久米邦武「鎌倉時代の武士道」

 今年1月15日分の記事で、髙橋昌明『平清盛 福原の夢』を取り上げましたが、その髙橋氏の代表的著作である『武士の成立 武士像の創出』(東京大学出版会1999年)では、冒頭で原勝郎『日本中世史』と久米邦武「鎌倉時代の武士道」の武士論が対照的なものとして取り上げられ、本論への導入部となっています。

 「鎌倉時代の武士道」は、1908年の日本歴史地理学会の鎌倉講演における久米邦武の講演をまとめたもので、初出は日本歴史地理学会編『鎌倉文明史論』(1909年1月)です。引用は『久米邦武歴史著作集 第二巻 日本古代中世史の研究』(吉川弘文館1989年)より行ないました。以下、青字が引用箇所となります。

 冒頭で久米は

 今日は鎌倉時代の武士道と云ふ題を出しましたが、鎌倉時代には武士道と云ふものが無かつたと言うて宜いでせう。是は多分此四百年以来流行つた言葉で、其以前は無いと思ふ (中略) それならば鎌倉時代では何と言つたかと言へば弓馬の道、弓馬の道と云のが武士道かと言へば、武士道は即ち弓馬の道と言つて宜いけれども少し違ひがある。それから先づお話をしなければならぬ。弓馬の道と云ふは御承知でもあるが騎射することではない。弓術と馬術である。其弓術馬術に付いての心得や嗜を名けつ弓馬の道と云ふ。弓馬の道と云ふものは強ち武士が始めたと云ふ訳ではないが、何れ武士のすることであります。

 と述べています(P297)。この後、弓馬の道は全身の体格を定めることが肝要で、それは剣術や槍術など他の武術だけでなく、能楽や朝廷での儀礼なども同様である、と続き、これを受けて久米は次のように述べています(P300~301)。

 それで先づ今の体格の事に付いて御話致しませうが、其訳であるから段々と京都には名人が出来た。京の公卿と云ふ者は後に文弱になつて女同然に思はれて居たけれど、それは遥か後の事で、全体は日本の民族中で一番武勇に仕込まれた、先天的に其性を備へた人種であるから、全国総ての種族を征服してあの通りに国家を定める事になつた。だから今の皇族方でも華族でも、京都華族は元は公卿といつて弱いと思ふたけれども、明治以後になつて武術を励むことは京都華族の方が却つて宜い。宜いのは即ち原の胤が違ふ。武勇の胤である。さう云ふ訳ですから奈良の朝から平安朝迄は非常に京都の人が強かつた。強かつた代りに喧嘩をして皇族方を始め血を流すことが多かつたが、其禍が減ずるやうになるにつれて弱くなつたのです。弓馬の道は其中から現はれて来たから、弓馬の道が武士道と一口に言へば、武士が現はれて公卿は武事が出来ぬと云ふ様に聞ゆるに因つて、弓馬の道が即ち武士道と云ふ訳にいかぬ。

 弓馬の道は強ち武士が始めたわけではなく、元来は朝廷の中から生まれてきたものだった。貴族には文弱との印象が強いが、それは遥か後になってのことで、本来は武勇に長けた人々であり、だからこそ日本全土の種族を征服して国家を建てたわけで、彼らの間での様々な武力闘争の中から、弓馬の道が現われてきた、というわけです。

 続いて久米は、大略以下のように述べています(緑色の箇所)。

 朝廷には軍防令があるから、全国から豪族の子弟を上京させ、彼らに弓馬の道を仕込んだが、その中でも優秀な人が出世することになり、全国的に弓馬の道が浸透することになった。だが、各地方では、やはり本場の都の域には到底及ばない。都の弓馬の道というのは、名人の芸に達しているわけだが、国家機構が整備されていくにつれ、都では争乱が減って実際の武勇からは遠ざかっていき、形式的な奥義となっていった。これにたいして地方では、自力救済の社会の中で、実地の武勇が鍛えられていった。

 こうして、しだいに弓馬の道にも公家のそれと武士のそれとの違いが生じてきたが、両者とも同根であり、決して別々になることができず、前者は発達した文明的、後者は蛮勇というわけである。そして武士の弓馬の道も、人種の違いもあるのだろうが、自然に上方・東国・西国の三種に分かれてきた。三者の中で最も強かったのは、弓馬の道の本元にいて一体の研究も積んで居たのであろうが、そのうえに京都の御威光をもっている上方武士であった。源平合戦で上方武士の平氏と西国武士が東国武士に負けたのは大将が悪いからで、東国武士はそれほど強くはない。



 久米の主張の要旨は以上のようなものですが、『武士の成立 武士像の創出』での高橋昌明氏の要約を引用すると、武の本体は京都の公家社会にあり、そこで発達した弓馬の道を吸収することによって武門武士の武芸が生まれたこと、またその野蛮さにもかかわらず、都の武士に比して、東国武士は必ずしも強くはなかったというのである(P6)ということになります。一般に浸透した日本史像とは随分異なるところもありますが、怠惰で軟弱で実務から遊離したという平安貴族像の見直しや、1970年代以降の武士見直し論にも通ずる、先見的なところもある論文と言えるでしょう。

 久米は佐賀藩出身で、私は九州人だが東国武士はそれ程強くはないと思ふ。けれども負けたから仕方がない。ダガ是は実は大将が悪い。実は東国の者には負けはせぬと思ふけれど対象が悪かつたから仕方がない(P305)といった発言などには、その出自が大きく影響していたようです。

 原も久米も、都の文化が東国武士の発達に寄与したことを認めている点では見解が一致しているともいえますが、都の文化・貴族への評価には随分と温度差があるように思われます。都の文化・貴族への評価が低く、東国武士への影響も低く見積もる傾向がある原に対して、久米は、都の影響や貴族の武断的性格をあっさりと認めています。これには、幕末維新の敗者と勝者という、両者の背景の違いも多分に影響しているのかもしれません。

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