウルフも襲撃に加わり、奇襲効果もあってネアンデルタール人たちを退却させます。しかし、ドゥクスが支持を出すと、狼狽していたネアンデルタール人たちは奪回部隊を包囲するように陣形を組みます。包囲された奪回部隊は、ナクムの攻撃により包囲網に穴を開け、そこから突破しようとします。格闘技を学んでいたタイガはそれを剣術に応用し、剣術を知らないネアンデルタール人に対して優位に立ちます。タイガには、戦いの中でも冷静さを保つ精神力があり、「戦士」として成長していました。

 包囲を破った奪回部隊は、捕虜となっていた女性たちを発見し、アラタが女性たちを解放します。奪回部隊も半数を失ったものの、ネアンデルタール人も少なくなり、まだウルフもナクムも健在であることから、タイガは勝利を確信します。ところが、ネアンデルタール人が狼煙を上げているのを見たタイガは、狩猟に行ったネアンデルタール人たちが戻って来ると悟り、早く脱出するよう、ナクムに促します。しかし間に合わず、30~40人のネアンデルタール人たちが襲撃してきます。絶望的な状況の中、タイガは諦めず強い戦意を示しますが、ドゥクスは冷静で、配下のネアンデルタール人たちに槍を投げるよう、指示を出します。絶体絶命の状況に奪回部隊の戦意が喪失しかける中、突如として大きな鳴き声とともに、マンモスが現れます。それがかつて命を救ったアフリカだと気づいたタイガは、アフリカに乗ってネアンデルタール人たちに反撃します。突然のマンモスの出現に狼狽したネアンデルタール人たちは敗走し、ドゥクスはこの信じがたい状況を見て、タイガも自分たちの王と同じ神なのか、と驚きます。私も含めて、アフリカが登場した時からこのような展開を予想していた人は少なくなかったでしょうから、もう少しひねってもよかったのではないか、とも思います。

 こうしてネアンデルタール人に拉致されていた現生人類の女性たちも解放されますが、ユカはタイガを知らない人のように呆然と眺めるだけでした。アラタは、ネアンデルタール人が軍隊のような組織を持っていることに強い疑問を抱いていました。カシンは現生人類の言葉を少し話せるネアンデルタール人の捕虜を尋問し、その呻き声に気づいたタイガとアラタも向かいます。なぜ自分たちを殺そうとするのか、とカシンに問われたネアンデルタール人の捕虜は、「王」の命令だからだ、と答えます。しかし、カシンもナクムも「王」とは何なのか、知りません。「王」とは何者なのか、ナクムに問われたネアンデルタール人の捕虜は、嘲笑するように、お前たちには分からない、と答えます。お前たち「色つき」は人ではない、「王」は「神」の子供でこの世界を統べる者だ、この世界は「王」と血を分けた我々「白き者」の世界だ、とネアンデルタール人の捕虜は言い、アラタは愕然としますが、ナクムは「神」とは何か知りません。ネアンデルタール人の捕虜はナクムたちを、お前たち不浄の者・「色つき」の者は滅びる、我々「白き者」だけが唯一の「人」だ、王はお前たち「色つき」を滅ぼし、清浄な(正常な?)大地を取り戻す、お前たちは我々により滅ぼされる、と言って嘲笑します。これは重要な情報ですが、ナクムたちの部族の言葉で「王」や「神」をネアンデルタール人がどう表現したのか、それをタイガやアラタがどうやって理解できたのか、ということは気になります。まあ、これは創作ものですから、気にせず受け入れるべきなのかもしれませんが。

 奪回部隊が集落に戻ると、マンモスを見て最初は驚いた人々も、仲間を見て歓喜します。タイガから、「王」とは一族や他の部族や土地も支配する「大きな力を持つ者」という意味で、人々の上に立つと言われており、人々を滅ぼそうとする危険な王もいる、と聞かされた賢者ムジャンジャは、先代や先々代の賢者からも聞かされていなかった事態だと悟ります。これまで、ネアンデルタール人と現生人類の間に争いはあっても、互いを滅ぼそうとはしませんでしたが、ネアンデルタール人は拉致した現生人類を殺し、拉致した女性に産ませた子供も殺すようになりました。ムジャンジャはナクムに、見て感じたことを信じ、決断するよう促します。一族を率いて生きる道を探し、滅んではならない、というわけです。ネアンデルタール人が自分たちを滅ぼすつもりだと知ったナクムは戦いを決断し、タイガに共闘を要請し、タイガは即座に快諾します。あくまでも戦いを避けようとして現実逃避するレンをリカコは叱責し、アラタはレンに、共に戦うか女性や子供たちと隠れるか、選択するよう迫ります。タイガは、ここが自分たちの知る歴史ではないと考え、傍観者ではいられないので、命懸けで「今」を生きるしかない、と決意します。

 ホラアナグマの狩猟などで現生人類の結束はますます高まりますが、ナクムは、カシンたちが何度か見たネアンデルタール人の大群が気がかりでした。ネアンデルタール人の方はバラバラだった者たちを統一した王がいるのに、現生人類の方は部族がバラバラであることを懸念するナクムは、自分たちにも王が必要だと考え、タイガに自分たちの王となるよう、要請します。しかしタイガは、ナクムこそが王だ、と言います。自分たちが何のためにここに来たのか、ずっと考えていたタイガは、王になる男を助けるためだ、との結論に至りました。皆を率いて現生人類を救う男こそが王たるべきナクムなのだ、とタイガがナクムに力説するところで第7巻は終了です。


 第7巻は、ひじょうに重要な情報が明かされ、たいへん楽しめました。そもそも、タイガたち21世紀(で間違いないと思います)の大学生が更新世にタイムスリップするという点で非現実的な設定ですから、これまでは当時の状況が比較的忠実に描かれてきたとはいえ、実際とは何かの点で大きく異なる世界だったとしても不思議ではありません。本作の世界は、神のような超越的な存在、あるいはタイムスリップが可能となった未来世界の人々による実験で、タイガたち人類学のゼミ生が選ばれた、ということでしょうか。

 この謎の核心に迫りそうな情報が、ネアンデルタール人の捕虜から語られました。ネアンデルタール人には新たな「王」がおり、この「王」は神の子供で、「王」と血を分けた「白き者」たるネアンデルタール人が「色つき」の者たる現生人類を滅ぼすよう命じた、というわけです。この「王」は組織化に長けており、軍隊の訓練も指示しているようです。そうすると、ネアンデルタール人の「王」も未来からタイムスリップしてきた、ということでしょうか。「白き者」が「色つき」を滅ぼすよう命じていることから、この「王」からは白人至上主義的な思想が窺えます。とはいえ、ネアンデルタール人と現生人類は異なりますから、白人至上主義者がネアンデルタール人の「王」となり、ネアンデルタール人に肩入れするのも変だとは思います。

 ただ、ネアンデルタール人がまだあまり知られていなかった、というか人類進化史において正確には位置づけられていなかった19世紀後半の白人至上主義的な人物ならば、あるいはアフリカ起源の肌の色の濃い現生人類に対して、肌の色が薄かっただろうネアンデルタール人に肩入れして、現生人類を滅ぼそうと考えることもあり得るかな、とは思います。あるいは、ネアンデルタール人に強い思い入れを抱いている狂信的な人物なのでしょうか。もっとも、単に当時のネアンデルタール人と現生人類に未来人が知恵を授けてどの程度のことができるのか、また史実とどう変わるのか、と思いついた気まぐれで冷酷な未来人もしくは神のような超越的存在によるゲームのようなものなのかもしれません。まあ、ネアンデルタール人の肌の色については議論があり、ネアンデルタール人の肌と髪の色も、現代人と同じく多様だったのではないか、と推測する研究もあります(関連記事)。なお、第1巻~第6巻までの記事は以下の通りです。

第1巻
https://sicambre.at.webry.info/201708/article_27.html

第2巻
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_28.html

第3巻
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_42.html

第4巻
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_57.html

第5巻
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_44.html

第6巻
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_41.html

『アナザーストーリーズ』「偽りの“神の手” 旧石器発掘ねつ造事件」

 BSプレミアムで放送されたので視聴しました。そろそろ旧石器捏造事件の発覚(2000年11月5日)から20年が経過します。もう旧石器捏造事件が一般向けメディアで取り上げられることもひじょうに少なくなったように思いますが、発覚から20年ということで、これから11月にかけて旧石器捏造事件を取り上げる雑誌や新聞もあるのでしょうか。内容に関しては、とくに目新しいものはなかったように思いますが、旧石器捏造事件に翻弄された地元の人々への取材は知らないものも多く、ひじょうに居たたまれないものでもありました。ただ、地元の人々の逞しさも感じさせられる内容になっていました。

 番組では、旧石器捏造事件を起こした藤村新一氏(現在は再婚して苗字を変えているそうです)は「F」と呼ばれ、映像にはモザイクがかけられていました。今回、NHKが藤村氏に取材を申し込んだそうですが、心身の不調を理由に断られたそうです。もっとも、おそらくは2011年の取材でも、藤村氏は本題の直接旧石器捏造事件に関わりのないことや、本題からやや外れた話題については饒舌に語るものの、本題になると「記憶にない」と言って、詳しく答えようとしなかったそうですから(上原善広「石の虚塔(15)藤村新一、かく語りき」)、仮に今回NHKの取材に応じていたとしても、新たに注目すべき情報は得られなかったでしょう。なお、旧石器捏造事件に関する当ブログの記事は以下の通りです。

旧石器捏造事件と多地域進化説
https://sicambre.at.webry.info/200806/article_9.html

ケネス=フィーダ『幻想の古代史』上・下
http://sicambre.at.webry.info/201003/article_2.html

旧石器捏造事件の発覚から10年
https://sicambre.at.webry.info/201011/article_5.html

角張淳一『旧石器掘捏造事件の研究』
https://sicambre.at.webry.info/201011/article_23.html

松藤和人『検証「前期旧石器遺跡発掘捏造事件」』
https://sicambre.at.webry.info/201012/article_3.html

岡村道雄『旧石器遺跡「捏造事件」』
https://sicambre.at.webry.info/201012/article_7.html

竹岡俊樹『旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ』
https://sicambre.at.webry.info/201104/article_17.html

原田実『つくられる古代史』
http://sicambre.at.webry.info/201205/article_26.html

上原善広「石の虚塔(15)藤村新一、かく語りき」
https://sicambre.at.webry.info/201302/article_26.html

小野昭「日本における旧石器時代研究の枠組みと現状」
http://sicambre.at.webry.info/201311/article_13.html

仲田大人「日本列島で交替劇は起きたか?」
http://sicambre.at.webry.info/201312/article_4.html

『週刊新発見!日本の歴史』第49号「旧石器・縄文 日本人はどこから来たか」
http://sicambre.at.webry.info/201406/article_12.html

竹岡俊樹『考古学崩壊 前期旧石器捏造事件の深層』
https://sicambre.at.webry.info/201409/article_31.html

上原善広『石の虚塔』
https://sicambre.at.webry.info/201410/article_4.html

日本列島にはいつから人類が存在したのか
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_4.html

コーカサスの25000年前頃の人類のゲノムデータ

 人間進化研究ヨーロッパ協会第10回総会で、コーカサスの25000年前頃の人類のゲノムデータに関するPDFファイル(Gelabert et al., 2020)が報告されました。この研究の要約はPDFファイルで読めます(P49)。近年では、環境DNA研究の古代DNA研究の応用により、遺跡の堆積物から、後期および中期更新世のさまざまなホモ属系統や他の哺乳類の複数のミトコンドリアゲノムが解析されました(関連記事)。この手法は、人類遺骸の古代ゲノム研究への補完的もしくは代替的手法として、人類の進化と交雑史と拡散の研究に、新たな地平を開きます。この手法はまた、過去の環境と人類の生計および行動についての新たな情報を提供する可能性を有します。

 この研究は、ジョージア(グルジア)西部のイメレティ(Imereti)地域に位置するサツルブリア(Satsurblia)洞窟の、25000年前頃となる上部旧石器時代層から得られたゲノムデータを報告します。サツルブリア洞窟遺跡では、33000~14000年前にまたがる、上部旧石器時代の豊富な考古学的記録が得られています。上部旧石器時代後期(較正年代で13380~13132年前)となる、サツルブリア洞窟遺跡で発見された人類の右側頭骨の完全なゲノムに関する以前の研究では、この地域に居住していた最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後の集団は「コーカサス狩猟採集民(CHG)」で、いくつかのユーラシア集団の主要な祖先集団でした(関連記事)。しかし、この地域のLGM前の集団の遺伝的構成は、ユーラシア西部のこの期間のゲノムデータがないため、不明なままです。

 サツルブリア洞窟の25000年前頃の人類のミトコンドリアゲノムは、45000年前頃となるブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された個体(関連記事)との明確な類似性を示します。核ゲノムデータの分析では、この25000年前頃の人類は、同じくサツルブリア洞窟で発見された13000年前頃の人類とはクラスタ化せず、対照的に現在のレヴァント集団に近いようです。これは、南コーカサス地域の人類集団におけるLGM前後での遺伝的不連続性を示唆します。さらに、サツルブリア洞窟の25000年前頃の層では、他の哺乳類3種の存在が特定されました。それは、タイリクオオカミ(Canis lupus)とウシ(Bos taurus)とヒツジ属の種です。

 遺跡の堆積物のDNA解析により、人類遺骸のない遺跡でも遺伝的データを得ることが可能となりましたから、更新世の人類遺骸がひじょうに少ない日本列島のような地域への適用により、研究が大いに進展するのではないか、と期待されます。中国や朝鮮半島でもこうした研究が進めば、日本人の形成過程もより詳細に解明されるでしょう。また、この研究で非ヒト動物の遺伝的データが得られたように、当時の動物相のより詳細な解明も進むのではないか、と期待されます。


参考文献:
Gelabert P. et al.(2020): Metagenomes and ancient human lineages from a pre-LGM layer of Satsurblia cave in the Caucasus. The 10th Annual ESHE Meeting.

イスラエルの旧石器時代遺跡の堆積物のDNA解析

 人間進化研究ヨーロッパ協会第10回総会で、イスラエルの旧石器時代遺跡の堆積物のDNA解析に関する研究(Slon et al., 2020)が報告されました。この研究の要約はPDFファイルで読めます(P110)。古代DNA研究の進展により、ユーラシアにおいて更新世人類のDNA解析に成功したため、中部旧石器時代と上部旧石器時代の人類集団の関係も明らかになってきました。DNAが解析された人類は、現時点ではネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と古代の現生人類(Homo sapiens)です。

 しかし、レヴァントの温暖な気候はDNAをより急速に分解するため、これまでネアンデルタール人やデニソワ人が存在した年代の人類遺骸のDNA解析には成功していません。現時点で、レヴァントで解析された最古のDNAは14000~12000年前頃の個体群に由来します。この研究は、ユーラシア全域の考古学的堆積物におけるDNA解析を目的とした大規模な研究の一環として、遺伝的分析のため、イスラエルのセフニム洞窟(Sefunim Cave)から33標本を収集しました。この33標本は新たに発掘された地区から採取され、取り扱いによりもたらされる汚染を最小限に抑えるための予防策が講じられ、セフニム洞窟遺跡の旧石器時代の5層(AH7~3)にまたがっています。

 古代の堆積物からDNAを解析する方法は、環境DNA研究の古代DNA研究への応用により、近年盛んになりつつあり、すでにユーラシアの遺跡でネアンデルタール人とデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されています(関連記事)。各標本で特定された分類群ごとに、現代の汚染から真の古代DNA断片を区別するために、回収されたmtDNA断片は、時間の経過に伴い蓄積する傾向があるヌクレオチド置換の存在で評価されました。

 古代人類のmtDNAがどの標本でも検出されなかった一方で、4点の標本から古代の非ヒト動物のmtDNA断片が回収されました。このうち2点の標本(標本1および2)は、中部旧石器時代となるムステリアン(Mousterian)の層(AH7)から収集され、シカ科とハイエナ科のミトコンドリアゲノムに分類されるわずかなDNA断片から構成されます。標本3はシカ科のmtDNA断片を含んでおり、中部旧石器時代から上部旧石器時代の移行にまたがる層(AH6)で収集されました。AH7および6のの光刺激ルミネッセンス法 (OSL)年代測定はまだ保留中ですが、現在の推定では70000~45000年前頃の間です。

 標本4は上部旧石器時代となるレヴァントオーリナシアン(Levantine Aurignacian)の人工物により特徴づけられる層(AH5)に由来し、その放射性炭素年代は40000~30000年前頃です。この標本は、ミトコンドリアゲノム配列の約1/4を復元するのに充分なDNA断片を生成し、シカ科のmtDNAの多様性内に位置づけることができるようになりました。堆積物におけるシカ科とハイエナ科の特定は、これらの層の考古学的記録と一致しており、シカ科は骨と枝角で、ハイエナ科は骨と糞石により表されます。

 興味深いことに、4標本すべては洞窟内の同じ区域(ユニットG/H 48/49)から採取されており、局所的条件がDNAの長期保存にとくに貢献している、と示唆されます。何千年もその区域を覆い、標本抽出の直前に取り除かれた大きな岩石が、堆積物内の酸化と生物活性を制限することにより、堆積下でのDNAの損失を減少させた、と推測されます。セフニム洞窟の堆積物のDNAの回収は、レヴァントにおけるDNA保存の現在の限界を15000年以上さかのぼらせます。これは、レヴァントにおける上部旧石器時代、さらには中部旧石器時代集団のDNA分析の実現可能性を示しており、今後の研究の進展がたいへん期待されます。


参考文献:
Slon V. et al.(2020): DNA from Paleolithic sediments at Sefunim Cave, Israel. The 10th Annual ESHE Meeting.

ウマ遺骸の性比の変化

 ウマ遺骸の性比の変化に関する研究(Fages et al., 2020)が公表されました。5500年前頃のウマの家畜化は人類史の転機となりました。最古となる馬の家畜化の確実な証拠はカザフスタン北部のボタイ(Botai)文化で得られており、年代は5500年前頃です(関連記事)。ウマの家畜化により高速輸送が可能となり、青銅器時代となる4000年前頃の戦車(チャリオット)開発と、その1200年後となる鉄器時代の騎兵の出現は、戦争に革命をもたらしました。鉄器時代の前にはウマの形態に明確な変化がないことから、古典的な動物考古学的手法によるウマの家畜化過程の初期段階の復元に関しては、議論となってきました。また、ウマの遺骸はしばしば断片的なので、雑種と性別の決定は困難です。

 近年飛躍的に進展した古代DNA研究の適用により、ウマの家畜化過程の理解に関する理解は大きく進展しました。その結果、遅くとも紀元前三千年紀には、イベリア半島とシベリアで異なる家畜ウマの系統が存在したものの、現生家畜ウマの遺伝的構成には大きな影響を及ぼしていない、と明らかになりました。とくに、ボタイ文化の家畜ウマは、現代の家畜ウマとは異なる系統で野生種とされていたモウコノウマ(Equus ferus przewalskii)の祖先で、現生家畜ウマにほとんど遺伝的影響をおよぼしていない(2.7%程度)、と明らかになりました(関連記事)。現時点での古代ゲノムデータからは、家畜ウマは紀元前三千年紀に異なる系統に由来するか、あるいは別の独立した家畜化もしくは遺伝子移入を通じて形成されていった、と推測されます。遺伝子移入を通じて、本来の遺伝的構成は希釈されていった、というわけです。また最近の研究は、特定の種牡馬の系統、とくに東洋種が好まれて選択されてきたことを指摘します(関連記事)。

 しかし、古代DNA研究でも性比に関しては軽視されてきました。家畜化の過程で、たとえばウシでは、雄の仔の大半が殺されるなど、性により異なる生存パターンも想定され、スキタイ文化の儀式では、雄ウマが優先的に犠牲とされました。本論文は、ウマの群における性比を経時的に検証しました。そのため、ヨーロッパの上部旧石器時代の19頭のDNAデータが新たに生成され、既知のデータと統合されました。これにより、合計249頭の古代ウマのDNAデータが得られました。これらのデータに基づいて、性比(雄:雌)が推定されました。性別の推定は、X染色体の網羅率に基づいています。これが常染色体の網羅率とほぼ同じであれば雌、その半分程度であれば雄というわけです。

 上部旧石器時代の性比は0.92で、シベリア北部のタイミル半島の上部旧石器時代遺跡で報告された性比0.43よりも均衡しています。シベリア南西部の上部旧石器時代遺跡では、性比が0.71です。これらから、家畜化前となる上部旧石器時代のウマ遺骸において性差はない、と示唆されます。新石器時代と銅器時代においては、最初期のウマの家畜化の証拠が得られているボタイ文化でも、性比は1.15となり、偏りは見られません。ロシアとイランの新石器時代および銅器時代の遺跡群でも、性比は1.17と偏りはありませんでした。4700年前頃までは、ウマ遺骸(62頭)の性比に大きな偏りはないようです。この状況は過去4600年(187頭)では大きく変わり、性比は3.48となります。とくに、3900年前頃が大きな転機と推定されます。この性比が偏った状況は3900年前頃以後も経時的に大きくは変わらず、地理的な違いも確認されませんでした。

 上部旧石器時代から3900年前頃まで、ウマ遺骸の性比に大きな偏りはなく、この期間には、ウマが狩猟対象とされ、家畜化されてもいた銅器時代も含まれます。これは、狩猟でも飼育でも一方の性が選好されていなかったことを示唆します。また、バイソンやケナガマンモスの遺骸が雄に偏っていたことと対照的です。こうした不均衡な性比は、狩猟における危険性低下の意図、および/もしくは雄の分散率の増加との関連が指摘されています。これらの遺骸が雄に偏っている種では、性的に成熟した雄が分散する一方で、雌は出生集団に留まっているため、狩猟でも雄が選好されたのではないか、というわけです。一方、1頭の種牡馬が優先的地位を占めるウマの社会構造は、遺骸の性比に影響を及ぼさなかった、と示唆されます。

 ウマの家畜化としては最初期となるボタイ文化では、輸送および搾乳と、肉や皮の利用との混合としてウマが飼育されていた、と推測されています。しかし、上述のようにボタイ文化ではウマ遺骸の性比に大きな偏りはなく、搾乳があったにも関わらず、雄の仔が屠殺されていたわけではない、と示唆されます。ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析では、銅器時代に家畜ウマが減少している、と示唆されました。これは、ウマの飼育に必要な資源の獲得を維持するため、ウマが管理され始めた可能性を示唆します。ボタイ文化のウマ遺骸における性比の偏りの欠如は、性に関係なく飼育されていたウマが消費されていたことを示唆します。

 3900年前以後のウマ遺骸における雄への偏りは、儀式的埋葬地を除外しても変わりません。これは、青銅器時代にウマに関して雌雄の扱いが劇的に変化したことを示唆します。ヴォルガ・ウラル地域の後期青銅器時代の遺跡では、埋葬で雄の比率が高くなっています。このパターンは人類の状況を反映しているかもしれません。埋葬や衣服や装飾品などで、新石器時代には見られなかった明確な性差が、新石器時代から青銅器時代の移行期に観察されるようになります。

 さらに、過去3000年の埋葬における雄ウマの優勢は、種牡馬もしくは去勢馬が犠牲的儀式で高い価値を与えられた、と示唆します。これは、力・保護・強さといった男らしさや騎士と関連づけられていた象徴的属性に起因するかもしれません。とくに、二輪により特徴づけられる車両と関連する彫刻画像は、紀元前三千年紀後半から紀元前二千年紀前半にかけて典型的になりました。それらは一般的に、男性戦士および機動戦の出現、もしくはとくに埋葬における儀式の必要性、と関連づけられています。

 これは、種牡馬の本質的なイデオロギー的役割と、エリートの戦争および儀式的行為における種牡馬の使用を示唆します。これらの知見は、青銅器時代に人類社会で拡大した性差が、家畜にまで及んだ可能性を示唆します。青銅器時代における人類社会の性差の拡大は、アジア東部でも指摘されています(関連記事)。こうした雄ウマ(種牡馬)の特権的地位が、卓越した名声を与えられた動物としてウマにのみ適用されるのか、あるいはイヌやブタやウシなど他の家畜にも適用されるのか、まだ明確ではなく、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Fages A. et al.(2020): Horse males became over-represented in archaeological assemblages during the Bronze Age. Journal of Archaeological Science: Reports, 31, 102364.
https://doi.org/10.1016/j.jasrep.2020.102364

日本人のゲノムにおけるヒトヘルペスウイルス6由来の領域

 現代日本人のゲノムにおけるヒトヘルペスウイルス6(HHV-6)に関する研究(Liu et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ヒトゲノムの約8%は「内在性ウイルス配列」と呼ばれる古代のウイルス由来の配列で占められており、その多くは数百万年前にヒトの祖先のゲノムに入り込んだ、と考えられています。当初、ゲノム中の内在性ウイルス配列は機能を持たない、いわゆる「ジャンクDNA」だと考えられていました。しかし最近の研究により、内在性ウイルス配列の一部が、胎盤形成や神経伝達に関与することや、病原性ウイルスの感染を防御する因子として働く場合がある、と明らかになってきました。

 内在性ウイルス配列のほとんどは、生活環の中で宿主ゲノムに組み込まれる性質を持つレトロウイルス(逆転写酵素をもつ1本鎖RNAウイルスで、複製の過程において、逆転写酵素によりウイルスゲノムRNAをDNAに変換し、宿主のゲノムに入り込むという特徴を有します)に由来しています。ヒトゲノムに存在する非レトロウイルス型の内在性ウイルス配列としては、RNAウイルスであるボルナ病ウイルスに関連するウイルス配列が知られていました。この研究は、一部のヒトゲノムから非レトロウイルス型の内在性ウイルス配列である内在性HHV-6を見つけました。内在性HHV-6は、突発性発疹の原因ウイルスであるHHV-6に由来するDNA配列です。HHV-6は、免疫抑制などにより再活性化すると知られており、さまざまな神経疾患との関連が指摘されています。

 この研究は、日本で最大級の全ゲノムプロジェクトであるバイオバンク・ジャパンにより集められた日本人7485人の全ゲノム配列を解析し、約200人に1人のゲノム中にHHV-6のゲノム全長に類似したDNA(内在性HHV-6)の配列を発見しました。この研究は次に、内在性HHV-6配列と現存のHHV-6配列がどのように関連するのか、解析しました。その結果、内在性HHV-6配列の一つが、現代の中国人と日本人のゲノムにおいて、同じ染色体ゲノム上の位置に組み込まれている、と明らかになりました。HHV-6は、アジア東部大陸部と日本列島が陸続きだった3万年前頃に、中国人と日本人の共通祖先のゲノムに組み込まれ、その後、16500~11500年前頃に始まり、3220~2350年前頃に終了する(関連記事)縄文時代(当然、地域差があります)に、内在性HHV-6をゲノムに持つ人々が日本に到来した、と考えられます。これは、数万年間、内在性HHV-6がヒト染色体と共進化してきたことを示しています。

 また、これらの古代ウイルスの配列は、ヒトゲノムのテロメア領域に挿入されている、と明らかになりました。テロメアとは染色体の末端部にある塩基配列で、その長さはゲノムの複製やヒトの老化に関係していると考えられています。テロメアはおもに6塩基の繰り返し配列から構成され、繰り返しの多い配列は従来のシーケンス法による決定が難しいため、この研究は、長鎖DNAの解析を得意とするナノポアシーケンス技術(膜にナノポアと呼ばれるナノサイズの穴が埋め込まれており、ナノポアをDNA分子が通り抜けるときに生じる電流の変化によって、塩基配列を解析できます)を用いて、内在性HHV-6のヒトゲノム上の位置を同定しました。

 HHV-6は、塩基配列や抗原性、細胞指向性(ウイルスがどの細胞に効率良く感染するかという標的細胞への親和性)の違いから2種類(HHV-6A、HHV-6B)に分類されますが、興味深いことに、HHV-6AとHHV-6Bはどちらも、同じ22番染色体の長腕のテロメア領域に挿入されていました。このゲノム挿入部位の選択性についてはまだ詳しく分かっていませんが、HHV-6配列がこの領域に挿入されることでテロメアの長さが維持され、DNA損傷が回避されるなど、宿主であるヒトにとって有利に働いている可能性が考えられます。

 また、一部のヒトゲノムに、内在性HHV-6が過去に組換えを起こして再活性化した痕跡が残されていることも明らかになりました。先行研究では、試験管内(in vitro)で内在性HHV-6が再活性化し、その痕跡として細胞のゲノムにウイルスゲノムの一部が残されている、と報告されていました。しかし、ヒトゲノムに内在性HHV-6再活性化の痕跡が直接見いだされたのは、この研究が初めてです。ヒトゲノムに入り込んだHHV-6がヒト染色体内部で組換えを起こし、感染性を回復し得る可能性が示されたことから、今後、内在性HHV-6再活性化のリスクをより詳しく調べる必要がある、と考えられます。

 この研究は、HHV-6が3万年前頃にアジア東部現代人の共通祖先のゲノムに組み込まれ、縄文時代に内在性HHV-6をゲノムに持つ人々が日本列島に到来した、と推測しています。これが妥当だとすると、「縄文人(縄文文化関連個体群)」の形成との関連でも注目されます。中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)のモデルでは、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)集団はまず、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐し、ユーラシア東部系統は南方系統と北方系統に分岐します。ユーラシア東部南方系統に位置づけられるのは、現代人ではパプア人やオーストラリア先住民やアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。

 ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が分岐し、アジア東部系統はさらに南方系統と北方系統に分岐します。アジア南東部北方系統は新石器時代黄河地域集団、アジア東部南方系統は新石器時代の福建省や台湾の集団(おそらくは長江流域新石器時代集団も)に代表され、オーストロネシア語族現代人の主要な祖先集団です(関連記事)。現代において、日本人の「本土集団(本州・四国・九州とその近くの島々の人々)」や漢人やチベット人などアジア東部現代人集団の主要な遺伝的祖先はアジア東部北方系統ですが、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、チベット人はユーラシア東部南方系統との、日本人「本土集団」は「縄文人」との混合により形成されました。「縄文人」は、ユーラシア東部南方系統(45%)とアジア東部南方系統(55%)との混合と推定されており、HHV-6は、アジア東部北方系統ではなく、アジア東部南方系統人のゲノムに3万年前頃組み込まれたのかもしれません。アジア東部南方系統集団が当時どこにいたのか、まだ不明なので、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Liu X, Kosugi S, Koide R, Kawamura Y, Ito J, Miura H, et al. (2020) Endogenization and excision of human herpesvirus 6 in human genomes. PLoS Genet 16(8): e1008915.
https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1008915

人類最初の出アフリカ

 人類最初の出アフリカに関する研究(Scardia et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。以前の人類進化史では、最初にジャワ島で報告されたホモ・エレクトス(Homo erectus)が、アフリカからユーラシアへと拡散した最初の人類とされていました。この想定は、ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡の証拠に大きく依存しています(関連記事)。ドマニシ遺跡では180万年前頃の5個の頭蓋といくつかの頭蓋以外の遺骸が発見されており(関連記事)、ホモ・エレクトスに分類されています。この仮説では、アジアにおけるエレクトスの最初の出現は、200万年前頃となるアフリカでの最初の出現のすぐ後とされます(関連記事)。

 しかし、ヨルダン(関連記事)と中国(関連記事)でそれぞれ250万年前頃と210万年前頃の石器が発見され、じゅうらいの有力説は大きな修正を迫られています。純粋にこの年代に基づくと、最初の出アフリカはじゅうらいの有力説よりも70万年さかのぼることになり、エレクトス以前の人類がこの拡大に関わっていたに違いない、と強く示唆します。本論文は、ヨルダンと中国での発見を簡潔にまとめ、これらの発見が古人類学における二つの広く議論されている問題に新たな光をどのように当てるのか、議論します。つまり、ドマニシ遺跡の5個の頭蓋間の顕著な多様性と、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)の祖先です。


●ヨルダンと中国における初期人類の証拠

 1980年代初頭以来、ヨルダン渓谷の東側にあるザルカ渓谷(Zarqa Valley)のダウカラ層(Dawqara Formation)では河川堆積物内の石核と剥片が発見されてきました。初期の発見は1990年代の調査で確認され、メリジオナリスゾウ(Mammuthus meridionalis)やウマ(Equus cf. tabeti)やオーロックス(Bos primigenius)もダウカラ上層の一部発見されています。ザルカ渓谷は2013~2016年にブラジルとイタリアの研究チームにより再検証され、いくつかの遺跡の年代層序の堅牢な枠組みが提示されました。

 大型動物相遺骸は連続して見つかりますが、石器はダウカラ層内の玄武岩層の上でのみ発見されました。石器はいくつかの層序で見つかり、ダウカラ層の堆積中におけるザルカ渓谷での人類のほぼ継続的な居住を示唆します。技術類型論的には、ダウカラ層の石器群は礫の石核と剥片で構成されています。ダウカラ層の推定年代は252万~195万年前頃で、石器を含む層の推定年代は、それぞれ248万年前頃、224万年前頃、216万年前頃、206万年前頃、195万年前頃です。

 中国の黄土高原は、過去260万年に冬の季節風により堆積し、黄土はほとんど細粒堆積物なので、礫サイズの石器が容易に特定されます。黄土高原に位置する陝西省の藍田県(Lantian County)公王嶺(Gongwangling)の近くにある尚晨(Shangchen)では、212万~126万年前頃の石器群が発見されました。同じく中国の重慶市巫山県竜骨坡洞窟(Longgupo Cave)遺跡の石器群は220万年前頃と主張されており、尚晨の石器群は竜骨坡遺跡石器群の年代を支持するものと言えます。ダウカラ層石器群と同様に、黄土高原の前期更新世石器群も、礫石核と剥片で構成されています。

 近年、ヨルダンと中国で確認されたこれらの証拠は、大きな標本規模で構成されており、とくにヨルダンの事例では人為的起源が確実で、自然起源(偽石器)はありそうもない、と指摘されています。したがって、これらの石器から、アフリカからユーラシアへの人類最初の拡散は250万年前頃に起き、210万年前頃までに現在の中国に存在していた、と言えます。ヨルダンでも中国でも、これら200万年以上前の石器群と共伴する人類遺骸は見つかっておらず、ドマニシ遺跡の頭蓋は依然として、アフリカ外最古の人類遺骸です。


●ドマニシ遺跡の人類化石

 ドマニシ遺跡の年代は185万~178万年前頃で、5個の人類頭蓋と、礫石核と剥片から構成される石器インダストリーはオルドワン(Oldowan)と分類されています。これら5個の頭蓋は形態がかなり異なるので、その種名も違うかもしれません。とくに、2005年に発見された頭蓋5はひじょうに特徴的なので、状況はさらに複雑になりました。2013年の研究では、これらドマニシ遺跡の5個体は単一集団で、ホモ属でもエレクトス(Homo erectus)もしくはエルガスター(Homo ergaster)やハビリス(Homo habilis)やルドルフェンシス(Homo rudolfensis)も同じ系統と主張されました(関連記事)。この見解には批判が多く、より祖先的な人類、もしくは2属ではないとしても2種で構成されている可能性が高い、とし指摘されています。ドマニシ遺跡の頭蓋5個を単一の多様な系統と位置づける見解では、ドマニシ人類のきょくたんな形態学的多様性は、年齢差、性的二形、歯の喪失や他の歯の病気に起因する顔面の変化のひじょうに珍しい組み合わせにより説明されます。

 ドマニシ人類を単一系統と主張する見解では、5個の頭蓋はホモ・ハビリスのような祖先的特徴とホモ・エレクトスのような派生的特徴の組み合わせとして解釈されます。つまり、ドマニシ人類はアフリカのホモ・ハビリスと特徴を共有し、後のホモ・エレクトスの特徴一式を有しているわけではありません。たとえば、ドマニシ人類の脳容量は546~730㎤で、ホモ・エレクトスとされる標本群の平均904㎤をかなり下回ります。ドマニシ人類における祖先的特徴と派生的特徴の混在としては、わずかに厚くなった眉弓や、最小限ではあるものの、ひじょうに顕著な眼窩後狭窄と関連する眼窩上溝が含まれます。後頭部は曲がっていますが、横隆起は均一に存在していません。一方、顔面中部は比較的大きくなっています。

 また、頭蓋以外の形態でも、祖先的特徴と派生的特徴の混在が指摘されています(関連記事)。祖先的特徴は小さな身体サイズや上腕骨後捻角の欠如、派生的特徴は現代人と類似した身体比率や完全な二足歩行を示唆する下肢構造です。頭蓋以外の形態に関する研究では全体的に、ドマニシ人類はアフリカのホモ・エレクトスやその後の人類に明らかな派生的な移動の特徴一式を有していなかった、と指摘されています。

 大きな問題は、アフリカの既知の人類遺骸では、ジャワ島のホモ・エレクトスの正基準標本の定義となるような、頭蓋の子孫形質を有するアフリカの既知の個体が存在しないことです。類似の問題はアフリカのホモ・ハビリスにも当てはまり、ハビリスは形態学的用語で適切に定義されたことがありません。じっさい、ハビリスは本質的に分類学的屑籠で、そこでは250万~180万年前頃の人類化石の雑多な分類が不注意に投げつけられているので、より非公式な「初期ホモ属」がこの集団の好ましい用語かもしれません。

 この無駄な複雑化にも関わらず、ヨルダンおよび中国の証拠と一致して、アフリカからユーラシアに拡散した最初の人類、またドマニシ人類の祖先集団として「初期ホモ属」の構成員を用いるならば、ドマニシ人類における不均質性はずっと容易に解釈できます。ドマニシ人類の頭蓋5は、その下顎がホモ・ゲオルギクス(Homo georgicus)の正基準標本ともされますが、ドマニシ遺跡の他の全人類標本と完全に区別されることから、本論文は残りの4頭蓋を、ホモ・エレクトスではない、他の種に分類するのが適切と主張します。それは、ドマニシ遺跡の4頭蓋がジャワ島のホモ・エレクトスの正基準標本の子孫形質をまったく有さないからです。同様の理由で、残りの4頭蓋がホモ・エルガスターに適切に参照されるのかどうかも、明らかではありません。じっさい、これら4頭蓋が複数種に分類されるのかどうかも、未解決の問題です。


●ホモ・フロレシエンシス

 インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟で発見された6万年以上前の人類遺骸(関連すると考えられる石器群の下限年代は5万年前頃)に関しては、今でも議論が続いています。この人類遺骸の代表的な個体はLB1で、合計で5~7人の遺骸が発見されました。これらの人類遺骸の特徴は、低身長(106cm)、小さな頭蓋(426㎤)、アウストラロピテクス属とホモ属の両方で見られる特徴の混在で、新種のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)に分類されました(関連記事)。

 フロレシエンシスに関しては、ひじょうに複雑で多くの未解決の問題があります。たとえば、フローレス島は更新世において近隣の大陸と陸続きになったことがないので、何らかの方法で渡海したことになります。また、その石器が複雑なことから、脳容量の小さいフロレシエンシスの認知能力も注目されました。LB1の頭蓋内鋳型の分析からは、フロレシエンシスが比較的高い認知能力を有していたかもしれない、と示唆されました。

 最も議論になったのは、派生的特徴と祖先的特徴とが混在している形態でした。これに関して、フロレシエンシスがどの系統の人類なのかをめぐって、公表(2004年)当初から激しい議論が展開されてきました。それらの見解は、大きく3通りに区分されます。まず、遺伝的もしくは代謝障害を有する現生人類(Homo sapiens)との見解です。次に、アジア(具体的にはジャワ島)のホモ・エレクトスが島嶼化により小型化した、という見解です。最後に、ホモ属の早期系統、たとえばホモ・ハビリスのような分類群の子孫という見解です。

 障害を有する現生人類との見解では、小頭症やダウン症候群などが原因とされましたが、その後すべて否定されています。さらに、フローレス島のソア盆地のマタメンゲ(Mata Menge)遺跡で発見された70万年前頃の人類遺骸に、リアンブア洞窟の人類遺骸との類似性が見られることから、ホモ・フロレシエンシスという分類群の有効性が最終的に確認されました(関連記事)。これらの知見から、遅くとも70万年前頃以降のフローレス島の複雑な人類進化史と、5万年前頃のフロレシエンシス(的な人類)の絶滅が示唆されます。なお、石器の証拠から、フローレス島には100万年前頃に人類が存在したことも確認されています(関連記事)。

 しかし、現在でも最大の問題が未解決です。それは、ホモ・フロレシエンシスがホモ・エレクトスから島嶼化による小型化を通じて進化したのか、あるいはより祖先的で小さな身体の人類から進化したのか、という問題です。LB1の形態の詳細な分析(関連記事)やフロレシエンシスの歯(関連記事)や頭蓋内鋳型(関連記事)や頭蓋冠(関連記事)や下顎断片と歯(関連記事)の分析では、ホモ・フロレシエンシスはホモ・エレクトスの子孫と主張されています。

 しかし、エレクトスよりも祖先的とされる特徴はほぼ頭蓋から下の遺骸に由来します。LB1の頭蓋や後頭部の形態に関する研究では、エレクトスとフロレシエンシスは共通祖先を有するものの、LB1はエレクトスよりもハビリスの形態により類似している、と示唆されました(関連記事)。もっと包括的な系統学的分析では、フロレシエンシスはハビリスとのみ、もしくはハビリスとエレクトスとエルガスターと現生人類を含むクレード(単系統群)との姉妹系統である可能性が高い、と指摘されています(関連記事)。

 フロレシエンシスがエレクトスよりも祖先的な人類から進化した、という見解の問題点は、エレクトス以前の人類のアフリカからの拡散の考古学的証拠が欠如していたことでした。しかし、上述のように、ヨルダンで250万年前頃、中国で210万年前頃の石器が発見されており、この問題を解決できるかもしれません。より適切な用語がなく、形態学的に一貫した定義が欠如している場合、「初期ホモ属」として説明できる分類群がアフリカからユーラシアへとじっさいに拡散した最初の人類であるならば、低身長や祖先的身体比率(比較的長い腕と短い脚)を含む、フロレシエンシスのより祖先的でアウストラロピテクス属的な特徴を説明できるでしょう。じっさい、フロレシエンシスと関連する石器インダストリーのオルドワン(Oldowan)的特徴が指摘されています(関連記事)。


●まとめ

 本論文は最近の知見に基づき、アフリカ外で見つかった絶滅人類の多様性を説明するために、仮説を提示します。現在の分類学的枠組みが不充分であるために「初期ホモ属」と呼ばなければならない分類群は、おそらくアフリカで早くも280万年前頃に分岐しました(関連記事)。その後、この集団の一部が地中海周辺に到達し(関連記事)、250万年前頃にアフリカから拡散しました。この出アフリカ人類集団がアジアでの拡大に成功した後、少なくともその一部(ドマニシ遺跡の前期更新世人類遺骸の多様性を認める見解ならばもっと多く)は180万年前頃までにコーカサスに到達して新たな種となり、90万年前頃までにはヨーロッパに到達し、その一部はおそらくアフリカに「戻り」ました。

 小柄で祖先的な身体比率の人類のアジアにおける東方への拡大もしくは居住は、おそらく複数の波で継続しました。80万年前頃までには、この集団の一部がアジア南東部島嶼部まで到達し、そこでホモ・フロレシエンシスは穏やかな「島嶼化」の結果として進化しました。ホモ・エレクトスもおそらくはアジア東方で分岐しましたが、それはフロレシエンシスを生み出した「初期ホモ属」のアジアへの拡大とは別の話です。以下、この「初期ホモ属」の拡散経路と年代を示した本論文の図2です。
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 以上、ざっと本論文の内容を見てきました。アフリカ東部では280万年前頃にホモ属的な特徴を有する人類が存在し、ヨルダンでは250万年前頃、中国では210万年前頃の石器が見つかっていることを踏まえて、本論文は仮説を提示しています。この仮説は間違いなく検証に値するもので、今後の研究の進展が期待されます。人類の出アフリカはほぼ間違いなく200万年以上前までさかのぼりますから、人類の初期の出アフリカは、以前の想定よりもかなり複雑なものだったと考えられます。

 本論文は、ホモ・フロレシエンシスがホモ・エレクトスの子孫ではなく、200万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散した「初期ホモ属」の子孫だと主張しますが、私はまだ、ジャワ島(スンダランド)のエレクトスの子孫という見解の方が妥当ではないか、と考えています。頭蓋から下でとくに見られる祖先的特徴は、エレクトスが島嶼化により小型化したことに起因する収斂進化ではないか、というわけです。ただ、確信しているほどでもないので、フロレシエンシスの起源に関しては今後の研究の進展を俟つしかありません。フロレシエンシスのDNA解析はおそらく無理でしょうが、タンパク質解析ならば可能かもしれないので(関連記事)、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)のタンパク質解析が進展し、フロレシエンシスのタンパク質解析にも成功すれば、フロレシエンシスの人類進化系統樹における位置づけが明らかになるだろう、と期待しています。


参考文献:
Scardia G. et al.(2020): What kind of hominin first left Africa? Evolutionary Anthropology.
https://doi.org/10.1002/evan.21863

成長の早い高木ほど寿命が短い

 成長の早い高木ほど寿命が短く、炭素貯蔵量と関連することを報告した研究(Brienen et al., 2020)が公表されました。成長速度が大きくなると寿命が短くなるという関係性は、一部の高木、とりわけ低温に適応した針葉樹で示されていますが、これが、さまざまな樹種や気候に幅広く当てはまるのか、議論の余地があります。このようなトレードオフ(交換)は、樹木の成長速度を炭素貯蔵量の代用指標に用いることと両立しないと考えられ、地球システムモデルを用いた全球森林炭素貯蔵量の予測に疑問が生じています。

 この研究は、アフリカと南極以外の各大陸に生育する樹種110種の年輪データの大規模なデータセットを解析しました。この研究は、同種内でも異種間でも高木の成長速度の大きさが寿命の短さと関連することを報告し、これが気候変数や土壌変数との共変性によるものではないことを示しました。また、この研究は、クロトウヒ(Picea mariana)に関するデータに基づいたモデル森林シミュレーションを用いて、このトレードオフが、今後、全球的な森林による炭素吸収を鈍化させ、あるいは減少に転じさせる可能性があることを明らかにしました。

 これらの知見は、成熟した森林における将来の炭素貯蔵量の予測の大部分に異論を唱えるもので、今後数十年間の全球的な森林の炭素吸収源の存続を疑問視しています。この研究は、樹木の成長速度と寿命のトレードオフをプロセスベースの森林炭素動態モデルに組み込む必要がある、と主張しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:成長の早い高木は寿命が短いために炭素貯蔵が影響を受ける可能性がある

 成長の早い高木ほど寿命が短いことを報告する論文が、Nature Communications に掲載される。この知見は、気候変動下での森林の炭素貯蔵量を予測する上で重要な意味を持つ可能性がある。

 成長速度が大きくなると寿命が短くなるという関係性は、一部の高木、とりわけ低温に適応した針葉樹に示されているが、これが、さまざまな樹種や気候に幅広く当てはまるかは議論の余地がある。このようなトレードオフは、樹木の成長速度を炭素貯蔵量の代用指標に用いることと両立しないと考えられ、地球システムモデルを用いた全球森林炭素貯蔵量の予測に疑問が生じている。

 今回、Roel Brienenたちの研究チームは、アフリカと南極以外の各大陸に生育する樹種110種の年輪データの大規模なデータセットを解析した。Brienenたちは、同種内でも異種間でも高木の成長速度の大きさが寿命の短さと関連することを報告し、これが気候変数や土壌変数との共変性によるものでないことを示した。また、Brienenたちは、クロトウヒ(Picea mariana)に関するデータに基づいたモデル森林シミュレーションを用いて、このトレードオフが、今後、全球的な森林による炭素吸収を鈍化させ、あるいは減少に転じさせる可能性のあることを明らかにした。

 以上の知見は、成熟した森林における将来の炭素貯蔵量の予測の大部分に異論を唱えるものであり、今後数十年間の全球的な森林の炭素吸収源の存続を疑問視している。Brienenたちは、樹木の成長速度と寿命のトレードオフをプロセスベースの森林炭素動態モデルに組み込む必要があると訴えている。



参考文献:
Brienen RJW. et al.(2020): Forest carbon sink neutralized by pervasive growth-lifespan trade-offs. Nature Communications, 11, 4241.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17966-z

岩井秀一郎『永田鉄山と昭和陸軍』

 祥伝社新書の一冊として、祥伝社より2019年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。最近5年くらい、以前よりも日本近現代史関連の本を多く読むようになりましたが、それらの本で永田鉄山に言及されることが多かったので、一度評伝的な本を読もう、と考えた次第です。本書で初めて知りましたが(以前他の本で読んで忘れてしまっただけかもしれませんが)、永田の父は医者で、その遺言により永田は軍人を志しました。これには、永田の異母兄がすでに軍人だったことも影響しているようです。

 永田が優れた頭脳の持ち主だったことは、同時代に永田と接した人も、後世の研究者も作家も記者も、ほぼ全員が認めるところでしょう。本書は、たとえば石原莞爾との比較で、永田が「常識的な」人物だった、と指摘します。永田は、石原のような傲岸不遜な人物ではなく、比較的人当たりがよかったようです。この点が、石原とは異なり、永田が「天才」とあまり言われない理由になっているかもしれない、と本書は指摘します。永田は、天才には奇矯なところがある、という根強そうな通俗的印象から外れた人物と言えそうです。

 永田の軍事思想の形成に大きな影響を与えたのは第一次世界大戦で、永田は今後の戦争が総力戦になると確信し、日本がそれに耐えられるような体制を築くことに努めていきます。その「同志」として、同期の小畑敏四郎たち中堅将校がいましたが、長州閥に対して、永田は小畑とは異なり明確な敵意を抱いておらず、そもそも当時の陸軍において長州閥の力は衰えていた、と本書は指摘します。永田と小畑は後に対立し、現代では「統制派」と「皇道派」という枠組みで把握されますが、軍事思想の面では、ソ連の軍備が整う前に短期決戦でソ連を攻撃しようと考える小畑に対して、対ソ連戦は短期では終わらず、日本の現時点での国力では耐えられないので、当面は精鋭主義を取るとしても、総力戦体制を構築していかねばならず、そのためには満洲が必要である、と永田が構想していたことにありました。

 1931年の三月事件では、永田はクーデタに批判的だった、と本書は指摘します。永田は小磯国昭に求められて「小説」の如きクーデタ計画を提出しますが、明確にクーデタには否定的でした。永田は、規律の弛緩した陸軍を再建しようとしており、後に「統制派」として把握されるだけのことはあり、統制を重視していました。同年9月の満洲事変では、永田が現地の関東軍と共謀していた、との見解もありますが、本書は、石原から永田に送った書簡などから、永田は関東軍を統制しようとしており、満洲事変のような急進策には否定的だった、と推測します。その永田が満洲事変勃発後に現地軍を支援したのは、いずれ日本は総力戦体制構築のため満洲で覇権を確立しなければならないなので、一度始まった武力衝突を停止し、後にもう一度武力に訴えるよりは、一度動き出した流れに乗り、計画を前倒しした方がよいと考えたからだろう、と本書は推測します。永田は武藤章から「合理適正居士」と呼ばれていました。

 永田殺害事件は、相沢三郎の一人の狂気に帰せられる問題ではなく、現代では「統制派」と「皇道派」として認識されている陸軍内の激しい派閥対立の中で起きました。相沢は永田と事件の1ヶ月前に面会していますが、思い込みが強く「情」の人である相沢と、「理」の人である永田とでは、会話が噛み合わなかった、と指摘します。永田殺害事件の直接的契機として重要なのは、「皇道派」の将校に慕われていた真崎甚三郎が教育総監を罷免されたことです。相沢は自分の行為が罪だとは全く考えていなかったようで、現役の要職にある少将を直接殺害したという手段はともかく、相沢に共感を寄せる人は少なくなかったようです。永田殺害事件は、この半年後に二・二六事件を起こす人々を勇気づけ、奮起させた、と言えそうです。

 本書は、永田が殺されなければどうなったのか、という問題も取り上げています。上述のように、永田は「常識的な」人物で、人当たりもよく、軍部以外にも広い人脈を築き、また軍人以外にも永田を高く評価する人は少なくありませんでした。まず、二・二六事件の首謀者たちが永田殺害事件に奮起させられたことを考えると、二・二六事件は防がれたか、史実よりも小規模だった可能性があります。永田が殺されなければ、太平洋戦争は防がれたのではないか、との見解は一部で根強いようですが、一方で、永田とは同志から敵対的関係に変わった小畑は、永田こそが太平洋戦争の道を開いた、と指弾します。

 本書は、永田が次の世界大戦は避けられないと考えていたことから、永田が殺されなくても戦争は避けられなかっただろう、と指摘します。ただ本書は、永田が後に陸軍の代表として首相に就任した東条英機と比較して、頭脳明晰で人間関係の構築もずっと上だったことから、史実よりも上手く戦争指導を行ない、戦争になっても史実とは異なる展開になった可能性を指摘します。一方で本書は、永田の基本構想が総力戦体制確立のための満洲における日本の覇権確立で、日本にとって陸軍を中心にとても受け入れられなかった中国からの撤兵が日米開戦につながったことに、永田の存在により対米戦は避けられた、との見解(願望)の根本的な弱点があることを指摘します。

 私は、永田が殺害されず、1945年まで軍務が可能なくらい健康だったとしても、日中戦争から太平洋戦争への流れを止めることはできず、最後は史実に近い破局を迎えたかな、と思います。ただ、史実よりも対米戦で健闘した可能性はあり、その場合、ソ連の参戦により北海道あるいは東北地方までがソ連に占領され、日本が分断されたかもしれません。とはいえ、本書で永田の優秀な頭脳と幅広い人脈を知ると、どこかで史実よりもましな敗戦を迎えられたのではないか、と妄想したくもなります。

 また、永田が日独伊三国同盟締結の流れにどう対応したのか、気になるところです。「合理適正居士」である永田が満洲事変で見せた機会主義者的な側面からは、ドイツの快進撃を見て日独伊三国同盟締結を強く推進し、仏印進駐に踏み切ったのかな、とも思いますが、優秀な永田ですから、ドイツの快進撃は長く続かないと見て、ドイツとの連携強化に慎重な姿勢を示したかもしれません。このように後世の人間の妄想力を掻き立てるところも、永田の優秀さを示しているのかもしれません。

ポーランドのネアンデルタール人遺跡のmtDNA解析と石器分析

 ポーランドのスタイニヤ洞窟(Stajnia Cave)のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)遺骸のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析と石器群の分析に関する研究(Nyakatura et al., 2020)が報道されました。過去10年間の研究の進展により、人類の移動・交雑・絶滅の複雑なシナリオが明らかになりました(関連記事)。更新世には、気候悪化と北半球のスカンジナビア氷床の拡大により、ヨーロッパの中緯度地域全体で人口減少が起きました。

 現時点で広く合意されているのは、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)が、南方へと好適な生息地を求めて移動するよりもむしろ過酷な氷期に消滅し、平均気温が上昇した後でのみ、待避所地帯から新たな集団が北方地域に再移住した、ということです。このモデルは、イベリア半島・イタリア半島・バルカン半島・アジア西部からの氷期後の定着を示唆する、いくつかの植物相および動物相の系統地理学的研究と密接に一致します。しかし、これらの氷期待避所のうちどれが更新世における人類集団の再移住に主要な役割を果たしたのか、どの経路が北方地域の再定住に用いられたのか、依然としてほとんど分かっていません。

 海洋酸素同位体ステージ(MIS)9以降、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)は気候変動の影響を最も受けた西部地域に居住し、氷期のヨーロッパ北部および中央部で記録されている居住の中断は、再移住が繰り返し行なわれたことを示唆します(関連記事)。北方地域のネアンデルタール人の生息地を変えた重要な気候変化は、MIS5eとなるエーミアン(Eemian)の温暖な森林環境が、ケナガマンモスやケブカサイやトナカイのような北極圏からの寒冷適応動物相の移住に適した、より開けたステップ/タイガ環境へと移行した後の、最終氷期(MIS5d~MIS3)に起きました。

 気温の急激な低下と乾燥化の進展により、ヨーロッパ中央部および東部では人口減少が起き、間氷期の気候改善の頃(MIS 5c・5a・3)にのみ、ネアンデルタール人は北緯48度以上の地域に戻ってきました。新たな生態環境と移住種の領域拡大は、ネアンデルタール人に乾草地での資源獲得に対処する新たな戦略の開発を促しました。ヨーロッパ中央部および東部の平原では、ネアンデルタール人が一般的な剥片に基づく道具一式を強化し、それらは非対称的な両面石器や木の葉形石器や両面加工早期といった異なる種類のものでした。この新たな技術複合はミコッキアン(Micoquian)として知られており、ドイツの文献ではカイルメッサーグループ(Keilmessergruppen)とされていますが、フランス東部のソーヌ川からカスピ海西岸まで広範な地域で記録されています。

 一般的に、ハンガリーとフランス北部および東部の周辺を伴うドイツからポーランドの石器群はヨーロッパ中央部ミコッキアンと呼ばれている一方で、東カルパティア山脈とヴォルガ川下流の事例(石器群)は東部ミコッキアンと分類されています。これらの地域の定住は気候悪化の繰り返しに起因して断続的でしたが、ミコッキアン石器群の製作はMIS5c/5aから中部旧石器時代の終わりまで続きました。この技術的継続性は、マンモス・ケサイバイオーム(Mammuthus-Coelodonta biome)に限定されており、地中海に面した地域では欠けていることから、この新たな技術的行動により北方環境の低いバイオマスと極端な季節性へのより柔軟な適応が可能になった、と示唆されます。

 古代DNA研究では、アルタイ地域のネアンデルタール人は西方のネアンデルタール人に9万年前頃に置換された、と推測されています(関連記事)。この拡散はヨーロッパ中央部および東部におけるミコッキアンの両面石器の出現と同時で、アルタイ地域における拡大は、チャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)の石器群で確認されており(関連記事)、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人では高品質なゲノム配列が得られています(関連記事)。

 MIS4の後、コーカサスでは第二の集団置換が起き、メズマイスカヤ洞窟(Mezmaiskaya Cave)遺跡では、MIS3の個体(Mezmaiskaya 2)が、その前のMIS4の個体(Mezmaiskaya 1)よりも、他の後期西方ネアンデルタール人と有意により多くの派生的アレル(対立遺伝子)を有しています(関連記事)。しかし、この置換は技術的変化に続いたわけではなく、ミコッキアン技術複合はコーカサス地域において、MIS5後期から中部旧石器時代の終わりまで持続しました。

 これらの遺伝学的知見は、ネアンデルタール人の進化史における2つの主要な集団置換事象が、ミコッキアン文化伝統と関連していることを浮き彫りにします。ミコッキアン技術複合と関連する化石群からの新たな考古学的および遺伝学的データを追加することは、ネアンデルタール人の適応的柔軟性と移動性のより深い理解に重要です。この観点から、現在のポーランドはきわめて重要です。それは、ポーランドがヨーロッパ西部平原とウラル、およびヨーロッパ中央部と南東部との間の交差点に位置するからです。これまで、ミコッキアンと関連するネアンデルタール人遺骸はたいへん少なく、遺伝的情報はドイツのフェルトホーファー洞窟(Feldhofer Cave)とコーカサスのメズマイスカヤ洞窟とドイツ南西部のホーレンシュタイン・シュターデル(Hohlenstein–Stadel)洞窟(関連記事)の遺骸からしか得られていません。

 本論文は、ポーランドのスタイニヤ洞窟(Stajnia Cave)の考古学的記録と、ネアンデルタール人の大臼歯(S5000)のミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析結果を報告します。スタイニヤ洞窟の1.5mの層序は過去の攪乱により複雑ですが、MIS5c~1の間の15層に区分されています。動物相は寒冷適応種が優勢で、ユニットEとDの石器群はヨーロッパ中央部ミコッキアンの特徴を示します。スタイニヤ洞窟では3個のネアンデルタール人の歯が発見されており、クラクフ(Krakow)近くのキエムナ洞窟(Ciemna Cave)で発見された下顎切歯の断片を別とすると、スタイニヤ洞窟の歯のみがポーランドにおける中部旧石器時代の人類遺骸となります。以下、ミコッキアンとルヴァロワ・ムステリアン(Levallois-Mousterian)の各遺跡の場所を示した本論文の図1です。
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●スタイニヤ洞窟の遺伝学および考古学的分析

 スタイニヤ洞窟の動物の骨5点の放射性炭素年代により、E1・D3・D2層は49000年以上前と明らかになりました。これらの新たな年代は、ウラン・トリウム法年代によるD2b層のマンモスの歯の52900年前、およびMIS4のE1層とMIS3前期のD3およびD2層の以前の研究と一致します。D1層の年代は、68.2%の確率で47610~46130年前です。

 スタイニヤ洞窟で発見されたネアンデルタール人の大臼歯(S5000)のmtDNAが解析され、平均網羅率は363倍です。S5000のミトコンドリアゲノムは、ネアンデルタール人の既知の変異内に収まります。mtDNA系統樹では、S5000はMIS4となるコーカサスのメズマイスカヤ1と近縁で、後のヨーロッパのネアンデルタール人とは離れた関係にあります。S5000は、信頼区間の間隔が152515~83101年前と大きいものの、mtDNA系統樹の分枝の長さに基づくと、116000年前頃と推定されます。以下、ネアンデルタール人のmtDNA系統樹を示した本論文の図3です。
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 スタイニヤ洞窟のユニットE~Aでは合計13500点の脊椎動物の化石が発見されました。この動物相では、トナカイやステップバイソンやケナガマンモスやケブカサイのような寒冷適応種が優勢でしたが、ホラアナグマやアカギツネやオオカミやホッキョクギツネのような肉食動物も見られます。化石生成論および考古学的分析はまだ行なわれていませんが、大きな動物の骨の少なくとも一部は、人類の活動の結果と考えられます。

 スタイニヤ洞窟のユニットDとEの石器群は、近隣の露頭から集められたジュラ紀の燧石で製作されています。石器群で剥片は少ないため、洞窟内での製作は限定的で、ほとんどは洞窟に道具一式の一部として持ち込まれた、と示唆されます。剥片製作は石核の求心利用に基づいています。石器群では、消耗した円盤状石核内では、階層化された求心石核が一般的ですが、ルヴァロワ反復求心法がD2層で1例のみ確認されています。D1およびD2層ではルヴァロワ剥片がいくつか検出されています。再加工石器群はおもに掻器と抉入石器で構成されており、両面石器は剥片もしくは断塊で製作されています。スタイニヤ洞窟の石器群はひじょうに細分化されており、両面ナイフ型(カイルメッサー)はありませんが、両面石器や葉型尖頭器の存在は、ヨーロッパ中央部のミコッキアンとの関連を支持します。


●考察

 スタイニヤ洞窟の年代学・古遺伝学・形態学・考古学の分析の組み合わせにより、ミコッキアンにおけるネアンデルタール人への新たな洞察が明らかになります。ネアンデルタール人1個体の大臼歯(S5000)のmtDNA分析から、S5000系統が南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見されたネアンデルタール人2個体(デニソワ5およびデニソワ15)やベルギーのスクラディナ洞窟(Scladina Cave)で発見されたネアンデルタール人1個体と、最高事後密度間隔(HPDI)95%で203000~138000年前(17万年前)に分岐した、と示唆されます。mtDNA配列では、S5000はメズマイスカヤ1との違いが最も少なく、その後のヨーロッパ西部のネアンデルタール人とは遠い関係を示しますが、それらのヨーロッパ西部後期ネアンデルタール人の中で、メズマイスカヤ2やフェルトホーファー個体もミコッキアンと関連しています。

 S5000の推定分子年代は116000年前(95% HPDIで152000~83000年前)で、MIS3のネアンデルタール人より古くなります。S5000は近い年代(12万年前頃)のネアンデルタール人であるのスクラディナ個体(95% HPDIで161000~82000年前)やフェルトホーファー個体(95% HPDIで187000~69000年前)とは、mtDNAではメズマイスカヤ1よりも遠い関係にあります。S5000とmtDNAでは最も近いメズマイスカヤ1の系統は、オクラドニコフ2(Okladnikov 2)やデニソワ11(DC1227)や後のヨーロッパのネアンデルタール人の系統と152000年前(95% HPDIで182000~69000年前)に分岐しました。

 S5000はD2層で発見されましたが、その遺伝的年代は考古学的年代より古く、堆積後の攪乱によりS5000が元の位置から動いた可能性を示唆します。しかし、12300~109000年前頃のエーミアン(Eemian)はスタイニヤ洞窟では欠けており、96000~87000年前頃となるMIS5cとなるユニットGでは考古学的痕跡が発見されていないので、最も節約的な説明は、S5000が82000~71000年前頃となるMIS5aのE2層から動いた、というものです。これは、S5000がヨーロッパ中央部および東部でこれまでに発見された最古のネアンデルタール人化石であることを示します。

 MIS5aは、ヨーロッパ中央部および東部のネアンデルタール人にとって重要な行動変化を示します。この時期のネアンデルタール人は、新たな生態学的条件に適応し、寒冷適応動物相の増加する移動範囲に対処する新たな景観利用戦略を開発しました。低バイオマス環境でカロリーを充分に摂取できるよう、ネアンデルタール人は広範囲の両面加工ナイフを道具一式に追加しました。これらの石器群は、高い移動性の文脈では効率的で柔軟だった、と証明されてきました。それは、頻繁な再研削が長い使用寿命を保証でき、原材料不足の場合には石核に変わることができるからです。

 ポーランドでは、この間氷期の段階で、ヨーロッパ中央部のミコッキアンがよく表されており、スタイニヤ洞窟の石器群は、クラクフ・チェンストホーヴァ高地(Krakow-Czestochowa Upland)やポーランドのカルパティア山脈やモラヴィアやドイツの他の重要な遺跡でも共通して見られる特徴を示します。より広い視点では、類似の技術的行動はカルパティア山脈東部とヴォルガ川下流、とくにクリミア半島と北コーカサスでも見られます。

 ヨーロッパ中央部のミコッキアンと東方のミコッキアンとチャギルスカヤ洞窟のいくつかの遺跡の技術類型論的特徴の統計的比較は、西方とコーカサスおよびアルタイ地域の石器群との間の強い類似性を示唆します(関連記事)。これらの遺跡間で共通しており、繰り返される示導動機(ライトモティーフ)は、動作連鎖(chaînes opératoires)の高度な断片化、設計された石核のその場での持ち込み、剥片と再加工された道具です。これらの特徴は、高い移動性パターンと繰り返しの短期の居住に典型的です。

 ミコッキアン開始時におけるヨーロッパ中央部および東部の周氷河と北方環境からのネアンデルタール人の移動性の増加の裏づけは、他の遺伝学研究でも確認されています。上述のように、ネアンデルタール人の核ゲノムを比較した最近の研究では、9万年前頃以後のヨーロッパ西部からアルタイ地域への集団置換が示唆されていますが、一方、過去10万年間のネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との間の継続的な遺伝子流動と、ヨーロッパのネアンデルタール人におけるほぼ完全なデニソワ人系統の欠如は、西方地域からアルタイ地域への繰り返しの拡散を示唆します(関連記事)。

 さらに、上述のようにアルタイ地域のチャギルスカヤ洞窟では、ミコッキアン石器群を有するネアンデルタール人の長距離移動が指摘されているものの、ヨーロッパ中央部から他の西方地域へのミコッキアン集団の移動もまた、オランダやベルギーやフランスで報告されてきました。これらの証拠は、ステップ/タイガ環境のネアンデルタール人の狩猟採集範囲が、以前に想定されていたよりも大きい可能性を示唆します。したがって、ヨーロッパ北部と東部の平原を横断する東西の軸の高い移動パターンは、他の中部旧石器時代文化との比較において、特定のミコッキアン石器の広範囲の分散と長期の製作を説明できます。

 年代順の傾向の存在を提案する研究者もいますが、ミコッキアンの技術的行動の「核」は長期にわたって安定したままです。一部の遺跡で記録された変異性は、一般的に両面加工ナイフの寸法と形状もしくは再加工品の異なる頻度に関連しています。しかし、これらの違いは、石器製作の多様性の結果というよりはむしろ、石材の寸法や両面の最先端の繰り返しの再研削、もしくは遺跡の機能により形成されたかもしれません。この技術的安定性も、正確な年代決定の支持なしでのミコッキアン石器群の年代特定を困難にします。

 考古学的観点から、ミコッキアンにおいて技術的変化は記録されていません。しかし、ミコッキアンと関連している最古のネアンデルタール人標本となるスタイニヤ洞窟のS5000とメズマイスカヤ1の2個体も、そのミトコンドリアゲノム間では最小の違いを有しており、ミコッキアン関連のより新しい年代のネアンデルタール人で観察されたmtDNAの多様性の範囲外となります。さらに、核DNAデータは、メズマイスカヤ2が同じ地域の早期集団よりも西方ネアンデルタール人と類似している、と明らかにしました(関連記事)。

 考古学的観点からは、71000~57000年前頃となるMIS4の氷期の気候条件は、ヨーロッパ西部とコーカサスのネアンデルタール人の深刻な減少を引き起こし、それはネアンデルタール人の遺跡数のかなりの減少に記録されています。MIS4の始まりもしくは終末の遺跡は稀で、そのほとんどは北緯45度の南に位置します。低密度のミコッキアンの居住は、ドイツのガイセンクレステレ洞窟(Geißenklösterle Cave)とガルツヴァイラー(Garzweiler)開地遺跡で見つかっていますが、一般的に、人口統計学的空白はヨーロッパ北部および東部の平原全域で氷期最盛期に記録されています。類似の状況はクリミア半島でも記録されており、クリミア半島では、たとえ環境が北方生息地により特徴づけられていたとしても、カバジ2(Kabazi II)でのみミコッキアンの証拠が見つかっています。

 この観点から、ミコッキアン技術複合はヨーロッパ中央部および東部でMIS3に顕著な技術的変化なしに持続し、地中海地域(イベリア半島とイタリア半島とバルカン半島)には存在しないので、最も節約的な説明は、ミコッキアンの南方周辺(フランス東部および/もしくはハンガリー)は、気候改善期にヨーロッパ中央部の再移住に寄与した待避所だったかもしれない、というものです。北方地域への再移住後、他のネアンデルタール人集団がプルト川やドニエストル川流域を南進してコーカサスに戻ってきました。放射性測定とゲノムのデータは、まだフランス東部とハンガリーにおけるミコッキアンの証拠では欠落していますが、メズマイスカヤ2と後期の西方ネアンデルタール人との間の遺伝的類似性と、推定される氷期の待避所における両面加工ナイフの欠如は、可能な説明を限定します。


●まとめ

 ヨーロッパ中央部とコーカサスにおける中部旧石器時代後期の現在の考古学的および古遺伝学的証拠は、ネアンデルタール人の拡散と、在来集団の絶滅と、西方地域からの再移住に関して、複雑な想定を示します。スタイニヤ洞窟の考古学的記録に関する学際的調査は、MIS5aにおけるクラクフ・チェンストホーヴァ高地の狩猟採集活動を確証しており、ポーランド南部とコーカサスのネアンデルタール人間の類似性が注目されます。

 ヨーロッパ中央部のミコッキアンと東方のミコッキアンとの間の技術的類似性は、ネアンデルタール人集団の移動性増加の結果である可能性が高く、ネアンデルタール人はしばしば、寒冷適応の移住性動物を追いかけて、ヨーロッパ北部および東部の平原を横断して移動しました。この想定では、ヨーロッパ東西の平原間の交差点の位置を占めるポーランドは、西方からアジア中央部へのネアンデルタール人拡散のパターンを明らかにするのに重要な地域です。スタイニヤ洞窟の他の歯に関するさらなる研究は、これらの移動および他のミコッキアンのネアンデルタール人との社会的関係を解明するのにきわめて重要です。


参考文献:
Picin A. et al.(2020): New perspectives on Neanderthal dispersal and turnover from Stajnia Cave (Poland). Scientific Reports, 10, 14778.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-71504-x

若い雄ゾウを導く高齢の雄ゾウ

 高齢の雄ゾウによる若い雄ゾウの指導を報告した研究(Allen et al., 2020)が公表されました。ゾウやクジラのように寿命の長い種の場合、高齢の個体は複雑で変化する環境に適切に対応できることが多く、同じ群れの若齢個体の役に立つと考えられますが、この分野の研究の多くは、これまで雌を対象としていました。この研究は、ボツワナのマカディカディ塩湖国立公園(MPNP)内のゾウの通り道に沿って移動してボテティ川に出入りする、1264頭の雄のアフリカゾウ(Loxodonta africana)の群れ行動とリーダーシップのパターンを調査しました。

 この研究は、ゾウの通り道で目撃されたゾウの20.8%(263頭)が単体で行動しており、青年期の雄ゾウが単体で移動する頻度は予想を著しく下回った一方で、成熟した雄の成体が単体で移動する確率は予想以上だったことを明らかにしました。これは、新たに独立し、経験の浅い若齢のゾウにとって、単体で移動することのリスクが高いことを示唆する、と考えられます。高齢の成体は、雄の群れの先頭に立って移動する確率が有意に高く、成熟した成体の雄ゾウが、生態学的知識の「宝庫」として機能し、雄のアフリカゾウの群れの集団移動において重要なリーダーになっている、と示唆されます。

 この研究は、高齢の雄ゾウが繁殖の観点から余剰と考えられ、高齢の雄ゾウのトロフィー狩猟の合法性を裏づける論拠として一般的に用いられていると指摘し、そのような高齢の雄ゾウの選択的捕獲は、雄ゾウの社会全体と世代間の生態学的知識のフローを混乱させる恐れがある、との見解を示しています。ゾウの保護に重要な知見が得られたという点でも、たいへん注目される研究だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物行動学:若いゾウを導く役目に適任なのは高齢の雄ゾウ

 高齢の雄ゾウは、未知の環境や危険な環境を移動する際に、若齢の雄ゾウにとっての経験豊かなリーダーとして重要な役割を果たしているという考えを示した論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。

 ゾウやクジラのように寿命の長い種の場合、高齢の個体は、複雑で変化する環境に適切に対応できることが多く、同じ群れの若齢個体の役に立つと考えられる。ところが、この分野の研究は、雌を対象としたものがこれまで多かった。

 今回、Connie Allenらの研究チームは、ボツワナのマカディカディ塩湖国立公園(MPNP)内のゾウの通り道に沿って移動してボテティ川に出入りする1264頭の雄のアフリカゾウの群れ行動とリーダーシップのパターンを調査した。

 Allenたちは、ゾウの通り道で目撃されたゾウの20.8%(263頭)が単体で行動しており、青年期の雄ゾウが単体で移動する頻度は予想を著しく下回った一方、成熟した雄の成体が単体で移動する確率は予想以上だったことを明らかにした。これは、新たに独立し、経験の浅い若齢のゾウにとって、単体で移動することのリスクが高いことを示唆するものと考えられる。高齢の成体は、雄の群れの先頭に立って移動する確率が有意に高く、このことからは、成熟した成体の雄ゾウが、生態学的知識の「宝庫」として機能し、雄のアフリカゾウの群れの集団移動において重要なリーダーになっていると考えられることが示唆された。

 Allenたちは、高齢の雄ゾウが繁殖の観点から余剰と考えられていることが、高齢の雄ゾウのトロフィー狩猟の合法性を裏付ける論拠として一般的に用いられているとし、そのような高齢の雄ゾウの選択的捕獲は、雄ゾウの社会全体と世代間の生態学的知識のフローを混乱させる恐れがあるという考えを示している。



参考文献:
Allen CRB. et al.(2020): Importance of old bulls: leaders and followers in collective movements of all-male groups in African savannah elephants (Loxodonta africana). Scientific Reports, 10, 13996.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-70682-y

ケブカサイの古代DNA解析

 絶滅したケブカサイ(Coelodonta antiquitatis)のDNA解析結果を報告した研究(Lord et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ケブカサイは寒冷適応の大型草食動物で、後期更新世においてユーラシア北部全域に広範に分布しており、14000年前頃に絶滅しました。ヒトと気候変化が絶滅の潜在的要因として提案されてきましたが、ケブカサイがヒトの到来と気候変動によりどのように影響を受けたのか、知識は限られています。

 そこで、ケブカサイの絶滅に先行する遺伝的多様性の変化を調査し、北極環境へのケブカサイ(ケサイ)のゲノム適応を垣間見るために、較正年代で5万年以上前から14000年前頃のケブカサイ1頭(ND035)の核ゲノムと14頭のミトコンドリアゲノムが配列されました。核ゲノムを得られた1頭は、較正年代で18530±170年前と推定されています。平均ゲノム網羅率は13.6倍で、ゲノムの70%以上が網羅率10倍以上です。DNA断片の平均長は84塩基対で、全体では28180718ヶ所の高品質の一塩基多型が特定されました。この1頭と他の13頭から完全なミトコンドリアゲノム配列が得られ、平均深度は7.5~912.8倍です。以下、各標本の出土地とミトコンドリアゲノムに基づく系統樹を示した本論文の図1です。
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●集団史

 14頭のミトコンドリアゲノムで13の固有のハプロタイプが特定されました。これらは大きくクレード(単系統群)1と2に区分され、これらは最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で440000~116000年前(205000年前)に分岐し、ケブカサイの絶滅近くまで存続しました。クレード1で他の系統と154000年前(95%HPDで326000~91000年前)に分岐したウランゲリ島(Wrangel Island)の単一標本(ND030)を除いて、両クレード間もしくは各クレード内における地理的もしくは時間的構造の指標はありませんでした。ND030のみの特有系統は、草原が温暖期に森林と低木の低地へと変わったため、この場所の南方に好適生息地が少ないことによる、ウランゲリ島の孤立の結果かもしれません。ウランゲリ島の標本を含む将来の研究により、ウランゲリ島とシベリア北東部の隣接地域との間の潜在的な遺伝的構造の調査が可能になるでしょう。

 ミトコンドリア系統は、ケナガマンモス(Mammuthus primigenius)で観察されたパターンと同様に、深い分岐の3クレード(クレード1のND030系統およびその他の系統とクレード2)が存在します。マンモスにおけるこのミトコンドリアゲノム構造は、間氷期の待避所における孤立の結果かもしれない、との仮説が提示されてきました。ケブカサイとマンモスにおいて類似の構造が見つかったことから、これらの種が過去の気候温暖化に対応した、と示唆されます。ミトコンドリア系統樹のクレード1および2の内部では、短く未解決の分枝が、95%HPDで86000~20000年前と最近の多様化を示唆します(分岐点CおよびD)。人口統計学的分析では、14000年前頃の絶滅まで過去11万年のうち約10万年、雌の有効集団規模(Nef)で一定の集団規模維持のモデルが最も支持されます。しかし、さほど支持されないものの、代替的仮説ではNefの拡大が示唆され、系統樹で観察された各クレード内の系統の最近の多様化と一致します。

 ケブカサイの集団史をさらに調べるため、核ゲノムに基づいてペアワイズシーケンシャルマルコフ合体(PSMC)分析が用いられました。PSMC分析は、ペアの相同染色体を小領域に区切り、端の小領域から逐次マルコフ性にしたがって合祖時間(合着年代)を推定するという原理とアルゴリズムに基づき、これにより1個体から過去の個体数が推測されます(関連記事)。有効集団規模(Ne)は、前期更新世において100万年前から次第に増加し、191000~130000年前となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)6の152000年前(95%信頼区間で274000~111000年前)に21000と最高に達します。その後、Neは127000年前(95%信頼区間で226000~94000年前)から29700年前(95%信頼区間で40000~26300年前)にかけて1/10に減少し、ここから急速に拡大しました。Neはその後、核ゲノムが得られた1個体(ND035)の年代(較正年代で18500年前)まで一定したままで、これはケブカサイの絶滅の約4500年前となります。

 後期更新世においてNefがNeよりも高いと推定されたことは、雄に偏った拡散と雌の定住性で説明できるかもしれません。しかし、現生サイ、たとえばクロサイ(Diceros bicornis)やシロサイ(Ceratotherium simum)では性的に偏った拡散の証拠はほとんどなく、この説明はケブカサイに当てはまらない可能性が高そうです。代わりに本論文で提示される仮説は、ケブカサイにおける相対的に高いNefは、雄の繁殖成功の分散が大きい結果であり、これはシロサイで報告されてきた事例と類似している、というものです。複数の雄と雌のケブカサイからの核ゲノムデータの将来の分析が、この問題をさらに調査し、その行動へのゲノムの洞察を提供するのに必要となるでしょう。

 MIS6に至るまでNeで観察された増加は、集団拡大を示しているかもしれませんが、代替的な説明として、集団分化とミトコンドリア分析で特定された2クレードの分岐に起因するかもしれません。この2クレードが、異所性、おそらくは間氷期に形成され、これらの集団はその後MIS6の間かその後に拡大して融合し、ミトコンドリアデータで観察された系統地理学的構造の欠如をもたらした、という可能性が高そうです。したがって、MIS6で観察されたNeのピークは、集団構造がPSMCに影響を及ぼすと知られているように、集団の増加というよりはむしろ、集団分化の効果かもしれません。MIS6に続いて、Neは130000~115000年前頃のエーミアン(Eemian)間氷期と最終氷期の始まりを通じて減少し、33000年前頃に最小となりました。

 PSMCは標本の年代より2万年前の期間におけるNeの推定では能力が低下しますが、本論文では29700年前頃の増加が観察されました。この増加はケブカサイの短いミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく以前の推定、および本論文のミトコンドリアゲノムで観察された各クレード内の多様化と一致しますが、その時期にNeの拡大が示唆されないケナガマンモスのデータとは対照的です。本論文では、観察されたケブカサイのNe増加が、気候的に不安定なMIS3からより気候が安定した寒冷化したMIS2の移行と関連しているかもしれない、との仮説が提示されます。MIS2は、寒冷適応種にとって、シベリア北東部で適した生息地が形成された期間と示唆されました。

 しかし、ケブカサイはNe増加を経ていますが、ケナガマンモスのような他の慣例適応分類群は安定したままでした。したがって、MIS2はケブカサイにとって、氷河のツンドラステップが優勢で、集団拡大を可能とするような、とくに適した生息地をもたらしたかもしれません。代替的な説明では、Ne増加は、ケブカサイのような非常に特殊化した草食獣の範囲が収縮したので、集団の融合を表している一方で、そのより広範な分布により示されるように生態学的にもっと柔軟だったかもしれないマンモスは一定のNeを維持した、とされます。

 PSMC分析の限界のため暫定的ですが、本論文の結果が示唆するのは、ケブカサイの集団規模が29700年前頃の拡大後はND035標本の死まで一定のままだったかもしれない、ということです。本論文のミトコンドリアデータはさらに、特定された2系統が推定される14000年前頃の絶滅の300年以内まで存続したことから、絶滅近くまでの集団の安定性を支持します。35000年前頃に始まるシベリア北東部へ向けての生息範囲の漸進的縮小にも関わらず、化石記録が示唆するのは、ケブカサイが依然として18500年前頃までは広範に存在していたということで、これは本論文の推定集団規模が安定したままである理由を説明するかもしれません。

 興味深いことに、いくつかの他の哺乳類からのデータは、後期氷期の待避所としてのシベリア北東部の重要性を強調します。たとえば、最近の分析では、現生オオカミ系統はシベリア北東部に起源がある、と示唆されており、北アメリカ大陸への移住の前に現生人類(Homo sapiens)集団の混合がシベリア北東部で起きた、との仮説が提示されています(関連記事)。同様に、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後にシベリア北東部に存在した、ウマやバイソンやクビワレミングのミトコンドリア系統もひじょうに分岐しており、この地域におけるいくつかの分類群の長期の集団継続性が示唆されます。以下、Neの推移を示した本論文の図2です。
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●ゲノム多様性と絶滅

 ケブカサイのゲノムは1000塩基対につき平均約1.7のヘテロ接合性箇所があります。これは、1000塩基対当たりのヘテロ接合性箇所では、以前に報告された、本土マンモス(1.25)や現生スマトラサイ(1.3)やキタシロサイ(1.1)やミナミシロサイ(0.9)で観察されたゲノム多様性よりも高くなります。ホモ接合連続領域(ROH ;両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じ対立遺伝子のそろった状態が連続するゲノム領域)に基づくと、50万塩基対以上のROH領域を考慮した場合、近親交配率(FROH)は5.9%と推定されます。さらに、ROHの96%は50万塩基対以下で、ROHの最大長は250万塩基対です。

 ケブカサイにおけるこの近親交配水準は比較的低く、たとえば、非アフリカ系現代人集団と同等です。しかし、近親交配の水準は、後期更新世の本土マンモスで観察された水準(FROHが0.83%)より高く、遠い関係にある個体群間の交配による関連性がある程度示唆され、これはマンモスと比較して、その時点でのより高い集団構造、および/もしくは、減少した在来集団規模が原因かもしれません。しかし、この結果は、長期の小集団規模と関連する近親交配の増加を示した、ウランゲリ島の4300年前頃のマンモス(FROHが23.3%)とはひじょうに対照的です。

 まとめると、ケブカサイにおける核とミトコンドリアゲノムの多様性の分析は、本論文で分析された個体群に先行する集団規模の衰退の証拠も、小集団に典型的な高い近親交配の指標も提供しません。ケブカサイの絶滅における人類の役割を排除できませんが、本論文の結果からは、シベリア北東部における現生人類の到来はケブカサイの衰退と相関していなかった、と示唆されます。しかし注意すべきなのは、シベリア北東部の最初の人類の証拠は31600年前頃で、一時的な居住を表しているかもしれないことと、現時点では、MIS3~2においてまばらな人類存在の証拠しかないので、人類はケブカサイに限定的な負の影響しか与えなかったかもしれない、ということです。

 全体として、少なくとも18500年前頃までのケブカサイの安定した集団規模を示す本論文の知見が示唆するのは、絶滅に向かう最終的な衰退は急速で、絶滅前の4500年以内(ND035標本の年代から絶滅までの期間)に始まった、ということです。放射性炭素年代測定法の証拠に基づくと14600~12800年前頃のボーリング-アレロード(Bølling-Allerød)間氷期と一致した可能性が高い、この深刻で急速な集団衰退は、ケブカサイの絶滅がこの時期に特徴的な気候および植生の変化によりおもに引き起こされた、と示唆するかもしれません。ユーラシア全域で、ボーリング-アレロード間氷期は、森林と樹木の多い被覆の増加により特徴づけられました。以前の研究では、ボーリング-アレロード間氷期のシベリアにおける低木ツンドラおよび樹木の生物群系による匍匐性植生の置換は、降雪量の増加と組み合わされ、ケブカサイの絶滅につながった可能性が高い、と提案されました。絶滅への衰退の時期と速度をよりよく理解するには、絶滅事象により近い個体群の追加のDNA解析が必要です。


●寒冷環境への適応

 19556のタンパク質をコードする遺伝子全体で非同義置換(アミノ酸置換をもたらすミスセンスや機能喪失)を調べることにより、スマトラサイと比較したケブカサイにおける適応の予備的評価が行なわれました。全体として、細胞構成要素組織もしくは生合成、局在化、繁殖、生物学的調節、刺激への応答、発生過程、代謝過程を含む、生物学的過程と関連する非同義変異の1524の同定可能な遺伝子が見つかり、そのうちのいくつかは有意に過剰出現しています。他の寒冷適応大型動物種の以前の分析とは対照的に、マンモスの北極環境への適応において役割を果たしていたと考えられていた、脂肪沈着および概日リズムの変化と関連する遺伝子における非同義多様体は観察されませんでした。

 しかし、89の遺伝子では、ケナガマンモスとケブカサイの両方が、寒冷耐性への適応と関連しているTRPA1(Transient Receptor Potential subfamily A)を含む、正の選択かもしれない非同義多様体を有していました。TRPA1を含む、TRPチャネルをコードする遺伝子における正の選択を受けた多様体は、寒冷適応分類群で最近報告されました。さらに、両方の種で機能喪失変異を有する1遺伝子である、カリウムチャネル関連のKCNK17がありました。KCNK17はKCNK4のパラログ(遺伝子重複により生じた類似の機能を有する遺伝子)で、通常の機能ではTRPA1やTRPM8を含むTRPタンパク質発現を抑制する、と示されてきました。したがって、この遺伝子は低温の知覚に関与しており、ノックアウトされると、寒冷適応に役割を果たすかもしれません。

 ケブカサイで適応的に重要かもしれなかった遺伝子をさらに特定するため、全ての特定された17888のミスセンス変異が3指標(アミノ酸指標、実験的交換可能性、アミノ酸非類似性)に従って位置づけられ、タンパク質構造物理化学的特性への影響が評価されます。これにより、3指標全てで類似の結果が得られました。アミノ酸指標の分布は二峰性で、変異の大半はタンパク質構造でほとんど弱い変化から中程度の変化が予測されます。しかし、アミノ酸指標を有する284の多様体があり、アミノ酸の物理化学的特性の最大の変化を示唆します。これらの多様体のうち83は41の異なる嗅覚受容体遺伝子で、この遺伝子群の進化において頻繁な遺伝子の獲得および喪失が起きていたことと一致します。


●まとめ

 本論文のゲノム多様性分析は、ケブカサイの集団史および生物学の理解にいくつかの示唆を与えます。まず、ミトコンドリア系統間の深い分岐の発見は、中期更新世における動的な進化史を示唆し、おそらくは集団の分裂とその後の融合により特徴づけられます。

 次に、ミトコンドリアゲノムと核ゲノム両方の分析から、絶滅へと向かうケブカサイの最後の衰退は急速で、18500年前頃の後まで始まらなかった、と示唆されます。これは、ケブカサイのNeが、シベリア北東部における人類の到来後、約13000年経つまで縮小し始めなかったことを示唆します。しかし、これは人類が後にケブカサイの絶滅に関わった可能性を排除しません。たとえば、人類によるケブカサイの狩猟が、ケブカサイ集団の成長率を減少させた結果、絶滅を加速したかもしれません。しかし、現時点でのデータを考慮すると、ボーリング-アレロード間氷期の開始と関連する環境における変化がケブカサイ絶滅の主因だった、という可能性が高いようです。18000~14000年前頃の追加のゲノム分析により、最終的な集団衰退がボーリング-アレロード間氷期と一致する程度のさらなる調査が可能であるはずです。

 最後に、ケブカサイの適応的な遺伝的多様性の予備的評価は、温度感覚に関わる遺伝子(TRPA1)を含む、いくつかの生物学的過程と関連する遺伝子における非同義置換の範囲を特定しました。まとめると、これらの知見は、絶滅種の以前には未知の進化過程の解明におけるゲノムデータの有用性を強調し、第四紀後期における人口統計学的変化の時期と速度をよりよく理解するための、他の大型動物相の人口統計学的軌跡の調査の必要性を示します。


参考文献:
Lord E. et al.(2020): Pre-extinction Demographic Stability and Genomic Signatures of Adaptation in the Woolly Rhinoceros. Current Biology, 30, 19, 3871–3879.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.07.046

ワシントンDCの「黒人」と「白人」との間の平均余命の格差

 アメリカ合衆国ワシントンDCの「黒人」と「白人」との間の平均余命の格差に関する研究(Roberts et al., 2020)が公表されました。この研究は、1999~2017年の死亡数データを解析して、ワシントンDCの男性と女性の平均余命を算出し、さまざまな年齢層と3つの時期(2000年、2008年、2016年)について、「黒人」と「白人」の具体的な死因と、これらの死因が「黒人」と「白人」の間の平均余命の格差にどの程度寄与しているのか、調べました。

 この研究は、直近の観察期間(2016年)において、ワシントンDCの「黒人」男性の平均余命が「白人」男性よりも平均17.23年短く、「黒人」女性の平均余命が「白人」女性よりも12.06年短いことを明らかにしました。男性の場合、平均余命の格差をもたらす主要因は心疾患・殺人・癌・不慮の傷害(偶発的な薬物中毒など)で、平均余命の格差に最も大きく寄与していたのは、55~69歳の年齢層では心疾患と癌、20~29歳の年齢層では殺人でした。

 女性の場合、平均余命の格差をもたらす主要因は心疾患・癌・不慮の傷害・周産期の疾患で、平均余命の格差に最も大きく寄与していたのは55~69歳の年齢層では心疾患と癌、50~59歳の年齢層では不慮の傷害でした。また、アメリカ合衆国全体とは異なり、ワシントンDCでは「白人」の平均余命が増加し続け、「黒人」の平均余命が減少し始めており、平均余命の格差が近年拡大していることも明らかになりました。

 この研究は、「黒人」と「白人」の間の平均余命の格差が、おもに「黒人」居住地域に影響を及ぼす基本的な社会的・経済的原因(環境中の有害物質、高い犯罪率、質の低い学校、充分な医療サービスを利用できないことなど)に起因している可能性を示唆しています。また、この研究は、効果的な教育、雇用機会、安全な居住地域と住宅、質の高い医療を平等に得られるようにすれば、ワシントンDCにおける「黒人」と「白人」との間の健康と平均余命の格差が縮小するかもしれない、と推測します。常識的な提言と言えますが、ワシントンDCにおいて「黒人」と「白人」の格差が拡大していることを示したという点で、意義のある研究だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


公衆衛生:米国ワシントンDCの黒人と白人の間の平均余命の格差分析

 米国ワシントンDCの黒人と白人の平均余命には著しい格差が見られ、その主たる要因が心疾患、殺人、がんであることを報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

 今回、Max Robertsたちの研究チームは、1999~2017年の死亡数データを解析して、ワシントンDCの男性と女性の平均余命を算出し、さまざまな年齢層と3つの時期(2000年、2008年、2016年)について、黒人と白人の具体的な死因と、これらの死因が黒人と白人の間の平均余命の格差にどの程度寄与しているのかを調べた。

 Robertsたちは、直近の観察期間(2016年)において、ワシントンDCの黒人男性の平均余命が白人男性よりも平均17.23年短く、黒人女性の平均余命が白人女性よりも12.06年短いことを明らかにした。男性の場合、平均余命の格差をもたらす主たる要因は、心疾患、殺人、がん、不慮の傷害(偶発的な薬物中毒など)であり、平均余命の格差に最も大きく寄与していたのは、55~69歳の年齢層では心疾患とがん、20~29歳の年齢層では殺人であった。女性の場合、平均余命の格差をもたらす主たる要因は心疾患、がん、不慮の傷害、周産期の疾患であり、平均余命の格差に最も大きく寄与していたのは55~69歳の年齢層では心疾患とがん、50~59歳の年齢層では不慮の傷害であった。また、米国全体とは異なり、ワシントンDCでは、白人の平均余命が増加し続け、黒人の平均余命が減少し始めており、平均余命の格差が近年拡大していることも分かった。

 Robertsたちは、黒人と白人の間の平均余命の格差が、主に黒人居住地域に影響を及ぼす基本的な社会的・経済的原因(環境中の有害物質、高い犯罪率、質の低い学校、十分な医療サービスを利用できないことなど)によっている可能性があると示唆している。

 また、Robertsたちは、効果的な教育、雇用機会、安全な居住地域と住宅、質の高い医療を平等に得られるようにすれば、ワシントンDCにおける黒人と白人の間の健康と平均余命の格差が縮小する可能性があると考えている。



参考文献:
Roberts M, Reither EN, and Lim S.(2020): Contributors to the black-white life expectancy gap in Washington D.C.. Scientific Reports, 10, 13416.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-70046-6

マストドンのミトコンドリアゲノム

 マストドンのミトコンドリアゲノム解析結果を報告した研究(Nyakatura et al., 2020)が公表されました。人為的気候変動は生態系に大きな影響を与えており、多くの種が個体数減少もしくは絶滅を経験したか、生息範囲を変えています。過去1世紀の地球温暖化の主因は人為的ですが、大規模な気候変動に伴う環境変化は、第四紀の260万年間にさまざまな時間的規模で何度も起きました。最大の変化は過去80万年に10万年周期で起きた氷期と間氷期の繰り返しです。この周期により、北アメリカ大陸の居住可能地の約50%が定期的に氷床に覆われ、年間平均気温が10度を超える変動が起きました。この氷期と間氷期の周期は、氷期における新たな陸地の出現も含めて、北アメリカ大陸の陸上生態系に大きな変化をもたらしました。こうした大きな気候変動が古代の生物集団に及ぼす系統地理学的および集団統計学的影響を調べることで、種がこの変化にどのように対応するのか、予測するのに役立ちます。

 骨や歯といった遺骸から回収された古代DNAにより、古代の種の遺伝情報を長期間にわたって調べることが可能となりました。これにより、従来の古生物学的手法では容易に解明できない、気候変化への反応(移住や絶滅など)の微妙な理解や集団史が明らかにされてきました。北アメリカ大陸の更新世の分類群に関するほとんどの系統地理学的研究は、草原地帯もしくはステップツンドラに適応した種と、人類の到来と末期更新世の温暖化への反応に焦点を当ててきました。しかし、過去の気候変動、とくに125000年前頃となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)5eのような急激に温度が上昇した時期もまた、大型動物相集団にかなりの影響を及ぼした可能性が高そうです。このような気候変動圧力は、とくに森林と混合林地環境に適応した種に当てはまるでしょう。それは、これらの生物相が温暖期にはかなり拡大し、続く氷期には置換されるか近づきにくくなるからです。

 絶滅種であるアメリカ大陸のマストドン(Mammut americanum)は、更新世の北アメリカ大陸の樹木が茂った湿地環境の象徴的な動物で、中央アメリカ大陸の亜熱帯からアラスカとユーコン準州の北極圏にかけて遺骸が発見されています。安定同位体データや歯の形態および微視的使用痕分析により、食性におけるいくつかの地域的および年代的多様性もしくは柔軟性が明らかになりましたが、たとえばC3植物であるトウヒのような木の若葉が好まれていたようです。ほとんどの長鼻目と同様に、マストドンはその生息地の保全性と多様性の維持に重要な役割を果たしました。マストドンは後期更新世にアメリカ大陸に拡散してきた現生人類(Homo sapiens)の狩猟対象とされ(関連記事)、その骨で投槍の先端が作られていました(関連記事)。

 最近の古生物学的調査では、マストドンとマンモスが周期的な氷期と間氷期の気候変動に対照的な反応を示した、と明らかになりました。アメリカ大陸中部およびベーリンジア(ベーリング陸橋)東部(現在のアラスカとユーコン準州の氷河のない地域)内のマストドンの分布パターンの分析時間的分析から、アメリカのマストドンは更新世最後の間氷期(MIS5)に一時的に高緯度へと拡大したものの、最終氷期(MIS4~2)に気候がずっと寒冷化すると、地域的に絶滅し、北アメリカ大陸ではより低緯度の温帯地域でのみ生き残った、と推測されています。これらの絶滅は氷河期の始まりにおける気候変動要因の植生変化により引き起こされた可能性が高く、対照的に、マンモスなどはステップツンドラに適応しました。しかし、この議論は検証困難です。これはとくに、マストドン化石の年代がほとんど或いは全く得られていないベーリンジア東部に当てはまり、それは放射性炭素年代測定法の限界(5万年前頃)を大きく超えているからでもあります。光刺激ルミネセンス法のような他の年代測定法は有用かもしれませんが、この問題にはまだ適用されていません。

 本論文は、アメリカ大陸のマストドンのミトコンドリアゲノムの詳細な系統地理学的分析とベイジアン分子時計を用いて、氷期と間氷期の周期に起因する拡大と絶滅のモデルを検証する代替的手法を提示します。本論文の調査結果は、アメリカ大陸のマストドンが間氷期の温暖化に対応して繰り返し北方に拡大した、と示唆します。しかし、北方クレード(単系統群)は極端に遺伝的多様性が低く、類似の拡散パターンを示す現代の種の保存に関しては、重要な考慮が必要です。


●マストドンの系統地理学

 マストドンの完全なミトコンドリアゲノムが、122頭のうち33頭で得られました。この33頭は主要な5クレードに分類されました。それは、A(アラスカ)とY(ユーコン準州)とG(五大湖)とM(メキシコ)とL(アルバータ州およびミズーリ州)です。カナダ東部ノバスコシア州の1頭(NSM092GF182.011)は、年代が74900±5000年前と推定され、暫定的にクレードGと分類されました。この標本は地理的および時間的に区別され、その深い分岐から、MIS5の間氷期ら東部沿岸のマストドンから分離した集団である可能性が高そうです。

 近隣地域のマストドンは一般的により密接に関連しており、広範な系統地理学的構造の証拠となります。この傾向は、アフリカとアジアのゾウや北アメリカ大陸のマンモスでも観察されており、長鼻目の群の母系的な性質に起因します。マストドンの母系的な群構造も、性的成熟後の雌雄の牙の成長の違いと、足跡における関係に基づいて議論されてきました。雌の長鼻目の定住もまた、クレード間の深い分岐の結果で、おそらくはマストドンで観察される深い分岐の説明となります。

 長鼻目の母系内で予測される限定的な地理的拡散にも関わらず、おもにベーリンジア東部の標本群から構成される独立の遺伝的に分岐したクレードAおよびYが識別されます。クレードYはクレードG・L・Nと近縁で、クレードAとは137万~609000年前頃に分岐しました。アルバータ州の標本群は明確に定義された5クレードのうち3クレード(L・M・Y)で見つかり、古生物学的記録だけでは推測できない、複雑な生態学的および生物地理学的歴史が強調されます。アルバータ州はローレンタイド(Laurentide)氷床とコルディレラ(Cordilleran)氷床が最も集中した場所で、更新世最後の融解において氷床の南北をつなぐ最初の融解回廊が形成されました。バイソンに関する以前の研究では、この地域も最新の氷河融解事象に応じた劇的な変化があり、氷河の後退と同時に、ベーリンジアと南方地域の両方から急速な集団拡大があった、と示されています。これらの知見が他の分類群と期間にも当てはまるのかどうか決定するには、さらなる調査が必要ですが、アルバータ州のマストドンが系統学的に分岐していることは、この地域がマストドンにとっても広大な生物学的流動性の一つだった、と示唆します。以下、マストドンの各標本の場所と、ミトコンドリアゲノムの系統樹を示した本論文の図1です。
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●マストドンの推定年代

 最終氷期におけるベーリンジアのアメリカマストドンの絶滅を説明するために、以前の研究では古生態学的モデルが提案されました。このモデルでは、マストドンの分布は、地域的な植生で亜寒帯林と湿地帯の混合が優占したMIS5間氷期と結びつけられました。ベーリンジアのマストドンが植生タイプにより異なると仮定すると、マストドンの拡大と絶滅の繰り返しが10万年の氷期と間氷期の周期に対応していたのかどうか、という問題が生じます。この方法で古生態学的モデルを拡張する証拠は、時間(高緯度のマストドンと既知の間氷期との相関)および生物学的(高緯度集団は環境改善による南方から北方への移動の結果として、南方集団よりも遺伝的多様性が低い)指標を含まねばなりません。

 ベーリンジア東部とアルバータ州のマストドンは、放射性炭素年代測定法により5万年以上前か分析不能とされ、層序的に位置づけられないこともあります。適用可能な直接的年代測定法がない場合、分子時計分析により高緯度標本の年代が推定されました。分子年代測定は一部の放射性もしくは地質学的年代測定法よりも正確ではない傾向にありますが、その正確性はシミュレーションおよび分子データと形態学的データにより示されてきました。本論文では、年代情報のない標本の年代を推定するため、全標本の年代を同時に推定する方法(JT)と、同時に分析する前に個々の標本の年代を推定する方法(ID)が用いられました。

 ベーリンジア東部のクレードYの推定年代は、JT では13万~98000年前、IDでは91000~74000年前で、更新世における最後の主要な温暖期であるMIS5の範囲内に収まります。個々の標本群の推定年代の95%信用区間は広いものの、確率密度はMIS5に対応する期間に集中しており、各分布のモードもMIS5の範囲内にあります。さらに、JTでは一部の標本が95%信用区間でMIS7(243000~191000年前)となりますが、IDではこれらの年代が得られません。これらの知見は、ベーリンジア東部のマストドン生息地が、古生態学的モデルで予測されたように、間氷期と一致していることを強く示唆します。

 クレードAのベーリンジア東部のマストドンは、クレードYのベーリンジアのマストドンよりずっと古い、と推定されました。クレードAの2頭の推定年代は、UAMES 11095個体が、JTでは586000年前(95%信用区間で80万~329000年前)、IDでは267000年前(95%信用区間で41万~152000年前)となり、UAMES 30197がJTでは558000年前(95%信用区間で784000~292000年前)、IDでは254000年前(95%信用区間で397000~142000年前)となります。しかし、クレードAの2頭の95%信用区間の年代はクレードYよりもずっと広く、多くの氷期と間氷期にまたがっており、特定のMISと結びつけることが困難です。それにも関わらず、クレードAの2頭の年代はともに、95%信用区間でクレードYのベーリンジア東部の個体群と重なっておらず、クレードAとYが年代的に異なることを示唆します。これらの結果は、クレードAがMIS5より前の間氷期に分離して拡散した集団の一部である、という想定と一致します。

 JTでもIDでも、クレードGの2頭は新しいと推定されています。AMNH 988はJTでは28000年前(95%信用区間で000~000年前)、IDでは17000年前(95%信用区間で71000~13000年前)、UM13909はJTでは43000年前(95%信用区間で94000~13000年前)、IDでは21000年前(95%信用区間で38000~14000年前)と推定されています。しかし、全分析で、これらの標本の事後分布年代密度は新しい値への確率質量が大きく、データセット内の最新標本の年代に基づく削除期限である、13000年前頃の下限に隣接しています。クレードGの他の個体の放射性および地質学的年代を考慮すると、これらの結果はおおむね、この2頭の予測年代と一致します。それにも関わらず、事後年代分布の形状は、これらの標本がじっさいには13000年前よりも新しい可能性を示唆します。

 アルバータ州のマストドンの年代は異なり、集団置換により特徴づけられるひじょうに動的な生物地理学的景観という解釈と一致します。しかし、アルバータ州の標本数が限られており、年代の95%信用区間が広く、系統全体ではバラバラに位置づけられるので、特定の期間との関連づけが困難であることには、注意しなければなりません。アルバータ州の個体でクレードYのRAM-P94.16.1Bは、事後分布年代の中央値がJTでは208000年前、IDでは117000年前頃と、クレードYの他の個体よりも古いものの、95%信用区間では他のクレードYの個体と重なります(JTでは311000~119000年前、IDでは163000~82000年前)。95%信用区間の幅とその重複もまた、2つの分析間と、MIS5もしくは7のどちらかとの関連で異なります。しかし、この標本が最終的にMIS7と示された場合、同じもしくは類似の集団からの連続した移住事象が示唆されます。

 アルバータ州の個体でクレードLのRAM P94.5.7は、事後分布年代の中央値がクレードAの2頭と類似していますが(JTでは474000年前、IDでは221000年前)、95%信用区間では、あらゆる特定のMISと関連づけることが困難です。しかし、クレードYおよびAのベーリンジア個体群間の分離とは異なり、クレードYのRAM P94.16.1B とクレードLのRAM P94.5.7の95%信用区間はJT の37000年前とIDの35000年前で重なっており、その分離はより不確実です。アルバータ州の個体でクレードMのRAM_P97.7.1の年代の事後分布密度はMIS5の範囲内に収まりますが、その95%信用区間はたいへん広く、JTでは467000~5万年前、IDでは763000~5万年前です。クレードAおよびLの個体群のように、このパターンは、系統学的位置づけと、データセットにおける較正点の大半からの深い分岐に起因する可能性があります。


●マストドンのクレード内の遺伝的多様性

 拡大と絶滅の繰り返しのモデルでは、マストドンの北方クレードは遺伝的多様性が低い、と予想されます。このパターンは、間氷期の気候温暖化に対応しての小さな創始者母系集団の繰り返しの拡大、および北方居住の一時的性質と一致しています。この仮説の検証のため、データセット内のヌクレオチド多様性の水準が調べられました。

 クレードYでは、時空間的に異なる可能性があるアルバータ州のRAM P94.16.1B を含めると、1ヶ所につき8.79 ×10⁻⁵もしくは1.01×10⁻⁴の置換という低水準の多様性となります。クレードAでは、これが1.2410⁻⁴となります。一方、氷床南方の個体も含むクレードGでは多様性がずっと高く、1ヶ所につき1.17×10⁻³もしくは8.09×10⁻⁴の置換となります。これは、氷河の後退に対応して少数の母系のマストドンが北方へと拡大するという予測と一致し、北方マストドンが生息する環境に関する以前の古生態学的モデルを支持します。


●まとめ

 絶滅したアメリカ大陸のマストドン33頭のミトコンドリアゲノム分析により、時空間的な遺伝的多様性解釈の枠組みが提供されました。アラスカからメキシコまで、北アメリカ大陸のほぼ全域に広がるマストドンのミトコンドリアゲノムの6クレードが特定されました。ベーリンジア東部の主要な2クレードは、この地域への異なる拡大に起源があるようです。アルバータ州の個体群は複数のクレードに分類され、アメリカ大陸のマストドンの南北間の拡散という動的性質が強調されます。また、本論文でのクレードの命名は、ミトコンドリアゲノムがさらに解析され、時空間的な空白が埋まっていけば、改訂される必要が出てくるかもしれません。これはとくにクレードMに当てはまります。クレードMは、他の系統との深い分岐を示す、合着年代の古い複数系統を表しているかもしれません。

 本論文の分析は、アメリカ大陸のマストドンが、間氷期のみにカナダやアラスカのような高緯度地帯に拡散した、というモデルを改めて支持します。間氷期には、高緯度地帯でも森林や湿地が広がりました。アラスカとユーコン準州における一時的に異なるクレードの存在は、寒冷期における地域的な絶滅と南方への分布範囲縮小に続く、推定される温暖な間氷期における拡大パターンの繰り返しの可能性が高いことを示唆します。これは、ベーリンジア東部の多くの種に影響を及ぼした地球規模の氷期と間氷期の周期に対する、大きくて恐らくは広範な生物学的反応だった、と推測されます。

 ユーラシアでも同様の過程がおそらく起きており、カバやハイエナのような温暖適応種は、間氷期に以前は氷河に覆われていた北方(たとえば、ブリテン諸島やスカンジナビア半島)へと拡大しました。しかし、このパターンはさらなる疑問を投げかけます。たとえば、以前の間氷期に北アメリカ大陸の北端部へと繰り返し拡大できた種が、21000年前頃前後の最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の後の間氷期に、なぜ戻れなかったのか、ということです。これらの種はすでに深刻な衰退状態だったのかもしれません。さらに重要なことに、現生種でも同様の傾向が見られるかもしれません。

 現在、北アメリカ大陸北部の多くの鳥・魚・哺乳類が、気候温暖化に対応して急速な再編を行なっています。北方森林地帯の象徴的な種であるアメリカヘラジカ(ムース)やビーバーは、過去数十年だけで北に数百kmも分布範囲を拡大しています。本論文のデータから、少なくとも一部の南部の温帯集団が北方へと拡大しており、現在の温暖湿潤環境の結果である可能性が高い、と示唆されます。しかし、拡大の最前線にいる集団は、種の現在の多様性の部分集合である可能性が高く、より遺伝的に多様な南方集団が最終的に絶滅すると、脆弱になります。更新世の大型動物相の系統地理学的歴史は、現生種の生態学的反応の理解に有益な事例として役立つことができ、人為的な環境影響の結果についての検証可能な仮説を提示できます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:間氷期に生息域を北方に拡大させていたアメリカマストドン

 絶滅種のアメリカマストドン35頭のミトコンドリアゲノムの解析から、アメリカマストドンが、更新世(250万年~1万1700年前)の間氷期の温暖化に対応して北米の北方緯度域に向かって繰り返し移動していたことを示した論文が、今週、Nature Communications に掲載される。この知見は、研究者たちが現生種の地球温暖化に対する生態学的応答の可能性を解明する上で役立つかもしれない。

 アメリカマストドン(Mammut americanum)は、かつて北米の森林地帯や低湿地に生息しており、その遺骸が、中米の亜熱帯から米国アラスカ州やカナダ・ユーコン州の北極緯度域にかけて発見されている。過去80万年間の氷期と間氷期のサイクルのために、北米の居住可能な土地の約50%で氷床が周期的に拡大した。しかし、マストドンがこうした変動にどのように応答したのかは不明だ。

 今回、Emil Karpinskiたちの研究チームは、北米の博物施設から入手したアメリカマストドンの骨と歯の化石の試料を調べて、33点の標本の完全なミトコンドリアゲノムの塩基配列を解読した(解析にはこれ以外に、すでに公表されている2件のゲノムも含まれる)。その結果、5つの異なる分類群(クレード)のマストドンが特定され、そのうちの2種は、ベーリンジア(かつてロシアと米国の間に存在した地域)東部を起源としていた。Karpinskiたちは、ベーリンジア東部に生息していたこれらの分類群の標本の年代に重複のないことを確認し、2つのクレードが別々の時期にベーリンジア東部に生息域を拡大させた可能性が高いと考えている。こうした拡大のあった時期は、温暖な気候条件によって森林や湿地が形成された間氷期と一致していた。

 また、Karpinskiたちは、この北方のクレードの遺伝的多様性のレベルが、大陸氷床の南側で生息していた分類群より低かったことを明らかにした上で、現代の気候変動によって、生物種の一部が、同じように生息域を北方に拡大させている可能性が高いと主張している。こうした生物種は、南方で生息する遺伝的多様性の高い集団がいなくなることで、脆弱な状態に陥る可能性がある。



参考文献:
Karpinski E. et al.(2020): American mastodon mitochondrial genomes suggest multiple dispersal events in response to Pleistocene climate oscillations. Nature Communications, 11, 4048.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17893-z

ヨーロッパの人類集団における乳糖分解酵素活性持続の選択

 ヨーロッパの現生人類(Homo sapiens)集団におけるラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)の選択に関する研究(Burger et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、LPがヨーロッパにおいてどのように選択されてきたのか、検証します。一般的に哺乳類の成体は乳を消化しませんが、LPでは成人期におけるラクターゼの持続的発現を可能とし、複数の人類集団における過去1万年の最も強い選択された単一遺伝子特性と考えられています。ユーラシア人においてLPをもたらす主要なアレル(対立遺伝子)であるrs4988235-Aは、人類が家畜からの乳を消費し始めたずっと後の、青銅器時代と鉄器時代にやっとかなり頻度上昇した、と仮定されてきました。この急速な上昇は、5000年前頃に始まった、ポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの人々の流入が原因である、とされてきました。


●トレンゼ遺跡個体群

 本論文は、ドイツのトレンゼ(Tollense)河畔の3200年前頃となる戦地遺跡で発見された戦士と考えられる14人の遺伝的データを分析しました。トレンゼ遺跡は青銅器時代の戦いに関して最も重要であり、約4000人の戦士たちが加わり、その1/4は戦死した、と推定されています。トレンゼ遺跡の個体群の遺伝的データで分析対象となったのは、500万塩基対に及ぶ推定上の中立領域および487の表現型と関連している遺伝子座で、それらの表現型とは、代謝症候群や成人ラクターゼ(乳糖分解酵素)持続性(LP)や非感染性および感染性疾患や目・肌・神の色素沈着です。この14人では近親者は検出されず、このうち2人は女性です。本論文は、おもにLPに関して検証します。

 トレンゼ遺跡の14人は、主成分分析では、ヨーロッパ中央部および北部の個体群の多様性の範囲内に収まり、遺伝的構造がわずかしか、あるいは全くないと示唆されます。その他の検定からも、トレンゼ遺跡個体群は、単一の構造化されていない集団の標本と考えられます。トレンゼ遺跡個体群の系統は、遺伝的にはヨーロッパ中央部および北部と示唆されます。考古学的知見では、トレンゼ遺跡個体群の一部の戦士はヨーロッパ中央部南方、つまりドイツ南部東方とボヘミア出身と示唆されています。炭素とストロンチウムの同位体比からは、地元出身者と外来者との混合が示唆されています。トレンゼ遺跡個体群はこれらの知見から、同じ広範な地域に住んでいた高度な継続性を有する比較的均質な集団だった可能性があります。


●中世以前の主要なアレル頻度増加

 LP頻度を時空間的に比較するため、1遺跡につき5人以上の新石器時代後のさまざまな古代の集団標本を対象に、rs4988235-Aアレル頻度が推定されました。その結果、トレンゼ遺跡では7.1%、セルビアの青銅器時代のモクリン(Mokrin)遺跡では4.6%と推定されました。ただ、モクリン遺跡の個体群には近親関係にある者もいます。これらの推定値は、他のヨーロッパ青銅器時代集団とさほど変わりません。青銅器時代のヨーロッパでrs4988235-Aアレル頻度が最も高いのは、トレンゼ遺跡より数世紀新しいドイツのリヒテンシュタイン洞窟(Lichtenstein Cave)集団の29.4%です。

 もっと時代が下ると、顕著に高いrs4988235-Aアレル頻度が観察されており、青銅器時代との期間における強い選択が示唆されます。たとえば、ラトビアの2730~2560年前頃の個体群と、ドイツ南西部の中世となる1500年前頃の個体群では約57%で、遺伝的にはヨーロッパ北部系統の影響が強いハンガリーの中世前期の個体群(関連記事)では73%です。これらの推定値は、rs4988235-Aアレルがヨーロッパのさまざまな地域で青銅器時代の初期には検出可能な頻度に達していたものの、鉄器時代やその後の集団で観察される頻度には達していなかった、と示唆します。そのようなパターンは、rs4988235-Aアレルの選択が新石器時代に始まったことと一致しますが、とくに青銅器時代後の継続的な強い選択を示唆します。


●新石器時代後の継続的で強力な選択

 130世代にわたるアレル頻度の変化と、補完的な手法を用いて、青銅器時代以降のrs4988235-Aアレルの選択強度が定量化されました。その結果、rs4988235-Aとrs7570971-Cで、強い正の選択が特定されました。rs7570971-Cはほぼ排他的にrs4988235-Aと同じハプロタイプで見られ、血清コレステロール減少で役割を果たす、と推測されています。LPにおける機能的役割の説得的な証拠は、選択がrs7570971-C よりもむしろrs4988235-Aアレルにおいて作用している、と強く示唆します。

 3000年以内に、これらのアレルの標本数はそれぞれ、2/26から144/192、2/28から134/190へと増加しました。優性であることを考慮しても、選択係数は、rs7570971-Cが5%、rs4988235-Aが6%と推定されます。本論文で報告された青銅器時代のrs4988235-Aアレルアレル頻度の低さと一致して、これらの選択係数推定値は、最近の現代人データ(1.6%)と古代人データ(1.8%)に基づくものよりもやや高くなっています。


●LPの主因ではないヨーロッパ東部草原地帯集団

 rs4988235-Aアレルの拡大は、前期青銅器時代のポントス・カスピ海草原からの人類集団の拡散が原因だった、と考えられてきました。たとえば、青銅器時代のヨーロッパにおけるrs4988235-Aアレルの頻度が低い(5%)と報告し、LPが草原地帯起源である可能性を指摘した研究です(関連記事)。本論文は、現代の参照個体群を用いて古代の標本群におけるアレルの存在の起因とすることは、強い選択の地域では問題になる可能性があるため、ヨーロッパ東部と草原地帯の銅器時代および前期青銅器時代標本群においてPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)でrs4988235遺伝子座の遺伝子型を決定することにより、この仮説を検証しました。

 標本抽出された個体群の大半の年代は、紀元前四千年紀の終わりから紀元前二千年紀の始まりまでとなります。これら37標本でrs4988235-Aアレルが検出できなかったので、その頻度はひじょうに低いかゼロに近く、地理的・文化的・時間的に多様な「草原地帯系統」を有する標本で以前に報告された5.4%よりもほぼ確実に低い、と示唆されました。さらに、ヨーロッパ東部草原地帯の既知のデータ(5600~4300年前頃)と、ヨーロッパ中央部および北東部の縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)のデータ(4900~4300年前頃)も分析され、それぞれrs4988235-Aアレルが0%および1.8%と推定されました。これらの推定値は、rs4988235-Aアレルの起源について直接的情報を提供するわけではありませんが、青銅器時代後のヨーロッパで観察された高頻度を、草原地帯関連系統の拡大におもに帰する仮説とは一致していないようです。


●選択の時間推移

 LPの遺伝的基盤となるrs4988235-Aアレルは、ユーラシア西部の広範な地域でひじょうに強い自然選択を受けてきましたが、選択の動因と時空間的な分布および人口統計学的過程に関しては、かなりの不確実性が残ります。選択の動因を考察するには、rs4988235-Aアレルの起源年代とLPに関する選択の時期(過去のある時点から一定なのか、あるいは一時的なのか)、および古代DNAデータにおける最初の観察が別で、おそらくは何千年も離れていることを認識することが重要です。

 連鎖不平衡の研究では、過去2万年、おそらくは完新世における起源が示唆されています。陶器に付着した脂肪酸分析からの乳消費の証拠と屠殺の証拠は、アナトリア半島とレヴァントとヨーロッパ南東部において前期新石器時代にまでさかのぼります。しかし、LPへの強い自然選択が前期新石器時代から作用していたとしても、S字型のアレル頻度曲線と、数千年にわたるひじょうに低くほとんど検出できない頻度が予想されます。したがって、その後の青銅器時代までの低頻度は、乳が重要な食性構成になった時かその直後に始まるLPの選択と必ずしも一致しません。

 そこで、新規ベイズ法を使用し、rs4988235-Aアレルの年代が推定されました。この推定年代は、優性係数(h)と同様に、変異の年代と青銅器時代との間の未知の有効人口規模に大きく依存します。rs4988235-Aアレルの起源年代は、h=1では、有効人口規模が100人では3550年前頃、10万人では7140年前頃となり、h=0.5では、それよりも20%ほど古くなります。トレンゼ遺跡標本群の低頻度と一致して、これらの推定年代は、以前の推定の下限に近いか、現代人のデータからの最近の推定よりも新しくなります。しかし、そうした推定はすべて、人口史・選択強度・選択されたアレルの起源に関して強い仮定に基づいていることに注意しなければなりません。

 これらの知見から、青銅器時代は、rs4988235-Aアレルが適度な規模の古代DNA標本群で検出されるのに充分なほど一般的になった重要な中間点を表している、と言えそうです。青銅器時代のデータは、その後の選択を定量化するための出発点として役立ちます。トレンゼ遺跡の標本は、短期間、おそらくは同日の戦闘で死んだ可能性が最も高い個体群から構成されており、定量化の出発点として適しています。3200年前頃のトレンゼ遺跡と現代との間の6%という推定選択係数は高く、とくに、新石器時代には乳消費の代替食料も生産されていたので、農業技術の発展と食性範囲の増加を考慮すると、そう言えます。


●選択の動因

 LPへの強い選択に関しては、乳が栄養豊富で比較的栄養バランスのとれた食品というだけではなく、さまざまな説明が提案されてきました。たとえば、高緯度でのビタミンD摂取によるカルシウム吸収の改善とか、比較的雑菌に汚染されていない水分の補給とか、パラアミノ安息香酸消費の減少によるマラリア症状の抑制とか、微生物叢を再形成するガラクトースやガラクトオリゴ糖による腸の健康改善とか、飢餓状態での下痢の回避とか、酪農のカロリー生産の経済的効率の向上とかです。これらの要因のどれか一つが、新石器時代から現代までの全期間で単独で作用してきた可能性は低そうです。

 しかし、青銅器時代から少なくとも中世まで継続しておそらくは増加してきた選択係数の推論は、病原体負荷に関するものなど、集団と定住密度の増加と関連する選好として解釈できます。この文脈で興味深いのは、本論文で調べられた400以上の機能的遺伝子座の中で、選択の観点から唯一有意性を示した他のアレルが、病原体パターン認識と自然免疫反応と関連するToll様受容体遺伝子複合体(TLR6)における、rs5743810のアレルであることです。明示的検証は困難ですが、rs4988235-Aアレルの選択は、おそらくは乳消費における流行病抵抗性と関連した多面的ネットワークを通じて、他の遺伝的要因により調節された可能性が高そうです。


●人口統計学と選択

 強い自然選択の他に、移住や集団の範囲拡大のような人口統計学的過程が、rs4988235-Aアレルの分布を形成したでしょう。ヨーロッパにおけるrs4988235-Aアレルの北西部の分布が、これらの過程の主要な結果なのか、あるいは、たとえば乳消費の異なる伝統や異なる気候と生態や紫外線量の違いにより形成された、空間的に構造化された選択強度なのか、不明確です。しかし、注目すべきは、本論文で標本抽出されたトレンゼ遺跡集団と同地域の現代人集団との間で、遺伝的置換がほとんどないのに、高い選択係数が推定されていることです。同じことはセルビアのモクリン遺跡にも当てはまり、同様に主要な集団変化はなさそうですが、過去数千年にわたる観察されたアレル頻度変化で説明されるように、自然選択が起きました。


●まとめ

 中世前期と現代とでは、さまざまな場所でrs4988235-Aアレルの推定頻度はやや類似しており、この期間の継続的選択の可能性は除外されません。それは、これが優性アレルで予想されるS字型頻度曲線の移行段階を表しているからです。LPの場合、最も急激な頻度上昇は紀元前4000~紀元前1500年前頃の間に起きた可能性が高いようです。本論文は、完新世のユーラシア西部と世界の他の多くの地域で最も強く選択された単一の遺伝子形質の進化史をよりよく理解するには、今後の研究がこの段階に焦点を当てるべきである、と主張します。


参考文献:
Burger J. et al.(2020): Low Prevalence of Lactase Persistence in Bronze Age Europe Indicates Ongoing Strong Selection over the Last 3,000 Years. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.08.033

大河ドラマ『麒麟がくる』第23回「義輝、夏の終わりに」

 将軍の足利義輝に、織田信長を上洛させて義輝を支援させる、と約束した明智光秀(十兵衛)は、尾張に向かいます。しかし、信長は美濃の斎藤家相手に苦戦しており、とても上洛する余裕はありません。光秀に対応したのは木下藤吉郎(豊臣秀吉)で、光秀は藤吉郎から、義輝暗殺計画があり、その黒幕が松永久秀と聞かされます。光秀は直ちに大和に向かい、多門山城にいる久秀に真意を問い質します。久秀は光秀に、義輝を支持するために上洛する大名たちもいないように、義輝は将軍の器ではなく、世が治まらないので、殺しはないが追放するつもりだ、と答えます。しかし、久秀の息子の久通などは義輝を殺害しようと考えています。久秀は光秀に、息子たちの計画を止める力は自分にはないが、息子には義輝を討つなと言っている、と伝えます。細川藤孝もこの場に呼ばれており、もう次の将軍を探していることを打ち明けます。光秀は義輝と謁見しますが、自分を支持する大名もいないことから、義輝はすっかり無気力になっており、光秀に越前に帰るよう、促します。

 今回は、近臣からも見放されている義輝の孤独が描かれました。義輝殺害の背景も描かれているところは大河ドラマらしくなっており、よいと思います。ただ、今回は駒の話が長く、やや冗長なところもあったかな、とは思います。もっとも、駒と覚慶(足利義昭)とのつながりが今後の展開で重要な役割を担うかもしれず、現時点で否定的に評価するのは時期尚早かもしれませんが。松永久秀は義輝殺害の首謀者の一人と言われてきましたが、最近の研究では否定的なようです(関連記事)。こうしたところも最近の研究動向が踏まえられているようで、よく調べられているな、と感心します。

守屋純『独ソ開戦の真実 『ジューコフ回顧録』完全版が明かす』

 パンダ・パブリッシングより2017年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約から、1941年6月22日に始まった独ソ戦までのスターリンの思考・決断を、『ジューコフ回顧録』をしばしば引用しつつ検証します。独ソ不可侵条約のドイツ側というかヒトラーの意図は、ポーランドへの侵攻にさいしての背後の抑えでした。一方、スターリンの意図は、第一次世界大戦後に失われた旧ロシア領の回復だった、と本書は推測します。本書は独ソ不可侵条約に関して、スターリンとヒトラーの両独裁者は目先の利益に目が眩んだ、と評価します。

 ドイツは独ソ不可侵条約締結後すぐの1939年9月1日、ポーランドへの侵攻を開始します。当初、スターリンは様子見するつもりだったようです。下手にソ連もポーランドへ侵攻すると、イギリスとフランスを敵に回すことになりますし、ドイツとイギリス・フランスの戦いが長期化すれば、ソ連にとって有利な状況になる、との判断がありました。しかしスターリンは、予想以上にドイツ軍の進撃が順調だったため、ポーランドへの侵攻を決意し、ポーランドはドイツとソ連に分割占領されてしまいます。

 ポーランドは短期間でドイツとソ連に分割占領されますが、ドイツのポーランド侵攻に伴いドイツに宣戦布告したイギリスとフランスは、ドイツに対して直接的な軍事行動に出るわけではなく、「奇妙な戦争」が続きます。この状況でスターリンは、フィンランドへの侵攻を決断します。本書は、スターリンがフィンランド全土の併合を企図していた、と推測します。スターリンがフィンランドへの侵攻を決断したのは、ドイツとイギリス・フランスがいつ講和するか分からないので、邪魔が入らないだろう戦争状態のうちに領土を拡大しようと考えたためでした。

 ところが、対フィンランド戦でソ連はスターリンも含めて当時の指導層の予想外に苦戦し、スターリンは真剣に赤軍の再建に取り組む必要に追い込まれます。対フィンランド戦での検討会にはスターリンも出席し、軍人と議論することさえありました。戦訓検討会での論点は多岐にわたりますが、装備とともに赤軍の欠陥として明らかになったのは、参謀と諜報の軽視でした。これは、スターリン自身が参謀と諜報の役割をよく理解していなかったこともありますが、将校大粛清の影響も大きく、スターリンも大粛清の失敗を内心では認めていただろう、と本書は推測します。この後、粛清された将校が一部復帰しますが、スターリンが大きな期待を寄せたのは、陸軍大学を出たばかりの若い将校でした。また本書は、対フィンランド戦の後も、スターリンが軍事的能力を無視して自分への忠誠心の強い人物を重用したことも指摘します。

 1940年春から初夏にかけて、ドイツは西方戦線で多くの人の予想をはるかに上回っただろう戦果を挙げます。ドイツはオランダとベルギーばかりかフランスも屈服させましたが、この間、スターリンはルーマニアのベッサラビアとバルト三国の併合に動きます。ドイツが西方に注力している隙をついての行動で、スターリンの意図としては、これらの地域は独ソ不可侵条約付属秘密議定書で認められていたソ連の勢力圏なので、問題はありませんでした。しかし、東方を手薄にしていたヒトラーにとって、これはソ連の脅威を実感させるのに充分な行為だっただろう、と本書は推測します。

 ヒトラーは、イギリスが講和に応じないのはソ連が健在だからと考えて、ソ連との戦いを本格的に検討するよう命ずるとともに、部隊を東方へと移動させ、軍用道路など軍事施設の整備を急がせます。ヒトラーは、1941年11月のベルリンでのソ連外相モロトフとの会談後、最終的に対ソ連戦を決断したようです。ドイツ軍が西方に注力している間にソ連が東方で勢力を拡大したことへの不信感もヒトラーにはあったでしょうが、根底にはヒトラーだけではなくドイツ軍首脳部に共有されていた赤軍への過小評価があり、モロトフとの交渉を経て、ソ連に妥協するくらいならば軍事行動でソ連を圧倒すればよいし、それは容易だ、と考えたのでしょう。

 ドイツが1941年中の対ソ連戦を決断した、との情報が1940年末~1941年初頭にかけて、スターリンにも多数報告されていました。しかし、スターリンは、情報機関からの報告もあり、これがソ連を対ドイツ戦に引き込もうとするイギリスの謀略との見解に傾いていました。これは一つには、対フィンランド戦で露呈した赤軍の弱点がまだ克服されておらず、1941年1月の兵棋演習の結果でも示されたように、戦備が整っていないので対ドイツ戦を先延ばしにしたい、とのスターリンの希望的観測もあったでしょう。また本書は、戦間期にはソ連とドイツの国境は接しておらず、とくに独ソ不可侵条約締結以前には、スターリンには確たる対ドイツ戦略がなかったのではないか、と指摘します。スターリンの側に、対ドイツ戦略をじっくり検討する時間が足りなかった、と言えるかもしれません。

 また本書の指摘で重要になるのは、猜疑心の強いスターリンが複数の情報網を構築して自分一人に直結させたことです。スターリンは軍部にも重要な情報を提供しないことがありました。スターリンは一人では的確に処理できないだけの膨大な情報を抱えてしまった、というわけです。また、ドイツの対ソ連戦決断を伝えた多くの情報でも、ドイツが対ソ連戦と対イギリス戦のどちらを優先するのか、不明としたものは少なくありませんでした。じっさい、アフリカ北部と地中海東部でのドイツ軍の行動からは、ドイツが対イギリス戦を優先している、とも解釈できました。

 これらの事情もありますが、スターリンがドイツの1941年中の対ソ連戦決断に確信を持てなかった大きな理由として、東方への多数の部隊の移動や軍事施設整備などドイツ軍の行動があまりにも露骨で、ドイツからの情報が安易に漏れてきたことを、本書は指摘します。スターリンはこれを「深読み」し、ドイツがソ連から譲歩を得るために軍事的圧力をかけていると解釈したのではないか、と本書は推測します。じっさいは、戦後に明らかになりましたが、ドイツの対ソ連戦の機密保持がお粗末なだけで、スターリンにもたらされた情報はおおむね正確でした。また、スターリンはドイツが資源(食糧・石炭・石油など)を重視していると判断し(この判断自体は間違いではありませんでしたが)、ドイツ軍は南方に重点的に部隊を配備するだろう、と予測しました。しかし、じっさいにはドイツ軍の部隊配備は北方重視でした。実は、赤軍参謀本部の当初案はドイツ軍の作戦計画をかなり正確に予測できていましたが、スターリンの判断により修正させられました。

 結局のところスターリンは、ドイツが対ソ連戦を決断し、ドイツ軍部隊がソ連との国境線に集結しつつあるとの情報を多数得ても開戦直前まで、ドイツ軍の侵攻を遅らせられるか回避できると考え、ドイツ軍の挑発に応じないよう、厳命しました。これが、緒戦での赤軍の大損害の要因となりました。また上述のように、赤軍はスターリンの判断により、当初案を変更して南方重視の部隊配置としましたが、ドイツ軍は赤軍参謀本部の当初の予想通り北方重視の配置だったので、これも緒戦での赤軍の被害を拡大させました。

 本書はスターリンが開戦直前までこうした判断を変えなかった理由として、上述のドイツ軍のあからさまな行動を「深読み」したことなどの他に、1941年5月にヒトラーからスターリンに宛てられた秘密書簡を挙げています。この秘密書簡を疑う見解も根強いようですが、本書は実在説寄りです。この秘密書簡でヒトラーはスターリンに、ソ連侵攻の意図はないことと、軍上層部にはイギリスとの和平と対ソ連戦を考えている者がいる、と伝えました。そこでスターリンは、ドイツ軍を挑発して開戦の口実を与えないよう、厳命した、というわけです。

 開戦直後のスターリンはさすがに茫然自失だったようですが、数時間後には立ち直ったようです。しかし、スターリンは直ちにドイツとの厳しい長期戦を覚悟したのではなく、駐ソ連ブルガリア大使を通じて、ドイツとの講和を模索していたようです。スターリンは広大な領土の割譲を考えており、これは降伏に近いものでした。第一次世界大戦の時の、ボルシェビキ政権とドイツとの講和(ブレスト=リトフスク条約)が、スターリンの念頭にはあったようです。それでも、1941年6月末までには、スターリンはドイツと戦い続ける決断をしたようです。ただ、その後もスターリンは、ソ連が圧倒的な優位を確立するまでは、ドイツとの講和も念頭に置いていたようです。

 本書からは、スターリンが独ソ戦の開始までに錯誤を重ねた、と了解されます。もちろん、どれほど優秀な人物であろうとも時として判断の過ちは避けられませんが、スターリンの根本的な問題は、独裁体制を構築し、その維持のため情報収集を独裁者たる自分に一元化しようとしたことにあるように思います。いかに優秀な人物でも、近代国家において単独で的確に判断可能な量を上回る情報が、スターリンに集中することになりました。さらに、独裁体制下でスターリンへの忖度が当然のように行なわれていたことも、スターリンの判断を誤らせたように思います。当時よりもさらに複雑となった現代世界において、もうスターリンのような独裁者はよほどの小国でなければ難しそうですが、あるいは人工知能の発展は、そうした独裁者の存在を可能とするのでしょうか。

 スターリンは、多大な犠牲を強いてソ連の工業化と集権化・一元化を進め、それが独ソ戦での勝利を可能としました。その意味で、スターリンの功績は大きいとも言えますが、そのための犠牲はあまりにも大きく、さらに自身の判断の誤りにより、独ソ戦では多大な損害を出してしまいました。しかも、開戦当初にドイツ軍に圧倒された(これも、上述のように、ドイツ軍の重点を読み間違え、ドイツ軍の「挑発」に乗るな、と厳命したスターリンの責任が大きいわけですが)西部方面軍司令官パブロフを処刑して、敗戦責任を取らせました。

 その後のソ連の政権は、独ソ戦での被害を引きずり、けっきょくはそれを充分には克服できず、崩壊の遠因になった、とも言えそうです。本書は、ソ連が史実以上の防御体制でドイツ軍を迎撃できる可能性は低くなかった、と指摘します。ただそれでも、実戦経験の差からも、緒戦では赤軍がドイツ軍に圧倒されただろう、と本書は推測します。しかし、史実以上に赤軍がドイツ軍に抵抗できた可能性は高く、独ソ戦が史実とは違った展開をたどった可能性も本書は指摘します。本書は独ソ不可侵条約から独ソ戦までのスターリンの思考・決断を丁寧に検証しており、たいへん興味深く読み進められました。

氷河期と間氷期初期に起きた大気中の二酸化炭素の急増

 氷河期と間氷期初期に起きた大気中の二酸化炭素の急増に関する研究(Nehrbass-Ahles et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究は、EPICA(ヨーロッパ南極氷床コア計画)のドームC南極氷床コアから得た大気中二酸化炭素濃度の新しい記録を用いて、これらの急激な二酸化炭素放出は地球の気候‐炭素結合システムでは一般的な現象で、大西洋南北熱塩循環(AMOC)の強さの変動におそらく関係している、と示しました。

 この結果は、地球温暖化により大西洋の循環に同じような影響が及べば、今後も同じように大気中二酸化炭素が急増する可能性を示唆しています。寒冷な最終氷期に百年単位で二酸化炭素が大気中に勢いよく放出されたことは、明らかになっています。こうした二酸化炭素急増は、これまでの間氷期の温暖な気候条件では起こらなかった、と考えられていますが、それを調査するのに必要な大気中の二酸化炭素変動についての千年未満単位の記録は、過去約6万年分しか存在せず、最終氷期以前には及びません。

 この研究は、古代の南極氷床に閉じ込められていた45万~33万年前頃の高解像度二酸化炭素記録を提示し、寒冷な気候の時期も温暖な気候の時期も顕著な二酸化炭素放出があったことを明らかにした。この研究は、こうした放出事象は自然な炭素循環の一般的特徴であるものの、時間分解能と精密度が不充分な二酸化炭素記録では検知されなかった可能性がある、と指摘しています。さらに、このパルス的放出事象が、氷床融解によるAMOCの崩壊に関係していることも指摘されています。人為的な気候変動による同様の氷床融解がAMOC崩壊を引き起こせば、今後も大気中二酸化炭素は急増する可能性がある、とこの研究は指摘します。こうした二酸化炭素の急増は、人類の活動にも大きな影響を及ぼしたと考えられるので、人類進化史の観点からも注目されます。


参考文献:
Nehrbass-Ahles C. et al.(2020): Abrupt CO2 release to the atmosphere under glacial and early interglacial climate conditions. Science, 369, 6506, 1000–1005.
https://doi.org/10.1126/science.aay8178

『卑弥呼』第46話「現在と未来」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年9月20日号掲載分の感想です。前回は、イサオ王を毒殺した鞠智彦(ククチヒコ)が、イサオ王の遺体を前に、自分が新たな暈(クマ)の王である、と言い放つところで終了しました。今回は、山社(ヤマト)の楼観で日見子(ヒミコ)たるヤノハが側近たちに、九州の諸国へ和議と同盟締結のための使者となるよう、指示する場面から始まります。その文面は木簡に書かれていますが、弥生時代の木簡はまだ出土しておらず、現時点で最古の木簡は7世紀のものだと思います。イクメは末盧(マツロ)、ミマアキは伊都(イト)、ヌカデは那(ナ)、クラトは穂波(ホミ)、テヅチ将軍は都萬(トマ)に使者として派遣されることになります。何か言いたそうだな、とヤノハに問われたミマアキは、和議は暈(クマ)への脅威を回避できる現在の安心ではあるものの、同盟を結ぶにはこれだけでは不充分だと指摘します。ではどうすればよいのか、とヤノハに問われたミマアキは、5ヶ国それぞれに未来を送るべきだ、と答えます。未来とは何か、ヤノハに問われたミマアキは、5ヶ国それぞれに恩恵や利益をもたらすという夢だ、と答えます。するとヤノハは、やはりミマアキは昼の王になるべき男だ、と感心したように言います。

 末盧では、イクメがミルカシ女王と面会していました。ミルカシ王は、海岸から見える島がイカツ王の伊岐(イキ、現在の壱岐でしょう)の国で、その先にはアビル王の津島(ツシマ、現在の対馬でしょう)の国がある、とイクメに説明します。そこから大海を渡れば韓(カラ、朝鮮半島)ですね、と言うイクメに対して、末盧は草むした小国ではあるものの、倭の中では漢に最も近く、小国故に山社との和議を喜んで受ける、と笑顔で言います。するとイクメは、日見子(ヤノハ)からの提案をミルカシ王に伝えます。それは、韓より来る船団すべては今後、末盧に一旦停泊するよう配慮する、というものでした。なぜ伊都や那ではなく小国の末盧にそんな利益があるのか、驚くミルカシ王に、末盧にも未来が必要だ、とイクメは力説します。

 伊都では、ミマアキがイトデ王と面会していました。暈のイサオ王が没したという噂が流れているが、山社の女王(ヤノハ)はなかなかの強運の持ち主だな、とイトデ王はミマアキに語り掛けます。ミマアキが、伊都との和議が成立しなければ元も子もない、と言うと、暈の王が鞠智彦(ククチヒコ)となれば、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の戦乱はさらに激しさを増す、と考えたイトデ王は、山社との和議を決断します。するとミマアキは、韓からの船すべてが末盧に停泊することを認めていただきたい、とイトデ王に要請します。那との長い戦いの末にやっと手に入れた利権を手放すことにイトデ王は反発しますが、その代わりにイトデ王には一大率(イチダイソツ)に就いていただきたい、とミマアキは提案します。これは、倭の国々はもちろん、韓からの積み荷すべてを見聞する役目で、そのような大役を自国に任されることにイトデ王は驚きます。

 那では、トメ将軍と面識のあるヌカデが、トメ将軍とともにウツヒオ王と面会していました。ウツヒオ王は和議を快諾します。日見子(ヤノハ)殿のことだから、何か特別な話があるのではないか、とトメ将軍に問われたヌカデは、大陸からの全ての船を一旦末盧に停泊させることと、伊都のイトデ王を倭の一大率に任命することを認めてもらいたい、と要請します。では那国には何をくれるのか、とトメ将軍に問われたヌカデは、倭を代表して唯一遣漢使を送ることのできる国とする、と提案します。大陸に行って漢(後漢)の進んだ文明を一目見たい、と考えているトメ将軍が喜び、イトデ王に判断を伺うと、漢への使者派遣は那の昔からの夢だと言って快諾します。

 穂波では、クラトがヲカ王と面会していました。ヲカ王は、暈のイサオ王は病死したと伝えられているが、鞠智彦の謀反だろう、とクラトに伝えます。穂波と暈の和議は、元来イサオ王と自分との間に交わされた個人的なものなので、山社との和議を受け入れない理由はない、とクラトに言います。しかし、暈との絶縁は穂波にとって存亡の危機になる、とヲカ王は言います。これは交易利権のことで、那と交戦中の暈は韓との通商の未知を閉ざされているので、鉄(カネ)を含む韓からの品々は全て、穂波がまとめて購入し、それに利ざやを載せて暈に売っている、というわけです。そこでクラトは、ヤノハからの提案をヲカ王に伝えます。それは、暈に代わって韓より山社への品々も全て穂波を経由させる、というものでした。するとヲカ王は、不審に思います。韓の船は伊都か那か末盧に到着するので、山社へは暈の領土を避けつつ南下するのが最短経路ではないか、というわけです。するとクラトは、山社は倭国の聖地なので、遠方にあるべきだ、と説明します。つまり、韓よりの使者は末盧から伊都と那を通過し、穂波に向かわせ、そこから河を下って内海(ウチウミ、瀬戸内海でしょうか)に出て都萬へ向かう、というわけです。するとヲカ王は、見事な着想だ、と感心します。

 都萬では、テヅチ将軍がタケツヌ王と面会していました。韓からの通称施設の最後の停泊地を都萬とする、というヤノハからの提案に、なぜそれほど自分を評価するのか、とタケツヌ王は戸惑っていました。するとテヅチ将軍は、タケツヌ王が何より義を重んずる人と日見子(ヤノハ)様は考えているからだ、と説明します。タケツヌ王は山社からの申し出を受け入れます。テヅチ将軍から、日見子に好意的なウツヒオ王に反旗を翻して那より亡命したウラ殿が都萬にいると聞いている、と指摘されたタケツヌ王は、まさか客人を差し出せとは言わないだろうな、とテヅチ将軍に確認します。テヅチ将軍はそれを否定しつつも、ウラ殿が何も起こさないよう、注意してもらいたい、と要請し、タケツヌ王もしぶしぶ認めます。

 穂波でヲカ王との面会を終えたクラトは、穂波の重臣であるトモと船上で面会していました。日見子誅殺失敗の言い訳に来たのか、とトモに問われたクラトは否定し、たとえトモ様が古の五支族の頭だろうと、聞けないものは聞けないと伝えに来たのだ、と答えます。その理由を問われたクラトは、日見子(ヤノハ)様が日向(ヒムカ)を山社に併合したのはサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の血族とのことだからだ、と答えます。トモは、その話が本当だと思うのか、とクラトに問い質しますが、クラトは沈黙します。その様子を見て、クラトにも確証はないと判断したトモは、自分が旅より戻るのを待つよう、伝えます。トモは数日後、日下(ヒノモト)に向かい、サヌ王の末裔に指示を仰ぐつもりでした。するとクラトは、問題は日見子様ではない、とトモに言います。サヌ王が恐れたのは新しい日見子ではなく、政治を司る昼の王の出現なので、その逸材を今のうちに処理しておかねばならない、とクラトはトモに説明します。クラトが苦しげな表情を浮かべていることをトモは不審に思い、昼の王になるべき男は、自分の最愛の友(ミマアキ)なのだ、とクラトは説明します。自分の手で友を殺せない、と打ち明けるクラトは、明日ヲカ王からの献上品をいただいて帰路に着く、とトモに説明します。その荷を運ぶ奴婢の中に友を暗殺する凶手を紛れ込ませろということか、というトモからの問いかけをクラトが肯定するところで、今回は終了です。


 今回は、山社と九州の諸国との交渉が描かれました。『三国志』の記述を取り入れた、山社から各国への提案は上手く設定されているように思います。問題となるのは、まず、クラト以外の山社指導層が、ヤノハ暗殺計画の首謀者と考えているウラの存在です。ウラは那から亡命して現在都萬にいますが、ヤノハとしては、ウラを消したいところでしょう。しかし、タケツヌ王は義理堅い人物のようで、自分を頼って亡命してきたウラを見放したくない、と考えているようです。ウラはヤノハを日見子と認めることにもトメ将軍にも否定的ですから、那と山社が同盟を結び、トメ将軍が遣漢使を率いるような事態は何としても避けたいでしょうから、色々と画策するかもしれません。ウラが、山社と都萬の間の不穏要因になるかもしれません。

 次に問題となるのは、クラトがミマアキを殺そうとしていることです。クラトが恋仲のミマアキ殺害の決断をくだせるのか、注目していましたが、クラトはトモに殺害を依頼しました。これが血族と恋仲との間で苦悩したクラトの選択でしたが、『三国志』から、当分ミマアキは死なないと考えられるので、おそらくこのミマアキ殺害計画は失敗するのでしょう。そうすると、山社と穂波の関係がどうなるのかも気になりますが、クラトの運命も注目されます。あるいは、クラトの信念を変えるような説得が、ミマアキもしくはヤノハにより行なわれるのでしょうか。トモが日下に向かってサヌ王の末裔と面会して事態がどう動くのか、今回登場しなかったナツハは今後どのような役割を果たすのか、ということも気になりますから、今後の展開もたいへん楽しみです。

放射性炭素年代測定法の新たな較正曲線

 放射性炭素年代測定法の新たな較正曲線に関する研究(Bard et al., 2020)が公表されました。これに関しては日本語の解説記事もあります。放射性炭素年代測定法は過去55000年の年代測定で最も広く使用されています。しかし、大気中の炭素14含有量は一定ではないため、放射性炭素年代測定法による値を暦年代に較正しなければいけません。また、海洋は炭素を大量に吸収するため、海洋面積が広い南半球の方が北半球より大気中炭素14濃度が低く、海中の炭素はより長い時間をかけて循環するため、その炭素14年代は大気中のものより数百年古いなど、事態はさらに複雑です。

 そのため、放射性炭素年代測定法では、北半球用の「IntCal」、南半球用の「SHCal」、海洋用の「Marine」と領域ごとに異なる3つの較正曲線が用意されています。最近まで、そのための較正曲線としてIntCal13が用いられていましたが、今回、IntCal20、SHCal20、Marine20に改訂されました。この改訂により、較正の適用限界は55000年前まで延長されます。ほとんどの場合、再較正により変化する年代の幅はわずかですが、事象の年代を狭い時間枠内に特定しようとする考古学者や古生態学者にとっては、微小な調整も大きな違いとなり得るので、たいへん重要な改訂となります。

 本論文では、具体的な成果として、ヨーロッパを中心としてユーラシアの48000~40000年前頃の著名な人類遺跡の年代が提示されています。この期間は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)から現生人類(Homo sapiens)への置換が起きたことから、とくに注目されています。ヨーロッパで最古の現生人類遺骸はブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で4個発見されており、その較正年代は46790~42810年前とされました(関連記事)。本論文はこの4個のIntCal20による較正年代を報告しており、最古のものが45120(45430~44640)年前、最新のものが43110(43240~42700)年前と推定されています。

 一方、ヨーロッパのネアンデルタール人遺骸で最新の年代となるのは、フランスのサンセザール(Saint-Césaire)遺跡で発見された個体で、IntCal20では41160(41860~40690)年前と推定されています。その次に新しいネアンデルタール人遺骸はベルギーのスピ(Spy)洞窟で発見されており、IntCal20では41280(41750~40930)年前と推定されています。本論文は、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類との共存期間が、IntCal13では5000±860年、IntCal20では3960±710年であることを報告しており、IntCal20では両者の共存期間がより絞り込めています。ただ本論文は、両者の文化的および遺伝的交換の可能性を調べるには、両集団の隣接する遺跡が対象とされねばならない、とも指摘しています。

 その他の注目される個体では、4~6代前にネアンデルタール人がいると推定されている、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された現生人類遺骸(関連記事)が、IntCal20では39980(41180~39190)年前と推定されています。1世代20~30年とすると、サンセザール遺跡のネアンデルタール人より1000年ほど新しく、少なくともこの頃までヨーロッパにはネアンデルタール人が存在したのかもしれません。もっとも、骨の洞窟の現生人類の祖先がヨーロッパでネアンデルタール人と交雑したとは限らないので、他地域かもしれませんが。

 シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された人類遺骸は、現時点ではシベリアで最古の現生人類となり、またDNAが解析された現生人類としても最古となります(関連記事)。ウスチイシム個体は、IntCal20では44380(44970~43340)年前と推定されています。アジア東部でDNAが解析された最古の現生人類個体は北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見されましたが(関連記事)、IntCal20では39560(40330~39130)年前と推定されています。IntCal20により、ネアンデルタール人の絶滅と現生人類のユーラシアにおける拡散に関して、さらに精緻な検証が可能になるでしょうから、今後の研究が大いに期待されます。


参考文献:
Bard E. et al.(2020): Extended dilation of the radiocarbon time scale between 40,000 and 48,000 y BP and the overlap between Neanderthals and Homo sapiens. PNAS, 117, 35, 21005–21007.
https://doi.org/10.1073/pnas.2012307117

古代エジプトの動物のミイラ

 古代エジプトの動物のミイラに関する研究(Johnston et al., 2020)が公表されました。この研究は、非侵襲的なX線マイクロコンピューター断層撮影(CT)法を用いて、ネコのミイラの頭蓋骨が、外側を覆う包みのほぼ半分のサイズであることを明らかにしました。その形態からこのミイラは、エジプトのイエネコの一種である可能性が高い、と示唆されました。また、歯と骨格の画像の解析からは、このネコが生後5ヶ月未満で、死亡時あるいはミイラ製作過程で頭部を直立位置に保つために、首の骨を意図的に折られた可能性がある、と示されました。

 猛禽類のミイラについては、3次元スキャンを用いた測定結果から、チョウゲンボウ(Falco tinnunculus)とひじょうによく似ており、頸部の損傷が死因とは考えにくい、と示唆されました。固くとぐろを巻いたヘビのミイラについては、画像解析から、コブラの幼体で、死因は脊椎骨折った可能性がある、と示唆されました。これは、尾をつかんで鞭のよう打ちつける方法が、当時ヘビを殺すために一般的に用いられていたことと符合します。高分解能の画像化技術により、このヘビのミイラの口内で見つかった構造体が硬化樹脂であることと、その声門開口部における正確な位置が判明しました。これは、「口開けの儀式」に似た複雑な儀式的行動があったことの証拠となるかもしれません。

 研究用の高度な3次元X線画像撮影法により、標本を損傷することなくミイラの保存状態・複雑な製作過程・死因を明らかにすることも可能となります。このように動物のミイラの製作に関する理解が深まれば、今後の保存作業にとって貴重な情報が得られ、古代エジプトに限らず、過去の人間と動物の関係をさらに解明できるかもしれません。今後の研究の進展が期待される分野です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:X線画像で明らかになった古代の動物のミイラに関する新事実

 高度な3次元X線画像撮影法を使って、古代エジプトの3種類の動物(ネコ、鳥、ヘビ)のミイラを分析した結果を記述した論文が、Scientific Reports に掲載される。この手法を用いれば、標本を損傷することなく、これらの動物のミイラの保存状態、複雑なミイラ製作過程、考え得る死因を明らかにするための手掛かりが得られる。

 今回、Richard Johnstonたちの研究チームは、非侵襲的なX線マイクロコンピューター断層撮影(CT)法を用いて、ネコのミイラの頭蓋骨が、外側を覆う包みのほぼ半分のサイズであることを明らかにした。その形態から、このミイラは、エジプトのイエネコの一種である可能性の高いことが示唆された。また、歯と骨格の画像の解析からは、このネコが生後5か月未満であり、死亡時あるいはミイラ製作過程で頭部を直立位置に保つために、首の骨を意図的に折られた可能性のあることが示された。

 猛禽類のミイラについては、3次元スキャンを用いた測定結果から、チョウゲンボウ(Falco tinnunculus)に非常によく似ており、頸部の損傷が死因とは考えにくいことが示唆された。固くとぐろを巻いたヘビのミイラについては、画像解析から、コブラの幼体であり、脊椎骨折が死因だった可能性があることが示唆された。これは、尾をつかんでむちのよう打ちつける方法が、当時ヘビを殺すために一般的に用いられていたことと符合する。今回、Johnstonたちが高分解能の画像化技術を用いたことで、このヘビのミイラの口内で見つかった構造体が硬化樹脂であることと、その声門開口部における正確な位置が判明した。このことは、「口開けの儀式」に似た複雑な儀式的行動があったことの証拠となる可能性がある。

 研究用の画像化技術によって動物のミイラの製作に関する理解が深まれば、今後の保存作業にとって貴重な情報が得られ、過去の人間と動物の関係をさらに解明できるかもしれない。



参考文献:
Johnston R. et al.(2020): Evidence of diet, deification, and death within ancient Egyptian mummified animals. Scientific Reports, 10, 14113.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-69726-0

古人類学の記事のまとめ(41)2020年5月~2020年8月

 2020年5月~2020年8月のこのブログの古人類学関連の記事を以下に整理しておきます。なお、過去のまとめについては、2020年5月~2020年8月の古人類学関連の記事の後に一括して記載します。私以外の人には役立たないまとめでしょうが、当ブログは不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆しているとはいえ、基本的には備忘録的なものですので、今後もこのような自分だけのための記事が増えていくと思います。


●ホモ属登場以前の人類関連の記事

チンパンジーの他者行動理解
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_29.html

アルディピテクス・ラミダスの居住環境
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_28.html

オロリン・トゥゲネンシスの二足歩行
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_39.html

同位体分析から推測される初期人類の食性
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_2.html

ホモ・ナレディの下顎小臼歯の分析と比較
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_31.html


●フロレシエンシス・ネアンデルタール人・デニソワ人・現生人類以外のホモ属関連の記事

アシューリアンの拡散におけるトルコの重要性
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_7.html

ジャワ島のホモ・エレクトスに関するまとめ(3)
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_16.html

人類史における投擲能力
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_30.html


●ネアンデルタール人関連の記事

チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人の高品質なゲノム配列
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_8.html

古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_9.html

現代人におけるネアンデルタール人由来のプロゲステロン受容体関連遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_44.html

ミトコンドリアから予測される哺乳類における雑種の繁殖力
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_8.html

ネアンデルタール人と現生人類との複数回の交雑
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_21.html

ネアンデルタール人と現生人類における儀式の進化的起源
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_15.html

現代人の痛覚感受性を高めるネアンデルタール人由来の遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_31.html

ネアンデルタール人の絶滅における気候変化の役割
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_33.html

ネアンデルタール人から非アフリカ系現代人へと再導入された遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_6.html

古代の人類間の遺伝子流動
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_14.html


●デニソワ人関連の記事

アジア東部の早期現生人類におけるデニソワ人の遺伝的痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_13.html


●フロレシエンシス関連の記事

ホモ・フロレシエンシスについてのまとめ
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_22.html


●現生人類の起源や象徴的思考に関する記事

アフリカ南部の中期石器時代における石材の加熱処理
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_7.html

オーストラリアにおける6万年以上前の植物性食料の利用
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_15.html

多様な地域の現代人の高品質なゲノム配列から推測される人口史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_18.html

ヨーロッパの最初期現生人類
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_20.html

後期更新世のアフリカ東部の人類の足跡
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_24.html

中川和哉「朝鮮半島南部におけるMIS3の石器群」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_36.html

加藤真二「いくつかの事例からみる中国北部における後期旧石器の開始について」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_37.html

注意欠陥・多動性障害への選択圧
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_46.html

髙倉純「北アジアの後期旧石器時代初期・前期における玉やその他の身体装飾にかかわる物質資料」
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_4.html

アフリカ外最古となるスリランカの弓矢
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_23.html

最終氷期における地球規模の急激な気候変動現象の同時発生
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_28.html


●日本列島やユーラシア東部に関する記事

中国河南省の新石器時代遺跡におけるコイの養殖
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_10.html

中国南北沿岸部の新石器時代個体群のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_26.html

チベット高原の古代人のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_27.html

バイカル湖地域における上部旧石器時代から青銅器時代の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_38.html

新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_3.html

現代人および古代人のゲノムデータから推測される朝鮮人の起源
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_19.html

アジア東部現生人類集団の古代DNA研究の進展
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html

インドネシアにおける最初の稲作
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_10.html

複数集団の混合により形成された現代チベット人
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_21.html

インダス文化に関するまとめ
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_22.html

韓国人のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_29.html

虎ノ門ニュースでの有本香氏と小野寺まさる氏のアイヌに関するやり取り
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_30.html

中国のモソ人に関する本の紹介記事
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_11.html

人類史における集団と民族形成
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_20.html

古代DNAに基づくユーラシア東部の人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_32.html

中国陝西省の石峁遺跡の発掘成果
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_33.html

愛知県の縄文時代の人骨のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_34.html


●アメリカ大陸における人類の移住・拡散に関する記事

メキシコの初期植民地時代の奴隷の起源と生活史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_6.html

アンデスの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_17.html

前期完新世アマゾン地域における作物栽培
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_22.html

カリブ海諸島への人類の拡散
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_12.html

ペルー人の低身長の遺伝的要因
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_17.html

ベーリンジアにおけるマンモスの絶滅
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_22.html

マヤ文化最古の儀式用建造物
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_33.html

先コロンブス期のポリネシア人とアメリカ大陸住民との接触
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_13.html

アメリカ大陸最古の人類の痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_34.html

ペルー南部沿岸地域におけるインカ帝国期の移住
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_12.html

南パタゴニアの人類の古代ゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_15.html


●ネアンデルタール人滅亡後のユーラシア西部に関する記事

ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_35.html

フランスとドイツの中石器時代と新石器時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_1.html

中石器時代から鉄器時代のフランスの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_2.html

鉄器時代から現代のレバノンの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_18.html

ゴットランド島の円洞尖底陶文化と戦斧文化の関係
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_20.html

麻疹の起源
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_25.html

ゲノムおよび同位体分析から推測されるアイルランド新石器時代の社会構造
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_26.html

コーカサス北部のコバン文化の母系と父系
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_36.html

鉄器時代と現代のウンブリア地域の人類集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_9.html

ヨーロッパ新石器時代における農耕拡大の速度と気候の関係
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_14.html

ヴァイキング時代のヨーロッパ北部で拡散していた天然痘
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_32.html

古代DNAに基づくユーラシア西部の現生人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html


●進化心理学に関する記事

不公平な行為への反応
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_12.html

人間のネットワークの同調性
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_17.html

恋愛に関連しているかもしれない遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_37.html


●その他の記事

ブチハイエナ属とホモ属の進化史の類似性
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_3.html

末期更新世のユーラシア氷床の崩壊による急速な海水準上昇
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_19.html

痛みの民族間差
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_33.html

ヒトゲノム多様体のカタログ
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_42.html

アフリカにおける完新世人類集団の複雑な移動と相互作用
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_23.html

ライオンの進化史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_29.html

さまざまな疾患の性差のある脆弱性と関わる補体遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_31.html

狩猟採集技能の文化および個体間の多様性
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_34.html

現代のそりイヌの祖先
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_35.html

ヒトゲノムにおける構造多様性のマッピングと特性解析
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_3.html

イギリスにおける血液型への関心
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_17.html

ホラアナライオンのmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_3.html

クローン造血の構造パターンと選択圧
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_9.html

実父から子への性虐待が多い理由
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_13.html

『科学の人種主義とたたかう』の紹介記事
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_16.html

分断・孤立と交雑・融合の人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_23.html

形態に基づく分類の困難
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_24.html

陶器製調理鍋に残る食習慣の痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_38.html

古代DNAに基づくアフリカの人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_41.html



過去のまとめ一覧

古人類学の記事のまとめ(0)
https://sicambre.at.webry.info/200709/article_29.html

古人類学の記事のまとめ(1)
https://sicambre.at.webry.info/200707/article_29.html

古人類学の記事のまとめ(2)
https://sicambre.at.webry.info/200712/article_31.html

古人類学の記事のまとめ(3)
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(4)
https://sicambre.at.webry.info/200807/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(5)
https://sicambre.at.webry.info/200811/article_3.html

古人類学の記事のまとめ(6)
https://sicambre.at.webry.info/200812/article_26.html

古人類学の記事のまとめ(7)
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古人類学の記事のまとめ(8)
https://sicambre.at.webry.info/200909/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(9)
https://sicambre.at.webry.info/200912/article_26.html

古人類学の記事のまとめ(10)
https://sicambre.at.webry.info/201005/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(11)
https://sicambre.at.webry.info/201009/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(12)
https://sicambre.at.webry.info/201012/article_28.html

古人類学の記事のまとめ(13)
https://sicambre.at.webry.info/201105/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(14)
https://sicambre.at.webry.info/201109/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(15)
https://sicambre.at.webry.info/201112/article_28.html

古人類学の記事のまとめ(16)
https://sicambre.at.webry.info/201205/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(17)
https://sicambre.at.webry.info/201209/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(18)
https://sicambre.at.webry.info/201301/article_3.html

古人類学の記事のまとめ(19)
https://sicambre.at.webry.info/201305/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(20)
https://sicambre.at.webry.info/201309/article_5.html

古人類学の記事のまとめ(21)
https://sicambre.at.webry.info/201401/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(22)
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(23)
https://sicambre.at.webry.info/201409/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(24)
https://sicambre.at.webry.info/201501/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(25)
https://sicambre.at.webry.info/201505/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(26)
https://sicambre.at.webry.info/201509/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(27)
https://sicambre.at.webry.info/201601/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(28)
https://sicambre.at.webry.info/201605/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(29)
https://sicambre.at.webry.info/201609/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(30)
https://sicambre.at.webry.info/201701/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(31)
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(32)
https://sicambre.at.webry.info/201709/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(33)
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(34)
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(35)
https://sicambre.at.webry.info/201809/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(36)
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(37)
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(38)
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(39)
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(40)
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_1.html