スキタイ人集団の遺伝的構造

 スキタイ人集団の遺伝的構造に関する研究(Gnecchi-Ruscone et al., 2021)が公表されました。鉄器時代への移行は、ユーラシア史において最重要事象の一つです。紀元前千年紀の変わり目に、考古学的記録の変化は、アルタイ山脈からポントス・カスピ海地域(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)西端までの草原地帯全域の、いくつかの遊牧民文化の台頭を証明します。これらの文化は、その埋葬文脈で見られる共通の特徴に基づいて、まとめてスキタイとよく呼ばれます。先行する青銅器時代人口集団と比較して、スキタイは定住型から遊牧型の牧畜生活様式への移行を経ており、戦争の増加と、鉄製武器の新様式や鞍の導入を含む乗馬技術など軍事技術の進歩と、階層的なエリートに基づく社会の確立を示しました。

 以前のゲノム研究では、青銅器時代草原地帯において大規模な遺伝的置換(したがって、かなりの人類の移住も)が検出され、それは最終的に、西部および中央部草原地帯の定住牧畜民を特徴づける、均質で広範に拡大した中期~後期青銅器時代遺伝子プールの形成をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これら中期~後期青銅器時代(MLBA)クラスタの急速な衰退とスキタイの台頭を促した理由は、まだよく理解されていません。研究者たちが指摘してきたのは、最も関連する要因のなかで、気候湿潤化と、近隣農耕文化(文明)、つまりバクトリア・ マルギアナ複合(BMAC)文化と関連する文化からの社会経済的圧力です。

 スキタイ人の起源に関しては、競合する3仮説が議論されてきました。第一に、推定されるイラン語により支持されるポントス・カスピ海草原起源説です。第二に、考古学的知見により支持されるカザフ草原起源説です。第三に、共通の文化的特徴を採用した遺伝的に異なる集団の複数独立起源説です。これまでに鉄器時代草原地帯遊牧民から回収されたゲノムの数は限定的で、スキタイ人の遺伝的多様性を一瞥できるものの、さまざまなユーラシア東西の遺伝子プール間の混合の複雑なパターンを特徴づけるには、とても充分ではありません(関連記事1および関連記事2)。

 考古学的観点からは、遊牧民戦士文化と関連する最初の鉄器時代埋葬は、カザフ草原東端の、トゥワ(Tuva)とアルタイ地域で特定されました(紀元前9世紀)。この初期の証拠に続いて、カザフスタン中央部および北部のタセモラ(Tasmola)文化は、最初の主要な鉄器時代遊牧民戦士文化の一つです(紀元前8世紀~紀元前6世紀)。これらの早期集団の後には、カザフスタン南東部と天山(Tian Shan)山脈に位置する象徴的なサカ(Saka)文化(紀元前9世紀~紀元前2世紀)や、アルタイ山脈を中心とするパジリク(Pazyryk)文化(紀元前5世紀~紀元後1世紀)や、ウラル南部地域に最初に出現し(紀元前6世紀~紀元前2世紀)、コーカサス北部やヨーロッパ東部にまで西進した(紀元前4世紀~紀元後4世紀)サルマティア人(Sarmatian)が続きます。遊牧民集団も、トボル(Tobol)川とエルティシ(Irtysh)川との間の北部森林草原地帯に位置する、サルガト(Sargat)文化遺構(紀元前5世紀~紀元前1世紀)と関連する文化など、その定住型隣人に影響を与えました。

 鉄器時代後のカザフ草原は、東方の匈奴(Xiongnu)や鮮卑(Xianbei)、南方のペルシア人関連王国の康居(Kangju)など、複数の帝国の拡大の中心として機能しました。これらの事象は、スキタイ東部文化の終焉をもたらしましたが、この文化的移行と関連する人口統計学的交代はよく理解されていないままです。さらに、遊牧民生活様式の形態は、何世紀にもわたってカザフ草原で存続しました。遊牧民人口集団の最近の歴史における重要な事象は、紀元後15・16世紀に起きました。この時、現在のカザフスタンの領域に住む全部族が組織化され、主要な3ジュズ(Zhuz)に分類されました。それは、長老(Elder)ジュズと中年(Middle)ジュズと若年(Junior)ジュズで、それぞれカザフスタンの南東部・中央部および北東部・西部に位置します。ジュズとは、本来「100」を意味する言葉で、「(カザフ人全体の中の)部分」を意味する、民族と部族の中間概念とのことです(関連記事)。

 この分割はアジア中央部全域に拡大し、ジョチ・ウルス崩壊後に外部の脅威から自衛する必要があった、異なる部族間の政治的で宗教的な妥協でした。これは、カザフ・ハン国(紀元後1465~1847年)設立の基礎を築きました。現在、カザフスタンのカザフ人集団は依然として、その部族同盟を維持しており、その文化の一部の側面を維持しながら遊牧民の歴史を尊重しています。これらの伝統の一つは、親族間の結婚を避けるために父系により家系図を7世代までさかのぼる「ジェティ・アタ(Zheti-ata)」です。

 さまざまな鉄器時代遊牧民文化の遺伝的構造や、その起源と衰退に関する人口統計学的事象を理解するため、カザフ草原全域(カザフスタンとキルギスとロシア)の39ヶ所の遺跡で回収された古代人111個体と、現在のハンガリーに位置するフン人エリートの埋葬から回収された1個体のゲノム規模データが生成されました。本論文のデータセットの範囲はおもに紀元前8世紀~紀元後4世紀までで、中世の3個体も含みます(図1)。また、最近の歴史事象が現代遊牧民の遺伝的構造をどのように形成してきたのか、よりよく理解するため、現在のカザフスタンの全域にわたる、主要な3ジュズに分類されるいくつかの部族に属する現代カザフ人96個体の新たなゲノム規模データも生成されました。

 1233013ヶ所の一塩基多型を濃縮するよう設計されたDNA解析技術を用いて、古代人117個体のゲノム規模データが得られました。品質管理の後、現代カザフ人96個体と古代人111個体のデータが保持され、少なくとも2万ヶ所を超える一塩基多型が網羅され、全個体で常染色体網羅率1.5倍のゲノム規模データが得られました。これら新たなデータは、以前に公開された現代および古代の個体群の参照データセットと統合され、586594ヶ所の一塩基多型で主成分分析および混合分析が行なわれました。各個体は、年代と考古学的文化により分類されました。以下、本論文の図1です。
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●カザフ草原における鉄器時代の移行

 全体として、主成分分析とADMIXTUREでは、かなりの人口統計学的変化がカザフ草原の青銅器時代から鉄器時代の移行期に起きた、と示唆されます(図2)。紀元前二千年紀末までカザフ草原全域で見られるひじょうに均質な草原地帯中期~後期青銅器時代(MLBA)とは対照的に、鉄器時代個体群は主成分分析空間全体、とくにPC1軸とPC3軸に散らばっています。これらPC軸に沿った広がりはそれぞれ、MLBA人口集団と比較しての余分なユーラシア東部人との類似性と、最終的には新石器時代イラン人および中石器時代コーカサス狩猟採集民(以下、イラン人関連祖先系統と呼ばれます)と関連する南部人口集団との余分の類似性の、さまざまな程度を示唆します。

 高い遺伝的多様性にも関わらず、同じ文化および/もしくは地域の古代の個体群の均質なクラスタを評価できます。年代順に従うと、前期鉄器時代タセモラ文化と関連する遺跡の個体群のほとんど(タセモラ650BCE)と、カザフスタン中央部・北部の「サカ文化カザフスタン中央部・北部600BCE」は、主成分分析の中央部でクラスタ化し、ADMIXTURE分析では遺伝的構成要素の均一なパターンを示します(図2A・D)。トゥワのアルディベル(Aldy-Bel)文化遺跡の以前に報告された2個体も、この遺伝的集団内に収まります(図2A)。この遺伝的特性は後の中期・後期鉄器時代で持続し、ベレル(Berel)のパジリク文化遺跡のほとんどの個体(パジリク・ベレル50BCE)により示されます(図2B)。

 この鉄器時代クラスタは、同じ地域に居住していた以前の草原地帯MLBA集団とは異なり、これはほぼPC1軸沿いにユーラシア東部人の方へとかなり動いているためです。さらに、主要クラスタよりもユーラシア東部人へと一層強く動いている外れ値も明らかになりました。これは、パジリク・ベレル50BCEの外れ値2個体と、ビルリク(Birlik)のタセモラ文化遺跡の3個体(タセモラ・ビルリク640BCE)と、カザフスタン中央部・北部のコルガンタス(Korgantas)段階の4個体のうち3個体です(図2B)。ユーラシア東部人の遺伝的特性を有するビルリクの女性1個体(BIR013.A0101)は、典型的なユーラシア東部草原地帯の特賞を示す副葬品(青銅鏡)とともに発掘されました。

 天山山脈地域から南方までの古典的な鉄器時代サカ文化個体群(サカ・天山600BCE、サカ・天山400BCE、以前に報告されたサカ・天山200BCE)は、タセモラ文化・パジリク文化クラスタとイラン人関連遺伝子プールとの間でPC3軸沿いに勾配で分布します(図2A・B)。新石器時代イラン人へのより強い類似性も、ADMIXTURE分析で見つかります(図2D)。イラン人関連遺伝子プールへの移動は、早くも紀元前650年頃に、サカ文化のエリート被葬者から回収されたエレケ(Eleke)・サジー(Sazy)の1個体(ESZ002)で見つかりますが、カスパン(Caspan)の紀元前700年頃となる最初の天山サカ文化遺跡の1ヶ所で発見された4個体のうち3個体は、タセモラ・パジリク集団の範囲内に収まります。

 カザフ草原北方の森林草原地帯の定住性サルガト文化と関連する個体群(サルガト300BCE)は部分的に、タセモラ・パジリク文化クラスタと重なりますが、主成分分析では、ユーラシア西部人(PC1軸)および内陸部北方ユーラシア人の最上端の勾配(PC2軸)へと移動する集団を形成します(図2B)。主成分分析と一致して、サルガト文化個体群は、さらに南方の遊牧民集団では検出されなかった、アジア北東部人祖先系統のさまざまな種類の小さな割合を有しています(図2D)。

 タセモラ・パジリク集団に収まる外れ値1個体を除いて、早期のサルマティア450BCEや後期のサルマティア150BCE、西部のサルマティア・カスピ海草原地帯350BCEといったサルマティア文化と関連する個体群は、広範な地域と期間にまたがっているにも関わらず、遺伝的にひじょうに均質です(図2A・B)。カザフスタン中央部および西部の早期サルマティア文化の7ヶ所の遺跡からの本論文の新たなデータ(サルマティア450BCE)は、この遺伝子プールがすでにサルマティア文化の初期段階にこの地域に広がっていた、と示します。さらに、サルマティア人は、ユーラシア西部人へと動くクラスタの形成により、他の鉄器時代集団とは急激な不連続性を示します。以下、本論文の図2です。
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●鉄器時代人口集団の混合モデル化

 qpWaveとqpAdmにより実行された鉄器時代集団の遺伝的祖先系統モデル化では、草原地帯MLBA集団が鉄器時代スキタイ人におけるユーラシア西部祖先系統起源にほぼ適切に近似しているのに対して、ヤムナヤ(Yamnaya)文化やアファナシェヴォ(Afanasievo)文化集団のような先行する草原地帯前期青銅器時代(EBA)クラスタは近似していない、と確認されました。ユーラシア東部人の代理として、時空間的近接性に基づき、モンゴル北部のフブスグル(Khovsgol)の後期青銅器時代(LBA)牧畜民が選ばれました。他のユーラシア東部人の代理は、古代北ユーラシア人(ANE)系統(関連記事)への類似性の欠如もしくは過剰のため、モデルに適合しませんでした。

 しかし、このフブスグルと草原地帯MLBAの2方向混合モデルは、スキタイ人の遺伝子プールの遺伝的構成要素を完全には説明しません。欠けている断片は、コーカサス・イランもしくはトゥーラーン(現在のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン)の中部地域に居住していた古代人口集団と関連する起源集団からの、小さな寄与とよく一致します(図3A)。この祖先系統の割合は経時的・地理的に増加します。最北東部のアルディ(Aldy)・ベル(Bel)700BCE集団ではごくわずか、早期のタセモラ650BCEでは6%、パジリク・ベレル50BCEでは12%、サルガト300BCEでは10%、サカ・天山600BCEでは13%、サカ・天山400BCEでは20%で(図3A)、f4統計と一致します。サルマティア人のモデル化にも、イラン人関連祖先系統が15~20%ほど必要となりますが、東部スキタイ人集団よりもフブスグル関連祖先系統がずっと少なく、草原地帯MLBA-関連祖先系統が多くなっています。

 サルマティア人と後の天山サカ人にとって、銅器時代集団やBMACやBMAC後といったトゥーラーンの集団のみが起源集団として一致しますが、イランとコーカサスからの集団は適合しません。本論文では、代表的な代理としてBMACとBMAC後の集団が用いられました(図3A)。タセモラ・ビルリク640BCEやコルガンタス300BCEやパジリク・ベレル50BCEoといった外れ値の余分なユーラシア東部人の流入は、フブスグルのような以前の集団と同じユーラシア東部の代理には由来しません。代わりに、ロシア極東の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)遺跡の前期新石器時代集団(悪魔の門N)に表される、古代アジア北東部人(ANA)系統でのみモデル化できます(図3A)。以下、本論文の図3です。
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●カザフ草原における鉄器時代後の遺伝的置換

 紀元後千年紀早期(鮮卑・フン・ベレル300CE)からカラカバ(Karakaba)830CEやカヤリク(Kayalyk)950CEなどの個体群まで、上述の新たなユーラシア東部人の流入の劇化が観察されます。これらの個体群は主要な鉄器時代タセモラ・パジリクのクラスタからANA 集団に向かってPC1軸沿いに散在しています(図2C)。紀元後3世紀のフン人エリート層埋葬と関連する2個体は、一方がカザフスタン西部のアクトベ(Aktobe)地域のクライレイ(Kurayly)遺跡で、もう一方がハンガリーのブダペストで発見されていますが(フン人エリート350CE)、この勾配に沿って密集してクラスタ化します(図2C)。

 カザフスタン南部のオトラル(Otyrar)オアシスの古代都市の個体群は、ひじょうに明確な遺伝的特性を示します。コンレイ(Konyr)・トベ(Tobe)300CE と呼ばれる5個体のうち3個体は、類似の年代と地域の康居250CE個体群と近く、サルマティア人とBMAC集団の間に位置します(図2C)。コンレイ・トベ個体群のうちKNT005は主成分分析ではBMACの方へと動いています(図2C)。さらに、KNT005はアジア南部人のY染色体ハプログループ(YHg)L1a2(M357)を有する唯一の個体で、ADMIXTUREではアジア南部人の遺伝的構成要素を示します(図2D)。KNT004はPC1軸ではアジア東部人の方へと動いています。アジア南部人からの流入を10%、ユーラシア東部人からの流入を50%含む混合モデルは、それぞれ適切にKNT005と KNT004を説明します。対照的に、コンレイ・トベ遺跡の200km東方に位置する天山山脈のアライ・ヌラ(Alai Nura)遺跡の個体群(アライ・ヌラ300CE)は依然として、コンレイ・トベ300CE により近い4個体およびタセモラ・パジリク集団により近い4個体とともに、天山サカの鉄器時代勾配に沿って位置しています(図2C)。


●古代の混合の年代

 DATESプログラムでの混合年代測定により、紀元前1500~紀元前1000年頃の主要なスキタイ人遺伝子プールの形成が明らかになります(図3C)。DATESは2方向混合のみをモデル化するよう設計されているので、qpWaveとqpAdmで得られた推定される3方向モデルを説明するため、3対比較が個別に検証されました(草原地帯MLBAとBMACとフブスグル)。DATESは、ユーラシア東西の2組、草原地帯MLBAとフブスグル、BMACとフブスグルについて、指数関数的減衰の適合に成功しましたが、ユーラシア西部同士(草原地帯MLBAとBMAC)では失敗しました。

 各標的について、草原地帯MLBAとフブスグル、およびBMACとフブスグルでは、ほぼ同じ混合年代推定が得られました。本論文の推定年代は、真のシミュレーション3方向混合を反映しているというよりはむしろ、2つのユーラシア西部起源集団からの相対的寄与により重みづけされる、遺伝的に区別できる東部(フブスグル)と西部(草原地帯MLBAとBMAC)の祖先系統間の平均年代をほぼ反映している、と考えられます。BMAC 関連祖先系統が増加するにつれて、天山サカ集団におれる混合年代が新しくなる、とDATES により明らかになったことは注目されます。サカ・天山600BCEからサカ・天山400BCEまで、タセモラ650BCEの年代についてパジリク・ベレル50BCEおよびサルガト300BCEと同様に、とくに後のアライ・ヌラ300CEにおいてはそうです。

 鉄器時代に継続したBMAC関連起源集団からの小規模な遺伝子流動は、BMAC関連祖先系統の割合の増加と、ますます新しくなる混合年代の両方を説明できるかもしれません(図3A)。繰り返しになりますが、推定された年代は、BMAC関連起源集団との鉄器時代の混合と、草原地帯MLBAとの後期青銅器時代の混合の平均を反映しているので、それらの推定年代は鉄器時代の遺伝子流動の実際の年代よりも古い期間に動いている可能性があります。

 qpAdmの結果を確認して、タセモラ・ビルリク640BCEとコルガンタス300BCEの混合個体群(混合東部鉄器時代)は、ひじょうに最近の混合年代を示します(図3C)。鮮卑・フン・ベレル300CEとフンエリート層350CEとカラカバ830CEといった後の集団はさらに、混合の最近の年代というこの傾向を確証し、この新たなユーラシア東部流入は鉄器時代に始まった可能性が高く、少なくとも紀元後千年紀の最初の数世紀の間継続した、と明らかになります。


●現代カザフ人

 現代カザフ人で行なわれた主成分分析とADMIXTUREとCHROMOPAINTER/fineSTRUCTUREの詳細な規模のハプロタイプに基づく分析は、地理的位置もしくはジュズの所属に関わらず、カザフ人の間での緊密なクラスタ化と検出可能な下位構造の欠如を明らかにします(図2)。ほぼ地理的起源を反映するジュズの所属に従ってカザフ人個体群を分類し、独立した複製としての経路にしたがってGlobetrotter分析を実行して、カザフ人の遺伝子プールに寄与しているさまざまな祖先系統の起源集団が識別され、混合事象の年代が測定されました。Globetrotter分析は、3集団が同じ起源構成要素と混合年代を有し、さまざまなユーラシア西部・南部・東部の祖先系統の複雑な混合の結果である、と確認しました。Globetrotterにより特定された混合年代は、現代カザフ人の遺伝子プール形成の狭く最近の時間範囲(紀元後1341~1544年頃)を浮き彫りにします。


●考察

 アジア中央部の古代人100個体以上の本論文の分析は、カザフ草原の鉄器時代遊牧民人口集団が広範な混合を通じて形成され、草原地帯の先行するMLBA人口集団と近隣地域人口集団との間の複雑な相互作用から生じた、と示します(図2A、図3 A・C、図4A)。本論文の知見は、スキタイ文化の起源について新たな光を当てました。本論文は、スキタイ文化のポントス・カスピ海草原起源を裏づけず、じっさい、同説は最近の歴史学と考古学ではひじょうに疑問視されています。カザフ草原起源説は、代わりに本論文の結果とよりよく一致しますが、人口集団拡散の単一起源と、文化伝播のみの複数起源という、二つの極端な仮説の一方を裏づけるというよりもむしろ、少なくとも2つの独立した起源と、人口集団拡散および混合の証拠が明らかになりました。とくに東部集団は、シンタシュタ(Sintashta)文化やスルブナヤ(Srubnaya)文化やアンドロノヴォ(Andronovo)文化など、さまざまな文化と関連しているかもしれない先行する在来の草原地帯MLBA起源集団と、近隣のモンゴル北部地域に後期青銅器時代にはすでに存在していた、特定のユーラシア東部起源集団との間の混合の結果として形成された遺伝子プールの子孫であることと一致します(関連記事)。

 カザフスタン中央部と北部の前期鉄器時代タセモラ文化集団の遺伝的構造は、ほぼこれら2祖先系統で構成されていますが、そのモデル化にはイラン人関連起源集団からの遺伝子流動もわずかに必要です(図3 A、図4A)。トゥーラーンの全体的なBMAC関連人口集団は、本論文のモデルに最適であるものの、コーカサス北部青銅器時代集団のようなさらに西方のイラン人関連起源集団では適合しない、と明らかになりました。これらの結果は、南方文化と北方草原地帯の人々との間の文化的接続という、歴史学と考古学の仮説を確証します。このBMACからの流入は、後の紀元前4世紀~紀元後1世紀となる、ベレルに位置する北東部のパジリク文化遺跡のスキタイ人集団で継続し、南東部に位置する天山山脈のサカ文化個体群で次第に増加し、不均一に分布します(図2B・D、図3 A・C、図4B)。

 以前に報告されたトゥワ地域のアルズハン2(Arzhan 2)遺跡のアルディ・ベル文化の2個体は、主要な東部スキタイ人遺伝的クラスタ内に収まり、最初のスキタイ埋葬が見つかる同じ遺跡にも存在した、と確認されます。モンゴルにおける鉄器時代移行からの最近の知見と組み合わせると(関連記事)、これらのデータは、全東部スキタイ人を形成した主要な遺伝的下位構造のアルタイ地域起源を示しているようです(図4B)。ウラル地域南部の西部サルマティア人も、東部スキタイ人と同じ3祖先的起源集団間の混合の結果として形成されました(図3 A)。それにも関わらず、ユーラシア東部人祖先系統はサルマティア人ではわずかしか存在しません(図3 A)。さらに、サルマティア人と東部集団との間の、その早期の混合(図3 C)と混合勾配の欠如(図2A・B・D)からは、サルマティア人が、東部スキタイ人に寄与した遺伝子プールと比較して、関連しているものの異なる後期青銅器時代遺伝子プールに由来し、おそらくは後期青銅器時代混合勾配に沿って異なる位置にある、と示唆されます。

 既知で最初のサルマティア人遺跡の場所を考えると、この遺伝子プールは後期青銅器時代ウラル地域南部に起源がある、と仮定されます(図4B)。コーカサスとヨーロッパ東部の、後の年代で西端となるスキタイ文化からのより多くのデータが、本論文で分析されたカザフ草原のより早期のスキタイ人との遺伝的類似性の、さらなる理解を提供するでしょう。さらに、本論文の結果から、北部の定住性サルガト関連文化個体群は、スキタイ人、とくに東部遊牧民集団と密接な遺伝的近似性を示す、と明らかになります(図2B)。サルガト文化個体群は、究極的にはシベリア北部系統と関連する、スキタイ人には見られない追加の遺伝的類似性を示します(図2D、図3 A)。これは、サルガト文化集団が、侵入してくるスキタイ人集団と、標本抽出されていない在来人口集団、もしくは恐らくこの余分なシベリア人祖先系統を有する近隣人口集団との間の混合の結果として形成された、との歴史的仮説と一致します。

 紀元前千年紀後半から、興味深いことに、カザフスタン中央部のタセモラ文化を置換したコルガンタス文化の出現と関連する多くの外れ値で、大きな遺伝的変化が検出されます。とくに、後期青銅器時代の変化に寄与した起源集団とは異なる、ユーラシア東部起源集団からの流入が観察されます(図3 A、図4C)。紀元前千年紀の変わり目に、この混合された遺伝的特性は、鮮卑・フン文化および後の中世個体群と関連する北東部個体群間で広がるようになりました(図2C・D、図3 B、図4C)。それらの個体群で得られたひじょうに変動的な混合割合と年代から、これが紀元後千年紀(少なくとも紀元後1世紀~紀元後5世紀)を特徴づける継続的な過程だった、と示唆されます(図3 C)。紀元後千年紀の追加の遺伝的データが、この不均質性の性質と程度のより包括的な理解を可能とするでしょう。

 代わりに、カザフスタン南部地域では、オトラル・オアシスの古代都市に位置するコンレイ・トベ遺跡の個体群が、イラン人関連遺伝的祖先系統の増加によりほぼ特徴づけられる、異なる遺伝的置換を示し、ペルシア帝国の影響を反映している可能性が最も高そうです(図4C)。ユーラシア東部人との高い混合もしくはアジア南部からの遺伝子流動を有する外れ値個体群からは、この時点でオトラル・オアシスの古代都市人口集団は不均質だった、と示唆されます(図2C)。この時期に、オトラルは康居王国の中心で、シルクロードの交差点でした。天山山脈の近隣地域では、アライ・ヌラの紀元後3世紀の遺跡の個体群で、ずっと早い鉄器時代天山サカ個体群に典型的な遺伝的特性がまだ見られます(図3 B)。

 カザフスタンの鉄器時代と鮮卑・フンと中世で観察される不均質性と地理的構造化は、現代カザフ人で観察される遺伝的均質性とはひじょうに対照的です。詳細なハプロタイプに基づく分析はこの均質性を確認し、以前の知見(関連記事)と一致して、カザフ人の遺伝子プールはユーラシア東西のさまざまな起源集団の混合である、と示します。古代人口集団に関する本論文の結果から、これがひじょうに複雑な人口史の結果で、経時的に混合するユーラシア東西の祖先系統の複数の層を伴う、と明らかになりました。

 現代カザフ人で得られた混合年代は、カザフ・ハン国が設立された期間(紀元後15世紀)と重なります。さらに、現代カザフ人の遺伝子プールは、鉄器時代後の北部の鮮卑・フンおよび南部の康居と関連する遺伝子プールの混合として、完全にはモデル化できません。これらの知見から、紀元後二千年紀に起きた可能性が高い最近の事象は、厳密な族外婚を有するカザフ・ハン国の設立の結果として、最終的にカザフ人の遺伝子プールの均質化につながった、この地域のより多くの人口統計学的交代と関連していた、と示唆されます。以下、本論文の図4です。
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 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、おもに現在のカザフスタンを対象に、スキタイ人を中心としてユーラシア内陸部人口集団の遺伝的構造とその経時的変化を検証し、新たな古代人100個体以上のゲノム規模データを提示したことからも、たいへん意義深いと思います。本論文は改めて、ユーラシア草原地帯の人口集団が大規模な移動と複雑な混合により形成されてきたことを示しました。人口集団の遺伝的構造が、均質から不均質へ、また均質へと変わっていく様相は、動的なユーラシア草原地帯の歴史を反映しているのでしょう。これは、ユーラシア草原地帯で巨大勢力が急速に勃興し、また急速に崩壊することとも関連しているのかもしれません。今後、歴史学でも古代DNA研究の成果が採用されていくのではないか、と予想されます。

 私が日本人の一人として注目したのは、コンレイ・トベ300CEの個体KNT004(紀元後236~331年頃)が、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)では、YHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)で、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はHV18と分類されていることです。YHg-D1a2a2aは「縄文人」で確認されており、一般的には「縄文系」と考えられているでしょうが、それが現在のカザフスタン南端の紀元後3世紀の個体で見られる理由については、私の知見ではよく分かりません。一般的に、片親性遺伝標識、とくにY染色体は現在の分布から過去を推測するのに慎重であるべきで、研究の進展により、YHg-D1a2a2aの分布についてより詳細に明らかになるでしょうから、それまでは判断を保留しておくのが妥当でしょうか。KNT004は、ADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の個体群(関連記事)に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高く、それとも関連している可能性が考えられます。


参考文献:
Gnecchi-Ruscone GA. et al.(2021): Ancient genomic time transect from the Central Asian Steppe unravels the history of the Scythians. Science Advances, 7, 13, eabe4414.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abe4414