古代ゲノムデータに基づくユーラシア東部草原地帯の6000年の人口史

 古代ゲノムデータに基づく、モンゴルを中心とするユーラシア東部草原地帯の長期にわたる人口史に関する研究(Jeong., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。最近の古代ゲノム研究により、ヨーロッパや近東やコーカサスにおける青銅器時代の変化と一致する大陸規模の移住を伴う、ユーラシア草原地帯の動的な人口史が明らかにされてきました(関連記事)。しかし、ユーラシア西部草原地帯の遺伝的歴史の理解は進みましたが、草原と森林草原と砂漠草原で構成される2500km以上に及ぶユーラシア東部草原地帯の人口動態はよく理解されていません。現代の中国とロシアの一部地域も含みますが、ユーラシア東部草原地帯のほとんどは現在のモンゴルに位置します。最近の古代ゲノム研究では、ユーラシア東部森林草原地帯は青銅器時代の前と前期青銅器時代に遺伝的に構造化されており、カザフスタン中央部のボタイ(Botai)からシベリア南部のバイカル湖地域やロシア極東の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)まで、系統の強い東西の混合勾配を有します(関連記事)。

 青銅器時代における牧畜の複数段階の導入は、ユーラシア東部草原地帯における生活様式と生計を劇的に変えました。最近の大規模な古代プロテオーム(タンパク質の総体)研究では、紀元前3000年頃のアファナシェヴォ(Afanasievo)文化と紀元前2750~紀元前1900年頃のチェムルチェク(Chemurchek)文化に属する個体群による、紀元前2500年よりも前のモンゴルにおける乳消費が確認されています。エニセイ川上流のアファナシェヴォ文化集団は遺伝的に、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ文化と関連していますが、チェムルチェク文化集団の起源に関しては議論が続いています。

 反芻動物の酪農は導入されると、紀元前1900~紀元前900年頃となる中期~後期青銅器時代(MLBA)までに拡大し、鹿石キリグスール複合(Deer Stone-Khirigsuur Complex、DSKC)と関連する遺跡の西部と北部、およびウランズーク(Ulaanzuukh)文化と関連する東部で行なわれていました。DSKCとウランズーク文化との間の関係はよく理解されておらず、ムンクハイルハン(Mönkhkhairkhan)文化やバイタグ(Baitag)文化のようなモンゴルにおける他のMLBA埋葬伝統についてはほとんど知られていません。

 紀元前千年紀半ばまでに、以前のMLBA文化は衰退し、前期鉄器時代文化が出現しました。それは、DSKCの記念碑から物質を根こそぎ持ち込んだ、紀元前1000~紀元前300年頃となるモンゴル東部および南部の石板墓(Slab Grave)文化や、モンゴル北西部の紀元前500~紀元前200年頃となるサヤン(Sayan)山脈のサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化です。サグリ・ウユク文化はサグリ・バジー(Sagly-Bazhy)文化もしくはチャンドマン(Chandman)文化としても知られており、アルタイ地域やカザフスタン東部の紀元前500~紀元前200年頃となるパジリク(Pazyryk)文化や紀元前900~紀元前200年頃となるサカ(Saka)文化と強い文化的つながりを有します。

 紀元前千年紀後半以降、紀元前209~紀元後98年の匈奴、紀元後552~742年のテュルク(突厥)、紀元後744~840年のウイグル、紀元後916~1125年のキタイ(契丹)帝国など、一連の階層的で中央に組織化された帝国がユーラシア東部草原地帯に勃興します。匈奴帝国は草原地帯で最初のそうした政体で、現在の中国北部とシベリア南部とアジア中央部深くに劇的に拡大し、ユーラシアの人口と地政学に大きな影響を与えました。紀元後13世紀に出現したモンゴル帝国は、これらの政権の最後で最も広大なものであり、最終的には中国から地中海にいたる広範な領土と交易路を支配しました。しかし、大規模な遺伝的研究が不足しているため、支配者のエリート地元の庶民の両方を含むこれらの国家を形成する人々の起源と関係は、曖昧なままです。

 先史時代以来のユーラシア東部草原地帯の人口動態を明らかにするため、約6000年(紀元前4600~紀元後1400年頃)に及ぶモンゴルの85ヶ所の遺跡とロシアの3ヶ所の遺跡の、214個体のゲノム規模データセットが生成され、分析されました。これに、モンゴル北部の青銅器時代19個体と、ロシアおよびカザフスタンの近隣古代集団のデータセットが追加され、世界中の現代人集団とともに分析されます。また、以前に刊行された放射性炭素年代74点を補足する、30点の新たな放射性炭素年代値が生成され、合計98人の直接的な年代が提示されます。以下、本論文で取り上げられた遺跡の場所と年代を示した本論文の図1です。
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●青銅器時代よりも前の牧畜民の集団構造と到来

 紀元前五千年紀~紀元前四千年紀にかけての、青銅器時代よりも前の6個体が分析されました。その内訳は、1個体がモンゴル東部(SOU001、モンゴル東部preBA、紀元前4686~紀元前4495年頃)、1個体がモンゴル中央部(ERM003、モンゴル中央部preBA、紀元前3781~紀元前3639年頃)、4個体がバイカル湖地域東部(Fofonovo_EN)です。この6個体が既知のユーラシア全域の古代人および現代人のゲノムデータと比較され(図2)、同年代となる、紀元前5200~紀元前4200年頃のバイカル湖西部地域(Baikal_EN)や、紀元前5700年頃となるロシア極東の悪魔の門遺跡(DevilsCave_N)の狩猟採集民と最も類似している(図3A)、と明らかになり、この遺伝的構成の分布の地理的間隙を埋めます。

 本論文はこの遺伝的特性を「古代アジア北東部人(ANA)」と呼びます。ANEは、「古代ユーラシア北部人(ANE)」として知られる他の広範に拡大した中期完新世の遺伝的構成の地理的分布を反映しています。ANEは、更新世シベリア南部中央の、24500~24100年前頃となるマリタ(Mal'ta)遺跡の少年(MA-1)や、16900~16500年前頃となるアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の狩猟採集民や、紀元前3500~紀元前3300年前頃となるカザフスタンのボタイ(Botai)文化のウマ牧畜民で見られます。

 主成分分析(図2)では、ANA個体群はアジア北東部の現代ツングース語族およびニヴフ語話者集団のクラスタに近く、その遺伝的構成が現代でも極東の在来集団に存在している、と示唆されます。モンゴル東部preBAは、遺伝的にANA集団の悪魔の門N(DevilsCave_N)と区別できませんが(図3Aおよび図4A)、Fofonovo_ENおよびわずかに後のモンゴル中央部preBA(青銅器時代よりも前)はともに、ボタイ文化集団のようなANE関連集団の系統をわずかに有しており(12~17%)、残りの系統(83~87%)はANAにより特徴づけられます(図3Aおよび図4A)。バイカル湖西部地域早期新石器時代のキトイ(Kitoi)文化(Baikal_EN)と早期青銅器時代のグラズコボ(Glazkovo)文化(Baikal_EBA)の既知のデータの再分析により、これらの個体群が類似の系統構成と経時的なANE系統のわずかな増加(6.4%から20.1%)を示す、と明らかになりました。以下、主成分分析結果を示した本論文の図2です。
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 モンゴルの牧畜に関しては、アファナシェヴォ文化のようなユーラシア西部草原地帯文化の東方への拡大により、エニセイ川上流やサヤン山脈地域経由でモンゴル北西部へ、もしくはアルタイ山脈経由でモンゴル西部へともたらされた、との推測が多くなっています。既知のアファナシェヴォ文化埋葬の大半はアルタイ山脈とエニセイ川上流地域にありますが、モンゴル中央部のハンガイ山脈南部の前期青銅器時代(EBA)となるシャタールチュルー(Shatar Chuluu)墳墓遺跡では、アファナシェヴォ様式の墳墓が、乳消費のプロテオーム分析の証拠や、ユーラシア西部系統のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とともに見つかっています。これらアファナシェヴォ文化の影響を受けたモンゴルの紀元前3112~紀元前2917年前頃となる個体群のうち2個体の分析により、その遺伝的特性は既知のエニセイ川地域に位置するアファナシェヴォ文化個体群と区別できない(図2)、と明らかになりました。したがって、これらアファナシェヴォ文化の2個体から、ユーラシア西部草原地帯牧畜民(WSH)のEBA拡大は、アルタイ山脈を越えてモンゴル中央部中心部へとさらに1500km以上東方へと拡大した、と確証されます。

 アファナシェヴォ文化の次となる、紀元前2750~紀元前1900年頃のEBAのチェムルチェク文化は反芻動物の酪農社会で、その埋葬の特徴は石板と擬人化された石碑を含むことですが、WSH移民との関連も推測されてきました。チェムルチェク文化の墓は、アルタイ山脈と現在の中国新疆ウイグル自治区のジュンガル盆地で見られます。チェムルチェク文化の、アルタイ山脈南部のヤグシインフゥドゥー(Yagshiin Huduu)遺跡の2個体と、ゴビ砂漠のアルタイ地域北部遺跡の2個体が分析されました。モンゴルのアファナシェヴォ文化個体群と比較して、ヤグシインフゥドゥー遺跡個体群もユーラシア西部系統の高い割合を示しますが、主成分分析(図2)では移動しており、アフォントヴァゴラ文化個体(AG3)やシベリア西部新石器時代個体群やボタイ文化個体群のような、ANE関連系統古代人との強い遺伝的類似性を有しています(図3A)。ヤグシインフゥドゥー遺跡のチェムルチェク文化個体群(チェムルチェク南アルタイ)は、同年代のカザフスタン東部のダリ(Dali)遺跡個体群と遺伝的に類似しています。

 ヤグシインフゥドゥー遺跡とダリ遺跡EBA個体群の遺伝的特性は、ボタイ文化個体群系統(60~78%)と、バクトリア・ マルギアナ複合(BMAC)文化の重要なEBA遺跡であるゴヌルテペ(Gonur Tepe)の個体のような、古代イラン関連系統(22~40%)との2方向混合モデルによく適合します。アファナシェヴォ文化関連集団からのわずかな遺伝的寄与を排除できませんが、イラン関連系統は全モデルで適合し、DATESを用いてモデル化すると、この混合は分析対象となった個体群の12±6世代前(336±168年前)に起きた、と推測されます。しかし、このモデル化で用いられた全ての代理起源集団は年代もしくは地理的にEBAアルタイ地域とはかなり離れているので、チェムルチェク文化個体群に寄与する近い集団を正確には特定できません。アルタイ山脈北部では、チェムルチェク文化の2個体(チェムルチェク北アルタイ)はほぼANA関連系統(80%)で構成されており、残りはアルタイ山脈のチェムルチェク文化個体群のそれと類似しています(図3Aおよび図4A)。そこで本論文は、チェムルチェク文化個体群の地域間の遺伝的異質性を調べます。

 少数のゲノムに基づいていますが、アファナシェヴォ文化個体群もチェムルチェク文化個体群も、その後のMLBA個体群への永続的な遺伝的痕跡を残していない、と明らかになりました。これは、移住してきたEBA草原地帯牧畜民が在来集団に遺伝的変化とその持続的影響を有したヨーロッパとは著しく異なります。ユーラシア東部草原地帯におけるEBA牧畜民の一時的な遺伝的影響は、墳墓建築や酪農牧畜のようなEBA牧畜民により最初に導入された文化的特徴が現在まで継続していることを考えると、強く永続的な文化的および経済的影響とは対照的です。以下、系統構成の経時的変化を示した本論文の図3です。
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●青銅器時代における3系統の遺伝的構造の出現

 バイカル湖(関連記事)西部地域狩猟採集民(バイカルEBA)とフブスグル(Khövsgöl)の後期青銅器時代(LBA)モンゴル北部牧畜民(フブスグルLBA)との間の、共有された遺伝的構成が報告されました。この遺伝的特性は、主要なANA系統とわずかなANE系統で構成され、それ以前のバイカル湖東部地域集団(Fofonovo_EN)およびモンゴル集団(モンゴル中央部preBA)と共有されており、この遺伝的構成のほぼ3000年にわたる地域的持続性を示します。モンゴル北部を中心とするこの遺伝的特性は、他の青銅器時代集団とは異なります。全体として、LBA モンゴルでは3つの異なる地理的に構造化された遺伝子プールが見つかり、そのうちの1つを表すのがフブスグルLBA集団です。他の2者は、アルタイMLBA およびウランズーク石板墓と呼ばれます。

 紀元前1900~紀元前900年頃となるMLBAには、気候変動とともに草地が拡大するにつれて、新たな牧畜文化が山岳地帯からユーラシア東部草原地帯全域へと拡大しました。この時期は、現在ではほぼ馬乳酒生産のみと関連している、ウマの搾乳の最初の地域的証拠が確認されている点でも注目されます。また、乗馬を含むウマの利用の劇的な強化も注目され、これは草原地帯の遠隔地への移動性を大きく拡大したでしょう。アルタイ・サヤン地域では、鹿石キリグスール複合(DSKC)や他の未分類のMLBA埋葬様式(アルタイMLBA)と関連する酪農牧畜民(7個体)が、フブスグルLBA関連系統とシンタシュタ(Sintashta)文化関連ユーラシア西部草原地帯牧畜民(WSH)系統との混合の明確な遺伝的証拠を示します(図3B)。全体として、これらはユーラシア西部草原地帯集団とバイカルEBAおよびフブスグルLBAクラスタの間で主成分分析において「アルタイMLBA」勾配を形成し、ユーラシア西部系統の水準に応じてPC1軸上で変動します。

 これは、以前の研究では「草原地帯MLBA」と呼ばれることが多い、シンタシュタ的な系統のユーラシア東部草原地帯における最初の出現となります。シンタシュタ的な系統は、アファナシェヴォ文化やチェムルチェク文化個体群に存在した以前のユーラシア西部系統とは異なり、代わりにヨーロッパの縄目文土器(Corded Ware)文化集団や後のアンドロノヴォ(Andronovo)文化関連集団との密接な類似性を示します。モンゴルのホブド(Khovd)県では、DSKCや三分類のMLBA集団に属する個体群が、フブスグルLBAおよびシンタシュタの等しい割合の混合として最適にモデル化される、モンゴル北部の類似の遺伝的特性を有しています。この遺伝的特性は、以前の研究でフブスグルLBAクラスタからそれたモンゴル北部の遺伝的外れ値個体と一致します。DSKCに属する追加のアルタイMLBAの4個体と未分類のMLBA集団も、さまざまな混合割合の混合モデルと一致します。

 まとめると、アルタイMLBA勾配は、シンタシュタおよびアンドロノヴォ関連WSH集団と、フブスグルLBAにより表される在来の集団という、2起源集団の継続中の混合を明らかにします。この混合は、分析された個体群の10±22世代前(290年前頃)に起きたと推定され、不均一な系統割合と一致します。紀元前2200~紀元前1700年頃となるシンタシュタ文化は、ウマが牽引する戦車(チャリオット)のような新たな輸送技術と関連しているので、ユーラシア東部草原地帯におけるこの遺伝的特性の出現から示唆されるのは、移動能力の向上がユーラシア東部草原地帯全域の多様な集団を結びつけることに重要な役割を果たした、ということです。

 本論文のデータセットにおけるMLBAの3個体は、アルタイMLBA勾配では充分に説明できない遺伝的特性を示します。この3人は、アルタイ山脈の2個体(UAA001およびKHI001)とフブスグル県の1個体(UUS001)ですが、第三の起源系統として、ゴヌルテペ遺跡の個体(ゴヌル1BA)からのわずかな寄与でよりよくモデル化できます。まとめると、アルタイ山脈とモンゴル北部(ムンクハイルハンやDSKCや未分類のMLBA)の主要なMLBA埋葬伝統の間には文化的違いが存在したものの、異なる遺伝的集団を形成していません。

 不均一なアルタイMLBA勾配を構成する集団は、アルタイ・サヤン地域に子孫を残し、その子孫は、前期鉄器時代(EIA)のモンゴル北西部のチャンドマン(Chandman)山のサグリ・ウユク文化遺跡で特定されました(紀元前400~紀元前200年頃のチャンドマンIA)。チャンドマンIAの9個体は、主成分分析ではフブスグルLBAクラスタから離れて、アルタイMLBA勾配の端で緊密なクラスタを形成しています(図2)。EIAには、サグリ・ウユク文化集団は牧畜民およびキビの農耕牧畜民で、おもに現在のトゥヴァとなるエニセイ川上流地域に集中していました。アルタイ山脈のパジリク文化やカザフスタン東部のサカ文化とともに、サグリ・ウユク文化集団は、ユーラシア西部草原地帯とタリム盆地とエニセイ川上流全域に拡大した広範なスキタイ文化現象(関連記事)の一部を形成しました。

 EIAスキタイ文化集団は、より早期のアルタイMLBA勾配から体系的に逸脱しており、第三の祖先的構成が必要となります(図3Cおよび図4A)。この系統の出現は、バクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化を含むアジア中央部(コーカサスとイラン高原とマー・ワラー・アンナフル)の集団と関連しており(関連記事)、中央サカや天山山脈サカやタハル(Tagar)やチャンドマンIAのような鉄器時代集団において明確に検出される一方で、より古いDSKCやカラスク(Karasuk)集団では存在しません。この第三の構成は、これら鉄器時代集団の系統で6~24%を占め、チャンドマンIAにおける混合年代は、対象個体群の18±4世代前(紀元前750年頃)と推定され、紀元前1600年頃となるBMAの崩壊よりも後となり、紀元前550年頃となるペルシア帝国の形成よりもわずかに先行します。

 このイラン関連の遺伝的流入は、マー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ、トゥーラーン)地域とフェルガナ地域の農耕牧畜民集団との増大する接触および混合によりもたらされた、と示唆されます。紀元前二千年紀後半と紀元前千年紀前半における乗馬の広範な出現と、その後のウマの輸送の高度化は、このイラン関連系統の草原地帯への増加する集団接触と拡散に貢献した可能性があります。本論文の結果は、内陸アジアの山岳回廊に沿った増加する移動性のような、接触の追加の範囲を除外しません。これも、青銅器時代に始まり、現在の新疆ウイグル自治区経由でアルタイ山脈へこの系統をもたらしました。以下、各集団の系統構成を示した本論文の図4です。
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 アルタイ山脈とモンゴル北部のMLBAおよびEIAクラスタとは対照的に、異なる埋葬伝統がモンゴル東部および南部地域、とくに紀元前1450~紀元前1150年頃となるLBAウランズーク文化と紀元前1000~紀元前300年頃となるEIA石板墓文化で見られます。他の同年代のユーラシア東部草原地帯集団とは対照的に、これら石板墓と関連する個体群は、ANEとWSH両方の混合が欠如している、明確なアジア北東部(ANA関連)遺伝的特性を示します(図2・図3C・図4)。両集団は反芻動物の牧畜民で、EIA石板墓文化もウマを搾乳していました。

 ウランズーク文化と石板墓文化の個体群の遺伝的特性は区別できず(図2)、石板墓伝統がウランズーク文化から出現した、とする考古学的仮説と一致します。両集団は、紀元前4600年頃となるそれ以前のモンゴル東部preBA個体とも遺伝的に区別できず(図2)、先史時代モンゴル東部の遺伝子プールの4000年以上にわたる長期的安定が示唆されます。さらなる分析では、ウランズーク文化と石板墓文化の個体群は単一の遺伝的集団に統合されました。このウランズーク石板墓遺伝的クラスタは、以前に報告されたフブスグル県のDSKC東部外れ値や、LBA~EIA移行期のモンゴル中央部の文化的に未分類の個体(TSI001)の起源である可能性が高い、と推測されます。

 さらに、モンゴル北西部のムンクハイルハン文化個体(KHU001)は、バイカルEBA系統に加えて、無視できない割合のウランズーク石板墓系統を有しています。これら3個体は、モンゴルの北西部と東部の間の時として起きた長距離接触を証明しますが、アルタイ山脈のウランズーク石板墓系統の証拠は見つからず、MLBAにおけるモンゴル東部および南部外のウランズーク石板墓系統の遺伝的特性の全体的な頻度はたいへん低くなっています。EIAにおいて石板墓文化は北方へ拡大して、時としてその拡大経路において先行者であるDSKC墓を破壊して根絶し、最終的に北はバイカル湖東部地域にまで達して、それは石板墓文化個体(PTO001)の遺伝的特性に反映されています(図3C)。全体的に本論文の知見は、前期鉄器時代末までの青銅器時代ユーラシア東部草原地帯集団における強い東西の遺伝的分割を明らかにします。モンゴル中央部および南部のさらなる標本抽出は、これらの遺伝的特性の地理的分布および現在の知見の代表性の改善に役立つでしょう。


●最初の帝国的な草原地帯国家となる匈奴

 紀元前千年紀の後半に、ユーラシア東部草原地帯の先史時代集団から、大規模な国家が発展し始めました。匈奴は牧畜民により建てられた最初の歴史的に記録された帝国で、その設立はユーラシア東部草原地帯の社会政治的歴史の分水嶺的事象とみなされています。匈奴は紀元前3世紀から紀元後1世紀まで、アジア東部および中央部で政治的支配を維持しました。匈奴の人々の文化的・言語的・遺伝的構成は、ユーラシア東部草原地帯における他の同年代の遊牧集団やその後の遊牧集団との関係のように、たいへん興味深いものでした。本論文は、モンゴル全土からのほぼ匈奴時代全期間にわたる、紀元前200~紀元後100年頃となる60個体のゲノム規模データを報告します。ほとんどの個体の年代は紀元前50年頃以後となる後期匈奴時代ですが、13個体は紀元前100年以前で、北方の前期匈奴の境界となるサルキティンアム(Salkhityn Am)遺跡(SKT)およびアツィンゴル(Atsyn Gol)遺跡(AST)の12個体と、モンゴル東部のジャルカランティムアム(Jargalantyn Am)前期匈奴遺跡(JAG)の1個体を含みます。

 前期匈奴の形成に寄与した2つの異なる人口統計学的過程が観察されました。まず、前期個体の約半数(6個体)は、アルタイ・サヤン地域の先行するサグリ・ウユク文化のチャンドマンIAと類似する遺伝的クラスタを形成します(前期匈奴西部)。この6個体の系統は、その92%がチャンドマンIAに由来し、残りは代理としてBMACを用いてモデル化される追加のイラン関連系統に由来します(図3Dおよび図4D)。これが示唆するのは、EIAにおけるチャンドマンIAで特定された低水準のイラン関連遺伝子流動は、紀元前千年紀後半にも継続しており、モンゴル西部および北部全域に拡大した、ということです。

 次に、6個体の前期匈奴の残り(前期匈奴残り)は、前期匈奴西部とウランズーク石板墓クラスタの中間に位置します。このうち4個体は前期匈奴西部(39~75%)と、ウランズーク石板墓関連系統(25~61%)の異なる割合を有しており、2個体(SKT004とJAG001)はウランズーク石板墓クラスタと区別できません(図3D)。前期匈奴西部とウランズーク石板墓遺伝子プールを結ぶこの遺伝的勾配は、ユーラシア東部草原地帯における深く分岐して異なる2系統の統一を示しています。その一方は西部のDSKCやムンクハイルハン文化やサグリ・ウユク文化集団の子孫で、もう一方は東部のウランズーク石板墓文化集団の子孫です。全体的に、以前のサグリ・ウユク文化から継続するイラン関連の遺伝子流動の低水準の流入と、ユーラシア東部草原地帯の遺伝子プールを統合する新たな東西混合の突然の出現が、匈奴台頭と関連した2つの明確な人口統計学的過程です。

 後期匈奴の個体群では、さらに高い遺伝的異質性が見られ、主成分分析上の分布からは、前期匈奴で明らかな2つの人口統計学的過程が後期匈奴でも継続したものの、新たな波の追加と遺伝子流動の複雑な方向性を伴っていました。後期匈奴の47個体のうち26個体は、前期匈奴で見られる同じ混合過程により適切にモデル化できます。このうち22個体はチャンドマンIAとウランズーク石板墓の混合として、2個体(NAI002とTUK002)はチャンドマンIAとBMACもしくはチャンドマンIAとウランズーク石板墓とBMACの混合として、2個体(TUK003とTAK001)は前期匈奴西部とウランズーク石板墓もしくは前期匈奴西部とフブスグルLBAの混合としてモデル化できます(図3Dおよび図4D)。さらに2個体(TEV002とBUR001)も前期匈奴遺伝子プールに由来する可能性が高いものの、そのモデルのp値は閾値よりわずかに低くなっています。しかし、PC1軸に沿ったユーラシア西部系統との類似性の高い割合を有する後期匈奴の11個体は、BMACもしくは他の古代イラン関連集団を用いてモデル化できません。代わりに、この11個体は、ユーラシア西部および中央部草原地帯のさまざまな場所の古代サルマタイ人(Sarmatian)のクラスタに重なります(図2)。

 混合モデル化により、後期匈奴におけるサルマタイ人関連遺伝子プールの存在が確証されます。11個体のうち、3個体(UGU010とTMI001とBUR003)はサルマタイ人と区別できず、2個体(DUU001とBUR002)はサルマタイ人とBMACとの間の混合、3個体(UGU005とUGU006とBRL002)はサルマタイ人とウランズーク石板墓との間の混合、3個体(NAI001とBUR004とHUD001)のモデル化ではサルマタイ人とBMACとウランズーク石板墓の3系統が必要となります。さらに、PC1軸沿いでは最も高いユーラシア東部系統との類似性を有する8個体は、ウランズーク石板墓およびフブスグルLBAの両方と異なり、PC2軸では現在のアジア東部からさらに南方の人々への類似性を示します(図2)。これらのうち6個体(EME002とATS001とBAM001とSON001とTUH001とYUR001)は、ウランズーク石板墓と漢人の混合として適切にモデル化され、とくにYUR001は、既知の漢帝国兵士2人(漢200年前)と密接な遺伝的類似性を示しています。8個体のうち残りの2個体(BRU001とTUH002)は類似していますが、モデル化にはサルマタイ人系統の追加が必要です。

 したがって後期匈奴は、前期匈奴と区別される2つの追加の人口統計学的過程により特徴づけられます。一方は、新たなサルマタイ人関連のユーラシア西部系統からの遺伝子流動で、もう一方は、同時代の漢の人々との相互作用と混合の強化です。以前のエグ川匈奴(Egyin Gol Xiongnu)墓地の研究では、ユーラシア東西両方の起源のmtHgが報告されており、これは本論文におけるゲノム規模データからの東西の混合の発見と一致します。まとめると、これらの結果は、モンゴルにおいて推定される人々の出入と、匈奴が漢やアジア中央部のシルクロード諸王国を含む近隣に及ぼした政治的影響力を報告する歴史的記録とよく一致します。全体として匈奴時代は、モンゴル東西の遺伝子プールを統合することにより始まり、アジア東西の遺伝子プールを統合することにより終了した、広範な遺伝子流動の一つとして特徴づけられます。


●匈奴時代後の国家における変動する遺伝的不均一性

 紀元後100年に匈奴が崩壊した後の数世紀にわたって、政治的に細分化されたユーラシア東部草原地帯全域で、一連の遊牧民の政権が台頭しては没落しました(以下、年代は基本的に紀元後)。それは、100~250年頃の鮮卑、300~550年頃の柔然、552~742年頃の突厥、744~840年頃のウイグルです。本論文における前期中世の標本は不均一で、鮮卑もしくは柔然時代の未分類の1個体(TUK001)、突厥の埋葬と関連した8個体、ウイグルの墓地の13個体から構成されますが、これらの個体が、先行するする匈奴時代とは異なる遺伝的特性を有することは明確で、モンゴルへの遺伝子流動の新たな供給源が示唆されます。

 250~383年頃となるTUK001個体は、埋葬がより早期の匈奴墓地への嵌入でしたが、最も高いユーラシア西部系統との類似性を有します。この系統はサルマタイ人のそれとは異なり、BMACおよびイラン関連系統を有する古代集団とより密接です(図2)。ユーラシア東部系統との最も高い類似性を有する個体のうち、突厥期の2個体とウイグル期の1個体は、ウランズーク石板墓クラスタと区別できません。唐王朝の支配層のテュルク時代の使者の墓の傾斜路から回収された別の個体(TUM001)は、漢人関連系統の高い割合(78%)を有します(図3E)。2匹のイヌと一緒に埋葬されたこの男性は、おそらく漢人の墓の入り口を守るために犠牲とされた殉葬者でした。残りの突厥期とウイグル期の17個体は、中間的な遺伝的特性を示します(図3E)。

 前期中世の高い遺伝的異質性は、ウイグル期のオロンドヴ(Olon Dov)の墓地の12個体により鮮やかに例証されます。オロンドヴの12個体のうち6個体は単一の墓(19号墓)に由来し、そのうち2個体(OLN002とOLN003)のみが血縁関係にあります(2親等)。より密接な親族関係の欠如は、そうした墓の機能と、被葬者の社会的関係についての問題を提起します。ほとんどのウイグル期の個体は、高いものの、変動的なユーラシア西部系統を示します。その最適なモデル化は、サルマタイ人の子孫である可能性が高い遊牧民集団であるアラン人と、同時代のフン人と、イラン(BMAC)関連系統集団というユーラシア西部系統との混合で、ウランズーク石板墓系統(ANA関連系統)も伴います。突厥とウイグル個体群で推定された混合年代は500年頃で、突厥個体群の8±2世代前、ウイグル個体群の12±2世代前となります。


●モンゴル帝国の台頭

 9世紀半ばのウイグル帝国崩壊後、現在の中国北東部のキタイ(契丹)が916年に強力な遼王朝を樹立しました。キタイはユーラシア東部草原地帯の広範な地域を支配し、征服領域内に人々を移住させたとの記録が残っていますが、モンゴルではキタイ時代の墓地はほとんど知られていません。本論文では、ボルガン(Bulgan)県のキタイ時代の3個体(ZAA003とZAA005とULA001)が分析され、全て強いユーラシア東部系統の遺伝的特性を有し、ユーラシア西部系統は10%未満です(図3Aおよび図4B)。これは、モンゴル語族話者であるキタイのアジア北東部起源を反映しているかもしれませんが、モンゴル内でキタイ集団の遺伝的特性を適切に特徴づけるには、より大きな標本規模が必要です。1125年、キタイ帝国はジュシェン(女真)の金王朝に敗れて崩壊し、金王朝は1234年にモンゴルに征服されました。

 モンゴル帝国の最大範囲はユーラシアのほぼ2/3にまたがっていました。モンゴル帝国は世界最大の連続した陸上国家で、その「国際的な」実態はユーラシア草原地帯中心部に流入した多様な集団で構成されていました。低い地位の地元の支配層と一致する、モンゴル期の62個体の被葬者が分析されました。王室もしくは地域的な支配層は含まれず、カラコルムのような「国際的首都」の個体群も含まれません。モンゴル期の個体は多様と明らかにされましたが、匈奴期の個体群よりもずっと低い遺伝的異質性を示しており(図2)、匈奴期およびそれ以前のモンゴル北部および西部のMLBA文化集団で存在していた残りのANE関連系統(チャンドマンIAとフブスグルLBA)が、ほぼ欠如しています。

 平均して、モンゴル期の個体群はそれ以前の帝国よりもずっと高いユーラシア東部系統との類似性を有しており、モンゴル期は現代モンゴル人の遺伝子プールの形成の始まりを示します。ほとんどの歴史的なモンゴル人は、ウランズーク石板墓関連系統と漢人関連系統とアラン人関連系統を代理とする、3方向混合モデルによく適合します。主成分分析(図2)と一致して、1集団としてのモンゴル期の個体群は、ユーラシア西部系統(アラン人もしくはサルマタイ人)15~18%と、ウランズーク石板墓関連系統55~64%と、漢人関連系統21~27%でモデル化できます。各個体に同じモデルを適用すると、この3起源モデルは61人のうち51人と、モンゴル帝国初期の頃となる未分類の後期中世1個体(SHU002)を適切に説明します。

 1368年のモンゴル帝国の崩壊以来、モンゴル人集団の遺伝的特性は実質的に変わっていません。モンゴル帝国期に確立された遺伝的構造は、モンゴルとロシアの現代のモンゴル語族話者集団を特徴づけ続けています。個人単位のqpWave分析を用いて、モンゴル期の個体群と現代のモンゴル語族話者7集団間の遺伝的系統を調べると、現在のデータの分析内では、モンゴル期の61人のうち34人は、少なくとも1つの現代モンゴル語族話者集団と遺伝的にクレード(単系統群)化されます。モンゴル帝国は、ユーラシア東部草原地帯の政治的および遺伝的景観の再構築に大きな影響を及ぼし、これらの影響はモンゴル帝国の衰退後も長く続き、現在でもモンゴルにおいて明らかです。


●ユーラシア東部草原地帯における繰り返しの混合の機能的および性別的側面

 ユーラシア東部草原地帯における繰り返しの混合の機能的側面を調べるため、機能的もしくは進化的側面と関連する5ヶ所の一塩基多型が調べられました。それは、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する遺伝子(LCT/MCM6)、歯の形態と関連する遺伝子(EDAR)、色素沈着関連遺伝子(OCA2とSLC24A5)、アルコール代謝関連遺伝子(ADH1B)です。

 まず、乳消費の広範な直接的証拠を伴う牧畜民生活様式にも関わらず、ユーラシア東部草原地帯におけるMLBAとEIAの個体群は、LPをもたらす派生的な変異を有していなかった、と明らかになりました。その後の個体群は、ヨーロッパで現在広がっている変異(rs4988235)を有していたものの、無視できるほどの低頻度(5%)で、経時的な頻度増加はありませんでした。これは、他の酪農産物に加えて、一部の現代モンゴル遊牧民が夏季には1日4~10Lの馬乳酒(2.5%のラクターゼ)を消費し、毎日100~250gの乳糖を摂取することからも、やや注目に値します。一方ヨーロッパでは、LPをもたらす派生的な変異の青銅器時代後の継続的な強い選択が明らかになっています(関連記事)。壁面彫刻の描写から、馬乳酒生産はエニセイ川流域でEIAにまでさかのぼり、歴史的なモンゴルの記述には、馬乳酒の大量かつ頻繁な消費や、広範な反芻動物の液体および個体の生産物が記録されており、古代のプロテオーム分析の証拠によりさらに確認されています。モンゴル人がLPのない状態で何千年もの間大量の乳糖を消化できた方法は不明ですが、乳糖を消化するビフィズス菌が豊富に存在する、珍しい腸内微生物叢(ヒトの体内に住む微生物群、マイクロバイオーム)と関連しているかもしれません。

 地域的な選択的一掃を受けた遺伝標識は、ゲノム規模の系統特性における変化と相関するアレル(対立遺伝子)頻度の変化を示します。たとえば、EDAR遺伝子のrs3827760(エクトジスプラシンA受容体)やSLC24A5のrs1426654といったアレルは、それぞれアジア東部人やユーラシア西部人における良く知られた正の選択の標的です。本論文のMLBAおよびEIA集団は、これら2ヶ所の一塩基多型のアレル頻度の強い集団分化を示します。rs3827760の頻度は、ユーラシア東部系統との高い類似性を有する集団(フブスグルLBAとウランズーク石板墓)でずっと高いのに対して、rs1426654はアルタイMLBAやチャンドマンIAで高くなっています。アジア東部人でより最近の正の選択を受けた2ヶ所の一塩基多型、つまりADH1B遺伝子のrs1229984とOCA2遺伝子のrs1800414は、MLBAとEIAには欠如しているかきょくたんに低頻度でしたが、中華帝国や他集団との相互作用を通じてアジア東部系統が増加するにつれて、経時的に頻度が上昇しました。

 ユーラシア東部草原地帯の人口史の性別的側面も調べられました。遺伝的混合の性的に偏ったパターンは、移住や社会的親族や家族構造の性別的側面の解明に有益かもしれません。EIAのサグリ・ウユク文化期と突厥期における男性に偏ったWSH混合の明確な兆候が観察され、Y染色体ハプログループ(YHg)Q1aの衰退、およびそれに伴うYHg-R・Jの台頭と対応します(図S2A)。その後のキタイおよびモンゴル期には、アジア東部関連系統の顕著な男性の偏りが観察され(図S2C)、YHg-O2aの頻度上昇でも確認されます(図S2A)。匈奴期は、男性に偏った混合の最も複雑なパターンを示し、それにより集団の異なる遺伝的部分集合の証拠を示します(図S2C)。

 匈奴では10組の遺伝的親族が検出され、ジャルカランティムアム遺跡の同じ墓に葬られた父親と娘の組み合わせ(JAG001とJAA001)、イルモヴァヤパッド(Il’movaya Pad)遺跡の母親と息子の組み合わせ(IMA002とIMA005)、タミリン・ウラーン・コーシュー(Tamiryn Ulaan Khoshuu)遺跡の兄と妹もしくは姉と弟の組み合わせ(TMI001 and BUR003)、サルキティンアム遺跡の兄弟の組み合わせ(SKT002 and SKT006)が含まれます。残りの6組のうち3組は同じ遺跡内で葬られた女性同士の親族で、匈奴集団内の拡大された女性親族関係の存在が示唆されます。常染色体の縦列型反復配列(STR)データに基づくエグ川匈奴墓地の以前の研究では、単一遺跡内の1親等の親族関係も報告されていました。これらの関係は、埋葬の特徴と組み合わせると、匈奴帝国内の在来系統と親族構造への最初の手がかりを提供します。以下、YHg(図S2A)とmtHg(図S2B)の経時的な頻度変化と、各系統の性的偏りを示した本論文の図S2です。
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●まとめ

 ユーラシア東部草原地帯の人口史は、多様なユーラシア東西の遺伝子プールの繰り返しの混合により特徴づけられます。しかし、ユーラシア東部草原地帯における人口統計学的事象は、単純な移住の波というよりは、むしろ複雑で変化に富んだものでした。200個体以上のゲノム規模の古代データセットの生成により、紀元前4600年頃からモンゴル帝国末にわたる、この動的な人口史の最初の遺伝的証拠が提示されます。ユーラシア東部草原地帯は、古代アジア北東部人(ANA)および古代ユーラシア北部人(ANE)系統の狩猟採集民により中期完新世に植民され、その後は青銅器時代に酪農牧畜経済に移行した、と明らかになりました。移住してきたヤムナヤおよびアファナシェヴォ草原地帯牧畜民は馬車と家畜を有しており、紀元前3000年頃に反芻動物の酪農牧畜を初めてユーラシア東部草原地帯に導入したようですが、ヨーロッパとは異なり、持続的な遺伝的影響はほとんどありません。MLBAまでに、反芻動物の酪農牧畜は、系統に関係なくユーラシア東部草原地帯全域の集団により採用されており、この生計は継続し、LBAにはウマの搾乳、モンゴル期にはラクダの搾乳が追加され、現在に至っています。しかし、ユーラシア西部から集団がその後も移動してきてラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)関連遺伝子が繰り返し導入されたにも関わらず、酪農牧畜導入以来5000年以上、LPが選択された証拠はありません。これは、今まで説明されていない、アジアにおける乳糖適応の異なる軌跡を示唆します。

 MLBAには、ユーラシア東部草原地帯における3者の遺伝的構造が観察されます。それは、東方における青銅器時代より前のANA系統の持続と、北方における青銅器時代より前のANA系統とANE系統との間の遺伝的多様性の勾配と、西方における新たなシンタシュタ関連ユーラシア西部草原地帯牧畜民(WSH)系統の割合増加により特徴づけられます。ヨーロッパの縄目文土器文化との遺伝的関連を有する、ユーラシア西部の森林草原地帯に分布していたシンタシュタ文化集団は、青銅の冶金と戦車(チャリオット)に長け、ユーラシア東部草原地帯におけるシンタシュタ文化関連系統の出現は、新たな、とくにウマと関連した技術の導入と関連していたかもしれません。とくにキリグスール複合(DSKC)文化は、輸送とおそらくは騎乗においてウマの使用の広範な証拠を示し、遺伝的分析からは、これらのウマとシンタシュタの戦車を引いたウマとの間の密接な関連が示されてきました。この時点での青銅器時代ユーラシア東部草原地帯集団間の強い東西の遺伝的分割は、広範な騎乗の最初の明確な証拠が出現し、一部集団の移動性が高まったEIA末まで1000年以上維持され、とくに東方の石板墓文化で、この構造の破壊が始まりました。最終的に、これら主要な3系統が遭遇して混合し、これは匈奴帝国の出現と同時でした。匈奴は、現在の中国やアジア中央部やユーラシア西部草原地帯からの新たな追加の系統が急速に遺伝子プールに入ったので、遺伝的異質性のきょくたんな水準と増加する多様性により特徴づけられます。

 その後の前期中世の遺伝的データは比較的まばらで不均一であり、鮮卑もしくは柔然の遺跡ではまだほとんど特定されておらず、匈奴と突厥の間の400年の空隙があります。突厥期とウイグル期には、高い遺伝的異質性と多様性が観察され、それが続くウイグル帝国の崩壊期には、より大きなユーラシア東部系統へと向かう、後期中世における最終的で主要な遺伝的変化が示されます。この変化は、ユーラシア東部草原地帯への北東からの、ツングース語族話者集団のジュシェン(女真)の拡大と、モンゴル語族話者集団であるキタイ(契丹)およびモンゴルの拡大という、歴史的記録と一致します。また、このアジア東部関連系統は、女性よりも男性により、後期中世集団へと多くもたらされました。モンゴル期の末までに、ユーラシア東部草原地帯の遺伝的構成は劇的に変わり、先史時代には顕著な特徴だったANE系統はほとんど残っていませんでした。現在、ANE系統は孤立したシベリア集団と、アメリカ大陸先住民集団でのみ、かなりの割合で残っています(関連記事)。歴史時代のモンゴルの遺伝的特性は、現代モンゴル人の間で依然として反映されており、過去700年のこの遺伝子プールの相対的安定性が示唆されます。

 本論文はユーラシア東部草原地帯における遺伝的変化の重要な時期を報告したので、将来の研究は、これらの変化が文化的および技術的革新と関連していたのかどうか、これらの革新は政治的景観にどのように影響を及ぼしたのか、調べることができるかもしれません。これらの調査結果をウマの技術や放牧慣行や家畜の特性や品種の変化と統合することで、とくに解明が進むかもしれません。この研究は、ユーラシア東部草原地帯の最初の大規模な古代ゲノム調査となり、この地域の顕著に複雑で動的な遺伝的多様性に光を当てました。この進歩にも関わらず、世界の先史時代素におけるユーラシア東部草原地帯とその重要な役割の人口史をじゅうぶん明らかにするためには、ユーラシア中央部と東部、とくに現在の中国北東部とタリム盆地とカザフスタン東部草原地帯におけるさらなる遺伝的研究が依然として必要です。


 以上、本論文の内容をざっと見てきました。ユーラシア東部の古代ゲノム研究はユーラシア西部と比較して遅れていますが、本論文はユーラシア東部草原地帯の包括的な古代ゲノムデータを報告しており、ひじょうに注目されます。ユーラシア東部草原地帯における完新世の複雑な人類史はある程度想定していましたが、本論文はそれよりもずっと複雑な混合過程を示しており、自分がいかに単純化していたか、思い知らされました。もちろん、本論文で指摘されているように、本論文の云う前期中世(鮮卑~柔然期)のゲノムデータが不足しているので、今後の研究の進展が期待されます。今年(2020年)になって、中国の古代ゲノム研究も大きく進展しており(関連記事)、今後、遅れていたユーラシア東部の古代ゲノム研究が飛躍的に発展し、日本列島集団の形成過程もより詳細に解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Jeong C. et al.(2020): A Dynamic 6,000-Year Genetic History of Eurasia’s Eastern Steppe. Cell, 183, 4, 890–904.E29.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.10.015

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