町田明広『攘夷の幕末史』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2010年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は複雑な幕末情勢を、主に「攘夷」の観点から解説します。本書は、幕末の「日本人(の武士など一定以上の知識層」にとって「攘夷」は常識だった、と指摘します。「国論」が分裂したのは、「攘夷」の具体的手段が大きく二つに分かれていたからでした。一方は、現時点での日本の武力が列強に劣ることを認め、通商条約を容認し、海外貿易で力を蓄えた後、日本の武威を海外に示そうとする「大攘夷」です。もう一方は、通商条約を直ちに破棄し、それによる列強との戦争も辞さない、とする「小攘夷」で、外国人や外国勢力と通ずると疑われた「日本人」を殺害することもありました。本書は、こうした観念が幕末に急に出現したのではないと指摘し、幕末以前の外交にさかのぼって攘夷の問題を検証します。

 幕末動乱の前提として、本書は江戸時代における華夷秩序観念の浸透と、海禁(いわゆる鎖国)政策による幕府の貿易独占(およびごく一部の藩の貿易への部分的関与)を挙げます。幕末史となると、どうしてもペリーの来航が一般的には注目されますが、本書は、その半世紀前頃から始まったロシアとの接触を重視し、ロシアとの接触を通じて松平定信政権期に「鎖国」概念が成立した、と指摘します。また本書は、いわゆる鎖国期の日本に関して、政治が安定し、教育水準が向上して、近代化の準備が整えられていった、と肯定的な側面も指摘します。

 ペリー来航に伴う日米和親条約は、同時代人には「鎖国」の維持と考えられ、「開国」が問題となったのは通商条約でした。18世紀末の時点ですでに武威の低下していた江戸幕府が、朝廷から大政を委任されている、と権威づけしていたことも、権力の二重構造というか権威と権力の並立の問題を顕在化させ、幕末の動乱を激化させました。上述のように 、当時の知識層にとって攘夷は常識で、それは当時の幕閣の中で一般的に「開国派」と認識されている要人も同様でした。「開国」最大の功労者である岩瀬忠震も、漢字文化圏的華夷思想に基づく攘夷主義者だった、と本書は指摘します。

 幕末の動乱を加速させたのは、朝廷と幕府の二重政体でした。とくに攘夷実行に関しては、両者からの指示(政令二途)で西国を中心として諸藩は悩まされました。この矛盾の中で起きた事件として、本書は朝陽丸をめぐる長州藩と小倉藩の衝突に注目します。これは八月十八日政変の前後に起きた事件で、長州藩と小倉藩の衝突への対応として、幕府が長州藩に糾問の使者を派遣したものの、その使者は長州藩の奇兵隊過激派に殺されました。朝陽丸事件は幕府と長州藩の戦争に至った可能性もあった、と本書は指摘します。また本書は、朝陽丸事件が八月十八日政変の一因になったことと、長州藩が攘夷実行に関して一枚岩ではなかったことも指摘します。