澤田典子『よみがえる天才4 アレクサンドロス大王 』

 ちくまプリマー新書の一冊として、筑摩書房より2020年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はアレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)の評伝ですが、アレクサンドロス個人の事績だけではなく、アレクサンドロスの征服活動の基盤となったマケドニア史、さらにはアレクサンドロスが後世どのように語られたのか、ということまで、アレクサンドロスの基本史料の性格を解説しつつ、叙述していきます。本書は日本語で読めるアレクサンドロスの伝記・アレクサンドロス論として、長く読まれていくことになりそうです。

 アレクサンドロスに関する基本史料はほとんどがローマ期のもので、それらには、現代ではほぼ散逸した、アレクサンドロスと同時代の人々が残した文献が引用されています。アレクサンドロスの歴史的評価は英雄から暴君まで振幅が大きく、それはすでに現存するローマ期の史料にも表れています。ポンペイウスやアウグストゥスやトラヤヌスなどローマ期の権力者は、アレクサンドロスを崇拝していました。一方知識層では、アレクサンドロス像は大きく分裂しています。共和政期にはアレクサンドロスを英雄として称賛する傾向にありましたが、共和政末期以降、独裁的性格を強める権力者への警戒もあり、現実の権力者をアレクサンドロスに投影するようになります。帝政初期のカリグラやネロといった暴君が熱狂的にアレクサンドロスを模倣したため、野蛮で残忍な専制君主というアレクサンドロス像が定着していきます。しかし、五賢帝期には、アレクサンドロス賛美の傾向が復活します。つまり、現存するローマ期の史料に見えるアレクサンドロス像は、原典の人物像というよりは、ローマ期の時代風潮を多分に反映していた、というわけです。

 アレクサンドロスの征服活動の基盤となったのは、父親のフィリッポス2世までに築かれたマケドニアの国力でした。本書は、マケドニアがフィリポス2世の代までにいかに台頭してきたのか、という点も取り上げます。紀元前4世紀前半のギリシア世界では、スパルタやテーベやアテネがペルシア(ハカーマニシュ王朝)からの資金提供を背景に勢力争いを展開し、浮沈が繰り返され、紀元前4世紀半ばには、ギリシアは「勢力の真空状態」とも言うべき状況にありました。紀元前7世紀の建国と伝わるマケドニアは、かつてはペルシアに、その後は内乱や外敵の侵入による停滞もあって台頭してきたテーベなどに従属したこともありましたが、こうした混迷したギリシア世界において、フィリポス2世の代に急速に台頭します。マケドニアは紀元前338年のカイロネイアの戦いに勝ち、ギリシア世界の覇者となります。

 マケドニアでは、大土地所有者である「ヘタイロイ(朋友)」と呼ばれる貴族が王とともに卓越した地位にあり、強い相互依存関係にある王を補佐しました。マケドニアの王権は、制度が整備されていたというよりも、王個人の資質や力量に全面的に依存するものだったようです。マケドニアには木材などの豊かな天然資源があり、これも台頭の一因となりました。マケドニアがギリシアの史料に見えるのは紀元前6世紀末以降で、紀元前5世紀前半にはオリュンピア祭にも出場し、ギリシア世界へと参入していきます。この過程でマケドニアではギリシア神話も受容され、マケドニア王家はヘラクレスの子孫と自称しました。一方で、マケドニアはペルシアの社会や国制にも大きな影響を受けました。

 兄の戦死後、内憂外患の中で即位したフィリポス2世は、財政基盤の整備や軍事改革を進めて国力を充実させ、領地を拡大していきますが、紀元前336年に暗殺されます。その後継者となった息子のアレクサンドロスは、父の遺産を活用して、ペルシア征服のため軍を率いて東方へと向かいます。アレクサンドロスの母であるオリュンピアスはモロッソイ王家の出身で、トロイ戦争の勇将アキレウスの末裔と自称していました。アレクサンドロスは父方ではヘラクレス、母方ではアキレウスという、ギリシア神話の二大英雄の子孫となります。

 アレクサンドロスが少年時代にアリストテレスの教えを受けたことは有名ですが、アレクサンドロスの政策や思想にアリストテレスの影響は大きくない、との見解が有力なようです。ただ、アレクサンドロスの学問と文化への愛好、とくに自然科学への強い関心は、アリストテレスの感化によるものだったようです。紀元前327年にアリストテレスの親戚となる歴史家のカリステネスがアレクサンドロスに処刑されたことで、アレクサンドロスとアリストテレスとの間には深い溝ができたようです。しかし、後世、とくにイスラム教世界において、両者は賢王と賢者として理想の子弟関係にあった、と語られるようになりました。

 マケドニアでは正妻と側室の区別はなく、長子相続制が確立されていなかったため、王位継承はきわめて流動的でした。アレクサンドロスも少年時代には、「皇太子」のような明確な地位にあったわけではないものの、フィリポス2世の息子は2人だけで、もう1人は知的障害者と伝えられているので、アレクサンドロスは唯一の王位継承者とみられていたようです。しかし、フィリポス2世が晩年にマケドニア貴族の娘クレオパトラと結婚したことで、アレクサンドロスの後継者としての地位が潜在的に脅かされたかどうかはともかく、アレクサンドロスと父との関係は悪化します。その後、フィリポス2世は息子と和解しますが、紀元前336年に暗殺されます。この暗殺事件をめぐっては現在も議論が続いていますが、アレクサンドロスとオリュンピアの親子が黒幕との噂は暗殺事件当時からあったようです。

 フィリポス2世の死後、アレクサンドロスはアンティパトロスとパルメニオンという重臣2人の支持を得て即位します。フィリポス2世の死後、ギリシア各地でマケドニアから離反する動きが起きますが、アレクサンドロスは精鋭部隊を率いて直ちに南下し、平定していきます。アレクサンドロスはコリントス同盟会議を招集し、ペルシアへの遠征を決議させます。即位の翌年(紀元前335年)春、アレクサンドロスはトラキア地方へと進軍し、父のフィリポス2世が達成できなかったドナウ渡河に成功します。その後、背いたテーベに過酷な処分を下したことで、ギリシア世界における盟主としての地位を確立します。

 ギリシア世界を制圧したアレクサンドロスは、紀元前334年春、東方遠征に向かいます。ただ、この東方遠征構想は紀元前4世紀初頭から、ギリシア世界ではよく知られており、アレクサンドロスの独創ではなく、フィリポス2世にも東方遠征構想がありました。ただ、フィリポス2世の東方遠征構想は息子の実際の事績よりもずっと控えめだったのではないか、との見解が有力なようです。アレクサンドロスの東方遠征構想は、まずは既定路線に沿って始まりました。遠征出発時のアレクサンドロス軍の兵力は、先発部隊1万人と合わせて47000人ほどだった、と推測されています。当時のマケドニアは、フィリポス2世時代の戦費や対外工作費のため、国家財政の状態はかなり悪かったようで、財政難の克服は、ペルシアとのイッソスの戦いに勝ち、戦利品を獲得した後からでした。

 東方遠征はペルシアに対する報復戦争だと主張したアレクサンドロスは、ペルシア側のギリシア人傭兵には、裏切り者として過酷な処分を下しますが、それがペルシア側のギリシア人傭兵の抵抗姿勢を加速させることになりました。アレクサンドロスが東方遠征を開始してから短期間で、大帝国のペルシアというかハカーマニシュ王朝は滅亡してしまいましたが、この間アレクサンドロスの征服活動がずっと順調だったわけではなく、海軍では劣勢なため、ペルシアに都市を奪還されることもありました。しかし、陸での勝利によりペルシア海軍に打撃を与えるというアレクサンドロスの戦略が奏功し、アレクサンドロスはエジプトなどペルシアの要地を占領していき、ついには紀元前330年にハカーマニシュ王朝を滅亡に追い込みます。この過程でアレクサンドロスは東方協調路線を強めていきますが、それはマケドニア人が不満を高める要因にもなります。

 ハカーマニシュ王朝の滅亡後、アレクサンドロスはペルシア帝国旧領の東部に軍を進めますが、険峻な山脈や砂漠地帯に苦戦を強いられ、マケドニア人将兵のアレクサンドロスに対する不満も高まります。この頃から、アレクサンドロスはペルシアの装束や儀礼を積極的に導入し始め、ペルシア人貴族を高官や側近に次々と取り立てていき、これもマケドニア人将兵のアレクサンドロスへの不満を高めました。その後、アレクサンドロスはソグディアナへと進軍しますが、苦戦し、その過程でアレクサンドロス暗殺の陰謀事件が頻発し、側近や重臣がアレクサンドロスに粛清されます。この背景として、上述のように、王権が整備されておらず、王個人の力量に依存する政治体制下で王と貴族が相互依存関係にあり、王の寵を貴族の側近たちが競う構造もあった、と本書は指摘します。本書は、アレクサンドロスは東方協調路線を進める中で暴君化していったのではなく、当初からその行動パターンは変わらなかった、と指摘します。

 バクトリアとソグディアナを苦戦しつつも征服したアレクサンドロスは、インドへと向かいます。ローマ時代の史料によると、肥沃なインドを前に、アレクサンドロスはさらに進軍する意欲を見せますが、長期遠征に疲弊した将兵はさらなる東進を拒絶し、アレクサンドロスも帰還を決意します。しかし本書は、アレクサンドロスがその前に艦隊の建造を命じていたことから、アレクサンドロスは当初からヒュファシス川(現在のベアス川)まで進んで退却するつもりだった、と推測します。アレクサンドロスは、ハカーマニシュ王朝の旧領全てを掌握することで征服を完結させようとしたのではないか、というわけです。また本書は、そもそも将兵による「騒擾」がローマ時代の創作だった可能性も指摘します。

 紀元前324年2月、アレクサンドロスはペルシア帝国の旧都スーサに帰還します。この後もマケドニア人の将兵や重臣とアレクサンドロスとの確執は絶えず、緊迫した情勢の中、アレクサンドロスはバビロンを帝国の首都に定め、アラビア半島への遠征を計画しますが、東方遠征から帰還して1年半も経たない紀元前323年6月10日、アレクサンドロスは発病から10日で死亡します。当時から毒殺の噂が流れており、アリストテレスの名前も挙げられていました。本書はアレクサンドロスの軍事的手腕を評価しつつ、ハカーマニシュ王朝を滅亡に追い込んだ要因として、東方遠征の当初からペルシア貴族を重用するなど、東方協調路線の採用を指摘します。本書はアレクサンドロスの功績を、直接的には武力征服の連続にすぎなかったものの、後にギリシア文化が東方に拡大する契機を作った、と評価します。また本書は、アレクサンドロスの残虐行為を認めつつ、それが当時は傑出したものではなかったことも指摘します。

 アレクサンドロスは死後、神話化・伝説化していきます。そもそもアレクサンドロス自身が、自分をどのように見せるのか、常に意識していたこともあります。アレクサンドロスにまつわる神話・伝説は、その後継者(ディアドコイ)戦争期に加速します。激しい後継者戦争の中で、当事者たちはアレクサンドロスの名声と威信に頼り、権力の正統性を主張しました。本書は、後継者戦争の主役はアレクサンドロスだった、と指摘します。ヘーゲルは、「アレクサンドロスはちょうどいいときに死ぬという幸運に恵まれた」と述べ、死後の名声を得るという意味では、それは的確な指摘でした。上述のように、ローマの権力者はアレクサンドロスを崇拝し、それもアレクサンドロスの神話化・伝説化を促進しました。アレクサンドロス伝説はユーラシア西部において広く浸透し、近現代にも影響を及ぼしています。マケドニア(北マケドニア)共和国とギリシャ共和国との間では、マケドニア共和国が1991年に独立して以降、民族の象徴としてのアレクサンドロスの奪い合いが続いています。歴史学のアレクサンドロス評価も、研究者の置かれた立場や時代思潮を反映している、と本書は指摘します。

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