加藤聖文『国民国家と戦争 挫折の日本近代史』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2017年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は近代日本において国民国家がいかに形成されたのか、戦争はそれとどう関わったのか、論じます。まず本書は、**人(民族集団)と**国民とを区別し、同じ民族だから同じ国家に属しているとも、同じ国民だから同じ民族であるとも限らない、と指摘します。民族意識は近代の産物で日本も例外ではなく、「日本人」という意識の芽生えは江戸時代後期に欧米諸国が接触して以降のことであり、それが決定的となったのはペリー来航で、ヨーロッパという他者を意識してからだった、というのが本書の見通しです。ただ、他者を意識しての日本という意識は、どんなに遅くとも平安時代にはさかのぼる、と私は考えています。現代の日本人意識のより直接的な起源としては、幕末になるのでしょうが。本書は「国民国家」を市民型と民族型に区別し、日本は民族型だと指摘します。しかし本書は、日本も近代において順調に「国民」が形成されたわけではない、と指摘します。本書は、国民国家の形成が戦争およびそれを支えるナショナリズムとは断ち切れない関係にある、との観点から日本の近代を検証します。

 日本には国民意識を生み出すような政治思想はなく、国家の政治理念が自立的に芽生えたわけではないので、具体的な象徴が国民統合の役割を果たすことになり、それが天皇だった、と本書は指摘します。天皇の政治的存在が注目されるようになったのは江戸時代後期の尊王(尊皇)思想からで、その源流は水戸藩にありました。尊王論が急進化する触媒となったのは攘夷論でした。尊王攘夷思想は当初幕政改革が目標でしたが、桜田門外の変の後の公武合体論以降、過激化して倒幕運動へと発展していきます。そうした中で、幕藩体制を支えた身分制への批判も高まっていき、その中には後の議会制度と通ずるような議論(公議会論)が広がっていきます。日本における国民概念は、幕末の政治主導権をめぐる闘争の中から芽生えました。ただ、それは身分制を超えた能力主義に立脚していたものの、あくまでも政治意識の高い知識層が中核で、新たな政治体制における天皇の位置づけも明確ではありませんでした。そうした中で、来るべき中央集権国家の頂点に天皇を明確に位置づけていたのは木戸孝允でした。明治新政府は、長く政治体制の中心にあった幕府と比較すると政治的権威の弱さは隠せず、それも天皇を政治的権威として再定義する理由となりました。

 近代日本は後発の国民国家と一般的には考えられていますが、世界的にはそうではない、と本書は指摘します。イタリアの統一もドイツ帝国成立も明治維新とほぼ同年代で、アメリカ合衆国は1860年代の南北戦争で一度は分裂しており、当時の国民国家はフランスとイギリスくらいだった、というわけです。近代国家にとって不可欠の要素である領土に関して、日本は北海道と沖縄を除いて比較的均質な住民でまとまっており、近代国家の形成において有利だった、と本書は指摘します。近代国家にとって不可欠な国民意識の形成は、日本にとっても大きな問題となります。このように近代において国民国家が目指されたのは、軍事・経済的に有利と考えられたからでした。

 近代日本において国民意識形成のさいに問題となったのが、前近代において治める側と治められる側とに二極化していたことです。しかし、短期間で近代国家の体裁を整えねばならなかった明治政府は、行政組織の整備を最優先し、国家の理念形成と国民的合意は後回しにされました。こうして、官僚制を基礎とした「有司専制」による明治国家が形成されていきました。しかし、幕末以来の「公議会論」による政治参加への要求は途絶えず、自由民権運動にもつながっていきます。

 こうした動きには、近代における国家と国民の緊張関係がありますが、そのさいに国家分裂を防ぐのは、建国の理念や民族特性やイデオロギーや王室のような統合の象徴です。近代日本の場合は天皇でした。天皇が前面に押し出されたことで、天皇と国民の関係は、君主と臣民という擬似的な上下関係に置き換えられました。これは封建的な詩主従関係というよりも、儒学的な聖人と人民の関係に近いものでした。しかし、非知識層である庶民にまで国民意識を持たせるのは容易ではありませんでした。そのさいに重要な役割を果たしたのが外的脅威であり、それにより喚起されるナショナリズムでした。しかし、近代日本で当初起きたのは「内戦」で、むしろ国家分裂を促進しかねませんでした。しかし、根強い反対はあったものの、徴兵制を通じて国民意識はじょじょに形成されていきます。その成果は日清戦争で発揮され、その後の日露戦争とともに、対外戦争は国民意識の形成に大きく寄与しました。

 一方、教育は立身出世のため早期に定着していき、国民意識の形成に寄与します。しかし本書は、近代日本の教育が、国家と対峙する国民ではなく、国家に奉仕する国民を創出する危険性を有していた、と指摘します。日露戦争の結果、日本では国民意識が広く浸透し、外交に関心を抱く層も増加しました。日比谷焼討事件の背景にはそうした変化がありました。こうして日本も、国家と国民は緊張関係にある、という国民国家の本質に直面します。社会矛盾の噴出と国民の暴走を懸念した国家は、1908年の戊申詔書で天皇の名において「国民国家」を再定義します。この頃に起きた南北朝正閏問題も、こうした背景で起きた事件でした。しかし、明治期には国家と国民の間の調整弁・緩衝材の役割を担えた天皇も、大正期には前代のような権威はなく病弱だったこともあり、そうした役割は担えず、明治後期から顕著になってきた天皇の神聖性がますます強調され、天皇が国民から次第に遠ざかっていきます。

 大正期に起きた第一次世界大戦は、国民国家同士の戦争が大規模化して多くの犠牲を出すことと、国民の支持がなければ戦争遂行は不可能との教訓を世界の指導層に突きつけました。さらに、第一次世界大戦の結果、多くの君主国家が倒れ、ロシア革命により国民国家とは異なる国家像が提示されたことも、世界の指導層に影響を及ぼしました。第一次世界大戦後、民族自決の機運が盛り上がるなかで、植民地の獲得により多民族国家となっていった日本は、第一次世界大戦後の状況にどう対応するのか、という問題が突きつけられました。しかし、台湾でも朝鮮でも、激しい抵抗に対応して武断的統治から文化的統治へと穏健な方針に代わったものの、政治権利は大きく制限されたままでした。

 第一次世界大戦を含む大正期には日本社会も大きく変容し、工業化・都市化が進展しました。一方農村では、明治期に小作農が増加し、寄生地主化が進むなど、複雑な問題を抱えるようになります。工業化・都市化が進んだとはいえ、依然として多数を占める農村社会の問題は、政治的動向にも大きな影響を与えるようになります。しかし、この農村社会の問題には、政党よりも官僚の方が敏感に反応しました。本書は、そうした農村対策の遅れが、満洲事変後の政党凋落の一因になった、と評価しています。また本書は、都市化が進む中で、政党は都市労働者への取り組みでも後手に回った、と指摘します。そのため、国民が国家に影響を及ぼすのは政党を通じてのみなのに、政党には幅広い支持を集めて国家運営の主導権を握る能力に欠けていることになり、国民は国家へと依存していった、との見通しを本書は提示します。

 国民の政党への不信と国家(官僚)への依存、天皇神聖化の流れから出てきた、支配層にとっての常識だった天皇機関説の否定(事実上の解釈改憲)と軍部の台頭という流れの中で、日本は日中戦争から太平洋戦争へと突き進み、ついに破局を迎えます。天皇を中心とする国体という概念は、明快な理念ではなく曖昧でしたが、それ故に雑多なものを取り込むこともできました。本書はこの間の動向を、国民は政党を通じて国家を制御できたものの、本質的には官僚組織である軍部を通して国家を制御することはできず、国家による国民の管理が強化され、国家を擬人化した天皇との一体化が求められていった、と指摘します。

 また本書は、国体論に基づく天皇と臣民の特異性を強調すると、多民族国家である日本において、日本人と他民族との隔たりが強調されてしまう、という民族的矛盾を指摘します。これは日中戦争、さらには太平洋戦争以降に深刻化し、その対応策が「皇民化」という大規模な同化政策でした。その日中戦争と太平洋戦争が長引いた理由は、国民が直接的に戦争の悲惨さを実感するまで厭戦気分が盛り上がらなかったから、と本書は指摘します。また本書は、日本では降伏のさいに指導層で国体の維持をめぐって激論があったものの、それぞれの主張で想定される具体的な国体が異なっており、しかも共通して「国家」は強烈に意識されていたものの、「国民」は意識されていなかった、と指摘します。本書は日本近代史を、日本が近代に急速な国民国家を創出しようとして国家主導により実現したものの、その次の段階である国家と国民の協力関係を構築し、国民の政治参画の訓練を重ねることで国民国家の足腰を強化することには失敗した、と評価します。

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