高橋典幸・五味文彦編『中世史講義 院政期から戦国時代まで』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2019年1月に刊行されました。日本中世史の勉強も停滞しているので、最新の研究成果を把握するために読みました。本書はたいへん有益でしたが、もちろん、中世史の論点は多岐にわたり、新書一冊で網羅することはできませんので、続編が望まれます。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。


第1講●高橋典幸「中世史総論」P13~28
 中世と古代との大きな違いとして、中世におけるイエの成立が挙げられています。イエの成立は朝廷・貴族社会から始まり、天皇家や摂関家などの最上位層から実務官人層にまでイエが見られるようになります。院政の始まりもこうした動向と関わっています。武士の成立もイエの形成と深く結びついていました。これら支配層よりも遅れましたが、百姓層でもイエが形成されていきます。中世の特徴として権力の分裂も指摘されていますが、社会全体が分裂・解体に向かわず、一定のまとまりを保っていた一因として、聖のような特定の組織・集団に属さない人々の活動が指摘されています。


第2講●佐藤雄基「院政期の政治と社会」P29~47
 現在、中世の始まりを院政期とする見解が一般的ですが、絶対的ではない、と本論考は指摘しています。また、院政期とはいっても院政が常態化していたわけではなく、親政も行なわれていた、とも指摘されています。院政期を特徴づけるのはイエの成立で、天皇家・摂関家から始まり、貴族社会に広がっていきます。ただ本論考は、嫡長子が家督を安定的に相続する制度が確立するのは中世後期になってから、とも指摘しています。中世の重要な特徴として荘園制もあり、在地の開発領主による寄進を重視する以前の見解から、立荘という公的手続きにより荘園が設立されていった側面が重視されるようになった、と解説されています。こうした各地の荘園を支えたのが在庁官人で、地方社会の成長も指摘されています。ただ、それが分裂傾向と全国規模の内乱(治承・寿永の乱)の前提になるとともに、人々が中央権門も含めてさまざまなつながりを有したことで、統合の動きが構造化したことも指摘されています。


第3講●榎本渉「日宋・日元貿易の展開」P49~64
 日本の対外関係史について、隋唐時代には学界でも一般層でも大きな関心が寄せられてきたものの、遣唐使の「廃止(じっさいは延期)」以降に関しては、学界でも以前は大きな関心が寄せられていなかった、と本論考は指摘します。その理由としては、対外関係が国家史を規定する条件として重視されていたことと、史料的制約が指摘されています。こうした状況が大きく変わる転機として、考古学での研究成果が挙げられています。日本と大元ウルスの間には2回も大きな戦い(文永・弘安の役)があったにも関わらず、宋代と変わらず貿易が盛んだった、とは近年になって一般層にも広まっているように思います。しかし本論考は、文永・弘安の役が日元貿易を停滞させ、クビライ死後にまた盛んになったものの、双方に不信感が残り、時として騒動勃発により貿易が停滞したこともあった、と指摘しています。


第4講●西田友広「武家政権の展開」P65~79
 本論考は、武家政権について概観した後、平氏政権から鎌倉政権の崩壊までを解説しています。武家政権は幕府とは限らず、またその首長が武家でない場合もあった、と本論考は指摘します。本論考は鎌倉政権の前史として平氏政権を重視しており、同時代の東北地方の奥州藤原氏も武家政権として評価されています。鎌倉政権に関しては、反乱軍として出発し、独自に所領支配を行なったことが、朝廷にたいする自律性・自立性をもたらした、と評価されています。鎌倉政権の当初の主要な支配地は東国でしたが、承久の乱を経て西国へも勢力を浸透させ、さらにはモンゴル襲来を契機に、じゅうらいは鎌倉政権が関与していなかった本所一円地も統治するようになっていった、と指摘されています。


第5講●大塚紀広「鎌倉仏教と蒙古襲来」P81~96
 鎌倉時代の仏教について、じゅうらいは「旧仏教」として乗り越えられるべき存在として把握されていた顕密仏教こそが、社会において大きな影響力を有しており、主流だった、と指摘されています。「鎌倉仏教」として革新性・新規性が注目されてきた浄土真宗や法華宗や曹洞宗などが大きく勢力を拡大したのは、室町時代後期(戦国時代)以降のことでした。本論考は、モンゴル襲来を撃退した寺社の功績が評価され、顕密仏教がますます繁栄していった、と指摘します。また、モンゴル襲来を契機に律僧集団が体制仏教としての性格を強めていったことや、モンゴル襲来後も禅宗と大元ウルスの禅院との関係が途切れなかったことも指摘されています。


第6講●小瀬玄士「荘園村落と武士」P97~115
 鎌倉時代の村落について、中世後期~近世、さらには高度成長期前まで日本列島に広く存在したような「村」があるのか、必ずしも明確ではない、と本論考は指摘します。荘園の形態は多様で、地域差もあり、農村だけではなく漁村や市・宿なども存在した、というわけです。そうした中で、畿内においては、13世紀後半以降、荘内に散在していた住人たちがじょじょに集住するようになり、村を形成していったようです。武士の支配については、館が中心となったことと、交通・流通の掌握の重視が指摘されています。また、鎌倉時代の武士の所領は散在していることも多く、一族を代官として派遣する事例もあったようです。ただ、遠隔地の所領の代官が自立することも珍しくなかったようです。地頭と荘園の百姓の関係については、地頭が一方的に搾取できたわけではなく、百姓の側が訴訟や逃散などで対抗したことも指摘されています。


第7講●遠藤珠紀「朝廷の政治と文化」P117~132
 鎌倉時代を中心に中世の朝廷の在り様が解説されています。中世の朝廷ではイエが成立していき、家格が固定化されるとともに、特定の職務・技能も家業として固定化されていきます。ただ、そうした固定化は収益の固定化でもあり、競合の結果特定のイエによる寡占化が生じたことも指摘されています。また本論考は、中世の朝廷において、業務内容・組織の組み替え・細分化が進み、それぞれの業務が合理化された側面も指摘しています。本論考はこうした体制を「官司地行制」と呼んでいます。後醍醐天皇については、こうした中世の朝廷の在り様を変えようとした「異形性」が指摘されたこともありますが、以前からの朝廷運営を継承し、変化せざるを得なかった部分に逐次対応していった側面が指摘されています。


第8講●高橋典幸「南北朝動乱期の社会」P133~148
 南北朝時代は、北朝の軍事的優位が比較的早い時期に確立したのに、長く続きました。本論考はその理由として、南朝の地方戦略と北朝側の室町幕府の内紛とともに、根本的理由として、公家では嫡流をめぐる争いが、武家では惣領と庶子の対立があったことを指摘しています。また、争乱が長引くなかで、各地の武士の間で結合(国人一揆)が形成されていったことも指摘されています。民衆の間でも、この長引く争乱に積極的に関わっていくとともに、惣村を形成していく動きが見られます。


第9講●川本慎自「室町文化と宗教」P149~164
 現代日本文化の源流とも言われる室町文化について、おもに禅宗の影響という観点から解説されています。日本の禅宗は、鎌倉時代に南宋の禅の影響を大きく受けて発展しました。本論考は、教学を寺院経営や生活よりも高尚とみなす日本仏教界に対して、生活即修行とする南宋の禅が、その後の日本の文化に大きな影響を与えた、と指摘します。禅宗寺院の組織は、大別すると学門や儀式に関わる西班衆と、経営や日常生活に関わる東班衆に大別されます。日本の従来の仏教界では、西班衆的な組織の東班衆的な組織に対する優位は自明なのですが、南宋の禅宗では両者は同等とされました。日本ではその後、西班衆の東班衆に対する実質的優位はあったものの、両者は平等との理念は生き続けました。そうした中で、東班衆から算術や水墨画が発展し、それらが西班衆の学術と融合して、経学や医学などが発展していった、と指摘されています。


第10講●中島圭一「中世経済を俯瞰する」P165~182
 古代と中世の調度や消耗品の生産の違いとして、対象が中央・地方の官衙からより広範な層へと移り、コストを抑えた商品生産への志向が高まった、と指摘されています。中世初期には、新興の武士層が対象とされました。こうした違いの背景として、中世荘園制の成立があり、国衙に一元化されていた物流が、荘園単位へと分散化されていった、と指摘されています。そのため、中世には古代と比較して港の数も増えました。商品生産への志向は鎌倉幕府滅亡後にさらに高まっていき、量産化が進みます。こうした中世経済は、京都や鎌倉を中心とする求心的な構造から地域分立が強まっていったことと、荘園制の衰退にともない、解体していきました。


第11講●岡本真「室町幕府と明・朝鮮」P183~200
 高麗、さらにその後に朝鮮半島を支配下朝鮮は14世紀半ば以降、倭寇対策でたびたび日本に使節を派遣しましたが、室町幕府の対応は消極的で、直接表舞台に立ったのは今川や大内といった守護でした。一方、14世紀後半に成立した明にたいしては、室町幕府は積極的に前面に立って交渉を試みます。これには、明から日本国王と認定された南朝方の懐良親王が明に軍事支援を仰ぐ可能性を、足利義満が警戒したからではないか、と推測されています。寧波の乱後、細川氏が日明貿易を独占した、との見解は否定されています。わけではなく、


第12講●三枝暁子「室町将軍と天皇・上皇」P201~216
 第二次世界大戦後、室町幕府が朝廷の権限を争奪・吸収していった、との見解が有力になっていきました。このように幕府と朝廷とを対立的に把握する見解にたいして、幕府も朝廷も互いを必要としていた、という視点が提示されるようになります。本論考は、そもそも室町幕府が朝廷との連携を前提として成立した政権だった、と指摘します。また、宗教政策の観点からは、幕府の権力構造が、朝廷の権限を奪取・吸収により形成されていったというよりは、既存の秩序を利用しつつ、新たな要素を多分に取り込むことで形成されていった、とも指摘されています。さらに、比叡山延暦寺(山門)との関係からも、幕府将軍(室町殿)の統合力と求心力の高さがきわだっている、とも指摘されています。


第13講●呉座勇一「戦国の動乱と一揆」P217~232
 一揆については、一般的に江戸時代の百姓一揆が想起されるでしょうが、中世には多様な一揆があった、と指摘されています。江戸時代の百姓一揆がデモやストライキに近い性格のものだったのにたいして、中世の一揆はそれだけではなく、団結そのものも一揆と呼ばれ、江戸時代とは異なり、百姓だけではなく、武士・僧侶・神官も結ぶものでした。戦国大名権力と一揆とを対立的に把握する見解にたいして、その後、両者の類似性を指摘する見解が提示されました。本論考はそうした見解に批判的ですが(関連記事)、戦国大名と一揆とを不倶戴天の敵みなす見解はもはや成り立たない、と指摘しています。一向一揆については、本願寺門徒のみで構成されていたわけではなく、本願寺と一向一揆との区別を強調する見解も提示されています。本論考は、本願寺の一向一揆にたいする影響力は万能ではなかったものの、一向一揆の中核に本願寺門徒が存在したことも事実と指摘しています。担い手・性格をどう把握するか、議論されてきた惣国一揆については、通常時において「惣国」を主導している「国衆」を中核として、非常時に百姓層を含む「惣国」全体で結成された集団が「惣国一揆」と把握されています。


第14講●阿部浩一「戦国大名の徳政」P233~246
 中世の徳政の契機には、為政者の代替わり・自然災害・戦乱などがありました。戦国大名の徳政の契機としては戦乱が多く、家臣に給恩の一種として与えられる個別徳政と、国・地域単位で一斉に発布・施行される惣徳政があります。主だった内容は借銭・借米の破棄で、家臣団の経済的困窮の救済、領主層の懐柔、疲弊した村落の救済といった目的で施行されました。徳政令が近世には見られなくなった理由として、限定的なところでしか有効性を発揮できなくなっていたことと、徳政の目指す「善政」は戦乱などへの対応としての限定的な法令ではなく、恒常的なシステムの中で構築されねばならなかったことが指摘されています。


第15講●五味文彦「中世から近世へ」P247~263
 中世史が概観されています。中世には家が形成されていき、まず朝廷において、天皇家・摂関家などが成立し、朝廷は家の集合体としての性格を有するようになりました。家の形成は武士層にも広がっていき、鎌倉幕府も家の集合体としての性格を有していました。家の分立は朝廷でも鎌倉幕府でも対立を招来し、後醍醐天皇による倒幕の成功には、そうした背景がありました。鎌倉幕府の滅亡から続く戦乱を収拾したのが足利義満で、朝廷も室町幕府も安定しました。しかし、この安定した体制は応仁の乱でにより崩壊します。こうした中世の動向の根底にあったのが土地制度で、中世社会は、大土地所有を志向する院宮王臣家・大寺社と、公領を確保しようとする国司との対立を止揚した、荘園公領制を基礎にしていました。院政も鎌倉幕府も、この荘園公領制を基礎にしていました。荘園公領制は名主・百姓の台頭により動揺し、南北朝の動乱を経て安定するものの、応仁の乱により大打撃を受け、村を直接支配する戦国大名の領国が形成されていきます。中世の文化・宗教もまず家を中心に展開し、中華地域の影響を受けつつ、多様に展開していきました。そうした諸要素が、戦国大名・天下人を軸として近世に統合・再分配された、との見通しを本論考は提示しています。

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