デニソワ人由来のチベット人の高地適応関連遺伝子

 種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)に由来するチベット人の高地適応関連遺伝子について、2020年度アメリカ自然人類学会総会(関連記事)で報告されました(Huerta-Sanchez et al., 2020)。この報告の要約はPDFファイルで読めます(P126)。高地に居住するチベット人は、高地適応関連遺伝子を有しています。そのうちの一つが、酸素供給の変化への生理学的反応を調節しているEPAS1遺伝子で、正の選択の顕著な痕跡を示すだけではなく、デニソワ人由来と推定されています(関連記事)。

 本報告は、デニソワ人からチベット人の祖先集団へのEPAS1遺伝子の移入と選択の年代を推測しています。EPAS1遺伝子がデニソワ人からチベット人の祖先集団にもたらされたのは4万~3万年前頃ですが、それがすぐに有益なアレル(対立遺伝子)として選択対象になったのではなく、もっと最近になってから有益なアレルとして選択されていった、と本報告は推測しています。チベット人の主要な祖先集団の一部がデニソワ人と交雑したのはユーラシア東部でもさほど高度の高い地域ではなく、その後でチベット高原のような高地に拡散した、ということでしょうか。

 ヒマラヤにおける人類集団の長期の遺伝的安定性を報告した研究では、高地適応関連遺伝子のEGLN1とEPAS1の高地適応型アレル頻度の違いから、両遺伝子における高地適応型ハプロタイプの頻度上昇時期が異なると推測されていましたが、その正確な時期についてはより多くの標本が必要になる、と指摘されていました(関連記事)。本報告はその研究と整合的で、さらに詳しく解明している、と言えそうです。チベット高原における16万年以上前のデニソワ人存在の可能性が指摘されていますが(関連記事)、デニソワ人はユーラシア東部に広範に分布しており、チベット人の主要な祖先集団の一部がデニソワ人と交雑した地域は、チベット高原ではないのかもしれません。


参考文献:
Huerta-Sanchez E. et al.(2020): Methods to infer the timing of admixture and selection in high altitude populations. The 89th Annual Meeting of the AAPA.

ヨーロッパ東部における後期新石器時代の漸進的な遺伝的混合

 ヨーロッパ東部における後期新石器時代の漸進的な遺伝的混合に関する研究(Immel et al., 2020)が公表されました。ヨーロッパ東部の考古学的記録では、農耕生活様式の最初の証拠は紀元前六千年紀に現れ、その頃に、たとえば紀元前5400~紀元前4900年頃となる線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)のようなドナウ川流域の新石器時代社会が、カルパティア山脈地域に拡大し始めました。これらの早期農耕文化に続いて、新たな社会であるククテニ・トリピリャ(Cucuteni-Trypillia)文化複合(CTC)が、現在のルーマニア東部・モルドヴァ・ウクライナ西部および中央部を含む広大な地域に出現しました。CTCは、新石器時代末期から前期青銅器時代にかけて、2000年(紀元前5100~紀元前2800年)にわたってヨーロッパ東部で繁栄し、一般的には前期・中期・後期に区分されます。

 CTCはその地理的位置のため、紀元前5000~紀元前3400年頃となるレンジェル(Lengyel)文化や、紀元前4000~紀元前2800年頃となる漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker、略してFBC)や、紀元前3100~紀元前2400年頃となる球状アンフォラ文化(Globular Amphora、略してGAC)のようないくつかの同時代文化と関係がありました。紀元前4100~紀元前3600年頃の中期CTCには数百人もしくは数千人の居住者がいたかもしれず、巨大集落の大規模遺跡、確立した農業経済、高水準の社会組織、高度な冶金術がCTCの特徴です。しかし、その後、これらの集落はほとんど放棄されました。後期CTCの個体群には、前期青銅器時代のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団のような、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を中心とするユーラシアの広大な草原地帯に居住していた集団との相互作用の考古学的証拠があります。

 先史時代ヨーロッパ東部のCTCの重要性にも関わらず、CTCと関連する人々の遺伝的構成、近隣集団との混合の程度、もしくは連続する文化的集団との継続性の水準については、ほとんど知られていません。これは、CTC関連遺骸の顕著な不足に起因します。これまでに発見されたCTC関連ヒト遺骸はおもに後期のもので、ウクライナのヴァーテバ洞窟(Verteba Cave)と呼ばれるトリピリャ文化遺跡の遺骸のDNAのみが解析されていました。紀元前3700~紀元前2900年頃となるヴァーテバ洞窟の8人に関するミトコンドリアDNA(mtDNA)研究は、アナトリア半島およびヨーロッパ中央部農耕民に典型的な6系統の母系を明らかにしました。そのうち2個体はmtDNAハプログループ(mtHg)U8b1で、ヨーロッパの狩猟採集民から派生したかもしれません。その後、紀元前3900~紀元前3600年頃となるヴァーテバ洞窟の男性4人のゲノム規模分析からは、主要な新石器時代系統(80%)と小さな狩猟採集民系統(20%)が推定されています。

 本論文は、ポクロフカ5(Pocrovca V)とゴーディネスティ1(Gordinești I)という、現在のモルドバ共和国の2ヶ所の後期CTC遺跡で発掘された女性4人のゲノム規模データを提示します。内訳は、ポクロフカ5遺跡が成人3人(ポクロフカ1・2・3)、ゴーディネスティ1遺跡が推定年齢9歳の子供1人です。この女性4人の年代は紀元前3500~紀元前3100年頃で、ヴァーテバ洞窟の男性の数百年後となります。本論文は、これら新たな標本群と既知のデータを組み合わせて、ヨーロッパ東部先史時代のこの重要な時期における集団移動と動態をより詳細に提示します。

 mtHgは、9歳のゴーディネスティ1がU4a1、20~25歳のポクロフカ1がK1a1、35~40歳のポクロフカ2がT2c1d1、60~65歳のポクロフカ3がT1aです。この4人の間で親族関係は確認されませんでした。この4人には、ペスト菌や結核菌などの感染の兆候は検出されませんでした。主成分分析では、ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3が、ヴァーテバ洞窟遺跡の男性4人と密接なドイツとハンガリーのより新しい年代の鐘状ビーカー文化(Bell Beaker、略してBBC)個体群と近縁な一方で、ポクロフカ2はLBK個体群と近縁で、その次にアナトリア半島とセルビアのスタルチェヴォ(Starčevo)の新石器時代農耕民と近縁です。

 モルドバの後期CTCの女性4人は、混合モデルではアナトリア新石器時代農耕民系統が最も多く、次に狩猟採集民系統となります。また、ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3はかなりの草原地帯系統を有しています。ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3はヴァーテバ洞窟遺跡のCTC男性4人と近縁な一方で、ポクロフカ2はスタルチェヴォの個体群と系統のほとんどを共有しています。モルドバの後期CTCの女性4人は、アナトリア新石器時代農耕民系統よりもLBK系統から、また草原地帯関連系統よりもヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)系統の方から強い遺伝的影響を受けている、と推測されます。草原地帯系統関連系統のなかでは、ウクライナ中石器時代とヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)とヤムナヤ系統の影響はコーカサス狩猟採集民系統(CHG)よりも高く、この3系統の影響はほぼ同等と推定されています。ある程度明確に混合モデル化できたのはポクロフカ1で、LBK系統が41~60%、草原地帯関連系統が8~18%、WHG系統が29~41%です。

 上述のように、CTCはヨーロッパ東部先史時代において重要な役割を果たしていますが、ヒト遺骸の不足に起因する古代DNA研究の停滞により、CTCに関連する人々の起源についての現在の知識はかなり限定されています。これまで、CTC個体群のゲノム規模データは、ヴァーテバ洞窟遺跡の男性4人に限定されていましたが、そこで発見されたヒト遺骸の大半は頭蓋と下顎で、死亡前後の外傷や死後の人為的痕跡が明確に示されています。一方、本論文で新たに分析された後期CTCの女性4人の遺骸には、対人暴力の痕跡は見られません。この4人が発見されたポクロフカ5遺跡とゴーディネスティ1遺跡は近接しており、ヴァーテバ洞窟遺跡からそれぞれ数百km離れています。最近、CTC大規模集落はその高い人口密度によりユーラシア全域に拡大するペスト菌系統の発祥地になった、との見解が提示されました(関連記事)。上述のように、後期CTCの4人の女性ではペスト菌感染の痕跡は検出されませんでしたが、ポクロフカ5遺跡の女性3人は、暴力の痕跡がなく、複数の埋葬地で発見されたことから、本論文は伝染病による死の可能性も指摘します。

 後期CTCの4人の女性は、ゲノム規模データから、アナトリア農耕民とLBK個体群に共通の新石器時代農耕民系統と、草原地帯関連系統と、WHG系統を示します。このうち、新石器時代農耕民系統が最大の割合(41~60%)を示しますが、そのうちアナトリア農耕民よりもLBK個体群の方と近縁です。CTCでも、ヴァーテバ洞窟遺跡の個体群では新石器時代農耕民系統が同様に大きな割合を示しますが、むしろアナトリア農耕民起源と推測されています。CTC集団とLBK集団の遺伝的近縁性は、考古学的証拠によっても裏づけられます。CTCの経済と文化の基礎はヨーロッパのボイアン(Boian)およびスタルチェヴォ文化で見られ、LBKからさらに影響を受けた、と本論文は推測します。

 上述のように、後期CTCの女性4人では草原地帯関連系統が検出されました。草原地帯関連系統からCTC集団への遺伝子流動は、紀元前3500年頃には起きていたことになります。この頃、草原地帯ではトリピリャ関連の発見物が増加します。草原地帯関連系統は、ヨーロッパ東部紀元前2800年頃の縄目文土器文化(Corded Ware、略してCWC)の前に、草原地帯よりも西方のヨーロッパ東部に出現していたわけです。ヨーロッパ東部は、在来集団と侵入してくる草原地帯関連集団との間の古い遺伝的接触地域で、これはウクライナで発見された、紀元前4045~紀元前3974年頃と紀元前3634~紀元前3377年頃の2個体でも確認され、この2個体ではアナトリア新石器時代関連系統と草原地帯関連系統との混合が見られます。しかし、ウクライナのこの2人はまだ狩猟採集民の生活様式だったのに対して、後期CTCの女性4人は農耕文化生活様式でした。

 CTC集団に草原地帯関連系統をもたらした可能性のある集団として、本論文はユーラシア東部中石器時代集団を挙げています。たとえば、ウクライナの中石器時代集団やEHGですが、本論文はもっと後のヤムナヤ牧畜民集団の可能性も指摘しています。後期CTC集団と近隣の前期青銅器時代ヤムナヤ文化集団との混合は、紀元前3300~紀元前2600年頃の考古学的記録にも見られます。ヤムナヤ文化と後期CTCとの共存期間は短いものの、両方の集落では物資交換の証拠が発見されています。考古学的および本論文の遺伝的知見からは、ヨーロッパ東部における、完全な置換ではなく、継続的な接触と漸進的な遺伝的混合と緩やかな文化的変化が想定されます。しかし、この仮説は、ヤムナヤ文化集団の騎馬民がヨーロッパ中央部に多数で征服的に移動してきた、との仮説(関連記事)と競合します。ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3が、もっと後の青銅器時代もしくはBBC個体群と遺伝的類似性を示したことはとくに驚くべきではなく、それは異なる集団からそれぞれ独立してかなりの草原地帯関連系統が流入してきたからです。

 後期CTC個体群と同時代のFBCおよびGAC個体群との遺伝的類似性は、共通の起源および/または進行中の相互作用を示します。ヴァーテバ洞窟のmtDNA研究ではすでに、CTCとFBCの個体群間の母系での高い類似性が示されています。これは、CTCとFBCの地理的範囲が近いことで説明できます。CTCとFBCの集落遺跡は重なっており、CTCからFBCやGACへの定期的な接触および交易が考古学的に確認されています。後期CTC個体群の遺伝的構成は比較的高い多様性を示唆し、数百kmという近さを考えると驚くべきことです。本論文の知見は、ある文化内の人口動態を示し、特定の考古学的集団と関連した個体群の明らかに安定して均一な構成という概念に疑問を呈しています。考古学と古代DNA研究の政治的悪用の阻止という観点(関連記事)からも、本論文が提示した疑問は重要だと思います。


参考文献:
Immel A. et al.(2020): Gene-flow from steppe individuals into Cucuteni-Trypillia associated populations indicates long-standing contacts and gradual admixture. Scientific Reports, 10, 4253.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-61190-0

大河ドラマ『麒麟がくる』第9回「信長の失敗」

 1549年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)2月、斎藤利政(道三)の娘の帰蝶は織田信長へと嫁ぎますが、祝言の日、信長は不在で、帰蝶が信長と会えたのは翌日でした。信長は帰蝶に率直に謝ります。尾張の織田と美濃の斎藤が同盟を締結したと知った駿河の今川義元は、信秀が苦境に立たされていると判断し、尾張へ攻め入ると決断し、従属している三河の松平広忠を帰国させますが、その途中で襲撃されて殺害されます。ここで、菊丸が竹千代の伯父の水野信元か松平家に仕える者と明かされます。帰蝶とともに末森城に両親を訪ねた信長は、父の信秀に松平広忠の首を献上します。松平広忠を襲撃させたのは信長だったわけです。父の信秀に喜んでもらえると思った信長ですが、まだ斎藤利政は信用できない、現時点で今川と戦えば勝てない、と言って信秀は激怒します。光秀は叔父の光安に命じられて美濃の妻木家を訪ね、幼馴染の煕子と再会します。これは、光秀と煕子を結婚させようという光安の意図でした。

 今回、初めて信長が本格的に描かれました。信長は、まだ思慮が足りず、両親に認められたい純粋な少年といった感じです。下層の者たちにも慕われているところも描かれていますが、この時点で後年の活躍を想像するのはなかなか難しいように思います。信長の成長がどのように描かれるのか、本作の楽しみの一つとなりそうです。光秀の出番は少なめでしたが、後の妻となる煕子との再会で、二人の縁が語られました。もっと早くから言及されていてもよさそうなものですが、本作では駒や帰蝶の方が重要人物ということでしょうか。

ニシローランドゴリラの縄張り意識

 ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)の縄張り意識に関する研究(Morrison et al., 2020)が公表されました。ゴリラは、行動圏(生活し移動する空間)が広く、複数の群れの行動圏が広範囲にわたって重複しており、群れの間での攻撃が少ないため、縄張り意識を持たない、と広く考えられています。この研究は、大規模なカメラトラップ調査により、コンゴ民主共和国の60㎢の領域に生息するニシローランドゴリラの群れ(8群、合計113頭)を監視し、それぞれの群れの行動圏を決定しました。その行動圏には一部重複がありましたが、ニシローランドゴリラは、同じ日に別の群れが訪れた場所における摂食回避の傾向を示し、その場所が別の群れの行動圏の中心部分に近いほど、回避行動をとる可能性が高い、と明らかになりました。

 この研究は、ニシローランドゴリラが他の群れの行動圏の中心部分を避けて、紛争を防止している可能性がある、と考えています。行動圏の中心部分は、物理的攻撃やドラミング(胸を打ち鳴らす仕草)により防御されていると考えられるからです。また、この研究は、大きな群れの方が小さな群れよりも中心部分を防御しやすいと考えられる、と明らかにしています。ゴリラの群れの間の相互作用は、社会的・家族的関係と縄張り意識により影響されるため、ゴリラの社会構造がこれまで考えられていたよりも複雑である、と示唆する証拠が増えてきており、この研究により得られた知見もそうした証拠の一つとなりました。

 チンパンジー(Pan troglodytes)で観察されたきょくたんな縄張りに基づく暴力は、縄張りの防衛が現在の戦争の進化的基盤になった、という証拠として用いられてきました。戦争はチンパンジーとヒト(Homo sapiens)の間で共有される進化的特徴というわけです。しかし、この戦争は、人類史における集団間の相互作用の少数派を表しているかもしれません。相互作用のより一般的なパターンは、じっさいにはゴリラで示唆されたものにより近く、行動圏の中心と相互寛容の大きな重複地域があるかもしれません。じゅうらいの推定よりも複雑なゴリラの社会構造は、所属集団間の相互作用と縄張りの要素がどのように同時発生するのか、調査するための貴重なモデルになるかもしれません。これは、早期人類集団の社会進化を理解するのにとくに重要で、きょくたんな縄張りに基づく暴力と、大規模な協力に必要な集団間の寛容の両方の能力を示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物学:ニシゴリラは縄張り意識を持っているかもしれない

 ニシゴリラの群れは、自らの行動圏の中心部分を近隣の群れから防御していると考えられることが研究によって明らかになった。この知見は、ニシゴリラが縄張り意識を持っていることを示唆していると考えられる。この研究結果を報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

 ゴリラは、行動圏(生活し移動する空間)が広く、複数の群れの行動圏が広範囲にわたって重複しており、群れの間での攻撃が少ないため、縄張り意識を持たないと広く考えられている。

 今回、Robin Morrisonたちの研究チームは、大規模なカメラトラップ調査を行って、コンゴ共和国の60平方キロメートルの領域に生息するニシゴリラの群れ(8群、合計113頭)を監視し、それぞれの群れの行動圏を決定した。その行動圏には一部重複があったが、ゴリラは、同じ日に別の群れが訪れた場所で摂食を回避する傾向を示し、その場所が、別の群れの行動圏の中心部分に近いほど、回避行動をとる可能性が高かった。

 Morrisonたちは、ゴリラが他の群れの行動圏の中心部分を避けて、紛争を防止している可能性があると考えている。行動圏の中心部分は、物理的攻撃やドラミング(胸を打ち鳴らす仕草)によって防御されていると考えられるからだ。また、Morrisonたちは、大きな群れの方が小さな群れよりも中心部分を防御しやすいと考えられることを明らかにしている。

 ゴリラの群れの間の相互作用は、社会的、家族的関係と縄張り意識によって影響されるため、ゴリラの社会構造がこれまで考えられていたよりも複雑であることを示唆する証拠が増えてきており、今回の研究によって得られた知見もそうした証拠の1つとなった。



参考文献:
Morrison RE. et al.(2020): Western gorilla space use suggests territoriality. Scientific Reports, 10, 3692.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-60504-6

大規模な生態系崩壊のモデル化

 大規模な生態系崩壊のモデル化に関する研究(Cooper et al., 2020)が公表されました。生態学上のレジームシフトは、安定した生態系が持続的に大きく変化することで、突然起こることが多く、「転換点」に達するとフィードバックループによって駆動される可能性があります。レジームシフトの発生頻度は、気候変動と環境悪化により上昇すると予想されますが、生態系の大きさと崩壊速度の関係は明確に解明されていません。これが明らかになれば、環境破壊を低減するための適応管理戦略を実施する場面の特定で役立つ可能性があります。

 この研究は、4つの陸上生態系、25の海洋生態系、13の淡水生態系の変化に関する報告から得られたデータを解析しました。その結果、大規模生態系のレジームシフトが、小規模な生態系よりもゆっくり起こる傾向が分かりましたが、一方で、生態系の規模が大きくなるにつれて、崩壊に要する時間が長期化するペースは鈍化するため、大規模な生態系の崩壊が不相応に急速だと明らかになりました。

 この研究は、コンピューターモデルにより裏づけられた統計的関係を用いて、アマゾン川流域(約550万平方キロメートル)の規模の生態系の崩壊過程が約49年で完了するかもしれない、と推定しました。また、カリブ海のサンゴ礁(約2万平方キロメートル)の規模の生態系が崩壊するまでの時間は、崩壊が始まってからわずか15年ほどである可能性も明らかになりました。

 アマゾン川流域の熱帯雨林やカリブ海のサンゴ礁のような脆弱な大規模生態系は、崩壊の開始によりわずか数十年で崩壊が完結するかもしれない、というわけです。この研究は、生態系の変化がこれまで考えられていたよりも急速に起こる可能性があり、人類がそうした変化に備える必要性を指摘します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:大規模な生態系の崩壊をモデル化する

 脆弱な大規模生態系(例えば、アマゾン川流域の熱帯雨林やカリブ海のサンゴ礁)で崩壊が起こり始めると、わずか数十年で崩壊が完結する可能性のあることを示唆するモデル研究について報告する論文が、Nature Communications に掲載される。

 生態学上のレジームシフトは、安定した生態系が持続的に大きく変化することであり、突然起こることが多く、「転換点」に達するとフィードバックループによって駆動される可能性がある。レジームシフトの発生頻度は、気候変動と環境悪化によって上昇すると予想されるが、生態系の大きさと崩壊速度の関係は明確に解明されていない。このことが明らかになれば、環境破壊を低減するための適応管理戦略を実施する場面を特定する上で役立つ可能性がある。

 今回、John Dearingたちの研究チームは、4つの陸上生態系、25の海洋生態系、13の淡水生態系の変化に関する報告から得られたデータを解析した。その結果、大規模生態系のレジームシフトが、小規模な生態系よりもゆっくり起こる傾向が分かったが、一方で、生態系の規模が大きくなるにつれて、崩壊に要する時間が長期化するペースが鈍化するため、大規模な生態系の崩壊が不相応に急速なことが明らかになった。Dearingたちは、コンピューターモデルによって裏付けられた統計的関係を用いて、アマゾン川流域(約550万平方キロメートル)の規模の生態系の崩壊過程が約49年で完了する可能性があると推定した。また、カリブ海のサンゴ礁(約2万平方キロメートル)の規模の生態系が崩壊するまでの時間は、崩壊が始まってからわずか15年ほどである可能性も明らかになった。

 Dearingたちは、生態系の変化がこれまで考えられていたよりも急速に起こる可能性があり、人類がそうした変化に備える必要があるという結論を示している。



参考文献:
Cooper GS, Willcock S, and Dearing JA.(2020): Regime shifts occur disproportionately faster in larger ecosystems. Nature Communications, 11, 1175.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-15029-x

益尾知佐子『中国の行動原理 国内潮流が決める国際関係』

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2019年11月に刊行されました。本書は、中国の対外行動(国際関係)が、国内の政治潮流、さらに根本的には中国の社会構造に規定される、と論じます。その社会構造とは外婚制共同体家族で、家父長が家族に対して強い権威を有します。息子たちは家父長に服従し、家父長の地位を継承すべく兄弟たちと激しく競争します。兄弟の関係は比較的平等ですが、激しい競合があります。また、息子たちが常に家父長に従順とは限らず、「父殺し」も起き得るため、家父長と息子たちの間には潜在的に緊張した関係が存在します。これが中国社会全体を貫いており、中国全体の「家父長」は中国共産党政治局常務委員である「党中央」、その「息子」たちは共産党の下部機関や国家機関や軍部になる、というのが本書の基本的な認識です。一方日本社会では兄弟間の格差が明確で、権限が家父長1人に集約されているのではなく分散しており、組織全体としては時期を問わず安定しているものの、責任の所在が明確ではない、と本書は指摘します。

 本書はこの認識に基づき、中国の内政と外交の行動原理を説明していきます。正直なところ、通俗的な比較文化論ではないか、多民族の中国社会を単純化しているのではないか、などといった疑問が残りますが、専門家ではない私の的外れな疑問かもしれません。家父長の権威のもと息子たちは家父長の意向を忖度して競合的に動き、息子同士の連携は弱い、という構造が中国全体にも当てはまる、と本書は指摘します。共産党の下部機関も国家機関も軍部も、中国全体の「家父長」たる「党中央」の意向を忖度し、むしろ先取りして「家父長」から高い評価を得ようとして、他の組織と連携せずに競合していく、というわけです。

 ただ、家父長の権威が強いとはいっても個人差があり、それにより中国の行動も変わってくる、と本書は指摘します。強力な最高指導者であれば、その意向に基づいて一定以上統制された行動となりますが、弱い最高指導者とみなされれば、各組織が表面上は最高指導者に敬意を払いつつも、自らの利害のために比較的自由に行動する、というわけです。そのため、外国からは中国が強硬路線と穏健路線のどちらを採用しているのか、分かりにくくなることがある、というわけです。本書は、強力な最高指導者の具体例として毛沢東元主席や習近平主席、弱い指導者の具体例として胡錦濤前主席を挙げています。中国の行動原理をすっきりと説明してくれる本書ですが、鵜呑みにするのではなく、自分でも少しずつ調べていくつもりです。

新型コロナウイルスに関する研究

 現在、世界規模で大問題となっている新型コロナウイルスに関する二つの研究が公表されました。一方の研究(Wu et al., 2020)は、1人の患者についての調査を報告しています。重症急性呼吸器症候群(SARS)やジカウイルス感染症などの新興感染症は、公衆衛生にとって大きな脅威です。精力的な研究の取り組みにも関わらず、新しい疾患が、いつ、どこで、どのように出現するのか分からないことが、大きな不確実性の原因となっています。最近になって、中華人民共和国湖北省武漢市で重篤な呼吸器疾患が報告されました。2019年12月12日に最初の患者が入院してから、2020年1月25日の時点で少なくとも1975例が報告されています。疫学調査では、この集団発生は武漢の海鮮市場に関連がある、と示唆されています。

 本論文は、この海鮮市場で働いていて、発熱・眩暈・咳を含む重症の呼吸症候群に罹患し、2019年12月26日に武漢中央病院に入院した1人の患者についての研究を報告します。この患者の気管支肺胞洗浄液試料のメタゲノムRNA塩基配列解読から、コロナウイルス科(Coronaviridae)の新しいRNAウイルス株が特定され、「WH-Human 1」コロナウイルスと命名されました(「2019-nCoV」とも呼ばれます)。完全なウイルスゲノム(29903ヌクレオチド)の系統発生解析から、このウイルスは、これまでに中国のコウモリに見つかっているSARS様コロナウイルスのグループ(ベータコロナウイルス属、Sarbecovirus亜属)に最も近縁(ヌクレオチド類似性89.1%)と明らかになりました。この集団発生は、ウイルスが動物から波及し、ヒトで重篤な疾患を引き起こす能力を保持している、と浮き彫りにしています。

 もう一方の研究(Zhou et al., 2020)は、新型コロナウイルスの起源を検証しました。2002年の重症急性呼吸器症候群の集団発生以来、原因ウイルスを保有する自然宿主であるコウモリからは、多数のSARS関連コロナウイルス(SARSr-CoV)が発見されてきました。これまでの研究で、一部のコウモリSARSr-CoVはヒトに感染し得る、と明らかにされています。本論文は、武漢市でヒトに急性呼吸器症候群のエピデミックを引き起こした新型コロナウイルス(2019-nCoV)の特定と特性解析の結果を報告しています。このエピデミックは2019年12月12日に始まり、2020年1月26日までに、検査で確定したのは2794例(うち死亡は80例)に達しました。

 集団発生の初期段階で、5人の患者から完全長のゲノム塩基配列が得られました。これら5例の塩基配列はほぼ同一で、SARS-CoVとは塩基配列に79.6%の同一性が見られました。本論文はまた、2019-nCoVが、コウモリコロナウイルスの1つと全ゲノムレベルで96%の同一性を持つ、と示しています。保存された7つの非構造タンパク質の配列に対してペアワイズ解析を行なったところ、このウイルスがSARSr-CoV種に属する、と分かりました。さらに、1人の重症患者の気管支肺胞洗浄液から単離した2019-nCoVが、数人の患者の血清により中和できました。注目すべき知見として、2019-nCoVは、細胞への侵入にSARS-CoVと同一の受容体、すなわちアンギオテンシン変換酵素II(ACE2)を用いていることも確認されました。


参考文献:
Wu F. et al.(2020): A new coronavirus associated with human respiratory disease in China. Nature, 579, 7798, 265–269.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2008-3

Zhou P. et al.(2020): A pneumonia outbreak associated with a new coronavirus of probable bat origin. Nature, 579, 7798, 270–273.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2012-7

白亜紀のハチドリサイズの恐竜(追記有)

 白亜紀のハチドリサイズの恐竜に関する研究(Xing et al., 2020)が公表されました。ミャンマー北部で見つかる9900万年前頃の琥珀に封入された骨からは、他の堆積環境では通常保存されないような、小型の動物相の軟部組織や骨格構造についての前例のない手掛かりが得られます。そうした標本には多様な脊椎動物のものが含まれますが、そのうちエナンティオルニス類鳥類の骨格が保存されている標本はこれまでに7点報告されており、成体と見られる少なくとも1点を含むそれら全ては、石質物質から回収された標本よりも小さいことが知られています。

 本論文は、保存状態がきわめて良好な小型の鳥類様頭蓋について報告しています。その特徴から、この頭蓋は新属新種(Oculudentavis khaungraae)のものと確認されました。「Oculudentavis」とは、「犬歯鳥」という意味です。この新種恐竜は既知で最小の中生代恐竜と考えられ、そのサイズは、頭蓋骨の長さが7.1mmと、最小の現生鳥類マメハチドリ(Mellisuga helenae)に匹敵します。この新種恐竜標本には、頭蓋の融合の独特なパターンやトカゲの眼に似た固有派生形質的な眼の形態など、小型化の制約を示唆する特徴が複数保存されています。円錐状に並んだ強膜小骨は瞳孔が小さかったことを明示しており、これは昼行性の活動を示唆しています。この新種恐竜の上顎と下顎には多数の鋭い歯があり、それぞれの顎に合計29~30本の歯が生えていた、と推定されています。この新種恐竜は捕食者で、歯がなく花蜜を餌にする同じようなサイズの現生鳥類とは異なり、小型の節足動物や無脊椎動物を餌にしていた可能性がひじょうに高い、と示唆されています。

 小型化は隔離された環境で起こることが最も多いので、この新種恐竜の小さなサイズは、この琥珀がテチス海横断島弧(Trans-Tethyan arc)を構成する島の1つで形成されたとする、以前の見解と一致します。この新種恐竜のサイズおよび形態は、これまで知られていなかったボディープランと、これまで発見されていなかった生態を示唆しています。この発見は、脊椎動物の体サイズの下限を明らかにする上で、琥珀封入物が持つ可能性を浮き彫りにしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


古生物学:ハチドリほどの小さなサイズの、琥珀に保存されていた恐竜

 琥珀に閉じ込められた頭蓋は、鳥類様恐竜の新種であり、これまでに報告された中生代の恐竜の中で最も小さい可能性のあることが明らかになった。この頭蓋について記述した論文が、今週、Nature に掲載される。

 琥珀の内包物は、これまで得られなかった小動物の軟組織と骨格構造に関する知見をもたらしている。これは、小動物の軟組織や骨が脆弱なために他の堆積物にほとんど保存されていないからだ。この論文で、Jingmai O’Connor、Luis Chiappeたちは、ミャンマー北部で出土した約9900万年前の琥珀の中で見つかった鳥類の頭蓋に似た非常に小さな頭蓋について記述している。この頭蓋骨を持つ恐竜は、Oculudentavis khaungraaeと命名された。この保存状態の良い標本の頭蓋骨の長さはわずか7.1ミリメートルで、この恐竜が、現生鳥類の中で最も小さなマメハチドリのサイズに近かったことを示されている。

 Oculudentavisとは、「犬歯鳥」という意味で、この恐竜の生活様式を解明する上で手掛かりとなる注目すべき特徴を反映している。この頭蓋の大部分は、トカゲの目に似た大きな眼窩が占めている。この眼窩は開口部が狭く、入射光が少ないことから、Oculudentavisは昼光条件下での活動に適していることが分かる。その上顎と下顎には多数の鋭い歯があり、この研究チームは、それぞれの顎に合計29~30本の歯が生えていたと推定している。以上の新知見からは、Oculudentavisが捕食者であり、歯がなく花蜜を餌にする同じようなサイズの現生鳥類とは異なり、小型の節足動物や無脊椎動物を餌にしていた可能性が非常に高いことが示唆されている。

 同時掲載のRoger BensonのNews & Views論文によれば、「この数年の間にミャンマー琥珀から予想外の知見が得られた」とされる。Bensonは、この新知見を踏まえて、「今後もこうした発見が続く可能性は高く、特に体サイズの小さな動物についてそれが言える」という考えを示している。


古生物学:ミャンマーで発見された白亜紀のハチドリサイズの恐竜

Cover Story:小さな大発見:琥珀の中に保存されていた小さな恐竜の完全な頭蓋

 表紙の琥珀のかけらは、差し渡しで31.5 mmしかない。これはミャンマーで発見されたもので、既知最小の中生代の恐竜のものと思われる完全な頭蓋を含んでいる。今回J OʻConnorたちは、この頭蓋が約9900万年前の原始的な鳥類に似た新種の恐竜のものであることを明らかにし、Oculudentavis khaungraaeと命名した。頭蓋自体は、長さが14.25 mmしかなく、この生物のサイズが、現生鳥類で最小のマメハチドリ(Mellisuga helenae)と同じくらいであったことになる。眼の小さな開口部は、O. khaungraaeが、明るい昼間の環境で活発に活動していたことを示唆しており、顎に並んだ長い歯列は、主に無脊椎動物を捕食していたことを思わせる。この小さなサイズの化石は、恐竜の小型化がこれまで考えられていたより早く進んでいた可能性を示唆している。



参考文献:
Xing L. et al.(2020): Hummingbird-sized dinosaur from the Cretaceous period of Myanmar. Nature, 579, 7798, 245–249.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2068-4


追記(2020年3月14日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

海底下の微生物が生き続ける仕組み

 海底下の微生物が生き続ける仕組みについての研究(Li et al., 2020)が公表されました。地球の上部地殻には微生物が存在すると知られていますが、岩石化した海洋下部地殻は調査が困難なため、地球上における生物学的な最後の辺境の一つとなっています。海底下の堆積物中あるいは火成岩質の基盤中に生息する微生物相にとって、増殖を支えるため、または資源枯渇時に基礎代謝に必要なエネルギーを確保するために充分な炭素資源やエネルギーを得ることは困難です。この研究は、地球の下部地殻が海底に露出しているインド洋アトランティス海台の、海底下10~750mに生息する低生物量の微生物群集の用いる生存戦略が、限定的で予測不能な炭素源およびエネルギー源によりどのように影響を受けるのか、調査しました。

 酵素活性・脂質バイオマーカー・マーカー遺伝子の解析と顕微鏡法により、細胞密度がきわめて低く(1㎤当たり細胞2000個未満)、分布の不均一な生存生物量が検出されました。予想外の従属栄養過程(有機物を食料源とするプロセス)に関与する遺伝子の発現には、多環芳香族炭化水素の分解、炭素貯蔵分子としてのポリヒドロキシアルカン酸の利用、酸化還元反応やエネルギー産生に関与し得る化合物を産生するためのアミノ酸の再利用において役割を担うものなどが含まれていました。この研究は、深成地殻中の微生物が、おそらくは海底下の流体または海水の循環によって届けられると考えられる有機炭素資源や無機炭素資源とエネルギー資源とを組み合わせることにより、割れ目や多孔質岩石の中でどのようにして生存できているのか、という問題についての手掛かりを提示します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


微生物学:微生物が海底下で生き続けるための仕組み

 海底下に生息する微生物群集に関する研究によって最大で海底下750メートルの群集が発見され、こうした極限環境で微生物が生き続けるためのメカニズムに関する手掛かりが得られた。この研究成果について報告する論文が、今週Nature に掲載される。

 地球の上部地殻には微生物が存在することが知られているが、海洋下部地殻に関する情報は少ない。海底下の岩石に生息する微生物相が生き続けることには困難が伴う。その環境で、成長やその他の過程に必要な炭素とエネルギーを十分に得ることが難しいからだ。

 今回、Virginia Edgcombたちの研究チームは、地球の下部地殻が露出しているインド洋のアトランティス海台の海底下から岩石試料を採取し、発掘された海洋下部地殻から活性の高い微生物群集を発見した。Edgcombたちは、こうした微生物の酵素活性測定値とmRNA回収量に基づいて、細胞活性レベルが非常に低いと判定し、予想外の従属栄養プロセス(有機物を食料源とするプロセス)を複数同定した。例えば、エネルギーの生産と貯蔵に使用できる化合物を生産するためのアミノ酸のリサイクルだ。こうした適応は、深海生物圏で散在する少量の資源をめぐる競争を反映したものだとEdgcombたちは考えている。

 Edgcombたちは、微生物相の多様性と活動がアトランティス海台下の微生物に類似しているかどうかを判定するには、海洋下部地殻のさらなる探査が必要だと指摘している。



参考文献:
Li J. et al.(2020): Recycling and metabolic flexibility dictate life in the lower oceanic crust. Nature, 579, 7798, 250–255.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2075-5

ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体DNA解析

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のY染色体DNA解析結果を報告した研究(Petr et al., 2020)が公表されました。本論文はまだ査読中なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。古代DNA研究により、移住・置換・遺伝子流動など、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類(Homo sapiens)の複雑な進化史が明らかにされてきましたが、古代型ホモ属と現生人類の関係の考察は、大半が常染色体に基づいています。一方、ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAは、それぞれ母系と父系での単系統のみの遺伝情報を示しますが、性特異的な移住やその他の文化現象のような人口史の多様な側面に独自の視点を提供します。

 ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類においては、mtDNAと常染色体での系統関係の不一致が明らかにされてきました(関連記事)。常染色体ゲノムでは、ネアンデルタール人およびデニソワ人系統が現生人類系統と765000~550000年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。しかしmtDNAでは、ネアンデルタール人はデニソワ人よりも現生人類と近縁で、その推定分岐年代は468000~360000年前頃です。43万年前頃のスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)集団は早期ネアンデルタール人とされていますが、mtDNAでは現生人類よりもデニソワ人の方と近縁で、常染色体ではネアンデルタール人系統に位置づけられます(関連記事)。

 これらの知見から、ネアンデルタール人は元々デニソワ人に近いmtDNAを有しており、後に現生人類と関連する早期系統からの遺伝子流動経由で完全に置換された、との見解が提示されています。ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体は、古代型ホモ属と現生人類の間の分岐や遺伝子流動に関する重要な情報を追加できます。しかし、ネアンデルタール人のY染色体のわずかなコーディング配列を除いて、これまでネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体の研究はありませんでした。スペイン北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡(関連記事)やベルギーのスピ(Spy)遺跡およびロシアのコーカサス地域のメズマイスカヤ(Mezmaiskaya)遺跡(関連記事)のネアンデルタール人のY染色体は解析されてきましたが、Y染色体全体の包括的な研究を可能とする内在性DNAは、じゅうぶんは得られていませんでした。

 本論文は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡のデニソワ人2個体と、スピ・メズマイスカヤ・エルシドロン遺跡のネアンデルタール人1個体ずつのY染色体DNAを改めて解析しました。デニソワ人は、84100~55200年前頃のデニソワ4(Denisova 4)と136400~105600年前頃のデニソワ8(Denisova 8)、ネアンデルタール人は、39000~38000年前頃のスピ94a(Spy 94a)と45000~43000年前頃のメズマイスカヤ2(Mezmaiskaya 2)と53000~46000年前頃のエルシドロン1253(El Sidrón 1253)です。Y染色体のうち計690万塩基対が標的領域とされ、平均網羅率は、デニソワ4が1.4倍、デニソワ8が0.8倍、スピ94aが0.8倍、メズマイスカヤ2が14.3倍、エルシドロン1253が7.9倍です。

 これらの解析の結果、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体はそれぞれ単系統群(クレード)を形成する、と明らかになりました。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核ゲノムとは異なり、ネアンデルタール人と現生人類が近縁と明らかになりました。現代人のY染色体ハプログループ(YHg)で最も早く分岐したのはA00ですが(関連記事)、ネアンデルタール人のY染色体系統は、デニソワ人系統とネアンデルタール人および現生人類の共通祖先系統が分岐した後で、全現生人類系統と分岐したことになります。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核ゲノムのそれとは一致せず、mtDNAのそれと一致します。以下、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体のY染色体系統樹を示した本論文の図2Aです。
画像

 Y染色体の各系統の推定分岐年代は、YHg-A00と他の現生人類系統では249000年前頃、現代人系統とデニソワ人系統では70万年前頃、現生人類系統とネアンデルタール人系統では35万年前頃です。ネアンデルタール人3個体の最終共通祖先の推定年代は10万年前頃です。Y染色体におけるデニソワ人系統と現生人類系統の推定分岐年代は、常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代とよく一致しており、現生人類系統とデニソワ人系統のY染色体の分岐は単純な集団分岐の結果と示唆されます。一方、Y染色体におけるネアンデルタール人系統と現生人類系統の推定分岐年代は常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代よりもかなり新しく、mtDNAで推測されている、現生人類に近い系統からネアンデルタール人系統への遺伝子流動と一致します。エルシドロン遺跡のネアンデルタール人のY染色体に関する研究(関連記事)では、現生人類系統とネアンデルタール人系統の推定分岐年代は588000年前頃です。一方、本論文ではそれが35万年前頃とかなり新しく、その理由として本論文は、以前の研究ではデータ量が限定的だったことを指摘しています。

 上述のように、ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体における系統関係は、mtDNAのそれと一致し、核(というか常染色体)ゲノムのそれとは一致しません。これは、古代型ホモ属系統と分岐した後の現生人類系統において、現代人系統と早期に分岐した絶滅系統がネアンデルタール人系統と交雑し、ネアンデルタール人系統にデニソワ人系統よりも現生人類系統に近いmtDNAとY染色体をもたらした、と考えられます。以前の研究では、現生人類からネアンデルタール人への数%程度とわずかな遺伝子流動が指摘されています(関連記事)。この条件におけるmtDNAとY染色体の置換は、通常の進化ではひじょうに起きにくいと考えられます。

 しかし、有効人口規模が現生人類よりも小さいネアンデルタール人においては、現生人類よりも多い有害な変異の蓄積の可能性が指摘されており、じっさい、ネアンデルタール人3個体のエクソン領域に関しては、現代人よりも有害なアレル(対立遺伝子)を多く有している、と明らかになっています。本論文は、有効人口規模が小さい場合のシミュレーションにより、ネアンデルタール人のY染色体が現生人類のY染色体よりも適応度がわずかでも低い場合、完全置換率に強い影響を与える、と明らかにしました。具体的には、ネアンデルタール人のY染色体適応度が1%低い場合でも、2万年後の置換率は25%に増加し、2%低い場合は置換率が50%に増加します。こうした予測は、Y染色体と同じく単系統遺伝となるmtDNAにも当てはまります。これらの結果は、ネアンデルタール人におけるより高い遺伝的荷重が、ネアンデルタール人のmtDNAおよびY染色体という単系統遺伝の置換可能性の増加と相関していることを示します。繁殖と受精力におけるY染色体の重要性を考慮すると、Y染色体の有害な変異または構造的多様体が、のシミュレーションよりも適応度にずっと大きな影響を与えるかもしれない、と本論文は指摘します。

 後期ネアンデルタール人のY染色体は、37万~10万年前頃の間に、ネアンデルタール人やデニソワ人よりも現生人類系統と近縁な絶滅系統からもたらされた、と推測されます。上述のように、早期ネアンデルタール人である43万年前頃のSH集団は、mtDNAでは後期ネアンデルタール人よりもデニソワ人に近いと明らかになっていますが、Y染色体でも同様だろう、と本論文は予測しています。後期ネアンデルタール人のゲノムから推測される、現生人類からネアンデルタール人への限定的な遺伝子流動を考慮すると、後期ネアンデルタール人におけるmtDNAとY染色体の完全に置換は意外ですが、ミトコンドリアと常染色体の不一致は集団遺伝学理論では予測されており、動物の種間交雑では比較的一般的です。本論文は、2集団間の交雑における単系統遺伝子座の遺伝的荷重の違いが、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAとY染色体の置換の要因だろう、と指摘します。

 ひじょうに興味深い研究で、今後、古代型ホモ属のY染色体DNA解析数さらに増えていくよう、期待しています。デニソワ人と確認されている個体はネアンデルタール人と比較してひじょうに少ないので、古代型ホモ属のY染色体DNA解析は当分ネアンデルタール人が中心となりそうですが、まず注目されるのは、本論文でも言及されている早期ネアンデルタール人のSH集団です。SH集団は43万年前頃と後期ネアンデルタール人やデニソワ人よりもずっと古いだけに、Y染色体DNAの解析は難しいかもしれませんが、何とか成功してもらいたいものです。また、ネアンデルタール人系統内でも核DNAとmtDNAで系統の不一致が指摘されているので(関連記事)、Y染色体ではどうなのか、さらに詳しい研究の進展が期待されます。


参考文献:
Petr M. et al.(2020): The evolutionary history of Neandertal and Denisovan Y chromosomes. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.09.983445

気候変動により脅かされるキツネザルの生息地

 気候変動によるキツネザルの生息地縮小の可能性を報告した研究(Morelli et al., 2020)が公表されました。世界の生物多様性の5%が存在するマダガスカルでは、気候変動・外来種の侵入・乱獲・生息地の消失と分断化など、主要な地球規模の重大な脅威が全て起きています。マダガスカルに生息するキツネザル種は、全101種のうちの96%が絶滅危惧種に指定されており、世界で最も絶滅の危機に瀕した脊椎動物分類群の一つとなっています。エリマキキツネザルは、マダガスカルの熱帯雨林で繁殖する数々の植物種の種子を散布する唯一の動物種であるため、エリマキキツネザルの生態的地位は、健全な熱帯雨林の生息地の表現としてひじょうに適しています。

 この研究は、気候変動と生息地の消失が、それぞれ単独で、あるいは両者が組み合わさって、マダガスカルの森林の長期的生存にどのように影響するのか、推定しました。この研究では、森林伐採が行なわれないような厳格な保護と、森林伐採が行なわれることもあるような緩やかな保護という、二つの森林保護条件下における2070年までの熱帯雨林の被覆率の変化をモデル化しました。数十年間の研究成果が集積された結果、エリマキキツネザルに適した生息地が、2070年までに森林伐採を原因として29~59%減少し、気候変動を原因として14~75%減少し、両者を原因として38~95%減少する可能性がある、と明らかになりました。

 この知見は、マダガスカル東部の熱帯雨林の脆弱な状態を浮き彫りにしています。この生態系と住民は、気候変動と森林伐採によって脅かされています。この研究は、マダガスカルの生物多様性ホットスポットの持続性を確保するには、森林の厳格な保護が必要と主張しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【気候変動】キツネザルのすみかが気候変動に脅かされている

 マダガスカルの代表種であるエリマキキツネザルの生息地の38~93%が、気候変動と森林伐採の結果として失われる可能性があることを報告する論文が掲載される。

 世界の生物多様性の5%が存在するマダガスカルでは、気候変動、外来種の侵入、乱獲、生息地の消失と分断化など、主要な地球規模の重大な脅威が全て起こっている。マダガスカルに生息するキツネザル種は、全101種のうちの96%が絶滅危惧種に指定されており、世界で最も絶滅の危機に瀕した脊椎動物分類群の1つとなっている。エリマキキツネザルは、マダガスカルの熱帯雨林で繁殖する数々の植物種の種子を散布する唯一の動物種であるため、エリマキキツネザルの生態ニッチは、健全な熱帯雨林の生息地の表現として非常に適している。

 今回、Andrea Baden、Toni Lyn Morelli、Adam Smithたちの研究グループは、気候変動と生息地の消失が、それぞれ単独で、あるいは両者が組み合わさって、マダガスカルの森林の長期的生存にどのように影響するのかを推定した。今回の研究では、厳格な保護(森林伐採が行われない)と緩やかな保護(森林伐採が行われることがある)という2つの森林保護条件下における2070年までの熱帯雨林の被覆率の変化をモデル化した。そして数十年間の研究成果が集積された結果、エリマキキツネザルに適した生息地が、2070年までに森林伐採を原因として29~59%減少し、気候変動を原因として14~75%減少し、両者を原因として38~95%減少する可能性のあることが明らかになった。

 今回の研究結果は、マダガスカル東部の熱帯雨林の脆弱な状態を浮き彫りにしている。この生態系と住民は、気候変動と森林伐採によって脅かされている。Badenたちは、この生物多様性ホットスポットの持続性を確保するには、森林の厳格な保護が必要だと主張している。



参考文献:
Morelli TL. et al.(2020): The fate of Madagascar’s rainforest habitat. Nature Climate Change, 10, 1, 89–96.
https://doi.org/10.1038/s41558-019-0647-x

アメリカ合衆国における「逆人種差別」の認識

 アメリカ合衆国における「逆人種差別」の認識に関する研究(Earle, and Hodson., 2020)が公表されました。西洋諸国に広がる政治的分極化と極右的な運動の高まりの一因は、非「白人」を優遇しているとされる社会において「白人」が差別に直面しているという認識にあると考えられています。最近の実験的研究で、一部の「白人」系アメリカ合衆国の人々は、「黒人」に対する差別の減少が「白人」に対する差別の高まりを伴っていると考えている、と示唆されました(ある種のゼロ・サム思考)。しかし、これまでの研究は小規模で、アメリカ合衆国の人々を代表するものではなく、こうしたゼロ・サム的考えがどれほど広まっているのか、不明でした。

 この研究は、アメリカ合衆国全体を対象とした4つの大規模なデータセットの解析により、さまざまな集団によって報告された差別の実際の程度と、そうした経験に対する認識の両方について評価しました。その結果、どの集団も、「黒人」系アメリカ合衆国人は「白人」系アメリカ合衆国人より大きな差別を経験していると認識しており、また回答者は全般的に、差別が逆転していると考えていない、と明らかになりました。しかし、2集団が経験した差別のギャップの大きさに関する考えは、集団により異なっていました。差別の程度の差に関して、「白人」の回答者および共和党支持者は、「黒人」の回答者および民主党支持者より小さいと考えていました。「白人」の回答者・共和党支持者・「白人」の共和党支持者はまた、差別の個人的な経験に基づいて実際に報告されているよりもギャップは小さい、と認識していました。

 この研究は、「逆人種差別」という考えが、過去に報告されたほど広がっているわけではないものの、人種および支持政党が、アメリカ合衆国内の異なる集団が直面する差別の程度に対する認識の差に部分的に関連する、と示唆しています。人種差別も含めて差別には、進化において生得的に獲得された認知メカニズムに起因するところが多分にあると思います。もちろん、だからといって差別が正当化されるわけではなく、ヒトには差別を否定するような生得的な認知メカニズム(深い進化的基盤を有すると考えられる平等な扱いへの志向)もあるとは思います。そうした認知メカニズムを的確に理解することは、差別の抑制に役立つでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【社会】米国における「逆人種差別」の認識

 米国人は一般に、黒人に対する人種差別の減少が白人に対する偏見の増加につながると考えていないことを報告する論文が掲載される。今回の研究から、黒人と白人の双方の米国人について差別が経時的に減少していることをが示された。しかし、黒人と白人の間に見られる、差別に関するギャップの大きさに対する認識は、人種や支持政党によって異なっていた。

 西洋諸国に広がる政治的分極化と極右的な運動の高まりの一因は、非白人を優遇しているとされる社会において白人が差別に直面しているという考えにあると考えられている。最近の実験的研究で、一部の白人米国人は、黒人に対する差別の減少が白人に対する差別の高まりを伴っていると考えていることが示唆された(ある種のゼロ・サム思考)。しかしながら、これまでの研究は小規模で、米国民の代表するものではなく、こうしたゼロ・サム的考えがどれほど広まっているかは不明であった。

 Megan EarleとGordon Hodsonの研究チームは今回、米国全体を対象とした4つの大規模なデータセットを解析することで、さまざまな集団によって報告された差別の実際の程度と、そうした経験に対する認識の両方について評価した。その結果、どの集団も、黒人米国人は白人米国人より大きな差別を経験していると認識しており、また回答者は全般的に、差別が逆転していると考えていないことが分かった。しかしながら、2つの集団が経験した差別のギャップの大きさに関する考えは、集団によって異なっていた。白人の回答者および共和党支持者は、差別の程度の差は、黒人の回答者および民主党支持者より小さいと考えていた。白人の回答者、共和党支持者、白人の共和党支持者はまた、差別の個人的な経験に基づいて実際に報告されているよりもギャップは小さいと捉えていた。

 今回の研究は、「逆人種差別」という考えが、過去に報告されたほど広がっているわけではないものの、人種および支持政党が、米国内の異なる集団が直面する差別の程度に対する認識の差に部分的に関連することを示唆している。



参考文献:
Earle M, and Hodson G.(2020): Questioning white losses and anti-white discrimination in the United States. Nature Human Behaviour, 4, 2, 160–168.
https://doi.org/10.1038/s41562-019-0777-1

エチオピアの早期現生人類の身体化石

 エチオピアの早期現生人類(Homo sapiens)の身体化石について、2020年度アメリカ自然人類学会総会(関連記事)で報告されました(Brasil., 2020)。この報告の要約はPDFファイルで読めます(P35)。解剖学的現代人の出現は人類進化研究において長く大きな関心を集めてきました。しかし、早期現生人類の形態と進化に関する知識は既知の化石記録に制約されており、現時点では、地理的にも年代的にも化石記録はまばらです。さらに、化石記録は圧倒的に頭蓋と歯が多く、頭蓋より下の身体化石には断片的で遊離した状態のもの多く、現生人類の身体サイズおよび形態進化に関する理解を制約します。こうした制約を考慮すると、早期現生人類の詳細な進化のさらなる理解には、追加の化石、とくに個体の身体化石が必要です。

 エチオピアのミドルアワシュ計画(The Middle Awash project)では、10万年前頃と推定されているハリビー(Halibee)の中期石器時代世紀で、早期現生人類の部分的骨格を発見するという成果が得られています。この個体の骨格のほとんどが保存されており、脊柱の一部、肩帯および腰帯、長骨すべて、手と足のいくつかの化石を含んでいます。同じ堆積層では、7個体分のいくつかの身体化石も発見されています。これらの化石はひじょうに豊富な中期石器時代遺物と関連づけられており、巨大で多様な動物相遺骸群の一部でもあるので、行動的および生態的背景も推測できます。ハリビー化石群は、その年代および地理的位置から、現代人の祖先もしくは密接に関連する集団に位置づけられそうなので、現代人の形態の進化に関する理解に重要です。

 本報告が指摘するように、早期現生人類の形態と進化に関する理解は、化石記録が乏しいために制約されています。その意味で、ハリビー遺跡の10万年前頃の身体化石は、早期現生人類の形態と進化を解明するうえでたいへん重要になりそうですから、大いに注目されます。現生人類の起源に関して、アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、というような見解が有力になりつつあるように思います(関連記事)。アフリカ全体が現生人類の起源地というわけで、その意味で、アフリカ各地の異なる年代の早期現生人類化石の発見が重要となるでしょう。


参考文献:
Brasil MF.(2020): Early Homo sapiens postcranial fossils from Middle Awash, Ethiopia. The 89th Annual Meeting of the AAPA.

2020年度アメリカ自然人類学会総会(ネアンデルタール人とデニソワ人のABO式血液型)

 来月(2020年4月)15日~4月18日にかけて、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市で第89回アメリカ自然人類学会総会が開催される予定ですが、コロナウイルスの感染状況によっては中止されるかもしれないようです(関連記事)。アメリカ自然人類学会総会では、最新の研究成果が多数報告されるだけに、古人類学に関心のある私は大いに注目しています。総会での各報告の要約はPDFファイルで公表されているのですが、まだいくつかの報告をざっと読んだだけです。とりあえず今回は、とくに興味深いと思った報告(Villanea et al., 2020)を取り上げます(P297)。

 この研究は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のABO式血液型におけるハプロタイプ構造を検証しています。ABO式血液型遺伝子の遺伝的多様性は現代人(Homo sapiens)においてよくよく特徴づけられており、世界中で観察されているABO式血液型の表現型多様性と対応しています。しかし、現代人と近縁な絶滅ホモ属(古代型ホモ属)であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のデニソワ人(Denisovan)のABO式血液型遺伝子は、ほんど注目されてきませんでした。

 この研究は、ネアンデルタール人2個体とデニソワ人1個体を含む、28集団の2500人における、ABO遺伝子座の遺伝的多様性を分析しました。本報告の要約では詳細は省略されていますが、この古代型ホモ属3人とはおそらく、高品質なゲノム配列が得られている、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡で発見されたデニソワ人個体(関連記事)およびネアンデルタール人個体(関連記事)と、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡のネアンデルタール人(関連記事)でしょう。

 分析の結果、現代人集団におけるABO式血液型頻度の以前の推定が改めて確認されました。次にこの研究は、現代人のABO遺伝子座のハプロタイプを用いて、古代型ホモ属3人のABO遺伝子型を決定しました。アルタイ地域のネアンデルタール人個体は、O型アレル(対立遺伝子)の派生的なネアンデルタール人多様体をホモ接合型で有しています。一方、クロアチアのネアンデルタール人個体はAOのヘテロ接合型を有し、そのA型アレルは派生的なネアンデルタール人多様体でしたが、O型アレルは現代人集団と共有される祖先的多様体でした。デニソワ人個体はO型アレルの祖先的多様体をホモ接合型で有し、これは現代人と広く共有されています。

 この研究で注目されるのは、アルタイ地域のネアンデルタール人に見られる、派生的なネアンデルタール人型のO型アレル多様体が、ヨーロッパおよびアジア南部の現代人においてひじょうに低頻度で見られ、遺伝的距離分析から、この派生的なO型アレルはネアンデルタール人系統と現代人系統の遺伝子流動により遺伝子移入された、と推測されることです。この研究でも改めて、ネアンデルタール人と現生人類との交雑が確認されました。ABO式血液型頻度は現代人の各地域集団間で多様なので、ネアンデルタール人やデニソワ人でも各地域集団により頻度は異なっていた、と考えられます。とはいえ、現時点ではもちろん、将来も、ネアンデルタール人やデニソワ人の各地域集団間のABO式血液型頻度の違いを高い精度で推測するだけの標本数が得られる可能性は低そうですが。なお、アメリカ自然人類学会総会に関するこのブログの過去の記事は以下の通りです。


2019年度(第88回)
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_50.html
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_51.html
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_53.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_1.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_10.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_11.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_23.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_24.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_34.html

2018年度(第87回)
https://sicambre.at.webry.info/201804/article_46.html

2017年度(第86回)
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_13.html

2016年度(第85回)
https://sicambre.at.webry.info/201606/article_23.html

2015年度(第84回)
https://sicambre.at.webry.info/201504/article_15.html

2014年度(第83回)
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_22.html
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_34.html
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_37.html
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_5.html
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_7.html

2013年度(第82回)
https://sicambre.at.webry.info/201304/article_30.html

2012年度(第81回)
https://sicambre.at.webry.info/201204/article_20.html

2011年度(第80回)
https://sicambre.at.webry.info/201104/article_27.html

2010年度(第79回)
https://sicambre.at.webry.info/201004/article_23.html

2009年度(第78回)
https://sicambre.at.webry.info/200905/article_27.html

2008年度(第77回)
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_20.html
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_28.html
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_32.html

2007年度(第76回)
https://sicambre.at.webry.info/200703/article_32.html
https://sicambre.at.webry.info/200704/article_11.html


参考文献:
Villanea FA, Fox K, and Huerta-Sánchez E.(2020): ABO blood type variation in archaic humans: haplotype structure in Neanderthals and Denisovans. The 89th Annual Meeting of the AAPA.

言語脳活動の遺伝と環境の影響度

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、言語脳活動の遺伝と環境の影響度に関する研究(Araki et al., 2016)が公表されました。日本語の解説記事もあります。これまで、言語機能は生まれた後、両親をはじめとする周囲の環境の影響を受けて形成される一方で、ある特定の遺伝子異常により言語障害が生じることから、遺伝的な影響もあることが知られていました。語彙力や流暢さなど実際の言語の能力に関しては、古くから双生児間で似ていることが報告されていましたが、言語の中枢である大脳の活動については、遺伝と環境がどの程度影響を与えているのか、不明でした。

 これまでに脳磁計(脳の神経細胞が発する微弱な磁気を計測する医療用計測装置で、磁気のパターンから脳での電気活動を高精度に推定でき、脳波に近い信号ではあるものの、脳波よりも空間分解能が高い、と考えられています)を用いて様々な脳活動が計測されており、中でも左前頭葉でみられるβ帯域(13-25Hz)や低γ帯域(25-50Hz)の脳活動が言語機能に関連している、と明らかにされてきました。この研究は、遺伝的に100%一致する一卵性双生児と約50%一致する二卵性双生児を対象として、言語に関する課題を与えた時の脳活動を脳磁計にて計測し、低γ帯域(25-50Hz)の脳活動の強さを一卵性と二卵性双生児群で比較することにより、言語機能に関する脳活動の遺伝と環境の影響度を調べました。

 この研究は、大阪大学大学院医学系研究科附属ツインリサーチセンターの研究の一環として行なわれ、同センターによりリクルートされた一卵性双生児28組、二卵性双生児12組を対象として行なわれました。3文字のひらがなもしくはカタカナの名詞(「あひる」や「メロン」など100単語)をスクリーンに提示し、その名詞に関連する動詞を思い浮かべてもらい、その際の脳活動を脳磁計により計測しました。この研究は、計測した脳活動の中で、低γ帯域(25-50Hz)の脳活動が左前頭葉に限局して出現することに着目し、その脳活動の強さを算出しました。

 その結果、脳活動の強さについては、一卵性ペア、二卵性ペアでそれぞれ比較すると、一卵性ペアで高い類似性が認められました。さらに、遺伝と環境の影響度を共分散構造分析(データのばらつきを基に、直接見ることのできないデータに潜む変数を同定する解析方法で、双生児研究では盛んに利用されており、あるデータに対して遺伝と環境の影響がどれくらいあるのか、推定できます)で算出することにより、遺伝と環境の影響度がいずれも50%程度である、と明らかになりました。つまり、言語機能における左前頭葉の脳活動は遺伝と環境から同程度影響を受けて形成されているわけです。

 この研究は、言語脳機能の形成が環境によってもかなり左右されることを明らかにしました。今後の展望として、言語教育においてどのような方法が学習効率を向上させるかなど、効率的な言語教育法の開発につながることが挙げられています。通俗的には、人間の能力は氏(生得的、遺伝子)と育ち(環境)のどちらなのか、といった問題設定がしばしばなされますが、もちろん、「能力」も含めて人間の表現型は遺伝子と環境の相互作用により発現していくものです。ただ、個々の表現型に関してどちらの影響がより強いのか、という問いかけは重要ですから、その意味でこの研究は意義があると思います。また、言語進化の観点からも注目される研究です。


参考文献:
Araki T. et al.(2016): Language-related cerebral oscillatory changes are influenced equally by genetic and environmental factors. NeuroImage, 142, 241–247.
https://doi.org/10.1016/j.neuroimage.2016.05.066

大河ドラマ『麒麟がくる』第8回「同盟のゆくえ」

 帰蝶に依頼されて織田信長の様子を探りに尾張に潜入した明智光秀(十兵衛)は、漁から戻って来た信長が自ら魚をさばいて安く売り、庶民から慕われている様子を見て、奇妙な男だと感じます。信長が帰蝶の夫に相応しいのか、光秀は悩みますが、母には大事なのは美濃だと言われます。帰蝶は光秀に尾張へ行くべきと言わせ、信長に嫁ぐ決意を固めます。光秀が帰蝶を説得したと報告を受けた斎藤利政(道三)は光秀を褒めます。

 しかし、織田と結ぶことに反対の利政の息子の高政(義龍)は、同志と思っていた光秀が裏切ったと怒っていました。高政は光秀を土岐頼芸と引き合わせ、帰蝶を信長に嫁がせないよう、改めて伝えます。光秀は、海に面した尾張の豊かさを強調し、尾張と組むことにより美濃は戦わずして豊かになれる、と主張しますが、高政は旧来の秩序の維持を重視し、あくまでも織田と結ぶことに反対し、二人は決裂します。1549年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)2月、帰蝶は信長へと嫁ぎます。織田と斎藤との提携を知った今川義元は、尾張への侵攻を決断します。

 今回は、帰蝶が光秀への想いを諦め、信長に嫁ぐ決意を固めるまでが描かれました。帰蝶も駒も互いに光秀への想いに気づいており、帰蝶が光秀への想いを断ち切るまでの描写はなかなかよかったと思います。これもすべて昨年(2019年)11月後半以降に撮り直したのかと思うと、つい見方が甘くなってしまいます。帰蝶の決意以上に今回注目されるのは、光秀と高政との決裂です。高政は光秀を学友として信頼し、将来自分が当主となった折には光秀を頼りにしようと考えていただけに、光秀が帰蝶に信長へ嫁ぐよう進言したことを裏切りと考えたのは仕方のないところでしょう。

 高政と父の利政との不仲というか、高政の父への不信感は初回から描かれていましたが、本作では、それが伝統秩序を重視する高政および美濃国人衆と、それを軽視して利害を重視する利政との対立という構造で描かれています。光秀は、学友として高政を支えたいという気持ちもありつつも、都と堺を見たうえで、尾張の繁栄も実見した経験から利政側に立つ、という流れになっています。実際にはそのように単純化できないのかもしれませんが、利政と高政の対立の結末を考えると、歴史ドラマとして面白い描写になっていると思います。これまでのところ、集権化も含めて強引な政策を進めようとした利政が国人衆に離反された、という流れで利政は敗死しそうで、利政の今後の心理描写も楽しみです。

アフリカ東部における異なる石器技術の長期の併用とエレクトス頭蓋

 アフリカ東部における異なる石器技術の長期の併用と、石器と共伴したホモ・エレクトス(Homo erectus)頭蓋に関する研究(Semaw et al., 2020)が報道されました。エチオピアのアファール(Afar)地域のゴナ計画研究地区(The Gona Project study area)では、260万~200万年前頃のオルドワン(Oldowan)石器が多数発見されています。オルドワンは、5段階の伝統的な石器製作技術の区分では様式1(Mode 1)とされます(関連記事)。ゴナでの200万年前頃以降の堆積物には、様式2(Mode 2)となるアシューリアン(Acheulian)石器群が見られます。

 ゴナ地区ではホモ・エレクトス(Homo erectus)の骨盤が発見されており、その形態と進化の理解を深めました。本論文は、ゴナ地区で発見された2個体のエレクトス頭蓋を分析し、石器とエレクトスの関係を検証しています。ゴナ地区のエレクトス頭蓋の一方は、BSN12(Busidima North)で発見されたの126万年前頃の部分的な頭蓋冠(BSN12/P1)で、その年代は、頭蓋冠と関連する、ブーリヒナン(Boolihinan)凝灰岩(BHT)と同じ噴火によるものと考えられる、エチオピアのアワッシュ川上流のメルカクンチュレ(Melka Kunture)層から、1262000±34000年前と推定されています。BSN12/P1には様式1および2の石器が共伴します。もう一方は、BSN12の北東約5.7 kmに位置するDAN5(Dana Aoule North)で発見された、保存状態のより良好なエレクトス頭蓋(DAN5/P1)ですDAN5/P1にも様式1および2の石器が共伴し、年代は160万~150万年前頃と推定されています。

 DAN5とBSN12の石器群には、握斧や10cm 以上の長さとなる両面もしくは片面を調整した大型の石器(large cutting tools、略してLCT)などの様式2石器群と、非成形石核などの様式1石器群が含まれます。石材のほとんどは、近くの川岸で採取できる粗面岩や流紋岩や玄武岩です。DAN5のLCTはエチオピア南部のコンソ(Konso)やケニアのコキセレイ(Kokiselei)のような他の早期アシューリアン遺跡と広い類似性を共有していますが、一部の詳細は異なります。DAN5とBSN12の握斧の約半分は大礫で作られましたが、175万年前頃以降のコンソ遺跡の握斧の大半は剥片で作られています。コンソの早期握斧はDAN5よりも平均して長く、わずかに薄いようです。ゴナとコンソの石器群の違いはおそらく石材の特徴と関連しており、ゴナではコンソよりも小さな石材がより多く用いられました。

 BSN12/P1成人頭蓋冠には、右眼窩縁・前頭鱗・左頭頂部の一部が含まれます。頭蓋内容量は800~900 mlと推定されます。眼窩上隆起の頑丈さから、BSN12/P1は男性と推測されます。より保存状態の良好なDAN5/P1には、頭蓋冠と上顎の大半が含まれます。DAN5/P1の推定頭蓋内容量は598 mlで、既知のアフリカの成人エレクトスでは最小となります。DAN5/P1は、犬歯こそないものの、その歯槽は小さく、女性と推測されます。BSN12/P1とDAN5/P1はホモ・エレクトス(Homo erectus)の形態的特徴を共有しますが、全体的なサイズなどいくつかの点では異なります。DAN5/P1は185万~176万年前頃のジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)頭蓋や、ケニアの160万~150万年前頃の学童期(juvenile、6~7歳 から12~13歳頃)個体(KNM-ER 42700)や、ケニアの95万年前頃のオローゲサイリエ(Olorgesailie)頭蓋(KNM-OL 45500)と類似しており、頭蓋内容量の小ささや後頭部のわずかな湾曲などを有する点で、典型的なアジアのエレクトス頭蓋とは異なります。

 BSN12/P1は、タンザニアの化石(Olduvai Hominid 9)やエチオピアの100万年前頃の化石(BOU-VP-2/66)といったアフリカの標本だけではなく、アジア南東部および東部の人類化石とも、より長く低い頭蓋冠や厚い眼窩上隆起を有する点で類似しています。2点のゴナ標本における解剖学的変異については、いくつかの仮説を提示できます。まず、より古いDAN5/P1は新しいBSN12/P1よりも、小さなサイズや華奢な頭蓋冠や弱い眼窩上隆起といった祖先的特徴を保持しており、両者の違いはアフリカのエレクトス内の長期的な向上進化に起因する、というものです。次に、ゴナのエレクトス2個体のサイズと形態的変異は、おもに単一種内の性的二形の結果というものです。最後に、アファール地域におけるホモ属において、以前には認識されていなかった分類学的多様性を反映しているかもしれない、というものです。

 動物相から、DAN5は草原土壌の河岸森林地帯と、BSN12はより開けた草原地帯と推測されます。ゴナのエレクトスは、川の近くの開けた生息地に隣接する森林地帯に住んでいたようです。DAN5/P1の右上顎第一大臼歯の安定同位体分析から、食性はC3植物もしくは雑食(卵や昆虫や草食動物など)と推測されます。ただ、DAN5/P1の炭素13値は既知の前期更新世ホモ属ではかなり低い点で注目されますが、その解釈にはデータが不足している、と本論文は指摘します。

 本論文は現時点での証拠から、DAN5/P1とBSN12/P1の解剖学的変異を、エレクトスが広く分散し長く続いた性的二形の種だったから、と推測しています。ゴナの2個体よりも前のドマニシの人類も、エレクトスの標本内ではサイズと性的二形の顕著な程度を示す、と本論文は指摘します。エレクトスの広範な分散と低い人口密度は、中断された遺伝子流動の時間に起因する地域固有形態の発達機会を作りました。近年の古代DNA研究で示されているように、遺伝子流動の一時的な中断は必ずしも種分化をもたらさず、数十万年の分離の後でも、人類は互いを交配可能な相手と認識できます。この小さく分散した集団間の遺伝子混合の中断は、多くの主要な形態および行動的属性を共有するものの、かなりの表現型多様性を示す高度に多型な種につながり得ます。

 ゴナの考古学的記録は、この仮説と大まかに一致しています。長期にわたるエレクトスと様式1および2石器群の併用は、小さく分散した集団間の保存された行動的特徴と伝統を示唆するからです。初期のアシューリアン遺跡は、LCTとの関連でほぼ様式1の石核および剥片も有しており、さまざまな遺跡で確認されています。さらに、アフリカ東部の160万~150万年前頃の多くの遺跡には様式1の石器しか含まれていませんが、これに関してはおそらく過小報告されている、と本論文は指摘します。DAN5でもBSN12でも様式1および2両方の石器が発見されていますが、BSN12では様式2の石器がほとんどなく、容易に見過ごしてしまうかもしれません。そのため、注意深く見ていけば、多数の様式1石器群の中に様式2石器もあると推測され、それが見落とされて様式1遺跡と判断される場合も少なくないだろう、というわけです。ゴナの証拠が示唆するのは、様式1遺跡のほとんどは広義のエレクトスの所産で、最近まで根強かった「単一種/単一技術」で想定されるような異なる人類種の共存ではない、ということです。エレクトスの石器技術には多様性がある、というわけです。

 エレクトスの小集団を含むいくつかの初期人類集団は、180万年前頃までにアフリカからユーラシアへと拡散しました。ドマニシ遺跡の年代からは、それがアシューリアンの開発前だった可能性があります。アフリカに残った集団がアシューリアン技術を開発し、後にアジアへの移住に伴い拡散した可能性が最も高そうです。複数の人類種による同年代の2つの異なる技術の共存という可能性も提示されていましたが、本論文は、アフリカに残ったエレクトスが様式2のアシューリアン技術を開発し、可変的かつ柔軟に、様式1および2の両方を使用した、と主張します。

 アシューリアン石器の製作には大きな石材と複雑で高度な製作が必要ですが、様式1の石器は、鋭利な切断剥片が必要な時はいつでも製作されました。石器の機能は石器技術のさまざまな表現において重要になるかもしれません。BSN12の豊富な動物相化石では、解体痕もしくは叩き石による打撃痕は識別されませんでした。しかし、DAN5の動物相化石では、人類による動物消費の証拠と一致するような痕跡が確認されました。ゴナの証拠は、エレクトスが集団水準の行動的多様性および柔軟性を有しており、様式1および2両方を長期にわたった併用していた、と示唆します。

 ただ、この研究には関わっていない碩学のウッド(Bernard Wood)氏は、ゴナの2ヶ所で発見された人類頭蓋の前後数十万年間も石器は製作されていたかもしれない、と指摘し、エレクトスによる製作との判断に慎重な姿勢を示します。また、本論文はエレクトスにおける強い性的二形の可能性を指摘しますが、最近の研究では、エレクトスの性的二形はゴリラ属やアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)と現代人との中間程度と推測されています(関連記事)。性的二形は社会構造との関連も指摘されており、その意味でも今後の研究の進展が注目されます。


参考文献:
Semaw S. et al.(2020): Co-occurrence of Acheulian and Oldowan artifacts with Homo erectus cranial fossils from Gona, Afar, Ethiopia. Science Advances, 6, 10, eaaw4694.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw4694

神経発達に由来するショウジョウバエの行動の個性

 ショウジョウバエの行動の個性に関する研究(Linneweber et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。動物の行動の個性の起源に関する通俗的な認識の大半は、「氏」(行動を導くのは遺伝ゲノム)か「育ち」(行動を導くのは経験と環境)か、という規範的な枠組みにあります。ほぼ全ての動物において、固有の行動癖は遺伝学的に同じ個体間でも普通に見られることで、脳の解剖学的構造の自然な発達変異と同じですが、脳の発達の個体差から個体の行動が予測できるか否かは、まだ研究されていません。

 この研究は、ショウジョウバエにおける行動の個性に関する神経発達の非遺伝性起源について報告しています。自由に歩くショウジョウバエに道筋を示すと、直線的に歩く傾向のある個体もいれば、うろうろする個体もいます。この研究は、キイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)を対象に、DCN(Dorsal Cluster Neurons)と呼ばれる視覚系神経細胞の配線の仕組みの個体差が、道筋をたどるというハエの行動における個性の現れにどうつながるのか、検証しました。

 その結果、DCN発達におけるランダム変異がハエ一匹一匹の脳回路に固有の非対称性をもたらし、それがハエの行動を強く誘導している、と明らかになりました。DCN配線の非対称性が強いほど道筋に合わせることが上手く、したがって直線的に歩いた、というわけです。この研究は、ランダムな神経変異と動物の行動の個性の関係を明示しています。正常な神経発達の先天的な混乱が遺伝的に類似する個体群に行動の多様性を生み出すポイントで、同様の仕組みはヒトなどの他の種にも存在すると考えられる、というわけです。


参考文献:
Linneweber GA. et al.(2020): A neurodevelopmental origin of behavioral individuality in the Drosophila visual system. Science, 367, 6482, 1112–1119.
https://doi.org/10.1126/science.aaw7182

飼い犬に見られる不安や問題行動

 飼い犬に見られる不安や問題行動に関する研究(Salonen et al., 2020)が公表されました。この研究は、フィンランドの飼い犬13700頭について、飼い主の報告に基づいて調査し、72.5%の飼い犬が攻撃性や恐怖心などの問題行動を示した、と明らかにしました。最も多かった不安様形質は騒音感受性で、32%の飼い犬が1種類以上の騒音を怖がり、花火を特異的に怖がった犬が26%いました。2番目に多い不安様形質は恐怖心で、29%の犬に見られました。具体的には、他の犬に対する恐怖心(17%)、見知らぬ人間に対する恐怖心(15%)、新たな状況に対する恐怖心(11%)でした。

 騒音感受性、特に雷に対する恐怖心は、高所や地面(たとえば、金属の格子板やピカピカの床)を怖がることと同じように、年齢とともに高くなりました。若齢の犬は、放置されると物品を損傷し、物品に放尿することが、老齢の犬よりも多く、注意力が散漫になったり、極度に活発になったり、自分の尻尾を追いかけたりすることも多い、と明らかになりました。雌犬は恐怖心を示すことが多かったものの、雄犬は雌犬よりも攻撃的かつ過度に活発で、衝動的になることが多いことも明らかになりました。

 この研究は、犬種間の違いについても明らかにしました。騒音感受性が最も強かったのがロマーニョ・ウォーター・ドッグ、ホイートンテリアと雑種で、恐怖心が最も強かったのがスパニッシュ・ウォーター・ドッグ、シェットランド・シープドッグと雑種でした。ミニチュア・シュナウザーの10.6%が見知らぬ人間に対して攻撃性を示しましたが、ラブラドール・レトリーバーでは0.4%にすぎませんでした。この研究によって得られた数々の知見は、犬の不安や行動に関する問題が犬種間で一定以上共通している可能性を示唆しています。こうした状態になる犬を減らすには、たとえば繁殖政策の実施や生活環境の改善などに注力すべきである、とこの研究は指摘しています。下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物行動学:飼い犬に普通に見られる不安や問題行動について

 犬の種類を問わず普通に見られるとされる不安や問題行動について詳しく調べた結果を報告する論文が、Scientific Reportsに掲載される。今回の研究で、最も一般的な不安様形質が騒音感受性で、その次が恐怖心であることが示唆されている。

 今回、Hannes Lohiたちの研究チームは、フィンランドの飼い犬(1万3700頭)について、飼い主の報告に基づいた調査を行い、72.5%の飼い犬が問題行動(攻撃性、恐怖心など)を示したことを明らかにした。最も多かった不安様形質は騒音感受性で、32%の飼い犬が1種類以上の騒音を怖がり、花火を特異的に怖がった犬が26%いた。2番目に多い不安様形質は恐怖心で、29%の犬に見られた。具体的には、他の犬に対する恐怖心(17%)、見知らぬ人間に対する恐怖心(15%)、新たな状況に対する恐怖心(11%)だった。

 騒音感受性、特に雷に対する恐怖心は、高所や地面(例えば、金属の格子板やピカピカの床)を怖がることと同じように年齢とともに高くなった。若齢の犬は、放置されると物品を損傷し、物品に放尿することが、老齢の犬よりも多く、注意力が散漫になったり、極度に活発になったり、自分の尻尾を追いかけたりすることも多かった。雌犬は恐怖心を示すことが多かったが、雄犬は、雌犬よりも攻撃的で、過度に活発で、衝動的になることが多かった。

 Lohiたちは、犬種間の違いについても明らかにした。騒音感受性が最も強かったのがロマーニョ・ウォーター・ドッグ、ホイートンテリアと雑種で、恐怖心が最も強かったのがスパニッシュ・ウォーター・ドッグ、シェットランド・シープドッグと雑種だった、ミニチュア・シュナウザーの10.6%が見知らぬ人間に対して攻撃性を示したが、ラブラドール・レトリーバーでは0.4%にすぎなかった。

 今回の研究によって得られた数々の知見は、犬の不安や行動に関する問題が犬種間で共通している可能性を示唆している。こうした状態になる犬を減らすには、例えば、繁殖政策の実施や生活環境の改善などに注力すべきだとLohiたちは指摘している。



参考文献:
Salonen M. et al.(2020): Prevalence, comorbidity, and breed differences in canine anxiety in 13,700 Finnish pet dogs. Scientific Reports, 10, 2962.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-59837-z

岡田晋吉『太陽にほえろ!伝説』

 ちくま文庫の一冊として、筑摩書房より2020年2月に刊行されました。本書の親本『太陽にほえろ!伝説 疾走15年私が愛した七曲署』は、2003年に増補決定版として日本テレビ放送網より刊行されました。この増補決定版の親本は1996年に日本テレビ放送網より刊行されました。本書の親本は、以前図書館で読んだと記憶していますが、もうその記憶は薄れてしまいましたし、全作品リストも掲載されているので、文庫化を契機に資料用として購入しました。

 本書を読んで改めて思うのは、制作者側と視聴者側とでは『太陽にほえろ!』への想いが異なる、ということです。もちろん、制作者側とはいっても、プロデューサー・監督・脚本家・出演者などで違ってくるでしょうし、そもそも想いは一人ずつ違ってくるもので、それは視聴者でも同様だと思います。ただ、制作者側と視聴者側とでは、やはり『太陽にほえろ!』への想いに大きな違いが生じやすいとは思います。視聴者は基本的に放送された作品しか知らず、制作時の苦労は見えてきません。そこが最大の違いかな、とは思います。著者が選んだ「ベスト・エピソード100」に、私のお気に入りの話が入っていなかったり、逆に意外な話が入っていたりするところに、制作者側と視聴者側の意識の大きな違いが窺えます。

 すっかり忘れていた話も多いのですが、ボギー役の世良公則氏は、『太陽にほえろ!』のプロデューサーである著者から劇中で歌うよう、何度か要請されても、最後まで歌わなかったそうです。世良氏は演技の世界と歌の世界を峻別し、自分の歌は『太陽にほえろ!』には合わない、と言っていたそうですが、世良氏への印象通りの話です。石原裕次郎氏は、亡くなる2週間前に見舞いに訪れた著者に、ラガー役だった渡辺徹氏は太りすぎなので、医者の指導で食生活を変えなければいけない、と言っていたそうです。もうその頃には石原氏は肉体的にも精神的にもかなり厳しい状態だったのでしょうが、それでも若い役者を気遣うところが、石原氏らしいと思います。ベスト・エピソード100もそうですが、本書を読んで視聴当時のことが思い出され、懐かしくなりました。購入して正解だったと思います。

ヒトの足の進化

 ヒトの足の進化に関する研究(Venkadesan et al., 2020)が報道されました。日本語の解説記事もあります。ヒトの足は、剛性が高く、アーチを備えていますが、これらの特徴は効率的な直立歩行に必須です。ヒトが足の親指の付け根を使って体を押し出す時、足には体重よりも大きな力がかかり、そのため足の中央部分は湾曲します。しかし、足はこの大きな力に耐える充分な強度があるため、その形状を維持できます。これに対して、ベルベットモンキーやマカクやチンパンジーやゴリラなど他の霊長類は、比較的柔軟性の高い扁平な足を持っています。ヒトの足の構造から高い剛性がどのように生じるのか、という点に関するこれまでの研究の大部分は、踵から母指球に至る足部内側縦アーチ(MLA、内側縦足弓)に着目していましたが、足を横断する足根横アーチ(TTA、足根骨横足弓)の役割を検討していませんでした。TTAはMLAと連携し、ヒト特有の足の剛性を生み出しており、そのためヒトは倒れることなく体を前に蹴り出せます。これは、他の霊長類が木の枝をつかむためにより柔軟性のある足を必要とするのと対照的です。

 この研究は、足の剛性がTTAによって生じているのかどうかを調べるため、ヒトの足について曲げ試験を行ないました。まず、ミッドフットのコンピュータ・シミュレーションとプラスチックモデルの両方が作成され、一定量曲げるのに必要な力が測定されました。その結果、より顕著なTTAを備えたプラスチックモデルとシミュレーションでは、より平坦な足のモデルよりも剛性が高く、曲げの影響を受けにくい、と明らかになりました。逆にこれらのモデルでは、MLAの曲率を増加させても、剛性にほとんど影響しませんでした。その後、長さ・厚さ・TTA曲率が異なる足のメカニカルなモデルの曲げ試験では、シミュレーションとプラスチックモデルの実験と同様に、より顕著なTTAを持つ足の模倣体を曲げようとすると、より剛性がある、と明らかになりました。最後に、献体された足において、縦アーチ組織をそのままにして足の横アーチ組織を切断すると、足の剛性が約半分に低下しました。この研究は、TTAが足の剛性の40%以上に関係している、と推測しています。紙を横方向に折りたたむと、縦の剛性が高くなるように、TTAが足において同じような役割を果たしている、というわけです。

 この研究はまた、絶滅人類種を含む霊長類全体におけるTTAの進化についても調べました。その結果、MLAとTTAが完全に発達しているのはホモ属だけと明らかになりました。MLAはまだホモ属が存在しなかっただろう300万年以上前に出現しましたが、180万年前頃のホモ属にはTTAも備わるようになりました。この知見は、2つの隣接したアーチの組み合わせにより足の縦方向の剛性が生み出されている、と示唆しています。さらに、ヒトの足の進化には、いくつかの段階があり、それにより効率的な歩行と走行が可能になったことも明らかになりました。また、ヒトの足の模倣を目指す義肢や、脚付きロボットの設計を改良できる可能性や、整形外科手術によって痛みが緩和する患者とそうでない患者がいる理由の解明や、靴職人が顧客の足をスキャンすることで、足の全体的な構造に基づき、個人に合わせた提案ができるようになる可能性など、この研究の応用も期待されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


生体力学:二足歩行のために作られたヒトの足

 ヒトの足に備わった2つの独特なアーチによって二足歩行と二足走行が可能になったという結論を示した論文が、今週Nature に掲載される。この新知見は、ヒトの足の進化を解明するための新たな手掛かりであり、ロボットの足の設計を改良するためにも役立つ可能性がある。

 ヒトの足は、剛性が高く、アーチを備えているが、これらの特徴は、効率的な直立歩行に必須である。これに対して、他の霊長類(チンパンジー、ゴリラ、マカクなど)は、比較的柔軟性の高い扁平な足を持っている。ヒトの足の構造から高い剛性がどのように生じるのか、という点について研究者は議論を重ねてきた。先行研究の大部分は、踵から母指球に至る足部内側縦アーチ(MLA)に着目していたが、足を横断する足根横アーチ(TTA)の役割を検討していなかった。

 今回、Madhusudhan Venkadesanたちの研究チームは、足の剛性がTTAによって生じているのかどうかを調べるため、ヒトの足について曲げ試験を行った。その結果、TTAが足の剛性の40%以上に関係していることが明らかになった。紙を横方向に折りたたむと、縦の剛性が高くなるように、TTAが足において同じような役割を果たしていると考えられるのだ。

 また、Venkadesanたちは、絶滅したヒト族種を含む霊長類全体におけるTTAの進化についても調べた。その結果、MLAとTTAが完全に発達しているのはホモ属だけであることが分かった。この知見は、2つの隣接したアーチの組み合わせによって足の縦方向の剛性が生み出されていることを示唆している。さらに、ヒトの足の進化には、いくつかの段階があり、それによって効率的な歩行と走行が可能になったことも分かった。

 同時掲載のNews & Views論文(Glen Lichtwark、Luke Kelly共著)では、これと同じ機構を直接応用して、ヒトの足を模倣することを目指す義肢や脚付きロボットの設計を改良できる可能性が指摘されている。


生体力学:ヒトの足の剛性と横アーチの進化

生体力学:ヒトの歩き方

 ヒトが二足でうまく歩行できる理由の1つは、ヒトの足がまるで板バネのように高い剛性を有することにある。つまり、力が加えられると曲げ抵抗が働くのである。これは、脚と地面の間で伝達される力が効率的に結合することを意味する。この特徴は一般に、踵と母指球の間の足底が地面に接しないようにしている顕著なアーチ形状である内側縦足弓(内側縦アーチ;MLA)と関連付けられている。しかし、MLAが足の剛性の総合的な測定結果と必ずしも相関しないという問題も指摘されている。一方で、MLAと直交する足根横足弓(足根横アーチ;TTA)はこれまで検討されてこなかった。今回M Venkadesanたちは、実験とモデリングの両方を用いて、TTAがいかにしてMLAとともに進化してきたか、そしてそれがヒトの歩行にどのように寄与しているのかを明らかにしている。



参考文献:
Venkadesan M. et al.(2020): Stiffness of the human foot and evolution of the transverse arch. Nature, 579, 7797, 97–100.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2053-y

『卑弥呼』第35話「ウソ」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年3月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが、自分こそはその昔日向に残ったサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の末裔だ、と鬼八荒神に宣言するところで終了しました。今回は、鞠智彦(ククチヒコ)が、日見彦(ヒミヒコ)と自称していた暈(クマ)のタケル王を、トンカラリンの洞窟で殺害したことを回想する場面から始まります。鞠智彦は以夫須岐(イフスキ)にて、暈の最高権力者にしてタケル王の父であるイサオ王に謁見します。日見子(ヒミコ)と名乗る女子(ヤノハ)について教えてくれ、とイサオ王に言われた鞠智彦は、ヤノハが日向(ヒムカ)を領土とするため山社(ヤマト)を出た、と答えます。都萬(トマ)の国が黙っているとは思えない、と言うイサオ王に対して、ヤノハは我々が思うより賢いようで、まず都萬も手出しできない千穂に向かった、と鞠智彦は答えます。鬼退治とは、その女子(ヤノハ)の命運もそこで尽きるな、と冷笑するイサオ王に対して、逆に鬼どもを平定すると自分は思う、と鞠智彦答えます。他国がどう動くのか、イサオ王に問われた鞠智彦は、少なくとも那(ナ)は山社を国として認めるだろう、と鞠智彦は予想します。するとイサオ王は、日見子(ヤノハ)に会って、生き残るためには我々の側につくしかないと説くよう、鞠智彦に命じます。ヤノハを容易には説得できないと考えている鞠智彦に対して、那とヤノハを結ばせてはならない、とイサオは厳命します。息子のタケル王は日見彦として自ら雄々しく死んだのだろうな、とイサオ王に問われた鞠智彦は、今回の戦の責任を取って自害した、と答えます。するとイサオ王は、ウソの臭いを放っているぞ、と鞠智彦に言います。イサオ王は、一応否定する鞠智彦をそれ以上問い詰めることはなく、日見子の説得は頼んだ、ウソ・甘言など何を用いてもよい、と言います。

 末盧(マツラ)国では、ミルカシ王が、タケル王がトンカラリンでお隠れになり、新たな日見子(ヤノハ)がトンカラリンから静観したので、日見子が千穂を制圧したら我々は使者を送るべきだと思う、と言います。山社を国として認めるべきか、問われた日の守(ヒノモリ)のミナクチは、那の王がいち早く山社と和を結ぶという噂が流れており、そうなれば使者を送るべきだ、と答えます。その返答に満足したのか、ミルカシ王は微笑み、百年ぶりに真の日見子様が現れたのだから、と言います。

 伊都(イト)国では、イトデ王が島子(シマコ)のオホチカ・兵庫子(ヒョウゴコ)・禰宜のミクモと今後の方針を検討していました。那と山社の急接近を契機に戦は那が有利となり、伊都に権益が侵されるという事態に、伊都国の主従は、伊都国も本物か否かはさておき、新たな日見子を認める、という方針でまとまります。

 穂波(ホミ)の国では、ヲカ王が身分の高そうなトモ・日の守のウテナと協議していました。ウテナは、タケル王が没した今、戦況は那軍有利なので新たな日見子を認めるべきだ、とヲカ王に進言します。しかし、トモは反対します。どう考えてもヤノハにはウソの臭いが満ちている、というわけです。那の島子のウラが密かに穂波に入り、都萬へと逃亡した件について問われたトモは、兵を率いる将として迂闊だった、と反省します。軍にウラへ加担した輩がいる、という噂についてヲカ王に問い質されたトモは、あくまでもウソ偽りの情報だ、と答えます。

 都萬の国では、那から亡命してきたウラが、都萬の国では王に次ぐ地位の巫身(ミミ)および巫身習(ミミナリ)とともに、タケツヌ王に拝謁していました。ケヌツ王はウラに温情をかけ、都萬はウラと同じく月読命を主神と奉ずるので、第二の故郷と思い、好きなだけ留まるようにと言い、タウラは感謝します。新たな日見子(ヤノハ)をどう思うか、タケツヌ王に問われたウラは、偽物だと即答します。ヤノハは身分卑しきトメ将軍と通じ、那のウツヒオ王まで篭絡してしまったので、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の故地である日向征服を策すヤノハに一刻も早く派兵すべきだ、とウラはタケツヌ王に訴えます。ところが、最初はそう思っていたタケツヌ王は、考えが変わった、と言います。手始めに千穂に向かった日見子(ヤノハ)は実に頭がよい、とタケツヌ王は指摘します。万一鬼退治に成功すれば、天照大御神からサヌ王までの山社である千穂と、百年前からの現在の山社という、二つの聖地を手中に収めたことになるからです。そうすると、ヤノハを日見子と認める国も出るはずで、ヤノハ討伐に派兵すれば、謀反人とされて他国に攻め込まれる理由を与えるかもしれない、とタケツヌ王はウラに説明します。タケツヌ王は、今の日見子がウソの現人神でも、認めてしまう方が得策かもしれない、とウラに指摘します。

 千穂の「あららぎの里」では、ヤノハの命により、千穂の首領であった鬼八荒神(キハチコウジン)こと15代目ハシリタケルがオオヒコにより斬首されました。ハシリタケルは、自分の首・胴・手足を別々の場所に埋葬するよう、遺言を残しました。ハシリタケルは地神となって里を守りたいのだろう、と考えたヤノハは、その要望を叶えてやるよう、ミマアキに指示します。ヤノハは、「鬼」と言われていた千穂の男たちについて、自分に忠誠を誓ったのでこれ以上の流血は無意味と言い、解放するよう、ミマアキに命じます。イクメが自分に何か訊きたそうだと思ったヤノハは、遠慮しないよう、イクメに言います。するとイクメは、ヤノハがサヌ王の末裔なのか、尋ねます。ヤノハは笑顔で、ウソに決まっているではないか、と答えます。自分は育ての母がどこかから拾ってきた身で、名もなき貧しい出自だろう、というわけです。イクメはヤノハの返答に衝撃を受けつつ、死を覚悟したハシリタケルに平然とウソをついたのか、と尋ねます。ヤノハは真面目な顔に戻り、ウソをつかねば千穂の者たちは反抗し、自分の望む平和は得られない、と言います。ヤノハはイクメに、人の性に関する自分の考えを述べます。人とは互いに憎み合って殺し合い、平和には最も無縁な生き物なので、戦いのない世とは多くの偽善とウソでのみ成り立つ虚構の世界だ、というわけです。ヤノハの考えに真理を認めつつも、なおも肯定することを躊躇うイクメに対して、平和のためなら自分はいくらでもウソをつき、人を欺く覚悟だ、とヤノハが言い放つところで今回は終了です。


 今回は、新たな日見子たるヤノハをめぐるそれぞれの国と人の思惑と、それをめぐるウソが描かれました。イサオ王は鞠智彦のウソを見抜き、鞠智彦も畏れる人物として描かれています。鞠智彦やトメ将軍も大物として描かれていますが、それぞれさらに上の地位の人物がいるのに対して、イサオ王の上に立つ人物はおらず、イサオ王は現時点では本作において最も大物感のある人物のように思います。暈は『三国志』の狗奴国でしょうから、イサオ王の計画は失敗に終わり、暈と山社(邪馬台国)を中心とする勢力とは対立することになるのでしょう。すでに、那が山社国の承認に動き出そうとしているのを見て、ヤノハを真の日見子か怪しんでいる都萬のタケツヌ王でさえ、ヤノハを日見子と承認する選択肢を考えています。おそらく、暈を除く九州(筑紫島)の諸国はヤノハを日見子と認め、新たな国である山社を盟主として同盟を組み、暈と山社連合との間で戦いが続くのでしょう。その前に、イサオ王に命じられた鞠智彦がヤノハを訪ねるのでしょうが、作中でもとくに人物造形が魅力的で大物感のある鞠智彦とヤノハとの初対面がどのように描かれるのか、たいへん楽しみです。また、今は九州だけが舞台となっていますが、今後は四国と本州、さらには朝鮮半島と魏だけではなく呉も描かれるかもしれず、この点も楽しみです。

世界の島嶼鳥類の多様性を説明するモデル

 世界の島嶼鳥類の多様性を説明するモデルについての研究(Valente et al., 2020)が公表されました。定着・種分化・絶滅は、種の豊富さの全球パターンに影響を与える動的な過程です。この島嶼生物地理学の理論は1963年に提唱されました。島嶼生物地理学の理論では、これらの過程の種の多様性の蓄積への寄与は、島の面積と隔離度に依存する、と予測されています。しかし、適切なデータも解析ツールもこれまで利用可能ではなかったため、種分化を無視できないような島嶼に関して、この予測のロバストで全球的な検証は行なわれてきませんでした。この研究は、こうしたデータとツールの不足という問題に取り組み、島嶼の鳥類について、定着・絶滅・種分化の速度が島の面積および隔離度とどのように共変化するのかを規定する、一般的関係の経験的な形態を明らかにしています。

 この研究は、596の鳥類分類群を含む世界各地の41の海洋群島の陸生鳥類相に基づき、島嶼鳥類に関する全球的な分子系統学的データセットを構築し、新たな解析法を用いて、定着・種分化・絶滅の島嶼特異的な速度の、島の特徴(面積および隔離度)への感度を推定しました。得られたモデルは、高い説明力で複数の全球的な関係を予測できました。すなわち、定着は隔離度の増大に伴って減速し、絶滅は面積の増大に伴って減速し、種分化は面積と隔離度の増大に伴って加速する、と明らかになりました。島嶼生物地理学の理論的基盤を、分子系統学的データに含まれる経時的情報と組み合わせることにより、地球規模で見られる生物多様性の変動を司る基本的な関係を明らかにするための強力な手法が得られます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:世界の島嶼鳥類の多様性は単純な動的モデルによって説明される

生態学:島嶼の鳥類で裏付けられた島嶼生物地理学の理論

 MacArthurとWilsonは1963年、定着、種分化、絶滅の種の多様性の蓄積への寄与は生息地の面積と隔離度に依存する、とする島嶼生物地理学の理論を提唱した。今回L Valenteたちは、島嶼の鳥類における、この理論の全球規模での検証について報告している。彼らは、世界各地の41の海洋群島の陸生鳥類相に基づいて、島嶼鳥類の定着および種分化の時期に関する全球的な分子系統学的データセットを構築した。そして、定着、種分化、絶滅の島嶼特異的な速度の島の面積および隔離度への感度を推定する動的モデルを開発することで、定着が隔離度の増大に伴って減速し、絶滅が面積の増大に伴って減速し、種分化が面積および隔離度の増大に伴って加速することを見いだした。これらの結果は、島嶼生物地理学理論の重要な予測を裏付けている。



参考文献:
Valente L. et al.(2020): A simple dynamic model explains the diversity of island birds worldwide. Nature, 579, 7797, 92–96.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2022-5

確率を理解しているオウム

 確率を理解しているオウムに関する研究(Bastos, and Taylor., 2020)が公表されました。この研究は、対象の動物が統計を理解しているかどうか、判定するための基準の検証のため、実験を行ないました。この研究は、以前に霊長類とヒト乳児で行われた研究にひじょうによく似ています。まず、6羽のミヤマオウム(Nestor notabilis)を訓練して、報酬が得られることを黒色と、報酬が得られないことをオレンジ色と関連づけさせました。その後、2つの透明な広口瓶に黒色とオレンジ色の木片(トークン)を混在させ、それぞれの瓶の中からミヤマオウム(ケアオウム)に見えないように1個の木片を取り出し、それぞれの手の中に握り、オウムに差し出して選ばせる実験を行ないました。黒とオレンジの木片の相対頻度は、瓶により異なっていました。

 その結果、ミヤマオウムは、報酬が得られる色のトークンの出現頻度の高い広口瓶から取り出された木片を選ぶ傾向を示しました。ただし、この出現頻度は、相対頻度であり、絶対頻度である必要はありませんでした。次に、広口瓶の中に仕切板を水平に差し込んで、仕切板の上にある木片だけを取り出せるようにして報酬が得られる木片の割合を変えたところ、ミヤマオウムはこの物理的制約に感づき、報酬の得られる木片が取り出される確率の高い広口瓶の方を選びました。さらに、ミヤマオウムは、以前に報酬の得られる木片を差し出すことが多い、という「バイアス」を示した実験者が差し出すトークンを選ぶ傾向も示しました。先行研究では、真の統計的推論ができるのはヒトと(非ヒト)大型類人猿だけとされていました。こうした複雑な高次認知過程を鳥類が有すると明らかにすることは、統計的推論の進化史を解明する上で役立つとされます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物学:確率を理解しているオウム

 ニュージーランド産のミヤマオウム(ケアオウム)は、確率を理解し、それに基づいて行動できることを報告する論文が、今週Nature Communications に掲載される。これは、大型類人猿以外の動物が統計的推論を行うことを初めて報告した論文だ。

 今回、Amalia BastosとAlex Taylorは、研究対象の動物が統計を理解しているかどうかを判定するための基準を検証することを目的とした実験を行った。今回の研究は、以前に霊長類とヒト乳児で行われた研究に非常によく似ている。まず、Blofeld、Bruce、Loki、Neo、Plankton、Tazという名の6羽のミヤマオウムを訓練して、報酬が得られることをブラック色と関連付け、報酬が得られないことをオレンジ色と関連付けさせた。そして、2つの透明な広口びんにブラック色とオレンジ色の木片(トークン)を混在させ、それぞれのびんの中からオウムに見えないように1個のトークンを取り出し、それぞれの手の中に握り、オウムに差し出して選ばせる実験を行った。ブラックとオレンジのトークンの相対頻度は、びんによって異なっていた。

 その結果、ミヤマオウムは、報酬が得られる色のトークンの出現頻度の高い広口びんから取り出されたトークンを選ぶ傾向を示した。ただし、この出現頻度は、相対頻度であり、必ずしも絶対頻度である必要はなかった。次に、広口びんの中に仕切板を水平に差し込んで、仕切板の上にあるトークンだけを取り出せるようにして報酬が得られるトークンの割合を変えたところ、ミヤマオウムは、この物理的制約に感づき、報酬の得られるトークンが取り出される確率の高い広口びんの方を選んだ。さらに、ミヤマオウムは、以前に報酬の得られるトークンを差し出すことが多いという「バイアス」を示した実験者が差し出すトークンを選ぶ傾向も示した。

 先行研究では、真の統計的推論ができるのはヒトと大型類人猿だけとされていた。この種の複雑な高次認知過程を鳥類が有することを明らかにすることは、統計的推論の進化史を解明する上で役立つとされる。



参考文献:
Bastos APM, and Taylor AH.(2020): Kea show three signatures of domain-general statistical inference. Nature Communications, 11, 828.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-14695-1

鳥の卵の色の多様性

 鳥の卵の色の多様性に関する研究(Wisocki et al., 2020)が公表されました。鳥の卵の色と模様はさまざまですが、こうした多様性の主要因については分かっていません。たとえば、濃い色素は薄い色素よりも多くの熱を吸収するため、色の濃い卵殻は寒冷な地域で有利と考えられますが、温暖な地域の方が強い有害な紫外線放射も遮断します。同様に、濃い色素は抗菌特性がより強いため、温暖湿潤な地域で有利と考えられます。薄い色素は捕食者の目につきやすいものの、捕食者は暑い地域の方に多い傾向があります。

 この研究は、自然史博物館のコレクションに由来する634種の卵の明度と色合いを測定することにより、卵殻の色の全般的パターンを調べました。そのパターンをそれぞれの種の地理的繁殖地域にマッピングすると、気温と日射が共に低く、(穴の中やカップ状の巣ではなく)巣が地上で開放的に作られる場合に、卵の色が著しく濃くなる、と明らかになりました。次に、色合いと明度がさまざまな卵(ニワトリ、アヒル、ウズラ)を日射に曝露しました。その結果、色の薄い卵よりも色の濃い卵の方が、孵卵温度を長時間維持できる、と明らかになりました。これらの知見は、温度調節が卵殻色決定の主たる要因となっている可能性を強く示唆しています。なお、現生鳥類の色付き卵の起源は恐竜の中でも獣脚類において生じた一度の進化にある、と推測されています(関連記事)。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化学】鳥の卵の色はなぜ多様なのか

 生息地の気候が寒冷で巣が開放的な鳥は、濃い色の卵を産む傾向があることを明らかにした論文が掲載される。色の濃い色素によって、日光にさらされた卵は内部の温度を維持できる時間が長くなるのではないか、とその研究は示唆している。

 鳥の卵の色と模様はさまざまであるが、こうした多様性の主たる要因は分かっていない。例えば、濃い色素は薄い色素よりも多くの熱を吸収するため、色の濃い卵殻は寒冷な地域で有利と考えられるが、有害な紫外線放射も遮断する。紫外線は温暖な地域の方が強い。同様に、濃い色素は抗菌特性がより強いため、温暖湿潤な地域で有利と考えられる。薄い色素は捕食者の目につきやすいが、捕食者は暑い地域の方に多い傾向がある。

 Daniel Hanley、Phillip Wisockiたちは、自然史博物館のコレクションに由来する634種の卵の明度と色合いを測定することにより、卵殻の色の全般的パターンを調べた。そのパターンをそれぞれの種の地理的繁殖地域にマッピングすると、気温と日射が共に低く、(穴の中やカップ状の巣ではなく)巣が地上で開放的に作られる場合に、卵の色が著しく濃くなることが明らかになった。

 次に、色合いと明度がさまざまな卵(ニワトリ、アヒル、ウズラの卵)を日射に曝露した。その結果、色の薄い卵よりも色の濃い卵の方が、孵卵温度を長時間維持できることが明らかになった。以上の知見を総合すると、温度調節が卵殻色決定の主たる要因となっている可能性が強く示唆される。



参考文献:
Wisocki PA. et al.(2020): The global distribution of avian eggshell colours suggest a thermoregulatory benefit of darker pigmentation. Nature Ecology & Evolution, 4, 1, 148–155.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-1003-2

脳における言葉と歌の区別

 脳における言葉と歌の区別に関する研究(Albouy et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。音楽と言葉は多くの場合、互いに切り離せない形で関係し合っているため、ヒトにとって、単一の連続した音波において旋律と言葉を切り離して認識するという能力には、大きな困難が伴います。現在、言葉の知覚は短時間の一時的な時間変調を処理する能力に強く依存しているのに対して、旋律の知覚は周波数変動など音のスペクトル構成の詳細な処理に依存する、と考えられています。これまでの研究では、左および右大脳半球のニューロンが、それぞれ言葉と音楽の処理に特化している、と示唆されています。しかし、脳におけるこのような非対称性が、言葉と音楽における異なる音響的特徴によるのか、それとも脳内領域の特異的なニューロンネットワークによるのかは、依然として不明です。

 この研究は、オリジナルの10の文章をオリジナルの10の旋律と組み合わせて100曲のアカペラ(無伴奏の歌)を作成し、時間(言葉)領域とスペクトル(旋律)領域の聴覚情報を組み込みました。この研究は、歌に操作を加え、それぞれにおいて時間領域とスペクトル領域のいずれかを選択的に減弱させられるような録音方法を用いました。その結果、時間情報を減弱させると言葉の認識が障害されるものの、音楽の認識には影響がない、と明らかになりました。他方、旋律の知覚が障害されるのは、歌においてスペクトル情報を減弱させた場合のみでした。同時に行なわれたfMRI脳スキャニングにより非対称的なニューロン活動が示され、言葉の情報の解読は主として左脳の聴覚皮質で行われていたのに対して、旋律の情報は主として右脳で処理されていました。

 ヒトが用いる音の中でも最も独自のものである言葉と音楽の知覚は、異なる大脳半球において歌の音響的構造に特異的な特徴に反応するよう特化して適応したニューロンシステムにより可能になっている、というわけです。ヒトの重要な特徴である言葉の進化は昔から高い関心を集め続けてきましたが、言葉の進化と歌との関連も指摘されるなど、言葉の起源については現在でも議論が続いています。この研究は、言葉の起源と進化を検証するうえで重要な手がかりを明らかにしており、たいへん注目されます。


参考文献:
Albouy P. et al.(2020): Distinct sensitivity to spectrotemporal modulation supports brain asymmetry for speech and melody. Science, 367, 6481, 1043–1047.
https://doi.org/10.1126/science.aaz3468

地中海西部諸島における新石器時代以降の人口史

 地中海西部諸島における新石器時代以降の人口史に関する研究(Fernandes et al., 2020)が報道されました。紀元前3000年頃、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を起源とする人々が西進し始め、ヨーロッパ中央部の在来農耕民と交雑し、縄目文土器(Corded Ware)文化集団の系統の1/3に寄与し、鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化集団との関連においてヨーロッパ西部で拡大しました。イベリア半島では、草原地帯系統が紀元前2500年頃までに外れ値の個体群に出現し、紀元前2000年頃までにイベリア半島集団へと完全に混合しました。地中海東部のクレタ島では、紀元前2400~紀元前1700年頃となる中期~後期青銅器時代のミノア文化期の報告されている個体群では、草原地帯系統がほとんど確認されませんが、早期イラン牧畜民と関連した集団由来の系統(イラン関連系統)の約15%がゲノムで見られます。

 しかし、草原地帯系統はクレタ島とその近隣のギリシアに、紀元前1600~紀元前1200年頃のミケーネ期には到達していました。地中海中央部および西部諸島では、青銅器時代の移行は古代DNA分析で調査されてきませんでした。バレアレス諸島における最初の永続的な人類の居住は、紀元前2500~紀元前2300年頃にさかのぼります。紀元前1200年頃、タライオット文化(Talaiotic culture)が食資源の管理強化と記念碑的な塔の出現により特徴づけられ、その一部はサルデーニャ島のヌラーゲ文化との類似性が示唆されています。同様に、青銅器時代ヌラーゲ文化期のサルデーニャ島の農耕民もまた、地中海東部からの集団と交易しました。サルデーニャ島とシチリア島は紀元前2500年以後のビーカー文化の拡大に影響を受けましたが、一方でミケーネ文化期にエーゲ海の影響を受けました。これらの文化的交流が人々の移動に伴っていたのかは未解決の問題で、本論文は61個体のゲノム規模古代データを生成することで検証しました。バレアレス諸島・サルデーニャ島・シチリア島の61個体から約124万ヶ所の一塩基多型配列が決定され、ゲノム規模データが得られました。46人では遺骸から直接放射性炭素年代が得られました。1親等の関係にある個体が1人除外されました。常染色体DNAの平均網羅率は2.91倍(0.11~12.13倍)です。

 まず本論文の分析結果を概観すると、バレアレス諸島では青銅器時代の3人がヨーロッパ新石器時代および青銅器時代集団の変異内に収まり、草原地帯系統も見られます。早期青銅器時代と中期青銅器時代と後期青銅器時代の間で、顕著な違いが明らかになりました。3人の考古学的背景はひじょうに異なるので、個別に処理されました。シチリア島では中期新石器時代の4人がヨーロッパ早期農耕民と近縁で、シチリア島中期新石器時代集団として分類されます。これと比較して早期青銅器時代のシチリア島個体はすべて、早期青銅器時代の外れ値となる2人とともに東方集団へと接近しています。この外れ値の2人は草原地帯系統を有し、シチリア島早期青銅器時代集団として4人とはやや異なります。中期青銅器時代の2個体は早期青銅器時代個体群とは区別されるクレードで、シチリア島中期青銅器時代集団と分類されます。後期青銅器時代の5人は全員クレードを形成します。サルデーニャ島では、新石器時代の始まりから青銅器時代末まで、ヨーロッパ本土の早期および中期新石器時代農耕民と遺伝的に近縁で、2人を除いて系統構成を区別できません。この外れ値となる2人は、レヴァントおよびアフリカ北部新石器時代個体群と類似した銅器時代の個体と、地中海東部系統をわずかに有する青銅器時代の個体です。鉄器時代の2人はクレードを形成せず、1人はイラン関連系統を、もう1人は草原地帯系統を有します。古代末期の2人はサルデーニャ島の早期中世個体とともにクレードを形成しますが、早期中世の個体は主成分分析では分離し、年代も離れているのでサルデーニャ島早期中世人として個別に分析されました。


●バレアレス諸島

 バレアレス諸島で人類の居住が永続的となったのは早期青銅器時代以降で、青銅器時代以降の4人のDNAが解析されました。この4人のうち最古となる紀元前2400年頃の早期青銅器時代個体は、そのゲノムのうち38.1±4.4%が草原地帯系統に由来する、と推定されています。この早期青銅器時代個体は、草原地帯系統を有するイベリア半島ビーカー(Beaker)文化関連個体の子孫と推測されます。バレアレス諸島に草原地帯系統をもたらしたのはイベリア半島からの移民と考えられますが、早期青銅器時代でDNAが解析されたのは1人だけなので、この個体がバレアレス諸島の最古の入植者の代表的な遺伝的構成を表していないかもしれない、と本論文は注意を喚起します。

 中期および後期青銅器時代の2人はそれぞれ、早期青銅器時代個体よりも草原地帯系統の推定割合が低く、20.4±3.4%、20.8±3.6%です。この2人は、草原地帯系統の割合が比較的高い集団と、もっと古いヨーロッパ農耕民関連系統を有する集団との混合と推測されます。これは、さまざまな割合の草原地帯系統がバレアレス諸島に移住して混合したか、より多くヨーロッパ農耕民系統を有する集団からの遺伝子流動の結果かもしれません。また後期青銅器時代個体は、中期青銅器時代個体の属する集団の直接的な子孫かもしれません。バレアレス諸島のタライオット文化とサルデーニャ島のヌラーゲ文化との遺伝的関連の証拠は得られませんでしたが、タライオット文化期では1人しかDNAが解析されておらず、また移住なしの文化的接触もあり得る、と本論文は注意を喚起します。

 鉄器時代のバレアレス諸島にはフェニキア人が植民してきます。鉄器時代の1個体の年代は紀元前361~紀元前178年頃で、青銅器時代の3人とはクレードを形成せず、異なる遺伝的構成を有します。この鉄器時代個体の遺伝的構成をモデル化するには、モロッコの後期新石器時代系統が必要で、青銅器時代の先住集団の遺伝的影響をまったく受けていない可能性もあります。バレアレス諸島現代人集団は、アナトリア農耕民系統とヨーロッパ西部狩猟採集民系統に加えて、草原地帯系統・イラン系統・アフリカ北部系統の混合としてモデル化できます。これは過去の異なる系統の混合を反映しており、そのうちのいくつかは地中海南部および東部からと推測されます。バレアレス諸島現代人集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)はともに、古代に見られるmtHg-J2・H・U5およびYHg- R1bを有していますが、いずれも古代バレアレス諸島に特有ではないので、地域的な集団継続が証明されるわけではありません。


●シチリア島

 シチリア島では、中期新石器時代個体群が典型的な早期ヨーロッパ農耕民系統を有し、アナトリア新石器時代系統とヨーロッパ西部狩猟採集民系統の混合としてモデル化できます。また、ビーカー文化関連個体には草原地帯系統が見られない、と確認されました。早期青銅器時代になると、当初は紀元前2200年頃までに草原地帯系統が見られるようになります。2個体はとくに草原地帯系統の割合が高く、そのうち1個体はバレアレス諸島早期青銅器時代個体とクレードを形成するので、近い世代での祖先集団が同じと考えられ、その起源地としてとくに有力なのはイベリア半島です。早期青銅器時代における草原地帯系統の存在はY染色体の分析でも明らかで、男性5人のうち3人がYHg-R1b1a1a2a1a2(R1b-M269)です。この3人のうち2人はYHg-R1b1a1a2a1a2a1(Z195)で、現在はおもにイベリア半島に存在し、紀元前2500~紀元前2000年頃に分岐した、と推定されています。これらの知見からの節約的な説明は、イベリア半島からシチリア島およびバレアレス諸島への遺伝子流動があった、というものです。

 シチリア島では、中期青銅器時代となる紀元前1800~紀元前1500年頃までにイラン系統が検出され、主成分分析におけるミノア人とミケーネ人への方向変化と一致します。中期青銅器時代個体群は、イラン新石器時代関連系統が15.7±2.6%としてモデル化されます。またモデル化において、年代の近い系統では、ミノアやアナトリア早期青銅器時代が必要とされます。現代イタリア南部集団はイラン関連系統を有しており(関連記事)、シチリア島とイタリア南部ではイラン系統がギリシアの植民地となる前に出現した、と示されます。

 後期青銅器時代個体は、アナトリア新石器時代系統81.5±1.6%、ヨーロッパ西部狩猟採集民系統5.9±1.6%、草原地帯系統12.7±2.1%としてモデル化されます。現代人集団では、青銅器時代までに示された草原地帯系統とイラン関連系統がそれぞれ、10.0±2.6%と19.9±1.4%存在しますが、主要な系統は46.9±5.6%のアフリカ北部系統です。これらの結果は、鉄器時代以降にシチリア島に流入したのがほぼアフリカ北部系統だったことを示します。シチリア島現代人集団は、バレアレス諸島フェニキア期個体とクレードを形成します。これらの結果は青銅器時代以降のシチリア島におけるほぼ完全な系統転換と一致しますが、青銅器時代集団が現代人集団に少ないながら遺伝的影響を残している可能性も排除できません。現代人集団のmtHg- H・T・U・Kも、25%ほど存在するYHg-R1b1a1a2a1a2(R1b-M269)も、青銅器時代に見られます。


●サルデーニャ島

 サルデーニャ島では、新石器時代から銅器時代を経て青銅器時代まで、ほぼ全ての個体がアナトリア新石器時代系統とヨーロッパ西部狩猟採集民系統の混合としてモデル化され、高い遺伝的継続性が推測されます。新石器時代の個体群は、74~77%がフランス中期新石器時代系統と、23%がハンガリー早期新石器時代系統もしくはクロアチアのカルディウム文化系統と関連しています。サルデーニャ島の早期農耕民の起源は、まだ古代DNAデータがほとんど得られていないイタリア北部やコルシカ島にあるだろう、と本論文は推測しています。ビーカー文化個体群でも、草原地帯系統は検出されませんでした。これはシチリア島およびイベリア半島のビーカー文化関連個体群と類似しており、ビーカー文化関連個体群にかなりの草原地帯系統が見られるヨーロッパ中央部および北部とは対照的です(関連記事)。

 このように、サルデーニャ島では新石器時代から青銅器時代にかけて、ヨーロッパでは例外的な遺伝的連続性が見られますが、外れ値も2個体確認されています。銅器時代となる紀元前2345~紀元前2146年頃の個体は、アナトリア新石器時代系統22.7±2.45%とモロッコ早期新石器時代系統77.3±2.4%としてモデル化されます。この個体は、ほぼ同年代となる紀元前2473~紀元前2030年頃のイベリア半島中央部のカミノ・デ・ラス・イェセラス(Camino de las Yeseras)遺跡個体(関連記事)と遺伝的に類似しています。この遺跡の個体はアフリカ北部系統を有し、mtHg-M1a1b1、YHg-E1b1b1で、ともにアフリカ北部で典型的です。こうしたアフリカとヨーロッパの間の遺伝子流動は、それが増加し、より大きな人口への影響を有するようになった古典期のずっと前に、地中海全体の広範な移動があったことを示します。

 外れ値の2番目の個体は、年代が青銅器時代となる紀元前1643~紀元前1263年頃で、サルデーニャ島在来集団と、ミケーネ文化やヨルダン早期青銅器時代のような地中海東部系統、もしくはイタリアやフランスの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化の草原地帯の混合としてモデル化されます。サルデーニャ島の銅器時代の1個体のmtHgは、サルデーニャ島では珍しく、早期青銅器時代バルカン半島やアジア西部で知られているU1aです。また、サルデーニャ島青銅器時代の1個体のYHgは、現在バルカン半島や中東において最高頻度で見られる J2b2aで、青銅器時代以前にはバルカン半島や中東にほぼ固有です。

 サルデーニャ島における草原地帯系統とイラン系統の最初の出現は、鉄器時代の2個体で見られます。一方は紀元前762~紀元前434年頃で、草原地帯系統が22.5±3.6%、もう一方の紀元前391~紀元前209年頃の個体ではイラン系統が12.7±3.5%と推定されています。イラン系統は、古代末期の個体群の複数個体ではより高くなります。サルデーニャ島の古代末期集団は、バレアレス諸島のフェニキア期個体とクレードを形成し、フェニキア人によりもたらされた、と推測されます。サルデーニャ島の中世個体は限定的な一塩基多型網羅率のためモデル化されていませんが、そのYHg-E1b1b1b2は、サルデーニャ島銅器時代個体およびヘレニズム期エジプトの個体群のYHg-E1b1bと同じ系統で、地中海東部起源を示唆します。

 これらの知見から、鉄器時代2人・古代末期2人・中世前期1人というサルデーニャ島の比較的新しい個体群では、新石器時代から青銅器時代の先住民の遺伝的影響は比較的小さいと推測されます。この5人は全員沿岸の遺跡で発見されており、サルデーニャ島外の集団からの移住を示唆します。内陸部などサルデーニャ島で古代DNAデータが得られていない地域では、おそらく鉄器時代より前の先住民系統を高い割合で保持しており、その先住民系統は、サルデーニャ島現代人集団に寄与した最大の単一系統と推測されます。

 サルデーニャ島現代人集団は、4~5系統の混合としてのみモデル化でき、以前の推定よりも複雑な形成過程が示唆されます。サルデーニャ島現代人集団における先住民系統の割合は、新石器時代系統で56.3±8.1%、青銅器時代系統で62.2±6.6%と推定され、アフリカ北部(モロッコ)関連後期新石器時代系統の割合は、前者で22.7±9.9%、後者で17.1±8.0%と推定されます。このアフリカ北部関連系統はおそらくサハラ砂漠以南アフリカ系統との混合で、サルデーニャ島現代人集団でも複数の研究で検出されています。この56~62%という割合は、鉄器時代よりも前のサルデーニャ島先住民を唯一の祖先源と仮定して推定しているので、上限値となります。

 これらの知見は、サルデーニャ島ではヨーロッパ最初の農耕民関連系統の割合がヨーロッパの他地域よりも高いことを確証しますが、以前には知られていなかった新石器時代後の主要な遺伝子流動があったことも明らかにします。これは、サルデーニャ島現代人集団において、新石器時代から青銅器時代までに一般的だったYHg-R1b1aとmtHg-HV・JT・Uとともに、青銅器時代以前には確認されていないYHg-R1b1a1a2a1a2が高頻度で見られることからも明らかです。最近の研究でも、サルデーニャ島現代人集団において、以前の推定よりも大きい青銅器時代後の遺伝子流動と、サルデーニャ島沿岸における青銅器時代以前の先住民系統の低さが指摘されています(関連記事)。アルプスのイタリアとオーストリアの国境付近で発見されたミイラの5300年前頃の「アイスマン」のゲノムは、サルデーニャ島現代人集団とひじょうに近いと言われていますが、その一致率は100%よりはるかに低くなります。


●まとめ

 本論文は5つの結果を強調します。まず、バレアレス諸島とシチリア島の両方で、青銅器時代の人々の主要な起源としてイベリア半島を特定したことです。バレアレス諸島の早期の住民の中には、少なくとも一部がイベリア半島系統由来だった人々もいました。早期青銅器時代のシチリア島の2人では、イベリア半島に特徴的なYHg-R1b1a1a2a1a2a1(Z195)が確認されました。イベリア半島は、東方から西方への人類の移動の目的地だけではなく、西方から東方への「逆流」の起源地でもあったわけです。しかし、この期間のイベリア半島の人口史は地中海諸島とは異なっており、たとえばイベリア半島では、銅器時代に一般的だったYHgが青銅器時代にはほぼ完全に置換されましたが(関連記事)、シチリア島ではYHgのほぼ完全な置換は起きておらず、新石器時代および草原地帯関連のYHgが両方見られます。

 第二に、ミノアおよびミケーネ文化と関連して中期青銅器時代までにエーゲ海で広まったイラン系統が、遅くともミケーネ期までにシチリア島へと西進し、かなりの割合を有するようになったことです。これはミケーネ文化の拡大に伴っていたかもしれません。しかし、ミケーネ文化最盛期の前に、マルタ島・ギリシア・アナトリア半島でシチリア島のカステラッチョ文化(Castellucian culture)と関連した人工物が見つかっており、それ以前の遺伝子流動の可能性も考えられます。バレアレス諸島やサルデーニャ島では、フェニキア期の前にイラン系統の高い割合の証拠はありませんが、それは地中海東部からの孤立を意味しません。考古学的証拠では、たとえば後期青銅器時代のサルデーニャ島におけるキプロス島の銅の輸入のように、地中海東部から西部へのかなりの物資の移動がありました。

 第三に、銅器時代と青銅器時代におけるアフリカ北部からヨーロッパへの広範な人類の移動です。具体的には、上述のサルデーニャ島における紀元前2345~紀元前2146年頃の個体で、イベリア半島中央部の紀元前2473~紀元前2030年頃の個体と類似しています。また、紀元前1932~紀元前1697年頃のイベリア半島の個体にもアフリカ北部関連系統が認められます。現時点では、5000~3000年前頃の地中海ヨーロッパの191人のうち1.6%に、数世代前のアフリカ北部移民系統の証拠があります。

 第四に、フェニキアおよびギリシア植民地期と、それに続く地中海西部諸島の移民の影響です。たとえば、バレアレス諸島鉄器時代以降の個体群は、在来の先住集団からの系統を有していないかもしれません。以前の研究と併せて考えると、鉄器時代以降、地中海西部の沿岸地域は、地理的に近接して共存していた移民と在来集団の民族的分離により特徴づけられます。じっさい、イベリア半島北東部のギリシア植民地アンプリアス(Empúries)では、遺伝的に異なる個体群2系統が共存しており、ストラボンの歴史的記述と一致します。バレアレス諸島やシチリア島のような地域では、鉄器時代後の集団のほぼ完全な置換が推定されますが、ある程度の在来集団の継続性も除外できません。

 最後に、サルデーニャ島現代人集団は初期農耕民の定着後比較的孤立していた、という一般的な見解に疑問を呈していることです。本論文は、新石器時代から銅器時代を経て青銅器時代まで、サルデーニャ島集団が典型的なヨーロッパ早期農耕民系統を有し、それがヨーロッパ他地域よりも長く続いたことを明らかにしました。しかし、地中海東部および北部とアフリカからの移民は、鉄器時代以降にサルデーニャ島集団の遺伝的構成にかなりの影響を及ぼし、それは地中海西部沿岸の他地域と同様です。サルデーニャ島現代人集団の系統の少なくとも38~44%は、明らかに在来集団と混合した移民系統で、そのうちアフリカ北部系統は17~23%と推定されます。このように、サルデーニャ島は新石器時代以来混合と移民から完全に隔離されていたというよりはむしろ、ヨーロッパの他地域のほとんどと同様に、移動と混合を経て現在の住民の遺伝的構成が形成されました。


参考文献:
Fernandes DM. et al.(2020): The spread of steppe and Iranian-related ancestry in the islands of the western Mediterranean. Nature Ecology & Evolution, 4, 3, 334–345.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1102-0

西秋良宏「アフリカからアジアへ」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。現生人類(Homo sapiens)には固有の「現代的行動」があり、そのために世界中に拡散して非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)を置換した、との見解が以前は有力でした。しかし本論文は、拡散期の現生人類の行動が多様であることから、この見解に疑問を呈しています。また、現生人類は拡散していく過程で、行動や文化を発展させてきた、とも指摘されています。現生人類が世界中の多様な環境に適応できた理由として、古代型ホモ属とは異なる生得的な認知能力の高さを想定する見解が根強いことを、本論文は指摘します。ただ本論文は、古代型ホモ属と現生人類との間に学習行動の違いは見られるものの、それが生得的な能力差を反映しているのか、考古学的証拠だけでは判断が難しい、と慎重な姿勢を示します。それは、学習の在り様や各集団の文化的特徴を決める要件はあまりにも多岐にわたっているからです。

 そこで本論文は、社会の総合力が学習行動の違いに関わっていたのではないか、と推測します。総合力とは、歴史あるいは文化です。古代型ホモ属も現生人類も、文化の力に依拠して生存していたことに違いはありません。本論文は、拡散先の自然環境および先住集団との関係を検証しています。拡散先の自然環境が故地と類似し、先住集団が存在しないか希薄、あるいは外来文化をそのまま受容した場合や、先住集団が拡散集団に駆逐した場合、故地の文化がそのまま拡散先でも維持されます。拡散先が故地とは異なる自然環境だった場合、それに応じて故地とは異なる技術を発展させます。先住集団や同時に拡散してきた複数集団の技術が混合する場合も想定されます。本論文は、ヒトの拡散を議論するには、少なくとも、集団の拡散先の自然環境、先住集団との関係、その相互作用の三つを考察する必要がある、と指摘します。それにより、古代型ホモ属から現生人類への交替が急速に進んだ地域、両者の共存が長かった地域、現生人類の拡散がなかなか進まなかった地域が分かれたかもしれない、というわけです。

 アジアの自然環境は多様で、考古学的証拠も多様です。本論文が着目したのは、石器製作技術の違いです。石刃・小石刃の分布は、生物地理区分での旧北区とよく一致します。ただ、生物地理区分は近年改訂が提案されており、たとえば中国と日本は新たな地理的区分(中国・日本区)として設定されています。本論文は、新旧の地理的区分のどちらが考古学的証拠の解釈に適切なのか、判断は難しい、と慎重な姿勢を示します。ただ本論文は、中国・日本区のような中間的な地理的区分を設定すると、更新世における石器製作技術の変動と気候変動とを組み合わせて説明できるかもしれない、と指摘します。寧夏回族自治区の水洞溝1遺跡の4万年前頃の上部旧石器時代初頭の石器群は、西方由来と推測されるものの、定着したわけではなく、本格的な石刃石器群が定着するのは寒冷期となる2万数千年前の細石刃文化になり、中間的な地域では気候変動により考古学的証拠も異なってくる、というわけです。同じく中間的な日本列島でも、初期の上部旧石器は南方を主体としつつも北方要素も一部見られ、寒冷期となる2万数千年前に押圧剥離技術による細石刃石器群が定着します。

 本論文は一方で、拡散先の生物地理的環境に初期現生人類の文化・技術が大きく影響された、との想定とは異なるかもしれない事例として、オーストラリアを挙げています。オーストラリアの環境は、アジア南東部の森林地帯とは異なり、内陸に砂漠や草原地帯が広がります。しかし、オーストラリアの初期現生人類で石刃や小石刃が発達したわけではありません。本論文は、アジア南部や南東部の森林地帯で西方の技術がフィルタリングされ、それ以降に再興された要素もあれば、そうではなかった要素もあるかもしれない、と指摘します。本論文は、自然環境と技術との単純な対応が見られない場合には、文化伝達理論が有効かもしれない、と指摘します。

 本論文は現生人類と古代型ホモ属との文化的交流の可能性も取り上げています。現生人類にとってユーラシア中緯度地帯以北は新天地となり、それ以前から適応していた古代型ホモ属の防寒技術を採用した可能性がある、というわけです。たとえば、皮なめしに特化した道具とされる骨製のヘラは、ネアンデルタール人の遺跡の方でより古いものが見つかっており、ネアンデルタール人から現生人類への文化的影響の証拠になるかもしれない、と指摘されています(関連記事)。また、竪穴で暖を取るタイプの住居遺構も、ネアンデルタール人遺跡でより古い事例が喫県されています。

 石器製作技術における古代型ホモ属と現生人類との交流の可能性の事例として、本論文はアジア西部を挙げています。アジア西部は、現生人類とネアンデルタール人の共存期間が最も長い地域と考えられており、7万~5万年前頃には両者の遺骸が複数の遺跡で発見されています。本論文は、ルヴァロワ(Levallois)技術で製作された、小さい尖頭器を特徴とするタブン(Tabun)B型石器群に注目しています。タブンB型と共伴している人類遺骸はすべて、現時点ではネアンデルタール人です。ネアンデルタール人はヨーロッパ起源と考えられますが、これと類似したヨーロッパの石器技術はまだ知られていません。二次加工の尖頭器はヨーロッパからアジア中央部までのネアンデルタール人分布域で一般的でしたが、レヴァントのタブンB型石器群のように無加工のルヴァロワ尖頭器をと要する例はほとんど知られていません。本論文は、アフリカ北部の初期現生人類において、二次加工せずにルヴァロワ石器を利用する文化が一般的だったことから、ネアンデルタール人のタブンB型は現生人類との交流の結果発展したのではないか、と推測しています。

 本論文は、チンパンジーでも飼育下では現代人の指導に従って石器を製作する事例が知られており、それよりもずっと近縁な関係にあるホモ属の各種間で文化的な交流や伝達もあっただろう、と指摘します。文化の拡散・定着には若い世代への継承が必要となりますが、それを、親から子への垂直伝達、親世代の他人から伝えられる斜行伝達、子と同世代の間で伝えられる水平伝達に分類する見解があります(関連記事)。親世代から継承される場合、現生人類から古代型ホモ属への確率が0ではない限り、古代型ホモ属から現生人類への技術継承はあり得る、と予測されます。現生人類集団の侵入と交替がゆっくり起きた場合、古代型ホモ属の文化が継続するように見えます。また、現生人類と古代型ホモ属は交雑しましたから、垂直伝達のみでも古代型ホモ属の文化が現生人類集団に浸透することもあり得ます。

 本論文は、アジア各地への現生人類の拡散を考えるうえで、まず証拠のそろっているヨーロッパの事例を取り上げます。20万年以上前にギリシアまで現生人類が拡散した、との見解も提示されていますが(関連記事)、それよりもさらにヨーロッパ奥地にまで拡散したのか定かではなく、現生人類がヨーロッパに広範に拡散したのは、5万年前頃以降の上部旧石器時代初頭集団です。ただ、当初は中部旧石器時代に典型的なムステリアン(Mousterian)遺跡も多数あり、ネアンデルタール人と現生人類が共存していた、と考えられます。ネアンデルタール人は4万年前頃までに絶滅し、その背景として5万~4万年前頃の複数回のきょくたんな寒冷期が挙げられています。4万年前頃、プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)式の小石刃石器群を有する現生人類集団がヨーロッパに拡散しており、ヨーロッパへの現生人類の拡散は大きく2回あった、と考えられます。

 こうした二段階による交代劇を理論的に予想したのが第6章(関連記事)です。本論文は、ネアンデルタール人と現生人類の共存を可能にしたのは、一つには環境で、アジア西部では、砂漠を現生人類が、森林をネアンデルタール人がおもに開発していました。生態的地位が異なっていた、というわけです。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人の継続的な人口減少により、侵入してきた現生人類の利用可能な空間が拡大していた可能性も指摘されています。共存を可能にしたもう一つの要因は、第二波の現生人類集団にはネアンデルタール人集団を圧倒する高い技術があった、ということです。アジア西部では上部旧石器時代初頭の技術、ヨーロッパでは上部旧石器時代前期のプロトオーリナシアンの小石刃技術です。

 広範なアジアの他地域について同じモデルで説明できるのか、議論の対象となり得ます。本論文は、北回りでは現生人類の侵入と古代型ホモ属との交替が速やかに起きたように、南回りでは共存期間が長かったかもしれないように見える、と指摘します。中国南部では、4万年以上前に現生人類が到来した、との見解が提示されている一方で、石器技術は前代からの剥片石器群が継続しています。こうした対照性は共存に適した生態的地位の有無に依存するのかもしれない、と本論文は推測します。草原地帯よりも森林地帯の方が集団は分断されるので、共存の可能性は高く、島嶼部ではなおさらである、というわけです。

 現生人類と古代型ホモ属との「交替劇」に関しては、第6章も指摘するように人口も要因になると考えられます。本論文はこれに関して、かりに現生人類と古代型ホモ属との認知能力が同じだとしても、アフリカからは常に高い技術を有したヒト集団が出現したはずだ、との見解を取り上げています。ヒトの文化や行動は時間の経過により新たなものが創造されたり、改良されたりしますが、集団内で継承されるため蓄積して複雑さを増していきます。ヒトは他人から学ぶ社会学習を発達させているので、それが「文化的歯止め」となり、集団内に文化要素が留まります。この場合、歴史のある大集団は、社会学習により蓄積された他の集団よりも多くの文化を保有しています。人口が圧倒的に多く長期にわたる文化蓄積を経験したアフリカの現生人類集団と、出アフリカ後のユーラシアで新たな文化蓄積を果たさねばならない古代型ホモ属の小集団では、技術のレパートリーの原資や蓄積に差があって当然と予測できる、というわけです。本論文は、古代型ホモ属から現生人類への交代劇を文化の視点から理解するには、文化進化の理論研究をさらに深めていく必要がある、と指摘しています。


 なお、西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』の本論文を除く各論文の記事は以下の通りです。

門脇誠二「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_38.html

西秋良宏「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_39.html

Robin Dennell「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_40.html

海部陽介「日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_46.html

高畑尚之「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_48.html

青木健一「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_51.html


参考文献:
西秋良宏(2020B)「アフリカからアジアへ」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第7章P221-244

大河ドラマ『麒麟がくる』第7回「帰蝶の願い」

 尾張にもまだ敵を抱える織田信秀は、大垣城を斎藤利政(道三)に奪われます。体調に不安を覚える信秀は、尾張国内・今川・斎藤という三方の敵を同時に相手にするのは困難と判断し、斎藤と和議を結ぼうとします。都から駒とともに美濃に帰還した明智光秀(十兵衛)は家に戻りますが、そこへ帰蝶が訪ねてきます。信秀は和議の条件として、嫡男の信長に利政の娘を嫁がせるよう、提示します。父の利政に信長に嫁ぐよう言われた帰蝶は反発し、光秀は叔父の光安経由で、帰蝶の気持ちを確かめるよう、命じられます。帰蝶は光秀に、かつて父の命で嫁いだ土岐頼純を父に毒殺されたことから、信長に嫁ぐのは嫌だと皆に伝えてほしい、と光秀に頼みます。

 帰蝶を説得できないと答えた光秀に利政はいったん激怒しますが、光秀を呼び戻し、国を豊かにするための和議だ、と真意を明かします。利政は改めて、帰蝶を説得するよう、光秀に命じます。その帰り、光秀は斎藤高政(義龍)に呼ばれ、稲葉良通たち国人衆とともに、織田との和議に反対するよう説得されますが、まだ迷っています。帰蝶は光秀に、うつけと言われているものの、美濃ではまだ誰も見たことのない信長をじっさいに見て、どのような人物か教えてほしい、と頼みます。信頼する光秀の信長への評価を聞いてから嫁ぐかどうか判断する、というわけです。光秀は帰蝶の想いを受け止めて尾張に潜入します。

 今回は、帰蝶と光秀が幼少時より親しくしており、帰蝶が光秀を信頼し、想いを寄せている、という設定で話が進みました。これは以前から描かれていたので、説得力はあったと思います。帰蝶は初々しさと気丈さを見せており、今のところは川口春奈氏の起用は正解だったように思います。まあ、撮り直しとなり、川口氏に寄せた演出に変えているところもあるのかもしれませんが。当時の尾張情勢と、美濃における利政と息子の高政や国人衆との対立も簡潔に描かれ、歴史ドラマとしてなかなかよいと思います。利政の真意に光秀が動かされた描写は、今後光秀に大きな影響を与えそうで、注目されます。信長は最後に顔見世程度の出番でしたが、おそらくは大河ドラマ愛好者の多くが想定・期待する信長像とは大きく異なりそうですから、これが本作の評価と視聴率に重大な影響を及ぼすでしょう。不安もありますが、楽しみでもあります。

中期新石器時代から現代のサルデーニャ島の人口史

 中期新石器時代から現代のサルデーニャ島の人口史に関する研究(Marcus et al., 2020)が報道されました。サルデーニャ島は、100歳以上の割合が高く、βサラセミアやグルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠損症のような自己免疫疾患や病気の割合が平均よりも高いため、病気や加齢に関連する可能性のある遺伝的多様体を発見するために注目されてきました。サルデーニャ島の現代人全体の遺伝的多様体の頻度は、しばしばヨーロッパ本土とは異なり、ヨーロッパ本土では現在ひじょうに稀な遺伝的多様体も見られ、その独特な遺伝的構成が研究されてきました。

 アルプスのイタリアとオーストリアの国境付近で発見されたミイラの5300年前頃の「アイスマン」のゲノムは、サルデーニャ島の現代人とよく似ていました。また、スウェーデン・ハンガリー・スペインなど、離れた地域の初期農耕民も、遺伝的にはサルデーニャ島の現代人とよく似ていました。この類似性の理解には、ヨーロッパにおける人口史の解明が必要です。ヨーロッパにおける現代人に直接的につながる人類集団は、まず旧石器時代と中石器時代の狩猟採集民です。次に、新石器時代農耕民集団が紀元前7000年頃以降に中東からアナトリア半島とバルカン半島を経てヨーロッパに到来し、在来の狩猟採集民集団と交雑しました。紀元前3000年頃以降にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を中心とするユーラシア草原地帯の集団がヨーロッパに拡散し、さらに混合しました。これらヨーロッパの現代人を構成した遺伝的系統は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)・初期ヨーロッパ農耕民(EEF)・早期草原地帯集団としてモデル化できます。サルデーニャ島の人類集団は早い段階で高水準のEEF系統の影響を受け、その後は比較的孤立しており、ヨーロッパ本土とは異なり草原地帯系統の影響をほとんど受けなかった、と推測されています。しかし、このサルデーニャ島の人口史モデルは、古代ゲノムデータではまだ本格的に検証されていませんでした。

 サルデーニャ島の最古の人類遺骸は2万年前頃までさかのぼります。考古学的記録からは、サルデーニャ島の人口密度は中石器時代には低く、紀元前六千年紀の新石器時代の開始以降に人口が増加し、紀元前5500年頃、新石器時代の土器はサルデーニャ島を含む地中海西部に急速に拡大した、と推測されています。後期新石器時代には、サルデーニャ島の黒曜石が地中海西部で広範に見られ、サルデーニャ島が海洋交易ネットワークに統合されたことを示唆します。青銅器時代の紀元前1600年頃に、独特な石造物で知られるヌラーゲ文化が出現します。ヌラーゲ文化後期の考古学および歴史学的記録は、ミケーネやレヴァントやキプロスの商人など、いくつかの地中海集団の直接的影響を示します。紀元前9世紀後半から紀元前8世紀前半にかけて、現在のレバノンとパレスチナ北部を起源とするフェニキア人がサルデーニャ島南岸に集落を集中して設立したため、ヌラーゲ文化の集落はサルデーニャ島の大半で減少しました。サルデーニャ島は紀元前6世紀後半にカルタゴに支配され、紀元前237年にはローマ軍に占領されて、その10年後にローマの属州となりました。サルデーニャ島はローマ帝国期を通じて、イタリアおよびアフリカ北部中央と密接につながっていました。ローマ帝国崩壊後、サルデーニャ島は次第に自立していきましたが、ビザンツ帝国をはじめとする地中海の主要勢力との関係は続きました。

 サルデーニャ島の住民は集団遺伝学において長く研究されてきましたが、その理由の一部は、上述のように医学にとって重要なためです。サルデーニャ島の現代人集団は遺伝的に複数の亜集団に分類されており、中央部と東部の山岳地帯は比較的孤立しており、WHGおよびEEF系統がわずかに多い、と明らかになっています。サルデーニャ島集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究では、コルシカ島と文化・言語的つながりのある北部において、中央部と東部の山岳地帯より遺伝的構成の変化が大きく、21人の古代mtDNA研究では、サルデーニャ島特有のmtDNAハプログループ(mtHg)のほとんどは新石器時代かその後に起源があり、それ以前のものはわずかだった、と推測されています。サルデーニャ島のフェニキア人居住地のmtDNA分析では、フェニキア人集団とサルデーニャ島集団との継続性と遺伝子流動が推測されています。カルタゴおよびローマ期の大規模共同墓地では、3人でβサラセミア多様体が見つかっています。

 本論文は、放射性炭素年代で紀元前4100~紀元後1500年頃となる、サルデーニャ島の20ヶ所以上の遺跡で発見された70人のゲノム規模データを生成します。本論文は、サルデーニャ島の人口史の3側面を調査します。まず、紀元前5700~紀元前3400年頃の新石器時代の個体群です。当時、サルデーニャ島に拡大した初期の人々はどのような遺伝的構成だったのか、という観点です。次に、紀元前3400~紀元前2300年頃の銅器時代から紀元前2300~紀元前1000年頃の青銅器時代です。考古学的記録に観察される異なる文化的移行を通じて、遺伝的転換はあったのか、という観点です。最後に、青銅器時代以後で、地中海の主要な文化とより最近のイタリア半島集団は、検出可能な遺伝子流動をもたらしたのか、という観点です。本論文は、サルデーニャ島の初期標本はヨーロッパ本土の初期農耕民集団と遺伝的類似性を示し、ヌラーゲ文化期を通じて混合の顕著な証拠はなく比較的孤立しており、その後は、地中海北部および東部からの交雑の証拠が観察される、との見通しを提示します。

 サルデーニャ島の70人の古代DNAに関しては、完全なmtDNA配列と、120万ヶ所の一塩基多型から構成されるゲノム規模データが得られました。核DNAの平均網羅率は1.02倍です。70人の内訳は、中期~後期新石器時代が6人、早期銅器時代が3人、中期青銅器時代早期が27人、ヌラーゲ文化期が16人で、それ以後では同時代でも遺伝的相違が大きいため、遺跡単位で分類されています。フェニキアおよびカルタゴの遺跡では8人、カルタゴ期では3人、ローマ期では3人、中世は4人です。これらの新石器時代~中世にかけてのサルデーニャ島の人類遺骸からのDNAデータが、ユーラシア西部およびアフリカ北部の既知のデータと比較されました。

 中期~後期新石器時代のサルデーニャ島の個体群は遺伝的に、新石器時代ヨーロッパ西部本土集団、とくにフランスの個体とよく類似していますが、イタリア半島など同時代の他地域の標本数が不足している、と本論文は注意を喚起しています。中期~後期新石器時代ののサルデーニャ島個体群は、早期新石器時代のアナトリア半島集団と比較して、WHG系統の存在が特徴となっています。サルデーニャ島の中期新石器時代~ヌラーゲ文化期までの52人に関しては、mtDNAハプロタイプが全員、Y染色体ハプロタイプが男性34人中30人で決定されました。mtHgは、HVが20人、JTが19人、Uが12人、Xが1人です。同定されたY染色体ハプログループ(YHg)では、11人がR1b1b(R1b-V8)、8人がI2a1b1(I2-M223)で、新石器時代のイベリア半島で一般的なこの2系統で過半数を占めます。YHgでR1b1bもしくはI2a1b1を有する既知の最古の個体はバルカン半島の狩猟採集民および新石器時代個体群で、両者ともに後に西方の新石器時代集団で見られます。

 サルデーニャ島では、中期新石器時代からヌラーゲ文化期まで、遺伝的連続性が確認されます。対照的に、ヨーロッパ中央部のような本土では、新石器時代から青銅器時代にかけて、大きな遺伝的構成の変化が見られます。qpAdm分析では、サルデーニャ島の中期および後期新石器時代の個体群が、ヌラーゲ期の個体群の直接的祖先である可能性を却下できません。qpAdm分析ではさらに、新石器時代アナトリア系統との混合モデルにおいて、WHG系統はヌラーゲ期を通じて安定して17±2%のままと示されます。中期新石器時代からヌラーゲ文化期までのサルデーニャ島の個体群では、たとえば後期青銅器時代のイベリア半島集団のような、顕著な草原地帯系統は検出されません。また、イラン新石器時代およびモロッコ新石器時代系統のどちらも、中期新石器時代からヌラーゲ文化期までのサルデーニャ島の個体群には遺伝的影響を及ぼしていない、と推測されます。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島個体群には、遺伝子流動の複数の証拠が見つかっています。サルデーニャ島の現代人集団は、ヌラーゲ文化期と比較して、遺伝的にはユーラシア西部・アフリカ北部集団により近縁です。これは、草原地帯系統の割合が現在のヨーロッパ本土集団より低いとはいえやや見られるようになり、地中海東部系統がかなり増加したためです。ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島集団には、複雑な遺伝子流動があった、と推測されます。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島集団における遺伝子流動を直接的に評価するため、17人の古代DNAが直接解析されました。新たな系統の流入という推定と一致して、ヌラーゲ文化期後にはmtHgの多様性が増加しました。たとえば、現在アフリカ全体では一般的であるものの、サルデーニャ島ではこれまで検出されていなかったmtHg- L2aです。YHgでも、サルデーニャ島では新石器時代からヌラーゲ文化期まで見られず、現代人では15%ほど存在するR1b1a1b(R1b-M269)がカルタゴ期と中世で確認されます。また、カルタゴ期遺跡ではYHg-J1a2a1a2d2b(J1-L862)、中世個体ではYHg-E1b1b1a1b1(E1b-L618)が見られます。YHg-J1a2a1a2d2bはレヴァントの青銅器時代個体群で最初に出現し、サルデーニャ島の現代人では5%ほど見られます。

 これらを踏まえてモデル化すると、サルデーニャ島では新石器時代からヌラーゲ文化期までほぼ新石器時代アナトリア系統とWHG系統で占められていたのが、ヌラーゲ文化期後には草原地帯系統と新石器時代イラン系統と新石器時代アフリカ北部(モロッコ)系統が加わります。草原地帯系統と新石器時代イラン系統はともに0~25%の範囲でモデル化されます。また、フェニキア期~カルタゴ期の遺跡の6人では、20~35%と高水準のアフリカ北部系統が推定されました。サルデーニャ島の現代人でも、わずかながら検出可能なアフリカ北部系統が見られます。しかし、このフェニキア期~カルタゴ期の遺跡から現代までの直接的連続性のモデルは却下されます。対照的に、ヌラーゲ文化期後の他の遺跡の個体は全員、サルデーニャ島現代人の単一の起源としてモデル化可能です。

 古代のサルデーニャ島個体群に最も近い現代人は、東部のオリアストラ県(Ogliastra)とヌーオロ県(Nuoro)の個体群です。興味深いことに、カルタゴ期のオリアストラ県の個体は、他の個体群と比較してオリアストラ県の個体群と遺伝的により近縁です。また、サルデーニャ島北東部の個体群はヨーロッパ本土南部集団により近く、サルデーニャ島南西部の個体群は地中海東部により近くなっています。これは、サルデーニャ島における地中海北部系統と地中海東部系統の地域間の混合の違いを反映している、と示唆します。

 このように、中期~後期新石器時代のサルデーニャ島個体群は、地中海西部の他のEEF集団と同様に、本土EEFとWHGの混合としてモデル化されます。この期間のサルデーニャ島の男性のYHgは大半がR1b1b(R1b-V88)とI2a1b1(I2-M223)で、両方ともバルカン半島の中石器時代狩猟採集民および新石器時代集団で最初に出現し、後にイベリア半島のEEF集団でも多数派ですが、新石器時代アナトリア半島もしくはWHG個体群では検出されていません。これらは、紀元前5500年頃にヨーロッパ地中海沿岸を西進した新石器時代集団からのかなりの遺伝子流動の結果と考えられます。ただ本論文は、中期新石器時代よりも前のサルデーニャ島やイタリア半島の常染色体の古代DNAが不足しているので、この遺伝子流動の時期と影響について、北方もしくは西方からのどちらが重要なのか確定的ではない、と注意を喚起しています。中期新石器時代のサルデーニャ島個体群のWHGの推定割合はそれ以前のヨーロッパ本土のEEF集団より高く、ヨーロッパ本土では混合の進展に伴いしだいにWHG系統の割合が増加することから、サルデーニャ島への遺伝子流動には時間差があったことを示唆しますが、最初の地域的な交雑の結果か、あるいは本土との継続的な遺伝子流動の結果だったかもしれません。この問題の解決には、サルデーニャ島の中石器時代および早期新石器時代個体群のゲノム規模データが必要となります。

 中石器時代から紀元前千年紀初めまで、サルデーニャ島への異なる系統の遺伝子流動の証拠は見られません。この遺伝的構造の安定性は、紀元前3000年頃以降、ユーラシア中央部草原地帯からかなりの遺伝子流動があったヨーロッパの他地域と、しだいにWHG系統が増加していったヨーロッパ本土の多くの早期新石器時代および銅器時代とは対照的です。上述のように、中期新石器時代からヌラーゲ文化期まで、サルデーニャ島個体群ではWHGの割合が約17%で安定しています。イベリア半島の鐘状ビーカー(Bell Beaker)集団のように、遺伝的に類似した集団からの遺伝子流動の可能性は否定できませんが、草原地帯系統の欠如は、サルデーニャ島がヨーロッパ本土の多くの青銅器時代集団から遺伝的に孤立していたことを示唆します。また、現在ヨーロッパ西部において最も高頻度で、紀元前2500~紀元前2000年頃のブリテン島とイベリア半島への草原地帯系統の拡大と関連しているYHg- R1b1a1bが、ヌラーゲ期の紀元前1200~紀元前1000年頃まで見られないことも、中石器時代から紀元前千年紀初めまでのサルデーニャ島の遺伝的孤立の証拠となります。サルデーニャ島からの標本数が増加すれば、微妙な交雑を検出できるかもしれませんが、サルデーニャ島が青銅器時代ヨーロッパの大規模な遺伝子流動から孤立していた可能性は高そうです。考古学的記録からは、サルデーニャ島はこの期間に地中海の広範な交易網の一部に組み込まれていましたが、それが遺伝子流動と結びついていないか、類似した遺伝的構造の集団間のみで交易が行なわれていた、と考えられます。とくに、ヌラーゲ文化期は遺伝的構成の変化が検出されず、その石造建築の設計はミケーネなど東方集団からの流入によりもたらされた、という仮説に反します。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島では、地中海北部および東部からの遺伝子流動の証拠が見られます。フェニキアおよびカルタゴ期の遺跡で、最初に地中海東部系の出現が観察されます。地中海北部系統はそれよりも後に出現し、サルデーニャ島北西部の遺跡で確認されます。ヌラーゲ文化期後の個体の多くは、直接的な移民もしくはその子孫としてモデル化できますが、他の個体は在来のヌラーゲ文化期の系統をより高い割合で有します。全体的に、ヌラーゲ文化期後の系統の多様性は増加し、これは、イベリア半島(関連記事)やローマ(関連記事)やペリシテ人(関連記事)など、鉄器時代以後の地中海も対象にした詳細な古代DNA研究と整合的です。

 サルデーニャ島の現代人は、古代標本で観察された遺伝的変異内に収まり、同様のパターンは、鉄器時代に系統多様性が著しく増加し、その後は現在まで減少していくイベリア半島とイタリア半島中央部でも見られます。サルデーニャ島においては、東部のオリアストラ県とヌーオロ県の現代人ではヌラーゲ文化期後の新たな系統の割合が低く、他地域よりもEEFやWHG系統の割合が高くなっています。サルデーニャ島内を対象とした主成分分析は、オリアストラ県の個体群が比較的孤立していた可能性を示唆します。サルデーニャ島北部は、ヌラーゲ文化期後に地中海北部系統の影響をより強く受けた、と推測されます。これらの結果は、紀元前にフェニキア人およびカルタゴ人がおもにサルデーニャ島の南部および西部沿岸に居住し、コルシカ島からの移民はサルデーニャ島北部に居住した、とする歴史的記録と一致します。

 本論文は紀元前二千年紀後のサルデーニャ島における遺伝子流動を推測し、これはサルデーニャ島の遺伝的孤立を強調した以前の研究と矛盾しているように見えますが、他のヨーロッパ集団との比較では、サルデーニャ島が青銅器時代~ヌラーゲ文化期に孤立していたことは確認されます。また、ヌラーゲ文化期後の混合にしても、おもに草原地帯系統が比較的少ない集団に由来する、と推測されます。その結果、サルデーニャ島の現代人集団はヨーロッパの他地域と比較してひじょうに高い割合のEEF系統を有しており、アイスマンのような銅器時代ヨーロッパ本土の個体と高い遺伝的類似性を示します。高い割合のEEF系統を有する集団としてバスク人が知られており(関連記事)、サルデーニャ島集団との遺伝的関係が示唆されていました。本論文でも、現代バスク人と古代および現代のサルデーニャ島集団との類似性が示されました。サルデーニャ島集団もバスク人も異なる起源の移民の影響を受けているものの、共有されたEEF系統が地理的分離にも関わらず遺伝的類似性を示すのだろう、と本論文は推測しています。

 サルデーニャ島のフェニキアおよびカルタゴ期の遺跡の個体群では、アフリカ北部および地中海東部系統との強い遺伝的関係が示されました。これは、以前の古代DNA研究でも示されている(関連記事)、フェニキア人の地中海における拡散を反映していると考えられます。また、サルデーニャ島のフェニキアおよびカルタゴ期の遺跡でも、早期の方がアフリカ北部系統の割合は低く、アフリカ北部系統との交雑が後のカルタゴの拡大に特有だったか、異なる系統の到来だった可能性を示します。アフリカ北部系統の割合は、フェニキアおよびカルタゴ期よりも後では低下しており、サルデーニャ島も含むヨーロッパ南部のいくつかの集団における、低いものの明確に検出されるアフリカ北部系統の割合という観察と一致します。ローマでも、アフリカ北部系統の割合が帝政期以後に低下します(関連記事)。

 本論文は、古代DNA研究における古代と現代との遺伝的連続性および変容について、古代DNAの標本数の少なさと、現代(医学的な目的での遺伝情報収集)と古代では標本が異なるバイアスで収集されていることから、一般化に注意を喚起します。本論文はそれを踏まえたうえで、サルデーニャ島においては、中期新石器時代から後期青銅器時代まで、遺伝子流動が最低限か、遺伝的に類似した集団の継続の可能性が高いことを指摘します。ヌラーゲ文化期の始まりも、明確な遺伝子移入により特徴づけられません。鉄器時代以降のサルデーニャ島は、地中海の広範な地域と結びついていました。地中海西部を対象とした他の研究でも同様の結果が得られており、サルデーニャ島は新石器時代以降遺伝的に孤立してきた、という単純なモデルよりも実態は複雑だったことを示します。サルデーニャ島の現代人には地域的な違いも見られ、歴史的な孤立・移住・遺伝的浮動により、独特なアレル(対立遺伝子)頻度が生じた、と考えられます。この遺伝的歴史の解明は、βサラセミアやグルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠損症のような、サルデーニャ島も含めて地中海全域の遺伝性疾患を理解するのに役立つでしょう。


参考文献:
Marcus JH. et al.(2020): Genetic history from the Middle Neolithic to present on the Mediterranean island of Sardinia. Nature Communications, 11, 939.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-14523-6

新生児の代謝に影響を与える母親の腸内微生物

 母親の腸内微生物が新生児の代謝に影響を与えることを報告した研究(Kimura et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。バランスの取れた微生物叢は良好な健康状態と関連しており、微生物叢の異常や変化は、肥満・心疾患・糖尿病など複数の疾患および障害と関連しています。母親の微生物叢が乳児の健康に与える影響は充分立証されていますが、胎児の段階で母親の腸内微生物が子の微生物叢にどのように影響するのか、あまり明らかになっていません。

 この研究は、とくに細胞および腸内微生物と器官のシグナル伝達を刺激する微生物叢由来代謝物である短鎖脂肪酸(SCFA)に重点を置き、マウスモデルでこの問題を検証しました。その結果、妊娠している母親の腸内微生物によって作られた短鎖脂肪酸が、GPR41およびGPR43(脂肪細胞上のタンパク質受容体)の細胞シグナル伝達を介して子の神経細胞・腸細胞・膵臓細胞の分化を刺激する、と明らかになりました。この発達過程は子がバランスの取れたエネルギーレベルを維持するうえで有用であり、微生物を完全に欠損した母親の子は肥満や耐糖能障害などのメタボリックシンドロームに非常にかかりやすい、と明らかになりました。

 これらの知見からは、たとえば食事の変更を推奨するなど、母親の微生物叢を標的とすることで、子を将来の代謝疾患から守る予防戦略を提供できる可能性が示唆されます。またこの研究は、1つの特定のSCFA(プロピオン酸)が、子の代謝疾患発症予防において重要な役割を果たした、と明らかにしました。したがって、プロピオンの補給が、可能性のある治療経路となるかもしれませんが、妊娠中のこの方法の安全性と有効性はまだ決定されていない、とも指摘されています。


参考文献:
Kimura I. et al.(2020): Maternal gut microbiota in pregnancy influences offspring metabolic phenotype in mice. Science, 367, 6481, eaaw8429.
https://doi.org/10.1126/science.aaw8429

両生類に広く見られる生体蛍光

 両生類の生体蛍光に関する研究(Lamb, and Davis., 2020)が公表されました。これまでに生体蛍光(生物が光エネルギーを吸収して蛍光を発すること)が観察された両生類は、サンショウウオ1種とカエル3種だけでした。この研究は、32種の両生類のそれぞれ1~5個体に青色光と紫外光を当てて、これらの個体が発する光の波長を分光測定しました。その結果、研究対象の全ての両生類種が蛍光を発した、と明らかになりました。ただ、蛍光のパターンは種によって大きく異なっており、斑点・縞模様・骨の形などがあり、全身蛍光もありました。

 両生類は、緑色光や青色光に感受性のある桿体細胞が眼に含まれているため、生体蛍光により低光量下で互いの位置を特定している、と本論文は推測しています。生体蛍光により、両生類とその環境との間のコントラストが高くなり、他の両生類により容易に検出できるようになる、というわけです。両生類の生体蛍光は、他の生体蛍光性の生物種で観察されているように、隠蔽擬態(カムフラージュ)・捕食者擬態・配偶者選択に役立っている可能性があります。

 この研究は、生体蛍光の基盤となる機構として、皮膚・分泌物・骨の中に蛍光タンパク質と蛍光化合物が存在していることを挙げ、あるいは一部の両生類の色素胞(色素を有し、光を反射する細胞)の化学組成と構造的組成が関係している可能性を指摘しています。これらの知見は、現生両生類の祖先が生体蛍光能力を有しており、その結果、現生両生類の間に生体蛍光現象が広まったことを示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物学:生体蛍光は両生類に広く見られるものかもしれない

 生体蛍光(生物が光エネルギーを吸収して蛍光を発すること)が、両生類(サンショウウオ、カエルなど)に広く見られるという見解を示す論文が、Scientific Reports に掲載される。これまでに生体蛍光が観察された両生類は、サンショウウオ(1種)とカエル(3種)だけだった。

 今回、Jennifer LambとMatthew Davisは、32種の両生類のそれぞれ1~5個体に青色光と紫外光を当てて、これらの個体が発する光の波長を分光測定した。その結果、研究対象の全ての両生類種がすべて蛍光を発したことが分かった。ただし、蛍光のパターンは、種によって大きく異なっており、斑点、縞模様、骨の形があり、全身蛍光もあった。

 両生類は、緑色光や青色光に感受性のある桿体細胞が眼に含まれているため、生体蛍光によって低光量下で互いの位置を特定しているとLambとDavisは考えている。生体蛍光によって、両生類とその環境との間のコントラストが高くなり、他の両生類によって容易に検出できるようになるのだ。両生類の生体蛍光は、他の生体蛍光性の生物種で観察されているように、隠蔽擬態(カムフラージュ)、捕食者擬態、配偶者選択に役立っている可能性がある。

 LambとDavisは、生体蛍光の基盤となる機構として、皮膚、分泌物、骨の中に蛍光タンパク質と蛍光化合物が存在していることを挙げ、あるいは一部の両生類の色素胞(色素を有し、光を反射する細胞)の化学組成と構造的組成が関係している可能性を指摘している。

 以上の知見は、現生両生類の祖先が蛍光を発する能力を有しており、その結果、現生両生類の間に生体蛍光現象が広まったことを示唆している。



参考文献:
Lamb JY, and Davis MP.(2020): Salamanders and other amphibians are aglow with biofluorescence. Scientific Reports, 10, 2821.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-59528-9

山本博文『歴史をつかむ技法』第4刷

 新潮新書の一冊として、新潮社から2013年11月に刊行されました。第1刷の刊行は2013年10月です。本書は、歴史をどう理解するのか、専門家がその「技法」を一般向けに解説しています。専門家にとっては当然の常識でも、一般層はほとんど知らないというか理解していないことは、歴史学に限らずほとんどの分野で見られます。本書は、専門家がその大きな溝を埋めようとした試みと言えるでしょう。それが成功しているのかとなると、私の見識では判断が難しいのですが、本書からもう一歩先に進むための読書案内がない点は失敗のように思います。

 私も含めて一般層が何気なく使う歴史用語の由来や、そこにどのような問題が潜んでいるのか、といった問題も本書は取り上げていますが、これは一般層が気づきにくいだけに、有益な解説になっていると思います。また、歴史学を裁判に例えているのは、分かりやすくてよいのではないか、と思います。じっさい、歴史学と裁判との間には強い類似性があるのではないか、と非専門家の私も思います。歴史の法則をめぐる本書の解説も、一般層には分かりやすいのではないか、と思います。本書は、偶然に見える個々の歴史的事件にも、それぞれの時代に一貫した動因や要因がある、と指摘します。

 本書はそうした歴史学の基礎的な概念に関する抽象的な解説だけではなく、邪馬台国の頃から日露戦争の頃までの日本史の大きな流れも概説として提示しています。著者の専門は近世史なので、やや分量の多い古代史や中世史に関しては、専門家からは異論があるのではないか、と思います。ただ、高校までの日本史教育の後、とくに日本史を学ばず、関連する本もあまり読んでこなかったものの、日本史には興味があり再度学んでみたい、というような層にはこれでよいのではないか、と思います。たとえば、足利義昭が武田信玄や上杉謙信などを糾合して「信長包囲網」を作った、と本書は述べますが、武田信玄存命の頃は、織田信長と上杉謙信は友好関係にあったと思います。

不妊の原因となる遺伝子

 不妊の原因となる遺伝子に関する研究(Ishiguro et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。全身の組織・器官では、通常は体細胞分裂と呼ばれる細胞分裂により延々と細胞の増殖が行なわれます。一方、卵巣や精巣では減数分裂と呼ばれる特殊な細胞分裂により卵子や精子が作り出されます。いずれも細胞分裂でありながら、体細胞分裂は、同じ染色体(遺伝情報)のコピーを倍加させてから均等に分裂することにより、元と同じ二つの細胞を作り出すのに対して、減数分裂は染色体の数が元の半分になることにより、母方・父型の遺伝情報だけを持つ卵子や精子を作り出します。卵巣や精巣では、はじめは通常通りの体細胞分裂により細胞増殖が行なわれ、ある一時期を境に減数分裂が行なわれます。しかし、体細胞分裂から減数分裂に切り替わるメカニズムの解明は長年の懸案とされ、その詳細は不明でした。また、減数分裂の制御は不妊症など生殖医療とも直結する重要な問題でありながら、世界的にも攻め倦んでいる課題でした。

 この研究は、生殖細胞が卵子や精子を作り出す過程で減数分裂がどのように起きているのか調べるために、精巣内に含まれるタンパク質を解析し、質量分析法を駆使した解析により、減数分裂のスイッチとして働く遺伝子を特定してマイオシン(Meiosin)と命名しました。このマイオシン遺伝子は、精巣や卵巣内で減数分裂が始まる直前の特定の時期にだけ活性化するという極めて珍しい性質を持っている、と明らかになりました。この研究は、ゲノム編集によりマウスの遺伝子を人為的に操作してマイオシン遺伝子の働きを阻害すると、オスもメスも不妊となることを明らかにしました。この研究はさらに、遺伝子破壊マウスの精巣・卵巣の詳細な解析により、マイオシン遺伝子が減数分裂の発動に必須の働きをしている、と解明しました。マイオシン遺伝子は精子・卵子を形成するための数百種類の遺伝子に一斉にスイッチを入れる司令塔の役割を果たしていました。ただ、マイオシン遺伝子が減数分裂開始の役割を担っている、と明らかになったものの、その詳細はまだ充分には解明されていない、とも指摘されています。

 これらの成果はマウスを用いて検証されましたが、マイオシン遺伝子はヒトにもある、と明らかになりました。ヒトに見られる不妊症は原因不明とされる症例が多い、と知られています。この研究の知見は、とくに卵子や精子の形成不全を示す不妊症の病態の解明に資するのではないか、と期待されます。また、ヒトでは加齢卵子における減数分裂の異常が流産やダウン症などの染色体異常を引き起こすエラーの原因になる、と知られています。近年の晩婚化傾向や高齢出産などの社会的背景からも、将来的には減数分裂のクオリティを担保する技術開発の応用へと発展することが期待されます。不妊の原因に関わる遺伝子と考えられるマイオシン遺伝子は、今後の生殖医療に一石を投じることになりそうです。また、進化的関連からも注目されます。


参考文献:
Ishiguro K. et al.(2020): MEIOSIN Directs the Switch from Mitosis to Meiosis in Mammalian Germ Cells. Developmental Cell, 52, 4, 429–445.E10.
https://doi.org/10.1016/j.devcel.2020.01.010

トバ山大噴火の前後も継続したインドにおける人類の痕跡(追記有)

 トバ山大噴火前後のインドにおける人類集団の痕跡に関する研究(Clarkson et al., 2020)が報道されました。インドを中心とするアジア南部は、現生人類(Homo sapiens)到来の年代およびその文化的特徴、それに伴う非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)の置換などの点で注目されています。また、74000年前頃(アルゴン-アルゴン法で75000±900~73880±320年前)となるスマトラ島のトバ山大噴火の影響に関しても、インドは議論の対象となっています。トバ大噴火は、火山灰のような微小物質の大量噴出と効果による冷却効果などにより生態系に大きな影響を与え、現生人類(Homo sapiens)も含めて人類は激減した、とのトバ大惨事仮説(トバ・カタストロフ理論)が提示されています。

 この時期のインドの人類遺骸はまだ確認されていませんが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析からは、インドが現生人類によるオーストラレシアへの拡散における重要な地理的拠点になった、と示されています。この議論で焦点になっているのは、トバ大噴火の前に現生人類がインドに到達していたかどうかです。現生人類は、ルヴァロワ(Levallois)技術と尖頭器から構成される細石器を伴わないアフリカの中期石器時代技術でトバ大噴火の前にインドに到達したのか、ハウイソンズ・プールト(Howiesons Poort)遺跡のような細石器技術を有して、トバ大噴火後の6万~5万年前頃にインドに到達したのか、という問題です。しかしインドでは、明確に8万~5万年前頃に位置づけられている遺跡がほとんどないため、この問題の検証は困難でした。アフリカとアジア南部の更新世の人類遺骸は少ないため、アジア南部の記録に関する議論は、石器や少数の線刻のあるダチョウの卵殻などといった考古学的記録、現代人集団のDNAに焦点が当てられてきました。

 本論文は、インド北部のマディヤ・プラデーシュ州(Madhya Pradesh)のミドルソン川渓谷に位置するダバ(Dhaba)遺跡の豊富な石器群を報告しています。ダバ遺跡では8万~4万年前頃という重要な期間の詳細な考古学的系列が明らかになっており、インドの遺跡群における年代的位置づけは、インドの14万~104000年前頃の中部旧石器時代/後期アシューリアン(Late Acheulean)遺跡と、39000年前頃となる石刃主体の上部旧石器時代との間となります。本論文は、ダバ遺跡の文化系列で収集されたカリウムの豊富な長石(カリ長石)に基づく赤外光ルミネッセンス法(IRSL)年代測定結果を報告しています。ダバ遺跡は3ヶ所(ダバ1~3)の発掘地点で構成されています。

 IRSL年代は、ダバ1の下部では79600±3200~78000±2900年前で、上部では70600±3900~65200±3100年前です。ダバ2は55000±2700~37100±2100年前で、ダバ3は55100±2400~26900±3800年前です。ダバ遺跡はトバ大噴火の直前から最終氷期極大期近くまで続いたことになります。ダバ遺跡の人工物は、8万~25000年前頃までの約55000年間に及びます。この期間は、技術的には3段階に区分されます。ダバ1の石器群は8万~65000年前頃で、ルヴァロワ式の石核・剥片・尖頭器・石刃などを含み、ほぼ全て燵岩(チャート)・泥岩・珪化石灰岩で作られています。ダバ2および3では、人工物の堆積が最も豊富な55000~47000年前頃にもルヴァロワ技術が継続しますが、47500±2000年前よりも上の層ではルヴァロワ技術は確認されていません。細石器技術はダバ2および3で48000年前頃に出現し、その主要な石材は石英で、瑪瑙がそれに続きます。37000年前頃までにダバ2および3では人工物は劇的に低下し、この後、細石刃はほとんど見つかりません。瑪瑙と玉髄はこの最終期の主要な石材です。ダバ遺跡の文化層はトバ大噴火の前後で継続しており、細石器技術の導入まで大きな変化はなく、アフリカ・アラビア半島・オーストラリアの中期石器時代もしくは中部旧石器時代の石器群とひじょうに類似しており、本論文ではアフリカの東方に拡散した現生人類の所産と解釈されています。

 ダバ遺跡の技術的変化はルヴァロワ技術から細石器技術まで段階的で、石材選択や再加工戦略や石核縮小技術など広範で体系的に顕著な変化を含みます。ダバ遺跡ではルヴァロワ技術と細石器技術の重複も一部あり、48600±2700年前となるダバ3のJ層と47500±2000年前となるダバ3のE層です。ビームベートカー(Bhimbetka)のようなインドの他の主要な遺跡も、ダバ遺跡のように中部旧石器から細石器まで、段階的な変化を記録しています。ダバ遺跡は、トバ大噴火の前後に、インドでアフリカの中期石器時代のような技術が存在したことをさらに確かなものとします。細石器技術の出現は、おそらく現生人類がインド北部に最初に出現してからかなり後のことでした。

 近年の遺伝学の研究からは、出アフリカ系現代人の主要な祖先集団は7万~52000年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散し、それ以前にアフリカからユーラシアへと拡散した早期現生人類がわずかに出アフリカ系現代人に遺伝的影響を残している、と推測されます。人類遺骸の証拠からは、現生人類が20万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散した、と推測されています(関連記事)。これはユーラシア西方ですが、早期現生人類のアフリカから東方への拡散では、現生人類遺骸に関しては、アラビア半島で85000年以上前(関連記事)、中国南部で12万~8万年前頃(関連記事)、スマトラ島で73000~63000年前頃(関連記事)のものが発見されており、中期石器時代や中部旧石器時代の石器群と関連しています。オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡では、65000年前頃の石器群が発見されており(関連記事)、ダバ遺跡のルヴァロワ石器群とアフリカやアラビア半島やオーストラリアの中期石器時代もしくは中部旧石器時代の石器群の強い類似性は、トバ大噴火に先行する早期現生人類のアフリカから東方への拡散の考古学的証拠となります。インドのダバ遺跡は、アフリカおよびアラビア半島からオーストラリアへと拡散する早期現生人類の重要な中継地だったかもしれないという点で、大いに注目されます。

 本論文は、ダバ遺跡のルヴァロワ石器群がトバ大噴火の前後で大きく変わらないことから、トバ大噴火でもインド北部において人類集団が環境変化に適応して存続していた、と指摘します。トバ大噴火の人類への影響は、トバ大惨事仮説が想定するほど大きくなかったのではないか、というわけです。じっさい、気候学者や地球科学者の間ではトバ大惨事仮説はあまり支持されていないそうです。また、近年のアフリカやインドの考古学的研究も、トバ大惨事仮説には否定的です(関連記事)。トバ大惨事仮説は一般向けのテレビ番組でも通説として取り上げられることが多いように思いますが(関連記事)、もうやや異端的な説として扱うべきでしょう。

 本論文は、ダバ遺跡のルヴァロワ石器群を現生人類の所産と推測していますが、その根拠となる、インドよりも東方の早期現生人類の証拠に関しては疑問が呈されているので(関連記事)、アジア南東部やオーストラリアへの現生人類のトバ大噴火前の拡散に関しては、まだ判断を保留しておくべきだろう、と思います。ただ、ダバ遺跡のルヴァロワ石器群とアフリカやアラビア半島の中期石器時代もしくは中部旧石器時代の石器群との類似性から、現生人類が8万年以上前にアジア南部まで拡散してきた可能性は高そうです。仮にそうだとしたら、アジア南部の古代型ホモ属と現生人類との接触がどのようなものだったのか、注目されますが、現時点ではあまりにも証拠が少ないので、今後の研究の進展を俟つしかありません。アジア南部にネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が拡散してきた証拠はありませんが、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)系統が存在した可能性は低くないように思います。

 また、上述のように、現生人類がトバ大噴火の前にアジア南部やオーストラリア(更新世の寒冷期にはニューギニア島・タスマニア島と陸続きでサフルランドを形成していました)にまで拡散していたとしても、出アフリカ系現代人の主要な祖先集団ではなく、せいぜい一部に遺伝的影響を残しただけと考えられます。インド北部の早期現生人類集団は、トバ大噴火前後の環境変化にも適応できたものの、細石器技術を有する後続の現生人類集団に、人口規模や社会構造や技術水準などで劣勢となり、消滅したか吸収されたのかもしれません。この問題に関しては、現生人類拡散の数理モデル(関連記事)も参考にしつつ、考古学的記録や遺伝学的データも併せて研究が進められていくのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:トバ山の大噴火を生き延びた現生人類

 現生人類は、約7万4000年前に発生したトバ山の大噴火を挟んでインド北部に居住し続けていたという見解を示した論文が、今週、Nature Communications に掲載される。この論文には、ソン川渓谷の遺跡から石器が発見され、この地域に現生人類が過去8万年間にわたって居住し続けてきたことが示されたことが報告されている。この新知見は、現生人類がアフリカから東に向かって分散したことに関する手掛かりになる。

 インドネシアのスマトラ島にあるトバ山の噴火は、長期にわたる火山の冬を引き起こし、現生人類のアフリカからの分散とオーストラレーシアへの定着を阻害したと主張されてきた。こうしたヒト集団に対する影響については論争が続いているが、主要地域(インドなど)からの考古学的証拠は少ない。

 今回、Chris Clarksonたちの研究チームが、インドのミドル・ソン川渓谷にあるダバの遺跡で行われた考古学的発掘調査で発見された大量の石器について報告している。発見された石器は、約8万年前のルヴァロワ文化の中核的石器群(石核から剥片を剥離して作られた石器)から細石器技術(通常の長さが数センチメートルの小型の石器を製作する技術)に移行した約4万8000年前の石器まで含まれていた。この考古学的記録に連続性が認められることから、この地域に居住していた現生人類はトバ山の大噴火を生き延びたことが示唆されている。

 ダバで発見されたルヴァロワ石器とアラビアで発見された10万~4万7000年前の石器とオーストラリア北部で発見された6万5000年前の石器に類似点があり、このことは、古代の現生人類のアフリカからの分散によって、これらの地域の間に結び付きが生じたことを示唆している。



参考文献:
Clarkson C. et al.(2020): Human occupation of northern India spans the Toba super-eruption ~74,000 years ago. Nature Communications, 11, 961.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-14668-4


追記(2020年3月1日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

青木健一「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。現生人類(Homo sapiens)はアフリカから世界中への拡散の過程で、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と遭遇しました。本論文は、ネアンデルタール人やデニソワ人は現生人類と同等な繁殖能力や認知能力を有していたという仮定において、古代型ホモ属と現生人類との間の文化に関する問題を検証しています。

 本論文が問題としているのは、古代型ホモ属が先住している地域への現生人類の拡散と、その地域での現生人類的な石器(小石刃・細石器・背付き石器・尖頭器など)の出現に時間差があることです。つまり、石器文化の変化と人類系統の交替が必ずしも対応していない、ということです。このズレはヨーロッパでも見られますが、中国を中心とするアジア東部で顕著です。とくに中国北部では、現生人類の出現と石器伝統の変化が必ずしも対応していないかもしれない、と指摘されています(関連記事)。本論文は、集団の人口と文化水準が連動し、分布を拡大する現生人類と先住の古代型ホモ属の間の資源をめぐる種間競争モデルを想定し、数学的な手法により集団変化を予測するとともに、そのモデルに基づいて、アジア東部における現代人的な石器の出現が現生人類の到達より遅れたとされる現象を解釈します。

 本論文で理論的考察のモデルは、ネアンデルタール人と現生人類との「交替劇」を考察するために著者たちが提案しました。モデルとはそもそも、複雑すぎる現実の中から本質的と思われる要素を抽出し、それらの間の関係性を強引かつ定量的に設定するもので、現実と(はなはだしく)乖離しているといっても過言ではなく、モデルから導かれる予測を現実に適用するには解釈が重要になる、と本論文は指摘します。本論文は「集団」という用語を10~100人程度の規模と想定し、集団規模が大きいほど、その文化水準(道具の種類数が多く、高機能なものが含まれるなど)は高い、と理論的に予測されます。人口が多いほどアイデアが多く生まれ、多様な技術が共存でき、特別に知能の発達した人が含まれる可能性は高い、と考えられるからです。逆に、文化水準が高いほど人口が維持できる、とも予測できます。ただ、獲物の乱獲により人口を維持できなくなる危険性も伴う、と本論文は指摘します。

 本論文はこれらを踏まえたうえで、学習可能な技術を想定し、この技術の所持者が多い集団ほど、文化水準が高いと仮定します。この技術は、他者を模倣して習得されるか、失敗した場合は、試行錯誤などにより自力で習得できる、と仮定されます。自力習得される技術は、同じ目的を果たすのであれば、既存のものと完全に一致する必要はありません。また、一定の割合の者は習得した技術を忘却する、と仮定されます。本論文のモデルは、人口が多いほど技術所持者も多い、と予測されます。人口動態は、環境収容力に制約されます。また、技術の難易度も考慮されます。

 本論文はこれらを踏まえて、古代型ホモ属の先住地域に現生人類が拡大してきた事例を検証します。両者の間では文化的接触がなく、交雑第一世代は古代型ホモ属と現生人類のどちらかの社会に吸収される、と仮定されます。不均一な地形や変動する気候の影響は無視されます。ここまでの仮定では、古代型ホモ属と現生人類は同等に設定されており、現生人類の分布拡大と古代型ホモ属の絶滅は起こり得ません。そこで本論文は、この対称性を崩す条件として、初期条件の違いを新たに設定します。アフリカおよびレヴァントの初期現生人類は高人口高文化水準にあり、レヴァントを除くユーラシアの古代型ホモ属は、低人口低文化水準だった、と想定されます。

 このモデルでは、現生人類の分布拡大に伴い、古代型ホモ属の分布域は縮小していきます。古代型ホモ属のみの地域と現生人類のみの地域では、人口文化水準は以前と変わらず、前者が低く、後者は高いままです。しかし、現生人類と古代型ホモ属とが共存する地域では、人口文化水準は古代型ホモ属のみの地域よりもさらに低くなります。これは、古代型ホモ属も現生人類も種間競争の影響で人口がきょくたんに少なくなっている、と予測されるからです。この現生人類の分布拡大は、二重波モデルとして表されます。第一波は、まだ先住の古代型ホモ属が存在する地域への拡大で、第二波は、すでに現生人類のみの地域への拡大です。第一波の速度は第二波より速い、と予測されます。また、古代型ホモ属が現生人類と共存しながらアフリカに到達することは、遺伝学と考古学の証拠に反するので、そうならないよう、技術難易度を表すパラメタに上限が設定されます。

 第一波が第二波より速いため、各地点への両者の到着に時間差が生じます。種間競争が弱く、文化水準に関わる技術難易度が高いほど、時間差が大きくなります。また、第一波と第二波の速度は一定と仮定されるため、現生人類の起源地であるアフリカから遠くなるほど、時間差が大きくなります。集団中の技術所持者数がその集団の文化水準を決定する、と仮定されているので、人口の少ない第一波の現生人類集団では、現代人的な石器は製作されてもわずかで、遺物として残らないか発見されいな可能性も考えられる、と本論文は指摘します。一方、第二波の現生人類集団は高人口高文化水準なので、現代人的な石器が見られる、と予測されます。これが、アフリカから遠いアジア東部において、現生人類の到達と現代人的な石器の出現の時間差が大きい理由だろう、と本論文は指摘します。また本論文は、遺伝学の研究では、第二次出アフリカ後の現生人類の人口が1万年以上の長期間激減し、ボトルネック(瓶首効果)が起きたことも、現生人類と古代型ホモ属とが共存する地域での低人口密度を表しているかもしれない、と指摘します。

 本論文は、アフリカ起源の現生人類が高人口高文化水準、ユーラシアの古代型ホモ属が低人口低文化水準と設定し、現生人類のアフリカから世界中への拡散と、古代型ホモ属の絶滅を説明しました。ただ、現生人類も最初は低人口低文化水準だったと考えられます。本論文は、低人口低文化水準から高人口高文化水準への移行には3段階あった、と推測しています。まず、低人口低文化水準の集団がある地域に複数存在する状況において、そのうち1集団で人口と技術所持者が偶然に少し増えて、高人口高文化水準の平衡点の吸引域に入り、その後に高人口高文化水準の平衡点に収束します。高人口高文化水準に達した集団から地域内の他集団への人の移住があれば、受け入れ側の集団でも高人口高文化水準状態への遷移が可能となります。こうして、地域内集団の多くが、一種の連鎖反応により高文化水準に次々と遷移します。本論文は、こうした平衡遷移過程が起きやすい場として、氷期の繰り返しのような地球規模の環境劣化の中、生物がかろうじて生存できる比較的好条件のレフュージア(待避地)を挙げます。平衡遷移過程には集団間の移住率が重要で、低すぎても高すぎても働きません。ただ、平衡遷移過程は条件が整っても作動するとは限らず、偶然が伴う、とも指摘されています。地球規模の環境が改善すると、退避地が分布拡大の起点になり得ます。具体例としては、2万年前頃の最終氷期極大期の後のヨーロッパが挙げられています。

 このような平衡遷移過程が現生人類のみで起きた理由について、本論文は不明としています。近親交配の証拠(関連記事)から示唆されるように、古代型ホモ属の集団は孤立しており、集団間の移住がきわめて限定的だったのかもしれません。また本論文では、アジア東部への現生人類および現代人的な石器の到来は同一経路だったとの前提が採用されていますが、じっさいには南北2経路の可能性が高い、と指摘されています。本論文が指摘するように、上述のモデルから導かれる予測を現実に適用するには解釈が重要になり、そのための証拠は、とくに遺伝学において急速に蓄積されつつあります。本論文のモデルは現生人類の拡散の解明に大きく貢献できそうですが、より妥当な仮説の提示には、遺骸・DNA・遺物などの具体的証拠が必要となります。


参考文献:
青木健一(2020)「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第6章P199-220

ナミビアの牧畜民におけるペア外父性

 ナミビア北西部のヒンバ(Himba)牧畜民集団におけるペア外父性(extra-pair paternity、EPP)に関する研究(Scelza et al., 2020)が公表されました。動物行動に関する伝統的な見解においては、社会的に一夫一妻の種では比較的低いペア外父性(extra-pair paternity、EPP)率のはずだ、と想定されます。しかし、DNA解析の発展により鳥類の分類は大きく変わり、以前は社会的に一夫一妻と分類されていた種の大半が一夫多妻に分類されました。近年ではこうした知見を踏まえて、ペア外父性の種間および種内変動の両方の決定要因の理解が注目されるようになり、性選択、父性と一夫一妻と父親の世話の間の関係についての研究が続けられています。

 人類学では長く、文献から社会的一夫一妻の限界が強調されてきました。一夫一妻もしくは一夫多妻婚を通じての安定した共同関係の出現は、父親からの投資、血統および継承構造などへの必須の前適応と考えられています。しかし、婚姻内の性的排他性からの慣習的予測にも関わらず、婚外関係がしばしば発生します。集団間における婚外関係の頻度はかなり可変的ですが、標準的な社会の57%では、女性の不貞の割合が中程度以上あると報告されています。一部の社会では、こうした同時期の共同関係は公式もしくは非公式に容認された方法で見られ、たとえば妻の貸し出しです。しかし、他の社会では、婚外関係は厳密に隠されており、検出された場合は厳罰を伴います。これらのデータは、特定の状況下で女性が一妻多夫から利益を得られる、という広範な予測に合致します。

 ヒトにおけるEPPの高品質の遺伝的証拠は過去5~10年で蓄積されつつありますが、ほぼヨーロッパ系集団にのみ焦点が当てられています。人類学者が強調する同時に複数の配偶的関係の一定以上の割合とは異なり、現代および過去の集団の遺伝的データは一貫して、ひじょうに低いEPP率を明らかにしてきました。たとえば、ネーデルラントにおいては、EPP率は人口密度および階層と相関しており、最もペア外父性率が高くなる人口密度の高い下層階級でも、5.9%程度で、最も低くなる人口密度が低い上層階級では0.4~0.5%程度と推定されています(関連記事)。最近の非ヨーロッパ系を対象とした研究でも、たとえばマリのドゴン(Dogon)集団でEPP率は1.8%程度と推定されています。そのため遺伝学においては、ヒト社会におけるEPP率は無視できる程度のものだ、との見解が有力でした。しかし、現在おもに研究されている集団は家父長制の社会経済制度であり、均一的な標本群なので、より広範な社会経済的規範の集団の研究が必要と指摘されています。

 EPP率の研究は倫理的問題になりかねないので、調査には対象者の同意と情報保護など慎重さが必要となります。本論文は、調査対象者の同意と二重盲検法の採用により、バイアスをできるだけ減少させます。本論文が対象としたのは、非ヨーロッパ系となるナミビア北西部のヒンバ牧畜民集団です。ヒンバ集団の718人のDNAが解析され、人口記録および調査対象者の父性に関する自己申告と合わせて、EPP率や自己申告の正確性が検証されました。まず、171人の既婚者が調査され、女性の77%、男性の85%には、少なくとも1人の婚外パートナーがいました。婚外パートナーは、おおむね1人もしくは2人で、若い男性(16~25歳と26~35歳)ではほぼ100%おり、男女ともに若い方が高い傾向にあるものの、男性の場合は36~45歳と45歳超で割合はほぼ変わらず、女性では45歳超でやや低下する傾向が見られます。

 ヒンバ集団の平均EPP率は48%で、夫婦の70%は少なくとも1人のペア外父性の子供を有しています。女性151人と男性161人からは、生物学的な父子関係に関する自己申告が得られ、男女ともに70%程度の確率で父性を正しく判断できており、女性の方が男性よりもやや高い精度でした。父性を間違って判断した場合、男女ともに夫側の実子と判断しながら他の男性の実子だった方が、夫側の実子ではないと判断しながらそうだった場合よりもずっと多くなっています。この結果を知らされたヒンバ集団は、父性の判断の正確性が過小評価されている、と主張しました。夫側は自分の子供ではないと信じている時でさえ、子供の父親と報告したのだろう、というわけです。じっさい上述のように、夫側の実子と判断しながら他の男性の実子だった方が多いわけで、男性はもっと正確に父性を判断できているかもしれません。

 これらのデータは、EPPがヒトではおおむね無視できる、という遺伝学の有力な見解とは対照的です。ヒンバ集団はEPPに関して、ヒト集団における一方の極にいるかもしれませんが、同時に複数のパートナーと関係を有する頻度が高いのは、ヒンバ集団だけではありません。EPPの変異幅を正確に評価するには、より多様な経済的および社会的環境での研究が必要になる、と本論文は指摘します。現時点では、ヒト集団間のEPPの変異幅の要因について、ほとんど知られていません。本論文、同時に複数の性的関係を有する女性の割合が75%程度と高いことから、母系継承、採集と園耕への依存、男性に偏った成人の性比、配偶者不在の長期化と関連している可能性を提示しますが、その因果関係が明確ではないことを指摘します。

 本論文は、ヒンバ集団における父性に対する高い正確性に注目します。EPPは多くの場合、男性が知らずに別の男性の子孫に投資する「不義」と推定されています。この男性にとっての脅威は、 EPPを防止および検出し、そうしたコストのかかるエラーを回避するために存在すると考えられている、一連の心理的メカニズムと関連しています。以前の研究は、父性の信頼性と実際の父性の間の一致を示してきましたが、本論文は、ヒンバ集団の男女両方とも、EPPの事例の検出において意外なことに正確である、と指摘します。本論文におけるEPP検出の男性の精度は、以前の研究で見られたものをはるかに上回ります。以前の研究では、低い父性信頼性の男性は30%の確率で正しかったのに対して、本論文におけるヒンバ集団の男性は70%以上で正しい、と示されています。これは、高頻度のEPP状況で男性が子供に投資する(世話をする)動機に関して、顕著な示唆を与える、と本論文は指摘します。

 高い父性信頼性と高いEPPの組み合わせは、ヒンバ集団の男性が全体的に、「寝取られていない(不義ではない)」ことを意味します。本論文は、男性が実子以外も世話する理由として、大きな安全となり得る社会的評判への見返りを期待しての社会的父親としての義務や、男性に偏った性比のような社会経済的状況では、一部の男性にとって一妻多夫こそ最良の選択になる、といったことを挙げています。これらの知見が、より広範囲の集団を対象とした多くの父性研究への窓を開き、ヒトにおけるEPPの程度についてさらに明確にするよう、本論文は提言しています。これにより、将来の研究は「不義」とEPPの曖昧さを区別し、EPPが特定の集団における親の世話とパートナー選択に影響を与えるのかどうか、与えるのならば、その過程と理由は何なのか、解明されていくのではないか、と本論文は今後を展望しています。

 本論文は、ヒト社会におけるEPPが集団により大きく異なり、かなり高い割合の集団もいることを示した点で、注目されます。しかも、ヒンバ集団においては、男性側が実子ではないと判断している子供にも投資している(世話をしている)ことが珍しくなさそうであることから、これを「寝取られ(不義)」と区別する必要性があることも、本論文の重要な指摘となります。こうした実子ではないと判断している子供への投資(世話)がどのように形成され、その理由が何なのかという問題は、まだ明確ではありません。本論文はその理由として、社会的評判や性比の偏りを示唆していますが、確かに、それは要因になり得るとは思います。おそらくヒンバ集団の事例は、ヒトがもともと父性には拘っていなかったことではなく、ヒトが社会状況により多様な社会を築いてきたことを反映しており、ヒトが進化の過程で長く「乱婚社会」を経験してきた、という仮説の根拠にはなり得ないでしょう。


参考文献:
Scelza BA. et al.(2020): High rate of extrapair paternity in a human population demonstrates diversity in human reproductive strategies. Science Advances, 6, 8, eaay6195.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aay6195

ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先と未知の人類系統との交雑

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先と遺伝学的に未知の人類系統との交雑の可能性を指摘した研究(Rogers et al., 2020)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。本論文は、すでに昨年(2019年)6月、査読前に公開されていました(関連記事)。その時と内容は基本的に変わっていないようなので、今回は多少の変更点などを中心に簡単に取り上げます。

 本論文の要点は、現生人類(Homo sapiens)系統と分岐した後の、ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先である「ネアンデルソヴァン(neandersovan)」は、220万~180万年前頃にネアンデルソヴァンおよび現生人類系統の共通祖先系統と分岐した「超古代系統」と分岐した、というものです。ネアンデルソヴァン系統におけるネアンデルタール人系統とデニソワ人系統の推定分岐年代は737000年前頃(査読前の論文では731000年前頃)で、その少し前にネアンデルソヴァン系統と現生人類系統が分岐したと推定されますから、その間にネアンデルソヴァン系統と超古代系統が交雑したことになります。本論文におけるネアンデルタール人系統とデニソワ人系統との推定分岐年代は、たとえば44万~39万年前頃とする他の研究(関連記事)よりもずっと古くなりますが、これはネアンデルソヴァン系統と超古代系統の交雑のように、本論文が複雑な交雑を想定しているからではないか、と推測されています。

 ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡では、185万年前頃までさかのぼる人類の痕跡が確認されています(関連記事)。本論文は、人類の出アフリカは大別して3回あり、200万年前頃となる最初に超古代系統がアフリカからユーラシアへと拡散し、その後はアフリカの人類とは交流せず、80万~70万年前頃となる2回目の出アフリカでネアンデルソヴァン系統がユーラシアへと拡散した超古代系統と交雑し、7万~5万年前頃となる3回目に現生人類がユーラシアへと拡散した、と推測しています。もっとも、すでにゲノムが解析されている現生人類やネアンデルタール人やデニソワ人には遺伝的影響を残していない人類系統による、他の出アフリカもあっただろう、と考えられます。たとえば、中国北西部の212万年前頃の人類(関連記事)です。また、出アフリカ系現代人の主要な祖先ではない現生人類系統の出アフリカも20万年以上前から複数回あった、と推測されます(関連記事)。

 人口史については、超古代系統の有効人口規模は2万~5万人と推定されており、ネアンデルタール人やデニソワ人よりも多かった、と推定されています。また、本論文の筆頭著者のロジャース(Alan R. Rogers)氏は、以前の研究(関連記事)では、ネアンデルタール人の人口は他の研究の推定よりかなり大きかった、と推定されていました。ネアンデルソヴァン系統は人口が減少し、ネアンデルタール人系統はデニソワ人系統との分岐後に人口が数万人規模まで増加していき、各地域集団に細分化されていった、というわけです。一方、他の研究では、ネアンデルソヴァン系統が現生人類系統と分岐した後、ネアンデルタール人系統もデニソワ人系統も人口がずっと減少していった、と推測されています(関連記事)。本論文は、クロアチアのネアンデルタール人の高品質なゲノム配列(関連記事)も対象とすることで、他の研究と近いネアンデルタール人の人口史を推定しています。

 本論文の課題の一つとして挙げられているのは、他の研究で提示されている遺伝学的に未知の古代系統の交雑など、人類史における複雑な交雑事象を踏まえて、どう整合的に解釈するのか、ということです。たとえば、現生人類およびネアンデルソヴァンの共通祖先と分岐した超古代系統がアフリカでアフリカ西部集団の祖先と交雑した、という最近の研究(関連記事)や、サハラ砂漠以南のアフリカ集団における未知の人類系統との交雑の可能性を指摘した研究(関連記事)です。ただ、後者の研究では、それが単一もしくは複数のアフリカの現生人類系統である可能性は除外されていません。また、早期現生人類がネアンデルタール人と交雑し、その後でネアンデルタール人と交雑した出アフリカ現生人類集団の一部がアフリカに「戻って来た」ので、現代アフリカ人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響は以前の推定よりずっと高い、という研究(関連記事)もあります。

 このように、人類史において異なる系統間の交雑は珍しくなかったようです。超古代系統とネアンデルソヴァン系統は、分岐してから120万年以上経過してから交雑したと推定されており、分岐してから100万年程度では、交雑の大きな障壁にはならないようです。ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類とは、分岐してから70万年ほど経過して交雑していますから、単純に時間経過だけを考えると、交雑はより容易だった、と言えそうです。もちろん、分岐してからの時間が短くとも、生殖隔離をもたらすような変異が蓄積される可能性もありますが。アザラシにおいても、現生人類とネアンデルタール人の場合よりも遺伝距離が2.5倍の種間で交雑が生じており(関連記事)、おそらく哺乳類において一般的に交雑は珍しくなく、それが進化の一因になったのでしょう。


参考文献:
Rogers AR, Harris NS, and Achenbach AA.(2020): Neanderthal-Denisovan ancestors interbred with a distantly related hominin. Science Advances, 6, 8, eaay5483.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aay5483

高畑尚之「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文は、近年飛躍的に発展した古代ゲノム研究を概観するとともに、その理論的発展も取り上げ、ゲノム研究の具体的な手法も解説しています。たとえばPSMC法は、ペアの相同染色体を小領域に区切り、端の小領域から逐次マルコフ性にしたがって合祖時間(合着年代)を推定する、という原理とアルゴリズムに基づきます。これにより1個体から過去の個体数が推測され、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)は、50万年以上前に現生人類系統と分岐して以降、ずっと人口が減少していた、と指摘されています(関連記事)。この長期的な人口史については、その後で異論が提示されていたものの(関連記事)、さらにその後で訂正され、やはり以前の推定が妥当とされています(関連記事)。一方、現代人の各地域集団系統は30万~20万年前頃に共通して人口のピークを示し、分岐がそれ以降であることを示唆するとともに、非アフリカ系集団では10万年前頃から人口が減少し始めて、6万~4万年前頃に最低となります。これは、非アフリカ系現代人の祖先集団に当時ボトルネック(瓶首効果)が起きたことを示唆します。また、4集団テストでは、変異数により集団間の近縁関係が推定されるとともに、異なる統計手法で混合率も推定されます。これにより、非アフリカ系現代人はアフリカ系現代人よりもネアンデルタール人に近いことと、非アフリカ系現代人におけるネアンデルタール人系統の混合率が推定されます。

 本論文は、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人において、複雑な交雑が生じた可能性を指摘します。たとえば、早期現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動で、これは14万年以上前に起きた可能性が高そうです。ネアンデルタール人と出アフリカ系現代人の祖先集団や、デニソワ人とオセアニア系現代人の祖先集団との交雑は早くから知られていましたが、もっと入り組んだ交雑があった、というわけです。さらに、まだ人類遺骸は特定されていないものの、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先系統と分岐した遺伝学的に未知の人類系統とデニソワ人との交雑の可能性も指摘されています。これらの関係は本論文の図5-1で示されています。

 現時点で核DNAが解析されているネアンデルタール人は、大きく東西の2系統に分類されます。東方系は南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された女性1個体で、その他は西方系です。非アフリカ系現代人の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人は西方系で、ネアンデルタール人の東西系統の分岐は14万年以上前、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカは58000年前頃、その集団とネアンデルタール人との交雑は54000~49000年前頃、出アフリカ系現代人の祖先集団のうち東西ユーラシア集団の分岐は52000~46000年前頃と推定されています。ただ、この推定年代は、今後の研究の進展により変わってくる可能性が低くないでしょう。

 核DNAが解析された最古の現生人類個体は、シベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見されました(関連記事)。このウスチイシム個体の年代は45000年前頃で、どの非アフリカ系集団とも同じような遺伝距離を示しているため、ユーラシア集団が東西に分裂した頃の現生人類と推測されています。核DNAが解析された更新世の現生人類個体としては、24000年前頃のシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の少年(関連記事)が挙げられます。このマリタ個体は、アメリカ大陸先住民集団やヨーロッパ集団と密接な関係にあると想定されたゴースト集団を実証するもので、古代ユーラシア北部集団を表します。その後さらに、古代ユーラシア北部集団をユーラシア北東部に広範に存在した古代シベリア北部集団の子孫とする見解が提示されています(関連記事)。

 現代ヨーロッパ人の形成において重要であるものの、まだ存在が確認されていない集団(ゴースト集団)として、基底部ユーラシア集団があります。これは、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団と早期に分岐し、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けていない、と推測されています。ゴースト集団なので分布範囲は不明ですが、アジア西部とアフリカ北部が有力です。45000~37000年前頃のユーラシアには、この基底部ユーラシア集団とともに、複数の現生人類集団の存在がゲノム解析で確認されていますが(関連記事)、42000~37000年前頃のルーマニアの「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された「Oase 1」や上述のウスチイシム個体のように、現代には子孫を残していないと考えられる集団も存在したようです。ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された若い男性は、現代ヨーロッパ人と遺伝的に近縁とされていますが(関連記事)、この時期のヨーロッパ人には、後世のヨーロッパ人とは異なり、上述の基底部ユーラシア集団の遺伝的影響は見られません。33000年前頃に、コステンキ近くまで画策してきた狩猟採集民がグラヴェティアン(Gravettian)を発展させ、ヨーロッパ西部に逆流し、グラヴェティアンは1万年以上続きます。

 完新世になると、ヨーロッパにはアジア西部から農耕民が到来します。このヨーロッパの初期農耕民のゲノムにおける基底部ユーラシア集団由来の領域は44%に達する、との見解もありますが、10%未満との推定もあり、確定していません。現代ヨーロッパ集団は、大まかには、ユーラシア西部集団を基本に、基底部ユーラシア集団と古代ユーラシア北部集団が直接・間接的に関わって形成された、と把握できます。まず、ヨーロッパ西部の狩猟採集民が存在するところに、アナトリア半島やレヴァントやイランといったアジア西部の農耕民が到来し、先住の狩猟採集民と混合していきます。ヨーロッパ東部では、在来の狩猟採集民にイランの農耕民が拡散してきて混合し、牧畜も始めたポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)集団が形成されました。この集団からヤムナヤ(Yamnaya)文化が出現し、5000年前頃以降ヨーロッパに拡散し、大きな遺伝的影響を残しました。ヨーロッパ東部の狩猟採集民は古代ユーラシア北部集団から大きな遺伝的影響を受けており、現代ヨーロッパ人は間接的に古代ユーラシア北部集団を祖先としています。また、古代ユーラシア北部集団はアメリカ大陸先住民の祖先でもありました。また、エチオピアのモタ(Mota)洞窟で発見された4500年前頃の男性のゲノム解析と現代人のゲノムとの比較に基づき、ユーラシア西部からアフリカへの3000年前頃の「逆流」の規模は以前の推定よりも大きく、現代アフリカ東部集団の遺伝子プールの25%を占めるのではないか、と推測されています(関連記事)。

 アジアにおける現生人類集団の形成において重要となるのは、ネアンデルタール人だけではなくデニソワ人の存在も考慮に入れなければならないことです。現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の系統関係は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAで異なっており(関連記事)、単一の祖先関係を反映する分枝が、必ずしも集団の系統関係を反映するわけではない、と本論文は注意を喚起しています。デニソワ人は、肌の色が濃く、褐色の髪と目だった、と推測されています。デニソワ人の遺伝的影響は現代人でも各地域集団で大きく異なり、オセアニアでは高く、アメリカ大陸(先住民集団)やアジア東部および南部では多少見られ、ユーラシア西部とアフリカではほとんど見られません。本論文は、デニソワ人がシベリアからアジア南東部まで広範に存在したのではないか、と推測し、デニソワ人には複数系統存在し、それぞれオセアニアやアジア東部の現代人の祖先集団と交雑した(関連記事)、との見解を取り上げています。本論文は、アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散においてヒマラヤ山脈の北方を東進する経路においても現生人類とデニソワ人が交雑した可能性を指摘し、その根拠として上述のマリタ遺跡の少年にもデニソワ人の遺伝的影響が見られることを指摘します。これは私も見落としており、参考文献が思い浮かばなかったので、今後時間を作って調べていきます。また本論文は、現代アジア東部人の祖先集団がアジア南東部から北上する過程でデニソワ人のような非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と交雑した、と推測しています。

 本論文は現生人類の出アフリカを、上述のネアンデルタール人に遺伝的影響を残した14万年以上前の第一次と、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団による6万年前頃の第二次に区分し、両者は大きく系統が異なる、と推測しています。この第一次出アフリカ集団がオセアニアの現代人に遺伝的影響を残している、との見解も提示されています(関連記事)。じっさい、この第一次出アフリカがオーストラリアまで到達した可能性を示唆する考古学的証拠も提示されています(関連記事)。この場合、オセアニア系統とアジア東部および南東部系統との分岐は、ユーラシア東西系統との分岐後となります。ただ、第一次出アフリカはオセアニアまで到達したものの、第二次出アフリカの先発隊的存在だった、との見解もあり、オセアニア系の分岐はユーラシア東西系統の分岐よりも早くなります。本論文は、オセアニア系の位置づけが定まらないのは、オセアニア系にデニソワ人からの遺伝子流動があるためで、この効果を除外しないと、オセアニア系の位置づけが古くなってしまう、と指摘します。ただ本論文は、現時点でのゲノムデータが適切に除外できるのか、という問題を提起しています。オセアニア・アジア・ヨーロッパの各集団のうち、2集団のみに共有される非アフリカ系現代人に特異的な変異に注目した研究では、オセアニア系は明らかにアジア系とより多くの変異を有しており、第一次出アフリカ集団がオセアニアにまで到達しても、第二次出アフリカ集団にほぼ完全に置換されたか、第一次出アフリカにおけるオセアニアへの到達を示唆する遺跡の年代が誤りなのだろう、と本論文は指摘します。

 ネアンデルタール人やデニソワ人といった古代型ホモ属との交雑は、現生人類の適応に重要な役割を果たした、と考えられています。非アフリカ系現代人のゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域は、各個人では2%程度ですが、合計すると40%程度になり、さらに現代人のゲノムを調査していけば、70%に達するかもしれない、と推測されています。ただ、現生人類のゲノムに見られる古代型ホモ属由来のDNAには、遺伝子の翻訳領域やその発言調節領域もしくは保存的な非翻訳領域など、機能的に重要な領域が少ないことから、古代型ホモ属のゲノムは現生人類にとって有害だった、との見解も提示されています。本論文も、現生人類と古代型ホモ属のゲノムは50万年以上独立に進化した後で混合したので、相互に不和合になる変化も蓄積しているはずだ、と指摘します。一般的に生殖に関連した遺伝因子は進化が速く、雑種の雄の妊性をいち早く低下させます。また、古代型ホモ属の個体数は長期にわたって現生人類との比較で一桁少ないと推定されていることから、古代型ホモ属には相対的に強い遺伝的浮動により有害変異が蓄積しやすかったことも指摘されています。

 このような不適応説を支持する証拠は、上部旧石器時代から現代にいたるまで、現生人類のゲノムにおける後期ネアンデルタール人からの混合率が単調に減少し、有害な変異が4万年以上にわたってじょじょに排除されているように見えることです。しかし本論文は、有害変異が長期にわたって排除されることは、集団遺伝学的には説明が難しい、と指摘します。さらに、アルタイ地域のネアンデルタール人ではなく、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団により近いクロアチアのネアンデルタール人で推定すると、単調な減少は見られなくなります。ただ、早期現生人類のウスチイシム人やコステンキ人のゲノムではネアンデルタール人由来の領域が多いことも確かなので、複数回の交雑などを考慮する必要がある、と本論文は指摘します。また本論文は、単調な減少がないからといって、ネアンデルタール人のゲノムが現生人類にとって有害ではなかった、とは言えないとも指摘します。有害な変異も多かったものの、交雑後間もなく現生人類の祖先集団から急速に除去されただろう、というわけです。そうならば、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域を排除する仕組みはもはや存在せず、将来にわたって現生人類のゲノムの一部として伝達されるだろう、と本論文は予測します。

 非アフリカ系現代人のゲノムに見られる古代型ホモ属由来の適応的な変異としては、チベット人に見られる高地適応関連遺伝子EPAS1(関連記事)やイヌイットに見られる寒冷適応関連遺伝子TBX15やWARS2(関連記事)があり、ともにデニソワ人由来です。現代ヨーロッパ人に他地域よりも高頻度で見られる脂質代謝関連遺伝子は、ネアンデルタール人由来と推測されています(関連記事)。その他には、免疫や髪・皮膚の色に関連した遺伝子で古代型ホモ属由来のものがある、と指摘されています。本論文は、こうした古代型ホモ属から現生人類への適応的浸透が特定の地域集団に限定されており、現代人全体で適応的になっている事例は報告されていない、と指摘します。現代人のゲノムにおける出アフリカ以降の適応的変化でも同様で、これは全体に拡散するには時間不足だからではなくも適応進化の要因が病原菌や高地や寒冷地といった地域的な環境への適応にあるからだ、と本論文は指摘します。

 また本論文は、古代型ホモ属からの適応的浸透には、たとえば乳糖耐性のような文化と関連した事例がないことも指摘します。他には、アジア東部において高頻度で見られる、アルコール分解の強弱に関連するアルデヒド代謝能力です。これは、長江流域で稲作が始まり、その発酵産物を摂取するようになったことと関連し、代謝を遅滞するような選択圧が作用した、と推測されています。また、社会構造の変化や異文化との接触に伴う選択圧も想定されます。これらも地域的な適応ですが、現時点で既知のこうした変異はすべて、現生人類の遺伝子プールにすでに存在したか、新たに出現したもので、古代型ホモ属由来ではありません。本論文は、古代型ホモ属のゲノムが出アフリカ後の現生人類の適応を可能にした有益な変異の貯蔵庫であったことは認めつつ、文化という現生人類が生み出した独自の「環境」に適応する素材とはなり得なかった、と指摘します。ゲノムには時間に関する情報は満載であるものの、空間に関する情報はそれ自体ではきわめて限定的で、移動し続けてきた現生人類の歴史を復元するには、学際的な研究が必要になる、と提言しています。


参考文献:
高畑尚之(2020)「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第5章P151-197

大河ドラマ『麒麟がくる』第6回「三好長慶襲撃計画」

 1548年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)秋、畿内では細川晴元とその重臣である三好長慶との対立が深まっていました。長慶は連歌の会に出席すべく、密かに都を訪れます。明智光秀(十兵衛)は伊平次から、その場で松永久秀と長慶を襲撃する計画があると聞き、三淵藤英と細川藤孝に面会に行きます。藤英は晴元がこの襲撃計画の黒幕だろう、と光秀に打ち明けますが、しょせんは細川勢の内輪揉めで、将軍の上意と受け取られるのは困るので動けない、と言います。しかし光秀は、世を太平にするには将軍が公言せねばならないと藤英に訴え、それを近くで聞いていた将軍の足利義輝は、光秀を追うよう、藤英と藤孝に命じます。

 連歌の会で久秀と長慶が襲撃されたところを光秀と藤英と藤孝が救出に赴き、久秀も長慶も無事に脱出し、それを見た晴元は切歯扼腕します。負傷した光秀は望月東庵を訪ね、駒とも再会します。光秀は訪ねてきた藤孝に都に留まるよう誘われますが、まずは美濃をまとめて藤孝と将軍を支える、と答えます。そこへ、美濃の大垣城をめぐって斎藤利政(道三)と織田信秀が争いを始めた、と望月東庵が光秀に知らせます。利政は織田方の大垣城を奪い、相変わらずその軍事的手腕は冴えています。まだ傷の癒えていない光秀は駒とともに美濃に戻ります。

 今回は、都の政治的抗争に光秀が巻き込まれ、久秀や藤英や藤孝との絆が深まりました。まず間違いなく創作でしょうが、その後の関係を考えると、藤孝との深い絆をこの時期より描くのは、長期の連続ドラマとして大きな問題はないと思います。藤孝も光秀もまだともに若く、理想主義的なところがあるので、意気投合するのは納得のいく描写でした。視聴率低下が面白おかしくマスメディアで取り上げられるようになった本作ですが、ここまで私はひじょうに楽しめていますし、今後の展開も期待できます。やや不安だった駒の物語にも謎がありそうで、謎解きの点でも楽しみです。

海部陽介「日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文はまず、3万年前頃までには、現生人類(Homo sapiens)が極寒地域や標高4000m以上の高地から熱帯雨林までアジア全域の多様な環境に適応して拡散していた、と指摘します。しかし、いつ到来したのかについては、議論が続いています。アジアで最古級の現生人類遺骸として注目されているのは、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡で発見された73000~63000年前頃の現生人類の歯です(関連記事)。しかし本論文は、この2点の歯は博物館の収集物から見つけられたもので、報告者たちが見つけたものではなく、古い地層で発見されたのか定かではない、と本論文は疑問を呈します。また、この歯が出土したとされる層から発見されたオランウータンの歯には、地中の鉱物が取り込まれて黒いシミができている一方で、全体的に脱色もしていますが、現生人類の歯はそれとは状態が大きく違うことも疑問点とされています。

 本論文は、西太平洋における渡海を伴う現生人類の拡散に注目しています。現生人類は、サフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・ タスマニア島は陸続きでした)に47000年前頃もしくは6万年以上前、日本列島とフィリピンへ38000年前頃に拡散した、と考えられます。つまり、西太平洋の広域で5万~3万年前頃に現生人類が海に進出していたわけで、人類が最初に本格的に海洋進出を開始したのは西太平洋かもしれません。日本列島に現生人類が拡散してきた38000年前頃には、海面が現在と比較して80mほど低く、台湾がユーラシアの一部となり、北海道がサハリンとつながっているなど、現在とはかなり地形が異なります。しかし、津軽海峡と対馬海峡には当時も海があり、沖縄の島々も大陸や九州と陸続きにはなっていないため、日本列島の中心部は基本的に海で隔てられていました。日本列島における現生人類と関連していると考えられる遺跡では、九州と本州が最も古く、日本列島最古の現生人類は朝鮮半島から対馬海峡を経て到来した、と考えられます。また本論文は、台湾からの渡海も想定しています。考古学では、25000年前頃北方から新たな石器文化が到来した、と考えられています。つまり、北方・朝鮮半島・台湾という大陸の三方から日本列島へ、やや異なる時代に現生人類が到来しただろう、というわけです。

 琉球列島における現生人類の痕跡は、最北の種子島で35000年前頃、奄美大島では3万年前頃、徳之島では3万年前をややさかのぼる頃、沖縄島では35000年前頃(サキタリ洞遺跡では世界最古級とされる23000年前頃貝殻製の釣り針が発見されています)、宮古島では3万年前頃、石垣島では27500年前頃までさかのぼります。それまで無人だった琉球列島の全域に、3万年前頃に突然現生人類が出現するわけです。屋久島はかつて九州と陸続きになったことがあるため、動物相は日本列島主要部と類似していますが、屋久島より南の島々にはアマミノクロウサギなど固有種がおり、動物相はかなり異なります。これは、屋久島より南の島々の長期の孤立を示します。

 本論文は、琉球列島への3万年前頃の航海は、その後に人類集団が少なくとも一定期間以上継続したと考えられることから、すべてを漂流の結果と考えるのには無理がある、と指摘します。また本論文は、伊豆諸島の神津島の黒曜石が本州で見つかっており、その年代は38000年前頃までさかのぼることから、その頃にはすでに意図的な航海が存在した、と指摘します。3万年前頃の台湾から琉球列島への航海を再現した実験から、現生人類が世界中へ拡散した理由として、避難や追放など消極的な理由だけではなく、新たな世界に挑戦する心理があったのではないか、と推測しています。この航海実験にどれだけの妥当性があるのかは、今後も検証が続けられていくでしょう。


参考文献:
海部陽介(2020)「日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第4章P129-149

三畳紀中期の新種鱗竜形類

 三畳紀中期の新種鱗竜形類に関する研究(Sobral et al., 2020)が公表されました。鱗竜形類は規模と多様性が最大級の四肢動物系統で、10500種以上が含まれており、現代のトカゲ類・ヘビ類・ムカシトカゲ類の祖先に相当します。しかし、化石標本は、数ヶ所の三畳紀の遺跡でしか発見されておらず、鱗竜形類の初期進化はほとんど解明されていません。この研究は、ドイツのベルベルグにある三畳紀中期(約2億4700万年~2億3700万年前)の堆積層から発見された小さな化石について報告しています。

 分析の結果、この化石標本は、初期鱗竜形類の新種(Vellbergia bartholomaei)と明らかになりました。また、この化石標本は遺跡で発見された中で最小のものに分類され、ベルベルグで発掘された初めての幼体化石である可能性が指摘されています。この新種初期鱗竜形類は、下顎と比べて幅の狭い歯・細長い歯・低い歯などの独特な特徴を示しており、他の鱗竜形類種と異なっていますが、現代のトカゲ類とムカシトカゲ類の祖先に見られる特徴も見られます。これらの知見は、この新種初期鱗竜形類がトカゲ類とムカシトカゲ類の共通祖先である可能性を示唆しており、初期爬虫類の進化に関する理解に寄与します。

 この新種初期鱗竜形類化石は、鱗竜形類の初期進化を解明するうえでベルベルグの遺跡が重要なことを示す新たな証拠となります。三畳紀前期の化石記録は数が少ないため、地球上で起こった既知の絶滅事象の中で最大規模のペルム紀と三畳紀の境界(約2億5200万年前)で生じた大量絶滅の後、脊椎動物が回復し、現生種に多様化した過程を解明するうえで、三畳紀中期の化石標本が根本的に重要なものとなっています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:爬虫類の進化の謎に光を与える先史時代の小さなトカゲ

 先史時代の爬虫類の新種がドイツで発見され、Vellbergia bartholomaeiと命名されたことを報告する論文が、今週Scientific Reportsに掲載される。この爬虫類種の解剖学的特徴によって、鱗竜形類の初期進化の理解が深まる。

 鱗竜形類は、規模と多様性が最大級の四肢動物系統で、1万500種以上が含まれており、現代のトカゲ類、ヘビ類、ムカシトカゲ類の祖先に当たる。しかし、化石標本は、数か所の三畳紀の遺跡でしか発見されておらず、鱗竜形類の初期進化は、ほとんど解明されていない。

 今回、Gabriela Sobralたちの研究チームは、ドイツのベルベルグにある三畳紀中期(2億4700万年~2億3700万年前)の堆積層から小さな化石を発見した。分析の結果、この化石標本は、初期の鱗竜形類の新種であることが分かった。そして、この遺跡で発見された化石標本の中で最も小さいものに分類され、ベルベルグで発掘された初めての幼体化石である可能性がある。V. bartholomaeiは、下顎と比べて幅の狭い歯、細長い歯、低い歯などの独特な特徴を示しており、他の鱗竜形類種と異なっているのだが、現代のトカゲ類とムカシトカゲ類の祖先に見られる特徴も寄せ集められている。これらの知見は、Vellbergiaがトカゲ類とムカシトカゲ類の共通祖先である可能性を示唆しており、初期爬虫類の進化に関する理解が深まる。

 この化石は、鱗竜形類の初期進化を解明する上でベルベルグの遺跡が重要なことを示す新たな証拠である。三畳紀前期の化石記録は数が少ないため、地球上で起こった既知の絶滅事象の中で最も規模の大きいペルム紀と三畳紀の境界(約2億5200万年前)で生じた大量絶滅の後、脊椎動物が回復し、現生種に多様化した過程を解明する上で三畳紀中期の化石標本が根本的に重要なものとなっている。



参考文献:
Sobral G, Simões TR, and Schoch RR.(2020): A tiny new Middle Triassic stem-lepidosauromorph from Germany: implications for the early evolution of lepidosauromorphs and the Vellberg fauna. Scientific Reports, 10, 2273.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-58883-x

保阪正康『昭和の怪物 七つの謎』第3刷

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2018年7月に刊行されました。第1刷の刊行は2018年7月です。本書は、昭和時代の「怪物」とそれにまつわる「謎」を取り上げています。具体的には、東條英機は何に脅えていたのか(第1章)、石原莞爾は東條暗殺計画を知っていたのか(第2章)、石原莞爾の「世界最終戦論」とは何だったのか(第3章)、犬養毅は襲撃の影を見抜いていたのか(第4章)、渡辺和子は死ぬまで誰を赦さなかったのか(第5章)、瀬島龍三は史実をどう改竄したのか(第6章)、吉田茂はなぜ護憲にこだわったのか(第7章)です。

 本書の全体的な論調として気になるのは、勧善懲悪的な側面がやや強いように思えるところです。本書は概して大日本帝国軍部に厳しく、吉田茂など部に対抗した人々に好意的です。もちろん、教条的・精神論的・保身的な軍人と対立し、むしろ敵視されていたような軍人は好意的に取り上げられています。たとえば、二・二六事件で殺害された渡辺錠太郎です。本書では、その娘である渡辺和子への著者による取材も取り上げられていますが、渡辺和子は二・二六事件を終生赦さなかった、と指摘されています。渡辺和子がとくに嫌っていたのは、二・二六事件で父を殺害した実行犯の軍人たちよりも、それを煽りながら、「後ろにいて逃げ隠れした人たち」でした。具体的には、真崎甚三郎と荒木貞夫です。

 本書第1章は、東條英機が何に脅えていたのか、論じています。本書は、昭和天皇から非戦を期待されて首相に就任した後の東條が「自らの影」、陸相時代など首相就任前に自らが煽った強硬論に脅えていた、と論じます。本書の描く東條英機は、大日本帝国の統治機構をろくに理解しておらず、視野狭窄で意固地な器の小さい人物で、首相どころか師団長の器でさえなかった、との印象を受けます。正直なところ、本書は東條を過小評価しているのではないか、と思うのですが、東條が首相の器ではなかったことは否定できないでしょう。そうした人物が難局で首相に就任したことに、東條個人の力量だけではなく、大日本帝国とその軍部の問題も潜んでいるのだと思います。

『卑弥呼』第34話「ハシリタケル」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年3月5日号掲載分の感想です。前号は休載だったので、今回まで長く感じました。前回は、鬼八たちが平伏してヤノハを崇めているところで終了しました。巻頭カラーとなる今回は、今回は、ヤノハたちが捕虜とした鬼八荒神(キハチコウジン)とともに舟で千穂へと向かう場面から始まります。千穂への入口となる祭祀場では、残ったテヅチ将軍が、鬼八荒神の配下の者たちを武装解除させ、監視していました。ヤノハはオオヒコに、捕虜たちが抵抗しない限り何もするな、と命じていました。自分の言葉が届いた以上、もう山杜(ヤマト)の臣民である、というわけです。テヅチ将軍は日見子(ヒミコ)たるヤノハを慈悲深い方と、オオヒコは勇敢な方と言います。ヤノハが僅かな供を連れて鬼八荒神の本拠地に向かった、とオオヒコから聞いたテヅチ将軍は驚きます。ヤノハは当初、ミマト将軍とイクメとミマアキとクラトだけでよいと言っていましたが、オオヒコが説得して護衛6名が同行しました。少人数で大丈夫なのか、不安に思うテヅチ将軍に対して、ヤノハには人を魅きつける優しさと豪胆さに冷酷な戦術もあり、兵法を学んでいたとしか思えない、とオオヒコは言います。ヤノハは名だたる戦人の一族のような、高貴な出自なのだろう、とテヅチ将軍は考えます。

 那(ナ)国のウツヒオ王の砦である那城の門前では、トメ将軍の率いる軍勢が待機していました。都までの簡単な進軍だった、来た、見た、勝ったの心境だ、と呟きます。作者の読み切り作品である『さらばカエサル』(関連記事)を意識した台詞でしょうか。そこへウツヒオ王の近衛兵が来て、トメ将軍のみが王に呼び出されます。ホスセリ校尉はトメ将軍の身を案じますが、トメ将軍は王を信じている、と言って一人で向かいます。ウツヒオ王はまず、トメ将軍が大河(筑後川と思われます)を渡り暈(クマ)軍を敗走させたことを誉めます。ウツヒオ王は続いて、那の貴族・戦人・民全員が、トメ将軍が謀反を起こしたと信じ、姿を隠している、と伝えます。そのため、トメ将軍の凱旋のさい、道にも邑にも人がいなかった、というわけです。トメ将軍が、島子(シマコ)のウラが軍勢を率いて自分の首を狙っていると本気で疑っていた、と言うと、ウツヒオ王は、それが事実で、そのためにウラを謀反人と断じて、近衛兵の多くを討伐に差し向けた、と打ち明けます。ウラの兵の大半はウツヒオ王の側に戻り、僅かな手勢で都萬(トマ)に逃亡しました。都萬はウラ家と同じく、月読命を主神と崇めているからです。しかし、那から都萬に行くには暈と同盟関係にある穂波(ホミ)を通らねばならないので無理なのでは、とトメ将軍が疑問を呈すと、伺見(ウカガミ)の報告によると、一行は旅の楽団に化け、ウラは楽器箱(琴の入れ物)に身を潜めて国境を越えた、と答えます。ウラは生き残るためなら法も破るのか、と呟きます。

 ウツヒオ王はトメ将軍に褒美として、大夫の冠位を授け、大将軍に任命しようとしますが、不満そうなトメ将軍を見て、島子の地位が欲しいのか、と尋ねます。即座に肯定するトメ将軍に、島子になって何がしたいのか、とウツヒオ王は尋ねます。するとトメ将軍は、大陸に行って漢(後漢)の進んだ文明を一目見たい、と答えます。ウツヒオ王はトメ将軍に、島子に任命する条件として、暈との停戦を提示します。トメ将軍はウツヒオ王に、暈軍は強大なので、穂波・伊都(イト)・末盧(マツラ)と同盟を結んで互角になる、と進言します。しかし、その三国が同盟に同意するとは思えない、と答えます。そこでトメ将軍は、山社の王を名乗る日見子(ヤノハ)と手を組むよう、ウツヒオに提案します。ヤノハが生き残れそうなのか、ウツヒオ王に尋ねられたトメ将軍は、無類の兵法家なので日向(ヒムカ)は時間の問題と答えます。するとウツヒオ王、山社がまずもう一つの聖地である千穂に攻め入った理由を理解します。トメ将軍は、首尾よく「鬼」を退治すれば都萬も軍の派遣を躊躇するはずだ、とヤノハの選択に感心します。あとはその日見子(ヤノハ)が聖地の千穂に君臨するに値する血筋かどうかだ、とウツヒオ王は言いますが、ヤノハを実際に見ているトメ将軍は、ヤノハが高貴な血筋とはとても思えなかったのか、苦笑します。日見子が下賤の身ならば都萬は黙っていないぞ、とウツヒオ王は言います。

 千穂に到着したヤノハたちは、まず天照大御神の住まいらしき建物に礼拝した後、「鬼」とされてきた千穂の民の棲家である洞窟に到達します。千穂の女性たちが自分たちを警戒していることに気づいたミマアキは、我々はお前たちの王を捕えていると説明し、ヤノハを新たな日見子と紹介します。そり言葉を聞いて平伏する女性たちに、五瀬邑より人柱として連れ去られたのではないか、とヤノハは尋ねます。すると、一人の女性が、自分は妃のウノメで、捕虜となっている王は真の名を15代目ハシリタケルという、と答えます。鬼八荒神について問われたウノメは、話すので夫を返してもらいたいと要求し、ヤノハはハシリタケルを解放します。ハシリタケルは仮面を外し、精悍な顔が現れます。ウノメによると、はるか南方の海を彷徨っていた千穂の一族は16代前に筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に流れ着き、安住の地として千穂を選び、アララギの里と名づけたそうです。15代目(とウノメは言っていますが、15代前ということでしょうか?)の時、鬼八荒神よりも前にこの地を治めていたミケイリ王が帰還し、戦いは8年続いて鬼八荒神の一族は8人だけ残る敗北を喫しました。すると、ミケイリ王は降伏した8人をもてなし、サヌ王(記紀の神武と思われます)の帰還までこの地を侵す者すべてを根絶やしにするなら、命を奪わず居住を認める、と提案しました。鬼八荒神の一族のこれまでの蛮行はそのためだった、というわけです。サヌ王(四男)はミケイリ王(三男)の弟です。ハシリタケルは妻のウノメに耳打ちし、サヌ王の他に鬼八荒神の一族が服従してよいのは日向に残ったサヌ王の末裔のみ、とミケイリ王に命じられたが、日見子(ヤノハ)はその血筋なのか、と直接尋ねさせます。するとヤノハが、今まで隠していたが、自分こそはその昔日向に残ったサヌ王の末裔だと答えるところで、今回は終了です。


 今回は、那国の情勢と鬼八荒神の秘密が描かれました。那国では、ウツヒオ王が島子のウラを追討しましたが、ウラは島子としての地位をトメ将軍に奪われるのではないか、との疑念から那国にとって不利益となってもトメ将軍を敵視する、といった様子が見られましたから、ウツヒオ王の判断は妥当なところだと思います。ウツヒオ王は暗愚ではなかったわけで、それをトメ将軍も理解しているからこそ、ウツヒオ王と単独で面会したのでしょう。これまで、九州の各国の王が一通り登場しましたが、いずれも暗愚な王ではなさそうです。まあ、すでに鞠智彦(ククチヒコ)に殺された暈のタケル王は幼稚な人物でしたが、これも分不相応な日見彦(ヒミヒコ)の地位に祭り上げられて勘違いしてしまった、とも言えるわけで、鞠智彦が言っていたように、元々は賢い人だったのでしょう。当時はまだ、王となるには血筋だけではなく器量も重要だったのでしょう。ヤノハが山社建国に成功したら、九州の諸国がどう動くのか、楽しみです。『三国志』から予想すると、おそらく最終的には暈国以外は山社に従うのでしょう。

 鬼八荒神については、かなり謎が明かされました。鬼八荒神の一族は、琉球諸島もしくは台湾から九州に漂着したのでしょう。鬼八荒神一族の蛮行の理由も明かされました。鬼八荒神が従うのは日向に残ったサヌ王の末裔のみという条件も提示され、これはすでに示唆されていたので納得がいきますが、とてもサヌ王の末裔とは言えないヤノハがどのように鬼八荒神を納得させるのか、注目です。ヤノハは日向出身ではありますが、さすがにサヌ王の末裔ではなさそうです。鬼八荒神は、サヌ王の末裔か否か判断する何らかの手段を有しているでしょうから、相変わらずヤノハの危機は続いている、と言えるでしょう。ヤノハは日向の出身ながらサヌ王についてまったく知らなかったようですから、あるいは私が想像している以上の危機かもしれませんが、サヌ王に関する知識はすでにある程度得ているので、そこから大胆にこの危機を乗り越えるのでしょうか。『三国志』によると卑弥呼(日見子)は鬼道により人々を掌握した、とありますから、鬼八荒神を配下とすることは、本作でもかなり重要になるのではないか、と思います。創作歴史ものとしてここまではかなり面白くなっており、次回もたいへん楽しみです。

産業革命以前のメタンから示される人為起源のメタン排出

 産業革命以前のメタン排出に関する研究(Hmiel et al., 2020)が公表されました。大気中のメタン(CH4)は強力な温室効果ガスで、そのモル分率は産業革命以前の時代の2倍以上になっています。化石燃料の抽出と使用は、最大の人為的メタン排出源の一つですが、こうした寄与の正確な規模は議論になっています。炭素14のメタンを使って、化石メタン(炭素14を含まないメタン)の排出と同時期の生物起源の放出源とを区別できます。しかし、20世紀半ば以降、原子炉からの炭素14メタンの直接排出が充分に絞り込まれていないため、この方法は難しくなっています。

 さらに、人為的な排出源と天然の地質学的放出源(水溜りや泥火山など)の間での化石メタンの総排出量の分配については、議論が続いています。現在、年間172〜195Tg(テラグラム)です。排出インベントリーは、後者が総排出量の中で年間約40〜60Tgを占めている、と示唆します。約11600年前の更新世末期には、地質学的な放出は年間15.4Tg未満でしたが、この時期は陸域を大きな氷床が覆っており、海水準が低く、永久凍土が広範囲に及んでいたため、現在の放出と完全には類似していません。

 本論文は、産業革命以前の氷床コアの炭素14メタンの測定結果を用いて、当時の大気への自然な地質学的メタン放出量は年間約1.6 Tg 、最大で年間5.4 Tgと、現在の推定より1桁少なかった、と示します。この結果は、人為起源の化石メタン排出量が、年間約38~58 Tg、つまり最近の推定の25〜40%ほど過小評価されていることを示しています。この記録は、大気と気候に及ぼす人間の影響を浮き彫りにしており、全球のメタン収支のインベントリーの確固たる目標を与え、排出量削減目標の策定に役立ちます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


気候科学:産業革命以前の14CH4が示す、より大きな人為起源の化石CH4排出

気候科学:大気中のメタンに残されたヒトの痕跡

 メタンは強力な温室効果ガスであり、メタンの排出は地球温暖化全体の重要な要素である。しかし、メタン排出源の解明にはまだ問題が残っている。今回B Hmielたちは、氷床コアから得られた同位体の証拠を用いて、産業革命以前の天然のメタン排出源が、これまで考えられていたよりずっと小さかったことを示している。従って、人間が生み出すメタンの排出量は、これまで示唆されていたよりずっと多い。



参考文献:
Hmiel B. et al.(2020): Preindustrial 14CH4 indicates greater anthropogenic fossil CH4 emissions. Nature, 578, 7795, 409–412.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-1991-8

過去5万年間の鳥の渡り

 過去5万年間の鳥の渡りに関する研究(Somveille et al., 2020)が公表されました。多くの鳥類種は、気候の季節変動に応答して渡りをします。渡り行動は柔軟に変化し、たとえば、現在進行中の気候変動に対処するために渡りの経路を変えてしまった鳥類種もいます。これに対して、氷期は季節性がそれほどはっきりしないため、鳥類の渡りの重要性が現代と比べてはるかに低かった、と主張する仮説が提起されていました。

 この研究は、鳥類の渡りが過去5万年間続いていた可能性の高いことを明らかにしました。この研究で用いられたのは、エネルギー効率(資源の利用可能性と移動のエネルギーコストとの関係)に基づいて全世界の鳥類の季節的地理分布をシミュレートするモデルで、その妥当性の検証が、海洋鳥類以外の現生鳥類のほぼ全て9783種の既知の分布を用いて行なわれました。そのうえで、このモデルを過去の気候の再構築に適用してシミュレーションを行なったところ、2万年前頃になる最終氷期最盛期と現在の間氷期の間に大きな気候変化があったにも関わらず、全世界で鳥類の渡りが重要な役割を果たし続けた、と明らかになりました。

 一方、アメリカ大陸では最終氷期最盛期に渡りを行なった鳥類種の数は現在よりも少なかった、と明らかになっており、地域差もありました。しかし、世界全体では、鳥の渡りは最終氷期においても現在と同じくらい重要だった可能性がひじょうに高く、じゅうらいの見解よりも古くから起こっていた、とこの研究は指摘します。このシミュレーションは、鳥類の渡りが今後の気候変動にどのように応答するのかを予測するさいに一つの基準になる、と結論づけられています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:過去5万年間の鳥の渡りを再現するためのモデルを作成する

 過去5万年に及ぶ世界の鳥類の渡りパターンを再現する全球モデルが作成され、世界中の鳥の渡りは、最終氷期においても今と同じくらい重要だった可能性が非常に高いことが分かった。この新知見は、鳥の渡りが、これまで考えられていたよりも古くから起こっていたことを示唆している。この研究について報告する論文が、Nature Communicationsに掲載される。

 多くの鳥類種は、気候の季節変動に応答して渡りをする。渡り行動は、柔軟に変化し、例えば、現在進行中の気候変動に対処するために渡りの経路を変えてしまった鳥類種もいる。これに対して、氷期は、季節性がそれほどはっきりしないため、鳥類の渡りの重要性が現代と比べてはるかに低かったとする学説が提起されていた。

 今回、Marius Somveilleたちの研究チームは、鳥類の渡りが過去5万年間続いていた可能性の高いことを明らかにした。今回の研究で用いられたのは、エネルギー効率(資源の利用可能性と移動のエネルギーコストとの関係)に基づいて全世界の鳥類の季節的地理分布をシミュレートするモデルで、その妥当性の検証が、海洋鳥類以外の現生鳥類のほぼ全て(9783種)の既知の分布を用いて行われた。そのうえで、このモデルを過去の気候の再構築に適用してシミュレーションを行ったところ、最終氷期最盛期(約2万年前)と現在の間氷期の間に大きな気候変化があったにもかかわらず、全世界で鳥類の渡りが重要な役割を果たし続けたことが明らかになった。一方、注目すべき地域差も判明しており、例えば、北米・中南米では、最終氷期最盛期に渡りを行った鳥類種の数が、現在よりも少なかった。

 今回のシミュレーションは、鳥類の渡りが今後の気候変動にどのように応答するのかを予測する際に1つの基準となる、とSomveilleたちは結論付けている。



参考文献:
Somveille M. et al.(2020): Simulation-based reconstruction of global bird migration over the past 50,000 years. Nature Communications, 11, 801.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-14589-2

Robin Dennell「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文は、中国を中心としたアジア東部における現生人類(Homo sapiens)の起源、つまり現生人類がいつアジア東部に到来したのか、という問題を取り上げています。これに関しては、現生人類の拡散は1回だけで、6万年前頃にアフリカから拡散し始め、アジアやオーストラリアへ一気に拡散した、という見解と、主要な拡散は2回あり、最初は10万年前頃、2回目は6万年前頃だった、という見解が提示されています。

 本論文はまず、アジア東部の環境を取り上げます。中国の自然環境は南北に二分されます。北部は旧北区の亜乾燥地域で、南部は降水量が多く、典型的な亜熱帯・熱帯の植生が広がっています。もちろん、これは現代の気候ですが、中国は過去250万年の古気候記録も豊富で、人類拡散の研究に役立っています。本論文では、現生人類のアジア東部への拡散と関わってくる、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5および4の植生復元図が掲載されており、温暖なMIS5では現在とさほど変わらない地形ですが、寒冷なMIS4(MISは奇数が温暖期、偶数が寒冷期)では、砂漠が拡大するとともに、海水面の低下により陸地が増大し、現在とは大きく異なる地形であることが改めて了解されます。温暖で湿潤な時期には中国北部では砂漠が縮小し、西方や北方からの移住が容易となった一方で、中国南部では密集した森林の発達により移住はやや困難となります。逆に寒冷期には、南部への移住は容易になるものの、北部では北方や西方からの移住は拡大した砂漠により困難となります。中国への南方からの移住は、難易度の違いはあれどもどの時期にも可能だったのに対して、北方への移住は温暖な時期にのみ可能だったことになります。こうした人類の移住パターンは過去50万年以上にわたって繰り返されていただろう、と本論文は指摘します。

 黄土高原の気候復元データからは、過去50万年に温暖湿潤な時期は4回あった、と明らかになっています。この時期の中国北部の人類遺骸としては、MIS7における遼寧省営口市の金牛山(Jinniushan)遺跡や陝西省渭南市の大茘(Dali)遺跡の頭蓋骨があります。年代は、大茘人の方がやや新しい20万年前頃と推定されています。本論文は両者をハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)と分類していますが、ハイデルベルゲンシスという分類群には大きな問題があると思うので(関連記事)、とりあえず非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と考えておきます。

 本論文は、中国北部で確認されているホモ・エレクトス(Homo erectus)は金牛山遺跡や大茘遺跡の古代型ホモ属の祖先ではない、という見解を採用しています。中国北部の河北省張家口市陽原県の許家窯(Xujiayao)遺跡のホモ属遺骸(関連記事)については、33万年前頃、20万~16万年前頃、16万年前頃よりもずっと新しいなど、年代が確定していませんが、分類も難しい、と本論文は指摘します。エレクトスでもハイデルベルク人でもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でもなく、交雑系統かもしれない、と本論文は推測しています。河南省許昌市(Xuchang)霊井(Lingjing)遺跡で発見された、MIS 5となる125000~105000年前頃の頭蓋骨(関連記事)について本論文は、在地の古い集団から連続する特徴とネアンデルタール人的特徴とが混在していることから、交雑の可能性を指摘しています。このように、現生人類が中国に拡散してきた時、すでに異なる系統のホモ属が存在しており、交雑が起きた可能性も考えられます。

 早期現生人類の証拠としてアジア南東部で挙げられているのは、ラオスのフアパン(Huà Pan)県にあるタンパリン(Tam Pa Ling)洞窟遺跡(関連記事)、ボルネオ島のニア洞窟群(Niah Caves)遺跡、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡(関連記事)です。このうち、現生人類の痕跡として最古となりそうなのは、73000~63000年前頃の現生人類の歯が発見されているリダアジャー遺跡ですが、疑問も呈されています(関連記事)。タンパリンの現生人類遺骸の推定年代は63000~44000年前頃です。ニア洞窟では45000年前頃の現生人類頭蓋骨が発見されており、熱帯雨林における適応の最古級の事例という点で注目されます。なお、ニア洞窟では10万年以上前の人類の痕跡も報告されています(関連記事)。

 中国南部では、広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)で10万年以上前とされる現生人類の下顎骨と歯が発見されています(関連記事)。これは在地の人類集団と外来の現生人類との交雑集団である可能性も指摘されています。また本論文は、これが単に新しいホモ・エレクトス(Homo erectus)である可能性も提示しています。さらに、この智人洞窟の人類遺骸については、年代に疑問が呈されています。年代は洞窟の床面の一部に堆積したフローストーン(流華石)に基づいていますが、数cmの幅に密集して堆積した流華石の最上部が55000年前頃、最下部が10万年前頃と推定されており、どの部分が下顎骨と関連しているのか決定するのは不可能だろう、というわけです。湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)では、10万~8万年前頃の現生人類の歯が48本発見されています(関連記事)。福岩洞窟では床面全体が8万年前頃の流華石に覆われており、中国南部には8万年前頃に現生人類が到来していたことになります。しかし本論文は、現生人類の歯が出土した層の形成過程について、さらに詳細に調査されるべきである、と慎重な姿勢を示します。

 このように、中国南部には10万~8万年前頃に現生人類が到来していた可能性もあるものの、その年代についてはまだ議論の余地があるようです。雲南省の馬鹿洞(Maludong)遺跡では、14310±340~13590±160年前のホモ属遺骸が発見されています(関連記事)。馬鹿洞人には祖先的特徴も見られ、未知のホモ属系統である可能性も指摘されていますが、山間盆地の点在する環境なので、非現生人類種とは言えないまでも孤立した集団ではないか、と本論文は指摘しています。モンゴル国東部に位置するヘンティー(Khentii)県ノロヴリン(Norovlin)郡のサルキット渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950~33900年前頃の頭蓋に関しては、祖先的特徴が指摘されていますが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では現生人類の変異内に収まる、と明らかになっています(関連記事)。本論文は、形態から種を決定するのは難しくなってきており、また現生人類とネアンデルタール人との交雑集団をどう区分すべきなのか、といった問題が生じてきている、と指摘します。

 中国北部は、現生人類の到来を検証するうえで重要となる8万~3万年前頃には、砂漠と草原との間の変化が何回も起きていたように、ひじょうに不安定な気候だった、と明らかになっています。中国北部では、さらに北方からの人類移住の証拠も見られ、防寒性の高い服がすでに使用されていたことを示唆します。チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡では4万~3万年前頃の現生人類のものと思われる石器群が発見されており(関連記事)、これも当時の人類の寒冷適応を示しています。内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟遺跡では47000~37000年前頃のムステリアン(Mousterian)石器群が発見されており(関連記事)、本論文はその製作者を、ネアンデルタール人もしくはネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑集団と推測しています。

 中国北部において確実な現生人類の痕跡として最古のものは、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類の下顎と足の骨で、石器の共伴はありませんが、形態学でも遺伝学でも現生人類に分類されています(関連記事)。田园洞窟の現生人類男性は日常的に履物を使用していた、と推測されています(関連記事)。北京市房山区の周口店(Zhoukoudian)遺跡では現生人類の頭蓋骨と、ヨーロッパの上部旧石器時代初頭のものとよく似たビーズが発見されており、年代は36000年前頃と推定されています。

 寧夏回族自治区の水洞溝1遺跡では、4万年前頃の上部旧石器時代初頭の石器群が発見されており、少なくとも2種類の石刃剥離工程を示すものも含まれ、モンゴルやシベリアの同時代石器群と対比されていますが、中国南部の石器群とは大きく異なります。水洞溝2遺跡では、36000~28000年前頃にかけて断続的にヒトが居住した、と推測されています。水洞溝2遺跡の石器群や装身具はシベリアで発見されたものとよく似ています。中国北部の早期現生人類と関連していると推測される考古学的記録はモンゴルやシベリアのそれとの共通性が高く、中国南部と異なっていますが、これは上述の自然環境の違いを反映しているようです。25000年前頃以降には、中国北部に細石刃石器群が出現し、シベリアやモンゴルや朝鮮半島や日本列島北部でも発見されていることから、北方からの移住は繰り返されていた、と示唆されます。中国北部への現生人類の拡散は、水洞溝1遺跡のような大型石刃石器群を有する集団、次に水洞溝2遺跡のような小型石刃石器群を有する集団、その次に細石刃石刃石器群を有する集団の3回ほどあっただろう、と推測しています。

 本論文は、以上のように中国における人類史は複雑で、それは広大な面積と多様な自然環境に起因する、と指摘します。中国には、現生人類の到来前に他の人類がすでに存在していました。本論文は、上述の金斯太洞窟遺跡の事例から、現生人類が中国北部の環境に適応できた一因として、ネアンデルタール人もしくはネアンデルタール人とデニソワ人の交雑集団から技術を学んだ可能性すら考慮すべきである、と指摘します。中国を含めてアジア東部への現生人類の拡散は、以前の想定よりもずっと複雑だったようで、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Dennell R. 、西秋良宏翻訳(2020)「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第3章P95-126

西秋良宏「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文はまず、現生人類がアフリカからアジアへ拡散前に存在したアジアの先住人類を取り上げています。その代表格というか最もよく知られているのはネアンデルタール人で、東方ではアルタイ地域まで拡散したことが確認されています。これは北方でのことで、南方では、現在のパキスタンとインドあたりまでネアンデルタール人の用いたムステリアン(Mousterian)石器が確認されています。ただ、パキスタンとインドでは明確なネアンデルタール人遺骸は確認されていません。また本論文は、ムステリアン石器が中華人民共和国内モンゴル自治区で発見されていることから(関連記事)、ユーラシア北方ではアジア東部までネアンデルタール人が拡散した可能性も指摘しています。

 本論文は、ヨーロッパで進化したネアンデルタール人がアジアにまで拡散した一因として、7万~5万年前頃となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)4の寒冷乾燥化を挙げています。ただ、本論文が指摘するように、アルタイ地域ではMIS4よりも前のネアンデルタール人の存在が確認されています。そこで本論文は、ネアンデルタール人の東方への拡散は少なくとも2回あった、と指摘します。本論文はその考古学的証拠として、MIS5にさかのぼるネアンデルタール人の存在が確認されているアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の石器群と、近隣のチャグルスカヤ(Chagyrskaya)洞窟やオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟の石器群とが異なることを挙げています。どちらもルヴァロワ技術を用いていたものの、チャグルスカヤ洞窟やオクラドニコフ洞窟では表裏非対称な両面加工の削器が頻用されていたのに対して、デニソワ洞窟ではそれが見られません。両面加工削器は、ヨーロッパでは中部旧石器時代後半のヨーロッパ中部および東部で流行したカイルメッサーグループ(Keilmessergruppen)に固有です。チャグルスカヤ洞窟やオクラドニコフ洞窟のネアンデルタール人は、ヨーロッパ中部および東部のカイルメッサーグループ集団がアルタイ地域にまで拡散してきたのに対して、デニソワ洞窟のネアンデルタール人はカイルメッサーグループが流行する前のヨーロッパ、もしくは流行していなかったヨーロッパから到来したのだろう、というわけです。ヨーロッパからアルタイ地域への移動で障壁になりそうなのはウラル川ですが、ウラル川が縮小した乾燥期にネアンデルタール人は渡河したのだろう、と本論文は推測します。本論文のこうした見解は、今年(2020年)公表された研究でも支持されており、ユーラシア草原地帯をネアンデルタール人は東進したのだろう、と推測されています(関連記事)。

 アジアの非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)としてはネアンデルタール人が有名ですが、2010年に初めて存在の確認された古代型ホモ属が、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)です。デニソワ人はまずデニソワ洞窟でその存在が確認され、ネアンデルタール人と近縁な系統で、現生人類やネアンデルタール人との交雑が確認されています(関連記事)。アジア東部には種区分の曖昧な中期~後期更新世のホモ属遺骸が少なからずあるので、それらの中にデニソワ人に分類できるものがある可能性は低くなさそうです。

 現生人類がアフリカからアジアへと拡散していった時期には、ホモ・エレクトス(Homo erectus)がまだ存在していた可能性もあります。アジア南部の十数万年前頃のホモ属遺骸の分類に関してはまだ議論が続いていますが、エレクトスも用いた握斧がアジア南部では13万年前頃まで使われており、中部旧石器の出現がその頃以降なので、現代人の主要な祖先集団ではないとしても、最初期の現生人類がアジア南部でエレクトスと遭遇した可能性も考えられます。

 アジア南東部では、エレクトス系統と考えられる(異論は根強いというか、むしろやや優勢かもしれませんが)人類が後期更新世まで存続していました。フローレス島においては5万年前頃までホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が存続し、ルソン島では67000~50000年以上前と推定されているホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)が存在していました(関連記事)。これらのホモ属は、現生人類と遭遇した可能性があります。フロレシエンシスの場合は、アジア南東部やオセアニアの現代人の主要な祖先集団が拡散してきた頃まで存在が確認されているので、あるいは現生人類との遭遇が絶滅の主因だった可能性もじゅうぶん考えられます。本論文は、アジア南部および南東部はアジア西部やヨーロッパや日本列島と比較して考古学の調査密度が格段に低いことから、今後も驚異的な発見がなされる可能性は高い、と指摘します。

 人類遺骸・考古学・遺伝学の証拠から、6万~5万年前頃以降に現生人類がアジア各地に本格的に拡散していったことはほぼ確実とされています。一方、その前の20万年前頃にも現生人類はアジア西部まで拡散していました。本論文は、6万年前頃よりも前の現生人類のアフリカからの拡散を第一次出アフリカ、それ以後の拡散を第二次出アフリカと呼んでいます。第一次出アフリカで現生人類は現在のギリシアまで拡散していたようですが(関連記事)、それよりも西方のヨーロッパ地域にまで拡散していた証拠はまだありません。東方への拡散に関しては、ヒマラヤ山脈の北方を通りアジア中央部から北東部へと拡散する経路と、南方を通りアジア南部から南東部へと拡散する経路が考えられます。

 北方経路に関しては、第一次出アフリカの確実な証拠はまだありません。近年、これに関して注目されているのは、ウズベキスタンのオビラハマート(Obi-Rakhmat)洞窟の人類遺骸です。じゅうらい、その年代は中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期となる5万年前頃と推定されていましたが、2018年に11万~10万年前頃と報告されています。以前から、オビラハマート洞窟の少年の歯はネアンデルタール人的である一方で、頭蓋断片はネアンデルタール人的特徴と現生人類的特徴とが混在している、と指摘されていました(関連記事)。本論文は、この少年遺骸と共伴する石器群が、アジア西部で最古となる19万~18万年前頃の現生人類的遺骸が発見されているミスリヤ洞窟(Misliya Cave)の石器群(関連記事)と類似していることに注目しています。

 類似した石器群は、ウズベキスタンのホジョケント(Khodjakent)遺跡でも発見されています。中部旧石器時代前期となるこれらの石器群は、イスラエルのタブン(Tabun)洞窟の層位的証拠に基づいてタブンD型と呼ばれています。タブンD型石器群はアジア西部および中央部だけではなく、ジョージア(グルジア)のデジュルジュラ(Djruchula)洞窟でも発見されており、年代は20万年以上前と推定されています。デジュルジュラ洞窟ではホモ属の歯が1点発見されており、ネアンデルタール人と推定されています。アジア西部のタブンD型石器群は25万~10万年前頃と推定されています。本論文は、オビラハマート洞窟とデジュルジュラ洞窟のホモ属遺骸がともにネアンデルタール人だとすると、アジア西部の現生人類とは独立して類似したタブンD型技術を発展させたか、アジア西部の初期現生人類集団と交雑も含めた交流があったかもしれない、と指摘します。さらに東方となると、中国北東部ではタブンD型もその後のルヴァロワ技術で幅広剥片を多産するタブンC型も発見されていません。そのため本論文は、第一次出アフリカの北方経路に関しては、仮にあったとしても、アジア東部にまでは到達しなかっただろう、と指摘します。

 南方経路に関しては、アフリカの初期現生人類の石器と類似した石器がアラビア半島やアジア南部で発見されていることと、アジア南東部やオセアニアで5万年前以前の現生人類の痕跡が報告されていることから、以前より可能性が高いと主張されていました。12万~10万年前頃と推定されているアラビア半島南部のジェベルフアヤ(Jebel Faya)遺跡C層では、アフリカ東部の初期現生人類に好まれていた両面加工石器(下部旧石器時代の握斧とは異なり、細長い形態も含まれます)が発見されました。同時代のアフリカ北東部で流行していたヌビア型との類似性を指摘するアラビア半島南部の石器群も報告されています。本論文は、この両面加工石器の存在から、現在のイラン南部やパキスタンあたりまで初期現生人類が拡散していた可能性を指摘します。また、パキスタンのタール渓谷では、ヌビア型石核剥離技術の石器が報告されています。

 インド東部中央のジュワラプラム(Jwalapuram)遺跡では、タブンC型に類似したルヴァロワ技術が確認されており、これもアジア南部への現生人類拡散の根拠とされています。昨年(2019年)、インドのサンダヴ(Sandhav)遺跡の11万年前頃のルヴァロワ石器群が報告されており(関連記事)、南方経路での第一次出アフリカのさらなる証拠と言えるかもしれません。ただ本論文は、アジア南部のこれら中部旧石器時代の石器群について、どれも確実とは言えない、と指摘します。アジア南部の両面加工石器群はどれも表面採集で年代が確定的ではなく、ジュワラプラム遺跡の74000年前頃よりも古い層では、両面加工石器やヌビア型石器は発見されていない、というわけです。南方経路に関しては、アジア南部で確定的な証拠が発見されていなくとも、さらに東方のアジア南東部やオセアニアで発見されていれば確証される、とも言えそうです。これに関しては、オーストラリアやスマトラ島などで6万年以上前の現生人類の痕跡が主張されていますが、それらの年代には疑問も呈されています(関連記事)。

 第二次出アフリカの証拠は一気に増え、考古学的な時代区分では上部旧石器時代初頭となります。その特徴は、中部旧石器時代のルヴァロワ方式の伝統を残しながら石刃を生産する石核剥離技術です。そうした石器群がアルタイ地域のカラボム(Kara-Bom)遺跡で発見されており、年代は47000~45000年前頃と推定されています。当初、この石器群は在地における中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行と解釈されていましたが、現在では、西方からの集団の拡散とする見解の方が有力なようです。類似した石器群はモンゴルのトルボル(Tolbor)遺跡で発見されており、年代は45000年前頃と推定されています。類似した石器群は、東方では中華人民共和国寧夏回族自治区の水洞溝遺跡まで広がっており、年代は4万年以上前と推定されています。上部旧石器時代初頭の石器群は50000~47000年前頃にレヴァントで出現したと推測されており、数千年で中国西部まで拡散したことになります。ただ、レヴァントとアルタイ地域の間のイラン北部やアジア中央部西方では、まだ発見されていません。チェコでは類似した石器群が発見されているので、ユーラシア北方草原地帯経由だったかもしれません。

 以上は北方経路でしたが、南方経路では、イラン南部での最古の上部旧石器こそ4万年前頃までしかさかのぼりませんが、そのずっと東方のアジア南東部やオセアニアでは、同じ頃かややさかのぼる頃の現生人類の痕跡が確認されています。たとえば、オーストラリアのウィランドラ湖群(Willandra Lakes)地域のマンゴー湖(Lake Mungo)やボルネオ島のニア洞窟群(Niah Caves)では4万年前頃の現生人類遺骸が発見されています。現生人類がどのようにアフリカやアジア西部からユーラシア南東部やオセアニアにまで到達したのかという問題で、本論文はインドのパトネ地方の遺跡群で発見されている半月形の幾何学石器群に注目しています。類似した6万数千~5万年前頃の石器群が、タンザニアのムンバ(Mumba)岩陰遺跡や南アフリカ共和国のクラシーズ(Klasies)河口遺跡群などで発見されていることから、アフリカからアジア南部への直接的な拡散の可能性も指摘されています。また、ダチョウの卵殻で造られたビーズや線刻製品なども、アフリカとインドで発見されています。ただ本論文はこの仮説の難点として、両地域の中間地帯となるアラビア半島南部で類似した石器群が発見されていないことを挙げています。アラビア半島南部のジェベルフアヤ遺跡では、上述のように12万~10万年前頃の石器群が発見されていますが、4万年前頃の層では、幾何学石器とは大きく異なる剥片主体の石器群が発見されています。アフリカとインドの幾何学石器については、現在では水没した地域に痕跡が残っている、との見解もありますが、収束進化との見解の方が有力なようです。

 考古学と人類化石の証拠からは、アフリカからアジアへの拡散は20万年前頃よりしばしばあったものの、最も成功したのは6万~5万年前頃以降の拡散と考えられ、それはゲノム分析とも整合的です。その理由として、現生人類の認知能力が変異により飛躍的に進化史、象徴能力や短期記憶や学習能力が格段に高度になったから、との見解が提示されています。これは主に、現生人類と古代型ホモ属との考古学的記録の比較に基づいています。両者の間で最も目立つのは社会活動に関する遺構や遺物で、アジア西部に当てはまるとされていますが、北回り・南回りを問わず、他のアジア地域でも同様です。たとえば、集団内もしくは集団間の絆を示すような装身具や、洞窟壁画や、遠隔地素材を用いた道具などです。一方、ネアンデルタール人が装飾品を用いた事例もありますが、限定的です。ただ本論文は、こうした行動に関する証拠は、生得的な認知能力だけではなく、生まれ育った社会の歴史や文化、また選好や自然環境などにより変わることから、認知能力の飛躍的な進化を考古学的証拠のみで検証することに慎重です。

 本論文はこの問題との関連で、現生人類の拡散において、北回りではアジア西部、中でもレヴァントの石器製作技術が中国北部にまで及んでいた一方で、南回りではそうした明瞭な広域的類似が考古学的記録に見られない、と指摘します。これは研究進展度の違いに起因しているかもしれないものの、北と南の生態環境の違いを反映しているのではないか、と本論文は指摘します。生態環境によりヒトの生存戦略は違ってくるだろう、というわけです。北回りでも南回りでも温帯が中心ですが、北回りは寒帯と亜寒帯、南回りは熱帯と亜熱帯にも広がっています。

 北回りで現生人類遺跡の密集域は天山・ヒマラヤ山脈とその北縁の草原地帯と山麓地帯で、「シルクロード」ともほぼ重なり、更新世においても移動しやすい経路だったと考えられます。東西方向の移動は、類似した自然環境である場合が多く、一般的に南北方向の移動よりも容易です。北回りの現生人類集団の技術的特徴は石刃製作で、これは細長く規格的なので携帯性が優れていたからではないか、と本論文は推測しています。北回りでは資源密度が低く、単位集団あたりの領域は広かったと考えられるので、長距離移動を強いられる条件下では、携帯性に優れた道具が有利だった、というわけです。また、石刃は原石を有効に活用できることも利点だった、と本論文は指摘します。こうした石刃は槍に利用されていたと考えられ、さらに投槍器が用いられていた可能性もあります。

 一方南回りでは、アジア南部において、第二次出アフリカの痕跡を示す石刃石器群の分布が途絶えます。さらに、第一次出アフリカの痕跡も、ネアンデルタール人の痕跡も、アジア南部で途絶えます。本論文はその理由として、生態環境の違いによる適応技術の変更を挙げています。南回りでは、東西方向の移動とはいえ、モンスーン地域への適応を必要としました。アジア西部が地中海からの湿気による冬雨地域であるのに対して、アジア南部以東は日本列島と同じく大洋性の夏雨地帯で、夏は高温多湿で森林も発達しています。狩猟対象となるのも、ガゼルやロバなど草原性の動物から、スイギュウやサルや昆虫など大小さまざまな森林性動物へと変わります。また南回りでは、海洋や島嶼環境への適応も求められました。南回りでは、多様な技術を反映して、北回りよりもずっと現生人類拡散の考古学的証拠を見つけにくくなっています。また、アジア南東部以東で目立つのは特徴をとらえにくい剥片製の不定形石器で、中国南部では鋸歯縁をつけた不定形石化が目立つとされますが、中部旧石器時代の石器群と明瞭な違いを示すわけではないため、現生人類到達の指標とはしにくい、と本論文は指摘します。アジアのモンスーン地帯での現生人類の適応に関しては、民族誌から有機質の材料、とくに竹が石器の代替品とされていた可能性が指摘されています。ただ本論文は、竹を利用できたから現生人類がアジアのモンスーン地帯で成功した、というような見解には慎重で、古代型ホモ属も竹を利用できたはずと指摘します。また本論文は、南回りでの特徴として、島々へ渡海する技術や貝製釣り針を活用した釣魚技術などの開発を挙げています。現生人類の第二次出アフリカにおいて、南回りは斉一的な技術展開の北回りとは異なり、地域によりきわめて多様な適応が進みました。

 こうした石器技術の地理的差異は、すでに現生人類出現前の下部旧石器時代(サハラ砂漠以南のアフリカでは前期石器時代)に見られました。両面加工石器である握斧(ハンドアックス)は、アフリカやヨーロッパでは多数発見されていますが、アジア南東部以東ではめったに見られません。アジア南東部以東では、握斧以前の石器技術が長く用いられ続けました。この違いについては、開けた草原地帯と植生豊かな森林地帯とでは、社会の在り様、さらには文化の創造と伝達過程が異なったのではないか、との見解も提示されています。西方の草原地帯では、資源がオアシスなど特定地域に偏在する傾向にあり、ライオンなどからの捕食圧もあるので、比較的大きな集団での生活が有利だったのに対して、アジア南東部などの温暖森林では、どこでも一定の資源が得られ、捕食圧も低いため、集団が分散して少人数での生活が可能だった、というわけです。さらに、集団規模が大きいと社会学習が有効に機能するため複雑な技術も継承されやすく、確固たる石器製作技術伝統が発展する一方で、単位社会あたりの人口が少ないと、伝統を維持するよりは個体学習により地域的な文化を生み出す可能性が高くなる、との見解も提示されています。これは現生人類拡散前の地域的な石器技術の違いに関する説明ですが、現生人類についても示唆を与えるものと本論文は評価しています。


参考文献:
西秋良宏(2020A)「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第2章P53-94

門脇誠二「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文は、現生人類(Homo sapiens)がアフリカからアジア西部へと拡散した頃の考古記録を取り上げています。アジア西部は、アフリカ起源の現生人類がアフリカ外へと最初に拡散した地域で、現生人類とは異なる系統のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺骸も発見されているため、遺伝的・文化的な両者の相互作用という観点からも大いに注目されています。

 アジア西部で最古となる現生人類候補の化石はレヴァントで発見されており、年代は19万~18万年前頃ですが(関連記事)、現時点で発見されているネアンデルタール人遺骸はこれよりも後となります。ネアンデルタール人遺骸はレヴァントで7万~5万年前頃にも確認されており、現生人類が一度拡散した地域に後からネアンデルタール人が再度拡散してきた事例は、現時点で化石記録ではアジア西部、とくにレヴァントだけです。本論文は、アジア西部にネアンデルタール人が拡散してきた時、現生人類がレヴァントにいなかった(アフリカへ撤退もしくは絶滅)可能性と、共存していた可能性を提示しています。レヴァントではイスラエルのマノット洞窟(Manot Cave)55000年前頃の現生人類遺骸が発見されており(関連記事)、この頃にネアンデルタール人と現生人類が交雑したと推測されているだけに、注目されます。5万年前頃以降になると、アジア西部で明確なネアンデルタール人遺骸は発見されておらず、現生人類遺骸のみが確認されていることから、アジア西部のネアンデルタール人は絶滅し、現生人類のみが人口を増加させ、アジア西部に定着した、と考えられます。

 現生人類のアフリカからアジア西部への拡散については、気候変動との関連が指摘されています。13万~7万年前頃となる洋酸素同位体ステージ(MIS)5には何度か、アフリカ北部からアラビア半島にかけての広大な砂漠地帯も「緑化」したと明らかになっており、サハラ砂漠以南のアフリカと類似した気候になったことから、現生人類がアフリカから拡散したのではないか、と考えられます。類似した環境では行動や技術が大きく変わる必要なく、じっさい、この時期のアラビア半島のジェベルフアヤ(Jebel Faya)遺跡C層やドファール地域の石器は、同時代のアフリカ東部から北東部の石器と形態や製作技術が似ている、と指摘されています(関連記事)。具体的には、両面加工の木葉形の石器やヌビア型ルヴァロワ(Levallois)方式と分類される剥片石器です。

 一方レヴァントではタブン(Tabun)C型というレヴァント独自の石器技術が見られるものの、同時代のアフリカ北東部で流行していたヌビア型との類似性を指摘する見解もあります。当時のレヴァントは、湿潤化したアラビア半島とは気候変動パターンが異なり比較的乾燥しており、石器技術はその違いを反映しているかもしれない、と本論文は指摘します。本論文は、アラビア半島からレヴァントにかけて拡散した初期現生人類集団は、ずっと安定した好適環境にいたわけではなく、しばしば生じた気候変動に応じて再移動したり技術を変えたりする必要があり、また集団構造による文化伝達の相違も技術変化の要因だったかもしれない、と指摘します。

 このように中部旧石器時代前期~中期にかけて現生人類がアジア西部へと初めて拡散しますが、中部旧石器時代後期にはネアンデルタール人が増加し、現生人類は減少したと考えられています。ネアンデルタール人はヨーロッパで進化史、アジア西部へと南下してきたようです。MIS4に地球規模の寒冷化があり、アフリカやアジア西部よりも高緯度のヨーロッパではその影響が強かったでしょうから、ネアンデルタール人は南下してきたのではないか、というわけです。そのため、アジア西部における現生人類の分布は縮小したと考えられるものの、アフリカではネアンデルタール人遺骸は発見されていないので、ネアンデルタール人の南下はアジア西部のどこかで止まったはずです。本論文は、当時アラビア半島からアフリカ北部にかけては寒冷化の影響で乾燥帯が広がっていた一方で、レヴァントは死海堆積物の分析から比較的湿潤だったと明らかになっているので、乾燥帯がネアンデルタール人の南下の障壁になった、と推測しています。一方、アジア西部における現生人類の分布が縮小したのは、気候変動とネアンデルタール人の侵入の両方が関わっており、現生人類はナイル川流域やアラビア半島南西部やレヴァントといった退避地にのみ分布していた可能性がある、と本論文は指摘します。当時レヴァントでは、ネアンデルタール人と現生人類が遭遇した可能性も充分あった、というわけです。

 当時、ネアンデルタール人も現生人類もルヴァロワ方式を用いて石器を製作していました。ルヴァロワ方式では大きく定形的な剥片を製作できますが、レヴァント地方のルヴァロワ方式の特徴は、三角形のポイントが多いことです。食性についても、ネアンデルタール人と現生人類の間で大きな違いはなかったようで、ともに主要な狩猟対象は、オーロクスやアカシカといった大型有蹄類の他は、ノロジカやダマジカやロバやガゼルなどの小型有蹄類でした。また、捕まえやすいカメやトカゲなどの小動物も利用され、海岸部の遺跡では貝を食べていた痕跡も確認されています。有蹄類の狩猟では、身体の大きい成獣が主要な標的とされていました。植物では、マメ類が利用されています。埋葬もレヴァントのネアンデルタール人と現生人類の両方で見られ、またともに動物の角や骨といった副葬品を伴う場合もあります。

 このように、中部旧石器時代のレヴァントにおけるネアンデルタール人と現生人類の行動様式には共通点が多く見られますが、違いの一つは貝製ビーズの利用で、現時点ではスフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)という現生人類の洞窟遺跡でしか見つかっていません。これをネアンデルタール人と現生人類の象徴能力の差と考える見解もありますが、同時代のヨーロッパのネアンデルタール人が装飾品を残した事例も確認されており(関連記事)、本論文は、中部旧石器時代の現生人類とネアンデルタール人の行動様式は、違いよりも共通点の方が多かった、と推測しています。

 このように、アジア西部では10万年以上にわたってネアンデルタール人と現生人類とが共存していた可能性もありますが、最終的にはネアンデルタール人は消滅しました。レヴァントにおける最後のネアンデルタール人遺骸の年代は、現時点では5万年前頃です。上述のようにイスラエルのマノット洞窟では55000年前頃の現生人類遺骸が発見されているので、アジア西部においてネアンデルタール人が消滅した頃、現生人類が存在していたとしても不思議ではありません。ネアンデルタール人の消滅と現生人類の運命を分けた要因は、高い関心を集めています。本論文はまず、ネアンデルタール人および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先系統が現生人類系統と50万年以上前に分岐して以降、ネアンデルタール人とデニソワ人の系統は人口が減少し続けたと推定されている(関連記事)、という長期的な人口動向を指摘します。アジア西部でのネアンデルタール人の消滅も長期的な人口減少の結末だった、というわけです。ただ、この長期的な人口史については、異論も提示されています(関連記事)。

 また本論文は、現生人類の方も20万年前頃から5万~4万年前頃にかけて個体数が減少しており、それは非アフリカ系集団において強く認められる一方で、この時期に世界中に現生人類が拡散していったことに注目しています。そのため本論文は、当時のユーラシアでは現生人類にとってもデニソワ人やネアンデルタール人のような古代型ホモ属にとっても個体数の維持は難しく、それは、気候変動による資源環境の変化や、拡散先での新たな環境への対応や、拡散のために集団が細分化したことなどが背景にあるのではないか、と推測しています。長期的な人口減少が現生人類にも古代型ホモ属にも見られ、そのピークが5万~4万年前頃だったとすると、古代型ホモ属は「絶滅」に至り、現生人類は「ボトルネック(瓶首効果)」ですんだおかげで現代も存続している、と本論文は指摘します。

 本論文は5万~4万年前頃に現生人類と古代型ホモ属で運命が分かれた理由を、考古学的に検証しています。ネアンデルタール人が消滅した5万年前頃のアジア西部では、ハインリッヒイベント(HE)5による大規模な寒冷化が明らかになっています。これをネアンデルタール人消滅の要因とする見解もありますが、実際にどの程度生物相に影響を与えたかについては、論争が続いています。たとえば、アジア西部における最後のネアンデルタール人遺骸が発見されているイスラエル北部のアムッド洞窟(Amud Cave)では、5万年前頃になっても小動物骨の構成に大きな変化はなく、シリアのデデリエ(Dederiyeh)洞窟では、乾燥化したのではなく、逆に湿潤化したと解釈されるような証拠も見つかっています。ただ、イスラエル北部のケバラ(Kebara)洞窟では、ネアンデルタール人と関連している層で新しくなるほど、大型有蹄類の比率が減少し、小型有蹄類でも若齢個体の比率が増加しており、頭蓋比率の減少から狩猟場が遠くなったと推測されていることから、気候変動による動物資源の変化が指摘されています。ただ、長年の狩猟により動物資源が枯渇した可能性も提示されています。現時点では、ネアンデルタール人が絶滅した頃のレヴァントの気候や資源環境について、まだ合意は形成されていないようです。

 アジア西部でネアンデルタール人が消滅した頃、上部旧石器時代が始まります。この大きな考古記録の変化に伴い、ネアンデルタール人の遺骸は発見されなくなり、現生人類遺骸のみが発見されるので、上部旧石器文化の担い手は現生人類のみと考えられています。ヨーロッパやアジア北部では、中部旧石器が古代型ホモ属、上部旧石器が現生人類と考えられてきましたが、アジア西部では中部旧石器文化の担い手がネアンデルタール人と現生人類の両方だったので、この図式は当てはまりません。

 この大きな文化変化は、石器に関しては石刃の増加により示されます。レヴァントでは、中部旧石器時代には20%程度だった石刃が、上部旧石器時代初期には40%、それに続く4万年前頃以降の上部旧石器時代前期には60%程度まで増加します。また、上部旧石器時代初期から前期にかけて、石刃のサイズが減少していく傾向にあります。小型の石刃は小石刃と呼ばれています。石刃はそのままでナイフとして用いられますが、さらに加工して定形的な道具が作られることもあります。上部旧石器時代で特徴的なのは、動物の皮をなめす掻器(エンドスクレーパー)や骨などに溝を掘る彫刻刀型石器(ビュラン)です。また、石刃の先端部を尖らせて作られる尖頭器も増加し、小石刃から作られる小型尖頭器も顕著に増えます。

 中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけてのこうした石器形態や製作技術の変化の意義は、まだ明らかになっていません。皮をなめす道具(サイドスクレーパー)もビュランも中部旧石器時代にありました。小型尖頭器に関しては、投槍などの射的武器の先端に装着して新たな狩猟法をもたらし、現生人類の人口増加の一因になった、との見解も提示されています。ただ本論文は、小型尖頭器の出現は上部旧石器時代前期になってからなので、ネアンデルタール人の消滅とは関係ないだろう、と指摘します。また、石刃生産への集約は石材をより効率的に消費できる、と以前は指摘されていましたが、最近の研究では、石刃技術でも刃部の獲得効率が上昇するとは限らないと明らかになっており、石刃技術が現生人類の生存とその後の繁栄に役立ったのか、まだ確証は得られていないようです。

 中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけての行動変化のもう一つの指標は動物資源の利用です。中部旧石器時代と比較して上部旧石器時代には、より広範な種類の小型動物が利用されるようになります。たとえば、ウサギやリスや鳥や魚です。これらの小型動物は、カメなどと比較して捕獲に工夫が必要で、1個体あたりの可食部も限られているので、捕獲コストに対する収率という観点から「低ランク資源」と呼ばれています。低ランク資源の利用は、上述のケバラ洞窟の事例で示されるように、すでに中部旧石器時代後期には進行していた、とも指摘されています。

 上部旧石器時代には、貝殻製ビーズのような装飾品も増加しました。ただ、アジア西部でネアンデルタール人遺骸の発見されている中部旧石器時代後期の遺跡では、貝製ビーズの発見がまだ報告されていません。上述のようにこの頃には現生人類も共存していた可能性があるわけですが、貝製ビーズが見つからない理由はよく分かりません。上部旧石器時代には、レヴァントだけではなくヨーロッパなど広範な地域でビーズの利用が見られ、ビーズの形やサイズは類似していた、と指摘されています。ビーズは複数をつないで組み合わせ、多様なシグナルを創出するので、その形は均質であることが求められたのだろう、と本論文は推測しています。また、イベリア半島からレヴァントまでという広範な地域でのビーズの共通性は、ビーズ交換などを通じて築かれた社会ネットワークが、広範囲に連結した結果と解釈されています。狩猟採集民社会の互恵的な関係では、ネットワークへの参加により環境・社会的なリスクが軽減されたかもしれない、というわけです。

 上部旧石器時代における行動の変化に関しては、これらに加えて資源の収集範囲や居住移動パターンや居住空間構造などが指摘されてきましたが、それらが現生人類の存続とネアンデルタール人の消滅という結果の要因だったのか明らかではない、と本論文は指摘します。かつて、ユーラシア西部の上部旧石器時代やアフリカの後期石器時代に特徴的な考古記録は「現代人的行動」という概念でまとめられ、古代型ホモ属との違いが指摘されていました。しかし、現生人類の拡散・定着という観点から研究が進展すると、「現代人的行動」は地域により多様であることが明らかになってきました。たとえば、ユーラシア西部から北部の上部旧石器時代に特徴的な石刃小石刃は、アジア南東部やオセアニアではほとんど見られません。さらに、石刃や装飾品などの「現代人的行動」がネアンデルタール人でも確認されるようになってきました。

 一方、現生人類の起源地であるアフリカでさえも、「現代人的行動」の記録が一様に発達してきたわけではなく、地域によってはなかったり、一度生じても後で消えてしまったりするようなモザイク的な消長パターンである、と明らかになってきました(関連記事)。本論文は、5万~4万年前頃に現生人類とネアンデルタール人は広範に分布しており、各集団が経験したボトルネックや絶滅の背景となる環境は多様だったと考えられる、と指摘します。じっさい、ネアンデルタール人と現生人類それぞれの内部での多様性と、両者の間の共通説も明らかになってきており、両者の運命を分けた要因について、特定の行動要素に一般化することは難しくなっている、と指摘します。

 現在では、現生人類が多様な環境に拡散して定着できた要因として、「変動する状況や環境に応じて革新を生み出す才能や柔軟性」や「技術の根底にある創意工夫の才や柔軟性」が挙げられています。本論文は、この抽象的な説明を具体化できるのが考古学である、と指摘します。まず、現生人類が拡散していった時期の考古記録の地理的変異を整理することで、その文化地理的パターンは自然環境に対応して説明できるかもしれませんし、そうでない場合は文化伝達プロセスなどが要因として考えられます。次に、現生人類の特徴的行動の発生プロセスを明らかにすることが挙げられています。本論文は、これらの研究を進めるには、まず考古記録の年代決定が重要になる、と指摘します。

 本論文は、その具体的事例として、レヴァントのヨルダン南部を取り上げています。ヨルダン南部は、旧石器時代には現在よりも湿潤だった時期もあるものの、それでも同時代のレヴァント北部と比較するとより乾燥していたようで、シカやイノシシなど森林性の動物遺骸は発見されていません。このように資源には制約のあったヨルダン南部ですが、旧石器時代の多くの遺跡が残っています。ヨルダン南部における中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけての石器の形態や製作技術の変化の大きな傾向として、ルヴァロワ方式から石刃の増加と、その後の石刃の小型化が指摘されています。石刃の増加と小型化は、現生人類が拡散・定着していった時期のユーラシア西部・中央部・北部で広範に見られる現象です。また、鳥などの小型動物の利用が増加し、装飾品が出現するのも特徴です。ヨルダン南部では上部旧石器時代に185km離れた地中海や55km離れた紅海の貝殻が見つかるようになりますが、そのほとんどは小型で食用とは考えられず、次第にビーズに加工されたものが増加していきます。これに関しては、ヨルダン南部の住民が海岸まで移動して集めてきた可能性と、社会的ネットワークを通じて海岸に近い集団から入手した可能性が指摘されています。


参考文献:
門脇誠二(2020)「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第1章P7-52

中国貴州省のルヴァロワ石器をめぐる議論

 中国南西部となる貴州省(Guizhou Province)の観音洞洞窟(Guanyindong Cave)遺跡で発見されたルヴァロワ(Levallois)石器群に関する研究(Hu et al., 2019A)を、2018年11月に当ブログで取り上げました(関連記事)。この研究(以下、Hu論文1)に対して批判(Li et al., 2019B)が公表され(以下、Li論文)、さらにこの批判に対して反論(Hu et al., 2019B)が公表されました(以下、Hu論文2)。以下、この議論について見ていきます。

 更新世のルヴァロワ技術は調整石核技術のなかでもとくに有名で、伝統的な5段階の石器製作技術区分では様式3(Mode 3)となります(関連記事)。調整石核技術は、事前に調整した石核から剥片を剥離する技法で、予め剥片の形を思い浮かべ、それを剥離するために微妙な石核の調整が必要となることから、高い認知能力と器用な手先を必要とします。そのため、様式3の出現は人類史において画期的だった、とも評価されています。ルヴァロワ技術のような調整石核技術はアフリカにおいて60万~50万年前頃に開発され、ユーラシアにおいても40万~30万年前頃に出現しますが、アジア東部においてはほとんど見られず、5万年前頃以降になってようやく一部の遺跡で出現し、たとえば中華人民共和国内モンゴル自治区で確認されています(関連記事)。

 しかし、Hu論文1は、観音洞遺跡において17万年前頃までさかのぼるルヴァロワ石器群が存在した、と主張します。観音洞遺跡のルヴァロワ石器群は、現時点では時空間的に孤立した事例となります。Li論文は、Hu論文1で示された観音洞遺跡の石器群の年代に関しては認めるものの、それがルヴァロワ技術であるとの主張には疑問を呈しています。Li論文は、Hu論文1が提示したルヴァロワ技術の概念は誤用されている、と指摘します。ルヴァロワ技術の定義となる6つの基準のうち1つもしくは2つのみを強調し、ルヴァロワ技術と特定しているものの、それではルヴァロワ技術と認定するには不充分である、というわけです。

 またHu論文1は、石核の非対称な表面をルヴァロワ技術と一致していると主張するものの、この基準がルヴァロワ技術の概念の定義に用いられた証拠はない、とLi論文は指摘します。Li論文は、中国の他の更新世遺跡の事例を参照し、観音洞遺跡の石器群において、剥片がルヴァロワ石器と表面上は類似している場合もあるものの、その技術はルヴァロワ技術と比較してずっと単純で体系化されていない、と指摘します。Li論文は、中国南部ではまだルヴァロワ技術は確認されていない、という現時点での有力説を改めて支持し、中国南部の中期~後期更新世の石器群は、ルヴァロワ技術よりも単純な技術を用いて製作されていた、との見解を提示しています。

 Hu論文2はLi論文に反論しています。Hu論文2は、Hu論文1が観音洞遺跡の石器群を石核・剥片・副産物から総合的に分析し、中でも石核を最重要視した、と指摘します。剥片ではなく石核こそルヴァロワ技術を直接的に示すからです。Hu論文2は、観音洞遺跡の石器群の石核には、教科書的なルヴァロワ石核がほとんどないものの、事前の調整技術の痕跡が認められ、Hu論文1で提示されたルヴァロワ技術の概念はじゅうらいの使用の範囲内に充分収まっている、と主張します。またHu論文2は、石核の非対称な表面がルヴァロワ技術の概念に用いられた証拠はない、とLi論文は主張するものの、石核の非対称な表面がルヴァロワ技術の概念に収まる可能性を指摘した学術文献もある、と指摘します。

 Hu論文2はこれらを踏まえて、観音洞遺跡の石器群は世界の他の場所で発見されたルヴァロワ石器群の範囲内にある、との結論を提示しています。Hu論文2は、専門家たちが出土場所を知らずに観音洞遺跡の石器群を観察すれば、議論の余地なくルヴァロワ石器と分類すると確信している、と主張します。Hu論文2は、Li論文の指摘が考古学の発展において必要かつ有益だったことを認めつつ、観音洞遺跡の石器群のように、中国南部にはルヴァロワ石器は存在しない、というじゅうらいの有力説に反するような発見が、他地域で用いられてきたルヴァロワ技術の識別基準よりも厳しい基準の適用を正当化するわけではない、と指摘します。

 一般論として、じゅうらいの有力説に反するような地域での発見に対して、厳しい検証が向けられるのは当然としても、だからといって、有力説に合致する他の地域での発見に適用されるよりも厳しい基準を満たすよう要求することは、不当だと言えるでしょう。Li論文とHu論文2の妥当性について、的確に評価できるだけの見識は私にはありませんが、観音洞遺跡の石器群がルヴァロワ石器である可能性は、現時点では充分検証するに値すると思います。ただ、観音洞遺跡の石器群がルヴァロワ石器だとすると、時空間的に孤立した事例であることも否定できないので、近い年代・地域でのルヴァロワ石器の確認が期待されます。また、観音洞遺跡の石器群がルヴァロワ石器に分類できるのか否かという問題をさて置くとしても、その製作者がどの人類系統なのか、という問題はたいへん興味深く、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Hu Y. et al.(2019A): Late Middle Pleistocene Levallois stone-tool technology in southwest China. Nature, 565, 7737, 82–85.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0710-1

Hu Y. et al.(2019B): Robust technological readings identify integrated structures typical of the Levallois concept in Guanyindong Cave, south China. National Science Review, 6, 6, 1096-1099.
https://doi.org/10.1093/nsr/nwz192

Li F. et al.(2019B): A refutation of reported Levallois technology from Guanyindong Cave in south China. National Science Review, 6, 6, 1094-1096.
https://doi.org/10.1093/nsr/nwz115