安藤優一郎『島津久光の明治維新 西郷隆盛の“敵"であり続けた男の真実』

 イースト・プレスより2017年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。島津久光の一般的な印象は、今でもたいへん悪いように思います。時代錯誤の頑迷な保守派で、名君である異母兄の斉彬と比較して人物は大きく劣り、明治維新の功績は久光ではなく大久保利通たち家臣のもので、それどころか、久光は家臣たちに騙されて討幕に加担してしまった間抜けな人物だった、というわけです。最近では、久光の評価が見直されており、幕末における主導的な役割が認められている、と一般向けの本や雑誌でも指摘されているので、一度まとまった本を読もうと考えて、本書を購入しました。

 本書は久光の評伝ですが、幕末から明治にかけての激動の時代に久光を位置づけるため、鎌倉時代にさかのぼって島津家の歴史を解説します。本書がとくに重視するのは、江戸時代において島津家と徳川将軍家との間には姻戚関係があった、ということです。島津家は将軍の御台所を二人も輩出しており、徳川将軍家とは、相互に警戒しつつも、密接な関係を築いていました。本書は、こうした関係を前提として、島津家中では討幕路線が主流ではなかった、と指摘します。西郷隆盛や大久保利通は薩摩藩では非主流派だった、というわけです。討幕に薩摩藩の主流派が消極的だったのは、薩英戦争による打撃で出費が増加したことも一因でした。しかし、久光が健康状態の悪化により政治から離れた時期に、西郷と大久保が主導して薩摩藩は討幕へと動きます。

 薩摩藩が最終的に西郷隆盛や大久保利通の武力討幕に踏み切った要因として、徳川慶喜への不信感があります。慶喜が将軍に就任してからしばらくは、薩摩藩と幕府との関係は良好でしたが、四侯会議の結果、慶喜には雄藩と協調する意思はない、と島津久光や他の薩摩藩有力者は判断しました。ただ、それが直ちに薩摩藩における武力討幕路線の確立につながったのではなく、上述のように、久光を筆頭に武力討幕路線を拒否する有力者は少なくありませんでしたが、久光が病気で政治的影響力を低下させ、上京した息子で藩主の茂久は、西郷の強硬路線を支持しました。不本意ながら幕府を滅亡に追い込んだ薩摩藩主流派にとって、明治時代に大きな課題となったのは徳川家との関係修復でした。これは、島津家と徳川家との姻戚関係の復活として果たされました。

 本書は、西郷と大久保が主導した薩摩藩による討幕という幕末史像を、島津久光を中心とした観点から見直し、明治時代の島津家と徳川家との関係修復にも言及しており、通俗的ではなく、近年の研究に基づいた歴史を学ぶのに適した一般向け書籍になっている、と思います。薩長同盟に関しては、軍事同盟ではなく、長州藩の復権を支援する盟約にすぎなかった、と指摘されています。久光(というかその両親)派と斉彬派との激しい対立は有名ですが、久光は個人的には、斉彬と強い信頼関係で結ばれていた、と本書は指摘します。