麻田雅文『日露近代史 戦争と平和の百年』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2018年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は幕末から1945年までの日露(日ソ)関係史です。近現代日本の対外関係において重要な国がイギリスとアメリカ合衆国であることは、現代日本社会において一致する見解でしょう。第二次世界大戦で日本はその両国と戦い惨敗したため、戦後日本政治ではその両国、とくにアメリカ合衆国との協調関係が至上命題とされました。一度は戦争に至ったものの、協調関係志向の期間が長かった対英米関係に比して、対露(ソ)関係は、日露戦争や冷戦での対立の印象もあり、対立の歴史が強調されてきました。

 しかし近現代日本において、ロシア(ソ連)との協調を志向する政治家は絶えずいましたし、協調的な関係が築かれた期間もありました。ただ本書は、これらロシア(ソ連)との協調を志向した人々は、日本外交の一潮流として無視できないものの、細々とした流れだった、と指摘します。本書は、近代日露(ソ)関係史を三区分し、各時期で対露(ソ)外交に積極的だった代表的な政治家を三人取り上げています。時期区分は、日露戦争前後までと、日露戦争後から大正時代と、満州事変から日ソ中立条約までです。各時代を代表するのが、伊藤博文と明治天皇、桂太郎と後藤新平、松岡洋右です。本書は最後に、大日本帝国終末期の対ソ外交を論じます。

 江戸時代の日露の交流は、漂流民を介した散発的なものでした。アヘン戦争でイギリスが清朝(ダイチン・グルン)を蹂躙しているとの風聞が日本に伝わると、佐久間象山など蘭学者の間でロシアとの連携が説かれるようになります。こうした幕末の対露提携には、橋本左内のように、覇権国(当時はイギリス)への対抗という目的が示されており、この構図は近代日本を貫くことになります。しかし、福沢諭吉などじっさいにロシアを訪れた知識階層の人々が、農奴制と皇帝専制政というロシアの実態を見てロシアへの評価を下げたことや、幕府がフランス、薩長がイギリスと交流を深めたことで、明治維新前後にはロシアへの関心は低下していました。

 明治維新後の日露関係は、国境交渉から始まりました。日露間で国境問題となったのは樺太で、伊藤博文は早くも1869年、樺太を放棄して北海道の保持に注力すべきと主張しました。この樺太問題をめぐって、強硬派の西郷隆盛と外交解決派の大久保利通とが対立します。西郷の失脚後、大久保は榎本武揚を起用してロシアと交渉させ、1875年、樺太千島交換条約により、日本は樺太を放棄して千島列島を全て領土としました。この後、明治天皇がロシア皇帝に好意的で、伊藤博文がロシアを警戒しつつも協調関係を築こうとしたため、日露関係は比較的安定していましたが、1891年の大津事件により、日露関係は危機に陥ります。これは、ロシアとの関係を重視してきた明治天皇や伊藤博文や榎本武揚たちの奔走により、開戦のような破局には陥らずにすみました。しかしその後、日露関係は朝鮮半島をめぐって悪化し、それは三国干渉により決定的となります。ただ、日本政府首脳部、とくに長州系の伊藤博文と山県有朋と井上馨は、ロシアとの宥和を模索しました。これは結局実らず、日露戦争が勃発しますが、伊藤は1903年になっても日露協商の可能性に拘っていました。それどころか、伊藤が最終的に日露開戦を決意したのは1904年1月でした。

 日露両国は戦後の1906年2月、国交を回復します。すぐに日露関係が良好になったわけではありませんが、1907年7月には、イギリスやフランスの後押しもあり、日露通商航海条約と第一次日露協約が結ばれます。日露の戦後の関係で重要な役割を担ったのが後藤新平でした。後藤は満鉄の経営を成り立たせるため、鉄道を介してロシアとの提携を模索しますが、思惑通りに進まないところもありました。しかし、この交渉で後藤はロシアに人脈を築き、後の日露(日ソ)関係で重要な役割を果たします。1909年に伊藤が殺害されたのは後藤にとって大きな痛手となり、後藤が伊藤の後継としてロシア外交で担ぎ上げたのは桂太郎でした。ロシアは日本による大韓帝国併合も容認し、アメリカ合衆国に対して日本と共同で満洲での利権確保に努めるなど、朝鮮半島や満洲で勢力範囲を線引きできたことで、友好的な対日関係が築かれます。

 この良好な日露関係は、1917年のロシア革命により大きく変わります。10月革命で権力を掌握し、ドイツと講和して連合国から離脱したボリシェヴィキ政権に対して列強がシベリアに出兵し、列強では地理的に最も近い日本は最大の兵力を派遣しました。後藤もシベリア出兵に同意しており、それには後藤なりの国益計算がありました。しかし、シベリア出兵は失敗に終わり、英米との協調という後藤の目論見に反して、とくにアメリカ合衆国との関係が悪化しました。後藤はシベリア出兵への負い目があったのか、ソ連との国交樹立に奔走します。後藤個人の努力は直接的には実らないところも多かったとはいえ、1925年1月に日ソ基本条約が調印されます。田中はその後も満洲での権益確保と対中政策の観点からソ連との提携を進めようとしますが、中国情勢の急変に対する日ソの隔たりは大きく、後藤の構想は実現しませんでした。

 1929年4月13日に亡くなった後藤の外交構想を継承したのは、松岡洋右でした。しかし、日ソ不可侵条約締結への日本国内の反対は強く、とくに陸軍の一部は対ソ防衛も目的としてきたことから予算を削減されるのではないか、と恐れていました。1936年11月25日に締結された日独防共協定により日ソ関係は悪化し、翌年始まった日中戦争によりさらに悪化します。それは、1938年の張鼓峰事件や1939年のノモンハン事件といった武力衝突につながります。本書はノモンハン事件を、「戦争」と呼べる規模だった、と評価します。さらに日本を苦境に追い込んだのは、1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約でした。これにより、日本は頼みとしていたドイツとの関係も悪化します。

 しかし、この苦境を逆手にとってソ連との不可侵条約を締結しようとする動きが出てきます。ドイツの一部にも日本の一部にも、独ソに日本、さらにはイタリアも加えて連合を形成しよう、というわけです。第二次近衛内閣の外相に就任した松岡は、日独伊三国同盟によりソ連に圧力をかけて有利な条件でソ連と不可侵条約を締結し、その圧力を背景に対米交渉に臨もうと構想します。1940年9月の日独伊三国同盟締結後、松岡はソ連との交渉に臨みますが、1941年3月、ドイツを訪問した松岡は、独ソ関係の悪化に気づきます。松岡はドイツのリッベントロップ外相から、ソ連との不可侵条約もしくは中立条約を締結しないよう警告されましたが、ソ連との中立条約締結は独ソ和解への第一歩になると考え、モスクワを訪れて1941年4月13日に日ソ中立条約が締結されます。難しいと考えられていた日ソ中立条約が急遽調印に至ったのは、独ソ関係の悪化、とくにバルカン半島情勢の悪化が原因と松岡は考えていました。松岡の構想は、1941年6月22日に始まった独ソ戦により完全に破綻します。すると松岡は、ソ連との「即時開戦」を主張します。松岡は後に、この主張が日本軍の南進を牽制するための謀略だった、と明かしています。しかし本書は、松岡が独ソ戦でのドイツの短期間の勝利を確信しており、ソ連への攻撃を主張していた、と指摘します。対米交渉の邪魔になると考えられた松岡は、第三次近衛内閣で外相に再任されず、実質的に追放されます。

 第二次世界大戦末期、戦局がきょくたんに悪化した日本では、講和交渉の仲介者としてソ連に期待する声が指導層の間で高まります。ソ連に対日参戦確約を伝える情報は日本にも届いていましたが、当時の日本の支配層は、ソ連を強く警戒しつつも、無条件降伏を恐れて、ソ連が仲介者の役割を担うことに期待しました。貧すれば鈍するというか、溺れる者は藁をもつかむ、という心理でしょうか。日ソ中立条約がまだ有効である1945年8月9日、ソ連は日本軍への攻撃を始め、ソ連軍を防ぐべく満洲に配置された関東軍は、すでにかなりの部隊が他戦線に投入されていたこともあり、ソ連軍の進撃を止めることはできませんでした。ソ連の対日参戦により、日本人では軍人のみならず民間人も多大な被害を受け、これがそれ以降の多くの日本人のロシア観を決定づけた、と本書は指摘します。

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