菊池秀明『太平天国 皇帝なき中国の挫折』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、中国史において分権的な政治体制が生まれる可能性はなかったのか、なかったとすればその理由は何なのか、長期的視野での考察が必要との問題関心から、19世紀半ばに起きた、人類史上で有数の人的被害規模をもたらしたと言われている、太平天国の乱を取り上げます。また本書は、太平天国の乱と幕末日本との関わりにも言及しており、日本でもキリスト教への姿勢の違いにより太平天国の乱への評価が異なっていたことを指摘します。

 太平天国の主導者となった洪秀全は1814年に生まれ、客家でした。後発移民だった客家はおおむね貧しく、差別的扱いを受けていたようです。そのため客家は、そうした境遇に置かれた劣等感の裏返しとして、自分たちこそは中華発祥地の中原から来た正統な漢人の末裔である、という屈折した自己認識を有していたようです。客家のこうした認識は、「選ばれし者」との洪秀全の後年の自認につながっていきます。洪秀全が科挙に不合格だったことは比較的よく知られているでしょうが、失意の中で幻夢を見た洪秀全は、キリスト教と出会います。1843年にプロテスタントの伝道パンフレットを読んだ洪秀全は、科挙に失敗したのは偶像を拝んだ結果であり、偶像崇拝を止めて真の神を尊敬せよ、との説教に衝撃を受け、自ら洗礼の儀式を行ないます。プロテスタントの宣教師は聖書を翻訳するさいにヤハウエを「上帝」と訳しており、洪秀全はキリスト教こそ太古の中国で崇拝されていた宗教と誤解します。ヨーロッパ文化の受容にさいして、中国史に原型を探し出し、中国「起源」故に価値があるとみなす傾向は、近代中国史で繰り返されます。

 洪秀全は上帝信仰への回帰を唱え、上帝教を創始して布教活動を始めたものの、アヘン戦争後間もなくの広東では外国への反発が強く、信者が増えなかったため、広西省へと向かいます。上帝会は広西南東部と広東西部で、客家を中心に発展していきます。上帝会の布教活動は現世利益を前面に押し出したもので、世界を大家族に喩えて救済を唱え、有力移民を中心とする社会秩序から見捨てられた人々に浸透していきました。勢力を拡大していった洪秀全は偶像破壊運動を進め、これが有力移民に激しく反発されます。これ以降、上帝会は反体制的な政治的性格を強く帯びることとなりますが、既存の体制に反発する一方、民間の信仰も取り入れていき、上帝会は民衆を惹きつけていきます。これは、洪秀全がキリスト教を誤解していたことに起因します。

 上帝会では、シャーマン的役割を担うようになった楊秀清により、天父ヤハウエのお告げ(天父下凡)で洪秀全が「天下万国の真主」とされ、地上の天国を樹立する使命を受けた、と信者には認識されていきます。洪秀全は慎重に武装蜂起の準備を進め、1850年末に上帝会は地方官の派遣した軍を撃退し、1851年1月、ダイチン・グルン(大清国)政府軍との本格的な戦闘を開始します。太平天国という国名がいつ決められたのか、正確には明らかではありませんが、一般的には1851年1月とされています。太平天国とは、上帝ヤハウエの庇護下で一切の対立や不公正を解消し、中国古来の「大同」の理想を実現する地上の天国という意味です。政府は大変が危険だと認識したものの、従来の軍事力は弱体化が進み、即座に鎮圧できませんでした。

 1851年11月、洪秀全は楊秀清など5人を王に封じ、地上の支配者は皇帝を名乗れない、との主張から洪秀全も王に留まり、5人の王との関係は皇帝と臣下の関係のように絶対的ではありませんでした。体制は、皇帝以前の中国を模範とする復古主義的体制のため、分権的な性格が強くなりました。洪秀全は「真主」として多分に宗教的な権威を担い、軍事と政治は他の王たちが担うようになります。こうした太平天国の性格は、旧秩序を否定しつつ継承もするもので、参加者は、社会改革というよりは、おおむね立身出世目的だったようです。また太平天国の重要な特徴として、性に禁欲的だったことが挙げられ、これは太平天国の読書人(知識層)の影響を示します。じっさい、太平天国では科挙が実施されましたが、キリスト教の影響を受けて儒教を否定する太平天国への読書人の反感は大きかったようです。一方で、西洋列強との交渉からは、太平天国が伝統的な華夷秩序の枠組みから抜け出せていないことも窺えます。ただ、太平天国においては、「華夷」の基準は儒教ではなく、(太平天国の理解する)キリスト教でした。

 勢力を拡大する太平天国において、楊秀清は天父下凡を利用して反対者を排除していきます。本書はこの過程が、毛沢東が整風運動を進めて反対運動を排除していった、延安時代の中国共産党とよく似ている、と説明します。太平天国が勢力を拡大した背景には、18世紀の人口爆発がありました。均分相続により個人の生活水準は下がる傾向にあり、そうした貧民や、政府高官として取り立てられない地域の指導者たちが太平天国に加わっていきました。この過程で太平天国は滅満興漢を主張し、それは辮髪の拒否でよく可視化されていました。滅満興漢の主張も、太平天国における漢字文化圏知識層の影響力の大きさを示しています。太平天国は滅満興漢を主張した檄文で、「中国」を多用します。洪秀全が初めてキリスト教に接した伝道パンプレットには、ヨーロッパが「夷狄」ではなく「西方」という価値中立的概念で表現されており、「中国人」と対比されていました。太平天国はヨーロッパとの出会いを通じて、後の民族的アイデンティティである「中国人」の境界を形成する、「我々」を発見しました。太平天国が現実の中国社会を批判するための表象としたのが満洲人王朝としてのダイチン・グルン(大清国)とその担い手である旗人で、太平天国の云う「中国人」には北方民族が含まれませんでした。太平天国の滅満興漢との主張は、旗人を偶像崇拝者とみなすことで「創出された」言説でした。1853年3月、太平天国は南京を占領します。この時、旗人が多数殺害されます。ここに、排除すべき「敵」を探し出し、容赦なく高下する不寛容さが見られますが、これは近代におけるヨーロッパ・キリスト教世界のアジアとアフリカに対する眼差しとも通ずるものでした。

 太平天国が目指したのは、一種の公有制でした。しかし、充分な耕地を確保できなかかったため食糧不足を解決できず、物資の分配と管理は不公平で、富を管理・配分する者の特権化をもたらしました。また、太平天国は地方村落出身の客家者が主体となったため大都市の生活に疎く、大都市住民の反感を買うことが多かったようです。これには、客家への大都市住民の蔑視や、その裏返しとしての客家の大都市住民に対する不寛容がありました。これも、とくに北方への太平天国の勢力拡大を妨げる一因となりました。太平天国の北伐は失敗し、中国統一の可能性は失われました。

 政府は太平天国の北伐を退けたとはいえ、安徽や湖北では苦戦していました。その間、湖南では曽国藩が太平軍に対抗すべく私的軍隊(湘軍)を創設します。湘軍を支えたのは、太平天国が取り込みに失敗した読書人でした。曽国藩は、在野の漢人勢力の台頭を警戒する咸豊帝に冷遇されながら、湘軍を率いて太平軍と戦い続けます。湘軍は太平軍を徹底して殺害していき、この新興エリートの血塗られた組織運営能力が、近代中国を突き動かす原動力になっていきます。本書は、湘軍と太平軍には違いも共通点もあり、中国の次代の勢力をかけての争いだった側面もある、と指摘します。

 太平天国にとって大きな転機となったのが1856年9月の天京事変で、天父下凡を利用して、時には洪秀全すら叱責し、従わせることもあった楊秀清が粛清されました。この時、楊秀清の配下も多数殺害されました。洪秀全は楊秀清に政軍の実権を委ねていましたが、楊秀清が洪秀全の宗教的権威まで求めてくると、もはや楊秀清を許容できませんでした。太平天国は中国で長く続いてきた暴力的な専制支配から脱却できず、古典的な「文明」の論理と厳しい競争原理ゆえに分権的な政治体制を実現できない中国社会の問題点は、その後の中国近代史に大きな課題を残します。

 天京事変後も、政府軍が太平軍を圧倒したわけではなく、一進一退の激しい攻防と殺戮の応酬が続きました。天京事変後の太平天国を支えた人物が、洪秀全の従兄弟である洪仁玕でした。洪仁玕は香港で正統的なキリスト教に接し、西洋列強の間で太平天国への失望が高まることに焦り、南京の洪秀全を訪ね、西洋列強との交渉も含む太平天国の改革を提案します。これらは、後の洋務運動や日本の明治維新に先立つ近代化とも評価されています。ただ、これらの改革は時期尚早と言うべきで、おおむね結実しませんでした。太平天国の外交も、すでに第二次アヘン戦争後の条約批准に重きを置いていたヨーロッパ列強の意向もあり、思惑通りにはいきませんでした。状況が不利になるなか、洪秀全は夢に頼るなど次第に現実逃避的になり、権威保持にさらに執着するようになったため、諸王が洪秀全から自立していきます。この過程で、太平軍の規律はさらに弛緩していき、一層民衆の支持を失います。もはや劣勢が明らかな中、洪秀全は南京脱出の進言を退けて南京に留まり、1864年5月下旬、病気に倒れ、6月1日に死亡します。翌月、湘軍は南京を攻め落とし、太平天国に従っていた者は性別年齢を問わず虐殺されました。

 本書は、中国古来の「大同」の理想を掲げながら、不寛容な教義を克服できず、権力の分割により生じた厳しい緊張関係を調停できなかったことに太平天国の失敗の真因があった、と指摘します。また本書は太平天国の乱の影響として、太平天国の失敗が内部分裂に求められ、中国は常に強大な権力により統一されていなければ破滅する、との観念が根づいたことを指摘します。それが、蒋介石の国民党でも中国共産党でも、強大な権力を掌握して異論を許さない「党国体制」につながっている、というわけです。

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