天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』

 シリーズ「中世から近世へ」の一冊として、平凡社より2018年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。随分前に読んだ本か記事では、松永久秀は出自不明とされていたように記憶しています。本書では、久秀の出自は摂津国の五百住の土豪だった可能性が高い、とされています。久秀は当時としてはそれなりの身分の生まれだったようですが、父の名前も伝わっていないくらいですから、土豪でも有力ではなかったようです。とはいえ、子供の頃に武士としての素養や読み書きを習得し、さらに教養を得られるような階層の出身だった、とは言えそうです。

 久秀が三好長慶に重用されたのは、久秀が統治にも軍事にも優れた人物だったこともありますが、三好家の事情もあったようです。阿波から畿内へと勢力を拡大した三好家ですが、長慶の父である元長が政争に敗れて自害に追い込まれ、譜代の家臣も多数殉じたため、長慶の代には、畿内での活動には家臣が足りない状況でした。そこで長慶は、摂津の土豪を積極的に登用していったようです。久秀もそうして長慶に登用された一人で、有能だったために台頭し、ついには三好家中で一族の代表格とも言うべき三好長逸と共に長慶に次ぐ地位に至ります。

 このように三好家において久秀が破格の出世を遂げたことと関連しているのでしょうが、長慶は旧来の家格秩序を破壊していく傾向がありました。関東にほとんど縁のなかった伊勢家が鎌倉幕府執権の北条を名乗り、越後守護代の長尾家が関東管領の上杉の名跡を継承し、祖父の代から三代かけて成り上がり、父殺しの汚名を負ってしまった斎藤高政(義龍)が室町幕府名門の一色を名乗ったように、当時の「下剋上」は一方で既存の家格秩序を尊重するもので、それにより社会的軋轢を減じていたところがありました。しかし長慶は、より上位の家格の名跡を継承するわけでもなく、官位を昇進させていき、久秀にいたっては長慶の存命中に長慶と同じ位階に昇進します。

 また、後の織田信長もそうだったように、京都の支配者はともかく将軍を擁し、幕府秩序を少なくとも形式的には尊重しました。信長は、足利義昭追放後も、その嫡子を「大樹(将軍)若君」として庇護・推戴し、ことあるごとに同道していたくらいです(1575年までは)。しかし長慶は、幕府秩序を無視して京都および畿内とその近国の支配を進めていき、朝廷も財力がなく奉仕できない義輝から長慶を頼るようになっていきます。また長慶は、大和など縁のない国への勢力拡大を進めていきますが、同時代の戦国大名がそうした場合に侵出先の国の守護職を得ることなどで正当化を図っていったのに対して、長慶にはそうした動向が見られません。

 こうした幕府秩序の無視が当時の諸大名には異様に映り、上述の長慶の家格秩序無視の傾向もあって、三好を敵視する大名が増え、長慶も将軍の足利義輝との和睦を決断します。しかし、義輝は幕府秩序を無視してきた長慶を脅威に思って敵視し続け、長慶の追い落としを画策し続けたようです。この義輝の対応は、将軍として尤もではありますが、それが落命の原因ともなりました。「急進的」という言葉を安易に使うべきではないでしょうが、長慶は当時としてはかなり「急進的」で、その後に台頭してきた年下の織田信長の方が、私にはよほど「守旧的」というか「現実的」にさえ見えてしまいます。長慶のこうした傾向は、父と多くの譜代重臣たちを一度に失い、家格に頼らず三好家を立て直して勢力をしていかねばならなかった事情に由来するのでしょうか。久秀の大和支配も、単に久秀の野心ではなく、三好家の勢力拡大の一環として行なわれたようです。この久秀の大和支配でも、中世の大和における支配者とも言えた興福寺に対して、久秀の方が織田時代よりも強い対応を示しており、既存秩序を軽視する長慶の傾向は、家臣の久秀にも見られます。

 有力ではないと思われる摂津の土豪から、三好家において三好長逸と共に当主の長慶に次ぐ地位に昇進した久秀の運命が大きく変わったのは、1565年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に起きた将軍の義輝殺害事件(永禄の変)でした。まず、1563年に長慶の後継者の義興が死亡し、長慶の甥である義継が後継者となります。本書は、久秀が義興の死に落胆した様子を取り上げています。その翌年に長慶が死亡し、久秀はすでに息子の久通に家督を譲っていた状況で、永禄の変が起きます。以前は久秀が永禄の変の首謀者の一人とされていましたが、当時久秀は大和におり、襲撃に参加したのは息子の久通でした。本書は、義継と久通が義輝を殺害した理由として、義輝が将軍権威の脅威となる三好を敵視し、両者は表面上和睦を維持しながら、関係が悪化したことを背景として指摘します。その上で本書は、先代ほどの苦労を知らない義継と久通が、一気に討幕を企図したのではないか、と推測しています。永禄の変における久秀の真意は不明ですが、義輝の弟の義昭を保護していることなどからも、義継と久通に批判的だったのではないか、と本書は推測しています。

 永禄の変の後、久秀は三好三人衆に追い落とされ、苦境に立ちます。これは、久秀と三好三人衆とが永禄の変以前から激しく対立していたことを意味しない、と本書は指摘します。そもそも、三好三人衆が成立したのは永禄の変の後でした。永禄の変の後、久秀の弟で丹波を任されていた内藤宗勝(松永長頼)が戦死し、三好家は丹波での勢力を大きく後退させてしまいます。さらに、久秀が助命して保護していた義昭が朝倉家の調略により出奔し、反三好陣営に格好の大義名分を与えてしまいます。こうした松永一族の失態と、摂津の有力ではない土豪から成り上がってきた久秀への反感が以前より三好一族の間であったためか、三好三人衆が形成され、三好三人衆は義継を担いで松永一族を追い落とします。

 三好三人衆は大和にも侵攻し、久秀は苦境に立たされますが、義継が三好三人衆と対立して久秀を頼り、上洛して将軍就任を図る義昭が織田や毛利や上杉とともに久秀とも連携したことで、久秀は苦境を脱していきます。義昭にとって、久秀は宿敵ではなく命の恩人であり、頼るに足る存在でした。久秀は義昭擁立勢力の一端を担っており、織田信長とはすでにその上洛前から通じていました。上洛してきた信長に茶器を献上することで久秀は信長に赦されて臣従したわけではなく、勢力に大きな格差はあれども、信長と久秀は義昭を推戴して新たな秩序を築く(もしくは室町体制を復興する)大名同士として同盟関係にありました。また本書は、織田軍が京都に向けて進軍を開始してから短期間で京都と周辺を制圧できた一因として、毛利が三好三人衆を牽制すべく軍事行動を起こしたことも指摘しています。義昭の上洛と将軍就任には、織田軍以外の勢力の貢献も少なくなかった、というわけです。

 義昭の将軍就任後も、畿内情勢は安定しませんでした。1570年後半、織田信長と義昭は三好三人衆や朝倉や浅井や本願寺との戦いで窮地に追い込まれ、朝廷も担ぎ出して講和を結んでいきます。この過程で、久秀は三好三人衆や阿波三好家当主の三好長治や篠原長房との和睦交渉をまとめ、義昭と信長が窮地から脱するのに貢献します。しかし、この後、久秀と義昭の関係が悪化していきます。そもそも久秀は、三好三人衆と対抗するために義昭を推戴しました。

 しかし、三好三人衆や阿波三好家と和解したことにより、三好と将軍の対峙という長慶の頃の構図が再現されます。また、久秀と講和した篠原長房が、将軍の義昭に赦免されたと称して毛利領に攻め込み、毛利が信長に抗議して義昭の斡旋による講和を依頼したことも、毛利を自勢力の有力大名と頼みにしている義昭に、久秀への不信感を募らせることになりました。さらに、義昭が久秀の宿敵である筒井順慶を赦免して優遇したことも、久秀と義昭との関係を悪化させました。しかし、久秀はあくまでも義昭と対立したのであり、直ちに信長と対立したわけではありませんでした。

 久秀は筒井順慶に惨敗するなど時として苦境に立たされつつも、義継のもと長慶のころのような三好家の結束が再現され、本願寺や浅井や朝倉なども敵に回した義昭は苦境に追い込まれます。そこで義昭は、本願寺と縁戚関係にある武田信玄に、信長と本願寺との和睦の仲介を命じますが、これは信長には受け入れ難いものでした。結局、武田は織田との対決に踏み切り、1573年1月の時点では、信長と義昭は圧倒的に不利な状況に追い込まれ、反義昭・信長陣営の久秀も勢力を拡大していきました。本書は、筒井順慶と武田信玄を自陣営に引き入れようとした義昭の判断が大局的には妥当だと言えても、自勢力同士の利害関係の配慮に欠けており、大きなものを失ってしまった、と指摘します。追い込まれた義昭は信長への敵対を明示し、信長の説得にも応じました。本書は、義昭は「信長包囲網」を形成したのではなく、追い詰められて信長を見限った、と指摘します。

 このように、情勢は久秀に有利に動いているように見えましたが、1573年2月以降に三好三人衆筆頭の三好長逸が死に、同年4月12日に武田信玄が病死して武田軍が三河から甲斐ら退去し、三好長治が信長との和睦に動いたことなどから、情勢は一気に信長有利に傾きました。こうして、同年7月に義昭は京都から追放され(上述のように、信長は義昭の嫡子を擁しており、この時点では室町幕府体制を否定していません)、同年のうちに、8月には朝倉、9月には浅井、11月には三好本宗家が相次いで信長に滅ぼされました。久秀は義継の死後に信長に降伏を申し入れ、多聞山城を引き渡し、久通の子を人質とする条件で久秀は赦免されました。本書は、朝倉・浅井・三好本宗家が相次いで滅ぼされた中、久秀のみが赦された理由として、久秀が築いた豪壮華麗と言われた多聞山城を明け渡すと提案したことと、久秀と信長との対立は、久秀と義昭との対立が原因となっており、久秀自身が信長とはほとんど戦っていないことと、1570年後半の信長の危機のさいに、阿波三好家との和睦交渉をまとめた久秀の交渉能力を挙げています。

 こうして久秀は織田家臣となり、大和の支配は尾張出身の塙(原田)直政と大和の豪族である筒井順慶に委ねられることになりました。1575年、長篠の戦いで武田軍を破り、越前を奪還した信長は右近衛大将に就任します。信長は室町幕府とは異なる新たな武家政権の樹立を明示しますが、これが従来の武家秩序を常識とする勢力の反感を買い、信長は本願寺・毛利・上杉・武田など広範な勢力から敵視され、攻撃されることになります。もちろん、これら諸勢力にとって、境目など現実的な利害関係から織田との関係が悪化したため、従来の武家秩序の尊重を大義名分として掲げた、という側面も多分にあるとは思います。

 久通と塙直政との関係は良好だったようで、松永家は大和での勢力維持に塙直政を頼りにしていたようです。しかし、塙直政は1576年に本願寺との戦いで討ち死にし、信長は大和の支配権を久秀にとって宿敵の筒井順慶に与えます。本書は、これが久秀にとってかなり不満で、信長に叛く要因になったのではないか、と指摘します。一方、信長の方は、久秀が何に不満を抱いているのか、よく理解できていなかったようです。塙直政と筒井順慶とで久秀にとって何が違うのか、と信長は疑問に思っていたのでしょう。こうした家臣団同士、あるいは同盟者同士の利害関係を信長がよく理解できていなかったことは、金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』でも指摘されています(関連記事)。

 信長からの久秀の離反には成算があり、当時、上杉謙信と毛利輝元という東西の有力大名が信長の勢力圏へと侵攻していました。しかし、上杉謙信は加賀で織田軍を破った後に西進するのではなく能登の平定を優先し、信長が大和の国人を速やかに調略して久秀を孤立させたことで、信貴山城に籠った久秀は織田軍に攻め立てられ、切腹に追い込まれます。久秀は挙兵後わずか2ヶ月ほどで鎮圧されてしまいましたが、これは大きな影響を残した、と本書は指摘します。それは、信長への謀反は将軍への忠節であり、義昭を中心に毛利・本願寺・上杉・武田による反織田同盟という受け皿があることを知らしめたからです。本書は、信長は家臣団を統制する正統性を作れておらず、独自の家臣団を有する外様や、自力で敵地を平定して信長から預けられた与力を自分の家臣に再編成した明智光秀や羽柴秀吉に、信長に叛く動機を与えてしまった、というわけです。久秀死後に、別所長治や荒木村重などが信長に叛き、ついには明智光秀の謀反により、信長は自害に追い込まれます。

 本書は、久秀の動向だけではなく、三好家の盛衰、さらには大和を中心に畿内の政治情勢、戦国時代における下剋上の位置づけと三好長慶の特異性などを扱っており、この分野に詳しくない私にとって勉強になりました。本書は、久秀が戦ったのは戦国時代の人々にとって常識だった室町の身分秩序であり、その改革こそが久秀の下剋上で、それを完成させたのは久秀と同様に出自が明確ではない羽柴秀吉だった、と本書は指摘します。

 久秀は戦国時代や江戸時代にも見られる出頭人で、主君(久秀の場合は三好長慶)に重用され、家格の壁を乗り越えて出世していきました。本書は、長慶に取り立てられた久秀が三好本宗家に忠誠を尽くした、と指摘します。しかし、そうした出頭人が主君の死により失脚することは珍しくなく、久秀も長慶死後に危機を迎えますが、将軍の義昭を推戴して一定の地位を保ちます。それでも、久秀は結局没落してしまい、秩序の不安定な時代に比較的低い階層から成り上がり、その地位を保ち続けることは難しい、と改めて思い知らされます。戦国時代の勉強はもう20年近く停滞していますが、やはりこの時代は面白く、今後も時間を作って本書のような一般向けの良書を読んでいきたいものです。

人類史における集団と民族形成

 現代人は複数の帰属意識を持つことができ、これは現生人類(Homo sapiens)の重要な特徴でもあるのでしょう。これは、現生人類が家族という小規模な集団と、それらを複数包含するより大規模な集団とを両立させていることと関連しているのでしょう。チンパンジー属は比較的大規模な集団を形成しますが、家族的な小規模集団は形成せず、ゴリラ属は家族的な小規模集団を形成しますが、より大規模な集団を形成するわけではありません。現生人類が複数の帰属意識を持つことと関連していると思われるのが、現生人類は所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、ということです。現生人類は、父系にかなり偏った社会から母系にかなり偏った社会まで、多様な社会を築きますが、父系と母系のどちらが本質的というよりは、双系的であることこそ現生人類社会の基本的特徴だろう、というわけです(関連記事)。

 こうした双系的社会を形成する前の人類社会がどのようなものだったのかは、現生近縁種や化石近縁種が参考になるでしょう。ヒト上科(類人猿)は、オランウータン属がやや母系に傾いているかもしれないとはいえ、現生種は現代人の一部を除いて基本的には非母系社会を形成する、と言うべきでしょう。チンパンジー属とゴリラ属と人類を含むヒト亜科で見ていくと、現生ゴリラ属はある程度父系に傾いた「無系」社会と言うべきかもしれませんが、チンパンジー属は父系的社会を形成します。現代人の直接の祖先ではなさそうで、お互いに祖先-子孫関係ではなさそうな、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とイベリア半島北部の49000年前頃のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)について、前者は雄よりも雌の方が移動範囲は広く(関連記事)、後者は夫居制的婚姻行動の可能性が指摘されていることからも(関連記事)、ヒト亜科の最終共通祖先の社会は、単に非母系というだけではなく、ある程度以上父系に傾いていた可能性が高いように思います。人類系統も、単に非母系というよりは、父系に強く傾いた社会を長く形成していた可能性は高いように思います。

 現生人類(あるいは他の人類系統も)は双系的社会を基本としつつ多様な社会を築きましたが、ヒト上科、あるいはオランウータン属の事例があるのでヒト亜科に限定するとしても、基本的には非母系社会が特徴で、長い時間進化してきたように思います。おそらくこれは、近親交配回避の仕組みとして進化してきたのでしょう。近親交配の忌避は人類社会において普遍的に見られ、それは他の哺乳類種でも広く確認されることから、古い進化的基盤があると考えられます。近親交配回避の具体的な仕組みは、現代人も含む多くの霊長類系統においては育児や共に育った経験です(関連記事)。したがって、人類系統においては、チンパンジー属系統や、さらにさかのぼってオナガザル科系統との分岐前から現代までずっと、この近親交配回避の生得的な認知的仕組みが備わっていたことは、まず間違いないでしょう。つまり、人類系統あるいはもっと限定して現生人類系統で独自に近親交配回避の認知的仕組みが備わったこと(収斂進化)はとてもありそうにない、というわけです。

 しかし、現生人類においては近親交配が低頻度ながら広範に見られます。最近も、アイルランドの新石器時代社会の支配層における近親交配が報告されました(関連記事)。これはどう説明されるべきかというと、そもそも近親交配を回避する生得的な認知的仕組み自体が、さほど強力ではないからでしょう。じっさい、現代人と最近縁な現生系統であるチンパンジー属やゴリラ属でも、親子間の近親交配はしばしば見られます(関連記事)。人口密度と社会的流動性の低い社会では、近親交配を回避しない配偶行動の方が、適応度を高めると考えられます。おそらく、両親だけではなく近い世代での近親交配も推測されているアルタイ地域のネアンデルタール人が、その具体的事例となるでしょう(関連記事)。

 近親交配を推進する要因としてもう一つ考えられるのは、上述のアイルランドの新石器時代の事例や、エジプトや日本でも珍しくなかった、支配層の特権性です。支配層では、人口密度などの点では近親交配の必要性がありませんが、こうした近親交配は社会的階層の上下に関わらず、何らかの要因で閉鎖性を志向するもしくは強制される集団で起き得る、と考えられます。支配層の事例は分かりやすく、神性・権威性を認められ、「劣った」人々の「血」を入れたくない、といった観念に基づくものでもあるでしょう。より即物的な側面で言えば、財産(穀類など食糧や武器・神器・美術品など)の分散を避ける、という意味もあったと思います。財産の分散は、一子(しばしば長男もしくは嫡男)相続制の採用でも避けられますが、複数の子供がいる場合、できるだけ多くの子供を優遇したいと思うのが人情です。こうした「えこひいき(ネポチズム)」も、人類の生得的な認知的仕組みで、他の霊長類と共通する古い進化的基盤に由来します(関連記事)。

 生得的な認知的仕組みが相反するような状況で、その利害得失を判断した結果、支配層で近親交配が制度に組み込まれたのではないか、というわけです。近親交配の制度的採用という点では、財産の継承も重要になってくると思います。その意味で、新石器時代以降、とくに保存性の高い穀類を基盤とする社会の支配層において、とくに近親交配の頻度が高くなるのではないか、と予想されます。もっとも、農耕社会における食糧の貯蔵の先駆的事例はすでに更新世に存在し、上部旧石器時代となるヨーロッパのグラヴェティアン(Gravettian)が画期になった、との見解もあるので(関連記事)、更新世の時点で、財産の継承を目的とした近親交配もある程度起きていたのかもしれません。

 もちろん、近親交配回避の認知的仕組みは比較的弱いので、支配層における制度的な近親交配だけではなく、社会背景にほとんど起因しないような個別の近親交配も、人類史において低頻度で発生し続けた、と思われます。近親交配の忌避は、ある程度以上の規模と社会的流動性(他集団との接触機会)を維持できている社会においては、適応度を上げる仕組みとして選択され続けるでしょう。しかし、人口密度や社会的流動性が低い社会では、時として近親交配が短期的には適応度を上げることもあり、これが、人類も含めて霊長類社会において近親交配回避の生得的な認知的仕組みが比較的緩やかなままだった要因なのでしょう。現生人類においては、安定的な財産の継承ができるごく一部の特権的な社会階層で、「えこひいき(ネポチズム)」という生得的な認知的仕組みに基づき、近親交配が選択されることもあり得ます。その意味で、人類社会において近親交配は、今後も広く禁忌とされつつ、維持されていく可能性が高そうです。

 こうした進化史を前提として、現生人類は双系的社会を形成していますが、それがいつのことなのか、不明です。所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けることの考古学的指標となるかもしれないのが、物質の長距離輸送です。これが集団間の交易だとすると(同一集団が物質を入手して長距離移動した可能性も否定できませんが)、広範な社会的つながりの存在を示し、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けることがその基盤になっているかもしれない、というわけです。こうした物質の長距離輸送は中期石器時代のアフリカで20万年以上前の事例も報告されており(関連記事)、現生人類の広範な社会的つながりこそ、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他の非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)に対する優位をもたらした、との見解には根強いものがあります(関連記事)。しかし、ネアンデルタール人でも物質の長距離輸送の事例が報告されており、しかも異なる文化間でのことなので、交易と呼んで大過ないかもしれません(関連記事)。そうすると、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けることは、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の段階ですでに存在しており、そこからずっとさかのぼる可能性も考えられます。

 どこまでさかのぼるのかはともかく、現生人類が、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けるように、複数の帰属意識を有することは確かです。民族もそうした集団への帰属意識の一つですが、現代においては大きな意味を有している、と言っても大過はなさそうです(普段はほとんど意識していない人も少なくないでしょうし、現代日本ではその割合が多いかもしれませんが)。民族について、20世紀第4四半期以降、近代において「創られた伝統」と強調する人が日本でも増えてきたように思いますが、近代における民族の「虚構性」はあり、前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多いとしても、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。民族の基本は共通の自己認識でしょうが、「客観的に」判断するとなると、文化の共通性となるでしょうから、文字資料のない時代にも、考古学的にある程度以上の水準で「民族的集団」の存在を認定することは可能だと思います。ただ、前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えています。

 民族の形成について、私が多少なりとも語れるのは日本(もしくは、「ヤマト」など他により相応しい呼称はあるでしょうが)民族と漢民族くらいですが、どの要素を重視するかで見解が異なるのは当然だろう、と思います。私は、漢民族や日本民族のような規模の大きい民族となると、その構成員の自認という観点からも、近代以降の形成とみなすのが妥当だろう、と考えています。ただ、どちらも民族意識の核となる構成要素が前近代に見られることは否定できず、もっと前に設定する見解も間違いとは言えない、と思います。

 たとえば、漢民族が戦国時代~秦漢期に形成されたと想定することも可能でしょうが、その場合、日本民族の形成時期は遅くとも平安時代にはさかのぼり、天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)という表現に示される(ここで朝鮮が視野に入っていないことに、その後の日本の世界認識の重要な論点が含まれている、と言えそうです)、と私は考えています。日本の漢詩文は、形式・題材・美意識のすべてにおいて、唐からの直輸入だった9世紀前半と比較すると、9世紀後半には、漢詩文という形式をとりながら、日本の身近な風景や人物に題材がとられるようになり、その美意識にも独自のものが見られるようになるとともに、日本で編纂された類書も、9世紀前半には中華地域的視点に限られていたものの、10世紀前半には日本の事象も対象とされていき、これらは「本朝意識」の芽生えとも言え、「国風文化」や、その本格的な始まりを告げる10世紀初頭の『古今和歌集』の編纂に象徴される和歌の「復興」もそうした文脈で解されます(関連記事)。

 現代とより直接的につながるという意味での「伝統社会」の形成を民族形成の指標とするならば、20年前頃に私が今よりもずっと強く東洋史に関心を抱いていた頃によく言われていた?「東アジア伝統社会論」が参考になりそうです。これは、中華地域や朝鮮半島や日本列島の「伝統社会」は、15~18(もっと限定して16~17)世紀に形成された、というもので、漢民族も日本民族もその頃の形成となります。私は、日本の「伝統社会」は平安時代から18世紀前半にかけてじょじょに形成され、南北朝時代や戦国時代は大きな変動期ではあるものの、そこが決定的な画期ではない、と今では考えています。「東アジア伝統社会論」とは異なるところもありますが、17世紀前後に漢字文化圏で「伝統社会」が形成された、との見解はおおむね妥当なように思います。

 まとめると、漢民族と日本民族の形成時期に関する私見は、(1)構成員の多数の自認を重視すると共に近代以降、(2)民族意識の核となる構成要素を重視すると、漢民族は戦国時代~秦漢期、日本は遅くとも平安時代、(3)現代とより直接的につながるという意味での「伝統社会」の形成を重視すると共に17世紀前後となります。その意味で、漢民族の形成は精々近現代だが日本民族は縄文時代に形成された、というような見解は私にとって論外となります。一方、漢民族は戦国時代~秦漢期に形成されたが、日本は明治時代で、さかのぼっても精々江戸時代というような見解も、基準が統一されていないように思えるので、支持できません。

三葉虫の眼球

 三葉虫の眼球に関する研究(Schoenemann, and Clarkson., 2020)が公表されました。この研究は、デジタル顕微鏡を用いて、1846年に現在のチェコ共和国のロジェニツェ(Loděnice)近郊で発見された、約4億2900万年前の三葉虫 (Aulacopleura koninckii)の化石を再調査しました。この化石は、高さ1~2mmで、後頭部に2つの突出した半楕円形の眼があり、そのうちの1つは脱落していました。本論文は、この眼球化石の内部構造のいくつかが、多くの現生昆虫や現生甲殻類の複眼の内部構造と類似している、と報告しています。

 その一つが、個眼(直径35μm)という視覚ユニットで、個眼には、感桿という透明な管の周りに集まった光検出細胞が含まれています。本論文は、個々の個眼を取り囲む暗色の輪が色素細胞からできており、この色素細胞が個眼と個眼の間の障壁として作用していた、との見解を提示しています。個眼の上には、分厚い水晶体に加えて、薄い円錐晶体と考えられる化石がありました。この円錐晶体を通過して、光が感桿に集束すると考えられます。

 この個眼のサイズが小さいことから、三葉虫は明るい浅瀬に生息し、日中に活動していた可能性がひじょうに高い、と示唆されます。水晶体の直径が小さい方が、明るい条件下で光を効率的に集められるからです。また、個眼と個眼の間に色素細胞の障壁が存在したことから、この三葉虫が現生の多くの昆虫や甲殻類の複眼と同様に、個々の個眼が全体像の小さな部分に寄与するモザイク視覚を有していた、と示唆されています。

 これらの知見は、約4億2900万年前の三葉虫の眼球の化石の内部構造が、現生ミツバチの眼球の内部構造とほとんど同じであることを示しています。これは、多くの現生昆虫や現生甲殻類の複眼の構造と機能が、古生代(約5億4200万~2億5100万年前)以降ほとんど変化していないことを示唆するとともに、古代の三葉虫の生活様式を解明する手がかりになっています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:三葉虫の生活様式の手掛かりをもたらした4億2900万年前の眼球の化石

 4億2900万年前の三葉虫の眼球の化石の内部構造が、現生ミツバチの眼球の内部構造とほとんど同じであることを明らかにした論文が、Scientific Reports に掲載される。この新知見は、多くの現生昆虫や現生甲殻類の視覚の原理が、少なくとも5億年前から変わっていないことを示唆している。

 今回、Brigitte SchoenemannとEuan Clarksonは、デジタル顕微鏡を用いて、1846年にロジェニツェ(チェコ共和国)近郊で発見された三葉虫 (Aulacopleura koninckii)の化石を再調査した。この化石は、高さ1~2ミリメートルで、後頭部に2つの突出した半楕円形の眼があり、そのうちの1つは脱落していた。Schoenemannたちは、この眼球の化石の内部構造のいくつかが、多くの現生昆虫や現生甲殻類の複眼の内部構造と類似していることを報告している。その1つが、個眼(直径35マイクロメートル)という視覚ユニットで、個眼には、感桿という透明な管の周りに集まった光検出細胞が含まれている。Schoenemannたちは、個々の個眼を取り囲む暗色の輪が色素細胞からできており、この色素細胞が、個眼と個眼の間の障壁として作用していたという考えを示している。個眼の上には、分厚い水晶体に加えて、Schoenemannたちが薄い円錐晶体と考える化石 があった。この円錐晶体を通過して、光が感桿に集束すると考えられる。

 この個眼のサイズが小さいことから、A. koninckiiが明るい浅瀬に生息し、日中に活動していた可能性が非常に高いと示唆される。水晶体の直径が小さい方が、明るい条件下で光を効率的に集められるからだ。また、個眼と個眼の間に色素細胞の障壁が存在したことから、この三葉虫が現生の多くの昆虫や甲殻類の複眼と同様に、個々の個眼が全体像の小さな部分に寄与するモザイク視覚を有していたことが示唆されている。

 以上の知見は、多くの複眼の構造と機能が、古生代(5億4200万~2億5100万年前)以降ほとんど変化していないことを示唆するとともに、古代の三葉虫の生活様式を解明する手掛かりになっている。



参考文献:
Schoenemann B, and Clarkson ENK.(2020): Insights into a 429-million-year-old compound eye. Scientific Reports, 10, 12029.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-69219-0

生態系の劣化と生息地の消失による生物多様性の喪失

 生態系の劣化と生息地の消失による生物多様性の喪失に関する研究(Chase et al., 2020)が公表されました。人新世において、生息地の消失は生物多様性の喪失につながる大きな要因ですが、生息地の消失が正確にはどのように表れ、その規模がどの程度なのかは、今なお重要な議論となっています。「受動的抽出(passive sampling)」仮説では、生物種は、自然生息地におけるそれらの個体数および分布に比例して失われるとされるのに対して、「生態系劣化(ecosystem decay)」仮説では、より小さく孤立した生息地における生態学的過程の変化により、単純に生息地の消失のみから予測されるより多くの種が失われる、とされています。これら2つの仮説の一般化可能な検証は、サンプリング設計が不均一で、規模に大きく依存する種の豊富さの見積もりに焦点が絞られていたために、限界がありました。

 本論文は、さまざまなサイズの多数の生息地断片から得た、重要な複数のタクソンの集団レベルの個体数に関する123件の研究結果を分析し、受動的抽出と生態系劣化がそれぞれ生物多様性の喪失に及ぼす影響を評価しました。その結果、全体として生態系劣化仮説が支持される、と明らかになりました。調査努力量を考慮に入れると、全ての研究・生態系・タクソンにわたり、より小さな生息地断片に由来する生物多様性の見積もりでは、より大きな断片のサンプルに由来する予想と比べて、個体数と種数は少なく、群集の均一性は低い、と明らかになりました。しかし、一部の研究(たとえば、生息地が消失してから100年以上が経過している場合など)では、手付かずの生息地には本来存在しなかった種による組成的な置換の結果として、生態系劣化に起因する生物多様性の喪失は全体的パターンからの予測を下回っていました。この研究は、生息地の消失が生物多様性の変化に及ぼす非受動的な影響を組み入れることで、将来の土地利用における生物多様性のシナリオを改良し、生息地の保全および回復の計画を改善できる、と結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:生態系の劣化が生息地の消失による生物多様性の喪失を悪化させる

生態学:小さな生息地断片では個体群動態の変化が生物多様性を低下させる

 生息地が失われたら、生物多様性はどうなるのか。生物多様性が喪失することは分かっているが、それが正確にどのように起こるのかについては、大きな混乱と疑問が残されている。果たして生物多様性の喪失は、種の喪失は自然生息地におけるそれらの個体数および分布に比例するとする「受動的抽出(passive sampling)」過程によって起こるのか、それとも小さな生息地断片での生物学的過程は大きな断片のものとは異なると仮定し、そうした差異によって小さな生息地では生息地の消失のみから予想されるより多くの種が減少するとする「生態系劣化(ecosystem decay)」過程によって起こるのか。今回J Chaseたちは、かつては同一の景観に含まれていたさまざまなサイズの多数の生息地断片から得た、複数の種の個体数に関する123件の研究データを用いて、これら2つの仮説を検証した。その結果、生態系劣化仮説が強く支持された。すなわち、全ての研究、生態系、分類群にわたって、より小さな生息地断片では、より大きな断片のサンプルに由来する予測よりも個体数と種数が少なく、群集の均一性が低いことが分かった。これらの知見は、土地利用の変化による生物多様性の喪失に関してより現実性の高い予測を行うための重要な一歩になると、著者たちは述べている。



参考文献:
Chase JM. et al.(2020): Ecosystem decay exacerbates biodiversity loss with habitat loss. Nature, 584, 7820, 238–243.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2531-2

人間のネットワークの同調性

 人間のネットワークの同調性に関する研究(Shahal et al., 2020)が公表されました。これまでの研究では、小規模な人間集団における同調が調べられてきましたが、こうした実験では、ネットワークの動態を支配するパラメーターの制御が不充分でした。この研究は、ネットワークを構成するプロのバイオリン奏者間の関係を制御することで、奏者間の同調を調べました。この研究は、16人のバイオリン奏者に1つの音楽フレーズを繰り返し演奏させました。それぞれのバイオリンからの出力が集められ、各奏者への入力は、ノイズキャンセリングヘッドホンを介して制御されました。それぞれのバイオリン奏者からは、他の奏者が見えませんでした。この研究は一連の実験で、バイオリン奏者が自分のバイオリンの音を聴いてから他の奏者のバイオリンの音を聴くまでに遅れが生じるように調節し、バイオリン奏者の組み合わせと遅れの長さを変えながら同様の試験を繰り返しました。

 その結果、バイオリン奏者は、テンポを3倍まで変化させて、他の奏者と同調できる、と明らかになりました。また個々の奏者は、フラストレーションのたまるシグナル(たとえば、同じグループにテンポの合っていない演奏者がいるなど)を無視して、安定した同調を実現できることも明らかになりました。このようにネットワークの構造と関係の変化に適応する能力は、以前のモデルでは予測されていなかった、同調性を実現するための新たな戦略を生み出す可能性があると考えられます。バイオリン奏者は同調性を維持するために色々な戦略を用いており、同調を記述するために用いられている現行のモデルが人間には適用できない、と示唆されました。これらの知見は、交通管理や感染症のエピデミック(地域的流行)の管理や株式市場の動態などの研究分野にも影響を与える可能性があり、進化の観点からも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


人間行動学:バイオリン奏者が人間のネットワークの同調性に手掛かりをもたらす

 複雑なネットワークを構成する人々の同調について、バイオリン奏者が参加した一連の実験結果を報告する論文が、Nature Communications に掲載される。この研究から、バイオリン奏者が同調性を維持するためにいろいろな戦略を用いることが判明し、同調を記述するために用いられている現行のモデルが人間に適用できないことが示唆された。今回の知見は、交通管理、感染症のエピデミック(地域的流行)の管理、株式市場の動態の研究などの分野にも影響を与える可能性がある。

 これまでの研究では、小規模な人の集団における同調が調べられてきたが、こうした実験では、ネットワークの動態を支配するパラメーターの制御が不十分だった。

 今回、Moti Fridmanたちの研究チームは、ネットワークを構成するプロのバイオリン奏者間の関係を制御することで、奏者の間の同調を調べた。Fridmanたちは、16人のバイオリン奏者に1つの音楽フレーズを繰り返し演奏させた。それぞれのバイオリンからの出力が集められ、各奏者への入力は、ノイズキャンセリングヘッドホンを介して制御された。それぞれのバイオリン奏者からは、他の奏者が見えなかった。一連の実験の中で、Fridmanたちは、バイオリン奏者が自分のバイオリンの音を聴いてから他の奏者のバイオリンの音を聴くまでに遅れが生じるように調節し、バイオリン奏者の組み合わせと遅れの長さを変えながら同様の試験を繰り返した。その結果、バイオリン奏者は、テンポを3倍まで変化させて、他の奏者と同調できることが分かった。また、個々の奏者は、フラストレーションのたまるシグナル(例えば、同じグループにテンポの合っていない演奏者がいるなど)を無視して、安定した同調を実現できることも明らかになった。このようにネットワークの構造と関係の変化に適応する能力は、以前のモデルでは予測されていなかった、同調性を実現するための新たな戦略を生み出す可能性があると考えられる。



参考文献:
Shahal S. et al.(2020): Synchronization of complex human networks. Nature Communications, 11, 3854.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17540-7

『科学の人種主義とたたかう』の紹介記事

 アンジェラ・サイニー(Angela Saini)氏の著書『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(東郷えりか訳、作品社、2020年)の紹介記事を読みました。同書には興味がありますが、購入を躊躇っているので、この紹介記事は参考になりました。内容は、ある程度私の予想した通りかな、という感じで、不勉強な私にとって得るものが多そうではあるものの、これから読もうと考えている本や論文を後回しにしても読もう、という気にはなりませんでした。この紹介記事では、

サイニー本に関して、日本だと、安藤寿康、もっと俗っぽい人なら橘玲などが物申したいことがあるだろう。ぜひ書評を書いてほしい。

とありますが、すでに橘玲氏は同書に言及しています。橘氏は同書について、「科学の人種主義」としてサイニー氏は行動遺伝学と遺伝人類学を批判している、と紹介しています。橘氏によると、サイニー氏は『交雑する人類』(関連記事)の著者であるデイヴィッド・ライク(David Reich)氏に取材し、ライク氏から「われわれが築く社会的な構造と相関する集団間の系統の違いは実際にあります」と断言され、大きなショックを受けたそうです。橘氏は(おそらく同書から)以下のように引用しています。

ライクはアメリカの黒人と白人のあいだには、表面上の平均的な違い以上のものがあるかもしれないとほのめかす。それは認知的、心理的な違いにおよぶ可能性すらあり、アメリカにやってくるまで、それぞれの集団グループは7万年にわたって別個にそれぞれ異なる環境に適応してきたためなのだ。これだけの時間の尺度のあいだに、自然選択は双方に異なった形で作用し、一皮むいた以上に深いところの変化を生み出したかもしれないと彼は示唆する。ライクは思慮深く、これらの違いが大きなものだとは自分は考えず、1972年に生物学者のリチャード・ルウォンティンが推定したように、個人間の差異よりもわずかに大きい程度だろうと付け足す。それでも、こうした違いは存在しないとは考えていないのだ

 橘氏によると、ライク氏は(ヒト集団のちがいを否定する)サイニー氏に対して、「まったく悪気のない人びとが科学と矛盾することを言うのは少々辛いものがあります。悪気のない人には正しいことを言ってもらいたいからです」と語ったそうです。私はライク氏の見解をほぼ全面的に支持します。以前、サイニー氏による書評を当ブログで取り上げましたが(関連記事)、率直に言って、「科学の人種主義」に対するサイニー氏の認識はかなり疑問です。

 サイニー氏の認識はおそらく現在のアメリカ合衆国(やイギリス?)の学界や報道業界の「主流派」では常識で、日本でも、サイニー氏のような認識を「最新の常識」として、それに反するような見解を「保守反動」とか「意識が低い」とか「差別主義」とか言って批判・罵倒・嘲笑する人が、それなりにいるかもしれません。確かに、集団遺伝学が悪用される危険性はありますし、現実にその研究成果の一部は悪用されていますが(関連記事)、上記の紹介記事にあるような、「そもそも人間をグループ分けする必要があるところに問題があるのだ」という認識にはまったく同意できません。

 ライク氏は、集団遺伝学でも古代DNA研究において現在最先端を行く一人ですが、サイニー氏以外の「主流派(と思われる人々)」からも批判を受けています(関連記事)。確かに、古代DNA研究に関して「主流派」の懸念に尤もなところはありますし、それはライク氏も率直に認めて、今後改善を図っていく考えのようです。その意味で、サイニー氏のような「主流派」の批判にも有意義なところはあるでしょうが、正直なところ、サイニー氏に関しては、その批判が行き過ぎというか、的外れなところが多分にあるのではないか、と私は考えています。

南パタゴニアの人類の古代ゲノムデータ

 南パタゴニアの人類の古代ゲノムデータを報告した研究(Nakatsuka et al., 2020)が公表されました。南パタゴニアは南アメリカ大陸の南緯49度の南側の地域で、フエゴ島(Isla Grande de Tierra del Fuego)の12600年前頃(以下、全て較正年代です)とされるトレス・アリョイ(Tres Arroyos)岩陰遺跡での痕跡以来現在までずっと、人類が居住していました。ごく一部の遺跡は13000~8500年前頃の前期完新世と8500~3500年前頃の中期完新世にさかのぼりますが、遺跡密度は3500年前頃以降の後期完新世でかなり増加しました。この期間の人々の移動と関連していた可能性のある複数の文化変化に関する証拠が、考古学では提示されてきました。

 最初の変化は、遅くとも6700年前頃となるカヌーと銛の使用を含む航海技術と関連しており、アシカや他の鰭脚類の狩猟が沿岸にいない時期でもできるようになり、フエゴ諸島における遊動的な狩猟採集民集団の定住を可能としました。この技術開発は、在来の陸上狩猟採集民に起源があるか、アイデアの模倣もしくは人々の移動を経由しての北方からの技術拡大を反映している、と仮定されてきました。

 第二の変化は西フエゴ諸島で起き、道具の素材や形態の変化を伴います。おそらくは西フエゴ諸島南部のオトウェイ・サウンド(Otway Sound)からもたらされた緑色の黒曜石は、6700~6300年前頃となるこの最初の期間の特徴的な標識で、5500~3100年前頃となる後期には、異なる素材の大型両面石器投射尖頭器が出現します。緑色黒曜石使用の中断は、産地の場所についての文化的知識の喪失を反映しており、景観に不慣れな新たな人々の到来に起因しているかもしれない、と仮定されてきました。

 第三の変化には、人口増加や技術的革新の証拠を伴う、地域全体の2000年前頃までの変化が含まれています。ビーグル海峡の考古学的記録からは、尖頭器の意匠の多様化が示され、狩猟戦略の変化・再編成・拡大として解釈されてきました。フエゴ島北部では、投擲武器として紐に結びつけられた石の球体であるボレアドラス(boleadoras)の使用が、1500年前頃までに終了します。さらに、投射武器の先端に用いられた有茎尖頭器の新たなタイプが2000年前頃までに出現します。900年前頃にはそのサイズが縮小し、これは弓矢技術の出現と関連していました。これら後期完新世の尖頭器と歴史時代の尖頭器の類似性は、少なくとも2000年前頃からの文化的継続性の要素を記録しますが、技術は模倣でき、類似の環境が並行的な革新につながるかもしれないので、これは遺伝的継続性を証明しません。

 ヨーロッパ人は16世紀に南アメリカ大陸に到来すると、南パタゴニアには異なる地形に最適化された二つの広範な生存戦略を取っていた先住民5集団が存在した、と記録しています。それは、東部と北部の高地および低地と、西部と南部の島々を伴う不規則な海岸です。陸上の狩猟採集民には、本土の東斜面に沿って居住していたアオニケンク(Aónikenk)もしくは南テウェルチェ(Southern Tehuelche)集団と、フエゴ島北部に居住していたセルクナム(Selk’nam)もしくはオナ(Ona)集団が含まれます。これら2集団はおもにラマ属(グアナコ)と鳥の狩猟、および海岸の貝採取に依存していました。ビーグル海峡地域のヤマナ(Yámana)もしくはヤーガン(Yaghan)集団と、西フエゴ諸島のカウェスカル(KawésqarもしくはKawéskar)もしくはアラカルフェ(Alacalufe)集団は、航海用カヌーで容易に入手できる海洋資源に強く依存していました。ミトレ半島(Mitre Peninsula)に位置するフエゴ島南東端のハウシュ(Haush)もしくはマネケンク(Mánekenk)集団は航海技術を有していませんでしたが、考古学的証拠から、陸棲および海棲の獲物を狩っていた、と示唆されます。これら5集団間の関係が議論されてきており、異なる集団間の婚姻は境界では一般的だったとも、それは稀だったとも主張されています。

 ゲノム規模研究は、人々の移動が考古学的記録に明らかな変化を伴うのかどうかに関する、直接的情報を提供できます。母系ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)と父系Y染色体ハプログループ(YHg)という単系統遺伝の分析では、南パタゴニアの人々では、mtHgはCとDしかなく、YHgの多様性は低い、と示されています。これは、強い遺伝的浮動と孤立による創始者集団におけるボトルネック(瓶首効果)と一致します。以前の研究では、パタゴニアの現代人61人と1000年前頃の4人のゲノム規模データが報告され、過去から現代までのかなりの程度の遺伝的連続性が示されました。陸上狩猟採集民のセルクナム集団は、海洋資源に強く依存していたカウェスカル集団およびヤマナ集団と同じ割合でアレル(対立遺伝子)を共有していました。別の研究では、6600年前頃と4700年前頃の2人が、南アメリカ大陸の他地域のあらゆる古代および現代集団よりも、同地域の1000年前頃の個体群および歴史時代集団と密接に関連している、と示されました。

 しかし、いくつかの問題は解決されていません。まず、この地域では過去からずっと遺伝的継続性があったのか、それとも技術的変化と関連する検出可能な変化があったのか、という問題です。その技術的変化は、(1)6700年前頃の海洋食性への特化、(2)5500~3100年前頃の緑色黒曜石の豊富な使用のような技術的変化、(3)2000年前頃のボレアドラスから有茎尖頭器への移行、のどれか、あるいは複数なのかが、問題となります。その他にも問題はあります。(4)隣接する南パタゴニア集団間の遺伝子流動はどの程度でしたか?(5)ミトレ半島の住民は遺伝的に、海洋資源に依存する集団もしくは陸上資源に依存する集団に類似していましたか?(6)古代集団はヨーロッパ人との接触後にどのように関係していますか?

 本論文はこれらの問題に答えるため、ミトレ半島と南アメリカ大陸南部内陸部では最初となるものも含めて、5800~100年前頃の南パタゴニアの19人の新たなゲノム規模データと、アルゼンチンの草原地帯(パンパ)の2400年前頃の1個体のゲノム規模データを報告します。この地域の人々の古代DNAデータ(ヨーロッパ人との接触前が6人、接触後が11人)を報告した以前の研究(関連記事)と比較して、本論文のデータは、とくにフエゴ島の東部と北部において、時空間的間隙を埋めます。I12367とキョウダイの関係にあると判明した1個体(I12365)は分析対象外となります。なお本論文では、先住民との合意の下で研究が行なわれた、と明記されています。以下、南パタゴニアの古代人の標本の位置と年代を示した本論文の図1です。
画像


●父系および母系の特定と集団規模推定と表現型との関連

 南パタゴニア人のmtHgはCもしくはDのみで、フエゴ諸島北部ではmtHg-D1g5・C1c、ビーグル海峡地域ではmtHg-C1b、ミトレ半島ではmtHg-C1b・D1g5の割合が高い、と示されます。mtHg-D1g5はアルゼンチンとチリの古代人および現代人で広範に見られ、地理的に構造化された内部クレード(単系統群)があるので、おそらくはコーノ・スール(南アメリカ大陸南部)への人類の初期移住段階で分化しました。後期完新世のフエゴ島~区部の1個体ではmtHg-D4h3aが見られ、現在では南北アメリカ大陸両方の太平洋沿岸に集中しています。YHgは全てQ1a2aです。YHg- Q1a2a1aは、ミトレ半島の後期完新世の1個体(YHg-Q1a2a1b)を除く、父系がより詳細に解明された全個体で観察され、現代の南アメリカ大陸全域では類似の構造が見られます。

 条件つきヘテロ接合性分析では、古代パタゴニア集団は、多型部位の変異率が現在世界で最も低い多様性の集団と同じくらいである、と明らかになりました。これは、父系および母系の単系統遺伝分析に基づく以前の推測と一致しており、持続的な集団規模の小ささを示唆します。古代の個体群の高網羅率の全ゲノム配列データが欠如しているので、集団のボトルネックの年代は特定できませんでした。以前に報告された耐寒性と関連するいくつかの多様体が調べられましたが、標本規模が小さいため、経時的な有意なアレル頻度変化を推定するのに不充分で、自然選択の検証はできませんでした。


●遺伝的系統と地理および言語との相関

 対称性f4統計では、最初のパタゴニア人はアルゼンチンの草原地帯の7700年前頃の個体もしくは6800年前頃の個体、あるいはチリ中央部の5100年前頃の個体と比較して、後のパタゴニア人とより多くのアレルを共有していると示されるので、南パタゴニアにおける遺伝的継続性の有意な程度が検出されます。ADMIXTUREや主成分分析など複数の分析と併せると、中期完新世個体群は後期完新世個体群と異なり、重要な例外は、後の西フエゴ諸島個体群へとわずかに移動するチリのアヤエマ(Ayayema)遺跡の4700年前頃の個体で、重要な遺伝的事象を反映した標識です。後期完新世には、南パタゴニアの遺伝的構造は地理・食性および技術・言語集団と相関し、ビーグル海峡地域と西フエゴ諸島と南アメリカ大陸本土南部およびフエゴ諸島北部ではクラスタが大きく分離します。しかし、勾配も存在し、ミトレ半島の個体群は南アメリカ大陸本土南部およびフエゴ諸島北部個体群とビーグル海峡地域個体群との間の勾配を形成し、現代ヤマナ人は西フエゴ諸島個体群とビーグル海峡地域個体群との間に位置します。

 対での遺伝的浮動距離を地理・年代・言語距離・生存戦略の違いと相関させると、4変数全てで有意でした。この相関とヨーロッパ側の南アメリカ大陸侵出初期の記録に基づき、各地域の後期完新世集団は、西フエゴ諸島がカウェスカル、ビーグル海峡地域がヤマナ、ミトレ半島がハウシュ、フエゴ諸島北部がセルクナム、南アメリカ大陸南部本土がアオニケンクと命名されました。1500~500年前頃のこれらの地域の個体群の自己認識がどのようなものだったのか不明なので、これは過度な単純化で、5集団の下位構造も隠されてしまいます。ただ、遺伝的データが伝統的な用語と矛盾せず、じっさいに強く相関するので、本論文ではこれらの用語が使われます。


●4700年前頃の海洋集団と陸上集団の遺伝的分化

 f4統計での最古の個体群ともっと新しい個体群との比較では、チリの6600年前頃のプンタサンタアナ(Punta Santa Ana)個体とアルゼンチンの5800年前頃のラアルシロサ2(La Arcillosa 2)個体は遺伝的に、海洋および陸上両方を含む後の集団と遺伝的に等距離です。さらに、6600年前頃のプンタサンタアナ個体と5800年前頃のラアルシロサ2個体は、この地域外の全てのアメリカ大陸集団と遺伝的に等距離でした。考古学および同位体データに基づくと、西フエゴ諸島のプンタサンタアナ個体は、おもに海洋性食性に依存する南パタゴニア最初の個体ですが、ラアルシロサ2個体は、おもに陸上食性に依存していました。これは上記の問題(1)の回答になります。南パタゴニアにおける海洋適応の最初の出現は、北からの移住事象により説明されません。

 しかし、後期完新世のカウェスカルおよびヤマナ集団は、6600年前頃のプンタサンタアナ個体もしくは5800年前頃のラアルシロサ2個体よりも、チリの4700年前頃のアヤエマ個体に有意に密接に関連しています。古代のセルクナムやアオニケンクやハウシュ個体群が、4700年前頃のアエヤマ個体と有意な類似性を示さないことから、アヤエマ個体の系統は、陸上資源におもに依存したセルクナムやおそらくはアオニケンクのような東部集団よりも、海洋カヌーが利用可能な海洋資源におもに依存した後の集団に大きく貢献している、と示唆されます。これは歴史時代へと持続し、4700年前頃のアエヤマ個体は、100年前頃のセルクナム集団の個体とよりも、100年前頃のヤマナ集団の個体の方とアレルを多く共有しています。

 したがって、海洋資源特化への変化の考古学的証拠とは対照的に、西フエゴ諸島での5500~3100年前頃の緑色黒曜石の使用中断の変化は、本論文の遺伝的知見と相関します。これは、この地域の後期完新世の人々と有意な追加の遺伝的類似性を有している、海洋適応していたアヤエマの4700年前頃の個体の期間に起きました。これは上記の問題(2)の回答となります。南パタゴニア北端のこの個体が南パタゴニアの後の海洋適応した集団と特定の遺伝的類似性を示すことは、この期間の集団変化と一致します。具体的には、南パタゴニア全域での海洋適応集団を接続する遺伝子流動が示唆されますが、そうした遺伝子流動の方向は本論文の遺伝的分析では決定できません。パタゴニア外の全集団はこれら最初のパタゴニア集団と対称的に関連しており、この広範な地域内の重要な移動にも関わらず、これらの変化が南アメリカ大陸南端の地域的な発展に起因することと一致します。


●中期~後期完新世の北パタゴニアから南パタゴニアへの遺伝子流動

 4700年前頃以後のパタゴニアと他地域との間の遺伝的相互作用を検証するため、後期完新世(1500~100年前頃)と中期完新世(4700年前頃)のパタゴニア集団間の対称性が、他のアメリカ大陸集団と比較してf4統計で検証されました。一貫して重要な唯一の標識は、パタゴニアのずっと北方に位置するチリ中央部のコンチャリ(Conchali)の700年前頃の個体が、中期完新世個体群と比較して、アオニケンクやハウシュやヤマナやセルクナムといった後の集団の一部と過剰なアレル共有を示すことです。f4統計では、これが南パタゴニアからチリ中央部への遺伝子流動に起因するという証拠はありません。qpAdmを用いて、チリのコンチャリの700年前頃の個体を、チリの5100年前頃のロスリーレス(Los Rieles)個体と、あらゆる後期完新世パタゴニア集団との混合としてモデル化すると、この遺伝子流動の方向へのさらなる支持が得られます。コンチャリ個体は一貫して、後期完新世パタゴニア系統を有さないとモデル化され、南パタゴニア系統のチリ中央部への大規模な北進の可能性はほとんどありません。

 qpAdmを用いて後期完新世南パタゴニア集団をモデル化すると、海洋適応のカウェスカルおよびヤマナ集団が、700年前頃のコンチャリ個体関連系統45~65%と、残りが4700年前頃のアヤエマ個体関連系統との混合としてモデル化できます。これらのモデルは、qpAdmの外群間でチリの6600年前頃のプンタサンタアナ個体と5800年前頃のアルゼンチンのラアルシロサ2個体とでも連携しますが、対称的に、プンタサンタアナ個体もしくはラアルシロサ2個体をアヤエマ個体の代わりに第2ソースとして用いると、適合しません。これらの結果は、南パタゴニアにおいて6600~5800年前頃の集団から後期完新世海洋適応集団への直接的な遺伝的継続性があったとしても僅かだと示唆しており、中期完新世における南パタゴニア群島のかなりの再移住と一致します。

 対照的に、東部のセルクナム集団はアヤエマ個体関連系統とではモデル化できず、代わりにコンチャリ個体関連系統50~60%と、残りがラアルシロサ2個体関連系統もしくはプンタサンタアナ個体関連系統との混合としてのみ適合します。ハウシュ集団は、コンチャリ個体関連系統50~60%と、残りが中期完新世集団のいずれか(本論文の解像度では特定できません)の混合でモデル化できます。アオニケンク集団は、コンチャリ個体関連系統50~60%と、残りがプンタサンタアナ個体関連系統もしくはアヤエマ個体関連系統とりの混合でモデル化され、ラアルシロサ2個体関連系統は適合しません。後述の追加分析では、アオニケンク集団がセルクナム集団と最も類似した系統を有しているので、コンチャリ個体関連系統とプンタサンタアナ個体関連系統との混合の方がモデル化として適しているようです。

 これらの結果から言えるのは、後期完新世の南パタゴニア人のqpAdmモデルは全て、チリの700年前頃のコンチャリ個体関連系統から約半分を、残りは中期完新世の南パタゴニア系統(チリの6600年前頃のプンタサンタアナ個体関連系統もしくはチリの4700年前頃のアヤエマ個体関連系統)を継承し、南パタゴニア系統は遅くとも6600年前頃には相互に分岐した、ということです。これは、この地域全体の分岐した集団相互へと混合する、チリの700年前頃のコンチャリ個体関連系統から南パタゴニアへの遺伝子流動により説明できますが、逆方向では説明できず、チリの700年前頃のコンチャリ個体関連系統が、チリの6600年前頃のプンタサンタアナ個体関連系統もしくはチリの4700年前頃のアヤエマ個体関連系統を有するとモデル化できることを予測しますが、これはf4統計でもqpAdmでもqpGraphでも支持されません。

 まとめると、本論文の分析から、南パタゴニアに影響を及ぼした3回の主要な北から南への遺伝子流動が示唆されます。最初はチリの6600年前頃のプンタサンタアナ個体関連系統を遅くとも6600年前頃までに、2回目はチリの4700年前頃のアヤエマ個体関連系統を南パタゴニア群島に遅くとも2000年前頃までに、3回目はチリの700年前頃のコンチャリ個体関連系統を遅くとも2000年前頃までに南パタゴニア全域にもたらしました。

 アルゼンチンの2400年前頃のラグナトロ(Laguna Toro)個体のようなパタゴニア外の集団の遺伝的類似性を共有する過剰なアレルは検出されませんでした。しかし、参照データは少なく、とくに弱点となるのは、おそらくはアオニケンクやセルクナム集団と遺伝的に相互作用しただろう、アルゼンチン草原地帯と南パタゴニア地域との間のさらに南の個体群のデータが欠けていることです。将来の古代DNA標本抽出により、このような集団が中期~後期完新世に南パタゴニアの人々と交雑したのか、検証できるようになるでしょう。非アメリカ人と特異に関連する集団からの系統は、あらゆる個体群で見つからず、南パタゴニア個体群の以前の分析と一致します。


●隣接する南パタゴニア集団間の遺伝的混合

 後期完新世パタゴニア集団間の遺伝的関係が、対称性f4統計で調べられました。これは上記の問題(4)の回答となります。セルクナム集団は遺伝的に近隣集団の中間に位置し、その北方のアオニケンク集団は、その東方および南方のハウシュおよびヤマナ集団よりも、セルクナム集団と多くのアレルを共有しています。同様に、ハウシュおよびヤマナ集団は、アオニケンク集団よりもセルクナム集団の方とアレルを多く共有しています。したがって、qpAdmを用いて、セルクナム集団は63.8±9.2%のアオニケンク集団関連系統と、36.2%のヤマナ集団関連系統の混合としてモデル化できます。DATESを用いると、この混合年代は1902±282年前と推定されます。

 ミトレ半島のハウシュ集団も遺伝的には近隣集団間の中間に位置し、ヤマナ集団はセルクナム集団と比較してハウシュ集団に近く、セルクナム集団はヤマナ集団と比較してハウシュ集団に近くなっています。ハウシュ集団が混合と直接的に確認され、これは上記の問題(5)の回答となります。qpAdmを用いての各系統の個別モデル化では、ヤマナ集団関連系統が10.2~44.8%と推定されます。ハウシュ集団間でかなりの系統の違いがあることから、集団間の混合が標本抽出期間に活発だったかもしれない、と示唆されます。平均的な推定混合年代は1334±171年前です。

 ヤマナ集団も近隣集団間で遺伝的に中間に位置し、セルクナム集団はカウェスカル集団と比較してヤマナ集団に近く、カウェスカル集団はセルクナム集団と比較してヤマナ集団に近くなっています。これは、セルクナム集団がカウェスカル集団およびヤマナ集団と等しく関連している、と報告した過去の研究では検出されませんでした。これは、以前の研究が単一のセルクナム集団個体の100塩基対の配列に依存していたからと考えられます。ヤマナ集団は、カウェスカル集団関連系統54.2±14.4%とセルクナム集団関連系統44.2%の混合としてモデル化できます。ヤマナ集団の1個体はカウェスカル集団関連系統が83.3±16.7%と推定されますが、他の個体はカウェスカル集団関連系統が51~56%と推定されます。DATESでは、混合年代が1627±313年前と推定されます。

 これらの結果から、2200~1200年前頃に南パタゴニア集団間で活発な混合があり、一方の端であるアオニケンク集団からもう一方の端であるカウェスカル集団にわたる勾配があり、その時以来遺伝子流動は緩やかになった、と示されます。最近になって遺伝子流動が緩やかになったことは、文化的分化が最近になるほど大きくなった可能性を示唆します。


●混合図モデル

 本論文はqpGraphを用いて、データに混合図を適合させ、異なる南パタゴニア集団および他の南アメリカ大陸集団との相互関係をモデル化しました(図3)。このモデルは、本論文の個々の知見の多くを把握しています。アルゼンチン草原地帯集団であるラグナトロの2400年前頃の個体は、全ての南パタゴニア個体群と等しく関連しています。チリの4700年前頃のアヤエマ個体関連系統は、海洋適応集団である1500~100万年前頃のヤマナと800年前頃のカウェスカルに遺伝的影響を及ぼしたものの、他の南パタゴニア集団には影響を及ぼさなかった、とモデル化され、これは後の海洋適応集団特有の遺伝的多様性が4700年前頃までに発達した事実を反映しています。アエヤマは南パタゴニア西部に位置しますが、他のより古い中期完新世パタゴニア人は違うので、アエヤマ個体関連系統の移住がより古い系統を置換した、と示唆されます。

 南パタゴニア人は、4700年前の後にチリ中央部の700年前頃のコンチャリ個体と関連する集団からの遺伝子流動を受け、これは後期完新世の主要な北から南の遺伝子流動を反映しています。これは上記の問題(3)の回答です。このモデルは、一方の端ではカウェスカル集団、もう一方の端ではアオニケンク集団との相互の混合として、系統の混合を反映しています。これは上記の問題(4)の回答です。このモデルにより、陸上および海洋適応集団との文化的特徴の混在を有する400年前頃のハウシュ集団が、500年前頃の陸上適応セルクナム集団と、1500~100年前頃の海洋適応ヤマナ集団との間の混合としてモデル化できる、と確証されます。これは上記の問題(5)の回答です。以下、この混合図モデルを示した本論文の図3です。
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●同地域の現代と古代の個体群との関連性

 現代のヤマナ集団とカウェスカル集団が古代集団と比較され、各地域の現代の個体群は同地域の古代集団の構成員と集団化すると明らかになり、以前の知見と一致します。本論文はこの知見を、カウェスカルのすぐ北に住む、カウェスカル集団と遺伝的に最も類似しているチョノ(Chono)やチロート(Chilote)やウィジチェ(Huilliche)集団に拡大しました。また本論文は、現代パタゴニア集団の追加のデータセットを、混合図の古代集団とともに分析しました。

 本論文は、現代のヤマナとカウェスカルとウィジチェとそのすぐ北に位置するヒュイリチェ(Pehuenche)集団を、植民地期の混合を反映しているヨーロッパ人系統と、ヨーロッパ人との接触前の在来のアメリカ大陸先住民系統と、チリ中央部の700年前頃のコンチャリ個体関連系統の混合としてモデル化できました。その結果、コンチャリからの距離に沿って、ヒュイリチェとウィジチェとカウェスカルからヤマナ集団へのチリ中央部(コンチャリ)関連系統の減少勾配が観察されます。したがって、古代DNAは、パタゴニアにおけるコンチャリ個体関連系統の地理的勾配の南部のみを把握しています。将来の古代DNA標本抽出により、この勾配の発展の起源と年代について追加の詳細が提供できるでしょう。


●まとめ

 本論文の結果は、南パタゴニアにおける最初の海洋適応が、すでに海洋適応戦略を用いていた人々による北方から南パタゴニアへの大規模な移民に起因する、という仮説は間違いだと立証します。これは上記の問題(1)の回答です。そうではなく、在来の人々がこの技術を採用するか、独自に開発しました。しかし本論文の結果は、後の北西からの人々の流入を示唆します。この最初の植民は、中期完新世個体群の祖先をもたらした波に続いて起きたかもしれません。これは、海洋適応していたチリの4700年前頃のアヤエマ個体関連系統をもたらし、以前に南パタゴニアで確立されていたチリの6600年前頃のプンタサンタアナ個体関連系統と5800年前頃のラアルシロサ個体関連系統を置換しました。

 この新たな移民の到来は、西フエゴ諸島とビーグル海峡地域において、緑色黒曜石の使用の中断と大型両面尖頭器の導入により特徴づけられる、5500~3100年前頃の石器技術の変化と関連しているかもしれません。これは上記の問題(2)の回答です。さらに、チリ中央部からの第三の系統が4700~2000年前頃に拡大しました。これは、人口増加の標識としての遺跡密度の増加や、2000年前頃以降に出現した、投擲武器の先端としての有茎尖頭器の使用に特徴づけられる新たな狩猟技術(槍や矢)により置換されたボレアドラスの使用中止のような、後期完新世に起きた様々な過程と関連しているかもしれません。これは上記の問題(3)の回答です。歴史時代と現代において北部・中央部・南部パタゴニア集団間で共有される言語族は、この標識と関連しているかもしれません。

 後期完新世では、とくに2200~1200年前頃から、隣接集団間の遺伝子流動が検出され、その後は減少します。これは上記の問題(4)の回答です。もっともらしい想定は、ハウシュ集団が遺伝的に混合した人々から海洋および陸上適応技術のいくつかを採用した、というものです。遺伝的データは、ハウシュ集団が社会的にこの時期に仲間の交換を通じてつながっていた、と示します。ハウシュ集団はセルクナムやアオニケンク集団と同じチョン(Chon)語族の言語を話しますが、ヤマナ集団の言語は孤立しているか、カウェスカル集団と関連しています。しかし、それにも関わらず、言語の境界を越えての遺伝子流動がありました。ヨーロッパ人到来後の南パタゴニアにおける集団継続性は、現代のヤマナおよびカウェスカル集団と同地域の古代の個体群との遺伝的類似性により支持されます。これは上記の問題(6)の回答です。

 パタゴニア以外のアルゼンチン集団との遺伝的交換の証拠は見つかりませんでした。これは、アルゼンチン草原地帯の2400年前頃となるラグナトロ個体もしくは現代チェイン(Chane)人との遺伝的類似性の欠如に基づきます。しかし、数千年にわたるチリ中央部から、およびアルゼンチン草原地帯内の人々の大規模な移動の証拠は見つかっています。さらなる研究の重要な目標は、パタゴニアでも南部(とくに西海岸)だけではなく、中央部・北部における追加の古代DNA標本抽出の実行です。本論文では、中央および西パタゴニアでの現代人集団の分析により、北から南への遺伝子流動を反映するチリ中央部関連系統の勾配が検出されており、世界でも独特なこの地域の先住民文化を形成した人々の間の、相互作用へのより高い解像度と追加の洞察を提供します。


参考文献:
Nakatsuka N. et al.(2020): Ancient genomes in South Patagonia reveal population movements associated with technological shifts and geography. Nature Communications, 11, 3868.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17656-w

古代の人類間の遺伝子流動

 古代の人類間の遺伝子流動に関する研究(Hubisz et al., 2020)が報道されました。遺伝子流動が過去数十万年の人類集団間で起きたことはよく確認されています。古代の遺伝子流動の最もよく研究された事例は、アフリカからユーラシアに拡散してきた現生人類(Homo sapiens)と、ユーラシアの在来人類集団であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との間で5万年前頃に起きた交雑です。この時の交雑により現代人はネアンデルタール人からDNAを継承しており、非アフリカ系現代人のDNAの1~3%はネアンデルタール人に由来します。また、ネアンデルタール人と近縁な種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)に由来するDNA領域は、オセアニア現代人のゲノムに2~4%存在します。

 他に多くの混合事象が提案されており、古代人類における複雑な相互作用が示唆されます。その中には、ネアンデルタール人とデニソワ人との間の遺伝子流動(関連記事)や、10万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散した現生人類からネアンデルタール人へ(関連記事)、おそらくはホモ・エレクトス(Homo erectus)だろう「超古代型」人類からデニソワ人へ(関連記事)、他の未知の古代型人類からアフリカのさまざまな現生人類集団へ(関連記事)、といった組み合わせの遺伝子流動が含まれます。

 相互作用のネットワークがより複雑になるにつれて、標準的な方法で遺伝子流動を検証したり、遺伝子移入された領域を特定したりすることが、ますます困難になります。たとえばアフリカ現代人に関して、デニソワ人との場合と比較して、ネアンデルタール人との間の共有アレルの過剰が示唆されています。この観察結果は、ネアンデルタール人とアフリカ現代人の祖先との間の遺伝子流動か、超古代型人類からデニソワ人への遺伝子流動によりデニソワ人とアフリカ現代人との間のアレル(対立遺伝子)共有が減少したことで、説明できるかもしれません。なお、この観察結果に関しては、本論文では取り上げられていませんが、その後の研究(関連記事)で示された、アフリカ現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合がじゅうらいの推定よりもずっと高い、という知見により説明できそうです。

 さらに、遺伝子流動の存在を示す強力な証拠がある場合でも、特定の遺伝子移入された領域を識別することは困難です。この問題の解明は、ネアンデルタール人から現生人類もしくはデニソワ人から現生人類の場合よりも、超古代型人類からデニソワ人から現生人類および現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動事象の方がずっと困難です。それは、両方ともずっと古い年代に起きたと仮定されており、遺伝子移入されたハプロタイプは組換えによりずっと解体されていることと、超古代型人類の利用可能な配列がないからです。また、ネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムデータが少ないことも制約となります。そのため、現在の手法は、古代の人類における交雑事象を検出するのに理想的ではなく、もっと最近の遺伝子移入を特定するというより容易な問題に最適化されています。さらに、これらの手法はいくつかの要約統計量のみを用います。ゲノム標識がより微妙な場合、モデルベースの手法を用いて全データを組み込む必要があります。

 本論文は、ARGweaver-Dという強力でひじょうに一般的な新手法を報告します。これは、集団の分岐年代・規模変化・移住事象を含む、一般的な人口統計学的モデルを条件とする祖先の組換え図(ARG)を標本抽出します。ARGweaver-Dの導入後、シミュレーション研究が提示されます。これは、限定的なゲノム数を用いた時でさえネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入を上手く検出でき、現生人類からネアンデルタール人、超古代型人類からデニソワ人やアフリカ現代人の祖先を含む、より古い移住事象を検出する能力も有します。本論文はこの手法をアフリカ現代人と古代の人類に適用し、現生人類と古代型人類との間の遺伝子移入の新たな事例と以前に報告された事例の両方を特徴づけます。


●ARGweaver-Dの能力評価

 ARGweaver-Dは任意の人口統計学的モデルを条件として、ARGを標本抽出できます。ARGweaver-DはARGweaverの主要な拡張で、使用者の定義した集団モデルを条件としてARGを推定できます。このモデルは、過去に系統を共有する現代集団の任意の数で構成でき、最も祖先的な分離時点における単一の任意交配集団に合着します。集団規模は各集団の時間間隔ごとに個別に特定できます。集団間の移住事象も追加でき、それらは即座に起きると推定され、使用者定義の時間と確率を伴います。通常、ARGweaver-Dの使用に適した人口統計学的モデルは、文献から、もしくは前処理段階での方法を適用して取得できます。

 ARGweaver-Dの能力と精度は、現生人類へのネアンデルタール人からの遺伝子移入の特定のシミュレーションで評価されました。全体的に、ARGweaver-Dは条件付き確率場(CRF)よりもパフォーマンスが向上しており、長い断片ではさほど改善されませんが、短い断片では改善が顕著です。ARGweaver-Dにより推定される、人類系統の分岐と各系統間の交雑関係と有効人口規模は図3にまとめられており、ネアンデルタール人とデニソワ人の系統では有効人口規模の減少が想定されます。以下、本論文の図3です。
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 ARGweaver-DとCRFで、現代のパプア人・バスク人・アフリカ人(マンデンカ人およびサン人)におけるネアンデルタール人およびデニソワ人系統の検出も比較されました。いずれも、パプア人においてネアンデルタール人よりもデニソワ人に由来するDNA領域が多いと予測されているにも関わらず、ネアンデルタール人の方が多い、との結果が得られています。これは、デニソワ人からの遺伝子移入を検出する能力が低いことで説明できます。それは、デニソワ人のゲノムデータが南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡で発見された個体からしか得られていないのに、パプア人(およびオーストラリア先住民)の祖先と交雑したデニソワ人は、アルタイ地域とはずっと前に分岐した系統であることに起因します。

 一方、ネアンデルタール人に関しては、高品質なゲノムデータが得られているアルタイ地域(デニソワ洞窟)個体とクロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡個体の比較で、クロアチア個体の方が非アフリカ系現代人の祖先集団と交雑したネアンデルタール人系統により近い、と推測されています(関連記事)。ARGではこの情報が反映されており、現代パプア人との間の遺伝子移入系統の平均合着年代は、クロアチアのネアンデルタール人とで262000年前、アルタイ地域ネアンデルタール人で326000年前、デニソワ人で396000年前です。バスク人の場合、クロアチアのネアンデルタール人との平均合着年代は236000年前で、アルタイ地域のネアンデルタール人との292000年前よりも新しくなっています。

 ARGweaver-Dではネアンデルタール人から現代アフリカ人への約0.5%の遺伝子移入が検出され、誤検知の可能性も、ネアンデルタール人と交雑したユーラシア現生人類集団の一部のアフリカへの「逆流」による可能性もあります(関連記事)。また上述のように、10万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散した現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入が推測されているので、その領域が検出された可能性もあります。少ない標本では、2集団間の移住方向の決定が困難な場合もあります。

 次に、ARGweaver-Dのより古い遺伝子移入事象を検出する能力が評価されました。そのため、アフリカの人口史のモデルを用いて、現代人の標本がシミュレートされました。これらのシミュレーションには、現生人類からネアンデルタール人、標本抽出されていない「超古代型」人類からデニソワ人、「超古代型」人類から現代アフリカ人系統という、3つの移住(遺伝子移入)事象が含まれます。デニソワ人とアフリカ人への遺伝子移入をもたらした「超古代型」人類は、同じ系統とは限りません。その結果、分岐年代が古い(違いが大きくなります)ほど、また遺伝子流動事象が新しいほど、検出する能力が高いと明らかになりました。偽陽性率は、事後確率閾値0.5で1%未満となり、ARGweaver-Dには古い遺伝子移入事象を検出する能力がある、と確認されます。


●古い遺伝子移入

 ARGweaver-Dの能力と精度が確認されたので、ARGweaver-Dを用いて、現代人および非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)のゲノムが分析されました。全体的に、アルタイ地域とクロアチアのネアンデルタール人の両方で、現生人類からの遺伝子移入領域が最も高く(3%程度)検出されますが、このモデルの真陽性率が30~55%だとすると、この値はほぼ確実に過小評価です。対照的に、わずか0.37%の領域が現生人類からデニソワ人への遺伝子移入として分類されます。

 現代人のどの地域集団についても言えますが、常染色体よりもX染色体の方で、デニソワ人およびネアンデルタール人由来のゲノム領域の割合がずっと少ない、と明らかになっており(関連記事)、それは本論文が対象とした現代人集団でも確認されました。対照的に、アルタイ地域とクロアチアのネアンデルタール人では、X染色体において現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入の高網羅率が観察され、常染色体よりもやや高いくらいです。ただ、常染色体ではかなりの変動が見られ、1・6・21・22番などいくつかの常染色体ではX染色体よりも高い網羅率が予測されます。クロアチアのネアンデルタール人はアルタイ地域のネアンデルタール人より7万年後となるものの、常染色体における現生人類系統の枯渇は示されず、負の選択がその間に現生人類から遺伝子移入された領域を大きくは喪失させなかった、と示唆されます。しかし、アルタイ地域のネアンデルタール人と比較して、クロアチアのネアンデルタール人の一部の染色体では網羅率の減少が見られ、その最大のものはX染色体です。

 他の移住(遺伝子移入)事象は、より低水準で検出されます。デニソワ人のゲノムの1%は、超古代型人類からの遺伝子移入と特定されます。これを6%と推定する先行研究と比較すると低く、これは超古代型人類が現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先系統と分岐したのがやや新しく、150万年前頃よりも100万年前頃に近かったことを示唆します。それでも、超古代型人類からデニソワ人へと遺伝子移入されたと推定される2700万塩基対の配列が得られました。ARGweaver-Dではさらに、ネアンデルタール人ゲノムのうち、アルタイ地域個体の0.75%、クロアチア個体の0.70%が超古代型人類からの遺伝子移入と予測します。ただ、これは推定偽陽性率(0.65%)をわずかに超えるだけなので、確定的とは言えません。

 超古代型人類からデニソワ人、およびおそらくはネアンデルタール人への遺伝子移入事象からは、その後のデニソワ人やネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入事象を通じて、超古代型人類のDNAが現生人類に継承される可能性を提起します。じっさい、超古代型人類からデニソワ人へと遺伝子移入された領域の15%は、デニソワ人からアジア南東部の一部およびオセアニアの現代人集団に遺伝子移入された配列と重複しており、その多くには、超古代型人類からの遺伝子移入と一致する多くの多様体が含まれます。また、超古代型人類からネアンデルタール人への遺伝子移入領域の35%が、少なくとも1人のアフリカ現代人で観察されます。とくに、6番染色体の1領域は、超古代型人類からからネアンデルタール人への遺伝子移入領域と重なります。現生人類からネアンデルタール人への古い遺伝子移入の年代は、正確には特定できないものの、30万~20万年前頃と推定されます。超古代型人類からデニソワ人への遺伝子移入は、225000年以上前と推定されます。


●遺伝子移入領域の機能分析

 上述のように、本論文のいくつかの観察では、現生人類からネアンデルタール人への古い遺伝子移入では選択が欠如していたかもしれない、と示唆されました。そこで、選択が作用したかもしれない領域を検証したところ、ネアンデルタール人とデニソワ人から現生人類への遺伝子移入領域で、4ヶ所の1000万塩基対の「砂漠(他集団からの遺伝子移入に由来するDNAが全く、あるいは殆ど存在しない領域)」が見つかりました。遺伝子移入率は1/1000未満です。

 これらの「砂漠」では、現生人類からネアンデルタール人へのかなり高い網羅率が観察されており、遺伝子移入の偏りは一方向性と示唆されます。2ヶ所の「砂漠」では、とくにアルタイ地域のネアンデルタール人において、現生人類からネアンデルタール人への網羅率がひじょうに高くなっています。注目されるのは、3番目の領域がFOXP2遺伝子と重なっていることです。2007年に、ネアンデルタール人にも現代人型のFOXP2遺伝子変異が存在すると明らかになり(関連記事)、現生人類からネアンデルタール人に導入されたのではないか、と考えたくなりますが、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入領域は、現代人型のFOXP2遺伝子変異の上流に位置します。

 ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入における「砂漠」についてさらに調べると、1000万塩基対以上の30領域が特定されました。しかし、これらの「砂漠」は、規模が一致する無作為に選択された一連のゲノム領域と有意に異なるわけではありません。遺伝子移入された領域における機能要素の濃縮もしくは枯渇に関しては、遺伝子移入された非翻訳領域やプロモーターやコーディング領域といった機能的領域の濃縮が、クロアチアのネアンデルタール人よりもアルタイ地域のネアンデルタール人で高い傾向にある、と明らかになりました。これは、負の選択から予想されるパターンとは反対です。


●まとめ

 ARGweaver-Dの使用は比較的小さな標本規模(最大で約100の半数体ゲノム)に限定されますが、この設定でも、とくに古い遺伝子移入事象において、優れた能力を発揮します。またARGweaver-Dには、遺伝子流動の検出に関して、他の手法と比較していくつかの利点があります。たとえば、遺伝子移入されていない個体を参照配列として用いる必要がなく、複数の事象に由来する遺伝子移入を特定でき、それは標本抽出されている集団からもそうでない集団からも可能です。本論文は遺伝子移入に焦点を当てましたが、ARGweaver-Dは人口統計学的なARG推論の一般的手法でもあり、他にも多くの応用の可能性があります。

 ネアンデルタール人のゲノムにおける現生人類由来の領域は3%と推定されましたが、真陽性と偽陽性の推定率に基づく大まかな推定では7%と示唆されます。これは、非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合(2~3%)より高くなります。この現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入は30万~20万年前頃に起きたと推定され、5万年前頃となる非アフリカ系現代人の主要な祖先集団とネアンデルタール人との交雑とは異なる事象だったようです。

 ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体は、デニソワ人に近い系統から現生人類に近い系統へと置換された、と推測されています(関連記事)。本論文が示した現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入は、これと関連しているかもしれません。この置換の下限年代は27万年前頃と推定されていますが(関連記事)、ネアンデルタール人個体群におけるmtDNAと核DNAの系統樹の相違からは、異なる進化史も想定されます(関連記事)。

 20万年以上前の現生人類とネアンデルタール人との交雑に関しては、遺伝的証拠だけではなく化石証拠も提示されており、ギリシア南部では21万年前頃となる現生人類的な頭蓋が発見されています(関連記事)。現生人類からネアンデルタール人への古い遺伝子移入が起きたと推定される年代に、ユーラシアに(広義の)現生人類が存在していた、というわけです。これら早期現生人類は後に絶滅し、現代人にはネアンデルタール人を経由してのみ遺伝的痕跡を残しているかもしれません。

 現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入における機能的影響の可能性に関しては、遺伝子移入された領域を検出する能力に影響を与える既知および未知の要因により、解明は困難です。遺伝子移入を検出する能力が高いネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入の場合でも、遺伝子近くの枯渇や時間の経過に伴う遺伝子移入領域の低下といった主張には疑問も呈されています(関連記事)。ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入における負の選択の最も強い証拠は、X染色体および他のいくつかの「砂漠」における枯渇です。しかし、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入事象では、X染色体における枯渇は見られず、ネアンデルタール人のゲノムにおける「砂漠」を検出するには、標本が少なすぎます。

 一方、以前にネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入で特定された「砂漠」では、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入では枯渇が見られない、と確認されました。アルタイ地域のネアンデルタール人と比較してクロアチアのネアンデルタール人では、X染色体における現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入のわずかな減少が見られます。これは、アルタイ地域個体がクロアチア個体よりも7万年古いという両者の年代の違いのため、その間に遺伝子移入領域を除去する弱い負の選択が作用した、と想定することにより説明できます。負の選択が観察されないことは、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入により導入された多様性が適応度を高めたのか、それともネアンデルタール人集団が有害な多様体を効率的に除去するにはあまりにも小さかったのか、という問題を提起します。この問題は、追加の古代型ホモ属の標本で解決できるかもしれません。

 ARGweaver-Dでは、デニソワ人のゲノムにおける超古代型人類から遺伝子移入された1%の領域も特定されました。以前にはこの割合は6%と推定されていました。本論文により示された新たな推定は、この超古代型人類が現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先系統からさほど遠い関係にはなく、両者の分岐年代が150万年前頃よりも100万年前頃に近い、と示唆します。デニソワ人のゲノムにおける超古代型人類由来の領域が2700万塩基対特定され、そのうち約15%が、デニソワ人と現生人類との交雑を通じて、一部の現代人集団に継承された、と推定されます。つまり、一部の現代人のゲノムのうち約400万塩基対は、2回の遺伝子移入事象を通じてもたらされ、遺伝学的に未知の超古代型人類に由来することになります。

 本論文は、この超古代型人類がホモ・エレクトス(Homo erectus)である可能性を指摘します。ただ、100万年前頃に近い分岐年代だとすると、イベリア半島で確認されているホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)が超古代型人類かもしれません。それはともかく、さらに、現時点での検出能力の問題により、超古代型人類からの遺伝子移入領域が6倍になる可能性もあります。インドネシアとパプアニューギニアの島々の14集団161人の網羅率30倍以上となる高品質なゲノム配列(関連記事)の適用により、この超古代型人類に由来する領域をさらに特定できるかもしれません。

 上述のように、アフリカ現代人における未知の超古代型人類からの遺伝子移入の可能性が指摘されています。ARGweaver-Dでは、このパターンの割合は低く、推定される偽陽性率よりもやや低くなっています。しかし、配列されていない集団から遺伝子移入を特定する能力は、遺伝子移入された集団の規模に強く依存します。より大きな集団で、その集団内の合着がより深いと、どの系統が超古代型人類からの遺伝子移入により説明できるのか、決定するのがより困難になります。

 アフリカ人に関して、本論文は23700人という集団規模を用いました。より小さな集団規模を用いると、ARGweaver-Dでは超古代型人類からアフリカ人への遺伝子移入がより多く推定されますが、偽陽性率がずっと高くなる可能性もあります。ARGweaver-Dの欠点の一つは、それが人口統計学的モデルに依存しており、間違ったモデルを選択すると、誤った結果が生じることです。本論文では、ARGweaver-Dが適度な誤指定に対してかなり堅牢と示されましたが、ARGweaver-Dの実行前には、慎重な人口統計分析により、できるだけ最良のモデルを使用する必要があります。

 本論文では、現生人類からデニソワ人と、超古代型人類からネアンデルタール人という組み合わせで、わずかな遺伝子移入が検出されました。これらの遺伝子移入事象は以前の研究では報告されていないため、予測は誤検出率とおおむね一致する、と予想されました。現生人類からデニソワ人の遺伝子移入事象では、シミュレーションから推定された偽陽性率(0.41%)よりもわずかに低い割合(0.37%)が予測されました。しかし、超古代型人類からネアンデルタール人への遺伝子移入事象では、0.75%が予測され、推定偽陽性率(0.65%)よりわずかに高くなります。

 これらの断片は小さすぎるので、強力な結論を提示できませんが、ホモ・エレクトスがデニソワ人と交雑したならば、おそらくは中東でネアンデルタール人と交雑した可能性もあります。あるいは、ネアンデルタール人のゲノムにおけるホモ・エレクトス由来のDNAは、ネアンデルタール人がデニソワ人との交雑により継承したのかもしれません。本論文では言及されていませんが、アルタイ地域ではネアンデルタール人とデニソワ人との交雑が一般的だった、と推測されています(関連記事)。現時点で報告されている遺伝子流動事象の数を考慮すると、2集団が重複している時空間ではいつでも、遺伝的交換(交雑)が起きた可能性は高い、と仮定するのが合理的かもしれません。


参考文献:
Hubisz MJ, Williams AL, Siepel A (2020) Mapping gene flow between ancient hominins through demography-aware inference of the ancestral recombination graph. PLoS Genet 16(8): e1008895.
https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1008895

実父から子への性虐待が多い理由

 表題の発言を見かけました。正確には、表題の発言への批判をまずTwitterで見かけたのですが、昨日(2020年8月9日)当ブログに掲載した記事と関連しそうなので、短く取り上げます。まず、表題の発言(以下、ツリーになっているので先頭のみリンクを張りますが、続きを示す記号は省略します)は

実父から子への性虐待が多い理由に、男性が育児家事に主体的に取り組まないこの国の風土があると思う。パートナーのお腹に宿った命に喜び、無事に育つよう祈り、パートナーの体調に配慮し、やっと生まれた命。昼夜なく抱き、あやし、お腹を満たし、清潔にし、歌ってやり、何度も吐瀉物を浴び、排便の
世話をして大事に育てた子どもに性的ないたずらを出来るとしたら精神異常者。でも、日本の実父から子に対する性虐待は殆どそれが当てはまらないのではと思っている。中出ししたらいつの間にか妊娠し、いつの間にか生まれ、「辛いとか責められて面倒」と家にいる時間をなるべく少なくし、子に関わる
時間も持つことなくいたら、いつの間にか子が育っていた。同じ家の中にいても突然現れた他人であり肉体なんだと思う。手ずから育てたものを痛めつけられる人間は少ない。だが急に立ち現れた弱者に対しては、罪悪感を抱きにくいのでは。だっていつの間にかいたんだもん。反吐が出る。
偏見があることを承知で言うが、男親の「子の成長はあっという間」という言葉は、育児に関わっていない人間の言葉にも聞こえる。24時間365日幼い命を想っていれば、1日も1ヶ月も1年も、とても長く感じるものだから
【補足】コメントが増えて来たので補足すると、私は父親からも母親からも暴力に合いながら育って来た人間です。父親については人権意識の欠如から、母親については父からの経済的DV+身体的DVが子に連鎖する形で、の暴力だったと思う。あくまで今回は実父→子への性加害をミニ考察した形。
男親が子の人権を尊び、育児にコミットしているケースも勿論沢山見知っているし、日本中全ての男親が育児せず性加害するとも言っていない。日々子を慈しみ育てる世の全ての親に敬意を表すとともに、子を虐待する全ての親が地獄に落ちることを祈念します。


というものです。次に、この一連の呟きに対する批判は、

虐待のほとんどは実親で、しかも実母が圧倒的に多いけど、何の話ししてるんだろう。
性虐待だけの話をしてるなら性犯罪一般が圧倒的に男性の方が多いから、で終了だしな。他の国では珍しいなんてことも言うまでもなくないし。
「男性が育児家事に主体的に取り組まないこの国の風土」に問題があるとすれば、それによって母親の虐待が増えることだろうけど、母親については免責したいから訳わからんことになっちゃうんだろうな。そして「風土」という表現に強い他責性を感じるね。
家事育児に主体的に取り組みそうな男性は選ばれないというか、他の条件に家事育児に主体的に取り組むをオンしちゃうから、普通の男がいないとかなっちゃういつもの。


というものです。このやり取りに関して深く突っ込む能力と気力はないので、昨日の記事との関連に限定すると、実父から子供への性的虐待(そのほとんどは娘が被害者なのでしょう)と育児との間には、相関があっても不思議ではないように思います。育児に熱心な実父ほど、子供を性的に虐待することは少ないのではないか、というわけです。これを詳しく検証する能力と気力はないものの、その理由を述べると、ほぼ昨日の記事のコピペになってしまいますが、以下の通りです。

 現生人類(あるいは他の人類系統も)は双系的社会を基本としつつ多様な社会を築きましたが、ヒト上科、あるいはオランウータン属の事例があるのでヒト亜科に限定するとしても、基本的には非母系社会が特徴で、長い時間進化してきたように思います。おそらくこれは、近親交配回避の仕組みとして進化してきたのでしょう。近親交配の忌避は人類社会において普遍的に見られ、それは他の哺乳類種でも広く確認されることから、古い進化的基盤があると考えられます。近親交配回避の具体的な仕組みは、現代人も含む多くの霊長類系統においては育児や共に育った経験です(関連記事)。したがって、人類系統においては、チンパンジー属系統や、さらにさかのぼってオナガザル科系統との分岐前から現代までずっと、この近親交配回避の生得的な認知的仕組みが備わっていたことは、まず間違いないでしょう。つまり、人類系統あるいはもっと限定して現生人類系統で独自に近親交配回避の認知的仕組みが備わったこと(収斂進化)はとてもありそうにない、というわけです。

 その意味で、育児を殆ど或いは全くしないような実父が、子供(ほとんどの場合は娘)を性的に虐待しやすくなる、という相関があっても不思議ではないように思います。もっとも、これを証明するだけの能力と気力はなく、データを提示できるわけでもないので、私の思いつきにすぎませんが。なお、現生人類においては近親交配が低頻度ながら広範に見られる理由については、昨日の記事で述べているので、この記事では繰り返しません。

ペルー南部沿岸地域におけるインカ帝国期の移住

 ペルー南部沿岸地域におけるインカ帝国期の移住に関する研究(Bongers et al., 2020)が公表されました。解析技術の進展により多数の標本のゲノム規模分析が可能となり、古代DNA研究は過去を研究する強力な手法となりました。ゲノム規模データは、さまざまな地域の集団や個体群の系統の推測を高精度で可能とします。これにより、同じ地域での経時的な系統変化や、同時期に共存していた異なる系統の集団さえ特定できます。両パターンとも、最近の混合されていない移住もしくは在来集団と新たな移民との混合を含む、その地域への移住の証拠を提供します。

 しかし、古代DNA研究には、大陸および地球規模の遺伝的分析を好む傾向があり、より地域的な規模での移動を充分にはモデル化していない「時空間にわたる壮大な物語」をもたらす、との批判もあります。また、古代DNA研究は効率的に人々の移動を特定する一方で、そのような移動が起きた経緯と理由を説明する充分な背景もしくは理論を滅多に提供しない、との批判もあります。こうした規模・背景・標本数の問題は、移動の理解を制約します。それは、考古学的文化の問題のある仮定をもたらすからです。また、遺伝学的研究には移動を単なる説明的な「ブラックボックス」として扱う傾向がある、との批判もあります。こうした遺伝学的研究の批判により、古代DNAを含む単一タイプのデータは単独で移動を特定し説明できない、と明らかになりました。これらの複雑な問題の解明には学際的手法が必要です。

 異なるタイプのデータを統合し、各タイプがさまざまな時期と集団規模の人類学的モデルを検証する範囲を評価することが重要です。本論文は、複雑な社会の移動をより効率的に特定・文脈化・説明するために、地域規模での複数の独立した証拠を統合する学際的手法を採用します。この学際的手法は、ドイツ南部の後期新石器時代~初期青銅器時代の研究(関連記事)や、ランゴバルド人のゲノム解析(関連記事)といったいくつかの遺伝学的研究で採用されており、本論文ではペルー南部沿岸のチンチャ渓谷(Chincha Valley)の事例研究で示されます。チンチャ渓谷は、15世紀にインカの影響を受けた外来民の移動目的地にされたと報告されており、乾燥気候のため装飾された人工物など帰属の重要な指標や古代DNAが保存されやすいので、この調査に適しています。インカは、男性・女性・子供を追い立て、故郷から移動させた社会の一つです。このインカ帝国の強制移住政策は、アンデスの社会政治的景観を変えましたが、考古学的記録で特定することは困難です。また本論文は、この研究が先住民共同体との合意に基づいて行なわれた、と明記しています。


●学際的な事例研究

 移動は人類の行動において重要で、その要因は気候変動や軍事的脅威や上位権力による強制などさまざまです。人類の移動理由の理解は、人口史の解明に重要です。人類の移動に関しては、考古学・生物考古学・生物地球化学・言語学・遺伝学などにより研究されてきました。本論文が対象とするペルー南部沿岸のチンチャ渓谷では、1000~1400年頃となる後期中間期(Late Intermediate Period)にチンチャ王国として知られる複雑な政治体制が存在しました。16世紀の文献では、チンチャ王国は農民・漁民・商人を含む人々の相互依存的な共同体のネットワークで構成されている豊かな社会と記録されています。1400~1532年頃となる後期ホライズン(Late Horizon)にインカはチンチャ渓谷を統合し、交易ネットワークの拡大、インカとチンチャの領主が率いる「二重統治」政治システムの導入、外部居住者の強制移動をもたらしました。

 チンチャ渓谷中部での最近の考古学的研究により、44ヶ所の墓地遺跡に密集する500以上の墓が明らかになりました。墓は、地下の棺に遺骸を収めるタイプと、地上と地下の霊廟タイプがあります。本論文は、自然石で作られた地下の霊廟タイプの墓に葬られた遺骸の分析結果を報告しています。一方のUC-008の1号墓の大きさは3.09m×2.35mで、少なくとも117人が葬られており、織物・土器・トウモロコシおよびヒョウタンの破片が共伴します。UC-012の33号墓の大きさは2.15m×2.10mで、人数は不明ながら複数個体が葬られており、織物・トウモロコシ・ヒョウタンが共伴します。以前の研究の放射性炭素年代では、UC-008の1号墓が後期ホライズンおよび1532~1825年となる植民地期と推定されています。植民地期の人工物はチンチャ渓谷中部では発見されていないので、UC-008の1号墓に葬られた個体群の年代は後期ホライズンと示唆されます。

 まず、後期ホライズンにおける移動を示唆するいくつかの証拠が再調査されます。それは、土器・織物・ストロンチウム同位体データと、インカが政策の一部として外部住民をチンチャ渓谷も含めてインカ南部沿岸に移動させた、と主張する植民地期の文献を含んでいます。各証拠の限界が強調され、データセットの単一タイプだけでは移動を特定できず、その経緯と理由も説明できない、と示されます。次に、UC-008の1号墓とUC-012の33号に葬られた6人のゲノム規模データと、6人のうち4人の直接的な加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代が提示されます。


●チンチャ渓谷への移住の証拠

 土器は交易でもたらされ、導入先で模倣される可能性もあり、人類の移動の絶対的な指標になるわけではありません。しかし、適切に文脈化されれば、アンデス地域でも潜在的な移動の重要な指標となります。以前の調査では、チンチャ渓谷全体で中央部および北部沿岸様式の土器が見つかっています。チンチャ渓谷下流域のワカラセンティネラ(Huaca La Centinela)遺跡に近い6ヶ所の墓地では、後期ホライズンの55個の土器が発見され、パチャカマクインカ(Pachacamac-Inca)やチムー(Chimú)や「中央部~北部沿岸」様式を含む、多様な外来土器様式が識別されました。塊茎や果物の形の9個の瓶は、中央部~北部沿岸様式に見られます。

 織物はアンデス地域において集団を区別する重要な指標となりますが、同時代の土器よりも考古学的記録には残りにくい、という欠点もあります。UC-008の1号墓では、縦糸と横糸が組み合わされた平織りの北部沿岸地域の織物様式が、64%(141点のうち90点)で確認されました。チンチャ渓谷の住民が、北部沿岸地域の織物様式伝統の影響を受けたか、交易で入手した可能性は除外できません。しかし、外部の織物技術の模倣は難しく、外部技術の割合が高いので、そうした可能性は低そうです。

 ストロンチウム同位体比データは、人類の移動の指標となります。しかし、地質的特徴が均一な多くの沿岸地域間の移動を明らかにすることはできません。UC-012の33号墓で見つかった7人の歯のエナメル質からストロンチウム同位体比が測定されましたが、北部・中央部・南部の沿岸地域の同位体比の範囲と重複します。したがって、UC-012の33号墓で見つかった7人の出身地がアンデス地域とまでは特定できても、より正確な起源は不明です。

 植民地期の文献は、偏見が見られるものの、とくに後期ホライズンの移動パターンへの重要な手がかりを提供します。これらの文献は、強制移住に関するインカの政策を記載しています。インカは各州からかなりの人数を選んで新たな地域に移動させました。各事例の距離は異なりますが、一般的に故郷と類似した生態系が選ばれました。こうした移住は、インカ帝国に対する脅威の緩和と、経済支援が目的でした。チンチャ渓谷での強制移住を記載した文献もあり、その起源地は不明ですが、植民地期の複数の文献からは、北部沿岸地域の可能性が想定されます。これは、インカ帝国がチムーを征服し、それに続く蜂起を鎮圧して政治構造を解体した後に、以前はチムーに属していた北部沿岸地域集団を南部沿岸地域に移住させたためです。その中には、金細工師や漁民や水利管理の専門家も含まれていました。外来集団の到来は、チンチャ渓谷の後期中間期および後期ホライズで確認された、人口や灌漑や農業生産水準の増加と関連しているかもしれません。しかし、植民地期の前に外来集団がチンチャ渓谷に存在していたのか、そうだとして起源はどこなのか、またその理由は何なのか、インカ帝国による強制という証拠はあるのか、といった問題は、文献だけでは解決できず、複数のデータを統合することで可能となります。

 UC-008の1号墓の2人とUC-012の33号墓の4人のゲノム規模データが得られました(平均網羅率は0.71~1.65倍)。このうち、UC-008の1号墓の2人とUC-012の33号墓の2人で直接的な放射性炭素年代値が得られました。年代は1505~1645年(信頼区間95%では1415~1805年)で、後期ホライズンも含まれます。まず、6人が1もしくは2親等の親族ではない、と確認されました。次に、主成分分析やADMIXTURE分析やqpWave分析やf4・f3統計が行なわれました。これらの分析全てで、UC-008集団とUC-012集団は遺伝的にひじょうに類似している、との結果が得られました。UC-008集団とUC-012集団は互いにクレード(単系統群)で、その系統は均質です。UC-008集団とUC-012集団はペルー北部沿岸地域の古代個体群と最も類似しており、その系統だけで充分にモデル化できます。これは、アルゼンチンで発見された後期ホライズンの犠牲とされた少年と、インカ帝国期のトロントイ(Torontoy、聖なる谷)遺跡の個体と同じ系統です。ただ、本論文で用いられた古代の個体は、北部沿岸地域ではエルブルホ(El Brujo)遺跡、中央部沿岸地域ではリマ(Lima)で発見されたものに限定されています。チンチャ渓谷の後期ホライズンの6人は、遺伝的に古代のエルブルホ個体群と最も類似しているものの、もっと南、つまりエルブルホとリマの間に、さらに類似した集団が存在したかもしれません。つまり、より正確な起源地はまだ断定できません。


●まとめ

 本論文は、土器・織物・ストロンチウム同位体・ゲノム規模データ・植民地期の文献という複数の独立した証拠を統合して、チンチャ渓谷の後期ホライズンにおける人類の移動を分析しました。これらのデータは、植民地期の前にチンチャ渓谷へ外部集団が到来した、という点で一貫しています。チンチャ渓谷のUC-008の1号墓およびUC-012の33号墓の6人の遺伝的構成はひじょうに類似しており、ストロンチウム同位体からはアンデス沿岸地域起源が示唆されますが、ゲノム規模データは、その中でも北部沿岸地域起源の可能性が高い、と示します。チンチャ渓谷における北部沿岸地域様式の土器と織物も、この見解を支持します。

 このアンデス沿岸地域における北部から南部への移動手段・経路は、歩行・リャマの隊商・舟による沿岸航海が想定されます。チムーの首都であるチャンチャン(Chan Chan)では、交易場所として利用された可能性のある2ヶ所の隊商宿が発見されています。おそらくはチムーの領主の家臣だった商人は、バルサ製の筏を用いて、エクアドルの貝殻を入手し、アンデスを横断して輸送した可能性があります。北部沿岸地域からチンチャ渓谷に移動してきた集団も、海路もしくは陸路、あるいはその両方を利用したかもしれません。

 移動理由に関しては、本論文のデータはインカ帝国による移住モデルと最も適合しています。上述のように、植民地期の文献にはチンチャ渓谷への強制移住が見えます。チンチャ渓谷中央部には川と同鉱山があり、水利管理の専門家と鉱山労働者の移住の主要な目的地となり得ます。もしそうならば、インカ帝国は移住者に伝統的な衣服の着用を要求したので、チンチャ渓谷では北部沿岸地域様式の織物が見つかると予想され、じっさいにチンチャ渓谷では発見されています。これは、土器やストロンチウム同位体やゲノム規模データとも一致します。

 ただ、本論文で分析されたチンチャ渓谷の北部沿岸地域起源集団が、後期ホライズンよりも前に自主的に到来した可能性は、遺伝的に除外できません。たとえば、北部沿岸地域の商人がインカ帝国の前にチンチャ渓谷に到来しても不思議ではありません。しかし、ゲノム規模データからは、チンチャ渓谷の後期ホライズンの6人が、本論文の解像度では混合されていない北部沿岸地域系統と示され、文献および考古学的記録と一致する、より最近の移住を強く支持します。最近の古代DNA研究でも、インカ帝国による強制移住の可能性が示唆されています(関連記事)。後期中間期やその前のチンチャ渓谷の個体群の将来の分析により、後期ホライズンよりも前のチンチャ渓谷の集団が、他のペルー南部沿岸地域集団の特徴をより多く有するのか、評価できます。また、標本数が増えれば、北部沿岸地域から南部沿岸地域への移動がチンチャ渓谷でどの程度広がっていたのか、特定できるようになります。

 本論文は、学際的研究により、古代の移動をより詳細に解明しました。しかし、どれだけの人数が北部沿岸地域からチンチャ渓谷へ移動したのか、チンチャ渓谷における移民の割合はどの程度だったのか、チンチャ渓谷の共同体はどのくらい多様だったのか、移民がチンチャ渓谷の在来集団の社会生活に影響を与えたのか、といった未解決の問題が提起されます。本論文で提示されたような学際的手法は、全ての地域・時代で適用できるわけではありませんが、今後こうした研究が進められ、より詳細な人類史が解明されていくだろう、と期待されます。


参考文献:
Bongers JL. et al.(2020): Integration of ancient DNA with transdisciplinary dataset finds strong support for Inca resettlement in the south Peruvian coast. PNAS, 117, 31, 18359–18368.
https://doi.org/10.1073/pnas.2005965117

中国のモソ人に関する本の紹介記事

 中国南西部のモソ人に関する本『女たちの王国:「結婚のない母系社会」中国秘境のモソ人と暮らす』(曹惠虹著、秋山勝訳、草思社、2017年)を取り上げた記事がなかなか話題になっているようです。モソ人については『性の進化論』でも取り上げられていたので知っていましたが(関連記事)、同書ではモソ人の生活が詳しく紹介されているようです。この記事によると、モソ人の社会は母系制で、結婚制がなく、女性には性的自由があり、財産の相続権は女性にしかないばかりか、そもそも男性には交渉権がないそうです。徹底した女性の性的自由こそフェミニズムの目的とするこの記事は、モソ人の社会をフェミニストの理想が体現されている、と評価します。

 正直なところ、この記事のフェミニズム理解には、藁人形論法ではないか、との疑問が残り、この記事が、というか同書が紹介するモソ人社会の認識の妥当性についても、判断を保留せねばならないところがかなりあるかな、とは思います。まあ、フェミニズムは一人一派といった発言もよく聞くので、フェミニストを自任する人の中には、同書で描かれたようなモソ人社会を理想視する人もいるのかもしれませんが。そもそも、私のフェミニズム理解がお粗末というか、あまりにも勉強不足なので、この記事のフェミニズム理解について的確に反論することはできません。フェミニズムについては、新自由主義や優生思想との関連などに興味があるのですが、これまであまりにも勉強不足でしたし、優先順位がそこまで高いわけでもないので、能力の問題もあり、深入りせずに今後も一般向けの言説を読むに留めておくつもりです。

 同書によると、近隣社会は13世紀のモンゴル軍襲来を期に父系社会へと転換していったのに対して、モソ人社会は母系制を維持したそうです。モソ人は交通不便な地域に居住していることからも、「原始社会」をよく保持しているのではないか、と考える人がいても不思議ではありません。しかし、モソ人の言語はチベット・ビルマ語族に分類されるようですから、その主要な起源が黄河中流および下流域の仰韶文化・龍山文化集団にある、との最近の知見(関連記事)を踏まえると、新石器時代黄河流域集団の文化的(おそらくは遺伝的にも)影響を強く受けている、と考えられます。その意味で、モソ人が「原始社会」をよく保持しているのか、かなり疑わしいように思われます。

 ただ、女性の地位低下という観点からは、モソ人が「原始社会」を比較的よく保持している、と考える人もいるかもしれません。中国史において、新石器時代には大きくなかった性差が青銅器時代に拡大した(女性の地位低下ですが、殷・西周期に関しては同位体分析の明確な証拠が得られていないので、具体的に性差の拡大が確認されているのは春秋時代以降)、との見解(関連記事)が提示されているように、社会の複雑化とそれに伴う組織的な軍事力の整備などにより、男性と比較して女性の地位が相対的に低下することは、人類史において珍しくないかもしれません。ただ、性差の小さい社会から性差が大きい社会(多くの場合は相対的な女性の地位低下)への変容は珍しくないとしても、モソ人社会のような明らかな女性優位社会は珍しく、またそのような社会が過去に一般的だったことを示すような人類学や考古学の証拠もないでしょう。その意味でも、モソ人社会が「原始社会」を比較的よく反映している、とは言いにくいように思います。

 また、モソ人が母系社会を守ってきたとしても、それがいつからなのか不明で、人類の「原始社会」が母系的だった証拠にはならないと思います。そもそも、女性の相対的な地位低下という形での性差拡大が、母系社会から父系社会への転換を示す、とも言えないでしょう。人類にとってチンパンジー(Pan troglodytes)とともに最近縁の現生種であるボノボ(Pan paniscus)の社会は、チンパンジー社会と比較して雌の地位が高いとされていますが、ボノボもチンパンジーも父系的な社会を形成しています。ボノボの母親は娘よりも息子の方の交配を支援する傾向にありますが、これも雌が出生集団を出ていくというボノボの父系的社会を反映しているからでしょう(関連記事)。

 ボノボも人類も含まれるヒト上科は、オランウータン属がやや母系に傾いているかもしれないとはいえ、現生種は現代人の一部を除いて基本的には非母系社会を形成する、と言うべきでしょう。チンパンジー属とゴリラ属と人類を含むヒト亜科で見ていくと、現生ゴリラ属はある程度父系に傾いた「無系」社会と言うべきかもしれません。現代人の直接の祖先ではなさそうで、お互いに祖先-子孫関係ではなさそうな、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とイベリア半島北部の49000年前頃のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)について、前者は雄よりも雌の方が移動範囲は広く(関連記事)、後者は夫居制的婚姻行動の可能性が指摘されていることからも(関連記事)、ヒト亜科の最終共通祖先の社会は、ある程度以上父系に傾いていた可能性が高いように思います。

 しかし現生人類(Homo sapiens)は、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、双系的社会が基本と言えるように思います(関連記事)。上述のアウストラロピテクス属やパラントロプス属やネアンデルタール人の事例からは、チンパンジーと分岐した後の人類系統も、チンパンジー属のような父系的社会を形成し、高い認知能力に由来する柔軟な行動を示す現生人類において、父系にかなり偏った社会からモソ人社会に見られるようなかなり母系に偏った社会まで、多様な社会を築くようになったのだと思います。ただ、ネアンデルタール人など現生人類以外の人類の中にも、双系的社会を築いた系統がいたかもしれません。

 現生人類(あるいは他の人類系統も)は双系的社会を基本としつつ多様な社会を築きましたが、ヒト上科、あるいはオランウータン属の事例があるのでヒト亜科に限定するとしても、基本的には非母系社会が特徴で、長い時間進化してきたように思います。おそらくこれは、近親交配回避の仕組みとして進化してきたのでしょう。近親交配の忌避は人類社会において普遍的に見られ、それは他の哺乳類種でも広く確認されることから、古い進化的基盤があると考えられます。近親交配回避の具体的な仕組みは、現代人も含む多くの霊長類系統においては育児や共に育った経験です(関連記事)。したがって、人類系統においては、チンパンジー属系統や、さらにさかのぼってオナガザル科系統との分岐前から現代までずっと、この近親交配回避の生得的な認知的仕組みが備わっていたことは、まず間違いないでしょう。つまり、人類系統あるいはもっと限定して現生人類系統で独自に近親交配回避の認知的仕組みが備わったこと(収斂進化)はとてもありそうにない、というわけです。

 しかし、現生人類においては近親交配が低頻度ながら広範に見られます。最近も、アイルランドの新石器時代社会の支配層における近親交配が報告されました(関連記事)。これはどう説明されるべきかというと、そもそも近親交配を回避する生得的な認知的仕組み自体が、さほど強力ではないからでしょう。じっさい、現代人と最近縁な現生系統であるチンパンジー属やゴリラ属でも、親子間の近親交配はしばしば見られます(関連記事)。人口密度と社会的流動性の低い社会では、近親交配を回避しない配偶行動の方が、適応度を高めると考えられます。おそらく、両親だけではなく近い世代での近親交配も推測されているアルタイ地域のネアンデルタール人が、その具体的事例となるでしょう(関連記事)。

 近親交配を推進する要因としてもう一つ考えられるのは、上述のアイルランドの新石器時代の事例や、エジプトや日本でも珍しくなかった、支配層の特権性です。支配層では、人口密度などの点では近親交配の必要性がありませんが、こうした近親交配は社会的階層の上下に関わらず、何らかの要因で閉鎖性を志向するもしくは強制される集団で起き得る、と考えられます。支配層の事例は分かりやすく、神性・権威性を認められ、「劣った」人々の「血」を入れたくない、といった観念に基づくものでもあるでしょう。より即物的な側面で言えば、財産(穀類など食糧や武器・神器・美術品など)の分散を避ける、という意味もあったと思います。財産の分散は、一子(しばしば長男もしくは嫡男)相続制の採用でも避けられますが、複数の子供がいる場合、できるだけ多くの子供を優遇したいと思うのが人情です。こうした「えこひいき(ネポチズム)」も、人類の生得的な認知的仕組みで、他の霊長類と共通する古い進化的基盤に由来します(関連記事)。

 生得的な認知的仕組みが相反するような状況で、その利害得失を判断した結果、支配層で近親交配が制度に組み込まれたのではないか、というわけです。近親交配の制度的採用という点では、財産の継承も重要になってくると思います。その意味で、新石器時代以降、とくに保存性の高い穀類を基盤とする社会の支配層において、とくに近親交配の頻度が高くなるのではないか、と予想されます。もっとも、農耕社会における食糧の貯蔵の先駆的事例はすでに更新世に存在し、上部旧石器時代となるヨーロッパのグラヴェティアン(Gravettian)が画期になった、との見解もあるので(関連記事)、更新世の時点で、財産の継承を目的とした近親交配もある程度起きていたのかもしれません。

 もちろん、近親交配回避の認知的仕組みは比較的弱いので、支配層における制度的な近親交配だけではなく、社会背景にほとんど起因しないような個別の近親交配も、人類史において低頻度で発生し続けた、と思われます。近親交配の忌避は、ある程度以上の規模と社会的流動性(他集団との接触機会)を維持できている社会においては、適応度を上げる仕組みとして選択され続けるでしょう。しかし、人口密度や社会的流動性が低い社会では、時として近親交配が短期的には適応度を上げることもあり、これが、人類も含めて霊長類社会において近親交配回避の生得的な認知的仕組みが比較的緩やかなままだった要因なのでしょう。現生人類においては、安定的な財産の継承ができるごく一部の特権的な社会階層で、「えこひいき(ネポチズム)」という生得的な認知的仕組みに基づき、近親交配が選択されることもあり得ます。その意味で、人類社会において近親交配は、今後も広く禁忌とされつつ、維持されていく可能性が高そうです。

川戸貴史『戦国大名の経済学』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2020年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、大名領国の収入と支出の分析から、戦国時代の日本経済の構造、さらにはアジア東部および南東部とのつながりまでを対象としており、戦国大名の領国経営という一見すると細かい主題ながら、広い視野を提示しているように思います。こうした一般向け書籍では、細かな論証を取り上げつつ(これも具体的な事例が多く、楽しめましたが)、大きな構造も視野に入れて提示する、という構成が理想的だろう、と私は考えています。その意味で、本書は有益であり、楽しめました。

 戦国大名の権益・収入について、各大名の出自に規定されるところがあった、と本書は指摘します。領国に古くから勢力を有して発展してきたような大名では、家臣も含めて領国内の既得権益者への配慮を欠かせない、という側面が多分にあります。その意味で、本書が取り上げている北条(後北条)氏は、領国として関東にほとんど権益を有していなかったことから、検地など権利関係の再編をやり安かった、という側面はあるかもしれません。北条氏の領国統治は、検地や貫高制の整備など、「先進的」と評価されることが多いように思いますが、それもほぼ無縁だった関東で領国を拡大したことに起因するのかもしれません。

 戦国時代の日本とアジア東部および南東部とのつながりは、16世紀半ばになって、日本において効率的な精錬法の導入による銀産出の増大・高品質化したことが促進した、と言えそうです。銀への需要を高めていた明王朝には、アメリカ大陸を支配したイベリア半島勢力からの銀も流入し、日本も世界経済に強く組み込まれていきました。この過程で、明王朝での銅銭供給が停滞したことで、貨幣を宋銭や明銭(およびそれらの模鋳銭)に依存していた日本では銭不足が起きます。その対応策として撰銭令が出され、本書は、織田信長の撰銭令が従来のそれに依拠していないとして、その画期性を評価しつつも、結局は市場の動向を読みきれておらず、銭不足の中、日本が石高制へと向かっていた、と展望しています。戦国時代の権力者は、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康といえども、思い付きで経済を動かすことはほとんど不可能だった、と本書は指摘します。

クローン造血の構造パターンと選択圧

 クローン造血の構造パターンと選択圧に関する二つの研究が公表されました。一方の研究(Loh et al., 2020)は、クローン選択の手段になる単一遺伝子遺伝と多遺伝子遺伝を報告しています。体細胞変異を有してクローン増殖した血液細胞(クローン性造血)は、一般に加齢に伴って獲得され、血液癌のリスクを高めくす。これまでに特定された血液クローンは、あらゆる染色体上に、多様で大規模なモザイク状の染色体変化、つまり欠失・重複・コピー数変化を伴わないヘテロ接合性の喪失(CN-LOH)を含んでいますが、ほとんどのクローンの増殖を駆動する選択優位性の源については不明です。

 この研究は、変異クローンに選択優位性を与える遺伝子や変異、生物学的過程を明らかにするため、イギリスバイオバンクの登録者482789人の血液由来DNAから得た遺伝型解析データを調べました。この研究は、19632の常染色体モザイク変化を特定し、これらの変化と遺伝性の遺伝的変動との関連を解析しました。その結果、7遺伝子で、大きな効果を持つ稀な遺伝性のコーディング多様体とスプライシング多様体が52種類見つかりました。

 これらの多様体は特定のCN-LOH獲得変異を持つクローン性造血に対する脆弱性の大幅な増加と関連しています。獲得変異では体系的に、MPL遺伝子における遺伝性リスク対立遺伝子の置換や、FH・NBN・MRE11・ATM・SH2B3・TM2D3遺伝子における相同染色体への複製が起きていた。それらの遺伝子のうちの3つ(MRE11・NBN・ATM)は、DNA損傷やテロメア短縮後の細胞分裂を制限するMRN–ATM経路の構成因子をコードしており、他の2つ(MPLとSH2B3)は幹細胞の自己複製を調節するタンパク質をコードしています。

 さらに、ゲノム全体にわたるCN-LOH変異は、その相同な(対立遺伝子の)他方との置換により、造血細胞の増殖を促進する対立遺伝子を含む染色体部分を生じさせる傾向があり、これによって、血液細胞の増殖形質に対する多遺伝子性の駆動力を増加させる、と明らかになりました。容易に獲得された、相同な対応領域を含む染色体部分と置換を起こす変異は、広範な遺伝性の変動と相互作用して、生涯にわたり細胞形成の課題となるようです。


 もう一方の研究(Terao et al., 2020)、日本における加齢に関連する造血クローン間の染色体変化を報告しています。発癌や加齢の生物学的性質が、ヒト集団を区別する要因によりどの程度形作られているのか、まだ分かっていません。変異を獲得した造血クローンは加齢に伴って増え、血液癌がんにつながる可能性があります。この研究は、バイオバンク・ジャパンのコホートの日本人参加者179417人において検出された33250の常染色体のモザイク状の染色体変化と、それらのイギリスバイオバンクの類似データとの比較に基づき、造血系細胞におけるゲノム変異とクローン選択の共通のパターンと集団特異的パターンについて報告しています。

 長寿の日本人集団では、モザイク染色体変化が90歳以上の人の35.0%以上(標準誤差1.4%)で検出され、これは、こうしたクローンの存在が加齢とともに必然になる傾向を示唆しています。日本人とヨーロッパ人では、それぞれの造血クローンのゲノムで変異が存在する位置に重要な差異がある、と明らかになりました。これらの差異から、各集団における慢性リンパ球性白血病(ヨーロッパ人により多く見られます)とT細胞性白血病(日本人により多く見られます)の相対的比率が予測されました。慢性リンパ球性白血病の3種類の変異前駆体(トリソミー12、染色体13qの喪失、コピー数変化を伴わないヘテロ接合性の13qの喪失)を持つ割合は、日本人ではヨーロッパ人の1/6~1/2であることから、これら2集団では、クローンにかかる選択圧が、臨床的に明らかな慢性リンパ球性白血病を発症するずっと前から異なっている、と示唆されます。

 日本人集団とイギリス人集団では、B細胞系譜およびT細胞系譜から生じるクローンの割合もひじょうに異なっており、この差異からは、各集団におけるB細胞癌およびT細胞癌の相対的比率が予測されました。この研究は、遺伝性リスク対立遺伝子の重複あるいは除去を引き起こすモザイク染色体変化の素因となる多様体を受け継いでいる、これまでに報告されていない6座位を特定しました。これらには、NBN・MRE11・CTU2遺伝子での効果の大きいまれな多様体(オッズ比28~91)が含まれます。この研究は、クローンにかかる選択圧がヒト集団に特異的な要因により調節される、と推測しています。したがって、世界中の集団について、クローン選択や癌についてのさらなるゲノム特性解析を行なう必要があります。これらの研究は、人類進化史的観点からも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:日本における加齢に関連する造血クローン間の染色体変化

遺伝学:単一遺伝子遺伝と多遺伝子遺伝はクローン選択の手段になる

遺伝学:クローン造血の構造パターンと選択圧を明らかにする

 今回、2つの研究によって、クローン造血に関連する遺伝的変化が報告されている。P Lohたちは、英国バイオバンクの参加者の血液由来DNAを解析することで、クローン造血の選択を引き起こす変異や変化を明らかにしている。彼らは、モザイク染色体変化やコピー数変化を伴わないヘテロ接合性の喪失(CN-LOH)を発見し、DNA損傷チェックポイントや幹細胞の自己複製に関連する変異も見いだした。Lohたちは、多遺伝子性リスクスコアの予測法を開発することにより、CN-LOH事象が、増殖を促進する遺伝性バリアントをクローン選択する強力なドライバーであると提案している。寺尾知可史(理化学研究所ほか)たちは、日本のバイオバンクの試料のデータを調べることによって、モザイク染色体変化の共通のパターンおよび集団特異的なパターンを特定している。こうした集団間の違いによって、ヨーロッパ人集団と日本人集団における造血系悪性腫瘍の発生率の差異が説明できる可能性がある。寺尾たちは、モザイク染色体変化の選択を起こす素因となる遺伝性バリアントに加えて、集団特異的な要因が加齢に伴うクローン造血の選択圧を決めると示唆している。



参考文献:
Loh P, Genovese G, and McCarroll SA.(2020): Monogenic and polygenic inheritance become instruments for clonal selection. Nature, 584, 7819, 136–141.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2430-6

Terao C. et al.(2020): Chromosomal alterations among age-related haematopoietic clones in Japan. Nature, 584, 7819, 130–135.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2426-2

『卑弥呼』第44話「貢ぎ物」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年8月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが鞠智彦に、暈のイサオ王はそなた以上の逸材だろうか、と問いかけるところで終了しました。今回は、アカメが弩でナツハを狙っている場面から始まります。アカメはヤノハからナツハを殺すよう指示が出るのを待っていますが、一向に指示が出ないことを不審に思っています。それどころか、山社(ヤマト)の門は開けられ、ナツハに率いられている犬と狼が攻め込むのではないか、とアカメは懸念します。しかし、狼が攻め込むことはなく、ヤノハとの会見を終えた鞠智彦(ククチヒコ)が山社の門から出て、狼と犬もナツハの指示により撤退します。アカメは、これが鞠智彦の指示だと気づきます。そのアカメへ、ヤノハはナツハを殺さないよう、指示を出します。イクメは、楼観にある鏡以外の全ての鏡を集めるよう、ヤノハに指示されたことに驚きますが、それが暈(クマ)との和議の条件だ、と大和は説明します。10日後に鞠智彦の兵が来るまでに、全ての鏡を宝殿に移すよう、ヤノハはイクメに指示します。それは和議ではなく敗北だ、と反対するイクメに対して、那(ナ)・伊都(イト)・末盧(マツロ)・都萬(トマ)の各国の王に、自分が会見したいと書状を送るよう、ヤノハはイクメに命じます。訝るイクメに対して、これは同盟の申し出で、長い睨み合いの始まりだ、とヤノハは説明します。

 阿閇島(アヒノシマ、現在の藍島と思われます)では、ワニという男性と穂波(ホミ)の重臣であるトモが会見していました。阿閇島のひび割れた岩は、月読命(ツクヨノミコト)が兎に化身し、跳ねた跡と言われている、とワニがトモに説明します。その話は月読命を奉ずるウサ一族の伝説ではないのか、とトモに問われたワニは、天照大御神を奉ずるワニ一族が、この一帯に巣くう月の兎を蹴散らす前の話だ、とワニは答えます。それ以来、阿閇島はワニ一族の領地になったのか、とトモに問われたワニは、ここにはどの国も近づけない、と答え、那の厳しい監視を突破して阿閇島まで来たワニを称えます。決死の覚悟だった、と言うトモに、そこまでして自分に会いに来たのは、日向(ヒムカ)を侵した不届き者、つまり山社を建国した日見子(ヒミコ)と名乗るヤノハのことだな、とワニに問われたトモは肯きます。すでに刺客を放ったと聞いたが、とワニに問われたトモは、日見子(卑弥呼)と名乗る女子(ヤノハ)は予想以上にしたたかで、千穂の鬼を制した日見子はサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の末裔なので、戦いを回避すべしと言う五支族の方々もいる、と答えます。古の五支族の結束を鈍らせるとは、聞きしに勝る曲者だな、とワニは言います。現状打開を模索するトモは、五支族再結束のため、サヌ王宗家のお言葉が必要だ、とワニに願い出ます。サヌ王が築いたとされる日下(ヒノモト)に参じたいのか、とワニに問われたトモは肯きます。しかし、穴門(アナト、現在の山口県でしょうか)の国から東は戦乱の真っただ中で、海路を選ぼうとも内海(ウチウミ、瀬戸内海でしょうか)には無数の海賊が跋扈しており、日下に生きて到達するのは万に一つも不可能だ、とワニは懸念します。するとトモは、だからワニの力が必要だ、と懇願します。古の五支族の中で、軍事力と航海術を併せ持つのはワニとアズミの二家だが、アズミは小舟での戦に長けた一族で、長い航海はワニ一族のみのお家芸だから、というわけです。しかし、外海(ソトウミ)に位置する阿閇島から内海に出るには難所中の難所である穴門の関を抜けねばならない、と懸念するワニに対して、その難所を抜ける秘密の航路を知るのもワニ一族と聞いている、とトモは言います。トモの決意が堅そうなのを見て、ワニも決意を固めます。ワニ一族が日下の国に向かうのは百年ぶりとのことで、ワニも日下がいかなる国となっているのか、知りません。

 山社では、神聖な鏡を全て暈に差し出すことに、クラトが疑問を抱いていましたが、日見子(ヤノハ)には自分たちの見えない景色が見えるので案ずるな、とミマアキは言います。ヤノハはこの決断にまだ不満なイクメに対して、それ以上の貢ぎ物を鞠智彦から受け取るのだ、と説明します。それは、犬と狼を率いるナツハでした。ヤノハは参上したナツハに、獣を自在に操る技は見事だった、と声をかけます。まだ少年のナツハが犬と狼を率いていることに、ミマト将軍もヌカデも驚きます。身体の左側半分だけ黥を入れられているナツハは、この時代の価値観では醜いとされますが、醜いどころかなかなか美しいではないか、とヤノハがナツハに声をかけ、ヤノハが不敵な表情を浮かべるところで、今回は終了です。


 今回は、ヤノハとナツハとの対面までが描かれました。まず気になるのは、イサオ王を殺すよう、ヤノハに示唆された鞠智彦の返答ですが、今回は明示されず、鞠智彦の思惑は今後明かされていくのでしょう。作中ではトメ将軍とともに屈指の大物と描写されている鞠智彦ですが、イサオ王は鞠智彦を上回るような大物で、鞠智彦も畏れているような場面がありましたから、鞠智彦がヤノハの提案を受けて、イサオ王にどう対処するのか、注目されます。暈は『三国志』の狗奴国でしょうから、ヤノハが建てた山社国(邪馬台国)とは対立する、と予想されます。しかし、ヤノハの鞠智彦への提案からは、両者の対立は表向きで、裏では和議が結ばれている、とも考えられます。そうすると、鞠智彦がイサオ王を殺すか失脚させるのかもしれません。ただ、『三国志』によると、卑弥呼(日見子)を擁立する国々と狗奴国は戦っていたとありますから、鞠智彦はイサオ王を殺せず、山社と暈との戦いが始まり、長く続くのでしょうか。もっとも、これも山社というかヤノハが魏にそう説明しただけで、実際は山社と暈との間で「冷戦」が続いているのかもしれません。

 トモとワニとの会見は、サヌ王が建てたとされる日下がいよいよ作中で登場することを予感させ、たいへん楽しみです。ただ、日下が現在どうなっているのか、九州の人々は知らないようです。本作では邪馬台国は現在の宮崎県にあったと設定されているようですが、最終的に倭国の「首都」は現在の奈良県、具体的には纏向遺跡一帯に移るのではないか、とも考えられます。日下がどこにあるのか、まだ作中では明示されていませんが、おそらくは現在の奈良県にあり、ヤノハの存命中に両者は接触し、何らかの和議が結ばれ、暈など一部を除き、西日本全域を統合する政治勢力(数十年前に一般的だった用語で言うと大和朝廷)が成立するのではないか、と予想しています。

 ヤノハとナツハがついに対面したことも注目されます。ナツハはヤノハの弟であるチカラオだと予想しているのですが、ナツハを見たヤノハは、ナツハが弟だと気づいていないようです。ヤノハは弟の顔を忘れてしまったようですから(第17話)、単に気づいていないだけかもしれませんが、ナツハがヤノハとは無関係の人物である可能性も考えられます。ナツハの方も、ヤノハを見てもとくに動揺した様子を見せません。ナツハも、姉の顔を忘れてしまった可能性もありますが、郷里を海賊に襲われたさい、義母を見殺しにして自分を見捨てた、と姉のヤノハを恨んでおり、そのため、ヤノハに復讐しようとしているのかもしれません。ナツハが、ヤノハを深く恨んでいるヒルメを慕っているのも、単に亡き義母の面影を追いかけているのではなく、ヤノハへの強い憎悪を抱く「同志」だからなのかもしれません。また、ナツハが驚愕した、ヒルメから与えられた使命がどのようなものなのかも気になります。もっとも、ナツハがヤノハの弟ではない可能性もあるので、また別の背景があるのかもしれませんが。今回は、サヌ王一族が近いうちに登場することを予感させる描写もありましたし、今後ますます壮大な話が展開されるのではないか、と期待されます。次回もたいへん楽しみです。

離島における進化

 離島における進化についての研究(Liu et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。何百万年もの間、大洋に浮かぶ島々は生物多様性の宝庫であり、固有の種が繁栄してきました。離島で動植物がどのように定着し進化するのか、という疑問に対してさまざまな理論が提示されていますが、長い時間軸で発生する進化過程の考え方を検証することは、長年の課題となっていました。近年はDNA解析や3Dイメージングや計算科学といった最先端技術により、生物相の歴史的な多様化プロセスの分析が可能となりました。

 この研究は、フィジーの南太平洋群島におけるアリの進化的・生態学的変化を調査し、離島で進化がどのように発生するかについて、従来の理論を検証しました。フィジーのように大洋の遠隔にある小さな島々は、生態学的過程と進化的過程の相互作用の研究のためには最適な、「自然の実験場」のような機能を果たしてくれます。しかし最近まで、アリに関する研究はさほど多くありませんでした。そこでこの研究は、フィジーに生息する種数の最も多いウロコアリ属のうち、罠型顎を持つアリのアギトアリに焦点をあて、2007年のフィジーにおける現地調査で収集された多数の標本を分析しました。

 この研究は、アギトアリで観察された、島に侵入してからの時間経過に伴う外部形態の変化と分布の変化が、どのように「タクソン・サイクル」と呼ばれる仮説理論に適合しているのか、分析しました。タクソン・サイクル理論によれば、種は島に定着した後、分布範囲を拡大し、やがて衰退していき、時として絶滅するという、予測可能な「ライフサイクル」をたどります。また、この周期は、別の新たな定着者によって繰り返されます。

 この研究は、フィジー諸島固有のウロコアリ属種のDNAを解析しました。この種はこれまでフィジーの島々でしか見つかっていない固有種です。また、地域的および世界的に分布しているウロコアリ属に近縁なアリの標本も収集対象に含まれました。DNA配列に基づいて系統樹が構築され、それぞれの種がどれほど系統的に近縁かどうか、示されました。その結果、フィジーに固有のアギトアリ種の14種すべてが、複数のコロニーからではなく、単一のコロニーから派生した、と明らかになりました。

 これらの結果は、タクソン・サイクル仮説で想定されることと矛盾します。この仮説においては、後から外来種が到着して定着し、拡散と衰退の新たな分類群周期が始まる、と考えるからです。定着化が繰り返されなかった理由として、最初に到来したアギトアリの定着者らが多様化し、適した生存場所をすべて占領してしまったため、新参の外来種の進入の扉を閉ざした可能性が指摘されています。また、フィジー諸島は地理的にどこからも隔離されているため、新参の外来種自体がやって来なかった可能性も指摘されています。

 タクソン・サイクル仮説に従えば、種は島に定着した後、各生息地で生存に適した場所(ニッチ)に特殊化しながら生息範囲を大幅に拡大させます。フィジーに固有の14種のアギトアリの分布を調べたところ、定着してからまもなく、最初の系統が2つに分かれ、1つの系統は低地に生息地を拡大させ、もう1つの系統は高地で生息地を拡大した、と明らかになりました。さらに、アギトアリの主要な形態的特徴を測定し、適応放散によって生存するためのニッチを確立したのかどうか、検証されました。

 適応放散は、しばしば離島で発生します。最も有名な例は、ダーウィンフィンチというガラパゴス諸島に生息する鳥についての研究です。種数や外部形態が多様になるという現象は、多くの場合、競争相手や捕食者が欠落することで、アリの適応放散を可能にするニッチ空間が多いためです。マイクロCTスキャナーの使用により、フィジーのそれぞれのアリ種の3Dモデルが作成され、アリの体や顎(下顎の骨)や眼のサイズも測定されました。この分析により、各種の生息ニッチに関係したアリの多様性は適応放散の結果である、と明らかになりました。たとえば、高地に分布する系統のアリは、体をより大きく進化させ、大型の獲物を捕獲することが可能になりました。これらのアリはまた、狩りの仕方の決め手となる短い下顎を発達させました。

 タクソン・サイクル仮説では、種が、特殊化した生息場所(ニッチ)に次第に適応するにつれ、個体数および生息地の範囲が減少すると予測していますが、この予測は、高地に住むフィジーのアギトアリにのみ当てはまっていました。また、高地に生息する種の個体群が時間とともに小さくなり、個体群間の遺伝的変異が大きいことも明らかになりました。これは、この種がフィジー諸島全体に分散し繁殖して(遺伝子交流)する能力が低いことを示唆しています。この競争力の喪失は、フィジーにおける現在進行中の大きな環境問題である森林破壊の脅威と相まって、古くから分布するこれらの特殊なアリ個体群の存続をさらに危うくする、と懸念されます。生息地が地理的に限られ、分散する能力も限られているこれらの固有種は、森林破壊によって種の絶滅を早められてしまう可能性があります。

 今後の計画として、集団ゲノミクスと系統進化学および形態学研究を組み合わせた分析アプローチが、フィジーのすべての種のアリに適用されることが予定されています。アギトアリのデータが、タクソン・サイクルの仮説とどの程度密接に一致しているかは、まだ明らかではありませんが、昨年発表されたフィジーのオオズアリ属のアリにおける調査研究と同様に、仮説を「部分的にのみ証明した」、と言えます。フィジーの島々における進化が、仮説により予測可能な段階をたどるのか、または毎回異なるランダムな過程をたどるのかどうか判断するには、より多くのデータが必要です。


参考文献:
Liu C. et al.(2020): Colonize, radiate, decline: Unraveling the dynamics of island community assembly with Fijian trap‐jaw ants. Evolution, 74, 6, 1082–1097.
https://doi.org/10.1111/evo.13983

ネアンデルタール人から非アフリカ系現代人へと再導入された遺伝子

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)から非アフリカ系現代人へと再導入された遺伝子に関する研究(Rinker et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。この研究はすでに昨年(2019年)査読前に公開されており、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)から現生人類(Homo sapiens)への遺伝子移入の機能的結果と適応度に関する研究で引用されていたので、当ブログでもすでに言及していました(関連記事)。

 現代人でユーラシア集団はアフリカ集団と比較して人口が多いにも関わらず、遺伝的多様性は低い、と明らかになっています。この不均衡は、ユーラシア現代人の祖先である現生人類集団が、5万年前頃の出アフリカのさいに経験した遺伝的ボトルネック(瓶首効果)を反映しています。このユーラシア現代人の祖先集団の有効人口規模は、同時代のアフリカ集団の20% 未満と推定されています。この出アフリカボトルネックとその後の人口動態の結果として、何百万ものアレル(対立遺伝子)がユーラシア現代人集団の祖先で失われました。

 現生人類の出アフリカボトルネックの50万年以上前に、ネアンデルタール人および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の祖先を含むアフリカの他の人類集団がユーラシアへと移動しました。ネアンデルタール人とデニソワ人のDNA解析により、そのゲノムの復元が可能となりました。世界中の現代人のゲノムとネアンデルタール人のゲノムを比較すると、ユーラシアの現生人類が5万年前頃にネアンデルタール人と交雑した、と明らかになりました。この古代の遺伝子移入の遺産は、ユーラシア現代人のゲノムに反映されており、1~3%がネアンデルタール人由来と推定されています。

 ネアンデルタール人からの遺伝子移入は、ユーラシア集団にネアンデルタール人系統で派生した新たなアレルを導入しました。これらのアレルのうちいくつかは非アフリカ環境に適応していたので、ユーラシアの現生人類には有益でした。しかし、ネアンデルタール人との交雑は、現生人類と比較して有効人口規模が小さいため、有害なアレルが蓄積されることに起因して、遺伝的コストも伴います(関連記事)。ユーラシア現代人の古代型系統の分布はランダムではなく、ネアンデルタール人系統が一般的な多くのゲノム領域とともに、ネアンデルタール人系統の長い「砂漠(ネアンデルタール人由来のDNAが存在しない領域)」を伴います。これらのパターンは、遺伝子移入されたアレルへの選択と浮動の長期作用を反映しており、交雑直後に負の選択が最も強く作用します(関連記事)。

 ユーラシア現代人集団に残っているネアンデルタール人のハプロタイプの遺伝子移入されたアレルは、肌・免疫・神経疾患のリスクを含む多様な特徴と関連しています。たとえば、OAS1遺伝子座の遺伝子移入されたネアンデルタール人のハプロタイプは自然免疫反応と関連していますが、このハプロタイプは機能に影響を与える可能性のある祖先型アレルも有しています。ほとんどの先行研究は、現生人類におけるネアンデルタール人由来のアレル(NDA)の効果を特定して検証することに焦点を当ててきましたが、古代の交雑は、より古代的で機能的なアレルがユーラシア人のゲノムに再導入された経路として機能したかもしれません。

 本論文は、古代型と現代型とシミュレートされたゲノムの分析により、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入が、以前に失われた機能的な祖先型アレルを現生人類ユーラシア人集団に再導入した、という仮説を評価します。本論文の結果は、ネアンデルタール人集団がユーラシア現代人(時として全ての現代人)の祖先で失われた数十万の祖先型アレルの貯蔵庫として機能し、これらのアレルの多くはネアンデルタール人との交雑により再導入された後にユーラシア人で機能的効果を有した、と示します。


●RAとNDA

 現生人類系統とネアンデルタール人系統が分岐した後、現生人類系統において祖先で分離した多くのアレルが失われました。その一部は全ての現生人類で失われましたが、他は、たとえば出アフリカボトルネックのさいにユーラシア集団でのみ失われました。ネアンデルタール人やデニソワ人のような非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)では継承された、現生人類の全てや一部集団で失われたアレルは、古代型ホモ属との交雑経由で現生人類ユーラシア集団に再導入された可能性があります。ユーラシア集団内では、そのような古代型ホモ属との交雑により再導入されたアレル(RA)は、まず遺伝子移入されたハプロタイプに限定され、多くは古代型ホモ属の派生的アレルとの高い連鎖不平衡(LD)を保持します。

 以下、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先に存在したアレルは「祖先型人類アレル」と呼ばれます。遺伝子移入されたネアンデルタール人のハプロタイプに関するユーラシア人でのみ観察された祖先人類アレルは「再導入されたアレル」(図1b)、ネアンデルタール人系統で最初に出現したアレルは「ネアンデルタール人型派生アレル(NDA)」(図1a)と呼ばれます。アフリカ人集団の年代と存在に基づき、RA間のいくつかの異なる進化史も区別されます(図1c)。まず、祖先型アレルが人類とチンパンジーの共通祖先に存在していた場合(RAA)と、人類系統がチンパンジー系統と分岐した後から、ネアンデルタール人系統と現生人類系統とが分岐する前に人類系統で生じた場合(RHA)です。それぞれ、現生人類アフリカ人系統で維持されている場合と、失われた場合が想定され、AFR+とAFR–で表されます。ただ、RHAの特定にはサハラ砂漠以南のアフリカ現代人集団においてアレル頻度が1%以上必要となるので、現代人のゲノムデータだけでは推測できず、本論文では分析対象外となります。本論文の目的は、ユーラシア現代人におけるRAの存在と機能を評価し、それをNDAと対比させることです。以下、本論文の図1です。
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●ユーラシア現代人集団に存在する数十万のRA

 まず、ユーラシア現代人3集団(ヨーロッパとアジア東部および南部)において、ネアンデルタール人の多様体と完全な連鎖不平衡にあるものの、ネアンデルタール人系統の派生型ではなく、祖先型である多様体が特定されました。本論文の手法は、多くのRAがどのNDAとも完全な連鎖不平衡を保持していないと予想されることから、おそらくは保守的なものです。RAは広く見られ、遺伝子移入されたハプロタイプの80%以上はRAsを含んでおり、ハプロタイプあたり平均17のRA となります。

 全体では、209176のRAが特定されました。アジア南部および東部集団は、それぞれヨーロッパ集団よりも多くのRAを有しており、おそらくは人口史の違いと、アジア東部集団で以前に観察されたより多いネアンデルタール人系統を反映しています。各集団で観察されたRA/NDA比は、ヨーロッパが0.46、アジア南部が0.65、アジア東部が0.53で、シミュレーション予測と一致します。RAはNDAよりもクラスタ化されており、ハプロタイプの長さとあまり相関していません。


●RAとNDAで異なる機能効果予測

 RAとNDAはネアンデルタール人のハプロタイプでユーラシア集団に導入されましたが、異なる起源と進化史を有しています。NDAは最初に有効人口規模の小さいネアンデルタール人集団で出現したので、有害な効果を有しており、遺伝子移入されたユーラシア集団では負の選択を受けた可能性が高い、と予測されます。対照的に、RAはより大きな祖先人類集団に起源があり、耐性のある可能性がより高い、と示唆されます。多様体効果はこの予測を支持し、RAはNDAよりも良性の傾向が見られます。これらの結果は、NDAがRAよりも多くの負の選択係数を有する、と予測する進化モデリングと一致します。NDAはRAと比較して、調節要素が枯渇しています。

 RAの中にはいくつかの異なる進化史が存在したかもしれず(図1c)、それぞれは異なる機能的予測を示唆します。より古い年代だと、再導入された祖先型アレル(RAA)は、再導入された人類型アレル(RHA)よりも有害性が低い、と予測されます。RAA の約70%では、対応するアレルは依然としてアフリカ集団で存続していますが(RAA・AFR+型)、アジア東部集団の22%、アジア南部集団の28%、ヨーロッパ集団の30%程は、アフリカ現代人では存在しません(RAA・AFR−型)。これらのRAA・AFR−型多様体は、派生的アレルがネアンデルタール人から遺伝子移入される前の現生人類において高頻度で、現生人類特有の正の選択に起因したかもしれない可能性が高い事例を表しています。これらのRAA・AFR−型多様体は、現在では遺伝子移入のみに由来して現生人類集団に存在します。アフリカ集団におけるこれらの多様体の喪失と一致して、RAA・AFR−型多様体は、ユーラシア集団においてRAA・AFR+型多様体よりも低頻度で存在します。


●遺伝子移入ハプロタイプと計測的な人類の特徴および疾患リスクとの関連

 以前のゲノム規模関連研究(GWAS)では、遺伝子移入されたハプロタイプの多様体と人類の表現型とが関連づけられました。RAの中にはこれら以前の分析で考慮されたものもありますが(ただ、以前の分析ではRAと認識されていませんでしたが)、アフリカ現代人に存在するアレルは、これらの研究がNDAに焦点を当てていたため、考慮されませんでした。ユーラシア人のRAは2197の有意で顕著な関連をGWASカタログとタグづけし、NDAでは2547となります。このパターンは、ヨーロッパ人の遺伝子移入されたハプロタイプと関連に分析を限定しても類似していました。全体的に、NDAと関連した表現型の70%以上は、少なくとも1つのRAと等しく強い関連性を有します。

 NDAとRAによりタグ付けされた表現型の多くは、頭蓋底幅や身長などのように形態計測可能で、他のいくつかは男性脱毛症や皮膚の色素沈着などのような外部特徴に影響を及ぼします。RAは、癌やアルツハイマー病や双極性障害のような神経疾患を含む多くの病気と関連しています。ネアンデルタール人系統から分岐した後、これらの遺伝子座において派生的アレルが現生人類集団で固定されるようになり、これらの祖先型アレルは遺伝子移入によってのみ現代人に存在するので、RAA・AFR−型は興味深い現象です。

 たとえば、微生物群集との相互作用に潜在的な役割を果たす上皮組織で発現するゲル形成ムチンであるMUC19遺伝子近くのRAA・AFR−型(rs11564258)は、クローン病と炎症性腸疾患の両方と強く関連しています。この遺伝子座は、潜在的な適応的遺伝子移入の走査で特定されました。また、RAA・AFR−型と、顔面形態やBMIや睡眠表現型や喫煙者の代謝水準体重との間の関連も見つかりました。全体的にこれらの結果は、遺伝子移入されたハプロタイプと関連する特徴の数を拡大し、これらのハプロタイプの原因となる遺伝子移入された多様体候補を解釈する進化的背景を提供します。


●RAとNDAで異なる表現型との関連パターン

 RAとNDAとの間の高い連鎖不平衡は、あらゆる関連の原因としてのいずれかの遺伝子移入された多様体クラスの直接的な識別を防ぎます。しかし、ヨーロッパ人における有意なGWAS特性関連を有する遺伝子移入されたハプロタイプは、関連のない遺伝子移入されたハプロタイプと比較して、RAのより高い割合を含みます。NDAと比較してのRAの濃縮は、機能的なNDAに対する選択、および/あるいはRAを含む機能的ハプロタイプのより大きな耐性を反映しているかもしれません。RHAとRAA・AFR−型ではなく、RAAとRAA・AFR+型を考慮すると、この濃縮は維持されます。RAA・AFR−型の違いの欠如は、これらの箇所の数の少なさと、ヨーロッパ人におけるより低いアレル頻度の結果に起因するかもしれません。

 ネアンデルタール人のハプロタイプと表現型との間の関連に関する以前の分析では、遺伝子発現への影響の役割が強調されました。そこで、遺伝子型組織発現(GTEx)計画で取り上げられた48組織における、発現量的形質遺伝子座(eQTL)間のRAとNDAの出現率が評価されました。遺伝子移入されたeQTLはGTExの組織全てで見つかり、ヨーロッパのRA(16318)の18%とヨーロッパのNDA(31822)の16%が少なくとも1組織でeQTLです。各RAが少なくとも1つのNDAと関連している一方で、遺伝子移入されたハプロタイプのRAとNDAの数はある程度相関しています。

 GWAS遺伝子座の分析のように、eQTL を有さない遺伝子移入されたハプロタイプと比較して、少なくとも1つの遺伝子移入されたeQTL を有する遺伝子移入されたヨーロッパ人のハプロタイプでは、RAの有意に高い割合とNDAのより低い割合が示されます。RAA・AFR−型を除く全てのRA区分は、有意に濃縮されました。活性組織により遺伝子移入されたハプロタイプを含むeQTLを階層化しても、この結果は当てはまります。

 遺伝子移入されたeQTLの中で、NDAに対するRAの比率は組織により異なります。13組織では、RA/NDA比が全体的にゲノムよりも有意に高くなります。たとえば、遺伝子移入された前頭前皮質eQTLの間では、RA/NDA比は0.83ですが、全ての遺伝子移入された領域で観察された全体的な比率は0.47です。遺伝子移入されたハプロタイプは、とくに脳において、遺伝子調節を制御する、と以前の研究では示されてきました。脳組織は、RAのeQTLで強化された13組織のうち8組織で構成されており、おそらくは脳全体の共有された調節構造に起因します。RAのeQTLはまた、腎臓・副腎・精巣・坐骨神経でも豊富です。RAのeQTLは、粘膜組織と唾液腺からの遺伝子移入されたeQTLでは予想よりも少なくなっています。まとめると、eQTLを含む遺伝子移入されたハプロタイプは、RAのより高い割合を含み、対称的にNDAの割合は低く、RAのeQTLは組織間で均一に分布していません。


●ヨーロッパとアフリカ集団におけるRAの遺伝子調節関連

 上述のように、形質および遺伝子発現と関連するほとんどの遺伝子移入されたハプロタイプは、RAを含みます。しかし、連鎖不平衡が高いと、特定のRAもしくはNDAが原因なのかどうか、判断困難となります。そこで、関連するNDAとは無関係に、RA調節活性が評価されました。まず、ヨーロッパ人とアフリカのヨルバ人のリンパ芽球様細胞株(LCL)の集団間eQTLデータが分析されました。ネアンデルタール人型ではない遺伝子移入されたハプロタイプで、ヨーロッパではRAであり、ヨルバ人に存在するeQTLが特定されました。もしユーラシア人に再導入された全てのアレルが、ヨーロッパ人とヨルバ人の両方で遺伝子発現に類似の影響を及ぼす場合、ヨルバ人には存在しない関連したNDAよりもむしろ、RAが発現に影響を及ぼし、遺伝子移入は遺伝子調節効果を有する祖先的アレルを再導入した、と示唆されます。

 LCLのeQTLデータでは、2564のRAがヨーロッパ人ではeQTL、180のRAがヨルバ人ではeQTLで、42のRAが両集団でeQTL効果を示しました。これらRAのeQTLは、9遺伝子の発現に影響を及ぼします。ヨーロッパ人のRAは、ヨルバ人の対応するアレルで観察されたものと同様に、効果の同じ方向性と類似した程度を有します。たとえば、SDSLおよびHDHD5の両遺伝子はそれぞれ、4つの集団間のRAのeQTLを有しており、これはヨーロッパ人とヨルバ人の両方で遺伝子発現に類似した影響を及ぼします。これらの結果は、RAがNDAとは無関係にユーラシア人の遺伝子調節に影響を及ぼす、と示唆します。


●RAがNDAとは無関係に発現に影響を及ぼす可能性

 RAが関連するNDAとは無関係にヨーロッパ人の発現に直接的に影響を及ぼすのかどうか、決定するために、集団間eQTLの1つにおいて、遺伝子移入されたアレルの組み合わせの調節活性が機能的に分析されました。HDHD5遺伝子座は、4つの集団間のRAeQTLと、ヨルバ人には欠けておりヨーロッパ人では1つの遺伝子移入されたNDAを有する、2000塩基対領域を含んでいるので、対外実験の標的として適しています。HDHD5は22番染色体に位置し、猫目症候群領と関連する染色体異常と関連するタンパク質を含む加水分解酵素領域です。

 NDAとRAの4通りの組み合わせを用いて、LCLのルシフェラーゼ受容体分析が行われました。遺伝子移入されていないヨーロッパ人の配列を有する受容体構成は、基準を超える有意なルシフェラーゼ発現を引き起こしました。この活性は、関連するNDAを有する場合と有さない場合のRA(NDA–RAおよびEUR–RA)と、RAを有さないNDA(NDA–EUR)を有するよう合成された構成と比較されました。両方のRAを有する配列は、有意により低いルシフェラーゼ活性を有し、NDA–RAとEUR–RA配列の活性に有意な違いはありませんでした。

 これらの結果は、集団間のeQTLデータと一致し、活性の変化がNDAとは無関係と示します。ヨーロッパ人とヨルバ人のLCLからの超並列レポーターアッセイ(MPRA)データは、1つの特有の集団間RAeQTLと関係しています。まとめると、これらの集団間eQTLとルシフェラーゼ受容体とMPRAの結果は、HDHD5遺伝子座における調節効果の再導入にRAが関与している証拠を提供します。ルシフェラーゼ分析とMPRAデータは、ヨーロッパ人のゲノム内のこれらRAの機能的寄与が、遺伝子移入されたハプロタイプに存在するNDAとは無関係だった、と示します。


●RAがNDAよりも遺伝子調節活性を有している可能性

 MPRAは最近、K562およびHepG2細胞の隣接配列400塩基対における、590万の多様体の遺伝子調節効果を定量化しました。本論文では、調節活性で検証された全てのユーラシア人の遺伝子移入されたアレルが特定されました。互いに400塩基対内のものを除外することで、42016のRAと26063のNDAの独立した調節効果を特徴づけることができました。合計で、検証されたRAのうち527はNDAとは独立して異なる調節活性を有し、252のNDAは、RAとは独立して異なる活性を有します。各ユーラシア集団では、RAはNDAよりも独立した調節活性を有する可能性が有意に高い、と示されます。NDAと比較してRA間の活性の強化は、最小限の活性閾値とRA区分の範囲全域で保持されます。

 活性のあるRAの割合は、遺伝子移入されていない多様体の場合の割合と類似していますが、NDAは一貫して、遺伝子移入されていない多様体よりも活発である可能性が低くなっています。少ないアレルの頻度と、遺伝子移入された多様体への遺伝子移入されていない多様体の連鎖不平衡分布とを一致させても、この結果は変わりませんでした。したがって、NDAはRAと比較して有意により低い独立した調節活性を有していますが、RAは遺伝子移入されていない多様体と調節活性の類似した水準を有します。


●議論

 本論文は、ネアンデルタール人と現生人類の間の交雑経由での再導入にのみ起因する、ユーラシア現代人における何十万ものアレルの存在を示しました。ほんどのNDAはRAと高い連鎖不平衡にあり、シミュレーションと計算の結果、RAは現生人類においてNDAよりも耐性がある、と示唆されました。じっさい、ゲノム規模関連とeQTL を有する遺伝子移入されたハプロタイプでは、RAはNDAよりも高頻度です。本論文では、遺伝子移入されたハプロタイプのRAが、関連するNDAと独立した遺伝子調節効果を有する、と示す複数の証拠が提示されました。

 遺伝子移入されたアレルの異なる組み合わせの体外実験分析は、連鎖不平衡を解きほぐす詳細な実験的手法を提供します。eQTLとMPRAのデータを用いて、少なくとも500のRAがNDAとは独立して調節活性を有する、と示されました。これらの分析からさらに、NDAはRAと比較して調節活性が低下しており、RAは遺伝子移入されなかった多様体と似た水準の活性を有する、と示されました。これは、調節効果を有するNDAに対する選択と一致します。これらの結果に照らすと、遺伝子移入されたアレルの異なる進化史が古代の交雑の分析では考慮されねばならない、と結論づけられます。

 RAは一部の組織、とくに脳の遺伝子移入されたeQTLで濃縮されていますが、他はそうではなく、逆にNDAは枯渇しています。これらのパターンは、脳と精巣におけるネアンデルタール人のアレルのアレル特有の下方制御、および脳組織におけるネアンデルタール人のeQTLの濃縮と定量的に一致します。これらを踏まえて、RAとNDAの調節効果は、遺伝的多様性と調節環境への制約の強さに基づいて組織間で異なっている、と結論づけられます。これを支持するのは、神経組織と精巣は遺伝子発現の選択水準が極端で(神経組織は高く、精巣は低い、とされます)、有意なRA/NDA比の違いを示す、ということです。ネアンデルタール人のアレルに対する選択の証拠のない追加の組織全体のRAeQTL濃縮の範囲を考慮すると、RA/NDA比の違いは、各組織の調節制約内で作用する選択圧の混合の結果と提案されます。

 とくに、二つの排他的な進化のシナリオは、観察されたRAとNDAとの間の違いを説明できるかもしれません。まず、遺伝子調節機能を有する遺伝子移入されたハプロタイプのRAと比較してのNDAの枯渇は、一般的に(関連記事)、およびある組織で(関連記事)、および調節領域全体で、以前に示されたNDA選択を反映しているかもしれません。この選択により、NDAの豊富なハプロタイプの調節領域は枯渇します。じっさい、ネアンデルタール人アレルと脳と精巣の既知のアレル特有の下方制御を有する2つの組織は、遺伝子移入されたeQTL 間のNDAで有意に枯渇した組織の中にあります。このシナリオは、MPRA分析でRAと他のヒト多様体両方と比較しての調節活性のNDAの枯渇により、さらに支持されます。

 第二に、遺伝子移入されたRAは、関連するNDAへの負の選択を緩和するか、自身へと選択さえされるかもしれません。このシナリオでは、OAS1遺伝子座で示唆されているように、古代の交雑は有益なもしくは少なくとも有害ではない調節機能を有するアレルを回復し、これらのRAはいくつかの遺伝子移入されたハプロタイプの維持に寄与しました。このシナリオの証拠を評価するため、最近の正の選択の証拠を伴う領域2セットの遺伝子移入が分析されました。強い最近の正の選択を受けた可能性の高い遺伝子移入されたハプロタイプ(関連記事)は、有意により低いRA水準を有しており、RAが遺伝子移入後の正の選択のほとんどの事例の動因ではなかった、と示唆されます。

 また、現生人類と古代型ホモ属との分岐後に現生人類系統で正の選択を受けたと予測される、ゲノム領域のRA構成が分析されました。これらの領域における遺伝子移入されたハプロタイプは、ユーラシアの各集団でRAへ有意に濃縮されていました。これは、高いRA/NDA比を有する遺伝子移入されたハプロタイプが、現生人類特有の重要な領域に保持された可能性が高い、と示唆します。それにも関わらず、本論文の結果は、NDAは全体的に耐性が低く、機能的背景においてRAと比較して枯渇が促進された、と示します。

 さらに、RA間の異なる進化史は、現生人類におけるRAの効果に影響を与えるかもしれません。アフリカ現代人(RAA・AFR+型とRAA・AFR−型)およびヒトとチンパンジーの祖先(RAAとRHA)に基づいて分類されたRAの分析から、RAの区分におけるいくつかの違いが明らかになりました。たとえば、アフリカ現代人に存在するRAAはユーラシア人において高頻度で、アフリカ現代人に存在しないRAA と比較して、GWASもしくはeQTLでハプロタイプが豊富です。これは、再導入時に、RAA・AFR+型がRAA・AFR−型よりも耐性があることを示唆します。しかし、ユーラシア人におけるRAA・AFR−型は少なく、違いを検出する能力が低下します。同様に、多様体効果予測アルゴリズムからは、より古いRAAはより新しいRHAよりもわずかに良性と示唆されます。またRAAは、GWAS形質関連では濃縮されますが、RHAは違います。

 一部の分析で見られるRA区分間の違いにも関わらず、全てのRAはNDAと異なります。RAは現生人類の祖先に遺伝的背景があり、選択がより効率的に作用する、相対的により大きな人口で維持されてきたからです。以前の研究では、遺伝子移入経由での現生人類への弱い有害性のNDAの伝播における要因として、ネアンデルタール人集団の小さな有効人口規模が示唆されました(関連記事)。対照的に、相対的に有効人口規模の大きい祖先人類集団におけるより効率的な選択をRAはより長く受けているので、全てのRA区分がほとんどの分析でNDAと異なる理由を説明できます。

 また本論文の結果は、同じような年代の遺伝子移入されていない多様体と比較して、RAの機能的効果の異なる予測をすべきなのか、という問題を提起します。RAの中で、異なる進化史はいくつかの分析で異なる機能的特性を示します。上述のように、RAは何十万年もネアンデルタール人系統で隔離されていました。結果として、RAは遺伝子移入されていないアレルと比較して、現生人類においてはより有害な効果を有する、と予測できるかもしれません。しかし、本論文の分析では、とくにNDAと比較した場合、RAは一般的に遺伝子移入されていない多様体と同様に作用します。したがって将来の研究では、ネアンデルタール人と現生人類との交雑を解釈するさいには、遺伝子移入された多様体の間の異なる進化史が考慮されねばなりません。

 RAのさらなる分析は、古代人類集団の遺伝学の研究にも関連します。たとえば、ユーラシア人に存在する何万ものRAがアフリカ現代人集団には存在しません。これら古代の多様体は、アフリカ人とユーラシア人との間の自然選択の効率における違いに関する継続中の議論に情報を提供するとともに、50万年以上前にアフリカに存在した古代の遺伝的多様性への解明の手がかりを提起します。最後に、本論文はネアンデルタール人に焦点を当てましたが、おそらくデニソワ人から現生人類への遺伝子移入も、とくにデニソワ人系統を高水準で有するアジア人集団で、失われたアレルを再導入しました。

 結論として、本論文が示したのは、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入は、現生人類ユーラシア人集団の祖先で失われたアレルを再導入し、これら何百ものRAが機能している、ということです。これは、人類集団間の共有された祖先の多様性を説明する重要性と、交雑事象がアレル多様性のボトルネックの効果を調整するかもしれない方法を示します。RAとその異なる進化史は、ハプロタイプとゲノムの両方の規模におけるネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入の分析において、考慮されねばなりません。


参考文献:
Rinker DC. et al.(2020): Neanderthal introgression reintroduced functional ancestral alleles lost in Eurasian populations. Nature Ecology & Evolution, 4, 10, 1332–1341.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1261-z

『卑弥呼』第4集発売

 待望の第4集が発売されました。第4集には、

口伝23「膠着」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_39.html

口伝24「交渉」
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_18.html

口伝25「光」
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_49.html

口伝26「剛毅」
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_14.html

口伝27「兵法家」
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_40.html

口伝28「賽は投げられた」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_16.html

口伝29「軍界線」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_39.html

口伝30「人柱」
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_8.html

が収録されています。連載時には「第*話」となっていましたが、単行本では「口伝*」となっています。単行本では「真説・邪馬台国伝」との副題がつけられています。それぞれの話については、上記の記事にて述べているので、ここでは繰り返しません。第23話が掲載された『ビッグコミックオリジナル』2019年9月5日号は昨年8月20日の発売ですから、もう1年近く前のことになります。第4集では「鬼」たちとの接触の直前までが描かれ、単行本でしか本作を読んでいない人は、続きが気になるところでしょう。その意味で、上手い区切り方だと思います。

 本作の魅力は、話の壮大さにある、と私は考えています。すでに、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の一族が日向(ヒムカ)から東方へと向かった話が作中で語られていますから、今後、現在の奈良県、もっと具体的に言えば纏向遺跡一帯も舞台になるのではないか、と予想されます。さらに、おそらく第6集に所収されるでしょうが、曹操や劉備とともに遼東の公孫氏も言及されており、朝鮮半島と中華王朝も関わってくるのではないか、と思われます。日本の古墳では呉の年号銘の銅鏡も発見されていますから、あるいは呉も関わってくるかもしれず、その点も楽しみです。

大相撲七月場所千秋楽

 これまで当ブログでは名古屋場所と表記してきましたが、東京の両国国技館開催となったので、七月場所としました。今年(2020年)は新型コロナウイルスの流行により、春場所が無観客での開催、夏場所が中止となり、七月場所は名古屋ではなく東京開催で、観客は2500人までに制限されました。色々と批判はあるでしょうが、千秋楽まで無事開催されたことは何よりでした。2011年もそうでしたが、今年も、「平穏な日常」がいかに大切なものなのか、またそれがいかに脆いものなのか、改めて痛感しています。

 優勝争いは、白鵬関が10日目に全勝で単独首位に立ち、このまま独走するのかと思ったら、11日目・12日目と連敗し、しかも膝を痛めて13日目から休場に追い込まれました。白鵬関といえども、出稽古禁止で調整が難しかったこともあるでしょうし、全盛期よりも力が落ちていることもあるのでしょう。全盛期の白鵬関ならば、こうした展開で優勝を逃すことはほとんどなかったでしょう。2日目から途中休場となった鶴竜関はもっと深刻で、いつ引退しても不思議ではありません。横綱不在が近いうちに現実化するかもしれず、相撲協会も不安でしょう。

 白鵬関の途中休場により、優勝争いは、次の横綱候補である新大関の朝乃山関と、幕内に戻ってきた元大関の照ノ富士関が引っ張ることになりました。両者は13日目に1敗同士で対戦し、照ノ富士関が上手さと力強さを見せて勝ちました。14日に、照ノ富士関は正代関に敗れて2敗となり、朝乃山関は照強関の注文相撲にはまった感じで負けて3敗となりました。これで、優勝争いは2敗の照ノ富士関と3敗の朝乃山関・正代関・御嶽海関に絞られました。

 千秋楽は、結び前の一番で照ノ富士関と御嶽海関が対戦し、結びの一番で朝乃山関と正代関が対戦するという、優勝争いに絡む4人の対戦が組まれました。照ノ富士関が勝てば優勝が決まりますが、御嶽海関が勝てば久々の巴戦(3人では1994年春場所以来)になるという点でも、大いに注目されました。照ノ富士関と御嶽海関の一番は、照ノ富士関が外四つながら両上手を取って速攻で寄り切って勝ち、実に2015年夏場所以来となる2回目の優勝を決めました。結びの一番では朝乃山関が厳しい攻めで正代関を押し出して勝ち、12勝3敗としました。

 照ノ富士関の復活は見事でしたが、脆さもあり、全盛期の力にはまだとても及ばないと思います。しかし、大関再昇進は難しいかもしれないものの、関脇にまで戻る可能性は高そうです。御嶽海関と正代関が近いうちに大関に昇進するかもしれないとはいえ、朝乃山関は次の横綱の最有力候補と言えるでしょうが、まだ実力が足りないのは否めません。とはいえ、鶴竜関の引退が見えてきて、白鵬関も全盛期からは随分と衰えていますから、近いうちに横綱に昇進する可能性は低くないでしょう。ただ、今場所後半の崩れ方を見ると、横綱に昇進できるのか、不安も残ります。横綱不在を避けるためにも、朝乃山関にはもう一段階上の強さを身に着けてもらいたいものです。

 貴景勝関は11日目に勝ち越しを決め、12日目から休場となりました。貴景勝関は今場所明らかに状態が悪かったのですが、何とか勝ち越して角番を脱出できたのは何よりでした。貴景勝関は研究されてきており、怪我も絶えないため、押し相撲一本で横綱に昇進するのは難しそうで、白鵬関と鶴竜関が引退したとしても、大関の地位を維持するのが精一杯となりそうです。とはいえ、四つ相撲での貴景勝関の弱さを見ると、これから四つ相撲に変えようとしたら大関陥落の可能性は高そうですから、今後も押し相撲を貫くのがよいのでしょう。

ホラアナライオンのmtDNA解析

 絶滅したホラアナライオン(Panthera spelaea)のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Stanton et al., 2020)が公表さました。ホラアナライオンは更新世末(最後の化石記録は較正年代で14219±112年前)に絶滅するまで、全北区全域で頂点捕食者でした。ホラアナライオンは現生ライオンより大きく、更新世の洞窟芸術からは、ホラアナライオンには鬣がなかった、と示唆されます。しかしホラアナライオンは、集団生活や求愛儀式のようないくつかの行動的特徴を現生ライオンと共有していました。

 ホラアナライオンの分類に関しては議論があり、ライオン(Panthera leo)の亜種(Panthera leo spelaea)もしくはトラ(Panthera tigris spelaea)とより密接に関連している、と主張されてきました。とくに、ホラアナライオンと現生ライオンとの間の分岐年代の分子推定は、研究によりかなり異なっており、60万年前頃とも、293万~123万年前頃とも推定されています。以前の研究では、ATP8と制御領域の348塩基対に基づき、ホラアナライオンにおける二つの主要なmtDNAハプログループ(mtHg)が特定され、標本の年代とそのmtHgとの間には関連があり、一方のmtHgは41000年前頃に消滅した、と示されました。

 頭蓋と下顎の形態学的分析では、アラスカのヤクート(Yakutia)とカナダのユーコン準州のホラアナライオンはヨーロッパのホラアナライオンよりも小さいと示され、ベーリンジア(ベーリング陸橋)のライオンは異なる亜種(Panthera spelaea vereshchagini n.subsp)と結論づけられました。しかし、ホラアナライオンに関する全ての遺伝学的な先行研究は、小さなミトコンドリア断片のみを用いたか、限定的な標本数に基づいていたので、ホラアナライオン間およびホラアナライオンと現生ライオンとの間の系統的構造は、ほとんど未解決のままでした。

 この研究では、ホラアナライオンの全生息範囲を対象に、放射性炭素年代測定法の限界(5万年前頃)を超えた古い年代化石記録も含めて、31頭のホラアナライオンのミトコンドリアゲノム多様性が調査されました。また、複数の新たな放射性炭素年代が測定され、遺伝的データを利用しての曖昧もしくは放射性炭素年代測定法の限界を超えた年代の標本の年代推定と、ライオンとホラアナライオンとの間の分岐年代の推定と、ホラアナライオンの種内ミトコンドリア多様性の調査が可能となりました。以下、本論文で分析されたホラアナライオン標本の位置と年代を示した本論文の図2です。
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 ミトコンドリアゲノム分析では、ホラアナライオンと現生ライオンはそれぞれクレード(単系統群)を形成します。ホラアナライオン標本の年代は、おもに放射性炭素年代測定法に基づいていますが、それが利用できなかったり、限界年代(5万年前頃)を超えたりしたような場合は、遺伝学的に年代が推定されました。これらに基づき、ホラアナライオンと現生ライオンとの分岐は185万年前(信頼区間95%で291万~52万年前)と推定されました。これは以前の推定年代(293万~123万年前)とおおむね一致します。一方、全ゲノム配列を活用して、派生的アレル(対立遺伝子)と雄X染色体とミスマッチ率から、化石記録に依拠せずに推定された両者の分岐年代は50万年前頃です(関連記事)。放射性炭素年代のみを用いて分析した場合の両者の推定分岐年代は55万年前頃(396万~17万年前頃)です。本論文は、分子時計の不確実性も考慮して、より妥当と考えられる化石記録も考慮した古い推定分岐年代の方を採用しています。ただ、この推定年代は化石記録による較正に大きく依拠しているので、将来改訂される可能性もある、と本論文は指摘します。

 ホラアナライオンにおけるもっとも深い推定分岐年代は97万年前(信頼区間95%で161万~20万年前)で、他の個体群と最も早く分岐したA系統は、シベリア北東部のビリビノ(Bilibino)で2008年に発見された643394年前の1個体のみで代表されます。ただ、この標本の出所が不確かなことや、この標本と同一個体かもしれない他の標本の年代が61000年前や28700年前と推定されていることなどから、本論文はA系統の推定に関して注意を喚起しています。

 ホラアナライオンにおける次に深い分岐は578000年前(信頼区間95%で124万~108000年前)で、残りの標本はこのクレードBとクレードCに分類されます。クレードBには419000~28000年前頃の標本が、クレードCには311000~136000年前頃の標本が含まれます。興味深いことに、mtHgと地理との間には強い関連性がありました。クレードBとCの間には地理的重複もありますが、クレードBはほぼベーリンジアに限定され、1標本を除いてヤナ川の東方で発見されました。クレードCはオランダからシベリア東部までユーラシア全域に分布しますが、1標本を除いてベーリンジアでは見つかっていません。28000年前頃より新しい標本は全てクレードCに分類され、クレードBはホラアナライオンの絶滅の1万年以上前に消滅したかもしれません。以下、ホラアナライオンの系統関係を示した本論文の図1です。
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 本論文の結果は、ホラアナライオンが前期更新世に現生ライオン系統と分岐した、と示唆します。前期更新世は、159万年前頃のホラアナグマの分岐や、250万年前頃のアフリカとユーラシアのハイエナの分岐など、大型動物相の多様化において重要な時期だったようです。本論文の結果は、ホラアナライオンと現生ライオンを形態と遺伝的データに基づいて異なる種と仮定した以前の研究と一致します。mtHgに基づくと、ホラアナライオン系統では、971000年前頃にA系統とBC系統が分岐し、578000年前頃にB系統とC系統が分岐した、と推定されますが、いずれも完新世の前までに絶滅しました。これらの分岐は、現生ライオン亜種間の分岐よりもかなり古くなります。

 ホラアナライオンのB系統とC系統は中期更新世に分岐し、それ以降は異なる地域に分布していたようです。この地理的分布は、ホラアナライオンでもベーリンジア個体群の頭蓋と下顎がヨーロッパ個体群よりも顕著に小さい、という以前の知見と一致します。さらに、ホラアナライオンはベーリンジア個体群とヨーロッパ個体群とで獲物の好みが違っていた可能性が高く、前者はバイソンとウマを、後者はトナカイを選好したようです。これも、本論文が提示した遺伝的データと一致し、ベーリンジアのホラアナライオンは亜種(Panthera spelaea vereshchagini)と考えられます。ただ、本論文の知見はあくまでもmtDNAに基づくものなので、核ゲノムではもっと複雑なホラアナライオンの進化史が見えてくるかもしれません。


参考文献:
Stanton DWG. et al.(2020): Early Pleistocene origin and extensive intra-species diversity of the extinct cave lion. Scientific Reports, 10, 12621.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-69474-1

同位体分析から推測される初期人類の食性

 同位体分析から初期人類の食性を推測した研究(Martin et al., 2020)が公表されました。安定同位体分析により、過去の生物の生態・生理・食性を推定できます。初期人類の食性は、骨・歯の分析や同位体分析などに依存しています。しかし、同位体分析においては、栄養価の指標になるコラーゲンと窒素の同位体は、たとえば100万年以上前ではめったに保存されていません。初期人類の食性は多くの場合炭素同位体に依存しており、骨や歯のような化石ではあまり保存されていません。炭素同位体組成は、最終的な植物源の光合成経路を反映しており、過去の植生進化の復元と、人類も含めてアフリカの動物の食性調査に役立ちました。

 アフリカの人類の炭素同位体分析は、C3およびC4植物全体を反映します。たとえばアフリカ東部では、初期アウストラロピテクス属の食性はほぼC3植物に由来しますが、パラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)などもっと新しい人類は、その食性をほぼC4植物に依存しています(関連記事)。しかし、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)もしくはケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)のように、初期アウストラロピテクス属もしくは同年代の人類でも、食性でC4植物の顕著な割合を示す系統も存在します。アフリカ中央部では、アウストラロピテクス・バーレルガザリ(Australopithecus bahrelghazali)がC4植物環境で食料を調達していた初期人類の別の事例となります。

 炭素同位体分析の重要な結果として、大きな歯を有するアウストラロピテクス属の分類群間の炭素13値の顕著な違いがあり、アフリカ南部のパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とアフリカ東部のパラントロプス・ボイセイが異なる資源を利用していた、と示されます。こうした結果は歯の微視的使用痕でも裏づけられています(関連記事)。本論文は、カルシウムと炭素の同位体を利用して、ケニアのトゥルカナ(Turkana)盆地の初期人類や共存していた霊長類の食性を調べます。脊椎動物におけるカルシウム同位体の研究から、カルシウム同位体44/42の比率の減少が栄養価の増加と関連している、と明らかになっています。

 まず、現生ゴリラの調査により、カルシウム同位体値と食性との関係が改めて確認されました。次に、トゥルカナ盆地の初期人類も含む霊長類(69個体)のカルシウム安定同位体が分析され、−0.69‰~−1.88‰の範囲と明らかになりました。初期人類との食性の類似が指摘されることもあるヒヒ属は、カルシウム同位体値が低く、化石ヒヒ属(Parapapio)はそれよりもずっと高い値を示します。これは摂食選好の違いを反映しているかもしれませんが、アフリカの現生種であるアヌビスヒヒ(Papio anubis、オリーブヒヒ)は広範に分布しているので、本論文のデータでは地理的多様性を反映できていない可能性もあります。

 現生種のゲラダヒヒ(Theropithecus gelada)はC3草本植物に強く依存していると以前から推測されており、本論文のカルシウム同位体値でも、草本に依存しているとの結果が得られました。化石ゲラダヒヒ属2種(Theropithecus brumpti、Theropithecus oswaldi)のカルシウム同位体値は、現生ゲラダヒヒからさほど逸脱していません。しかし、ゲラダヒヒ属でもオズワルディと比較して大型のブランプティの一部個体は大型肉食動物と同じ値の範囲内にあり、ブランプティのカルシウム同位体値の範囲が広いことから、ブランプティは雑食と推測されます。

 化石人類のカルシウム同位体値では、共にアフリカ東部に生息していたアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)とケニアントロプス・プラティオプスは、区別できませんでした。プラティオプスの炭素同位体値がC3植物とC4植物の混合環境での摂食を明確に示したのに対して、アナメンシスの方は、アルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)と同様のほぼ純粋なC3植物食性を示唆します。以前の頭蓋形態に関する研究では、アナメンシスは硬いものを接触していた可能性が示唆されていましたが、歯の微視的使用痕と炭素同位体分析に基づくその後の研究では、C3植物環境の柔らかいものを食べていた、と推測されています。アナメンシスのカルシウム同位体値は、アフリカ東部の現代および化石の木の葉食動物とほとんど重なっており、果物や草など様々なC3植物を摂食していた、と示唆されます。ただ、アナメンシスの一部個体は、酸素同位体値に基づくとより開放的な環境でも過ごした可能性があり、食料を獲得する場所と生息する場所とが分離されていたかもしれません。

 初期ホモ属のカルシウム同位体値は分散しており、雑食もしくは肉食選好が示唆されます。ただ、これはトゥルカナ盆地における初期ホモ属、たとえばハビリス(Homo habilis)やルドルフェンシス(Homo rudolfensis)やエレクトス(Homo erectus)の分類が明確ではないことを反映しているかもしれず、その場合、初期ホモ属内では植生が不均質だったかもしれません。また、初期ホモ属はゲラダヒヒ属のオズワルディと類似したカルシウム同位体値を示しますが、炭素同位体値は異なります。

 パラントロプス・ボイセイは、初期ホモ属やゲラダヒヒ属のオズワルディやトゥルカナ盆地の草の葉食哺乳類とも異なるカルシウム同位体値を示します。炭素13値とカルシウム同位体値を同時に比較した分析でも、ボイセイは他の人類および非人類草の葉食哺乳類の範囲とは重ならず、形態や歯の微視的使用痕や炭素同位体分析で強調されていたように、独自性を示します。ボイセイは、果物のような柔らかいものを食べていた、と推測されています(関連記事)。ボイセイの食性はかなり特異で、そのカルシウム同位体値は、トゥルカナ盆地の他の人類だけではなく、より低いカルシウム同位体値を示すアフリカ南部の同じパラントロプス属のロブストスとも明らかに異なります。

 興味深いことに、共にアフリカ南部に生息していたパラントロプス・ロブストスとアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)では、炭素13値にもカルシウム同位体値にも違いがありません。ロブストスの食性に関しては、アフリカ南部の同時代の初期ホモ属とともに柔軟だった、と以前の研究では推測されていました。本論文の分析と炭素13値もしくは歯の微視的使用痕からは、アフリカ東部のボイセイが特殊な食性だったのに対して、アフリカ南部のロブストスは柔軟な食性だった、と示されます。これらの結果は、ロブストスとボイセイという明らかに咀嚼機能を共有する分類群間の食性の不一致を示し、歯と顎の特徴のみに基づくパラントロプス属の単系統性という主張に疑問を投げかけます。

 パラントロプス属の分類に関しては、以前取り上げました(関連記事)。日本ではよく「頑丈型猿人」と呼ばれるパラントロプス属はアフリカでのみ確認されており、東部のエチオピクス(Paranthropus aethiopicus)およびボイセイと南部のロブストスの3種に分類されています。パラントロプス属の系統関係については、エチオピクスからボイセイとロブストスが派生したとの見解が一般的には有力ですが、アフリカ南部のアウストラロピテクス・アフリカヌス→ロブストスの系統と、アフリカ東部のアウストラロピテクス・アファレンシス→エチオピクス→ボイセイの系統に分かれる、との見解もあります。もしそうならば、これら3種はクレード(単系統群)を形成せず、パラントロプス属という区分も成立しません。

 本論文は、アフリカ南部のパラントロプス・ロブストスとアウストラロピテクス・アフリカヌスの食性の類似を示しており、パラントロプス属とされてきた3種がクレード(単系統群)を形成しない、という見解と整合的です。ただ、食性の違いは、霊長類全般に見られる柔軟性に基づく、異なる環境への適応とも解釈できます。最近の研究では、230万~200万年前頃にアフリカ南部で大きな生態系と動物相の変化があり、広義のホモ・エレクトスもこの期間にアフリカの他地域、おそらくは東部から南部に拡散してきた、と推測されています(関連記事)。もしそうならば、ロブストスがエチオピクスから派生した一部系統で、東部から南部に拡散してきた、とも考えられます。そうすると、パラントロプス属という区分も成立することになりますが、この問題は今後の研究の進展を俟つしかなさそうです。


参考文献:
Martin JE. et al.(2020): Calcium isotopic ecology of Turkana Basin hominins. Nature Communications, 11, 3587.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17427-7

大津透『律令国家と隋唐文明』第2刷

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年4月に刊行されました。第1刷の刊行は2020年2月です。本書は、律令の導入を中心に、古代日本が隋と唐から文化・制度をどのように受容していったのか、概説します。碩学の著者らしく、その射程は律令に留まらず仏教や儒教にも及んで、広くまた深く掘り下げられており、新書とはいえ、たいへん密度が高くなっています。いつか、時間を作って再読しなければなりませんし、本書で提示された天皇号推古朝採用説についても、今後調べ続けていかねばならない問題だと思います。

 本書は日本における律令制導入の契機として、対外的緊張関係を指摘します。アジア東部において、紀元後6世紀後半以降、隋、続いて唐という巨大勢力が出現し、朝鮮半島諸国でも高句麗や百済で集権化が進みます。日本における乙巳の変もその文脈で解されます。とくに、唐が朝鮮半島に軍事的に介入し、百済と高句麗が滅ぼされる過程で、日本が唐に白村江の戦いで惨敗したことは、日本の支配層に危機感を抱かせ、西日本で百済式の山城が築かれるとともに、律令制への導入が進みました。本書は、日本における律令制導入の画期を天武朝としており、その延長線上に大宝律令がある、と指摘します。

 また本書は、隋や唐と当時の日本では社会構造に大きな違いがあり、律令をそのまま導入したわけではなく、かなり変更されていることも指摘します。とくに違いが大きいのは君主(天皇)関連で、天皇は律令制前の君主(大王)像を多分に継承していました。しかしこれも、桓武天皇よりもさらにさかのぼって聖武天皇以降の君主権強化の流れの中で、天皇も儀礼などにおいて中華皇帝に近接していき、平安時代前期には天皇の「中華皇帝化」が一定以上進行します。これにより、天皇は制度化されていき、君主権強化という当初の目的からは遠ざかった感は否めませんが、一方で、天皇という枠組みが安定したことも間違いなく、これが現在まで千数百年以上天皇が続いた要因なのでしょう。

ブリテン島における鳥類個体群の多様性に関係する道路への曝露

 ブリテン島における鳥類個体群の多様性と道路への曝露との関係についての研究(Cooke et al., 2020)が公表されました。イギリスの道路網は、世界で最も密に張り巡らされた道路網の一つで、国土の80%が道路から1km以内にあります。道路建設は、各地域で生息地の分断化や変化をもたらし、野生生物の地域個体群に影響を及ぼしています。しかし、野生生物の個体群に対する道路の影響を全国水準で調べる研究は、ほとんど進んでいません。

 この研究は、イギリス鳥類繁殖調査(UK Breeding Bird Survey)のデータを使って、ブリテン島内の道路と関連づけ、同島内に生息する鳥類75種の個体数を評価しました。その結果、58種の個体数と道路曝露との間に有意な関連が認められ、そのうち33種が負の影響を受けている、と明らかになりました。道路への曝露が増えると、イギリス国内で個体数の少ない鳥類種の個体数が減り、ミヤマガラスやクロウタドリやコマドリなどありふれた鳥類種の個体数が増えていました。たとえば、道路曝露を考慮に入れると、マキバタヒバリの個体数は31%減少し、ウソの個体数は28%増加していました。また、幹線道路と補助道路を別々に分析したところ、幹線道路近くで発見された鳥類種の81%が負の影響を受けている、と明らかになりました。

 この研究は、ブリテン島において、道路網がありふれた鳥類種には恩恵をもたらす一方で、その他の鳥類種には不利になる環境条件を生み出しており、鳥類群集の単純化がもたらされている可能性を示唆しています。この研究は、脆弱な鳥類種が道路密度の低い地域へ追いやられていることが、将来的には道路密度の高い国々での鳥類の個体数減少と絶滅につながると考えられる、と主張しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:英国本土における鳥類個体群の多様性に道路への曝露が関係している

 英国のグレートブリテン島とその周辺の小島に生息する比較的希少な小型の鳥類種や渡り鳥種(マキバタヒバリ、タゲリなど)が、道路への曝露と負の関連を示していることを報告する論文が、Nature Communications に掲載される。今回の研究は、同島内の道路網が、ありふれた鳥類種(ミヤマガラス、クロウタドリ、コマドリなど)に恩恵をもたらす一方で、その他の鳥類種の不利になる環境条件を生み出しており、鳥類群集の単純化をもたらしている可能性を示唆している。

 英国の道路網は、世界で最も密に張り巡らされた道路網の1つで、国土の80%が道路から1キロメートル以内にある。道路建設は、それぞれの地域で生息地の分断化や変化をもたらし、野生生物の地域個体群に影響を及ぼしている。しかし、野生生物の個体群に対する道路の影響を全国レベルで調べる研究は、ほとんど進んでいない。

 今回、Sophia Cookeたちの研究チームは、英国鳥類繁殖調査(UK Breeding Bird Survey)のデータを使って、グレートブリテン島内の道路と関連付けて、同島内に生息する鳥類75種の個体数評価を行った。その結果、58種の個体数と道路曝露との間に有意な関連が認められ、そのうち33種が負の影響を受けていることが明らかになった。道路への曝露が増えると、英国内で個体数の少ない鳥類種の個体数が減り、ありふれた鳥類種の個体数が増えていた。例えば、道路曝露を考慮に入れると、マキバタヒバリの個体数は31%減少し、ウソの個体数は28%増加していた。また、幹線道路と補助道路を別々に分析したところ、幹線道路近くで発見された鳥類種の81%が負の影響を受けていることが判明した。

 Cookeたちは、脆弱な鳥類種が道路密度の低い地域へ追いやられており、このことが将来的には道路密度の高い国々での鳥類の個体数減少と絶滅につながると考えられると主張している。



参考文献:
Cooke SC. et al.(2020): Roads as a contributor to landscape-scale variation in bird communities. Nature Communications, 11, 3125.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16899-x

アメリカ大陸のクロコダイルの起源

 アメリカ大陸のクロコダイルの起源に関する研究(Delfino et al., 2020)が公表されました。これまで、クロコダイルが大西洋を横断してアフリカ大陸からアメリカ大陸に到達したのか、あるいはその逆なのか、不明でした。この研究は、1939年にリビアのアズサービ(As Sahabi)で発見され、ローマ大学ラサピエンツァ校の地球科学博物館(MUST)に保管されている、絶滅したアフリカのクロコダイル種(Crocodylus checchiai)の頭蓋骨を、コンピューター断層撮影画像を用いて再調査しました。

 その結果、いくつかの新しい頭蓋構造が明らかになりました。その一つは、C.checchiaiの口吻の中央部が突出していることで、これは他のアフリカのクロコダイル種に見られない構造ですが、アメリカ大陸のクロコダイルの現生種である、オリノコワニ(Crocodylus intermedius)やモレレットワニ(Crocodylus moreleti)やアメリカワニ(Crocodylus acutus)やキューバワニ(Crocodylus rhombifer)の頭蓋骨には見られます。このように骨格構造が共通しているということは、C.checchiaiとアメリカに生息するクロコダイルとの間の密接な進化的関係を示しています。

 クロコダイル種間の進化的関係のさらなる解析の結果、C.checchiaiが、南北アメリカ大陸に現生するクロコダイル種(4種)と同じ進化系統の一部である、と示唆されました。C.checchiaiの化石は、年代測定により約700万年前と推定されました。これに対して、アメリカのクロコダイルの化石として最古のC.falconensisの年代は、約500万年前と推定されています。この研究は、以上の知見に基づいて、クロコダイルがオーストラリアからアフリカを経て西へ移動して、中新世後期(約1100万年~500万年前)にアメリカに到達した、との見解を提起しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:古代アフリカのクロコダイルの頭蓋骨がアメリカのクロコダイルの起源を解明する手掛かりに

 絶滅したアフリカのクロコダイル種Crocodylus checchiaiが、アメリカのクロコダイルの現生種と近縁関係にあるとした解析結果を報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、クロコダイルが中新世後期(1100万年〜500万年前)にアフリカからアメリカに移動した可能性を示唆している。

 今回の発見までは、クロコダイルが大西洋を横断してアフリカ大陸からアメリカ大陸に到達したのか、あるいはその逆なのかが不明だった。今回、Massimo Delfino、Dawid Iurinoたちの研究チームは、1939年にリビアのAs Sahabiで発見され、ローマ大学ラサピエンツァ校の地球科学博物館(MUST)に保管されているC.checchiaiの頭蓋骨を、コンピューター断層撮影画像を用いて再調査した。彼らは、いくつかの新しい頭蓋構造を明らかにした。その1つがC.checchiaiの口吻の中央部が突出していることであり、これは他のアフリカのクロコダイル種に見られない構造だが、アメリカのクロコダイルの現生種[オリノコワニ(C. intermedius)、モレレットワニ(, C. moreleti)、アメリカワニ(C. acutus)、キューバワニ(C. rhombifer)]の頭蓋骨には見られる。このように骨格構造が共通しているということは、C.checchiaiとアメリカに生息するクロコダイルの間に密接な進化的関係のあることを示している。

 そして、クロコダイル種間の進化的関係のさらなる解析が行われ、C.checchiaiが、北米と南米に現生するクロコダイル種(4種)と同じ進化系統の一部であることが示唆された。C.checchiaiの化石は、年代測定によって約700万年前のものとされた。これに対して、アメリカのクロコダイルの化石として最古のC.falconensisは約500万年前のものとされている。Delfinoたちは、以上の知見に基づいて、クロコダイルがオーストラリアからアフリカを経て西へ移動してアメリカに到達したという見解を提起している。



参考文献:
Delfino M. et al.(2020): Old African fossils provide new evidence for the origin of the American crocodiles. Scientific Reports, 10, 11127.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-68482-5

アメリカ大陸最古の人類の痕跡(追記有)

 アメリカ大陸最古の人類の痕跡に関する二つの研究が報道(Gruhn., 2020)されました。これらの研究はオンライン版での先行公開となります。一方の研究(Ardelean et al., 2020)は、アメリカ大陸における最古級の人類の痕跡を報告しています。アメリカ大陸における人類最初の到達はひじょうに注目されており、激しい議論が続いていますが、メキシコの人類最初期の痕跡はほとんど知られておらず、研究が遅れていました。そこで本論文は、メキシコのチキウイテ洞窟(Chiquihuite Cave)の調査結果を報告しています。

 チキウイテ洞窟はメキシコのサカテカス (Zacatecas)にあり、海抜2740m、渓谷からは約1000mの地点に位置します。放射性炭素年代測定法に基づく骨・炭・堆積物46点と、光刺激ルミネッセンス法(OSL)に基づく標本6点から年代が得られました。チキウイテ洞窟の層位は1223層から1201層へと新しくなり、古い方からC→B→Aと区分されています。C層は1223層~1212層までで、1212層は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に堆積した、と推測されています。1210層はC層とB層の境界となり、LGMの末期となります。B 層はその上で1210層から1203層まで、A層は1201層で、ほぼ歴史時代です。C層は放射性炭素年代測定法による較正年代(以下、基本的には紀元後1950年を基準と下較正年代です)で33150~31405年前に始まり、B層は16605~15615年前と13705~12200年前の間となり、12900~11700年前頃のヤンガードライアス期に近接しています。これらチキウイテ洞窟の年代値は、層序とよく一致します。

 石器1930点が全ての層で発見されましたが、B層が87.2%(1684個)と圧倒的に多く、C層は12.3%(239個)です。これは、発掘堆積物量の少なさに起因すると考えられます。C最下層でも石器が発見されています。剥片石器は未知の技術伝統を反映しており、年代による変化はほとんど見られません。石器はほぼ(90%以上)緑色か黒味がかかっており、意図的に選択されたようです。主要な石器製作技術は直接的打撃で、石核・剥片・石刃・小型石刃(bladelet)・掻器・尖頭器などに分類されます。総合的に、チキウイテ洞窟の石器群は、アメリカ大陸の更新世もしくは前期完新世の既知の文化のどれとも明確な類似性を示しません。

 環境DNA研究の応用により、更新世の堆積物のDNA解析が試みられました。LGM前からLGM末期までとなる1223層~1210層では、セイヨウネズやモミやマツやトウヒなど森林性植物と、ドクムギ属やイチゴツナギ亜科やオオムギ属やバラ類といった草本植物との混在を示すDNA証拠が得られました。LGM前からLGM期までの1223層~1212層では、後の期間よりも森林性の環境を示す証拠が得られ、樹木と広葉草本が豊富でした。植物相の明確な変化はLGM後からヤンガードライアス期(1207A層~1204層)前に起きました。この変化でマツやセイヨウネズはほぼ消滅し、キジカクシ科やマツの亜集団のストローブマツやモロコシ属などが優占するようになります。

 プラントオパールと花粉も分析され、環境DNAと類似した分類群だけではなく、異なる分類群も特定されました。注目されるのは、LGMも含めて全標本で検出されたヤシ科のプラントオパールで、現在チキウイテ洞窟一帯では海抜2000m以下に1種(Brahea berlandieri)しか自生しておらず、LGMは今よりもずっと寒冷だったので、人類が食資源などとして持ち込んだ、と考えられます。プラントオパールの中には加熱されたものもあり、これも人類が持ち込んだ傍証となりそうです。

 動物相では、コウモリが全ての層で見つかっており、クビワコウモリ属とホオヒゲコウモリ属とヒナコウモリ属が1204層までは優占しており、その後はヘラコウモリ科や新たなコウモリ亜目種に置換されました。クマのDNAはLGMに確認されますが、最も豊富に存在するのは末期で、考古学的記録と一致します。齧歯類の存在はずっと確認されますが、いくつかの層でより高頻度です。ヤギやヒツジや鳥類のDNAも確認されました。更新世の堆積物における人類(ホモ属)のDNAの検出も1204・1210・1212・1218の各層で試みられましたが、その証拠は見つかりませんでした。当然これは、チキウイテ洞窟における人類の存在を否定する証拠にはなりません。

 チキウイテ洞窟の堆積物におけるDNA浸透の検証には、ウマ属が用いられました。現代のウマ属(ほぼロバ)のDNAは1201層に限定され、古代のウマ属のDNAは1204C層以下で確認されました。また、DNAの損傷は同じ層の他の動物と類似していました。これらの知見から、DNAの浸透は大きな影響を及ぼさない、と考えられます。骨の分析では、全体的には小型動物が多いものの、LGMには大型動物がより多く見られます。

 本論文は、チキウイテ洞窟における少なくともLGM末期からヤンガードライアス期の始まりまでの人類の存在を示します。LGMとLGMよりも前における人類の存在は、1212層より下のC層の人工物で示されます。この段階の文化的証拠は後代よりも少なく、訪問・居住が短くて低頻度だったことを反映していると考えられますが、以前の想定よりずっと早いアメリカ大陸への人類の到来を示唆します。チキウイテ洞窟における各層の長さから、人類はチキウイテ洞窟を一貫した基準で利用し、おそらくは大きな移住周期の一部として季節単位で再利用していた、と考えられます。

 更新世のアメリカ大陸において、人類がチキウイテ洞窟のような高地を利用したことは異例ですが、13000年前頃以降となると、アンデス高地において海抜4480m地点まで人類が拡散していた証拠も得られています(関連記事)。チキウイテ洞窟の石器群はアメリカ大陸において類似のものが見つかっておらず、その定量的特徴は発達した技術を示唆し、おそらくはLGMよりも前にどこかから持ち込まれました。チキウイテ洞窟住民の起源、他のクローヴィス(Clovis)文化集団よりも古い集団との生物文化的関係、その祖先がアメリカ大陸へと到来した経路をよりよく解明するには、さらなる考古学および環境DNA研究が必要です。


 もう一方の研究(Becerra-Valdivia, and Higham., 2020)は、北アメリカ大陸とベーリンジア(ベーリング陸橋)の更新遺跡群の年代を報告しています。最近まで、人類のアメリカ大陸への最初の拡散に関する有力説は、13000年前頃にアジア(シベリア)北東部からベーリンジアを経由して初めて人類はアメリカ大陸に入り、ローレンタイド氷床とコルディエラ氷床との間の無氷回廊を通って南方へ移動した、というものでした。このアメリカ大陸最初の人類集団は、北緯48度以南に移動すると、北アメリカ大陸全域に広がった較正年代(紀元後1950年基準)で13250~12800年頃のクローヴィス文化を開発しました。この「クローヴィス最古説」は、アメリカ大陸への人類拡散の時期・理由・経路に関わる問題のほとんどに上手く答えられたため、20世紀の大半で広く受け入れられました。しかし、クローヴィス最古説は、アメリカ大陸におけるそれ以前の年代の遺跡の報告例が蓄積されてきたことにより、今では有力説の地位を失った、と言えるでしょう(関連記事)。その結果、アメリカ大陸における最初の人類集団は太平洋沿岸を南下した、という見解が有力になりつつありますが、まだ確定したとまでは言えない状況です。

 本論文は、アメリカ大陸における初期人類の拡散パターンをより洗練された方法で理解するため、ベイジアン統計手法を用いて、北アメリカ大陸とベーリンジアの42ヶ所の遺跡から得られた考古学的および年代測定データを分析しました。これにより、放射性炭素年代とルミネッセンス年代を、層序学的および他の相対的年代情報と結合できます。本論文の分析対象の遺跡は、考古学的には、クローヴィスか西方有茎かベーリンジアン(Beringian)の3技術伝統、もしくは先クローヴィスと「クローヴィスと同年代」に区分されます。またグリーンランド氷床年代が用いられ、とくにグリーンランド亜間氷期1(GI-1)とグリーンランド間氷期1 (GS-1)が重要な期間となり、紀元後2000年を基準として、14700~11700年前頃となります。

 先クローヴィス遺跡群の始まりは、上述のメキシコ北部に位置するチキウイテ洞窟C層の文化遺物が最古となり、26500~19000年前頃となるLGMよりも古い33150~31405年前頃となります。いくつかの遺跡の年代は、もっと後のLGMの期間内もしくはLGM後すぐのようです。たとえば、アメリカ合衆国の、テキサス州のゴールト(Gault)遺跡(26435~17385年前頃)や、ペンシルベニア州のメドウクラフト岩陰(Meadowcroft Rockshelter)遺跡(24335~18620年前頃)や、サボテン丘(Cactus Hill)遺跡(20585~18970年前頃)です。ベーリンジア東部では、カナダのユーコン準州北部のブルーフィッシュ洞窟群(Bluefish Caves)遺跡において、人為的に加工された骨からLGM期間の年代(24035~23310年前頃)が得られています。

 チキウイテ洞窟B層の始まりは16560~15285年前頃で、アイダホ州西部のクーパーズフェリー(Cooper's Ferry)遺跡(16315~14660年前頃)やテキサス州のデブラ・L・フリードキン(Debra L. Friedkin)遺跡(16315~14660年前頃)とともに、突然の短期間の気候変動の温暖な時期である、GI-1に近いLGM後の始まりにこれらの遺跡で人類の居住が始まったことを示唆します。これらの遺跡に続いて、オレゴン州のペイズリー洞窟群(Paisley Caves)遺跡(14755~13780年前頃)などがGI-1期間もしくはその近い年だとなります。これら14ヶ所の先クローヴィス遺跡の年代測定データ(171点)は、14250年前頃を中心に分布しています。もっと後の石器伝統であるベーリンジアンと西方有茎とクローヴィスの始まりはそれぞれ、14955~13895年前頃、14860~13065年前頃、14210~13495年前頃と示唆されます。

 なお、本論文では南アメリカ大陸は対象外ですが、チリのモンテヴェルデ2(Monte Verde II)遺跡の較正年代は、18500~14500年前頃と推定されています(関連記事)。ブラジルの6遺跡は2万年以上前となり、そのうち5か所は北東部のピアウイ(Piauí)州に存在し、もう1ヶ所は中西部のマットグロッソ(Mato Grosso)州にあるサンタエリナ(Santa Elina)岩陰遺跡です。しかし、これらの遺跡の年代は古すぎるため、ほとんどの考古学者は疑問を呈したり無視したりしています。これら疑わしい遺跡群を除いても、南アメリカ大陸における13000年前頃以前となりそうな初期人類の痕跡は、太平洋沿岸、アンデス山脈北部および中央部、アルゼンチンのパタゴニア草原などで報告されており、南アメリカ大陸の主要な環境地帯すべてに人類は13000年以上前から居住し、多様な生態系適応と技術を有していた、と示唆されます。以下、アメリカ大陸における先クローヴィス期候補の遺跡の位置と年代を示した上記報道の図1です。
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 本論文の分析からは、現時点ではチキウイテ洞窟C層に限定されるLGM以前の証拠を除くと、ブルーフィッシュ洞窟群など北アメリカ大陸のいくつかの遺跡では、人類の痕跡がLGMもしくはその直後に始まり、北緯48度の南側東部に集中する、と示されます。LGMには地球の気候は一般的に寒冷で乾燥していましたが、北アメリカ大陸氷床の南部は比較的開けており温暖で、生態系の変動が高かった証拠もあります。北アメリカ大陸の初期の中緯度遺跡の分布から、北アメリカ大陸最初の人類はLGMにヨーロッパ南西部から大西洋氷床経由で到来した、というソリュートレアン(Solutrean)仮説も提示されていました。その根拠は、北アメリカ大陸中緯度の早期遺跡群の石器技術がソリュートレアンと類似していたこと、およびアメリカ大陸先住民とユーラシア西部集団との間の遺伝的混合の証拠でした。しかし、ソリュートレアン仮説は、技術と遺伝(関連記事)の両方から否定されました。

 アメリカ大陸最初の人類について、大西洋横断説はさておき、アジア起源を想定する場合、早期遺跡群の古さと分布から、北緯48度の最初の横断に関しては、以下のような可能性が示唆されます。(1)57000~29000年前頃となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)3の後半に起き、その時には推定される氷床と海水準から、ベーリンジアを通過しての陸路は可能性が低いか遮られ、ローレンタイド氷床とコルディエラ氷床との間の無氷回廊はおそらく存在した、と推定されます。(2)LGM末期に起き、その時にはベーリンジアが存在していたものの、無氷回廊は利用できませんでした。

 どちらの可能性も、北アメリカ大陸への最初の到着にはある程度の沿岸適応があった、と示唆されます。(2)では、おそらくコルディエラ氷床が最大だった時期(20000~17000年前頃)の前に、太平洋沿岸での移動が必要となるでしょう。これは現在の遺伝的知見とも適合的で、アメリカ大陸先住民の祖先集団は、LGMにベーリンジア東部で遺伝的孤立を経ており、古代ベーリンジア人とは22000~18100年前頃に分岐した、と推測されています(関連記事)。これは、ゴールトやメドウクラフト岩陰やサボテン丘といった先クローヴィス期遺跡の住民がアメリカ大陸先住民系統だった、と想定します。チキウイテ洞窟C層の証拠からは、より早期の人類集団の存在が示唆されますが、上述のもう一方の研究で示されるように、その遺伝的系統はまだ不明です。北アメリカ大陸中緯度地帯では先クローヴィス期の証拠が少なく、その分布と特徴から、この時期の人類集団は独特の適応行動を有し、広く拡散していた、と示唆されます。たとえば、チキウイテ洞窟とゴールトとメドウクラフト岩陰の石器インダストリーは、完全にではないとしても、大半は無関係です。

 ベイジアン年代モデリングでは、ベーリンジアンと西方有茎とクローヴィスという3文化の始まりは統計的に区別できず、おおむねGI-1と一致してほぼ同時に始まった、と示されます。これは、この時点での人口密度増加の可能性を示唆します。この16000~15000年前頃の人口密度増加は、ミトコンドリア(関連記事)やY染色体(関連記事)や常染色体(関連記事)で支持されます。さらに、この推定年代は、アメリカ大陸先住民系統の南北の分岐とも一致し(関連記事)、それはおそらく17500~14600年前頃にベーリンジア東部外と北アメリカ大陸氷床の南側で起きた(関連記事)、と推測されます。

 技術的には、先クローヴィス期文化とクローヴィス文化との間の関係は不確かですが、西方有茎文化は以前に、有茎尖頭器技術の類似性から、いくつかの先クローヴィス期や環太平洋地域遺跡との関連が指摘されています(関連記事)。しかし最近の研究では、有茎尖頭器からクローヴィス文化の有溝尖頭石器技術への発展が主張されています。遺伝的には、先クローヴィス期集団とクローヴィス文化および西方有茎文化集団との間のつながりに関しては、今後の研究が必要です。これは、クローヴィス文化と同時期の他文化もしくは先クローヴィス期の遺跡からの遺伝的情報がまだ得られていないためです。例外はペイズリー洞窟群で発見された人類の糞石から得られたミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)で、アメリカ大陸先住民系統に収まります(関連記事)。また、クローヴィス文化のアンジック(Anzick)遺跡で発見された男児からゲノムデータが得られており、アメリカ大陸先住民系統に収まります(関連記事)。

 これらの集団とアメリカ大陸最初の人類集団との間には何らかの関係があったか、さもなければ更新世における最低2回の移動が予想されます。本論文の知見からは、アメリカ大陸への後の拡散事象があった場合、GI-1に先行した可能性が最も高く、無氷回廊の最初の生物学的利用能の推定年代は13000年前頃で、おそらくは17000年前頃までの北太平洋沿岸における生産的な生態系確立と同様に、18000~17000年前頃となるコルディエラ氷床の西方の後退と、17000年前頃のアラスカ半島氷河後複合の後退後に起きました。

 北アメリカ大陸における人類の到達は、以前には動物37属の絶滅と関連づけられており、大虐殺説として知られます。近年の研究では、これを支持するものも(関連記事)、気候や生態系などの要因を重視するもの(関連記事)もあります。本論文の知見からは、人類の存在が、ラクダやウマやマストドンやマンモスなど北アメリカ大陸の絶滅動物の最後の確認年代の大半に先行する、と示されます。これを確率密度分布にまとめると、ピークはGI-1とGS-1の間の境界で発生し、クローヴィス文化と西方有茎文化の始まりの境界と重なります。これは、人類の集団規模および地理的拡大が、大型陸生動物絶滅の主因だった可能性を提示します。この時期の人類到来と動物絶滅と気候変化の間の関係をよりよく理解するには、各絶滅動物の集団史の改善と、ベイジアンモデルを改良するためのより堅牢な年代測定データが必要です。

 ベーリンジアと北アメリカ大陸への最初の人類拡散の時期に関する本論文の知見からは、GI-1に人類集団がより広範に拡散して人口が増加する前に、LGMよりも前とLGMとその直後に人々が異なる環境にいた、と示唆されます。LGMよりも前の証拠は、現時点ではチキウイテ洞窟遺跡に限定されます。集団の連続性を想定する場合、このパターンは人類の探索および植民の段階、およびGI-1までに北アメリカ大陸存在した遺伝的構造の程度と一致します。しかし、先クローヴィス期遺跡群とその後の北アメリカ大陸およびベーリンジアの文化の人々の間の生物文化的関係はほとんど分かっていません。環境DNA研究の古代DNA研究への応用により、堆積物から古代人のDNA解析が可能になっているので(関連記事)、上記研究では失敗したものの、これが問題解明に役立つかもしれません。本論文の対象はベーリンジアと北アメリカ大陸に焦点を当てていますが、後期更新世のデータが比較的限定されている中央および南アメリカ大陸の継続的調査により、年代推定と大陸規模の時空間的モデルの開発が可能となるでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:ヒトが早くから北米大陸に到達していたことを示す証拠

 ヒトが3万年前から北米に住んでいたことを明らかにした2編の論文が、今週、Nature に掲載される。これら2つの研究は、アメリカ大陸への居住というかなり議論のある論点を解明するための手掛かりをもたらしており、アメリカ大陸でのヒトの歴史が、これまで考えられていたよりもずっと以前までさかのぼることを暗示している。

 ヒトがアメリカ大陸に到達したことは、地球上でヒトの居住域が大きく広がったことを意味する。従来の学説では、ヒトが初めてアメリカ大陸に到達したのは約1万3000年前で、特徴的な石器で知られるクローヴィス文化に関連していたとされる。しかし、アメリカ大陸への移住の時期とパターンは、議論の的になっている。

 Ciprian Ardeleanたちの論文では、メキシコ中部のサカテカスの洞窟での石器、植物遺物、環境DNAなどの発掘結果が記述されている。これらの発掘知見は、年代を示す証拠と合わせて、この高地の洞窟に約3万~1万3000年前にヒトが居住していたことを示唆している。Lorena Becerra-ValdiviaとThomas Highamの論文では、北米とベーリンジア(過去にロシアと米国をつないでいた地域)の遺跡42か所の放射性炭素年代測定とルミネセンス年代測定の結果を用いて、ヒトの分散パターンが決定された。彼らが作成した統計モデルから、クローヴィス文化以前にヒトが存在していたことを示すロバストなシグナルが明らかになり、その年代が、遅くとも最終氷期極大期(約2万6000~1万9000年前)とその直後であることが分かった。

 以上の研究結果は、北米には、これまで考えられていたよりもずっと早い時期(最終氷期極大期よりも前の可能性もある)から、少なくともわずかな移住者がいたことを暗示している。この知見は、ヒトがアジアからベーリンジア経由で初めて北米に入り、南に向かって移動して、クローヴィス文化を発展させたというシナリオとは整合性がない。新たに年代決定されたのはクローヴィス文化以前であり、これはヒトが初めてアメリカ大陸に入ったのが太平洋岸沿いの経路だったことを示唆している。



参考文献:
Ardelean CF. et al.(2020): Evidence of human occupation in Mexico around the Last Glacial Maximum. Nature, 584, 7819, 87–92.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2509-0

Becerra-Valdivia L, and Higham T.(2020): The timing and effect of the earliest human arrivals in North America. Nature, 584, 7819, 93–97.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2491-6

Gruhn R.(2020): Evidence grows that peopling of the Americas began more than 20,000 years ago. Nature, 584, 7819, 47–48.
https://doi.org/10.1038/d41586-020-02137-3


追記(2020年7月30日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。



追記(2020年8月6日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します(引用1および引用2)。



考古学:最終氷期極大期の頃にメキシコに人類が居住していたことを示す証拠

考古学:3万年前までさかのぼるメキシコでの人類の居住年代

 クローヴィス伝統以前、つまり約1万5000~1万3000年前以前に、人類がローレンタイド氷床より南の南米アメリカ大陸に居住していたことを示す証拠が増えているが、これについては激しい議論が交わされることも多い。今回C Ardeleanたちは、メキシコ・サカテカス州の高地の洞窟で発見された、約3万〜1万年前にこの地域に人類が居住していたことを示す証拠を提示している。これらの証拠には、石器、環境DNA、タンパク質、植物遺物、放射性炭素年代およびルミネッセンス年代が含まれる。メキシコにおける更新世の記録はほとんど知られていないことから、今回の研究によって、クローヴィス以前の南北アメリカ大陸に人類が居住していたことを示す証拠がさらに明らかになる可能性がある。


考古学:北米大陸への最初の人類到達の時期と影響

考古学:人類は2万6500年前には北米大陸に定着していた

 人類が南北アメリカ大陸に定着した年代については、大いに議論が続いている。今回L Becerra-ValdiviaとT Highamは、新たな統計解析によって、北米大陸での人類の広範な居住が1万4700~1万2700年前に始まったとする以前の見方を裏付けている。しかし今回の解析ではさらに、北米およびベーリンジアの42の考古学的遺跡の年代の解析から、小規模ではあるものの、2万6500~1万9000年前にはすでに人類が北米大陸に定着していたことも明らかになった。

ネアンデルタール人の絶滅における気候変化の役割

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の絶滅における気候変化の役割を検証した研究(Columbu et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ヨーロッパにおいて中部旧石器時代~上部旧石器時代の移行期(MUPT)に、現生人類(Homo sapiens)によるネアンデルタール人の置換が起きました。ネアンデルタール人の絶滅に関しては多くの仮説が提示されており(関連記事)、まだ激しい議論が続いています。その中で、気候変動説は有力と考えられてきました。寒冷化・乾燥化によりネアンデルタール人の生息環境が悪化し、分断化されて人口(集団規模)が減少し、絶滅していった、というわけです。

 この気候変動の要因として、ハインリッヒイベント(HE)が注目されてきました。とくに、HE6~4(63000~40500年前頃)は、ネアンデルタール人集団に不可逆的な影響を及ぼし、HE4の結果ネアンデルタール人は最終的に絶滅した、と推測されています。しかし、HEが地中海で同じ影響を及ぼしたとする証拠はなく、HEの気候への影響は地域全体にわたって一様ではなかったかもしれません。さらに、ネアンデルタール人の絶滅はHE4の前だった可能性もあります。また、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類との2600~5400年の共存は地理的に不均一だったため(関連記事)、気候仮説はネアンデルタール人と現生人類が実際に共存した地域の古気候記録に基づくべきですが、そうした記録は不足しています。

 そこで注目されるのは、ネアンデルタール人と現生人類がじっさいに共存したイタリア半島です。イタリア半島では北部から南部にかけて両者の遺骸が発見されていますが、本論文が対象としたのは南東部のプッリャ(Apulia)州です。この地域では、ネアンデルタール人は少なくとも海洋酸素同位体ステージ(MIS)5eから42000年前頃まで存在しており、最古の現生人類が45000年前頃には存在していた、と推測されます。したがってプッリャ州は、ネアンデルタール人の絶滅と現生人類への置換に気候が重要な役割を果たしたのか、検証するのに好適な地域です。

 本論文は過去50万年間のイタリア半島の石筍の年代を分析し、とくにプッリャ州のムルジェ(Murge)カルスト台地のポッツォ・クク洞窟(Pozzo Cucù Cave)の石筍に焦点を当てています。石筍は雨水の雫により形成され、炭素と酸素の同位体を含む方解石で構成されているので、放射性炭素年代測定法と組み合わせて、当時の気候を復元するのに適しています。ポッツォ・クク洞窟の石筍は、106000~26600年前頃まで途切れることなく成長し、MISでは5~3に相当します。また、高解像度の炭素18と酸素13の分析により、詳細な気候パターンが明らかになりました。これにより、プッリャ州ではHEのように北方地域に大きな気候変動をもたらした証拠があまり見られないことも明らかになりました。

 氷期の地中海は一般的に乾燥しており、植生はまばらだったので、連続的な二次生成物の成長は稀でした。たとえばイタリア半島では、氷期に石筍が連続して堆積した証拠がありません。イベリア半島では洞窟の形成も断続的で、トルコと地中海南東部側の洞窟でのみ連続的な堆積が知られています。たとえばイスラエルのマノット洞窟(Manot Cave)では、最終氷期にイスラエル北部で水不足が起きなかったことを示唆する証拠が得られています。継続的な洞窟堆積が、降雨と高水準の土壌生物活性によりもたらされることを考えると、プッリャ州の氷期の気候は地中海西部および中央部よりもおそらく穏やかでした。

 とくに重要なのは、ポッツォ・クク洞窟の炭素18と酸素13の分析から、MUPTも含む55000~26600年前頃に、プッリャ州の降水量と土壌の生産性が安定していた、と推測されることです。全体的もしくは部分的な土壌侵食を起こしたかもしれない深刻な旱魃がなかったため、気候悪化の一般的傾向にも関わらず、土壌形成の継続が可能になってのかもしれません。もっとも、これはまだ仮説段階なので、今後の研究での検証が必要です。

 ネアンデルタール人はMIS3(59000~29000年前頃)のずっと前にプッリャ州に居住していたので、この地域はネアンデルタール人の退避所とは考えられません。イタリア半島南東部のプッリャ州とは対照的に、イタリア半島北部では、洞窟堆積物の分析から、利用可能な淡水と植生が不足していた、と推測されます。このプッリャ州の安定的な環境条件は、現生人類の到来および現生人類とネアンデルタール人との共存を促進したかもしれません。

 プッリャ州におけるネアンデルタール人の消滅は42000年前頃で、比較的安定した環境条件が始まったから13000年以上経過しています。48000年前頃のHE5は、プッリャ州では明らかに強い影響を及ぼしませんでした。これは、プッリャ州の近くのモンティッキオ湖(Monticchio Lake)の樹木花粉記録でも確認されます。対照的に、ギリシアの花粉やティレニア海の浮遊性有孔虫やイベリア半島とトルコの二次生成物の記録からは、HE5の気候悪化が推定され、プッリャ州が近隣他地域と比較してMIS3において好適環境だったことを、さらに示唆します。

 最近では、古気候記録からモロッコとより北方の地域との不一致の可能性が指摘されており、北方の寒冷で乾燥した時期にも、モロッコでは比較的湿潤だったかもしれない、と報告されています。地中海全域での寒冷化・乾燥化における、北方地域の役割の再評価が必要かもしれません。イタリア半島南部の後期ネアンデルタール人の存在、たとえば42000年前頃以後を想定しても、プッリャ州における40500年前頃のHE4の影響が無視できるという事実から、MUPTにおけるネアンデルタール人から現生人類への置換の主因としての気候は除外されます

 ポッツォ・クク洞窟の記録は、ネアンデルタール人から現生人類への置換が起きたMUPTにおけるプッリャ州の環境安定性への強い証拠となるので、高緯度地帯の急速な気候変化は、プッリャ州におけるネアンデルタール人消滅の主因ではなかった、と考えられます。MUPTにおけるプッリャ州の気候環境条件は、ヨーロッパ中緯度地帯とは異なります。プッリャ州および同様の環境では、ネアンデルタール人から現生人類への置換が両者にとって好適な気候・環境条件で起きた、という観点からの研究が必要です。これは、MUPTにおいて水不足がなかったものの、二次生成物の炭素13分析により、森林からより開けた植生への変化があったレヴァント地域の状況とは異なります。プッリャ州に似た環境では、ヨーロッパに移住して以来となる、ネアンデルタール人と比較しての現生人類集団の発達した狩猟技術が、両者の3000年以内の共存後のネアンデルタール人の絶滅をもたらした、と考えるのが節約的な説明です。

 本論文はこのように、イタリア半島南部におけるネアンデルタール人の消滅に気候は重要な役割を果たさなかった、との見解を提示しています。もちろん、本論文ではMUPTにおけるプッリャ州と他地域、とくにより北方のヨーロッパ地域との気候・環境の違いが指摘されており、気候変化がネアンデルタール人の消滅に重要な役割を果たした可能性も考えられます。おそらくほとんどのネアンデルタール人の地域的集団の絶滅要因は複合的で、それぞれ異なった組み合わせだったと思います。

 そもそも、ネアンデルタール人も気候変動に応じて拡大・撤退・縮小を繰り返していたことから(関連記事)、気候説はネアンデルタール人絶滅の単独要因というか究極的な要因にはならないと思います。もちろん、現生人類との接触がなく、気候変動などにより絶滅した地域的なネアンデルタール人集団も存在するでしょうが、種(分類群)としてネアンデルタール人が絶滅したのは、現生人類が拡散してある程度の期間の共存の後だったことから、やはり現生人類との競合が究極的な要因だったと考えるのがだとうでしょう。もっとも、現代人はネアンデルタール人からわずかに遺伝的影響を受けているので(関連記事)、ネアンデルタール人の絶滅とはいっても、より正確には、ネアンデルタール人の形態的・遺伝的特徴を一括して有する集団は現在では存在しない、と言うべきかもしれません。


参考文献:
Columbu A. et al.(2020): Speleothem record attests to stable environmental conditions during Neanderthal–modern human turnover in southern Italy. Nature Ecology & Evolution, 4, 9, 1188–1195.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1243-1

ヴァイキング時代のヨーロッパ北部で拡散していた天然痘

 ヴァイキング時代のヨーロッパ北部における天然痘の拡散を報告した研究(Mühlemann et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。天然痘ウイルス(VARV)により引き起こされる天然痘は、毒性がひじょうに強く、壊滅的な影響を及ぼすヒト疾患で、20世紀だけでも5億人もの死亡原因となっている可能性があり、人類においてこの数世紀で多くの死者をもたらした疾患の一つです。天然痘は40年前に根絶宣言が出され、これは人類と深く関わっていたウイルスとしては初めてのことで、また現時点では唯一の事例です。天然痘の根絶は、公衆衛生上の最大の勝利の一つですが、再興の可能性や、天然痘に類似するウイルスの意図的な放出をめぐる懸念が依然として存在します。

 人類史における天然痘の起源および進化については、大部分が未解明です。現在の有力説では、天然痘に類似したアフリカ由来のウイルスの祖先が数千年前に齧歯類からヒトに伝播し、病原性の高い現代の天然痘ウイルスへと進化した、と示唆されています。しかし、天然痘ウイルスの最初期の存在の証拠は、せいぜい17世紀半ばにさかのぼるだけです。可能性のある感染症を記述している曖昧な文書記録や、古代エジプトの王ラムセス5世のミイラに認められる感染を示唆する皮膚病変を別にすれば、古代における天然痘の具体例は見つかっていません。

 この研究は、ハイスループットショットガン法を用いて、31000年前頃から150年前頃の間に生存していた1867人の復元された考古学的遺骸の中に古代の天然痘の証拠を探索したところ、13人の遺骸からウイルス配列が再現され、そのうち11人は全てヴァイキング時代(紀元後600~1050年頃)のヨーロッパ北部由来でした。この研究は、天然痘の最初期の証拠の存在を約1000年早めたことに加えて、新たに発見されたヴァイキング時代の天然痘ウイルス株が、現代の天然痘ウイルスに対して多様で新しい明確な姉妹クレード(単系統群)であることを発見しました。この株は現代の病原性が高く致死的なウイルス株へと進化する前の数世紀にわたって、ヨーロッパ北部で拡散していた可能性があります。


参考文献:
Mühlemann B. et al.(2020): Diverse variola virus (smallpox) strains were widespread in northern Europe in the Viking Age. Science, 369, 6502, eaaw8977.
https://doi.org/10.1126/science.aaw8977

現代人の痛覚感受性を高めるネアンデルタール人由来の遺伝子

 現代人の痛覚感受性を高めるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の遺伝子に関する研究(Zeberg et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ネアンデルタール人および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先系統と現生人類(Homo sapiens)系統との推定分岐年代については、かなりの幅がありますが(関連記事)、大まかには80万~50万年前頃に収まりそうです。その後、ネアンデルタール人やデニソワ人は現生人類と交雑し、現代人にはネアンデルタール人やデニソワ人由来の遺伝的多様体が存在します(関連記事)。また、ネアンデルタール人の高品質なゲノム配列が3個体分利用可能となったため(関連記事)、多くのもしくはほとんどのネアンデルタール人の遺伝的変異を特定し、その生理的影響を調査し、現代人での影響を評価することが可能となりました。

 本論文は、ネアンデルタール人と現生人類の遺伝的差異のうち、SCN9A遺伝子を取り上げます。SCN9A遺伝子はNav1.7タンパク質をコードします。Nav1.7タンパク質は電位依存性ナトリウムチャネルで、脊髄と脳に痛覚を伝え、ネアンデルタール人のゲノムでは現代人と比較して、ミスセンス置換(アミノ酸置換をもたらす変異)が3ヶ所(M932L、V991L、D1908G)で確認されます。これらの置換はタンパク質の形状を変えます。SCN9Aの機能喪失型変異は無痛症の原因となり、機能獲得型変異では痛みに敏感となり、慢性的な痛みにかかりやすくする可能性があります。

 ネアンデルタール人に見られるこの3置換の電気生理学的影響を調べるため、Nav1.7の現代人とネアンデルタール人の多様体をエンコードする遺伝子が合成され、アフリカツメガエル(Xenopus laevis)の卵母細胞にmRNAが注入されました。ネアンデルタール人型では、現代人型と比較して、イオンチャネルの不活性化曲線が小さい方に移動します。これは、活性化のためのナトリウムチャネルの利用可能性の増加をもたらし、ナトリウムチャネルが一旦活性化されると、より長く開いたままである可能性を高め、活動電位生成の閾値を下げると予測されます。

 どのアミノ酸置換が不活性化曲線の変化を媒介するのか調べるために、この3つのアミノ酸置換をコードするmRNAがそれぞれ1つずつ合成されて注入されました。その結果、単一のアミノ酸置換はイオンチャネルの不活性化に影響を与えない、と明らかになりました。次に、2つのアミノ酸置換を組み合わせたところ、3通りのうちM932L・D1908GとM932L・V991Lは不活性化に影響を与えませんでした。しかし、V991L・D1908Gの組み合わせは、3つとも置換された場合と同様に、不活性化に影響を与えました。

 ネアンデルタール人3個体いずれも、これら3置換をホモ接合型で有しますが、デニソワ人はD1908Gのみホモ接合型で有しているものの、M932LとV991Lの置換型を有していません。これは、D1908Gの置換型がネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先で生じたものの、その機能的影響を受けるのは、V991Lの置換型も有するネアンデルタール人だけであることを示唆します。SCN9A遺伝子のネアンデルタール人型多様体の影響が哺乳類でも見られるのか調べるため、ヒト胚腎細胞に、ネアンデルタール人型の多様体をコードするmRNAが注入されました。その結果、ヒトでも影響がある、と明らかになりました。

 次に、SCN9A遺伝子のネアンデルタール人型の3多様体が現代人に存在するのか、調べられました。1000ゲノム計画のデータセットのうち、3多様体全てを有する個体は、アフリカ(507人)とヨーロッパ(505人)では見つからなかったものの、M932LとV991Lを有する個体は、アジアの各集団では0.9~7.8%、アメリカ大陸の各集団では0.5~23.8%ほど確認されました。さらに、D1908Gはアジアの各集団では0~17.1%、アメリカ大陸の各集団では0.5~52.9%ほど確認され、M932L・V991Lと連鎖不平衡になる傾向があります。

 これらの多様体は、ネアンデルタール人およびデニソワ人との共通祖先から継承したか、6万~4万年前頃のネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類との交雑により、現代人にもたらされた可能性があります。後者の場合、ネアンデルタール人型の多様体の存在するDNA領域は、ネアンデルタール人およびデニソワ人との共通祖先から継承した場合よりも組換えの時間が短いため、大きくなると予想されます。これらの領域の大きさを推定するため、1000ゲノム計画のデータセットでヨルバ人個体群には存在せず、ネアンデルタール人および・もしくはデニソワ人のゲノムにホモ接合型で存在し、非アフリカ系現代人の祖先集団へと遺伝子移入された可能性の高いアレル(対立遺伝子)が特定されました。M932LとV991Lの周辺のそうしたDNA領域で 14のアレルが特定され、その比較から、SCN9A遺伝子のネアンデルタール人型の3多様体は、ネアンデルタール人から現生人類へと交雑により浸透した、と結論づけられました。ただ、また、これらの結果は高品質なゲノム配列が得られているネアンデルタール人3個体のみに基づいている、と本論文は注意を喚起します。

 M932LおよびV991Lの置換は、実験および臨床的研究において、以前から疼痛感受性の増加や小径線維神経障害と関連づけられていました。イギリスのバイオバンクのデータでは、362944人のうちホモ接合型でネアンデルタール人型多様体を有する人はいませんでしたが、1327人(約0.4%)はヘテロ接合型で3多様体全てを有していました。19の痛みに関する質問への回答に基づくと、ネアンデルタール人型多様体全てを有する人々は、持たない人よりも痛みをより多く訴える傾向にありました。ネアンデルタール人型多様体を1個もしくは2個有する人も、持たない人よりも痛みをより多く訴える傾向にありましたが、有意に異なる水準でありません。

 たた、Nav1.7は嗅覚神経細胞など他の細胞でも発現しているので、ネアンデルタール人型の置換が痛みの調節を超える追加の影響をもたらしてきた可能性もある、と本論文は注意を喚起します。しかし、このネアンデルタール人型の置換の電気生理学的影響からは、有害な刺激に対する末梢神経から中枢神経系への電気信号の入力は、現生人類よりもネアンデルタール人の方で強かった可能性が高そうです。痛みの意識的認識へのそうした入力変化は、脊髄と脳の両方の水準で調節されます。主観的な痛みはこの調節で処理され修正されるので、ネアンデルタール人が現生人類よりも多くの痛みを経験した、と結論づけることはできません。しかし、上述のイギリス人の事例から推測されるように、ネアンデルタール人の末梢神経からの入力は、ネアンデルタール人が刺激に対して現生人類よりも敏感にさせた可能性が高そうです。

 この研究に関わっていない神経科学者のルーウィン(Gary Lewin)氏は、ネアンデルタール人の多様体がNaV1.7の機能に与える影響はごくわずかで、慢性疼痛に関連する他の変異よりもずっと少ない、と指摘します。また、これらの変異が有益だったので進化したのかどうか、不明です。ネアンデルタール人の人口は少なく、遺伝的多様性は低いので、現生人類との比較で、自然選択により有害な変異を効果的に除去できなかった可能性が指摘されています(関連記事)。しかし、痛みは適応的でもあり、自然淘汰の産物だったかもしれません。


参考文献:
Zeberg H. et al.(2020): A Neanderthal Sodium Channel Increases Pain Sensitivity in Present-Day Humans. Current Biology, 30, 17, 3465–3469.E4.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.06.045

虎ノ門ニュースでの有本香氏と小野寺まさる氏のアイヌに関するやり取り

 Twitterで検索していたら、以下のような発言を見つけました。

有本香「先住民である縄文系の日本人を北方から来た人達が侵略し、男達を中心に殺戮し女を残して混血していったのであれば、当然アイヌの人達には縄文のDNAが多く残っている」
小野寺まさる「この(縄文の)DNAは後天的に獲得したDNAであるのは間違いないと道庁も答えている」


 検索してみると、これは虎ノ門ニュースの今月(2020年7月)16日放送分で、まだ公式動画を閲覧できます(今回取り上げるのは1時間9分00秒~1時間11分40秒あたり)。じっさいに視聴したところ、このやり取りは、まず有本香氏が、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された「縄文人」のDNA解析に関する研究(関連記事)を取り上げた北海道新聞の記事に、以下のように言及したことで始まります。

日本人の中に縄文人のDNAを持っている人と持っていない人がいますが、普通は10%くらいです。北海道と沖縄はやや異なり、アイヌと言われる人々は70%、沖縄の人々は30%ほど縄文人のDNAを持っているそうです。縄文人は日本において最古の民族なので、アイヌも先住民族という印象操作になっています。

これを受けて小野寺まさる(秀)氏が

鎌倉時代後期に北海道に南下してきた好戦的な民族が、縄文時代から北海道にいた人々を征服しましたが、このアイヌの人々は女性と子供は殺さず、女性たちに自分たちの子供を産ませた結果、アイヌに縄文人のDNAが継承された、という可能性がひじょうに高く、学術的にも、この(縄文人の)DNAは後天的に獲得したのは間違いない、と道庁は答えています。

という趣旨の発言をしており、有本氏が

そうならば、アイヌと言われる人々に縄文人のDNAが多く残っていても不思議ではありません。

とまとめています。まず問題となるのが、船泊遺跡の「縄文人」の研究についての有本氏の理解です。このやり取りからは、(北海道と沖縄を除く)日本人のうち、「縄文人」のDNAを有しているのは10%程度、と有本氏が理解しているように思います。もちろんそうではなく、(北海道と沖縄を除く)日本人のゲノムには、平均して10%(論文では9~15%とされています)ほど「縄文人」由来の領域があると推定される、ということです。

 次に小野寺氏の発言ですが、鎌倉時代後期に北海道に南下してきた好戦的な民族が、縄文時代以来北海道に居住し続けてきた人々を征服し、女性と子供たちは殺さず、女性たちに子供を産ませたとすると、確かに「縄文人」のDNAが現代アイヌに継承されます。しかし、そもそもこのような見解を提示している専門家は、現在ではまず間違いなくいないでしょう。それに、小野寺氏の想定では、現代アイヌ集団に「縄文人」由来のY染色体ハプログループ(YHg)を継承している人はほとんどいないことになります。しかし、「縄文人」由来と考えられるYHg-D(関連記事)の割合は現代アイヌ集団では81.3%と高く(関連記事)、小野寺氏の想定とは矛盾します。これに対しては、アイヌが(琉球列島を除く本州以南の)日本人(「本土」集団)から婿養子を迎えたためだ、といった「反論」もあるかもしれませんが、そうならば、現代「本土」集団で55.1%(関連記事)と多く見られるYHg-Oの割合が、現代アイヌ集団でもっと多くなるはずです。

 また、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究からも、小野寺氏の想定とは逆だった可能性が高い、と考えられます。「本土」では江戸時代(近世)のアイヌ集団のmtDNAが解析されており、近世アイヌ集団のmtDNAハプログループ(mtHg)では、北海道「縄文人」型が30.9%に対して、オホーツク型が35.1%、「本土」型が28.1%、シベリア型が7.3%と推定されています(関連記事)。これらの知見からは、縄文時代以来の北海道在来の集団が前近代において外部集団からかなり女性を迎え入れつつ、縄文時代以来の父系(YHg)を維持していた、と示唆されます。

 人類史において、交雑しつつ父系を維持・拡大していくような場合、その集団が外部集団に対して優勢であることが多いと考えられます(関連記事)。その意味で、前近代アイヌ集団は、YHg-Dが一定以上の割合で存在する「本土」集団はさておき、オホーツク文化集団や、オホーツク文化消滅後にもアイヌ集団と関係を持っていたと考えられるシベリア集団に対して、優位に立っていた可能性が高そうです。じっさい考古学では、北海道において縄文文化と続縄文文化を継承した擦文文化集団が、10世紀になってオホーツク文化集団に対して優位に立ったのではないか、と示唆されています(関連記事)。

 現代アイヌ集団のゲノムに「縄文人」以外の要素があることは、上述の船泊遺跡「縄文人」の研究でも改めて示されており(約34%)、近世アイヌ集団のmtDNA研究でも確認された、と言えるでしょう。しかし、YHgおよびmtHgの分析と考古学的記録を併せて考えると、アイヌ集団が「本土」の鎌倉時代に南下してきた集団に征服され、本質的には「外来」集団であるというような見解は的外れで、むしろ逆に、縄文時代からの北海道在来集団が、オホーツク文化集団など外部集団に対して優位に立つ傾向にあり、そうした外部集団からの遺伝的・文化的影響を受けつつ、アイヌ集団が形成されていった、と考える方が妥当だと思われます。

 では、現代アイヌ集団が縄文人DNAを後天的に獲得したのは間違いない、と道庁が答えた、との小野寺氏の発言はどう考えるべきでしょうか。検索してみたところ、これは2012年の北海道議会第4回予算特別委員会第1分科会でのやり取り(12月18日)に基づいているようです(会議録、P102~108)。まず小野寺議員(当時)が、

縄文文化とアイヌ文化についてお聞きをしたいと思います。

と質問し、文化・スポーツ担当局長(当時)の山田享氏が、

縄文文化とアイヌ文化についてでございますが、縄文文化は、一般的に、1万5000年前から3000年前に日本列島に展開したと言われており、一方、アイヌ文化は、12世紀から13世紀ごろに、北海道を中心とした地域において成立した文化でございまして、両者には、およそ2000年の時間差が存在しております。
その間、北海道に居住している人々と、大陸から北海道に移住してきた北方民族との間に交流があったことが明らかとなっているところでございます。
北海道の縄文文化とアイヌ文化は、北海道という同じ風土の中で、自然と調和しながら、成立、展開したものでございまして、その精神性に共通する要素もあると考えられておりますが、委員が御指摘の見解につきましては、アイヌ文化の成り立ちについていろいろな議論があり、道といたしましては、先ほど申し上げましたとおり、他の民族集団からの影響も考えられるものと認識をしているところでございます。


と答えています。この山田氏の返答に対して小野寺氏が

縄文時代に北海道に居住していた人々が、そのまま世代を重ねてアイヌの人々になったのではないという理解でよろしいか、確認させてください。

と質問し、文化・スポーツ担当局長(当時)の山田享氏が、

縄文の人々とアイヌの人々についてでございますが、DNA分析などの最近の科学的知見によりますと、アイヌの人々は、縄文の人々の単純な子孫ではないとする学説が有力であり、大陸から北海道に移住してきた北方民族に特徴的な遺伝子なども多く受け継いでいることが判明してきているところでございます。

と答えています。これに対して小野寺氏は、

単純な子孫ではないということで、関係ないということだと思います。

と発言しています。さらに小野寺氏はこの質問の意図に関して、

アイヌの方々は縄文人の末裔ではないということを確認したくて、この質問をしたということを皆さんには御理解いただきたいと思います。

と発言しています。山田氏は「アイヌの人々は、縄文の人々の単純な子孫ではないとする学説が有力」と述べていますが、上述の複数の遺伝学的研究からも、これは妥当と言えるでしょう。これに対して、「単純な子孫ではない」から「関係ない」と小野寺氏は述べていますが、あまりにも的外れで呆れてしまいます。山田氏は現代アイヌ集団が北海道「縄文人」の「単純な子孫」ではない、と述べているだけで、「関係ない」とは言っていません。さらに言えば、山田氏の答弁からは、現代アイヌ集団は北海道「縄文人」と関係がある、と解釈するのが妥当でしょう。小野寺氏はTwitterでも以前、

アイヌの縄文のDNAは後天的なDNAと北海道が議会答弁で明らかにしていますよ?

発言していますが、山田氏の答弁からは、むしろ北海道「縄文人」が外部集団と交雑していったと解釈するのが妥当で、現代アイヌ集団の「縄文のDNA」は、逆に「先天的」にあった、と言うべきでしょう。もっとも、山田氏の答弁にも問題はあり、まず縄文時代を15000~3000年前頃としたことは地域差を無視しており、そもそも弥生時代が九州北部で紀元前10世紀に始まるとの見解も、まだ確定したとはとても言えないでしょう(関連記事)。また、北海道では縄文文化の後に続縄文文化と擦文文化が続き、その後がアイヌ文化期となります。続縄文文化と擦文文化の期間を、「北海道に居住している人々と、大陸から北海道に移住してきた北方民族との間に交流があった」とまとめ、「本土」、それも九州北部というごく一部地域で終わったかもしれない縄文時代の年代(上述のように、これも議論があるわけですが)を根拠に、縄文文化からアイヌ文化まで「およそ2000年の時間差」があると述べたことは、「アイヌの方々は縄文人の末裔ではないということを確認したくて」質問をした小野寺氏に付け入る隙を与えてしまったかもしれないという意味で、やや問題だったと思います。

 このように、上述の虎ノ門ニュースでの小野寺氏の発言は的外れですが、有本氏は小野寺氏の発言に肯定的なように見えますし、ネットでも、「アイヌの縄文のDNAは後天的なDNA」との上述の小野寺氏の発言には、65も「いいね」がついています。まあ、「いいね」が賛同を表すとは限りませんし、アカウント数は人数の上限を示しているだけとも言えますが。しかし、小野寺氏のようなアイヌ認識は、現代日本社会では無視できないくらいの影響力があるように思います(定量的調査をする気力も能力もとてもありませんが)。小野寺氏の上記のような発言を真に受けた人々は、自分の情報判断力が自己評価よりずっと低いことを自覚し、今後は慎重になってもらいたものです。とはいっても、そのように自省できる人ならば、そもそも小野寺氏の与太話に引っかかる可能性は低いでしょうから、残念ながら今後も、小野寺氏は一定以上の影響力を及ぼし続けるのでしょう。

 今年(2020年)3月、とくに後半がひじょうに多忙だったため、もう与太話をわざわざブログやTwitterで取り上げるのは止めておこうと考え、またその気力もほとんど失ってしまったのですが、たまには無視できない影響力のある与太話を取り上げるべきかな、と思って執筆した次第です。しかし、やはり徒労感は否めず、今後も人類進化に関する研究を中心にブログ記事を執筆していくつもりです。Twitterの方は、今でも自分から情報を発信したり、何かやり取りしたりする気力はなく、今後も情報収集専門になりそうです。

韓国人のゲノムデータ

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、韓国人のゲノムデータを報告した研究(Jeon et al., 2020)が公表されました。韓国人(というかもっと広く朝鮮民族)は、遺伝的にひじょうに均質で、過去には大規模な混合事象が少なかった、と考えられてきましたが、公式な調査はほとんど行なわれていません。世界中の現代人の遺伝的多様性を特徴づける目的で進められている1000ゲノム計画でも、近隣の中国(南北の漢人など)や日本の人々のゲノムデータが報告されているのに、韓国からの標本はまだ含まれていません。そこで、韓国人を対象としたゲノム計画が進められており(将来的には、もっと広く朝鮮民族全体を対象とするのでしょう)、本論文は韓国人1094人のゲノムデータを報告します。これにより、韓国人の遺伝的構造が以前よりも明らかになり、医療のような「実用性」だけではなく、韓国人(朝鮮民族)の形成過程の解明にも役立つのではないか、と期待されます。

 このゲノムデータに基づき、韓国人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)も報告されています。mtHgでは、D(34.19%)やB(13.89%)やM(13.80%)が一般的で、YHgではO(73.49%)が圧倒的に多く、C(16.9%)とN(6.58%)が続きます。YHg-Oはアジア東部および南東部に広く分布しますが、YHg-Cはおもにアジア東部および北東部に分布します。なお、日本やチベットやアンダマン諸島など、世界では珍しいYHg-Dも確認されています(1.42%)。またmtHgでは、アジア東部において一般的なA・G・Fも確認されました。

 主成分分析により、韓国人と他集団とが比較されました。図2Aは世界中の集団を対象としており、韓国人が中国人と日本人という同じアジア東部集団と遺伝的にひじょうに近縁である、と改めて確認されました。図2Bはアジア東部集団を対象としており、韓国人と中国人と日本人がそれぞれ明確にクラスタ化し、区別できることが確認されました。これは、3ソース集団によるADMIXTURE分析でも確認されますが、中国人に関しては、漢人の南北間でも明確な違いがあり、傣(Dai)人は漢人との間にさらに大きな違いを示し、北部漢人よりも南部漢人の方と近縁です。以下、本論文の図2です。
画像

 本論文の分析では、韓国人が中国人や日本人といった他のアジア東部集団と比較して遺伝的に均一である、と改めて示されました。本論文は、これが過去数千年の地政学的孤立に起因する、と推測しています。上述のように、中国人は漢人と傣人との間の遺伝的違いが大きく、漢人の南北間でもやや違いが目立ちます。中国人と比較すると、日本人も遺伝的に均一と言えるでしょうが、韓国人は日本人よりもさらに遺伝的に均一というわけです。韓国人はさらに、本論文のデータセットで中国人としてまとめられている北部漢人や南部漢人や傣人との比較でも、遺伝的に均一です。

 本論文は今後の課題として、韓国人標本のほとんどが蔚山(Ulsan)広域市で得られているため、朝鮮半島全体が反映されていないことを挙げています。蔚山広域市の人口は100万人以上で、急速な工業化により居住者は朝鮮半島全体から集まっていますが、ほぼ蔚山広域市の1000人ほどの標本規模では、韓国人集団を表したり、潜在的なゲノム構造多様性を解明したりするのに充分ではない、と本論文は指摘します。

 本論文は、朝鮮民族の形成過程の解明に役立つ基本的情報になりそうなので、注目されます。最近、朝鮮民族の起源に関する研究が公表されましたが(関連記事)、古代ゲノムデータは他地域から得られており、朝鮮半島からのものは参照されていませんでした。韓国でも古代DNA研究は進められているのでしょうが、まだ日本や中国との比較でも遅れているのでしょうか。日本人の起源の解明に寄与するという意味でも、今後、朝鮮半島の古代DNA研究が進展することを期待しています。


参考文献:
Jeon S. et al.(2020): Korean Genome Project: 1094 Korean personal genomes with clinical information. Science Advances, 6, 22, eaaz7835.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz7835

檀上寛『シリーズ中国の歴史4 陸海の交錯 明朝の興亡』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年5月に刊行されました。一般向けの中国通史で、10巻以上の構成ならばともかく、本シリーズは5巻構成にも関わらず明に1巻を割いており、かなり大胆だと思います。本書は、明初の体制が、大元ウルス治下の14世紀前半における、気候変動に伴う大きな社会的不安定化への対処によりもたらされた統治の厳格化の結果であり、社会経済の発展とその結果としての銀流通の活発化によって明初体制が弛緩していき、ついには明が崩壊する、という見通しを提示しています。

 本書はこの見通しに基づき、明初代皇帝の洪武帝と第三代皇帝の永楽帝との間の断絶は大きくなかった、と指摘します。南京から北京への実質的な遷都、対外姿勢が消極的なものから積極的なものへと変わったことなど、洪武帝と永楽帝との間の違いは大きいように見えますが、永楽帝は洪武帝の路線を基本的には継承していた、というのが本書の見解です。この明初体制は、「国内」というか中華世界の一体化への志向が根底にあり、洪武帝の大規模な官僚弾圧も、その文脈で解されます。一方、「対外」関係についても、一元化が志向され、厳格な朝貢体制が一時は実現しますが、けっきょく弛緩していき、北方草原地帯勢力に対しても、一時的に優位に立っても、皇帝が捕虜になるといったように、北方草原地帯勢力は明にとって脅威であり続けました。

 16世紀になって社会経済の発展・変容に伴う明初体制の弛緩が明らかになり、厳格な朝貢体制も国内支配も維持できなくなります。その結果として、一条鞭法の導入などがあるわけですが、本書は、明朝廷の統制志向が変わったわけではない、と指摘します。社会経済の発展・変容は上下関係と各階層の「分際」を重視する明初体制を弛緩させ、下位の上位に対する反抗など、社会を不安定化させますが、それに対する統制志向も厳然として存在し続けた、というわけです。明代後期における社会の爛熟はある意味で面白くもあるのですが、現代中国につながるような「中国」としての一体感の基盤は決定的には壊されなかった、ということなのかもしれません。

過去500年と比較した現代ヨーロッパの河川洪水頻度(追記有)

 過去500年と比較した現代ヨーロッパの河川洪水頻度に関する研究(Blöschl et al., 2020)が公表されました。最近の気候変動により、河川洪水の頻度と規模が前例のない形で変わりつつある、と懸念されています。歴史研究では、ヨーロッパのさまざまな地域で過去500年間に起きた複数の洪水多発期が特定されています。しかし、既存のデータセットの時間分解能が低く、洪水系列の数が比較的少ないため、長期的な観点からヨーロッパが現在洪水多発期にあるのかどうか、まだ明らかになっていません。

 この研究は、ヨーロッパの主要な地域を全て覆う文書証拠に基づく、高分解能(1年未満)の100以上の歴史的洪水系列から構成される新しいデータベースを用いて、ヨーロッパの最近の数十年間の洪水の発生状況が洪水の歴史と比べてどうなのか、分析しました。その結果、この30年間がヨーロッパにおいて過去500年間で最も洪水の多かった時期で、この期間はその範囲・気温・洪水の季節性の点で他の洪水多発期とは異なっている、と明らかになりました。

 この研究は、9つの洪水多発期とそれらに関連する地域を特定しました。最も洪水の多かった期間は、1560~1580年(ヨーロッパ西部と中央部)、1760~1800年(ヨーロッパの大半)、1840~1870年(ヨーロッパ西部と南部)、1990~2016年(ヨーロッパ西部と中央部)した。ヨーロッパの大半の地域では、以前の洪水多発期は通常より気温の低い時期に生じていましたが、現在の洪水多発期は気温がはるかに高い時期に起きている、と明らかになりました。

 また洪水の季節性も、最近の洪水多発期でより顕著でした。たとえば、ヨーロッパ中央部の以前の洪水は、洪水多発期ではその41%が、洪水の少なかった期間ではその42%が、それぞれ夏季に起こっていたのに対して、最近の洪水多発期では洪水の55%が夏季に起こっていました。現在の洪水多発期の例外的な性質は、関連する物理機構を把握できるプロセスベースの洪水リスク評価ツールと、リスクの最近の変化を組み込める管理戦略を必要としています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


歴史気候学:ヨーロッパの洪水の歴史

歴史気候学:ヨーロッパの河川洪水の異常なパターンの出現

 河川洪水は最も被害の大きい水文災害の1つだが、一貫した観測記録がないために、より遠い過去と比較した最近の洪水活動の状況の理解が一般に妨げられている。今回G Blöschlたちは、過去500年にわたるヨーロッパの大半の洪水の文書記録を収集し、空間的な広がりと強度がそれぞれ異なる、9つの洪水多発期を明らかにしている。現在の洪水多発期は、寒冷な気候ではなく温暖な気候で生じている点で以前の洪水多発期とは異なっており、夏季の洪水が比較的多い。今回の分析は、現在の洪水の特徴が以前の数百年間の洪水とは異なっていることを示している。



参考文献:
Blöschl G. et al.(2020): Current European flood-rich period exceptional compared with past 500 years. Nature, 583, 7817, 560–566.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2478-3


追記(2020年7月27日)
 以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



環境:最近の数十年間に増加したヨーロッパの洪水

 過去500年間のヨーロッパにおける洪水事象の分析が行われ、ここ30年間がヨーロッパで最も洪水の多い期間だったことを報告する論文が、Nature に掲載される。この論文では、この30年間が、洪水に関連する季節性、被災域、気温の点で過去の洪水事象と異なることが示唆されている。この知見は、洪水リスクの評価と管理戦略の向上に役立つ可能性がある。

 ヨーロッパでは、ここ数十年間に洪水による多額の経済的損失が生じており、以前の研究では、ヨーロッパの一部地域で洪水事象が増加していることが示されている。しかし、現在の傾向は、通常より洪水の発生頻度が高く、規模が大きいと言えるのか、過去の洪水の多かった期間と異なるのかどうかといった点は解明されていない。

 今回、Gunter Bloschlたちの研究チームは、歴史的記録(法定記録、新聞、公的・私的な通信文書)を用いて、1500~2016年にヨーロッパ全土の103の河川で発生した9576件の洪水事象のデータベースを構築し、ヨーロッパの歴史上、一定の時間間隔で洪水が多くなった9つの期間を特定した。これまでに洪水が多かった期間は、その前後の各年よりも低温になる傾向があったが、季節的洪水のリスクは変化しなかった。ところが、今回の研究で直近の洪水の多い時期である1990~2016年を分析したところ、この期間中の気温が、その前後の各年よりもおよそ摂氏1.4度高かったことが分かった。また、この期間中の季節的洪水のリスクが、特に夏季に上昇したことも明らかになった。

 Bloschlたちは、データが2016年までしかないものの、その後も洪水の多い時期が続いていた可能性があると指摘し、こうした変化を説明できる洪水リスク管理・評価ツールの必要性を明確に示している。

『週刊文春』の五島勉氏の記事

 五島勉氏が先月(2020年6月)16日に亡くなっていた、と報道されましたが(関連記事)、『週刊文春』の今週号(7月30日号)に、五島氏夫人へのやや詳しいインタビュー記事が掲載されていました。五島氏は著書で家族について触れることは少なかったと思いますが、『第三の黙示録』(祥伝社、1983年)では妻・息子・娘がいると明かされており、息子との会話が謎解きの手がかりになった、とされています。まあ五島氏のことなので、どこまで本当なのか、不明ですが。五島氏の息子さんに関しては、醜聞雑誌で取り上げられたこともありました。なお、同書に推薦文を寄せた2人のうちの1人は早見優氏です。まあ、実際に書いたのはマネージャーか編集者かもしれませんが。夫人によると、五島氏の子供たちは、「鉛筆1本で育ててくれた」と父に感謝しているそうで、五島氏が著書で明かした息子さんと娘さんのことなのでしょう。

 私が知らなかったのは、家族関係では、五島氏夫人が五島氏とは遠縁の親戚ということと、五島氏の実家が火事で3回も焼けて生活が苦しく、夫人の実家から食料を送ってもらっていたことです。五島氏の実家がロシア正教の敬虔な信者であることは、何度か著書で触れられていた、と記憶しています。また、五島氏がヘビースモーカーであることも知りませんでした。五島氏の著書でも、本人の喫煙場面の描写は記憶にありません。もちろん、私の見落としがあるかもしれませんが。五島氏の年代だと、男性の喫煙率がひじょうに高かったので、五島氏がヘビースモーカーだとしても不思議ではありません。

 大ベストセラーとなった『ノストラダムスの大予言』に関して、夫人は1999年7月と日付を決めて刊行することが不安で、祥伝社の編集者には電話で何度か、「何とかならないか」と言ったそうです。もちろん、実話なのか、部外者の私には断定できませんが、これまで知らなかった貴重な証言でした。家庭での五島氏は、趣味がなく、明るくはないものの優しい人だったそうです。『第三の黙示録』での家族とのやり取り(P82~84)からは、家族との良好な関係が窺えたので(もちろん、実際にどうだったのか、部外者の私には断定できませんが)、夫人の証言には説得力がありました。五島氏が亡くなって何とも寂しい限りですが、今後は時間を作って五島氏の著書を再読するとともに、五島氏関連の新規記事をできるだけ追いかけていくつもりです。

五島勉氏死去

 五島勉氏が先月(2020年6月)16日に亡くなっていた、と報道されました。ご冥福をお祈りいたします。当ブログでも何度か述べてきましたが、私は五島勉氏のファンであり、単独のブログテーマを設定しているくらいです。それだけに、五島氏が亡くなったのは残念ですが、もう五島氏も90歳ですから、天命と言うべきでしょうか。いつか五島氏のまとめサイトを開設しようと考えてきましたが、怠惰なこともありますし、優先順位のより高い趣味が他にもあるので、ほとんど進んでいません。まあ、本気で五島氏の思想・言説を検証しようとしたら、現代フランス語のみならず中世フランス語(「方言」も含めて)やラテン語も習得しなければならないでしょうから、さすがに自分の能力では無理そうだな、と思って尻込みしているということもあります。五島氏の存命中に何とかある程度は形にしたかったのですが、公開できる目途は全く立っていません。

 五島氏は、近年ではもうすっかり「あの人は今」といった扱いを受けていましたが、時々マスコミでも取り上げられており、昨年6月にはデイリー新潮が五島氏へのインタビュー記事を公開しました(関連記事)。その時には、インタビューに応じられるくらい元気そうだったので、やや安心していたのですが、今年になって難病の膿疱性の湿疹が再発したそうで、先月上旬に体調が悪化して入院し、やがて食事が摂れなくなり、そのまま先月16日に亡くなったそうです。

 五島氏には黙示録を題材にした新作の構想があったそうですから(関連記事)、もう以前とは大きく異なる見解を提示するのは難しいでしょうし、過去作の使いまわし的性格が強くなりそうとはいえ、楽しみにしていました。何とか五島氏の新著をもう一冊読みたかったので、その点でも先月亡くなったのは残念です。まあ、こんなことを述べると、日本社会に害悪をまき散らした五島氏のファンとは意識が低すぎる、と罵倒・嘲笑されそうですが、五島氏の読ませる力は本物で、私も魅了されました。20年近く前(2000年8月4日)に述べましたが(関連記事)、とくに擬態語や擬声語の使い方が上手いと思います。五島氏の文章力に少しでも近づきたい、と若い頃から考えてきましたが、今でもほとんど近づけていない、と痛感します。

 なお、五島氏の日本社会への悪影響というと、(ノストラダムスの詩集などの根拠薄弱な解釈に基づく)終末論で不安を煽ったとか、それがオウム真理教にも影響を与えて暴走させてしまった、とか批判されることが多いように思いますが、もっと問題なのは、反ユダヤ主義との関わりかもしれません。日本社会において反ユダヤ主義が浸透するにあたって、最も大きな影響力を及ぼしたのは宇野正美氏の1980年代の一連の著作でしょうが、同じく1980年代に刊行された五島勉氏の一連の著作の一部も、大きな影響力を及ぼしたのではないか、と思います(関連記事)。

『卑弥呼』第43話「冷戦」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年8月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが鞠智彦(ククチヒコ)に、山社(ヤマト)に呼んだのは暈(クマ)との戦を布告したかったからだ、と言い放つところで終了しました。今回は、日見子(ヒミコ)たるヤノハが鞠智彦と交渉する中、テヅチ将軍が山社の外を警戒している場面から始まります。ミマアキから何をしているのか尋ねられたテヅチ将軍は、今朝届くはずの麓の邑からの米と稗の供物が届かない、と答えます。盗賊の仕業だろうか、とミマアキが案じると、山社に向かって3人が慌てて走りこもうとしていました。3人の後ろから狼と犬が多数追いかけてきており、山社へ供物を届けようとした奴婢の3人は、途中で狼と犬に襲われて主人たちが殺されたなか、逃げてきた自分たちを助けてほしい、と訴えます。テヅチ将軍の命により、警固の兵士たちは3人を山社に入れてすぐに門を閉じますが、山社は狼と犬に包囲されてしまいます。山社は裏門も狼と犬に囲まれてしまい、ミマト将軍は鞠智彦の計略と考え、狼と犬を自在に操れる志能備(シノビ)を連れてきたのだ、と考えます。わずか10名の手勢で鞠智彦が山社に来たことを不審に思っていたテヅチ将軍も、その理由を悟ります。イクメはこの事態をヤノハに報告しようとします。

 楼観では、暈に宣戦布告をする、とヤノハに言われた鞠智彦が、もう少し分別があると思ったが、がっかりした、と冷静に答えていました。山社ごとき脆弱な戦力で、暈を本気で倒せると思うのか、と鞠智彦に問われたヤノハは、那(ナ)のトメ将軍に暈軍はいとも簡単に敗れた、と答えます。すると鞠智彦は、余裕の表情で笑いながら、あれはタケル王の失策だった、タケル王亡き後、暈軍の総大将は自分だ、と言います。するとヤノハは、わざとらしく驚いた表情を浮かべ、タケル王はお隠れになったのか、誰かに殺されでもしたのか、と鞠智彦に問いかけます。鞠智彦は、自分がタケル王を殺したことは自分とイサオ王しか知らないのに、うっかり手がかりを与えてしまったことに気づき、気を引き締めます。自分の望みは平和なので、戦好きな暈とはもとより講和しない、とヤノハに言われた鞠智彦は、平和を望むのは自分も同じだが、そのために武力による統一は不可欠で、謀反人のそなたたちを皆殺ししなければ、韓(カラ、朝鮮半島を指すのでしょう)や豊秋津島(トヨアキツシマ、本州でしょうか)の侵略から筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)を守り切れない、と明言します。これに対してヤノハは、むろん山社一国で大国の暈に勝てるとは思っていないが、那や末盧(マツロ)や伊都(イト)や都萬(トマ)と足並みをそろえばどうだろうか、と鞠智彦に問いかけます。すると鞠智彦は、所詮は田舎での小娘だ、敵将をまえに作戦を暴露してしまうとは、と言ってヤノハを小馬鹿にしたように笑います。自分が日向(ヒムカ)の小さな邑の出身であることを知っているのか、とヤノハに問われた鞠智彦は、確か名前はヤノハで、そなたのことは何もかも調べているので、暈に屈する以外、生き残る道はないぞ、と改めてヤノハを脅迫します。山社の外では、ナツハが狼と犬を操る様子を、アカメが樹上から監視していました。アカメは、手練れゆえ実に惜しいが、今の自分には容易に倒せる相手だ、と言ってナツハに弩を向けます。

 そこへイクメが現れ、山社が狼と犬に包囲されていることを伝えます。苦い表情を浮かべるヤノハに、鞠智彦はわざとらしく、山社に一大事でも起きたのか、と尋ねます。ヤノハは狼と犬の件には触れず、犬鞠智彦に提案を持ちかけます。まずヤノハは鞠智彦に、平和とは何か、尋ねます。無論、戦のない世だ、と即答する鞠智彦に対して、人の性とは何か、とヤノハはさらに問いかけます。戸惑う鞠智彦に対して、人とは平和を望む以上に無類の戦好きだ、と言います。ヤノハは、子供の頃の自分を鞠智彦に語ります。ヤノハは日向の小さな邑に生まれ、近所には漢人の集落があり、結界が張られていた、と結界がなければ、自分の邑と漢人との間に殺し合いが始まるからだ、と説明します。漢人どもを殺してしまえばよかったではないか、と問いかける鞠智彦に対して、漢人は虎という巨大な生き物を飼っており、戦えば双方が全滅する、とヤノハは答えます。何を言いたいのか、と鞠智彦に問われたヤノハは、平和の秘訣だ、と答えます。ヤノハが育った邑は、海からの賊に襲われるまで、漢人との争いは一度もなく、それはお互いが相手を恐れたからだ、と説明し、鞠智彦は悟ったような表情を浮かべます。すぐそこに脅威があることこそ、平和を保つ秘訣だ、とヤノハ断言します。暈と山社が互いににらみ合っていれば、筑紫島の諸国はずっと安泰でいられるのか、と鞠智彦に問われたヤノハは、冷たい戦の下の平和とでも言うだろうか、と答えます。冷戦状態だな、と言う鞠智彦に対して、裏で和議が交わされ、絶対に戦わないとの密約は、自分と鞠智彦が生きている限り黙っていなければならない、とヤノハは説明します。すると鞠智彦は、日見子にしておくのはもったいない逸材だ、と感心したように言います。

 では、秘密の和議を承諾していただけるのか、とヤノハに問われた鞠智彦は、承諾してもよいが、そなたを信じてよいという証が欲しい、と言います。日見子・日見彦(ヒミヒコ)の力の源は鏡で、鏡を武器に時として衆を惑わし、魅了する、と言う鞠智彦に、自分の鏡を望むのか、とヤノハは問いかけます。ヤノハの後ろにある大鏡や普段まじないにつかう鏡までとは言わないが、山社にあるそれら以外の鏡をすべて望む、と要求する鞠智彦に、さすがにヤノハも一瞬返答に詰まりますが、鞠智彦の提案を受け入れる、と答えます。しかしヤノハも、証が欲しい、と鞠智彦に要求します。すると鞠智彦は、10人の手勢と前付人(マエツキビト)の老人(ウガヤのことでしょうか)を伴って来ただけなので、授けるものは何もない、と答えます。武器を置いていくのか、それとも10名の兵を預けるのか、と鞠智彦に問われたヤノハは、もう一人の者を欲しい、と答えます。とぼける鞠智彦に対してヤノハは、狼と犬を自在に操る志能備だ、と言います。すると鞠智彦は、自分が去った後、その志能備にそなたを殺すよう命じているかもしれないぞ、と言います。しかしヤノハは動じず、それならば自分もそれまで運命だ、と泰然としています。その志能備は世にも醜い小童だが、と言う鞠智彦に、それでも見えるところに置いておく、とヤノハは言います。そなたの剛毅を気に入った、秘密の和議を結ぼうではないか、と言う鞠智彦に対して、ではお待ちしている、とヤノハは返答します。不審に思った鞠智彦は、何を待つのか、とヤノハに問いかけます。するとヤノハは、鞠智彦と今和議を結んでも、暈と山社に真の平和は訪れない、と答えます。なぜならば、鞠智彦は所詮大夫で、暈の二番目にすぎないからだ、とヤノハは鞠智彦に説明します。鞠智彦が早く一番になってくれなければ、和議の証にはならない、と言うヤノハに対して、何が言いたいのだ、と鞠智彦は焦って問いかけます。自分が待ち望んでいるのは、タケル王に続いてイサオ王が隠れることだ、と平然と答えるヤノハに、さすがに鞠智彦も返答に詰まります。大陸の帝は天が定めるものと言うが、はたして暈のイサオ王はそなた以上の逸材だろうか、とヤノハが鞠智彦に問いかけるところで、今回は終了です。


 今回は、ヤノハと鞠智彦の駆け引きが描かれました。鞠智彦は作中でも有数の大物として描かれてきただけに、さすがにヤノハとの駆け引きには見ごたえがありました。暈国はおそらく『三国志』の狗奴国でしょうから、けっきょく山社(邪馬台国)連合と暈とは敵対的関係を続けるのでしょうが、ヤノハの提案通りに事態が進むと、少なくともある時期までは「冷戦」的な状態が続くのかもしれません。しかし、『三国志』によると山社(邪馬台国)連合と狗奴国は戦っていますから、ある時点で状況が変わり、直接戦うようになったのでしょうか。もっとも、ヤノハの思惑通り事態が進むとは限らず、イサオ王殺害さえ示唆するヤノハに対して、鞠智彦がどう対応するのか、注目されます。鞠智彦はイサオ王を畏れているようですし、イサオ王が鞠智彦よりも大物であることを予感させる描写もありましたから(35話)、さすがに、鞠智彦がイサオ王を殺して暈の王になることは容易ではなさそうです。ヤノハがイサオ王をどこまで知っているのか分かりませんが、今後イサオ王との駆け引きも描かれるかもしれず、楽しみです。

 今回のもう一つの注目点は、ヤノハがナツハを山社に預けるよう、鞠智彦に要求したことです。おそらくナツハはヤノハの弟のチカラオでしょうから、再会時に二人がどのような反応を見せるのか、楽しみです。ナツハが、ヤノハを深く憎悪するイクメを慕い、その指示を受けてヤノハに何か酷いことをしようと企んでいることは、さすがにヤノハも気づいていないでしょうから、ヤノハがこの危機をどう切り抜けるのか、注目されます。また、ナツハがヤノハの弟だとして、現在ヤノハをどう思っているのか、ということも気になります。ヒルメがヤノハの名前を出しても、ナツハは動揺する様子を見せませんでした。ナツハは姉の名前を忘れたか、賊に襲われたさい、ヤノハが義母と自分を見捨てたと考えており、ヤノハを深く恨んでいるのかもしれません。そうすると、ヤノハに危害を加えようとするナツハにヤノハがどう対処するのか、注目されます。もっとも、ナツハとチカラオが同一人物とはまだ確定していないので、読者に誤認させるような描写にしているだけかもしれませんが。ともかく、次回もたいへん楽しみです。

アフリカ外最古となるスリランカの弓矢

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、アフリカ外最古となるスリランカの弓矢に関する研究(Langley et al., 2020)が報道されました。アジア南部、より具体的にはスリランカは、現生人類(Homo sapiens)が気候変動と人類間の接触において多様な環境にどう移住していったのか、理解するのに重要な地域として浮上してきました。1980年代には、スリランカではヨーロッパよりも早く骨器技術やオーカーの使用を伴う細石器技術が出現した、と提案されました。しかし、人類進化の研究における重要性が認識されたにも関わらず、スリランカの最古級遺跡で発見された物質文化の詳細な研究は、とくに個人的装飾品、投射技術、後期更新世のアジア南部の熱帯環境に対処した方法を示す物質文化に関して欠けています。しかし、長期にわたる信頼性の高い年代が得られた洞窟や岩陰の系列の学際的発掘により、最近になって現生人類の拡散に関する問題を調査し、検証できるようになりました。

 アジア南部の現生人類として最古の化石が発見された、スリランカ南西部のファヒエン・レナ(Fa-Hien Lena)洞窟は、現生人類がアジアの多様な環境を通って移動してきた時に要求される、適応的能力や文化的柔軟性の理解に重要な地域です。ファヒエン・レナ洞窟遺跡の継続的分析により、アジア南部で最初の細石器群であることと、若い半樹上性および樹上性のサルおよびオオリス類が狩猟の標的だった、と明らかになっています(関連記事)。本論文は、スリランカにおける弓矢技術の最初の使用に関する証拠を提示します。これは、革新的な骨鏃を使用した特有の伝統でした。また本論文は、骨や歯を用いた多様な道具一式を報告します。これらは植物や皮を用いた道具で、複雑な象徴的人工物とともに、熱帯環境における最初の衣服もしくは網を表しているかもしれません。この記録は48000~4000年前頃(以下、基本的に較正年代)まで存在します。

 ファヒエン・レナ洞窟では、層序と年代測定に基づいて4段階が確認されました。後期更新世となるD層は48000~34000年前頃で、いくつかのそれぞれ比較的短い居住期が含まれます。末期更新世となるC層は13000~12000年前頃で、前期完新世となるB層は8700~8000年前頃、中期完新世となるA層は6000~4000年前頃です。放射性炭素年代測定結果のうち1点はこれらの時期区分の範囲外となる29120~27870年前頃で、ファヒエン・レナ洞窟における短期のヒトの存在を表しているかもしれません。

 ファヒエン・レナ洞窟では4層それぞれで、原形・未完成の道具・廃棄物が発見され、完成品の壊れた断片や修繕作業を示唆する解体痕なども確認されており、武器の補修も定期的に行なわれていた、と推測されます。骨で作られた人工物のうち130点は、投射物としての使用と、サイズ・形態・重量・使用痕が一致しています。これらの骨器には、製作と衝撃破壊の両方の痕跡が見られます。毒を塗ったと思われる溝も1点で確認されました。これら全ての骨製尖頭器は、オナガザル科の長骨で製作されています。これらの骨製尖頭器は、槍の穂先としては大きさや重さが足りず、吹き矢としては重すぎて鈍すぎるので、弓矢の鏃として用いられた、と考えられます。

 これらは、釣りにも使用された可能性があり、ファヒエン・レナ洞窟では全ての時期でナマズ科とコイ科の遺骸が確認されています。民族学的研究では、スリランカにおいてこれらの魚が毒や槍、また網や籠を使った釣りで捕獲されていた、と報告されています。また、網の製作や修繕に用いる糸を通す道具として用いられた可能性が指摘されている骨製尖頭器もあります。D層からA層にかけて、骨製投射尖頭器は次第に長くなっている、と示唆されます。これは、より大きな哺乳類、とくにイノシシ科とシカ科とウシ科の利用増加と相関しており、発達する狩猟技術の流動性を示します。

 29点の骨器には、動物の皮や植物繊維の加工に用いられる、突き錐や止め釘や楔やリスワー(艶出し用のコテ)としての使用と一致する形態および使用痕が見られます。人類史における衣服の起源と発達は、寒さへの適応と関連づけられてきましたが、スリランカの証拠は、衣服が状況に応じて別の目的(虫や草木による怪我から肌を守るためなど)に応じて製作された可能性を示唆します。これらにより製作された網が、漁撈で用いられた可能性も考えられます。

 象徴的および・もしくは社会的行動の証拠としては、D層からB層で3点の海洋性貝殻のビーズが発見されており、そのうち2点はイモガイ属、1点はムシロガイ科のものです。食用とされた海洋動物遺骸は、サメの歯数点以外には見つっておらず、ファヒエン・レナ洞窟の人々が海岸に行って貝殻を収集したか、沿岸部集団と接触して入手した、と考えられます。スリランカの他の熱帯雨林狩猟採集民の炭素および酸素同位体分析では、狩猟採集民は一年中熱帯雨林で食料を得ていたと示唆されるので、異なる生態系の集団間の交易の可能性が高そうです。

 ファヒエン・レナ洞窟遺跡に完全に特有なのは、赤色オーカー塊で完全に作られた3点の大きなビーズで、そのうち2点の出所は不明ですが、1点は8700~8000年前頃のB層で発見されました。この3点には3mm程の穴が開けられており、その端では糸が通されていた痕跡を確認できます。各オーカーの表面は広範囲の丸みと光沢を示し、皮などで表面がこすられたことを示します。他地域では、更新世~前期完新世のオーカー製ビーズは報告されていません。他地域のビーズの材料はおもに貝殻や骨で、顔料で着色されたものもあります。ただ、この着色は意図的とは限らず、身体や衣類から付着したかもしれません。ファヒエン・レナ洞窟では、貝殻製のビーズでは着色の痕跡は観察されませんでした。これは、湿式ふるい分けで回収され、後で洗浄されたからと考えられます。

 ヨーロッパ上部旧石器時代の技術的複雑さの変化に伴う壁画や携帯芸術の急増は、ヒトの文化的発展における「至適基準」として支持されてきました。ヨーロッパ西部と中央部では、寒冷気候と増加する人口への対処として、縫製技術や骨技術や形象的芸術が議論されてきました。アフリカ南部や北部では、さらにさかのぼる投射技術や象徴的思考の証拠が発見されています(関連記事)。アフリカ南部やヨーロッパにおける発掘の伝統は長いため、発掘成果のより劣るアフリカの他地域やアジアやオーストラリアやアメリカ大陸が軽視されたまま、現生人類特有の物質文化の起源と適応的背景が議論されています。この傾向は、後期更新世末までに、現生人類集団がアフリカ南部とオーストラリアの乾燥地帯や、シベリアの古北極環境(関連記事)や、チベット高原の高地環境(関連記事)や、アフリカ(関連記事)とアジア南東部とメラネシア(関連記事)の熱帯雨林環境に進出していた、と知られるようになっても、依然として主流です。現生人類は、こうした極限環境にも適応できる、「万能家-専門家(generalist specialist)」としての生態的地位を確立した、と指摘されています(関連記事)。

 本論文は、スリランカのファヒエン・レナ洞窟遺跡において、陸生動物の狩猟に用いたと思われる鏃や、釣りに使われたかもしれない尖頭器といった骨器を報告しました。また、骨器を用いて繊維で作った網による漁撈の可能性も指摘されています。ただ、こうした骨器技術の大半が、半樹上性や樹上性の小さな獲物を対象にしていたことは明らかです。ファヒエン・レナ洞窟におけるこれらの発見は48000年前頃までさかのぼり、熱帯雨林における投射技術使用の最初の決定的証拠であるとともに、アフリカ外における弓矢技術の最初の証拠という点でも注目されます。ボルネオ島のマレーシア領サラワク(Sarawak)州にあるニア洞窟群(Niah Caves)における、32000年前頃の高速投射技術使用の可能性も指摘されていますが、アジア南東部におけるより確実な証拠は、末期更新世と完新世、とくにその移行期付近に集中しています。

 ファヒエン・レナ洞窟の骨器技術は、約3000km離れた似た年代のニア洞窟群のそれと多くの共通点があります。とくに、投射尖頭器の優越で示されるように、細かい研磨と骨幹部をそのまま残す長骨の使用は共通します。また、歯もファヒエン・レナ洞窟とニア洞窟群で道具として使用されていました。しかし、両者の違いも明らかで、ファヒエン・レナ洞窟の骨器がおもにオナガザル科の骨で作られていたのに対して、ニア洞窟群の骨器はおもに大型もしくは中型哺乳類の骨で作られていました。

 本論文は、ファヒエン・レナ洞窟における後期更新世の象徴的な物質文化の詳細な分析も提示します。ファヒエン・レナ洞窟の後期更新世現生人類集団は、同じ頃のアフリカやユーラシアの現生人類集団と同様に、社会的標識伝達のために鉱物性着色剤や海洋性貝殻のビーズを使用していました。ファヒエン・レナ洞窟の現生人類集団に特有なのは、明るい赤色と黄色の顔料に加えて、銀色(雲母)の顔料も多用していることです。銀色顔料の収集と使用は、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡など、アジアとオーストラリアの早期現生人類遺跡で注目されていますが、オーカー塊から作られたビーズは、ファヒエン・レナ洞窟が最初の事例となります。

 装飾用のオーカーと海洋性貝殻の使用は、アフリカの中期石器時代と後期石器時代では10万年前頃、ユーラシアでは45000年前頃、アジア南東部内陸部では45000年前頃の事例が報告されています。後期更新世の湿地帯熱帯雨林地域の現生人類が森林資源に依存していた、という安定同位体証拠を考慮すると、熱帯雨林地域の遺跡で見られる海洋性貝殻は、スリランカの異なる地域の集団間の交換ネットワークの重要性も強調します。ファヒエン・レナ洞窟では末期更新世にサメの歯と海洋性貝殻ビーズが見つかっており、内陸部熱帯雨林地域集団と海岸部集団との間の長距離交易ネットワークの発展が示唆されます。

 アフリカ内外に拡大する現生人類に伴う、技術・象徴的物質文化の発展・社会的背景・適応戦略を理解するには、アフリカ南部やヨーロッパといった古人類学と考古学の伝統的な中心研究地域を越えての研究が重要である、とますます明らになっています。とくに、衣類や繊維や投射技術や象徴的ネットワークという要素は、かつて早期現生人類ではヨーロッパとアフリカに特徴的と考えられていましたが、本論文でも示されたように、アジア南部の熱帯雨林環境の早期現生人類集団にも存在します。

 最近の研究では、現生人類の間で想定された「行動の現代性」の特徴における、非線形で多様な方法を強調します。しかし、「現代性」という本質主義的考えから「変異性」の理解へと移行するならば、多様な環境背景の決定が不可欠で、そうした多様な環境では、個人的装飾品や投射技術や長距離経済ネットワークが、更新世においてアフリカだけではなく他地域でも出現します。そうして初めて、現生人類が完新世の始まりまでに拡散した独特の多様な環境における、これらの行動の適応的背景と、その適用の性質を理解できるでしょう。


参考文献:
Langley MC. et al.(2020): Bows and arrows and complex symbolic displays 48,000 years ago in the South Asian tropics. Science Advances, 6, 24, eaba3831.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aba3831

インダス文化に関するまとめ

 当ブログのインダス文化に関する記事を短くまとめます。インダス文化はメソポタミアやエジプトといった年代の重なる他地域の古代文字文化と比較して、謎めいた印象を持たれているように思いますが、それはインダス文字(インダス文化の印章記号)がまだ解明されていないからなのでしょう。インダス文字で書かれた文書の文字配列の統計的構造を、シュメール語や古代タミル語やリグ・ヴェーダのサンスクリット語といった他の言語体系、人間のDNAや細菌の蛋白質配列といった非言語体系、人工の言語体系と比較した研究では、インダス文字は言語体系と酷似しており、非言語体系とは似ていない、と指摘されています(関連記事)。ただ、この研究により文字の意味的理解が進んだわけではなく、インダス文字の解読には、インダス文字と他の解読済の文字の併記された文書の発見が必要となるでしょう。

 インダス文化は、メソポタミア・エジプト・黄河・長江といった他の古代文化とともに、大河文化と定義されてきました。しかし近年では、インダス文化は他の大河文化とは大きく異なる性格を有する、との認識が浸透しつつあるように思います。従来の通俗的なインダス文化像の見直しを強く主張するのが、長田俊樹『インダス文明の謎 古代文明神話を見直す』です(関連記事)。同書は、メソポタミア文化やエジプト文化をモデルに構築された古典的なインダス文化像を徹底的に批判します。つまり、王のような専制権力の存在・活発な軍事活動・大河に依存した灌漑農耕・奴隷制社会を特徴とする文化像です。また同書は、モヘンジョダロとハラッパーに偏ったインダス文化像の構築も批判します。

 さらに同書は、インダス文化は大河文化ではない、と指摘します。現在は乾燥地帯にある遺跡の側をかつて大河が流れていた、という説は今では否定されているそうです。また同書は、植物遺存体の分析から、インダス文化において大河に依存した灌漑農耕の比重は必ずしも高くなく、多様な作物が栽培されていた、と指摘します。同書が提示する新たなインダス文化像は、牧畜民も含む流動性の高い人々により各都市が密接に結びつき、ヒトだけではなくモノも活発に動いた多民族・多言語共生社会だった、というものです。また同書は、インダス文化期には現代よりも海水面が高かったので、南部の都市は海に面しており、オマーンやバーレーンやメソポタミア方面とも交易していた、とも強調します。同書刊行後の研究でも、インダス文化の多くの都市が、大河から離れて反映していた、と指摘されています(関連記事)。

 インダス文化の担い手については確定していませんが、ドラヴィダ系住民との見解が有力だと思います。しかし、アジア中央部考古学専攻の研究者の中には、インダス文化の担い手を「アーリア系」と考える人もいます(関連記事)。この問題は、アジア南部における古代DNA研究の進展(関連記事)により明らかになりつつあります。インダス文化最大級の都市となるラーキーガリー(Rakhigarhi)遺跡で発見された1個体(I6113)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はU2b2で、アジア中央部の古代人では現時点で確認されていません。

 I6113は核DNA解析では、紀元前2500~紀元前2000年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化遺跡と紀元前3300~紀元前2000年頃のイラン東部遺跡で確認された11人と類似しており、アジア南部現代人集団の変異内には収まりません。これはインダス川流域集団と呼ばれており、その遺伝的構成は、イラン関連系統およびシベリア西部狩猟採集民(WSHG)関連系統の混合系統(50~89%)と、アンダマン諸島狩猟採集民(AHG)関連系統(11~50%)の混合です。イラン関連系統とAHG関連系統との混合が紀元前5400~紀元前3700年頃に起きたと推定されていることからも、インダス川流域集団はインダス文化の担い手と考えられます。インダス川流域集団にはアナトリア新石器時代農耕民関連系統が検出されず、イランからアジア南部への人類集団の移住は、イランにおける農耕開始前だったと推測されます。

 アジア南部のインド・ヨーロッパ語族はユーラシア中央草原地帯、より具体的にはポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)起源と考えられますが、インダス川流域集団のゲノムにはユーラシア中央草原地帯関連系統が見られないので、インダス文化の担い手はインド・ヨーロッパ語族ではなかった、と推測されます。インダス川流域集団と古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が紀元前2000年以後に混合して祖型南インド人(ASI)が形成され、紀元前2000~紀元前1000年の間に、ユーラシア中央草原地帯系統がアジア南部へと拡大し、インダス川流域集団と混合して祖型北インド人(ANI)が形成されました。アジア南部現代人は遺伝的に、ASIとANIの地理的勾配として表されます(関連記事)。

 アジア南部で2番目に大きな言語集団であるドラヴィダ語族の起源に関しては、ASI系統との強い相関が見られることから、インダス文化衰退後に形成されたASIに起源があり、インダス文化集団により先ドラヴィダ語が話されていた、と推測されます。これは、インダス文字がドラヴィダ語を表している、との見解と整合的です。また、先ドラヴィダ語がインダス川流域集団ではなくインド南部および東部起源である可能性も想定されます。この仮説は、インド特有の動植物の先ドラヴィダ語復元の研究と整合的です。これらの知見から、インダス文化の担い手の言語は先ドラヴィダ語と考えられます。ただ、インダス文化は広範な地域に分布しており、その担い手の遺伝的構成は多様だった可能性が高そうです。とはいえ、アジア南部にインド・ヨーロッパ語族をもたらしたと考えられ、アジア南部現代人のゲノムに大きな影響を残しているユーラシア中央草原地帯関連系統は、基本的に欠けていたでしょう。おそらくインダス文化の担い手の多くの遺伝的構成は、イラン関連系統とAHG関連系統の割合が多様だったのではないか、と推測されます。

複数集団の混合により形成された現代チベット人

 現代チベット人の起源に関する研究(Wang et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。本論文はやや長いので、まず要約を述べます。考古学的研究では、チベット高原における人類の存在は16万年前頃までさかのぼり、これは非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)です。現生人類(Homo sapiens)では4万~3万年前頃までさかのぼります。しかし、チベット高原の過去の人類の移動は、現代人および古代人のDNA研究において初期段階に留まっています。

 本論文は、3017人の旧石器時代から現代のユーラシア東部人のゲノムで、最初となる古代および現代のゲノムメタ分析を実行しました。3017人の内訳は、チベット高原のウー・ツァン(Ü-Tsang)地域とアムド(Ando)地域とカム(Kham)地域の98人のチベット人を含む183集団2444人の現代人と、573人の古代人です。分析の結果、古代および現代の高地チベット人と、低地島嶼部および沿岸部の新石器時代アジア東部北方人との間の、より密接な遺伝的つながりが特定されました。これは、高地チベット・ビルマ語族の主要な系統の起源が、黄河中流および下流域の後李(Houli)文化と仰韶(Yangshao)文化と龍山(Longshan)文化関連集団にあることを反映しており、シナ・チベット語族の共通する中国北部起源および雑穀農耕民の拡散パターンと一致します。

 チベット人と低地アジア東部人との間の共有されたアジア東部北方系統はありますが、チベット高原高地人と低地アジア東部北方人との間の遺伝的分化も識別され、前者はより深く分岐したホアビン文化(Hòabìnhian)およびアンダマン諸島のオンゲ(Onge)人関連系統を有しており、後者はより多くの新石器時代アジア東部南方人およびシベリア人関連系統を有しています。これは、現代および新石器時代のアジア東部高地人における、旧石器時代と新石器時代の両系統の共存を示唆します。

 ウー・ツァンとアムドとカム地域のチベット人は、その文化的背景および地形(人類の移動にとって障壁となります)と一致する、強い集団階層化を示します。それは、ウー・ツァン地域チベット人におけるより強いネパールのチョクホパニ(Chokhopani)文化集団との類似性と、アムド地域チベット人におけるより多いユーラシア西部系統と、カム地域チベット人におけるより大きな新石器時代アジア東部南方人系統です。また、チベット高原の過去における人類移住の複数の波も明らかになりました。斉家(Qijia)文化農耕民と混合した在来の狩猟採集民の第1層から、チョクホパニ文化集団関連の先チベット・ビルマ語族が派生し、ユーラシア西部草原地帯と黄河と長江からの追加の遺伝子流動により、それぞれ現代のアムド地域とウー・ツァン地域とカム地域のチベット人が形成されました。


●先行研究

 チベット高原は平均標高が海抜4000mを超え、通年の低温・極度の乾燥・低酸素など、人類にとって最も厳しい環境の一つです。しかしチベット高原には、現生人類が拡散してくるずっと前の16万年以上前に、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)が存在していました(関連記事)。その後、4万~3万年前頃までには現生人類がチベット高原に拡散してきた、と推測されています(関連記事)。また、言語学では、チベット・ビルマ語族が含まれるシナ・チベット語族の起源は7200年前頃で(関連記事)、シナ・チベット語族の拡散・多様化は5900年前頃に始まった(関連記事)、との見解が提示されています。現在、700万人以上の先住チベット人がチベット高原に居住しており、低酸素環境に適応しています。低酸素環境である高地へのチベット人の適応には遺伝的基盤があり(関連記事)、その中にはデニソワ人由来のものがある、と推測されています(関連記事)。チベット高原の人類史研究の問題点は、アジア東部の他地域と比較して発掘された遺跡が少ないことです。

 現在まで続く問題として、初期人類がチベット高原へどこからどのように移住してきたのか、現代チベット人の祖先は誰なのか、といったことが挙げられますが、考古学・古人類学・遺伝学はまだこの問題に対して充分に答えられません。上述のように、考古学的証拠から、デニソワ人が16万年以上前に、現生人類が、4万~3万年前頃までにチベット高原に存在していた、と示されています。ゲノム解析からは、現生人類が最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前にチベット高原に存在した、と提案されており、現代チベット人における上部旧石器時代住民の遺伝的痕跡は、チベット高原における最初の住民と現代チベット人との間のある程度の遺伝的継続性を示唆します。先史時代ヒマラヤ集団の遺伝的研究からは、ヒマラヤ最初の住民は高地アジア東部人起源との証拠が得られており、チベット高原における新石器時代よりも前の人類の活動が間接的に示唆されます。

 チベット高原における人類の居住に関して、後期更新世の狩猟採集民の場合とは対照的に、永続的な居住の時期と様相に関しては議論が続いています。考古学およびゲノム解析からは、チベット高原における永続的な定住は、農耕・牧畜の確立と一致する比較的最近の事象と推測されています。チベット高原でも標高2500m以上で農耕が始まったのは、耐寒性のオオムギが導入された3600年前頃以降と推定されており(関連記事)、永続的な定住はそれ以降ではないか、というわけです。チベットの羊の包括的なゲノム調査では、唐柏(Tang-Bo)古道を通じてのヒトの段階的な居住パターンが明らかになり、3100年前頃には中国北部からチベット高原北東部へ、1300年前頃にはチベット高原北東部からチベット高原南西部へと拡大した、と推測されています。しかし、耐寒性のオオムギと家畜を誰がチベット高原に導入したのか、また在来の狩猟採集民は拡散してきた農耕民とどのように相互作用したのか、まだ不明です。

 考古学では、拡散してきた農耕民は在来の狩猟採集民を置換したわけではなく、2集団が長期間共存した、と示されています。ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析と放射性炭素年代からは、雑穀農耕民が3600~3300年前頃にチベット高原へとオオムギ農耕を採用して導入し、同時代のチベット人はその胃全摘痕跡を新石器時代雑穀農耕民にたどれる、と推測されています。他の高地集団とのゲノム比較からは、チベット人は複数祖先の遺伝子プールの混合で、旧石器時代と新石器時代の系統が共存している、と結論づけられています。

 まとめると、チベット高原の人類集団に関する先行研究では、中期更新世の到来と旧石器時代における居住、新石器時代の永続的な定住の理解が深められつつあります。しかし、以前の考古学的調査のほとんどは、海抜4000m以上となるチベット高原北東部におもに焦点を当てており、チベット高原の古代標本の欠如とアジア東部の古代人の包括的分析がなされていなかったことは、時空間的に分散したアジア東部古代人と現代チベット人の接続を妨げました。したがって本論文は、チベット高原の現代および古代人と周辺の低地ユーラシア東部人の遺伝的多様性をメタ分析し、アジア東部高地人と参照される世界規模集団との間の系統的関係を調査します。アジア東部の新石器時代から歴史時代の個体群と現代チベット人のゲノム規模データを分析することにより、チベット高地住民の遺伝的移行・置換もしくは継続性・祖先の構成・人口史に焦点が当てられます。


●古代および現代チベット人とアジア東部北方集団との遺伝的類似性

 チベット高原の11地域から現代人98人のゲノム規模データが収集されました。地理的内訳は、チベット自治区5ヶ所、青海省(Qinghai)が2ヶ所、甘粛省(Gansu)が1ヶ所、四川省(Sichuan)が2ヶ所、雲南省(Yunnan)が1ヶ所です。さらに、他のアジア東部の古代人および現代人のデータが統合されました。現代人では、アルタイ諸語、シナ・チベット語族、ミャオ・ヤオ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、タイ・カダイ語族です。古代人では、ネパールからは、3150~2400年前頃のチョクホパニ(Chokhopani)、2400~1850年前頃のメブラク(Mebrak)、1750~1250年前頃のサムヅォング(Samdzong)という異なる3文化期の8人(関連記事)、黄河とアムール川と西遼河流域の48人、曇石山(Tanshishan)文化など中国沿岸南東部や台湾の58人です。これらのゲノムデータは、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)と、中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)と、新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(関連記事)で提示されました。また、新石器時代から青銅器時代もしくは鉄器時代のアジア南西部とシベリア集団も、包括的な分析のいくつかで用いられました。

 現代チベット人と新石器時代から歴史時代のアジア東部人は全員、ユーラシア人の主成分分析では第2構成に沿った遺伝的勾配で集団化されます。アジア東部人の遺伝的多様性に焦点を当てて、アジア東部とアジア南東部島嶼部および大陸部の現代人106集団の遺伝的多様性に基づき、アジア東部人の主成分分析が構築されました(図1B)。アジア東部現代人は、4つの遺伝的勾配もしくはクラスタに集団化されます。それは、アジア北東部集団で構成されるモンゴル・ツングース遺伝的勾配、オーストロアジア語族とオーストロネシア語族とタイ・カダイ語族とミャオ・ヤオ語族から構成される中国南部・アジア南東部遺伝的クラスタ、中国関連の北部から南部への遺伝的勾配、チベット・ビルマ語族クラスタで、言語区分および地理的領域と一致します。

 チベット人は集団化され、中国北部のモンゴル語族およびツングース語族のいくつか、北部漢人、他の低地チベット・ビルマ語族と比較的密接な関係を示します。チベット人の下部構造に焦点を当てると、標本抽出場所の地理的位置と一致する、異なる3下位クラスタが観察されます。本論文では、高地適応チベット人もしくはウー・ツァン(Ü-Tsang)チベット人クラスタ、チベット高地北東部の甘青(Gan-Qing)もしくはアムド(Ando)遺伝的クラスタ、低地南東部遺伝的クラスタもしくはカム(Kham)チベット人と呼びます。ウー・ツァン地域クラスタはラサ(Lhasa)とナクチュ(Nagqu)と山南(Shannan)とシガツェ(Shigatse)、アムド地域クラスタは循化(Xunhua)と剛察(Gangcha)と甘南(Gannan)、カム地域クラスタはチャムド(Chamdo)と新竜(Xinlong)と雅江(Yajiang)と雲南(Yunnan)で構成されます。

 次に、古代人集団とアジア東部現代人との間の遺伝的類似性パターンが調べられ、243人の古代ユーラシア東部人が上述の現代人集団の遺伝的関係のパターンに投影されました。これは、アジア東部の現代人および古代人のゲノムに関する、最初の包括的なメタ分析となります。その結果、古代人4集団の遺伝的クラスタが明らかになりました。まず、台湾と福建省の後期新石器時代個体群を含む新石器時代から歴史時代のアジア南部人で、現代人ではタイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族とクラスタ化します。

 第二に、新石器時代から青銅器・鉄器時代のアジア東部北方人で、後李)文化・仰韶文化・龍山文化・斉家(Qijia)文化と、沿岸部および内陸部の個体群を含み、アジア東部の主要な3遺伝的系統と漢人の最北端との接点近くで集団化します。このクラスタは、主要な生存戦略が狩猟採集と関連する前期新石器時代の山東省の後李文化集団と、河南省に近い中期~後期新石器時代の仰韶および龍山文化農耕民との間で密接な遺伝的関係が観察され、前期新石器時代の中国北部における狩猟採集から雑穀農耕への移行の遺伝的継続性が示唆されます。また、これらの中国北部の新石器時代から鉄器時代の個体群の微妙な遺伝的違いも識別されました。山東省の後李文化集団は、現代モンゴル語族のバオアン(Baoan、保安)人やツー(Tu)人やユグル(Yugur)人やドンシャン(Dongxiang)人と近い一方で、前期新石器時代の河南省の小高(Xiaogao)個体群は、現代ツングース語族のホジェン(Hezhen、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)人やシーボー(Xibo)人の近くに位置づけられます。山東省新石器時代の全集団は、山東省の現代漢人からは離れて位置し、現代中国北部少数民族の方へと移動しています。これは、現代の北方漢人が、アジア東部南方の祖先系統から追加の遺伝子流動を受けたか、新石器時代の後李文化個体群がより多くのシベリア関連祖先系統を有していたことを示唆します。河南省の、後期新石器時代の龍山文化集団と、青銅器時代・鉄器時代個体群は集団化し、漢人の遺伝的勾配の方へと移動しており、部分的に山西省と山東省の漢人と重なりました。これは、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)のアジア東部北方人の遺伝的類似性を示し、中国文化の各地域における遺伝的安定性を示唆します。中期新石器時代となる河南省の仰韶文化集団は、陝西省楡林市靖辺県五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡集団の何人かと集団化し、より北方の現代少数民族へと移動します。山西省や内モンゴル自治区や黄河上流のより内陸に位置する中期~後期新石器時代のアジア東部北方人はクラスタ化し、現代チベット人およびネパールの高地に適応した祖先系統へと移動して、部分的に現代の地理的に近いチベット人と重なり、ネパールの古代人と密接な遺伝的類似性を示します。

 第三に、西遼河の古代集団です。この西遼河古代集団では、遺伝的類似性の異なる3パターンが識別できます。北方クラスタは、シベリアのシャマンカ(Shamanka)とモンゴルの新石器時代個体群と遺伝的類似性を示します。中期紅山(Hongshan)文化クラスタは、モンゴルの少数民族と剛察の現代チベット人との間に位置します。夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体など北方クラスタに関しては、草原地帯牧畜民と関連するモンゴル高原北部新石器時代個体群と、黄河流域雑穀農耕民の両方が、西遼河流域における後期新石器時代とその後の集団形成に加わった、と示唆されます。南方クラスタの後期新石器時代個体群は、アジア東部北方の沿岸部前期新石器時代個体群と、内陸部の新石器時代仰韶文化および龍山文化個体群との間に位置し、黄河中流および下流域(河南省と山東省)の雑穀農耕民が、内陸部および沿岸部両方の北方への集団移住により、紅山文化集団もしくはその子孫の形成に重要な役割を果たした、と示唆されます。

 第四に、モンゴル高原とロシア極東とバイカル湖地域とアムール川流域の古代集団です。これらには新石器時代から青銅器時代までの46人が含まれ現代ホジェン人およびウリチ(Ulchi)人と、モンゴル語族の一部との近くでクラスタ化します。日本列島の「縄文人」は集団化し、現代日本人からはずっと離れており、ロシア極東沿岸部新石器時代個体群と台湾の漢本および新石器時代アジア東部南方(現在の福建省)沿岸部個体群との中間に位置します。

 主成分分析では、現代チベット人と古代ネパール人集団と現代・古代のアジア東部人とシベリア人との間のゲノム類似性が明らかになりました。遺伝的構造と対応する集団関係をさらに調べるため、系統構成とクラスタパターンが推定され、アジア東部の主要な2系統が観察されました(図1C)。沿岸部アジア東部北方系統は、新石器時代シベリア人と現代ツングース語族で最大化されました。また沿岸部アジア東部北方系統(黄緑色)は、高い割合を有する山東省の沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人と同様に、中国北東部とロシア極東の青銅器時代から現代の集団にも存在します。他の沿岸部アジア東部北方系統は、現代高地チベット人と後期新石器時代の斉家文化関連集団において多く見られ、ネパールの青銅器時代から歴史時代の個体群および古代アジア東部北方人でも最大化し、それは現代低地シナ・チベット語族、内陸部のミャオ・ヤオ語族とタイ・カダイ語族でも同様です。本論文はこのチベット人関連系統を内陸部アジア東部北方系統と呼び、これはチベット人と現代および古代のアジア東部北方人との間の密接な遺伝的類似性の直接的指標です。

 沿岸部前期新石器時代のアジア東部南方人、鉄器時代の台湾の漢本(Hanben)人、現代のオーストロネシア語族の台湾先住民であるアミ(Ami)人とタイヤル(Atayal)人で多く見られる系統は、本論文では沿岸部アジア東部南方系統(濃緑色)と呼ばれます。青色系統はミャオ・ヤオ語族とタイ・カダイ語族に広く分布する沿岸系統の対応としてラチ(LaChi)人で最大化され、この内陸部アジア東部南方系統は、雲南と雅江・新竜と甘南のチベット人を含む低地チベット人に、比較的高い割合で存在します。さらに、チベット高原北東部のチベット人は、より多くの沿岸部アジア東部北方系統を有している、と明らかになりました。タイとラオスの国境のムラブリ(Mlabri)人で最大化されるいくつかのオーストロアジア語族関連系統は四川省と雲南省のカム地域チベット人で、青銅器時代のアファナシェヴォ(Afanasievo)文化とヤムナヤ(Yamnaya)文化集団で最大化される系統(赤色)は青海省および甘粛省のアムドチベット人でそれぞれ識別されました。古代ネパール人集団は、シベリア北東部の鉄器時代エクヴェン(Ekven)人と関連した共通系統を有していました。以下、チベットチベット高原の11地域、主成分分析、系統構成を示した本論文の図1です。
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●アジア東部人の集団分化とチベット人における下部構造

 11地区の現代チベット人と現代もしくは古代の参照集団との間の遺伝的差異をさらに調べるため、まず現代人82集団と現代および古代の32集団の遺伝的距離が計算されました。チベット自治区において、高地のウー・ツァン地域チベット人の南(シガツェと山南)と中央(ラサ)と北(ナクチュ)、北東となるカム地域のチャムドのチベット人は、近隣地域と最小のFst遺伝距離を有しており、チベット高原北東部の低地アムド地域(青海省と甘粛省)のチベット人と、チベット高原南東部のカム地域(四川省と雲南省)のチベット人と、ツー人など他のチベット・ビルマ語族集団がそれに続きます。これらの遺伝的関係の観察パターンは、低地集団とは顕著に異なっており、ミャオ・ヤオ語族のシェ(She)人は低地アジア東部人とほとんどの系統を共有しています。

 青海省と甘粛省のアムド地域のチベット人では、剛察チベット人が北部もしくは北東部チベット人(チャムドとナクチュ)と最小のFst遺伝距離で密接な遺伝的類似性を有し、チアン(Qiang)人とツー人もしくは他の地理的に近いチベット人がそれに続きます。剛察と循化のチベット人では異なるパターンが観察され、相互に最も密接な関係を示し、その次がツー人とユグル人になります。また、甘南および循化のチベット人とテュルク語族のカザフ集団との間の比較的小さい遺伝的距離も明らかになり、チベット高原において、中央部のチベット人と比較して、北東部のチベット人のユーラシア西部人との遺伝的類似性が示されます。

 四川省と茂県地区(Ganqing Region)の雅江と新竜のチベット人は、四川省のチベット・ビルマ語族(ツー人やユグル人やチアン人)と密接な遺伝的類似性を有します。雲南省のチベット人は、剛察とチャムドのチベット人と最小の遺伝的距離を有し、チアン人とイー(Yi)人とツー人がそれに続きます。チベット人と新石器時代から鉄器時代のアジア東部人の間で、各現代チベット人と最小のFst値を有する遺伝的に最も密接な集団は、他の現代チベット人により証明され、台湾の漢本集団は他の古代アジア東部人と比較して、現代チベット人と最も密接な関係を示します。

 TreeMixに基づく分析により、ユーラシアの現代人集団とユーラシア東部古代人の遺伝的多様性の下で、さらに系統関係が推定されました。現代チベット人と他のユーラシア人の遺伝的多様性に基づく図2Aの系統樹は、移住事象なしと想定されていますが、類似した語族集団が1集団にクラスタ化する傾向を示します。アルタイ諸語(テュルク語族とモンゴル語族)集団は、ウラル語族とクラスタ化しました。オーストロネシア語族のアジア東部人は、まずタイ・カダイ語族と、次にミャオ・ヤオ語族およびオーストロアジア語族とクラスタ化しました。チベット人はまず相互に、とくに高地適応のウー・ツァン地域でクラスタ化し、次に低地アジア東部人とクラスタ化しました。この観察された地理的孤立は、高地チベット人と低地アジア東部人との間の遺伝的差異を示し、共有された共通起源系統があるものの、識別されます。

 さらに、事前に定義された3回の交雑事象で、近東からのアナトリア半島新石器時代農耕民系統を除き、現代チベット人とユーラシア東部の26人の古代人との間の集団分岐と遺伝子流動が分析されました。甘南と新竜を除く現代チベット人は、まずネパールの高地古代人と、次に低地アジア東部北方新石器時代人および新石器時代から青銅器時代の南シベリア人とクラスタ化し、高地現代チベット人と低地アジア東部北方古代人との間の遺伝的区分が示されました(図2B)。このクラスタパターンはまた、高地の現代および古代チベット人と低地アジア東部南方人と同様に、アジア東部の北方人と南方人との間の遠い関係を示しました。これは、チベット人とアジア東部北方人との間の特別なつながり、もしくはより密接な遺伝的関係の証拠をさらに提供します。以下、この系統関係を示した本論文の図2です。
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 外群f3統計(現代チベット人、ユーラシア古代人および現代人、エチオピアのムブティ人)で、遺伝的類似性がさらに評価されました。現代人184集団の中で、各地域のチベット人にとって最も類似性が共有されるのは、地理的に近い別地域のチベット人です。山南チベット人はラサとシガツェとナクチュのチベット人と最もアレル(対立遺伝子)を共有しており、集団の類似したパターンは、ウー・ツァン地域において南方に位置するシガツェと中央に位置するラサのチベット人で特定されました。しかし、ウー・ツァン地域でも北東に位置するナクチュのチベット人は、そこからさらに北東に位置するカム地域のチャムドのチベット人と最もアレルを共有し、四川省のチベット・ビルマ語族のチアン人と、他のチベット人およびシェルパ(Sherpa)人が続きます。これらのパターンは、チャムドのチベット人における集団の特徴と一致します。

 現代チベット人内のゲノム類似性に続いて、5地域のチベット人が低地漢人と最も強い遺伝的類似性を共有する、と明らかになりました。これは、シナ・チベット語族の黄河中流および下流域の共通起源と一致します。四川省と雲南省の低地カム地域では、新竜チベット人が、上海や重慶や湖北省や江蘇省の漢人および他の低地チベット・ビルマ語族のチアン人やトゥチャ(Tujia)人と最も遺伝的浮動を共有しています。新竜チベット人とは異なり、地理的に近い雅江と雲南省のチベット人は、チアン人および地理的に近いチャムドおよび新竜のチベット人と最も遺伝的浮動を共有しており、それら漢人と他のチベット人が続きます。これら低地漢人もしくはアジア東部南方人は、中国南西部に位置する低地のカム地域チベット人が、先史時代と歴史時代において集団移住と混合により、アジア東部南方人と系統の変化を有していた、と示唆します。アムド地域の剛察チベット人は、漢人およびチベット・ビルマ語族と遺伝的類似性を共有しているだけではなく、テュルク語族集団との類似性の兆候も示します。甘南と循化のチベット人におけるアレル共有は、漢人集団が甘南および循化のチベット人と最も系統を共有している、と示します。

 外群f3統計から推測される、現代チベット人と旧石器時代から歴史時代のユーラシア古代人106集団(ロシアが33、中国が41、モンゴルが29、ネパールが3)との間の共有されるアレルの水準は、現代チベット人が新石器時代から鉄器時代のアジア東部北方人と最も明確なつながりを有すると示し、これは主成分分析・Fst・ADMIXTURE・現代人集団に基づく類似性推定と一致します。中程度の高度となるチャムドのチベット人は、新石器時代の陝西省五庄果墚遺跡個体群および後期新石器時代となる斉家文化の黄河上流域農耕民と最も遺伝的浮動を共有しており、鉄器時代の雲南省の大槽子(Dacaozi)人と陝西省の石峁(Shimao)人、中国北部の紅山文化関連の中期新石器時代の半拉山(Banlashan)人、黄河中流および下流域の他のアジア東部北方人が続きます。

 ロシアとモンゴルの新石器時代人および歴史時代ネパールの青銅器時代人は、チャムドの現代チベット人とは比較的遠い遺伝的関係を示します。チャムドのチベット人のパターンとは異なり、ウー・ツァン地域南部および中央部のチベット人は、ネパール古代人と関連する系統の増加を示し、ウー・ツァン地域北部のナクチュのチベット人は、2700年前頃のチョクホパニ人と集団類似性の中間的傾向を示します。中国南西部および北東部の低地チベット人は、アジア東部北方古代人と似た集団類似性を示します。新竜チベット人を除くチベット人は、相互に他のチベット人と最も遺伝的浮動を共有してクラスタ化し、次にネパール古代人と集団化し、高地クラスタを形成します。前期新石器時代から鉄器時代のアジア東部北方人がまずクラスタ化し、次に高地クラスタと集団化します。アムール川および西遼河流域の古代クラスタも、高地チベット人とより密接な関係を示し、新疆の石人子溝(Shirenzigou)遺跡人とアジア東部南方人は、低地アジア東部北方人および高地チベット人クラスタと、比較的異なる関係を保ちます。


●チベット高原における現代チベット人と古代人集団との混合の痕跡

 最近の遺伝的混合の証拠があるのか検証し、対応する祖先集団(もしくは現代集団で代理とされる仮定的祖先集団)を決定するため混合f3統計が実行され、各地域のチベット人集団が祖先集団と派生的アレルをどの程度共有しているのか、評価されました。また、3集団比較と古代人および現代人の包括的な参照データベースにより、ネパールの古代人9人および青海省の後期新石器時代から鉄器時代の11人の混合の痕跡が再評価されました。その結果、高地と低地の現代および古代チベット人における、混合の兆候と祖先集団の異なるパターンが見つかりました。さらに、1地域もしくは類似した文化のチベット人の間で、小さいものの有意な違いが識別できました。

 ウー・ツァン地域では、南部の山南とシガツェにおいて4万組以上の検証で混合の兆候が観察されず、中央部のラサに関しては、1500年前頃となるネパールのサムヅォング文化個体群と、カム地域のチベット人とチアン人、もしくは新石器時代アジア東部北方人とチベット南部人との混合集団、もしくはバイカル湖地域古代人という4集団が祖先集団候補として検出されました。検証された188集団では、一方はチベット・ビルマ語族と、もう一方はユーラシア西部人と有意な値を示します。古代アジア東部北方人および南方人ではなく、低地アジア東部現代人と組み合わされた南部および中央部チベット人も、ナクチュのチベット人と有意な混合の兆候を示します。ウー・ツァン地域とカム地域のチベット人の間の接合領域に位置するチャムドのチベット人は、潜在的な文化的およびヒト集団の移動と混合を有していますが、一つの混合兆候のみが観察されます。茂県地域の3人のチベット人は数千以上の集団の組み合わせから混合の兆候を有しており、一方はアジア東部の現代人もしくは古代人、もう一方はユーラシア西部人です。

 f3統計の結果、北方系統の祖先としての新石器時代内陸部アジア東部北方人である、内モンゴル自治区の裕民(Yumin)遺跡の前期新石器時代個体が、南方系統の祖先としてのオーストロアジア語族およびタイ・カダイ語族と組み合わされ、有意なf3値を示します。四川省のチベット人は、アジア東部北方人と南方人との間の混合、もしくは高地チベット・ビルマ語族と低地アジア東部人との間の混合の結果としてのみ、有意な兆候を示します。南部チベット人の結果と同様に、雲南省チベット人では混合の兆候は観察されず、遺伝的孤立もしくは最近起きた明らかな遺伝的浮動が原因だったかもしれません。チベット高原の古代人集団に焦点を当てた検証では、青海省の鉄器時代の大槽子遺跡集団からの混合の兆候が示され、これはアジア東部北方古代人とアジア東部南方現代人の祖先集団との混合、もしくはチャムドのチベット人関連集団と台湾の鉄器時代漢本個体のような集団との混合の結果です。


●f4統計から推定される高地および低地チベット人の集団内分化

 現代チベット人の間の下部構造を調べるため、f4統計が実施されました。チャムドのチベット人は、他のチベット人との比較で、ナクチュおよび雲南省のチベット人とクレード(単系統群)を形成します。アムド地域の剛察と甘南と循化のチベット人と比較して、他のチベット人はチャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。雅江と新竜の低地チベット人と比較して、チャムドのチベット人は高地チベット人(ラサ、ナクチュ、シガツェ、山南)関連系統をより多く有していますが、甘南のチベット人はチャムドのチベット人と比較して、新竜のチベット人とより多くのアレルを共有します。高地チベット人と比較して、チャムドのチベット人は比較的低地の他のチベット人とより多くのアレルを共有します。

 ウー・ツァン地域南部および中央部のチベット人の間では、明確な遺伝的均一性が示され、アムド地域のチベット人と比較して、南部チベット人とより多くのアレルが共有されます。しかし、ウー・ツァン地域の北部チベット人はチャムドおよび雲南省のチベット人とクレードを形成し、四川省のチベット人と比較して、より多くの高地チベット人関連派生的アレルを有します。低地チベット人では、中国北西部となるアムド地域の剛察と循化のチベット人がクレードを形成します。同じくアムド地域の甘南チベット人と比較して、青海省チベット人はチベット自治区のチベット人とより多くの系統を共有します。甘南チベット人をf4統計の対象とすると、他のチベット人と比較して、甘南チベット人とより多くのアレルを共有するチベット人集団は見つかりません。中国南西部の雲南省チベット人はチャムド・新竜および雅江チベット人とクレードを形成し、全てはカム地域チベット人に属します。低地の四川省と雲南省のチベット人は、茂県チベット人と比較してチベット人関連系統を、また他の高地チベット人と比較して高地チベット人関連系統をより多く有しています。

 さらに、f4統計により、古代ユーラシア集団(おもに中国とモンゴルとシベリア東部とユーラシア西部の草原地帯牧畜民)を用いて、高地および低地チベット人の間の観察された遺伝的類似性と集団下部構造が調べられました。ウー・ツァン地域のチベット人内のゲノム類似性パターンが確認され、またアムド地域とカム地域のチベット人と比較して、ウー・ツァン地域のチベット人におけるネパール古代人との明らかなより多くの類似性が特定できました。山南チベット人と比較して、ナクチュのチベット人は、中国南部の南東部沿岸地域における新石器時代から歴史時代のアジア東部南方の低地古代人集団と関連する系統の増加を示し、この系統はバイカル湖地域後期新石器時代個体でも見られます。アムド地域のチベット人と比較して、ウー・ツァン地域のナクチュのチベット人は、ネパール古代人関連系統の増加と、循化チベット人と関連する後期新石器時代の青海省の喇家(Lajia)遺跡個体関連系統の増加を示します。またナクチュのチベット人は、福建省のアジア東部南方沿岸部後期新石器時代集団と、黄河中流域の新石器時代から鉄器時代集団と、夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団と、内陸部新石器時代アジア東部北方集団と、他の黄河上流域新石器時代および鉄器時代集団と関連する系統の増加を示します。

 黄河上流域古代人集団では、地理的に近い剛察チベット人ではなく、ナクチュのチベット人との間でより密接な類似性が見つかり、喇家遺跡などの古代人集団が、ナクチュの現代チベット人の直接的祖先だったかもしれません。アムド地域のチベット人に関しては、ロシアのシンタシュタ(Sintashta)文化など中期~後期青銅器時代のユーラシア草原地帯牧畜民関連系統の増加が示されます。また、アムド地域のチベット人の間の強い遺伝的類似性が、確認されています。アムド地域の甘南チベット人は、現代オーストロネシア語族や福建省・台湾などアジア東部南方前期新石器時代集団に代表される、アジア東部南方人関連系統の増加を示します。甘南チベット人の同じアジア東部南方人の類似性は、ウー・ツァン地域のチベット人との比較でも識別されます。

 ナクチュのチベット人とチャムドのチベット人とユーラシア東部古代人とエチオピアのムブティ(Mbuti)の現代人によるf4統計では、ナクチュのチベット人とがチャムドのチベット人とクレードを形成し、チャムドのチベット人におけるアジア東部北方の中期新石器時代の半拉山関連系統の増加を示し、半拉山遺跡の人々は紅山文化と関連している、と証明されました。またラサのチベット人と比較してチャムドのチベット人では、悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡(関連記事)個体群のようなロシアもしくはモンゴル関連新石器時代系統、中期新石器時代の紅山文化関連系統、後期新石器時代にかけての黄河中流域もしくは龍山文化農耕民関連系統、黄河上流域後期新石器時代の斉家文化関連系統の増加が示唆されます。遺伝的類似性は、前期新石器時代におけるチベット高原とアジア東部北方の古代人集団間のつながりを示します。

 ウー・ツァン地域南部の山南チベット人と比較して、カム地域のより北方に位置するチャムドのチベット人は、低地アジア東部の異なる古代集団と関連する系統の増加を示します。まず、沿岸部アジア東部南方の後期新石器時代の曇石山遺跡、台湾の鉄器時代の漢本遺跡、歴史時代となる福建省の伝云(Chuanyun)遺跡の人々は、山南チベット人よりもチャムドのチベット人と多くの遺伝的浮動を共有しています。第二に、山東省の沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人は、チャムドのチベット人とより多くの遺伝的浮動を共有します。第三に、河南省の中期新石器時代から後期青銅器時代および鉄器時代の古代人集団は、チャムドのチベット人とより多くの派生的アレルを共有します。第四に、黄河中流域の新石器時代集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。第五に、黄河上流域の後期新石器時代と鉄器時代の個体群は、甘南チベット人よりもチャムドのチベット人と多くのアレルを共有します。第六に、西遼河流域の新石器時代3集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。第七に、新石器時代から現代のモンゴルおよびロシアと関連する祖先集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。ウー・ツァン地域南西部のシガツェのチベット人と比較して、共有派生的アレルの類似のパターンが観察されます。アムド地域のチベット人と比較して、チャムドのチベット人は高地および低地の古代人集団と関連する系統の増加を共有します。四川省のチベット人と比較して、チャムドのチベット人はネパールの2125年前頃のメブラク文化および1500年前頃のサムヅォング文化集団とより多くのアレルを共有します。チャムドのチベット人で観察された遺伝的類似性のパターンと似て、カム地域の他の3地区のチベット人も、アジア東部南北両系統の増加を示します。


●現代チベット人とアジア東部古代人の時空間的比較分析および現代チベット人の遺伝的混合と継続

 全体的なアジア東部人の遺伝的構造と人口動態を明確にし、文化的・地理的に多様なチベット人の起源への新たな洞察を得るため、f4統計により時空間的な調査が行なわれました。山東省の新石器時代沿岸部アジア東部北方人と現代チベット人との間には、類似した遺伝的関係が見られます。山東省の小荆山(Xiaojingshan)遺跡個体群では、新石器時代沿岸部アジア東部南方人関連系統の増加が識別でき、アジア東部における沿岸部集団との密接な関係が示されます。

 河南省の後期青銅器時代~鉄器時代の遺跡(Luoheguxiang)の個体群は、河南省滎陽市(Xingyang)汪溝(Wanggou)遺跡の中期新石器時代個体群と比較して、台湾先住民であるオーストロネシア語族の現代アミ(Ami)人と関連する系統の増加を示します。河南省の後期新石器時代の郝家台(Haojiatai)遺跡個体群は、汪溝遺跡個体群と比較して、台湾の漢本遺跡や福建省の遺跡(Xitoucun)と関連するアジア東部南方人系統をより多く有し、アミ人やタイヤル人など類似の沿岸部南方集団の類似性が、河南省の後期新石器時代の平糧台(Pingliangtai)遺跡個体群で観察されますが、後期新石器時代の瓦店(Wadian)や中期新石器時代の汪溝や前期新石器時代の小呉(Xiaowu)といった河南省の各遺跡の個体群では観察されません。

 陝西省と内モンゴル自治区の古代人に焦点を当てると、現代チベット人とアジア東部南北両方(黄河流域と中国南部)の人々は、新石器時代の陝西省の石峁遺跡集団とより多くのアレルを共有します。黄河上流域古代人の経時的分析によると、現代チベット人は全員、黄河上流域古代人との類似した関係を示しますが、鉄器時代の雲南省大槽遺跡の人々は、より多くのアジア東部南方人系統を有します。これらの結果は、中国南部からの集団移動が、少なくとも鉄器時代からチベット高原北東部集団の遺伝子プールに有意な影響を有した、と示唆します。また、年代の異なるネパール古代人集団との、アジア東部人の間の対称的な関係が示されます。

 次に、現代チベット人と全ての利用可能なアジア東部古代人の空間的比較分析により、新石器時代アジア東部北方人の共有された遺伝的構成の類似性と差異が調べられました。現代チベット人11集団および他のアジア東部古代人が、地理的に異なるアジア東部北方古代人および古代チベット人と比較されました。その結果、山東省の沿岸部新石器時代4集団と比較して、ウー・ツァン地域チベット人が最も強い高地アジア東部人との類似性を有する、と明らかになりました。さらに、沿岸部および内陸部古代人と比較すると、現代チベット人は内陸部アジア東部北方人、とくに黄河上流域の後期新石器時代の喇家遺跡個体群と強い類似性を有している、と明らかになりました。この喇家遺跡個体群もしくはアジア東部北方人との類似性は、内陸部の中期新石器時代となるモンゴル自治区の裕民(Yumin)遺跡を沿岸部アジア東部北方人に置換しても成立しましたが、後期新石器時代個体群を前期新石器時代アジア東部北方人と置換すると消えました。アムド地域とカム地域のチベット人は、低地アジア東部北方人との類似性を、ウー・ツァン地域のチベット人はネパール古代人との類似性を示します。

 上述の集団ゲノム研究は、現代チベット人の間の集団下部構造(ウー・ツァンとアムドとカムの各地域)と、アジア東部現代人との最も密接な関係と、アジア東部南方人およびシベリア人との類似性を明らかにしてきました。現代チベット人3集団がそれぞれアジア東部の北方人および南方人とシベリア人との類似性を示すことと一致して、追加の遺伝的混合なしにこれらのソース集団の1つの直接的子孫だった、との仮定が検証されました。まず、現代チベット人が長江流域の稲作農耕民と関連するアジア東部南方人の直接的子孫だった、と仮定されました。アジア東部北方人もしくはシベリア人を用いたf4統計からは、それら参照集団からの明らかな遺伝子流動事象と、密接な遺伝的関係が示唆されました。

 チベット人の直接的祖先が沿岸部新石器時代アジア東部北方人との仮定で、追加の遺伝子流動事象を詳細に検証するためf4統計が行なわれ、ネパール古代人のみが負の値を示し、シナ・チベット語族の黄河中流および下流域の共通起源と一致します。仰韶および龍山文化農耕民もしくはその関連集団、陝西省古代人と他のアジア東部北方古代人と南シベリア人を、現代チベット人の直接的祖先として仮定すると、これらのパターンは確認されました。裕民遺跡個体もしくはアムール川下流域のツングース語族のウリチ(Ulchi)人を直接的祖先として仮定すると、アジア東部南方人(台湾の漢本遺跡個体)と黄河流域農耕民からの追加の祖先的遺伝子流動が識別されました。ネパール古代人を直接的祖先として仮定すると、低地アジア東部古代人からの追加の明らかな遺伝子流動事象が、カム地域チベット人で検出されました。ロシアと中国新疆ウイグル自治区の追加の事前定義された祖先的集団は、強いアジア東部との類似性を確認します。


●現代および古代チベット人の系統構成

 現代チベット人と新石器時代アジア東部北方人の密接な遺伝的つながりと、チベット人とアンダマン諸島のオンゲ(Onge)人と「縄文人」の父系(Y染色体)類似性を考慮し、qpWaveを用いて現代チベット人とネパール古代人と「縄文人」の祖先集団の数が調べられ、さらにqpAdmにより、1方向~3方向の対応する系統割合が推定されました。オンゲ人と「縄文人」は、アジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)の7700年前頃の個体と密接な関係がある、と示されています(関連記事)。

 qpWaveの結果から、対称となった集団における観察された遺伝的多様性を説明するには、少なくとも2祖先集団が必要と示されました。まずオンゲ人と内陸部および沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人6集団の2方向モデルが採用され、内陸部の裕民遺跡個体が対象となった集団の遺伝的多様性に適合しませんでした。河南省の前期新石器時代となる小高遺跡個体とオンゲ人の2方向モデルは、甘南チベット人を除く全ての現代チベット人とよく合致します。小高遺跡個体関連系統の割合は、山南チベット人で0.846、新竜チベット人で0.906です。

 2700年前頃のネパールのチョクホパニ遺跡個体群は、地理的に近いウー・ツァン地域チベット人と類似しており、小高遺跡個体に代表されるアジア東部北方人関連系統の割合が0.861、オンゲ人関連系統の割合が0.139となります。より新しいネパール古代人は、チョクホパニ遺跡個体群よりも、オンゲ人関連系統の割合が高く、アジア東部北方人関連系統の割合が低くなります。縄文人は小高遺跡個体関連系統の割合が0.484、わずかな統計的有意性を有するオンゲ人関連系統の割合が0.516でモデル化できます。

 前期新石器時代の小高遺跡個体を、山東省の前期新石器時代となる淄博(Boshan)遺跡および變變(Bianbian)遺跡個体群と置換すると、類似した結果が得られますが、淄博遺跡個体を同じ山東省の前期新石器時代となる小荆山遺跡個体と置換すると、1500年前頃となるネパールのサムヅォング文化個体群は、2方向モデルに適合しません。シベリアの前期新石器時代となるジャライノール(Zhalainuoer)遺跡個体とオンゲ人関連系統は、より高いオンゲ人関連系統を有する高地チベット人および雲南省チベット人の祖先集団として適合しましたが、他のアムド地域およびカム地域チベット人には適合しませんでした。

 中期新石器時代アジア東部人をソース集団として用いると、河南省の小呉遺跡とオンゲ人関連系統のモデルは全対象集団で適合せず、悪魔の門遺跡個体とオンゲ人関連系統のモデルは、オンゲ人関連系統のより高い割合を有する、四川省チベット人と縄文人とチョクホパニ文化個体群でのみ適合できました。ユーラシア西部人との類似性を有する集団(アムド地域チベット人とネパールのサムヅォング文化集団)以外の全ての現代人および古代人集団は、オンゲ人と中期新石器時代の各遺跡のアジア東部北方人関連系統との混合としてモデル化できます。

 アジア東部北方人関連系統の割合は、汪溝遺跡個体を用いると、チベット人では0.898~0.960、縄文人では0.518、ネパールの2400~1850年前頃のメブラク(Mebrak)文化集団では0.889、チョクホパニ文化集団では0.914です。半拉山遺跡個体を用いると、山南および新竜チベット人ではそれぞれ0.795と0.847、縄文人では0.458、チョクホパニ文化集団では0.800です。内モンゴル自治区の廟子溝(Miaozigou)遺跡個体を用いると、チベット人では0.906~0.952、縄文人では0.615、メブラク文化集団では0.906、チョクホパニ文化集団では0.933です。

 さらに、ソース集団として後期新石器時代アジア東部北方人を用いると、剛察および甘南のチベット人とサムヅォング文化集団は、剛察チベット人での、瓦店遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(割合は0.932と0.068)、郝家台遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(0.973と0.027)、サムヅォング文化集団での郝家台遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(0.908と0.092)を除いて、すべて適合しませんでした。残りの全集団は、より高い新石器時代アジア東部人系統とより小さいオンゲ人関連系統の混合として適合できます。

 さらに、南方起源集団としてホアビン文化個体をオンゲ人と置換し、前期~後期新石器時代のアジア東部北方人をもう一方の起源集団として2方向混合を実行し、サムヅォング文化集団と縄文人を除いて、剛察および甘南チベット人とネパール古代人の割合を推定しました。その結果、オンゲ人に基づく2方向モデルと比較して、わずかに異なる系統構成でも良好な適合が得られました。最後に、アムド地域の剛察および甘南チベット人とサムヅォング文化集団で遺伝的多様性に適合する3方向混合モデルにて、ファナシェヴォ文化個体群がユーラシア西部人のソース集団として採用されました。この3集団は全て、青銅器時代草原地帯牧畜民関連系統を導入すると、上手く適合ました。

 新石器時代アジア東部人と現代チベット人との間の系統関係を包括的に要約し、人口史を復元するため、qpGraphにより一連の混合モデルが構築されました。核となるモデルでは、デニソワ人、現生人類の最も深い分岐を示す集団としてアフリカ中央部のムブティ人、ユーラシア西部人の代表としてルクセンブルクの中期石器時代となるロシュブール(Loschbour)遺跡個体、アンダマン諸島の狩猟採集民である現代オンゲ人、ユーラシア東部の南北の深い系統を表す、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)個体が含まれます。

 図6Aに示されるように、アジア東部人は、ユーラシア西部人からの1%程度の遺伝子流動を有するモンゴル東部の新石器時代集団に代表される北部系統と、オンゲ人と密接な系統から35%程度の遺伝的影響を受けた、福建省連江県亮島の前期新石器時代となる粮道2(Liangdao2)遺跡個体に代表される南部系統に分けられます。後期新石器時代の斉家文化関連の喇家遺跡個体群は、アジア東部北方人関連系統84%とアジア南部オンゲ人関連系統16%の混合として、ネパールのチョクホパニ文化集団は、喇家遺跡個体群系統86%とオンゲ人関連系統14%の混合としてモデル化できます。このモデルは、チョクホパニ文化関連古代チベット人と後期新石器時代の喇家遺跡個体群における、チベット高原在来住民と関連する旧石器時代狩猟採集民系統と、新石器時代アジア東部北方人系統との共存の古代ゲノム証拠を提供します。

 次に、チベット高原の11地区全ての現代人をこのモデルに追加し、新竜チベット人を除くウー・ツァン地域とカム地域チベット人は、2700年前頃のチョクホパニ文化集団の直接的子孫として適合でき、アジア東部北方人系統1集団からの追加の遺伝子流動がある、と明らかになりました。このアジア東部北方人系統は、台湾の鉄器時代の漢本個体群に33%の追加系統をもたらしました。この遺伝子流動は、チベット高原への新石器時代の拡大の第二の波の典型とみなせます。したがって、図6の結果は、チベット人7集団が、オンゲ人関連系統、後期新石器時代の喇家遺跡個体群関連系統、アジア北東部人関連系統の第二の波という、3祖先集団によく適合できる、と示唆します。それぞれの割合は、山南では0.1235と0.8265と0.05、シガツェでは0.144と0.816と0.04、ラサでは0.1344と0.8256と0.04、ナクチュでは0.1176と0.7224と0.16、チャムドでは0.1001と0.6699と0.23、雲南省では0.1106と0.6794と0.21、雅江では0.1232と0.7568と0.12です。以下、本論文の図6です。
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 図7に示されるように、2~3%のロシュブール関連系統の割合を有する茂県のアムド地域チベット人への1回の遺伝子流動事象を考慮すると、上手く適合できます。以下、本論文の図7です。
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 アジア北東部人関連系統の第二の波の最良の祖先集団の代理をさらに調べるため、新石器時代の内陸部および沿岸部のアジア東部北方人と南方人の集団を導入した、拡張混合グラフが再構成されました。図8に示されるように、新石器時代アジア東部南方人との類似性を有する低地のカム地域チベット人への第二の波は、割合が5~11%となる台湾の漢本遺跡個体関連集団に直接的に由来する、と上手く適合できます。以下、本論文の図8です。
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 次に前期新石器時代となる後李文化の淄博遺跡個体群、中期新石器時代となる仰韶文化の小呉遺跡個体群、後期新石器時代となる瓦店遺跡個体群、青銅器時代~鉄器時代の郝家台遺跡個体群を図6の核となるモデルに追加し、全てのチベット人をそれに適合させました。雲南省のカム地域チベット人は、龍山文化集団と関連する追加の系統を33%有しており、四川省雅江のカム地域チベット人は、龍山文化集団と関連する追加の系統を26%有しています。ラサのウー・ツァン地域チベット人の遺伝子プールも、龍山文化集団と関連する第二の移住の波に影響を受けています。この第二の遺伝子流動事象は、龍山文化集団を他の新石器時代もしくは青銅器時代~鉄器時代集団として、受け入れ可能な系統の割合と置換しても持続し、これらの現象は中原(河南省と山東省)の主要な系統の遺伝的安定性に起因するかもしれません。以下、本論文の図9です。
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●考察

 チベット高原における先史時代の人類の活動と、高地適応の現代チベット人の起源は、遺伝学・考古学・人類学・歴史学などで注目されてきました。近年における古代DNA研究の発展は目覚ましいものの、アジア東部で遅れていることは否定できません。しかし、最近になってアジア東部の古代DNA研究は大きく進展しました(関連記事)。北京近郊の4万年前頃の田园洞窟個体からは、アジア東部の初期集団構造が、アジア東部人とアメリカ大陸先住民との分岐の前に存在した、と示されました(関連記事)。中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)では、アジア東部における南北の遺伝的分化が前期新石器時代以来続いていた、と示されました。この研究ではまた、山東省の後李文化集団から南方への移住と、福建省の曇石山文化集団から北方への移住とともに、アジア南東部のベトナムから極東ロシアまでの、アジア東方沿岸部のつながりも示し、これは後に太平洋に拡散したオーストロネシア語族の祖型集団と推測されます。新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(関連記事)では、生存戦略が集団の移動と混合に関連している、と報告されました。さらに、ヤムナヤ文化関連のユーラシア草原地帯関連系統が、アジア東部とユーラシア西部の間の混合をもたらし、インド・ヨーロッパ語族を中国北西部にもたらしたことも推測されています(関連記事)。これらの発展はあったものの、アジア東部の高地と低地の現代人と古代人との間の遺伝的関係と分化はまだ曖昧でした。本論文では、チベット高原に関連する新石器時代から歴史時代までの広範なゲノムデータを分析することにより、チベット高原を中心にアジア東部の人類集団の旧石器時代から現代までの歴史を検証しました。

 チベット高原の現代人と古代人のゲノムは、現代漢人および新石器時代アジア東部北方人、とくに山東省の沿岸部の後李文化と河南省の内陸部の仰韶および龍山文化、茂県地区の斉家文化個体群との明確なつながりを示し、チベット・ビルマ語族現代人集団の中国北部起源を示唆します。シナ・チベット語族の起源について、言語の多様性などに基づき、仰韶・馬家窯(Majiayao)文化と関連する中国北部起源、中国南西部の四川省起源、インド北東部起源という3仮説が提示されてきました。農耕と言語の拡散仮説、チベット高原とアジア東部とアジア中央部および南部とシベリアにおける物質文化の類似性に基づくと、現代および古代チベット人の起源は依然として曖昧です。

 本論文における古代高地人とアジア北東部低地人の諸分析は、これらの集団の密接な関係を示し、母系・父系のみで伝わるmtDNAやY染色体のハプロタイプ分析により明らかになった遺伝的類似性と一致します。本論文で直接的証拠により確認されたシナ・チベット語族の仰韶文化・馬家窯文化と関連する中国北部起源説は、系統関係の再構築により提示されました。系統学的結果に基づくTreeMixとqpGraphは、現代チベット人における主要な系統を示し、チベット高原古代人(ネパールと斉家文化の人々)は、モンゴル東部新石器時代人および中原の仰韶文化・龍山文化・後李文化個体群と関連する、共通のアジア東部北方人系統に由来します。したがって、本論文のメタゲノム分析では、チベット高原の人々の主要な系統は、雑穀農耕民の新石器時代の拡大を伴う黄河中流および下流域に起源がある、と支持されます。本論文の新石器時代から現代の常染色体ゲノムに基づく知見は、ミトコンドリアとY染色体の多様性により明らかにされてきた、現代シナ・チベット語族集団の起源と多様化と拡大を確証します。

 シナ・チベット語族の共通起源の強い証拠は提示されましたが、依然としてその系統構成の違いが識別されます。チベット高原高地と比較して、低地の後期新石器時代から現代の人々は、新石器時代アジア東部南方人およびシベリア人と関連する系統をより多く有しています。茂県地区の鉄器時代となる大槽子遺跡の人々も、曇石山文化のアジア東部南方人とより密接な遺伝的類似性を示し、それは稲作農耕民の北方への拡散の遺伝的痕跡を示します。低地内陸部の仰韶文化と龍山文化もしくは沿岸部の後李文化集団と比較して、高地集団は、オンゲ人もしくはホアビン文化集団と関連する旧石器時代狩猟採集民系統を一定の割合(8~14%)で有します。したがって、本論文のメタ分析は、アジア東部高地人の遺伝子プールにおける旧石器時代系統と新石器時代系統両方の共存、チベット高原の人々の旧石器時代の居住と新石器時代の拡大に関する新たな証拠を提供します。これは以前に、現代人の全ゲノム配列とミトコンドリアとY染色体のデータで明らかにされていました。

 さらに、現代チベット人の間の明らかな集団下部構造も見つかりました。チベットの核地域であるウー・ツァンのチベット人はおもに旧石器時代系統と新石器時代系統を示し、中国北西部のアムド地域チベット人はユーラシア西部人と混合して2~3%程度の遺伝的影響を受け、四川省と雲南省のカム地域チベット人は新石器時代のアジア東部南方人とのより強い類似性を有します。したがって、現代チベット人の間で観察される集団下部構造は、地理的および文化的区分と一致します。これが示唆するのは、複雑な文化的背景と地形がある程度、集団移動と混合の障壁になっていた、ということです。qpGraphに基づく系統によく適合した集団移動と混合の第二の波は、鉄器時代のアジア東部南方人からカム地域チベット人、新石器時代アジア東部北方人からカム地域およびウー・ツァン地域チベット人、ユーラシア西部人からアムド地域チベット人への遺伝子流動を明らかにしました。これは、シベリアとアジア東部南北両方からの複数の移動の波が、チベットのアジア東部高地人の遺伝子プールを形成した、と示します。


●まとめ

 ユーラシア東部、とくに中国に焦点を当てた新石器時代から現代の包括的なゲノムメタ分析は、チベット高原の高地人と低地アジア東部人との間の関係を明確にし、チベット高原の人々を調査するために行なわれました。遺伝的調査の結果は、古代および現代チベット人と新石器時代から現代のアジア東部北方人との間の強い遺伝的類似性を示します。これが示唆するのは、チベット・ビルマ語族の主要な系統は中国北部の黄河中流および下流域の仰韶文化・龍山文化集団に起源があり、漢人との共通祖先を有し、雑穀農耕民とシナ・チベット語族の拡大を伴う、ということです。

 古代チベット人と低地の仰韶文化・龍山文化・後李文化集団の間で共有された系統が存続しますが、遺伝的分化も見つかりました。高地チベット人は深く分岐したユーラシア東部オンゲ人関連狩猟採集民系統を、低地の新石器時代から現代のアジア東部人は新石器時代アジア東部南方人とシベリア人系統からより多くの系統を有します。これは、現代および古代チベット人における旧石器時代と新石器時代の系統の共存、および旧石器時代の居住と新石器時代の拡大の集団史を示唆します。

 さらに、地理的・言語学的区分と一致して、現代チベット人において3集団下部構造が識別されました。それは、ウー・ツァン地域チベット人におけるより高いオンゲ人・ホアビン文化集団関連系統と、アムド地域チベット人におけるより多いユーラシア西部人関連系統と、カム地域チベット人におけるより大きいアジア東部南方人関連系統です。要約すると、アジア東部高地現代人は、少なくとも古代人5集団に由来します。最古層としてのホアビン文化関連集団、アジア北東部の内陸部および沿岸部からの新石器時代の2回の拡大による追加の遺伝子流動、新石器時代のアジア東部南方人の北方への拡大が1回、ユーラシア西部人の東方への拡大が1回です。


 以上、ざっと本論文を見てきました。本論文は、今年(2020年)になって大きく進展したアジア東部人類集団に関する古代ゲノム研究の成果を取り入れた包括的な分析になっており、たいへん注目されます。現代チベット人集団の遺伝的類似性とともに、その下部構造も明らかになっており、それが地理および文化と関連している、との推測は妥当でしょうし、興味深いものだと思います。ただ、中国領となっているチベット人の主要な居住地域では古代ゲノムデータがほとんど得られておらず、それが今後の課題となるでしょう。チベット高原の人類の古代ゲノムデータが蓄積されていけば、現代チベット人の形成過程がさらに詳細に解明されるでしょうし、それはアジア東部における各現代人集団の形成過程の分析にも役立つと期待されます。

 現代チベット人と現代日本人の類似性は、現代日本社会において一部?の人々により強調される傾向にあるように思われますが、本論文からも、類似した遺伝的構成が示されます。それは、おもに狩猟採集に依拠していた古層としての在来集団と、後に到来したアジア東部北方新石器時代集団との混合により形成され、遺伝的には後者の影響の方がずっと高い、ということです。この古層としての在来狩猟採集民は、出アフリカ後の現生人類がユーラシア東西系統に分岐し、さらにユーラシア東部系統が南北に分岐した後の南方系統に由来する、と推測されます。現代日本人と現代チベット人において高頻度で見られるY染色体ハプログループ(YHg)Dは、おそらくこの狩猟採集民系統に由来するのでしょう。もっとも、これも単純化はできず、現代日本人における古層としての在来集団である「縄文人」は、本論文が示すように、ユーラシア東部南方系統と、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統との混合だった、と推測されます。

 今年になって大きく進展したアジア東部の古代ゲノム研究ですが、今後の課題は、まず新石器時代アジア東部南方人を代表すると考えられる長江流域新石器時代個体群のゲノム解析で、あるいは、すでにゲノムデータが得られている福建省の新石器時代個体群とはかなり異なる遺伝的構成を示す可能性もありますが、おそらく両者は類似した遺伝的構成だと思われます。次に、アジア東部ではほとんど得られていない更新世人類のゲノムデータです。現時点では、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統がいつどのようにアジア東部に拡散してきて、南北両系統に分岐したのか、ほとんど明らかになっていません。

 ただ、中国の大半はヨーロッパと比較して古代DNAの保存に適していない自然環境なので、今後も更新世人類のゲノムデータはさほど期待できないかもしれません。上述の4万年前頃となる北京近郊の田园洞窟個体と、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された35000~34000年前頃の個体(関連記事)からは、アジア東部系統はユーラシア中緯度草原地帯を西進してきたユーラシア東部北方系統から派生してアジア東部北方に4万年前頃かその少し前に到達し、その後にLGMによる各地域集団の孤立を経て南北両系統に分岐したのではないか、と現時点では考えていますが、自信はなく、今後の研究の進展を俟つしかないのでしょう。


参考文献:
Wang M. et al.(2020): Peopling of Tibet Plateau and multiple waves of admixture of Tibetans inferred from both modern and ancient genome-wide data. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.07.03.185884

森祇晶『責任者の條件 勝利への九つの設計図』

 青春文庫の一冊として、青春出版社から1999年3月に刊行されました。本書は、同じ題名で青春出版社から1997年4月に刊行された単行本の文庫化です。本書の刊行時期は、著者が西武の監督を退いて横浜の監督に就任する前で、著者は一般的には名将として高く評価されていたように思います。もっとも、本書刊行の前年に、著者が巨人監督に就任するという話が大きく報道され、巨人ファンの反対で立ち消えとなったので、文庫本刊行の頃には、著者への嫌悪感は単行本刊行時よりも上がっていたかもしれません。

 本書の内容ですが、全体的に抽象的となっており、単にプロ野球ファン向けではなく、一般的・普遍的になっています。おそらく著者も編集者も意識してのことでしょう。その分、プロ野球ファンの読書が期待するような具体的な話はやや少なくなっており、個人名が伏せられていることも多く、少なからぬ読者が期待していただろう醜聞めいた話に具体性が欠けているところもありますが、著者の対外向けの姿勢からは、こうしたやや「堅苦しい」内容になることには納得できます。そのため、著者は親交のあった野村克也氏よりも一般人気が低かった、とも言えるでしょう。

 もちろん、本書にはプロ野球に関する具体的な話も多くあり、興味深いものも少なくありませんでした。たとえば、石毛宏典氏を将来の指導者と見込んで、選手時代から監督・コーチ会議に呼んでいた、というような話です。今にして思うと、見込み違いも甚だしかったわけですが、私も当時は、石毛氏が監督に向いていると考えていました。達川光男(晃豊)氏もそうでしたが、現役時代に監督としての資質を見抜くのは、私のような見識のない人間には難しいものです。また、全体的に綺麗事との印象は否定できません。たとえば、清原和博氏について著者は、自律的で自主的に練習・行動のできる選手として高く評価していますが、今になってみると、著者が節穴だったか、当時はまだスター選手だった清原氏に忖度したか、自分の指導が間違っていなかったことを示したかっただけではないか、と勘ぐってしまいます。まあ、高校野球のスター選手で、オーナーのお気に入りだった清原氏を厳しく指導するのも、監督としてはなかなか難しかったかもしれませんが。

 選手の自主性と言えば、著者は、西武には自主管理のできる選手がそろっており楽だろう、と評論家やマスコミによく言われたものの、そこに持っていくまでの過程に苦労がある、と力説します。確かに、当時の西武の戦力といえども、ほぼドラフト制下の選手ばかりだったにも関わらず、監督として9年間でリーグ優勝8回、日本一6回を達成できる人はきわめて少ないでしょう。その意味で、著者の選手を使う力量は優れていると言えますが、けっきょく著者の横浜での監督時代を考えると、その前の監督だった広岡達朗氏と、広岡氏の前任で森監督時代のほとんどの期間で管理部長だった根本陸夫氏の功績が大きかったのではないか、と思います。本書のような功績を残した人の「ビジネス本」は少なくありませんが、常識論になってしまうものの、やはり鵜呑みにするものではない、と改めて思い知らされます。

羊膜類の卵の進化

 羊膜類の卵の進化に関する二つの研究が報道されました。一方の研究(Norell et al., 2020)は、モンゴルとアルゼンチンで発見された恐竜の卵について報告しています。羊膜類は、鳥類・哺乳類・爬虫類を含む分類群で、胚の乾燥を防ぐ働きをする内膜(羊膜)のある卵を産みます。羊膜類の中には、トカゲ類やカメ類のように殻の柔らかい卵を産むものもあれば、鳥類のように強く石灰化した硬い殻の卵を産むものもあり、こうした多様性は、さまざまな進化の軌跡を示しています。石灰化した卵殻は、発生中の胚を環境ストレスから保護して繁殖成功に寄与しした可能性が高いため、環境ストレスに対する防御を高める石灰化卵の進化は、羊膜類の歴史上の節目を表しています。しかし、柔らかい殻の卵が化石記録に残されることは稀なので、柔らかい殻から硬い殻への移行を研究することは困難です。

 現生のワニ類および鳥類が硬い殻の卵を産むことから、非鳥類型恐竜の卵殻もこの種のものだった、と推測されてきました。既知の恐竜の卵殻は、最内層の膜、その外側の方解石を含むタンパク質マトリックス、そして最外層のろう状のクチクラを特徴とします。方解石を含む卵殻は超微細構造を有する単一または複数の層から構成され、こうした卵殻構造は呼吸孔の配置と同様に、恐竜類の3つの主要なクレード(単系統群)間で著しく異なります。これまでに卵殻が発見されているのは、ハドロサウルス類と一部の竜脚形類とテタヌラ類のみで、化石記録の不足および中間的な種類の卵殻の欠如により、全ての恐竜にわたる卵殻構造の相同性を示そうとする試みは困難でした。

 本論文は、保存状態の極めて良好な鳥盤類プロトケラトプス(Protoceratops)および竜脚形類の基部に位置するムスサウルス(Mussaurus)の卵が、本来は生体鉱物化作用(バイオミネラリゼーション)を受けずに軟らかい殻を有していたことを示す、鉱物学的・有機化学的・超微細構造的な証拠を提示します。化石および現生の双弓類の、硬い殻の卵と軟らかい殻の卵を代表する一連の卵殻標本から得られたin situラマンスペクトルの統計学的評価から、本来は有機質だったものの、その後二次的にリン酸塩化したプロトケラトプスの卵殻とムスサウルスの有機質の卵殻が、生体鉱物化していない軟らかい卵殻に分類されました。組織学的特徴もまた、これらの軟らかい殻を有する恐竜の卵の有機質的な組成を裏づけており、カメ類の軟らかい卵殻に似た層状構造が明らかになりました。組成および超微細構造の祖先的状態を再現して、プロトケラトプスおよびムスサウルスの卵殻を他の双弓類の卵殻と比較したところ、恐竜の最初の卵は軟らかい殻を有していた、と示されました。石灰化した硬い殻の恐竜の卵は、中生代全体を通じて少なくとも3回にわたって別々に進化したと考えられ、化石記録に見られる派生的な恐竜の卵殻への偏りは、これによって説明されます。現生爬虫類の一部と同じように、柔らかい殻の卵が水分を含んだ土や砂の中に産みつけられ、植物物質の分解過程で生じる熱により孵化した可能性が高い、というわけです。


 もう一方の研究(Legendre et al., 2020)は、南極で発見された後期白亜紀の巨大な軟らかい殻の卵について報告しています。卵のサイズおよび構造は、脊椎動物の生殖や生活史の特徴に対する重要な制約を反映しています。現生の全羊膜類の2/3以上が卵生です。中生代(約2億5000万〜約6500万年前)において体サイズは極限に達したにもかかわらず、既知で最大の卵はごく最近絶滅したエピオルニス(Aepyornis)のもので、その年代は最後の非鳥類型恐竜および巨大な海生爬虫類より約6600万年新しい、と推定されています。

 本論文は、南極の後期白亜紀(約6800万年前)の沿岸海洋堆積物から発見された、新たな種類の卵について報告します。この卵は、既知の全ての非鳥類型恐竜の卵より体積が大きく、構造も異なります。エピオルニスの卵はこれと比較して規模がわずかに大きいものの、殻の厚さは約5倍あり、厚い角柱層および複雑な細孔構造が認められます。これに対して、新たに発見された卵化石は明らかにつぶれて折れ曲がっており、薄い卵殻には角柱層と明瞭な細孔を欠く層構造が認められ、現生のトカゲ類およびヘビ類(鱗竜類)の大半で見られる卵に類似しています。

 この卵を産んだ動物の正体は不明ですが、保存されている形態的特徴は、付近で発見されているモササウルス類(大型の海生鱗竜類)の骨格遺物の特徴と一致します。一方、これらの特徴は、サイズが同程度の恐竜の卵で報告されている形態的特徴とは一致しません。現生の鱗竜類259種と外群の形質に関する系統発生学的解析により、この新たに発見された卵を産んだのは全長が少なくとも7 mある個体だったと示唆され、この個体は、これまで全クレードが胎生だと考えられてきた巨大海生爬虫類と仮定されました。比較的薄い卵殻を有するこうした大型の卵は、体形に関連した派生的制約・巨大化と関連する生殖投資・鱗竜類の胎生(「痕跡的な」卵が直ちに孵化します)を反映するものと考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2および引用3)です。


古生物学:柔らかい殻の卵の進化を示す「硬い」証拠

 羊膜類の卵の進化に関する新たな手掛かりをもたらした2つの研究について報告する論文が、今週、Nature に掲載される。Mark Norellたちの論文では、最初の恐竜が柔らかい殻の卵を産んだという見方が示されており、この見解は、恐竜類が硬い殻の卵を産んだとする一般的な見解と相いれない。一方Julia Clarkeたちの論文では、南極大陸で初めて発見された化石卵である柔らかい殻の大型の卵について記述されている。

 羊膜類は、鳥類、哺乳類、爬虫類を含む分類群で、胚の乾燥を防ぐ働きをする内膜(羊膜)を持つ卵を産む。羊膜類の中には、トカゲ類やカメ類のように殻の柔らかい卵を産むものもあれば、鳥類のように強く石灰化した硬い殻の卵を産むものもある。こうした多様性は、さまざまな進化の軌跡を示している。石灰化卵は繁殖の成功に寄与し、その結果として羊膜類の生息地の拡大と多様化に寄与した可能性が高いため、環境ストレスに対する防御を高める石灰化卵の進化は、羊膜類の歴史上の節目を表している。しかし、柔らかい殻の卵が化石記録に残されることはまれであり、そのため柔らかい殻から硬い殻への移行を研究することは難しい。

 Norellたちは、プロトケラトプスとムスサウルスという2つの恐竜種の胚を含む化石卵を調べ、その殻が柔らかかったことを明らかにした。Norellたちは、恐竜類では、硬い殻の石灰化卵は少なくとも3回独立して進化しており、祖先種の柔らかい殻の卵から進化した可能性が非常に高いという見解を示している。現生爬虫類の一部と同じように、柔らかい殻の卵が水分を含んだ土や砂の中に産み付けられ、植物物質の分解過程で生じる熱によって孵化した可能性が高い。

 一方、Clarkeたちは、南極大陸で約6600万年前の白亜紀の堆積物からほぼ完全な形で発掘された、フットボールサイズの柔らかい殻の化石卵について記述している。この化石卵は、これまでに報告された化石卵としては最大級のもので、マダガスカルで発見された絶滅した鳥類であるエピオルニスが産んだ卵に次いで2番目に大きい。その大きさと結晶性外層のない薄い殻は、「退化した」卵が母体内で成長して産卵直後に孵化するという、卵胎生の生活様式を示唆している。この化石卵は、新しいタクソンAntarcticoolithus bradyiに属するとされたが、この卵の母親は謎に包まれたままである。この点について、Clarkeたちは、モササウルスのような巨大な海生爬虫類が産卵した可能性があるという考えを示している。別の説明として同時掲載のNews & Views論文で示されているのは、この卵は恐竜が産んだというものだ。この仮説が提起されたのは、この化石卵の推定重量が鳥類と非鳥類型恐竜の最も大きな卵の重量に近く、鳥類と非鳥類型恐竜の両方の化石が南極大陸で見つかっているからだ。


古生物学:恐竜の最初の卵は軟らかかった

古生物学:恐竜の卵は最初は軟らかかった

 これまでに調べられた恐竜の卵は全て、現在のワニ類や鳥類と同様に硬い殻を有していた。しかし、翼竜や他の一部の爬虫類では、卵殻が軟らかかったことが分かっている。今回M Norellたちは、モンゴルで発見されたプロトケラトプス(Protoceratops)とアルゼンチンで発見されたムスサウルス(Mussaurus)という、地理的にも系統発生学的にも大きく異なる2種類の恐竜の卵について調べ、それらの殻が共に軟らかかったことを示している。これによって、恐竜の硬い殻の卵は少なくとも3回にわたって別々に進化したことが示唆された。


古生物学:南極で発見された後期白亜紀の巨大な軟らかい殻の卵

古生物学:南極で見つかった白亜紀の巨大な卵

 南極の白亜紀堆積物から出土した卵の化石は、長さが20 cmを超え、体積は既知の全ての非鳥類型恐竜の卵より大きい。これよりも大きな卵はエピオルニス(Aepyornis)のものしか知られておらず、エピオルニスの卵は今回発見された謎の卵よりサイズがわずかに大きいが、殻の厚さは約5倍ある。今回L LegendreとJ Clarkeたちは、この軟らかい殻の卵が、モササウルスのような巨大な海生爬虫類のものであると示唆しているが、恐竜など他の動物のものである可能性も排除していない。



参考文献:
Legendre LJ. et al.(2020): TA giant soft-shelled egg from the Late Cretaceous of Antarctica. Nature, 583, 7816, 411–414.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2377-7

Norell MA. et al.(2020): The first dinosaur egg was soft. Nature, 583, 7816, 406–410.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2412-8

異なる地球と月の酸素同位体組成の継承

 地球と月の酸素同位体組成に関する研究(Cano et al., 2020)が公表されました。巨大衝突仮説では、月は初期地球とテイアと呼ばれる原始惑星との巨大衝突の後の残骸から形成された、と示唆されています。地球と月は地球化学的に似ており、アポロ計画により月から持ち帰られた試料は、ほぼ同一の酸素同位体組成を示しています。巨大衝突仮説は、地球と月の地球化学的類似性の多くを説明できますが、酸素同位体組成が極めて似ていることをこのシナリオと調和させることは困難でした。2つの天体は、初めから酸素同位体の同一の組成を持っていたか、衝突の直後に2つの天体の酸素同位体が完全に混合したかですが、前者の可能性は低く、後者はシミュレーションでのモデル化が困難でした。

 この研究は、一連の月の試料について、酸素同位体組成の高精度測定を行ないました。その結果、測定した石の種類により酸素同位体組成が違う、と明らかになりました。これは、衝突後に溶けた月と、蒸発してできた大気との間の混合の度合いによる可能性を示唆します。月のマントル深部から得られた試料の酸素同位体は、地球の酸素同位体と最も異なっていました。この研究は、月のマントル深部では混合が最も少なく、衝突したテイアを最も表している可能性がある、と示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


地球科学:地球と月の酸素同位体組成は異なる

 地球と月の酸素同位体組成は、同一ではなく明確に異なっていることを示した論文が、Nature Geoscience に掲載される。今回の知見は、月の形成に関する現在の理解に疑問を投げ掛ける可能性がある。

 巨大衝突仮説は、月は、初期地球とテイアと呼ばれる原始惑星との巨大衝突の後の残骸から形成されたことを示唆している。地球と月は地球化学的に似ており、アポロ計画により月から持ち帰られた試料は、ほぼ同一の酸素同位体組成を示している。巨大衝突仮説は、地球と月の地球化学的類似性の多くを説明できるが、酸素同位体組成が極めて似ていることをこのシナリオと調和させることは難しかった。2つの天体は、初めから酸素同位体の同一の組成を持っていたか、衝突の直後に2つの天体の酸素同位体が完全に混合したとするかであるが、前者の可能性は低く、後者はシミュレーションでモデル化することが困難であった。

 今回、Erick Canoたちは、一連の月の試料について、酸素同位体組成の高精度測定を行った。その結果、測定した石の種類によって、酸素同位体組成が違うことが分かった。これは、衝突の後に溶けた月と、蒸発してできた大気との間の混合の度合いによる可能性がある。月のマントル深部から得られた試料の酸素同位体は、地球の酸素同位体と最も異なっていた。著者たちは、月のマントル深部は混合が最も少なく、衝突したテイアを最も表している可能性があると示唆している。



参考文献:
Cano EJ, Sharp ZD, and Shearer CK.(2020): Distinct oxygen isotope compositions of the Earth and Moon. Nature Geoscience, 13, 4, 270–274.
https://doi.org/10.1038/s41561-020-0550-0

イギリスにおける血液型への関心

 イギリスにおける血液型への関心について報道されました。イギリスの成人に血液型を尋ねたところ、「知らない」という回答が55%だった、とのことです。どの血液型なのか明示されていないのですが、ABO式血液型が発見された経緯に触れられているので、おそらくはABO式血液型なのでしょう。とくに若い世代で知らない割合が高く、18~24歳では81%で、25~49歳でも60%が知らなかったそうです。今では輸血前に必ず検査する、と聞いたのは随分前なので、若い世代が自分のABO式血液型を知らないのも当然で、検索してみたところ、日本では現在、子供のABO式血液型の検査はやらないそうです。私は小学1年生の時にABO式血液型の検査を受けた、と記憶しています。イギリスの事情は知りませんが、おそらく同様なのでしょう。

 ただ、随分前になりますが、ABO式血液型への関心が高いのは世界でも日本を含めて漢字文化圏の一部だけと聞いたこともあるので、イギリスでは25~49歳で40%も自分のABO式血液型を知っているのは、やや意外でもありました。かつてはイギリスでも、子供の頃にABO式血液型の検査が行なわれ、本人に通知されていたのでしょうか。おそらく今後、日本やイギリスに限らず世界全体で、自分のABO式血液型を知らない人が増えていくのでしょう。

 これは、日本に関してはたいへん歓迎すべきと思います。20世紀の頃から感じ続けてきたことですが、日本社会におけるABO式血液型への関心の高さは明らかに不健全です。血液型の種類は多くあるのに、ABO式血液型への関心が突出して高いのは、やはりABO式血液型と性格(気質)を結びつける見解が浸透しているからでしょう。ABO式血液型で*型なので**のような性格だ、といった与太話が現代日本社会ではありふれています。これは「ABO式血液型ハラスメント」と言うべきであり、現代日本社会において改善すべき欠陥・恥部の一つでしょう。今では日本社会でも子供のABO式血液型は調べられていないそうですから、日本でも今後ABO式血液型への関心が低下していくのではないか、と期待されます。

 しかし、これはあまりにも楽観的かもしれません。今でも個人紹介でABO式血液型を明示することは少なくないわけで、若い人の多い(というか殆どの)女性アイドルグループの中で、1番人気(らしい)乃木坂46の公式サイトを閲覧したら、生年月日・星座(生年月日から星座が分かるので不要なように思いますが)・身長とともに、血液型が明示されていました。個人情報の中でもとくに秘匿性を高くすべき遺伝情報を明示することは、私の感覚では、奴隷制や優生学を堂々と肯定的に主張するほどではないとしても、現代においては論外です。これでは、今後も日本でABO式血液型信仰とでも言うべきものが残っていくのではないか、と懸念されます。

 世界でもABO式血液型への関心が高いのは漢字文化圏の一部だけ、との言説の傍証になりそうなのは、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のABO式血液型に関する研究で、現代人と近縁な絶滅ホモ属(古代型ホモ属)であるネアンデルタール人とデニソワ人のABO式血液型関連遺伝子はほとんど注目されてこなかった、と指摘されていたことです(関連記事)。古代型ホモ属の遺伝的研究は盛んですが、その研究の中心地はヨーロッパとアメリカ合衆国で、ヨーロッパ系の研究者が多いため、ABO式血液型遺伝子はほとんど注目されてこなかったのではないか、と思います。一方、古代DNA研究でも、日本人研究者が中心だったためと言えるのか、自信はありませんが、北海道の「縄文人」のDNA研究では、ABO式血液型関連遺伝子について言及されています(関連記事)。

ジャワ島のホモ・エレクトスに関するまとめ(3)

 ジャワ島のホモ・エレクトス(Homo erectus)に関しては、2014年(関連記事)と2018年(関連記事)にまとめました。その後、エレクトスに関する重要な研究が多く公表されていますが、当ブログではわずかしか取り上げられていません。しかし、少しずつまとめないと大変なので、ここで一度まとめることにします。今回は、基本的にはジャワ島のエレクトスを対象としつつ、他地域の広義のエレクトスについても少し言及します。

 ジャワ島のエレクトスに関する新たな基本的情報としては、年代の見直しがあります。ジャワ島におけるエレクトスの出現年代は、サンギラン(Sangiran)遺跡の人類遺骸に基づき、アルゴン-アルゴン法により150万年以上前と推定されていました(関連記事)。しかし、今年(2020年)公表された研究では、サンギラン遺跡における最初の人類の出現は、フィッショントラック法とウラン-鉛年代測定法により、127万年前頃もしくは145万年前頃以降、と推定されています(関連記事)。

 サンギラン遺跡のエレクトス遺骸は、形態学的にバパン(Bapang)層とその下のより古いサンギラン層で区分されます。サンギラン層の個体群はひじょうに多様で、アフリカの170万~140万年前頃のエレクトスもしくはエルガスター(Homo ergaster)と類似した比較的祖先的な特徴を示します。バパン層の個体群は比較的派生的で、アジア東部の中期更新世のエレクトスに匹敵する、より大きな神経頭蓋と縮小した歯顎を有しています。この変化は、気候変動によりジャワ島のエレクトス集団内で起きたとも、アフリカから東進してきたか、アジア東部から南下してきた(広義の)エレクトス集団の影響によるものとも考えられます。

 もっとも、これはあくまでもサンギラン遺跡のエレクトスの推定年代なので、ジャワ島の他の遺跡でもっと古いエレクトス遺骸が確認される可能性もあります。また、中国北部の陝西省藍田県(Lantian County)公王嶺(Gongwangling)近くの尚晨(Shangchen)で発見された石器群の年代は212万年前頃までさかのぼる、と推定されています(関連記事)。広義のホモ・エレクトスがアフリカ南部において200万年前頃までさかのぼること(関連記事)から、ジャワ島で200万年前頃に広義のホモ・エレクトス、もしくはエレクトスの祖先ときわめて近縁なホモ属が存在していたとしても不思議ではないかもしれません。

 ただ、中国北部の212万年前頃の人類が、広義のホモ・エレクトス、もしくはエレクトスの祖先ときわめて近縁なホモ属だとしても、アフリカからユーラシア南部を東進して、現在のミャンマーとラオスとベトナムを通って中国を北上したのだとすると、ジャワ島(もしくはスンダランド)には、200万年以上前には人類が存在しなかったかもしれません。また、中国北部の212万年前頃の人類が、温暖な時期のユーラシア中緯度草原地帯を東進してきた可能性も考えられ、その場合もジャワ島まで拡散しなかった可能性があります。

 ジャワ島における最後のエレクトスの年代については、以前から大きく異なる見解が提示され、議論されてきましたが、昨年公表された研究では、ンガンドン(Ngandong)遺跡の最後のエレクトス遺骸の年代が、117000~108000年前頃と推定されています(関連記事)。物相の分析から、ンガンドン一帯は13万年前頃に、エレクトスの起源地であるアフリカのサバンナと類似した、開けた森林が点在する草原地帯から、熱帯雨林へと変わっていきます。そのため、ジャワ島のエレクトスは適応できずに絶滅したかもしれません。もちろん、ジャワ島の近隣のフローレス島において、ジャワ島のエレクトスの子孫と考えられるホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が5万年前頃まで存在していたこと(関連記事)や、ルソン島における67000~50000年以上前の新種ホモ属ルゾネンシス(Homo luzonensis)の存在(関連記事)からも、ジャワ島において10万年前頃もエレクトスが存在していた可能性も想定されます。

 近年、現生人類(Homo sapiens)だけではなく、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のような非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)のDNA研究が盛んですが、ジャワ島のエレクトスのDNA解析は、10万年以上前という年代と低緯度に位置するジャワ島の地理からして、ほぼ不可能でしょう。そこで注目されるのが、タンパク質解析から遺伝情報を得る手法です(関連記事)。これは、DNA解析よりも時空間的に適用範囲がずっと広く、人類史におけるジャワ島のエレクトスの系統的位置づけの、有力な根拠となるかもしれません。ただ、古代型ホモ属のタンパク質配列をかなり容易に推定できたのは、すでにゲノム配列の得られている現生人類とネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)が対象だったからで、ゲノム配列の得られていない人類に関しては、タンパク質配列は困難となります。そのため、エレクトス標本からタンパク質の配列を決定できても、現生人類や他のホモ属との関係について判断できるほどの充分な情報は得られないかもしれません。

 しかし、まだDNAが解析されていない、スペイン北部で発見された949000~772000年前頃のホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)遺骸でも、タンパク質解析に成功しており、アンテセッサーは現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の最終共通祖先ときわめて近縁な姉妹系統と推測されます(関連記事)。その意味では、ジャワ島のエレクトス遺骸のタンパク質解析も期待できそうです。ただ、ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡の177万年前頃の人類遺骸のタンパク質も解析されたものの、平均的なペプチドの長さが短く、中程度の解像度しか得られず、特有の分離した単一アミノ酸多型が欠如しているため、アンテセッサーも含めての系統樹には明確に位置づけられず、ジャワ島のエレクトス遺骸のタンパク質解析は容易ではないかもしれません。なお、ドマニシ遺跡の177万年前頃の人類広義のホモ・エレクトス(Homo erectus)とも、新種のホモ・ゲオルギクス(Homo georgicus)とも分類されています。

 もっとも、人類ではありませんが、190万±20万年前と推定されている大型類人猿(ヒト科)のギガントピテクス・ブラッキー(Gigantopithecus blacki)では、中国南部の亜熱帯地域で発見されたにも関わらず、タンパク質解析に成功しています(関連記事)。ギガントピテクス・ブラッキーよりも低緯度地域となるものの、それよりも新しいジャワ島のエレクトス遺骸に関しては、今後タンパク質解析を期待してもよいのではないか、と思います。さらに、後期更新世のアジア南東部のホモ属で、その系統関係について議論が続いている、フロレシエンシスやルゾネンシスのタンパク質解析も期待されます。フロレシエンシスとルゾネンシスがジャワ島のエレクトスの子孫なのかどうか、またジャワ島の新旧のエレクトスが祖先・子孫関係にあるのか、といった問題もタンパク質解析により解決されるかもしれません。

 エレクトスの性的二形については、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)並に大きかった、との見解もあり(関連記事)、今年公表されたアフリカ東部のエレクトスに関する研究でも、エレクトスの性的二形は顕著に大きかった、と指摘されています(関連記事)。ただ、足跡に関する昨年の研究では、エレクトスの性的二形はゴリラのように顕著に強くはないものの、現代人よりはやや強く、エレクトスの性的二形の大きさは、ドマニシ遺跡の177万年前頃の小柄なホモ属化石を含めてしまったことが原因だろう、と指摘されています(関連記事)。エレクトスの性的二形については、標本数の少なさのため評価が難しく、今後も議論が続いていきそうですが、現代人より大きかった可能性は高そうです。

ネアンデルタール人と現生人類における儀式の進化的起源

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)における儀式の進化的起源に関する研究(Nielsen et al., 2020)が公表されました。現代人の生活は、誕生日にケーキの蝋燭の火を吹き消すという世俗的な行為から、イスラム教の礼拝など明らかに宗教的な行為まで、儀式で満たされています。儀式はその遍在性と埋め込み性のため、可視的な場合と不可視的な場合があり、一過性のことも深遠なこともあります。現在、儀式はさまざまな目的を果たしており、たとえば、協力的な集団の形成、信頼機能の提供、個人もしくは集団の不安軽減、文化的知識の早期と伝達などです。現代人の儀式が遍在しているように見える一方で、ホモ属の進化史において儀式がこれらの役割を果たし始めた時期は不明です。本論文は、儀式化された行動の共通遺産の範囲を調べる第一段階として、現代人の近縁系統であるネアンデルタール人の儀式的行動の事例を再調査します。


●ネアンデルタール人の分化

 ネアンデルタール人と現生人類の推定分岐年代については、かなりの幅がありますが(関連記事)、大まかには80万~50万年前頃に収まりそうです。現代人の認知能力と行動の起源の解明について、最近縁とも言えるネアンデルタール人の研究が有用と考えられます。そこで本論文は、まずネアンデルタール人の社会的および認知的性向について現在の知見を整理します。ネアンデルタール人の起源については議論がありますが、形態学的にも遺伝学的にも、40万年以上前からヨーロッパに存在していた、と考えて大過なさそうです(関連記事)。ネアンデルタール人は中東にも拡散し、中東では5万年前頃(関連記事)、ヨーロッパでは4万年前頃(関連記事)まで存在しました。

 ネアンデルタール人はさまざまな遊動戦略を採用し、その石器技術は祖先が用いたアシューリアン(Acheulian)石器群よりも多様で、時には特定の用途に適した石器も製作しました。またネアンデルタール人は、動物の骨(関連記事)や爪(関連記事)・木材(関連記事)・貝殻(関連記事)・接着剤(関連記事)などによる、複合技術も用いていました。ネアンデルタール人の狩猟戦略も複雑で、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3となるピレネー山脈のフランス側にあるモーラン(Mauran)遺跡では、ネアンデルタール人が誘導的なバイソンを自然の地理的罠に追い込み、大量に屠殺して消費していた、と推測されています。モーラン遺跡は数百年にわたって使用されており、適応的な文化的知識の伝達と、集団的意図の理解を通じての、専門的な地域固有の技術の維持が示唆されます。

 ネアンデルタール人の両面加工石器伝統では地域間変異が見られ、同様に世代間の文化的知識の伝達が示唆され、ムステリアン(Mousterian)の技術的連続性はユーラシア中部旧石器時代の特徴です。この技術的安定性は、同年代の現生人類との比較で議論となっています。最近の研究では、ネアンデルタール人の社会学習において多くの実験作業なしの高忠実度の模倣が主流であることにより、技術的安定性を説明できるかもしれない、と提案されています。ネアンデルタール人はさまざまな環境に住む専門の狩猟採集民で、何万年にもわたって文化的知識を伝達しました。しかし、現代人に見られるような儀式がネアンデルタール人にあったのか、議論が続いています。


●儀式と儀式的行動

 本論文はネアンデルタール人の儀式について検証するにあたって、「儀式」と「儀式的行動」とを区別し、現在の基準と定義を適用することの難しさを指摘します。儀式は、(1)厳格さと形式性と反復により特徴づけられ、(2)それは象徴性と意図のより大きな体系に埋め込まれており、(3)直接的に役立つ目的を欠く要素を含みます。要素2には、関連するある程度の継続性と共有される知識および規範性が必ず要求されます。「儀式的行動」はおもに要素1および3の行動構成です。これは反復的で冗長であり、しばしば厳格もしくは形式的に遂行され、因果的に不明瞭で目的が降格されます。儀式的行動は多くの場合、より大きな儀式の要素ですが、儀式とは異なり、象徴的に貧しい文脈で存在する可能性があります。

 因果的に不明瞭で目的が降格されることは、要素3と結びつきます。因果的に不明瞭な行動は、行動と結果の間の因果関係が観察者にとって識別しにくいものです。たとえば、水の温度を上げるため、火の上で水を加熱することは因果的に明白ですが、電子レンジでの加熱は(物理学的に説明可能ではあるものの、多くの人にとって直観的には)因果的に不明瞭です。現生人類の儀式は復元不可能なほど因果的に不明瞭で、儀式の因果関係は単に不明なだけではなく、じっさい知ることはできません。その典型例が執り成しの祈りで、これがどのように因果的に意思伝達の経路を促進するのか、なぜ他の行動よりも優れているのか、知られていないだけではなく、そのような答えは不可知です。目的の降格とは、行動を遂行する代理人の動機と目標を直観的に理解するうえで、単純な観察者が要求される程度です。たとえば、暗い部屋で蝋燭を灯すことの目的は明らかですが、暗くない部屋で蝋燭を灯すことは、文脈なしでは理解しにくい目的の降格です。

 本論文はさらに、個人主義的な儀式的行動と集団的な儀式的行動を区別します。前者は(ある程度)他の手段となる目的から解放された行動ですが、後者は、形式的・模範的・様式化されるように拡張されます。個人の場合、特異な個人主義的行動は誤った因果的信念を通じて発生する可能性があります。パンツの着用には有用性がありますが、幸運を願って特定の組み合わせでパンツを着用することは儀式的です。そのような信念は正しかったり、共有されたり、もしくは象徴的だったりする必要はなく、単に遂行が必要なだけです。同様に、強迫性障害に特徴的な反復性や形式性や義務的行動は、個人主義的な儀式的行動とみなされます。これらは儀式的ですが、「共有」および象徴性を欠いています。重要なのは、個人の儀式が集団の儀式から独立しているか、それと対立している必要はない、ということです。手段となる目的に役立つよう展開された個人主義的儀式は、集団的儀式および象徴主義と共存している、と考えられます。個人の儀式的行動は集団的儀式の必要な前兆と考えられます。


●ネアンデルタール人の儀式の証拠

 集団的な儀式的行動の証拠を探す場合、死に関連する行動が出発点として適しています。最近の研究では、霊長類の多様な種において、さまざまな死に関連する行動が報告されており、大きくは、死体の運搬・引きずり、個体もしくは集団としての死体の防御、「警戒」と明らかな悲嘆、に3区分されます。しかし非ヒト霊長類では、死者の扱い、悲しみ、慰め、その他の象徴的行動に関して、現生人類の基準に達しておらず、たとえば、悲嘆する集団構成員を慰めるような行動はほとんど観察されていません。全てではないにしても多くの場合、非ヒト霊長類のそうした行動は集団的な儀式的行動でなく、個人的な儀式的行動です。問題は、ネアンデルタール人の死に関連する行動はどうだったのか、ということです。

 死者を処置する儀式は現生人類の体験の重要部分で、意図的な埋葬は儀式の存在に関する最も明確な考古学的証拠を提供します。ホモ属における意図的な死者の埋葬はイベリア半島北部で40万年前頃までさかのぼるかもしれませんが(関連記事)、明確な証拠は過去15万年間でのみ得られています。議論の余地のない埋葬の最初期の事例はネアンデルタール人で見られます。これらの埋葬は通常、人類が住んでいる洞窟もしくは岩陰遺跡で見られ、死者への愛着と、死後も肉体的にも比喩的にも近くにいて安全でありたいという願望を反映している、と示唆されます。たとえば、フランス西部ドルドーニュ(Dordogne)県のラフェラシー(La Ferrassie)遺跡では、胎児と子供がおそらくは副葬品の石器とともに埋葬されていました。

 閉鎖的な場所に死者を埋葬することへの明らかな選好は、単に標本抽出の偏りを反映している可能性があります。しかし、ネアンデルタール人の遺跡では複数の収容が繰り返し行なわれ、クロアチアのクラピナ(Krapina)遺跡などでは20人以上の場合もあることから、ネアンデルタール人の埋葬は、特定の場合、少なくとも繰り返された規範的慣行だった、と示唆されます。これらの遺跡の被葬者は他の遺跡よりもずっと多く、ネアンデルタール人にとって何らかの意味があった可能性を示唆します。クラピナ遺跡では、ネアンデルタール人の被葬者に頭蓋の異常な切開が見られ、死者を儀式的に扱った証拠になる可能性が指摘されています。さらに、ラフェラシー遺跡などネアンデルタール人の埋葬において、副葬品もしくは墓標の存在の可能性が指摘されています。ネアンデルタール人の埋葬儀式に関しては議論が続いていますが、たとえ儀式がネアンデルタール人の埋葬の特徴ではなかったとしても、なぜ死体を閉じ込めておくのかという因果的不明瞭と、同じ洞窟を繰り返し利用する規範的行動を含む、何らかの社会認知的基盤があったようです。

 ネアンデルタール人における儀式の証拠となるかもしれないのが、鉱物顔料の広範な使用記録です。ネアンデルタール人は身体に赤と黒の顔料を使用したのではないか、と長く議論されてきましたが、ネアンデルタール人の装飾の証拠は急速に増加しており、猛禽類の爪(関連記事)や貝殻(関連記事)を装飾品として用い、その貝殻が顔料で着色されていたのではないか、と指摘されています。身体の装飾は間違いなく象徴的で、儀式的行動を含んでいた可能性があります。また、まだ議論はありますが、イベリア半島の洞窟壁画がネアンデルタール人の所産である可能性も指摘されています(関連記事)。ただ、ネアンデルタール人が洞窟壁画を残していたとしても、現生人類の事例とは異なり孤立的で、まだ具象的な絵は確認されていません。ネアンデルタール人における集団的な儀式的行動は、集団的儀式は回復できないほど因果的に不明瞭かもしれない、という定義を受け入れた場合は、とくに理解しにくくなります。


●文化伝達の儀式化

 ネアンデルタール人の石器技術は、先行集団より優れていて革新的なところも示しながら、数万年、あるいは数十万年、重大な要素に大きな変更はなく、物質文化が維持されました。この安定性をもたらした一方で、技術革新の欠如につながった特徴が問題となり、それはネアンデルタール人の生存戦略の一部として文化的知識の伝達に組み込まれた、儀式的行動の利用が一因だったかもしれません。新しい技術や行動を学ぶ時、長い試行錯誤を試みることができます。現代人はこれを行なわない傾向があり、むしろ他者を観察して模倣します。乳幼児は生後半年から、この方法で新たな物をどう使うのか学ぶことができます。2歳までに、他人を観察することによる学習は、子供が明らかに因果関係のない行動を模倣するまで強化され、過剰模倣として知られるようになります。

 過剰模倣の基礎については、アシューリアンの石器製作法にある、との見解も提示されています。重要なのは、アシューリアン石器の製作の多くの側面には、結果が意図した結果から隠れている、および/あるいは意図した結果に関連して結果が反直観的であるような過程が含まれる、ということです。たとえば両面加工石器の製作にさいして、原石の一方の表面から削るさいに、反対側の表面を叩く必要があります。これは、行動の意図を目的の降格とする可能性が高く、少なくともある程度は因果的に不明瞭とします。この技術的過程の普及が、個人主義的で独立した技術革新もしくは社会的学習の他の過程において達成されたことは、ほとんどあり得ません。

 過剰模倣は、現生人類の子供であれ絶滅人類であれ、心が儀式に従事するための社会的および認知的準備を示す最も説得的な方法である、とみなされつつあります。過剰模倣では、モデル化された一連の行動に、因果関係のない行動や、未知もしくは利用不可能な意図の推論が含まれます。しかし、いくつかの違いもあります。最も一般的には、過剰模倣では、焦点は外部の対象であり、実施者と単一の観察者のみが含まれますが、儀式的行動は常に対象を含むとは限らず、しばしば集団識別と集団結合の助けで遂行されますが、そうした行動は定義上、物質記録を残しません。しかし、過剰模倣では、因果的不明瞭と目的の降格が相乗的に機能して特有の指標を生成します。これは、特定の行動が儀式であり、これらの特徴を共有しない行動と比較して、著しく高い頻度で再現されるよう導かれる、と示唆します。

 じっさい、儀式的行動は模倣的な反応を生む傾向があり、現生人類の子供と成人は、行動のある側面を完全に機能的に余分だと認識してさえも、手順全体を模倣する傾向があります。ネアンデルタール人の用いたルヴァロワ(Levallois)技術は、ほとんどのアシューリアン石器系列よりも、階層的に削除された段階と連鎖を含むので、因果的不明瞭を克服する必要性がさらに顕著となります。これが示唆するのは、ネアンデルタール人はその出現時までに、文化的伝達(現代人にとって最も可視的なのは石器技術です)のいくつかの側面の過剰模倣者で、儀式的行動に従事できた、ということです。

 重要なのは、石器製作で採用された過剰模倣行動は因果的に不明瞭で、最初は未知であるものの、最終的には認識できる、ということです。つまり、大規模な関与と制作過程の忠実な繰り返しを通じて、余分な行動を特定できる可能性があります。石器技術の場合、現代の専門家は、階層構造において最終的な目標から行動の意図を明示的に示せます。この意味で、儀式的行動は回復できないほど因果的に不明瞭ではなく、ネアンデルタール人と現生人類の儀式的行動の区別の要点として役立つかもしれません。ともかく、個人主義的な儀式的行動への関与が増加するにつれて、それらを集団的な儀式的行動へと変換するための足場があります。ここで、子供たちは批判的になります。

 現生人類と比較して、ネアンデルタール人の学童期(juvenile)が相対的にも絶対的にも短かったとすると、成人生活に必要な技術と社会的技能を学ぶことは、探索的で経験に基づく学習というよりはむしろ、年長者の模倣による既存の知識を習得するような、直接的な指導的学習の採用だったかもしれません。現生人類の子供と同様に、ネアンデルタール人の新生児は脆弱な状態で生まれ、成熟するにつれて脳が著しく成長しました。全体的に、旧石器時代の学童期の現生人類は、より死亡率の高かった学童期のネアンデルタール人よりもストレスは少なかったようです。成人までの成長率について、ネアンデルタール人と現生人類とで有意な差があったのか、議論が続いていますが、ネアンデルタール人の生物学的および認知的成長のパターンは、同時代および後の現生人類と微妙に違っていたようです。

 比較的短い子供期とより速い成長率の重要性は、習得する文化的情報の「量」の少なさを示唆することです。現生人類では8歳まで子供期が続き、その後で学童期が4年ほど続きます。ちなみに、チンパンジーは7歳で学童期から思春期へと移行します。誕生してからの7年間で、チンパンジーは文化的情報を学べますが、木の実を割ったり白アリを釣ったりする技術といった、比較的単純で適応的な功利主義的行動の習得には制約があります。ネアンデルタール人と比較して現生人類の成長率が低かったとしたら、もっと多くて多様で社会的な情報を習得できます。空想的な遊びは、成人期における儀式の不明瞭な因果関係を理解するカギとなる構成要素になるかもしれません。

 また空想的な遊びは、別の重要な役割を担っているかもしれません。小脳と頭頂葉と前頭葉の間には深い神経接続があり、それは小脳が創造的思考の過程に役立つかもしれないと示唆されている相互接続性で、空想的な遊びの認知的な前提条件です。ネアンデルタール人と現生人類の脳の違いは、現生人類が比較的大きな頭頂葉と、とくに大きな小脳(関連記事)を持っていることです。この脳構造の違いのため、ネアンデルタール人が対象と行動に重点を置くことで実際的な状況の認知的管理の経験に豊富だった一方で、現生人類は細部への注意は劣っていたものの、創造的解決の発達と必要に応じて行動を可塑的に修正することにより長けていた、との見解も提示されています。対象とのより機能的な関与からより創造的な関与への移行は、象徴的思考拡大への道を開く可能性があり、成人期における儀式不明瞭な因果関係を理解するために重要になるかもしれません。

 また現生人類は種として、経験が広く共有され、時として拡散するような、巨大な社会的ネットワークを維持することにより、大規模な文化的総体を維持してきたようです。一方、ネアンデルタール人集団は、その後の上部旧石器時代の現生人類よりも小規模で、広く分散していた、と主張されています。文化的総体を維持するための考えられる一つの解決策は、因果的に不明瞭で目的の降格を伴うような儀式的行動を用いる、重要な生活技術の教授の強化だったかもしれません。それはネアンデルタール人の社会的背景において、それ自体より信頼出来る、と証明したかもしれません。儀式的行動を対応する情報とともに埋め込むことにより、個人はそれが与えられた権威に疑問を抱く可能性が低くなります。ネアンデルタール人の子供たちは、この仮定の下で、両親や他の共同体構成員により獲得された知識の忠実なコピーを受け取っていたかもしれません。現代の証拠が当てはまるならば、儀式的行動は過剰模倣反応を引き起こす傾向があり、それ自体がより忘れられないものとなり、技術革新と変化を抑制するかもしれないので、この解釈は効率的な解決を表しているでしょう。

 現代人の子供は、所属が理由であれ、規範性への努力を満たすためであれ、おもに社会的動機を満足させるために過剰模倣する、というのが一般的見解です。本論文は、ネアンデルタール人が単に技術獲得の動機を満たすために過剰模倣したかもしれない、と推測します。この理由により、認知能力と対応する行動が機能的目的に役立つよう進化したので、儀式的行動がネアンデルタール人の間で存在したかもしれません。現生人類でのみ、これらの能力と行動が社会的目的に役立つよう選択されました。儀式的行動と集団的な儀式との間のこの変化は、明らかに因果的に不明瞭なものから、回復できないほど因果的に不明瞭なものへの移行を示す可能性が高そうです。じっさい、ネアンデルタール人よりも大きな現生人類の集団規模は、集団内の結束強化のため、より強い社会的動機の発達を必要としたかもしれません。

 とくに、儀式的行動が、発達するだけではなく、検出可能な痕跡を残すような方法で維持されたならば、ここで関連する集団規模には別の側面があります。上述のように、ネアンデルタール人の集団規模は、ネアンデルタール人の分布域全体で現生人類よりも小さかったかもしれません。この人口密度の低さは、ネアンデルタール人の儀式の証拠が薄いことを説明できるかもしれません。儀式が考古学的記録で検出可能であるためには、個人的であれ集団的であれ、行動の特定の区分に従事する個体がいるじゅうぶんに大きな人口規模か、もしくは通時的に行なわれる充分に大規模な数を必要とします。歴史的文脈では推論的ですが、特定の行動に従事する個人がより多いと、その行動が伝わる可能性も高くなるかもしれません。これにより、記録を残すかもしれない事例がより多くなるだけではありません。それは損失に対する予防として機能するため、自律的です。何かを実践する共同体の構成員が多いほど、壊滅的事象に直面してその行動が失われる可能性は低くなるでしょう。ネアンデルタール人は儀式的動物であり、個人的な儀式的行動が可能でしたが、世界観の象徴性を共有するという意味で集団的ではなく、考古学的記録にそうした行動の信頼できる痕跡が残るほどには、各共同体で儀式的行動は充分ではなかった、というのが本論文の主張です。


●まとめ

 現生人類と比較的近い年代で最終共通祖先を有するネアンデルタール人は、協力的で社会的で知的で道具を使う種であり、過剰模倣の傾向を示した可能性が高く、儀式的行動と関連した認知能力を有していた、と示唆されます。しかし、象徴的行動と信念のより大きく共有された複合としての儀式が、ネアンデルタール人において特徴づけられていたという証拠は、広範にあるわけでも説得的でもありません。上述のように、ネアンデルタール人の考古学的記録における象徴的物質文化に関する儀式の証拠はありませんが、ネアンデルタール人の複雑な石器技術内における長期の継続性は、ネアンデルタール人の儀式的行動が、同時代および現代の現生人類とは代替的な方法で用いられていたことを示唆します。ネアンデルタール人の儀式および儀式的行動の利用は、比較的短い子供期と比較的小さな社会的集団という条件下で、世代間の技術的知識の忠実な伝達の強化に焦点が当てられていた可能性が高そうです。

 現生人類では、儀式は最初に類似の方法で機能しましたが、認知における小脳の強化された役割に支えられ、後には広範で拡散した社会的ネットワークの強化に適していました。そのような解釈は、ホモ属における儀式が、「一つの規模で全てに当てはまる」行動ではなく、種を超えてさまざまに形成される、もしくは適用されるような社会的技術だったことを示唆します。したがって、ネアンデルタール人における文化的儀式が、心理学的および人類学的理解に対応する集団的儀式との主張は過大かもしれませんが、心理学的および人類学的定義にも対応する儀式的行動のより正確な特徴づけは、より有益で容易に弁護されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、ネアンデルタール人と現生人類との比較から、儀式が世代間の技術的知識の忠実な伝達の強化として発達してきた可能性を指摘します。さらに本論文は、ネアンデルタール人と現生人類には成長速度や脳の構造で微妙な違いがあり、それが現生人類においてのみ、そうした能力と行動が社会的目的に役立つよう選択された、と推測します。ただ、ネアンデルタール人と現生人類の成長速度に有意な違いがあったのか、まだ確定したとは言えないでしょうし、5万年以上前の儀式的行動と関連しそうな考古学的記録からは、ネアンデルタール人と現生人類とで大きな違いがあると言えるのか、疑問も残ります(関連記事)。その意味で、儀式的行動と関連しそうな考古学的記録におけるネアンデルタール人と現生人類との違いは、本論文で示唆されるような、何らかの生得的な違いではなく、人口密度など後天的な社会的背景に起因するのかもしれません。そうだとすると、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の段階で、現代人とさほど変わらないような、儀式を可能とする認知能力が備わっていたのかもしれません。

 ただ、ネアンデルタール人が、ネアンデルタール人と分岐した後の広義の現生人類系統と交雑し、後期ネアンデルタール人ではY染色体もミトコンドリアDNAも広義の現生人類系統に置換された、との最近有力になりつつある見解(関連記事)を踏まえると、現生人類と共通するように見えるネアンデルタール人の象徴的思考の前提となる認知能力は、あるいは広義の現生人類系統でのみ進化し、後期ネアンデルタール人にもたらされた可能性もあるように思います。じっさい、ギリシアで21万年前頃の現生人類的な頭蓋が発見されています(関連記事)。もちろん、これはまだ妄想にすぎないので、現生人類とネアンデルタール人も含めて、後期ホモ属の今後の研究の進展を注意深く追いかけていくつもりです。


参考文献:
Nielsen M. et al.(2020): Homo neanderthalensis and the evolutionary origins of ritual in Homo sapiens. Philosophical Transactions of the Royal Society B, 375, 1805, 20190424.
https://doi.org/10.1098/rstb.2019.0424

ヨーロッパ新石器時代における農耕拡大の速度と気候の関係

 ヨーロッパ新石器時代における農耕拡大の速度と気候の関係についての研究(Betti et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。近東では完新世初期に、ヒトの生存戦略が狩猟採集から農耕牧畜への依存度の高い生計へと大きく変わりました。この新石器時代の新たな生活様式により、人口密度の増加や長期的な定住など社会が大きく変わりました。紀元前7000年頃、農耕はヨーロッパへと拡大し、まず近東に近い南東部で出現しました。ヨーロッパにおける農耕拡大は、おおむね南東から北西へと進み、狩猟採集民による農耕採用というよりは、近東起源の農耕民集団のヨーロッパへの急速な拡散によるものでした。新石器時代ヨーロッパにおいて、農耕民と在来の狩猟採集民とは遺伝的に大きく異なり、農耕民はアナトリア半島の初期農耕民と遺伝的によく似ています。

 また、考古学的データの蓄積とともに、ヨーロッパにおける農耕拡大の速度に大きな地域差があることも明らかになってきました。放射性炭素年代測定法による結果から、とくに北海とバルト海に近づくと、農耕拡大が著しく減速する、と示唆されています。これに関しては、近東から一括して導入された作物がヨーロッパ北部の寒冷湿潤な気候では上手く育たなかった、といった説明が提示されています。また新石器時代において、アジア南西部やヨーロッパ南東部と比較して、ヨーロッパ中央部および北西部の穀類と豆類の種の多様性は顕著に低い、と報告されています。これに関しては文化的要因が指摘されていますが、気候条件も一因と考えられています。

 この減速の代替的な説明は、ヨーロッパ北部では中央部もしくは南部と比較して、狩猟採集民の人口密度が高かった、というものです。その要因として、ヨーロッパ北部沿岸環境では狩猟・漁撈・採集の信頼性が高く生産的だったから、と推測されています。在来の大規模な狩猟採集民共同体の存在は、農耕民集団の拡散を妨げたかもしれない、というわけです。また、ヨーロッパに農耕が拡大した後、南部と中央部で普及様式が変わり、在来の狩猟採集民集団が次第に重要な役割を果たようなす文化変容が伴った、との見解も提示されています。

 本論文は、ヨーロッパ全域の農耕牧畜の最初の到来年代の大規模なデータベースの作成と、古気候復元と関連する速度変化の分析により、ヨーロッパにおける農耕拡大の速度を促進する気候の役割を検証します。また本論文は、観察された気候要因パターンの文脈において、早期農耕民と在来の狩猟採集民との間の相互作用を定量化するため、古代DNAデータを合成して再分析します。

 本論文は、ヨーロッパ全域の1448ヶ所の新石器時代遺跡のデータベースを分析しました。その結果、拡大は均一ではなく、いくつかの主要軸に沿って進んだ、と明らかになりました。その主要軸とは、地中海沿岸を西進してイベリア半島へと到達する経路(地中海軸)、現在のドイツなどヨーロッパ中央部へと北西方向へ進みブリテン島へと到達する経路(中央軸)、ヨーロッパ中央部を北進してスカンジナビア半島へと到達する経路(スカンジナビア軸)、北東方向へ進みヨーロッパ東部から現在のロシア西北端へと到達する経路(北東軸)です。各軸に沿った経路では、当初は急速に拡張し、隣接地域への拡大は遅くなる傾向が見られます。当初の急速な拡大に続き、中央軸では紀元前6200年頃、スカンジナビア軸では紀元前5400年頃、北東軸では紀元前5700年頃に著しい拡大の減速が見られます。中央軸の減速は大西洋沿岸に到達する前に起きているので、イギリス海峡を渡る必要性の結果ではありません。一方、航海を含んでいただろう地中海軸では、イベリア半島大西洋沿岸に到達するまで減速は見られません。

 この農耕拡大速度データと気候データを組み合わせると、農耕拡大速度は5度に設定された有効積算温度(GDD5)と明確に対推しており、GDD5が2000未満で減速が発生しました。また夏の平均月間気温も、GDD5ほどではありませんが、減速と対応しており、16度を下回ると減速が発生します。対照的に、冬の平均気温や最も乾燥した月の降水量や年間平均気温などは、減速とは関連していませんでした。これらの知見は、減速の要因が、近東で最初に栽培化された種には不適切な気候条件の地域へと到達と関連している、という仮説を裏づけます。これは、地中海軸において減速が見られないことにも支持されます。

 次に本論文は、ヨーロッパにおいて近東起源の外来農耕民集団と在来の狩猟採集民集団との間の関係が、両集団間での混合の増加に伴って変化したのかどうか、調べました。公開された295人のヨーロッパ新石器時代個体のゲノム規模データから、狩猟採集民系統の相対的寄与が定量化されました。新石器時代後半に起きた狩猟採集民系統の漸進的な増加を考慮しても、GDD5の減少に伴って狩猟採集民系統の顕著な増加があり、GDD5が1700未満の地域でとくに目立ちます。農耕拡大の遅い地域は、外来の農耕民と在来の狩猟採集民との間のより高い遺伝的混合でも特徴づけられます。また、農耕拡大の減速とそれに伴う農耕民と狩猟採集民との混合の増加が、狩猟採集民の人口密度の高さに起因するのか、調べられました。人口密度は遺跡密度で代用され、遺跡密度と混合増加との間に明確な関連性は見られませんでしたが、標本抽出の点での偏りも想定され、じっさいの人口密度を反映していないかもしれません。

 本論文の結果は以前の諸研究と合致しており、ヨーロッパにおける農耕拡大は北部で著しく減速し、農耕拡大は連続的な過程ではなくさまざまな速度で進んでいった、と示されます。本論文はこの減速の明確な仕組みを提供し、それは気候条件、より具体的にはGDD5の低下で、つまりは新石器時代の作物の成長における夏の重要性です。その適合度が低いと農耕拡大は減速する、というわけです。ヨーロッパ北部の気候条件は近東とは大きく異なるので、近東起源の作物の栽培が制約されました。農耕がヨーロッパにおいて中央部と北部に拡大する過程で、作物の種類が減少したことも先行研究で指摘されています。好みなど文化的要因だけで、ヨーロッパにおける農耕拡大の減速を説明するのは妥当ではない、というわけです。

 ブリテン諸島とスカンジナビア半島では紀元前4600~紀元前4000年頃に作物栽培が確立されましたが、その後、数世紀にわたって考古学的記録から穀類が急速に減少・消滅し、それらの穀類の収量が充分ではなかったか、予測困難なために放棄された可能性を示唆します。ブリテン諸島やスカンジナビア半島の一部では、穀類の栽培が続いても、寒さや一般的なストレスにより耐性のあるオオムギへと顕著に移行していきましたが、当初ヨーロッパに導入された近東起源の穀類には、秋に播種して翌年夏に収穫するものが含まれていました。ヨーロッパ北部のような寒冷地域では、元々は秋に播種されて翌年夏に収穫されていたオオムギが、春に播種されて秋に収穫されるようになりました。ブリテン諸島では前期青銅器時代に春に播種するオオムギ品種が導入された、という可能性も指摘されています。

 ヨーロッパにおいて、外来の農耕民と在来の狩猟採集民との混合は、近東起源の穀類の栽培に適していない地域に農耕民が拡散してくると増加しました。これは、以前に指摘された、より高緯度での狩猟採集民系統の増加を説明できます。食糧生産の信頼性が低下したため、農耕民はしだいに狩猟採集に依存するようになり、在来の狩猟採集民共同体と接触して、モノや知識を交換するようになった、と考えられます。ヨーロッパにおける、農耕民と狩猟採集民との最初期かそれに近い時期の接触と考えられる事例も報告されるようになり(関連記事)、農耕民と狩猟採集民との関係の年代・地域による違いが、今後さらに解明されていくのではないか、と期待されます。

 今後の課題として本論文が重視するのは、ヨーロッパにおける農耕拡大の減速に続くその後の拡大です。この後期の農耕拡大は速く、農耕技術の改善が示唆されますが、新たな農耕拡大地域では、農耕民と狩猟採集民との間の混合が高率で続きました。これは、農耕技術が改善されても、気候条件により恵まれた地域と比較すると狩猟採集に依存しており、農耕拡大速度に関係なく、農耕民が狩猟採集民と接触したためかもしれません。この問題の解明には、本論文の対象範囲を超えたより詳細な調査が必要です。本論文と以前の研究で示された、気候条件と強く関連するヨーロッパにおける農耕拡大の顕著な減速とともに、他の期間ではより緩やかな減速の地域もある、との見解も提示されています。この緩やかな減速は、人口や社会文化的条件など、気候以外の要因も想定されます。

 本論文は、遺跡・古気候復元・古代DNAに関する情報を統合することにより、気候がヨーロッパ新石器時代における農耕拡大、および農耕民と狩猟採集民との相互作用にどのような影響を与えたのか、一貫した見通しを提示できました。この見解の重要な検証が、現時点では放射性炭素年代測定結果が少ない、さらに東方の地域における農耕拡大の詳細な分析となります。たとえば、アジア東部における農耕拡大は、ヨーロッパと比較して充分には特徴づけられていませんが、最近の古代DNA研究では、より高緯度で狩猟採集民系統が増加するという、ヨーロッパと類似したパターンが示唆されています。今後の研究でとくに興味深いのは、近東の東部山脈地帯を起源とする農耕民が拡散した地域で、そうした厳しい気候条件で栽培化された作物はアナトリア半島の作物よりも耐寒性があったかもしれず、より厳しい気候条件下での農耕拡大減速を予測できる可能性があります。


参考文献:
Betti L. et al.(2020): Climate shaped how Neolithic farmers and European hunter-gatherers interacted after a major slowdown from 6,100 BCE to 4,500 BCE. Nature Human Behaviour, 4, 10, 1004–1010.
https://doi.org/10.1038/s41562-020-0897-7

先コロンブス期のポリネシア人とアメリカ大陸住民との接触(追記有)

 先コロンブス期のポリネシア人とアメリカ大陸住民との接触に関する研究(Ioannidis et al., 2020)が報道(Wallin., 2020)されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。オセアニア史研究では長年、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との間の先コロンブス期における接触が議論されてきました。この問題に関して遺伝学では、イースター島(Rapa Nui)が注目されてきました。イースター島はポリネシアではアメリカ大陸に最も近く、精巧な巨石文化があることから、南アメリカ大陸の人類集団との接触の可能性が高い、と考えられてきました。

 ヒト白血球抗原(HLA)アレル(対立遺伝子)の高解像度分析により、イースター島系統の現代人のゲノムにおけるアメリカ大陸先住民系統が明らかになりました。しかしゲノム研究では、アメリカ大陸先住民との混合の証拠は、イースター島の現代人では見つかったものの、古代人では見つかりませんでした(関連記事)。これまでのゲノム規模研究では、先コロンブス期におけるアメリカ大陸先住民と他のポリネシア人との接触の可能性は検証されていません。


●ポリネシアにおける複数の混合事象

 本論文は、ポリネシアの17集団とアメリカ大陸沿岸部の先住民15集団の807人のゲノム規模データを、他地域集団と比較しました。系統分析の全てにおいて、ポリネシア人はポリネシア系統により特徴づけられますが、多くのポリネシア人のゲノムには、植民地時代を反映してヨーロッパ系統も見られます。注目されるのは、独立した分析で、東部ポリネシア人にアメリカ大陸先住民との混合の痕跡が検出されることです。アメリカ大陸先住民系統を2系統(中央系統と南方系統)に区別すると、イースター島などポリネシア東端ではこの2系統が見られます。アメリカ大陸先住民南方系統は、イースター島個体群においては、ヨーロッパ系統の割合に比例して増加します。これは、19世紀後半にイースター島がチリに併合された後、チリでアメリカ大陸先住民と混合したスペイン系ヨーロッパ人のイースター島への移住により、アメリカ大陸先住民南方系統がイースター島個体群にもたらされた、という見解と一致します。

 対照的に、メキシコの先住民集団であるミヘー(Mixe)に特徴的なアメリカ大陸先住民中央系統は、イースター島個体群ではポリネシア系統とのみ関連しており、ヨーロッパ系統もしくはアメリカ大陸先住民南方系統(以下、南方系統)とは関連していません。これは、アメリカ大陸先住民中央系統(以下、中央系統)が、ヨーロッパ系統とは独立してイースター島集団に到来したことを示唆します。さらに、南方系統とは対照的に、中央系統はイースター島個体群の間ではほとんど変わらず、古い混合事象に由来することを示唆します。じっさい、イースター島個体群のゲノムにおけるアメリカ大陸先住民系統のDNA断片には、ヨーロッパ人の到来に数世紀先行する接触を示唆する集約長分布があります。興味深いことに、中央系統はマルキーズ諸島など他のポリネシア東部諸島の個体群に見られ、類似した早期の年代を示します。

 ポリネシア人におけるヨーロッパ系統を調べると、各島の個体群とヨーロッパの宗主国との対応が明らかになります。たとえば、フランスの植民地だった場合、フランス人の参照パネルとクラスタ化します。イースター島個体群では、スペイン人の参照パネルへと移動します。ヨーロッパ系統を有するものの、南方系統を有さないイースター島個体群は、おもにフランス人参照パネルとクラスタ化し、イースター島で最初のヨーロッパ人がフランス起源だったことと一致します。また本論文は、7 cM(センチモルガン)以上の共有される同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)を分析しました。ヨーロッパ系統のみのゲノム領域の分析では、IBD関係ネットワークはヨーロッパ人の定住パターンを反映しており、多くのフランス領ポリネシア諸島は、イースター島とは別の一つの接続された構成を形成します。イースター島のマンガレヴァ島への単一のヨーロッパ人のつながりは、1871年のイースター島からマンガレヴァ島へのフランスのカトリック宣教師の移動を反映しているかもしれません。


●ポリネシアにおけるアメリカ大陸先住民系統

 ポリネシア東部個体群のアメリカ大陸先住民系統は、島間のIBD共有のひじょうに異なるパターンを示し、アメリカ大陸先住民との接触の異なる歴史を示唆します。ポリネシア東部個体群のアメリカ大陸先住民系統は、現代人では、コロンビアの先住民であるゼヌ人(Zenu)もしくはその近隣の人々と遺伝的に最も近縁です。例外はヨーロッパ系統の割合が高いイースター島の個体群で、チリの先住民と遺伝的に近縁です。対照的に、ヨーロッパ系統を有さないイースター島個体群は、コロンビアのゼヌ人と近縁です。

 記録上、1888年にチリがイースター島を併合したことと、船員との散発的な相互作用とを除いて、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民とを結びつける可能性があるのは、1862~1863年のペルーによる奴隷襲撃だけです。これにより、1407人のイースター島住民を含む数千人のポリネシア人が奴隷としてペルーに連行されました。国際的な抗議の後、奴隷として連行された人々は本国に帰還することになりましたが、航海中の天然痘発生により、生還できた人はわずかでした。本論文のデータセットでは、イースター島の15人とラパ島の9人(他の島々の人々)だけです。ペルーに連行された期間が短いため、異論もあるものの、これによりアメリカ大陸先住民系統がポリネシア人にもたらされた可能性は低そうです。

 ポリネシア人のゲノムにおけるアメリカ大陸先住民系統の地理的偏りは、南アメリカ大陸北部の起源を支持する言語・歴史・地理的観察と一致します。ポリネシア東部の島々にのみ見られる一枚岩の彫像と、先コロンブス期コロンビアのそれらとの類似性は以前から指摘されており、より強い証拠は、サツマイモを意味するポリネシア語の「クマラ(kumala)」です。これは南アメリカ大陸北部の料理の名前と関連しています。この関連する名前を使用するアメリカ大陸沿岸地域の言語はペルーの北部に位置し、たとえば「cumal」です。サツマイモも先コロンブス期におけるポリネシア人とアメリカ大陸先住民との接触の有力な証拠とされてきましたが、近年では人為的介在なしにサツマイモがポリネシアに到来した可能性も指摘されています(関連記事)。しかし、本論文の知見からは、自然現象による到来とともに、人為的介在もあった可能性が高い、と考えられます。

 南アメリカ大陸沿岸で舟の建造に適した木材が得られるのはペルーの北部で、先コロンブス期のメソアメリカとの交易における南アメリカ大陸の拠点は太平洋沿岸のエクアドルとコロンビアです。アメリカ大陸太平洋沿岸からの風と海流の現在のシミュレーションでは、エクアドルとコロンビアから出発するとポリネシアに到達する可能性が最も高く、ポリネシアではマルキーズ諸島南部に最も高い確率で到達し、その次はトゥアモトゥ諸島とされます。どちらも、コロンビアのアメリカ大陸先住民系統が見つかったポリネシアの島々の中心地域に位置します。またポリネシア側でも、航海によりアメリカ大陸を見つける拠点となりそうなのは、これらの島々です。


●ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との接触の年代

 アメリカ大陸先住民系統が、イースター島やマンガレヴァ島など本論文で対象とされたポリネシアの各集団にいつ影響を与えたのか、ゲノム断片の長さの分布をモデル化して推定されました。その結果、一つの例外を除いて全ての島の集団について、最も可能性が高いモデルは、まずアメリカ大陸先住民とポリネシア人の混合事象が起き、その数世紀後にヨーロッパ人の遺伝子移入が続いた、というものだと明らかになりました。ヨーロッパ人とポリネシア人との混合年代は、マルキーズ諸島では北部が1820年で南部が1830年、マンガレヴァ島が1750年、パリサー島が1790年頃と推定され、ヨーロッパ人によるポリネシアの植民地化の期間に収まります。対照的に、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との推定混合年代はずっと早く、異なる島々でも類似しており、マンガレヴァ島とパリサー島が1230年頃、マルキーズ諸島では北部が1200年頃、南部が1150年頃です。

 このように、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との推定混合年代はおおむね一貫していますが、唯一の例外はイースター島です。植民地支配に由来するヨーロッパ系統を有さないイースター島個体群では、その祖先におけるアメリカ大陸先住民からの遺伝子移入は1380年頃と推定されます。もっとも、上述のように、この推定年代は、チリからのもっと最近のアメリカ大陸先住民系統の遺伝子移入により、実際の混合年代より繰り下がっている可能性があります。ヨーロッパ系統とアメリカ大陸先住民系統を高頻度で有するイースター島個体群では、後者の遺伝子移入はおもに植民地期と推定されます。最適モデルによると、これはまず、おそらくはチリで起きたヨーロッパ系統へのアメリカ大陸先住民系統の遺伝子移入を表し、その後、おそらくはチリ人がイースター島に移住し始めた時に、この混合系統がポリネシア人にもたらされました。後者の年代(1860年頃)はチリによるイースター島併合(1888年)の少し前ですが、この時までに、総人口約100人のうち12人のチリ人がイースター島に居住していた、と記録にあります。

 ただ、イースター島の言語は、先ポリネシア東部と呼ばれる早期言語集団から直接分岐した、と推測されており、イースター島に定住した人々はポリネシア東部の他の島々から到来し、紀元後1380年頃に混合事象が起きた可能性も考えられます。つまり、すでに他のポリネシア人により居住されていたイースター島にその頃到来したかもしれない、というわけです。放射性炭素年代測定法では、イースター島における最初の人類の定住は紀元後1200年頃です。しかし、精巧な記念碑的な石造建築は紀元後1300~1400年頃と推定され、ポリネシア東部の中央地域で起きた類似のそうした建築と比較して、早くなっています。この石造建築が文化接触の結果だった場合、南アメリカ大陸先住民との別の独立した接触がその頃にイースター島で起きた、とも考えられます。そうだとすると、イースター島の人々では遅い混合年代が推定される理由を説明できるかもしれません。イースター島はポリネシアで南アメリカ大陸に最も近く、ポリネシア東部における先史時代のアメリカ大陸先住民との接触の研究と年代推定にとって、最も複雑な地域の一つです。

 また、ポリネシア人におけるアメリカ大陸先住民系統の遺伝子移入の年代推定のため、連鎖不平衡(複数の遺伝子座の対立遺伝子同士の組み合わせが、それぞれが独立して遺伝された場合の期待値とは有意に異なる現象)に基づく年代測定法(ALDER)も、新たに用いられました。この方法では、1234±90年の混合年代が推定されました。上述の推定混合年代は、この別の方法による推定混合年代の範囲内に収まります。


●まとめ

 地理的に広く分かれているポリネシア東部諸島の現代人のゲノムにおいて、現代人ではコロンビアの先住民と遺伝的に最も近縁なアメリカ大陸先住民系統の遺伝子移入の推定年代は類似しており、ポリネシア東部人とアメリカ大陸先住民との間の、先コロンブス期における単一の接触が最も節約的な説明となります。この接触の起きた島はまだ明確ではなく、おそらく本論文のデータセットには含まれておらず、ポリネシア人によるポリネシア東部の発見と定住の最初の期間に起きた可能性が高そうです。この最初の接触の子孫は、航海により新たな島々に定住していき、ポリネシア系統とアメリカ大陸先住民系統とを伝えていきましたが、島間の交易による接触も役割の一部を果たした可能性があります。イースター島の先史時代住民のアメリカ大陸先住民系統は、イースター島での接触ではなく、ポリネシアにおけるイースター島への到達以前の移住過程のどこかで起きた可能性が高そうです。

 ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との接触の推定年代で最も早いのは、マルキーズ諸島南部のファトゥヒヴァ(Fatu Hiva)島における1150年頃です。この年代は、放射性炭素年代測定法によるファトゥヒバ島における最初のポリネシア人の居住年代に近く、ポリネシア人が到来した時、少数のすでに確立されたアメリカ大陸先住民集団と遭遇した、という興味深い可能性を提起します。赤道付近のポリネシアで最東端となるファトゥヒヴァ島に関しては、祖先が東方からやって来た、という島の伝説に基づいて、アメリカ大陸先住民とポリネシア人が相互に接触したかもしれない、との仮説をトール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)氏が提示しました。マルキーズ諸島はエクアドルと同緯度に位置し、風向と潮流のシミュレーションからは、赤道の強い東から西への潮流と風により、人々が南アメリカ大陸から到達した島である可能性が最も高い、と示唆されています。

 しかし、代替的な説明も無視できません。南アメリカ大陸北部を航海したポリネシア人集団が、アメリカ大陸先住民とともに、もしくはアメリカ大陸先住民と混合してその子孫たちとともにポリネシアに帰還した、という可能性です。本論文では1200年頃の接触が推定され、先行研究では、この年代にポリネシア人がハワイからニュージーランドやイースター島まで太平洋の全ての未踏の島々を発見した、と提案されています。アメリカ大陸先住民系統が見つかったポリネシア諸島の中心に位置するトゥアモトゥ諸島は、ポリネシア人の航海の中心だったと知られており、上述のシミュレーションでは、南アメリカ大陸からの航海でマルキーズ諸島に次いで到達の可能性が高い、と推定されています。これらの代替仮説の解明には、遺伝的にまだ研究されていない島の集団の遺伝的分析が必要です。

 本論文は、先コロンブス期となる1200年頃の太平洋におけるポリネシア人とアメリカ大陸先住民との接触の強い遺伝的証拠を提示し、これは太平洋東部におけるポリネシア人の最初の到来とほぼ同時期です。先コロンブス期におけるポリネシア人とアメリカ大陸先住民との接触に関するこれまでの研究は、イースター島に焦点を当ててきました。しかし、イースター島は最近のチリからの混合事象の影響を受けており、現代人のゲノム分析では、混合年代が実際とずれる可能性があります。初期のアメリカ大陸先住民との接触の証拠は、最近のアメリカ大陸先住民との接触の影響を受けていないポリネシア東端全域で広範に見られます。本論文の結果は、大きな標本規模により、複雑な先史時代の問題を明らかにする現代人集団の遺伝的研究の有用性と、これらの問題に答える人類学・数学・生物学的手法の組み合わせの重要性を示します。


 以上、ざっと本論文の内容について見てきました。ポリネシア人の起源は新石器時代の台湾(そのさらなる起源は華南でしょうが)集団にあるとの見解が有力で、じっさい、福建省と台湾で発見された新石器時代個体群のゲノムデータにより確認されています(関連記事)。そのため、ポリネシア人の南アメリカ大陸起源を主張したヘイエルダール氏の仮説は最近ではほぼ否定されていました。しかし本論文は、ポリネシアの一部の島において、ポリネシア人よりも前にアメリカ大陸先住民が到来していた可能性も指摘しており、もしそうだとすると、ヘイエルダール氏の仮説が部分的にせよ見直される契機になるかもしれません。とはいえ、ポリネシア人がメラネシア人などとも混合しながらも、主要な起源が新石器時代台湾集団にあったことは否定できそうになく、ヘイエルダール氏の仮説は基本的には間違っていた、と言うべきなのでしょう。また、本論文の見解はかなり説得的ですが、基本的には現代人のゲノムデータに依拠しているので、今後はポリネシアの広範な地域の古代ゲノムデータでの証明が期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ヒトの進化:遠く離れたポリネシアでのアメリカ先住民との接触

 先史時代のアメリカ大陸とポリネシア東部の間の航海に関する新たな証拠を示した論文が、今週、Nature で発表される。今回の研究では、現代人と古代人の遺伝的データの解析が行われ、ポリネシアの歴史を明らかにする手掛かりがもたらされた。この解析結果は、太平洋上の島々におけるヒト集団の形成においてアメリカ先住民が果たした役割に関する長年の議論に決着をつける上で役立つ。

 先史時代にポリネシア人とアメリカ先住民が接触していた可能性については、これまでのゲノム研究で得られた結論が矛盾していたため、盛んに議論が交わされている。今回、Andrés Moreno-Estrada、Alexander Ioannidisたちの研究チームは、ポリネシア人とアメリカ先住民(計800人以上)のゲノムを解析し、西暦1200年頃にアメリカ先住民とポリネシア人が交雑したと推論した。ポリネシア東部では、ポリネシア人と、現在のコロンビア沿岸部の先住民に非常に近縁なアメリカ先住民との接触が1回だけあった。しかし、これまでのいくつかの研究で示唆されてきたように、最初の接触点はイースター島ではなかった。

 これまでのゲノム研究は、イースター島での接触に着目していた。これは、イースター島がヒトが居住するポリネシア諸島の中で南米に最も近かったことによる。しかし、今回の研究は、ポリネシア東部の諸島の1つ(例えば、マルキーズ諸島)で最初の接触があったとするノルウェー人探検家の故トール・ヘイエルダールの学説を裏付けている(ヘイエルダールは、1947年に大型木製いかだのコンティキ号に乗って、ペルーからポリネシアへの漂流航海を行った)。今回の研究で得られた知見は、接触事象が、これまで考えられていた時期よりも前に起こり、ポリネシアの複数の島に広がったことを示している。このことから、アメリカ先住民は、ヨーロッパ人が到着する5世紀以上前からポリネシアに遺伝的影響と文化的影響を及ぼしていたことが示唆される。



参考文献:
Ioannidis AG. et al.(2020): Native American gene flow into Polynesia predating Easter Island settlement. Nature, 583, 7817, 572–577.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2487-2

Wallin P.(2020): Native South Americans were early inhabitants of Polynesia. Nature, 583, 7817, 524–525.
https://doi.org/10.1038/d41586-020-01983-5


追記(2020年7月13日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。



追記(2020年7月23日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



人類の移動:アメリカ先住民からポリネシア人への遺伝子流動はイースター島の人類定着より前だった

人類の移動:日の目を見たコンティキ号

 今回、ポリネシア全域の島民に由来するゲノムデータから、南北アメリカからの遺伝子流動が、リモートオセアニアの人類定着と同時期の紀元1200年頃に起きていたことを示す証拠が得られた。こうしたアメリカ先住民とポリネシア人との接触は1回限りで、ラパ・ヌイ(イースター島)の人類定着よりも前に起こった可能性がある。この結果は、先史時代の南米人とポリネシア人とが航海を介してつながっていた可能性を示すために自作のいかだ「コンティキ号」で実際に航海を行った探検家、故トール・ヘイエルダールの勝利を意味している。

野村克也『野球は頭でするもんだ!』

 朝日文庫の一冊として、朝日新聞社から1985年9月に刊行されました。本書は、同じ著者でともに朝日新聞社から刊行された、『プロ野球の男たち』(1982年)と『プロ野球・野村克也の目』(1983年)の中から、著者の考える野球とは何か、そのエッセンスを抜き出し、加筆・再構成して刊行されました。本書を古書店で購入したのは随分と前のことで、まだプロ野球への関心を失っていなかった頃に購入したと思われるので、2004年以前かもしれません。本書を購入していたことはすっかり忘れていたのですが、最近本棚を整理していて偶然見つけ、著者が今年(2020年2月11日)急逝したこともあり、読んでみました。

 本書は、短い随筆の寄せ集めといった感もありますが、野球は頭を使う球技だ、という著者の野球観が貫かれており、さほど雑多な印象は受けませんでした。著者の野球への強い想いは、本書を読んで改めて確認されました。野村家が脱税で捜査された時、ある捜査官が、夫は脱税に関わっておらず、野球にしか興味がないし、野球しか分からない、といった発言をしたと報道されたように記憶していますが、おそらくそうだったのだろうな、と思います。もうプロ野球に対する関心は失ってしまいましたが、20世紀後半のプロ野球に関する記憶はまだかなり残っているので、本書を興味深く読み進められました。

 本書では、さまざまな選手・指導者への評価や著者とのやり取りが取り上げられており、やや醜聞めいたところも含めて、面白くなっています。著者は南海監督時代、選手が女性問題で悩まされ、相談を受けたことがあった、と述べていますが、他人のことより自分の話を書いた方が面白いのに、とつい嫌味を言いたくもなります。またスパイ野球(盗み行為)について、本書では著者がほぼずっと被害者の立場にいたかのように描かれていますが、後の噂を考えると、ある意味で面白い記述になっています。まあ、本書刊行時点では、著者は南海の監督を解任されて一選手となって現役を数年続行して引退し、どこかの球団の監督に就任する話もまったくなかった時期だったでしょうから、スパイ野球の被害者としての自画像は、そこまで的外れではなかったのかもしれませんが。

 それにしても、問い詰めたら盗み行為をしぶしぶ認めた、とまで著者に本で書かれた森昌彦(森祇晶)氏が、その後もずっと著者との親交を続けたことには、ある意味で感心します。森氏も人間性について色々と言われていますが、西武監督時代には選手たちの私的な部分には寛容だった、と以前に別の本で読んだこともあり、ひじょうに器の大きいところもあるのかもしれません。なお、著者が柴田勲氏に巨人の盗み行為について問いかけたら、ニヤッとして否定しなかったそうです。また、著者は高校野球のノック技術を高く評価しており、この点でも本当に野球好きだったことが窺えます。

カンブリア紀のクラウン群環形動物

 カンブリア紀のクラウン群環形動物に関する研究(Chen et al., 2020)が公表されました。環形動物は、待ち伏せ型捕食者・懸濁物食者・陸生の貧毛類といった全く異なる動物群で構成される、最も多様な動物門の一つです。環形動物の初期進化は現在も不明で議論され続けていますが、その一因は、分子系統学的知見と化石記録との不一致にあります。

 カンブリア紀の環形動物化石の形態が表在ベントス型の生活様式を示しているのに対して、系統ゲノミクス解析の結果は、初期に分岐したグレードとして固着性の埋在性タクソン(分類群)および管住性タクソンを示しています。モロテゴカイ類とチマキゴカイ類からなる古環形動物(Palaeoannelida)は他の全ての環形動物の姉妹群ですが、生活様式および全体的形態の両面で、カンブリア紀のタクソンとは大きく異なっています。

 本論文は、カンブリア紀の前期の滄浪鋪(Canglangpu)累層で発見された新種の化石多毛類(Dannychaeta tucolus)について報告します。この標本は、もともとは有機質であった壊れやすい棲管の内部に保存されていました。この標本の頭部には明瞭なスペード形の口前葉があり、腹側側方に複数の長い副感触手が見られます。この標本の体には幅広で頑丈な胸部と長い腹部があり、薄板を伴う二枝型の疣足が複数認められます。

 こうした特徴の組み合わせは現生のモロテゴカイ類と共通しており、系統発生学的解析の結果、この新種多毛類は古環形動物の内部に位置付けられた。この多毛類はクラウン群環形動物に属することが明白な最古の多毛類で、これらの知見は、環形動物の進化速度に制約を与えるとともに、太古の環形動物の生態および形態に関して、これまで認識されていなかった多様性を明らかにしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


参考文献:
Chen H. et al.(2020): A Cambrian crown annelid reconciles phylogenomics and the fossil record. Nature, 583, 7815, 249–252.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2384-8

インドネシアにおける最初の稲作

 インドネシアにおける最初の稲作に関する研究(Deng et al., 2020)が公表されました。現代世界においてコメは最重要作物の一つです。インドネシア、より広義にはアジア南東部島嶼部(ISEA)は、人口が2億6700万人以上で、イネ(Oryza sativa)の栽培と消費の主要地域の一つです。長江中流および下流では9000年前頃に稲作が始まり、稲作はその後の数千年でアジア東部および南東部に拡大しました。しかし、ISEAにおける古代稲作の起源・年代・背景についての議論は、古植物分析なしでよく行なわれてきました。こうした問題はとくにインドネシアで根強く残っていますが、最近ではスラウェシ島における稲作の長期記録を報告できるようになりました。

 ISEAは湿潤な熱帯地域のため有機物の保存状態が悪く、古代のコメがほとんど残っていません。これらの事例だけでは、栽培種と野生種を明確には区別できません。ボルネオ(カリマンタン)島のマレーシア領サラワク(Sarawak)州のグアシレー(Gua Sireh)では、放射性炭素年代で4807~3899年前のイネの籾殻が発見されていますが、土器製作のさいに使用された粘土に自然の過程で入った野生種と考えられています。ルソン島北部のアンダラヤン(Andarayan)では、土器内部のイネの籾殻が見つかっており、放射性炭素年代で4807~3899年前です。ルソン島北部では3000年前頃の炭化したコメが発見されており、イネのプラントオパールの証拠は、スラウェシ島のミナンガ・シパッコ(Minanga Sipakko)遺跡とその近くのカマッシ(Kamassi)遺跡で報告されています。本論文は、インドネシアにおける稲作の起源を解明するため、西スラウェシ州のカラマ川(Karama River)に隣接する沖積段丘に位置するミナンガ・シパッコ遺跡において、初期の土器が出土する層の調査結果を報告します。

 以前の調査では、ミナンガ・シパッコ遺跡の年代は3800年前頃もしくは2500年前頃と推定されていました。ミナンガ・シパッコ遺跡の最古層で発見された土器の破片は赤くて薄く、フィリピンで発見された最古の土器と類似しており、台湾起源と推測されます。そのため、ミナンガ・シパッコ遺跡の土器はインドネシアで最初期の土器と考えられます。本論文は、放射性炭素年代測定法によるミナンガ・シパッコ遺跡の新たな年代を提示しており、3500~2800年前頃までヒトの連続的な活動を推定します。

 イネの証拠は、調査対象の層全体で見つかり、最も集中していたのは、最古の土器が見つかった層でした。プラントオパール分析からは、調査対象の層の期間ずっと、イネが栽培されていた、と示されます。さらに、最古の土器が発見された層では、籾殻の痕跡が多いことから、籾殻廃棄の最終段階まで、ミナンガ・シパッコ遺跡で脱穀処理が行なわれていた、と推測されます。ミナンガ・シパッコ遺跡では、イネが栽培され、その後の処理工程まで行なわれていた、と考えられます。

 台湾では稲作の豊富な証拠が4800~4200年前頃までさかのぼりますが、ISEAでは、3000年前頃以前の稲作の痕跡はわすがで、しかも議論のあるものでした。ミナンガ・シパッコ遺跡の新たな調査結果は、インドネシアにおける稲作の最古で確実な年代を提示します。それは最初の土器の出現とほぼ同時で、3562~3400年前頃となります。インドネシアにおける赤い土器の唐突な出土は、新たな文化伝統の突然の出現を示唆します。台湾では赤く薄い土器は4800~4200年前頃までさかのぼり、関連する土器伝統はその後、フィリピン北部で4200~4000年前頃に出現します。次の数世紀にわたり、この考古学的痕跡はフィリピン中央部および南部とインドネシア東部とリモートオセアニア西部諸島に拡大します。具体的には、ミナンガ・シパッコ遺跡の早期土器は、フィリピンと台湾の初期の赤い土器と形態が最もよく似ています。

 より大きな視点では、この土器の広がりは、台湾・フィリピン・インドネシア東部・リモートオセアニア西縁のオーストロネシア語族集団の現代の地理的分布とほぼ一致します。オーストロネシア語は、前近代において世界で最も拡大した語族です。オーストロネシア語の起源地、古代の移民の動機、分散過程の性質については、1世紀にわたって議論されてきました。本論文の知見は、オーストロネシア語の農耕と関連した拡散および台湾起源を支持します。オーストロネシア語族は最終的に、マダガスカル島からイースター島までの広範な地域に拡散しました。本論文の結論は、アジア南東部の古代DNA研究(関連記事)と整合的です。またさらに新しい研究では、台湾と中国福建省の新石器時代個体群のDNAが解析され、オーストロネシア語族集団の祖型集団が中国南部起源である可能性が指摘されており(関連記事)、これも本論文と整合的です。


参考文献:
Deng Z. et al.(2020):Validating earliest rice farming in the Indonesian Archipelago. Scientific Reports, 10, 10984.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-67747-3

鉄器時代と現代のウンブリア地域の人類集団のmtDNA解析

 鉄器時代と現代のウンブリア地域の人類集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析に関する研究(Modi et al., 2020)が公表されました。先史時代の地中海地域では3回の重要な移住の波があり、現代人の遺伝的構成を形成しました。それは、旧石器時代の狩猟採集民と、東方からの新石器時代農耕民と、青銅器時代の始まりにおけるポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの牧畜民です。

 イタリア半島は、ヨーロッパ他地域と比較して現代人の遺伝的変異性が高いことから、地中海地域の人類集団の移住に重要な役割を果たした、と考えられます。これは、上部旧石器時代以来の、複数の移住の波の結果です。イタリア半島の人口史(関連記事)やローマ住民の長期的な遺伝的構成の変遷(関連記事)に関するゲノム規模研究からは、イタリア半島の人類集団の基本的な遺伝的構成はローマ以前に確立され、ローマ帝国崩壊後には大きくは変わらなかった、と示されます。

 イタリア半島の人類集団に関しては、常染色体でも単系統遺伝指標(ミトコンドリアとY染色体)でも、北部・中央部・南部を区別できる明確な遺伝的パターンの識別は困難です。南部集団はギリシアとアラブの植民化の影響を受け、北部集団にはフランス語およびドイツ語集団との混合が反映されているかもしれませんが、中央部集団は継続的な勾配を示します。イタリア半島中央部に関しては、エトルリア人とピケニ人に関して、現代人との遺伝的類似性が分析されてきましたが、もう一つの重要地域であるウンブリアはこれまで調査されてきませんでした。古代ウンブリア人の起源と民族的類似性に関しては、まだ議論が続いています。

 考古学および歴史学的データからは、紀元前9~紀元前8世紀頃となる前期鉄器時代に、ウンブリア人はエトルリア人やピケニ人とともに、よく定義された文化的属性を有する共同体をイタリア半島中央部に築いていた、と示唆されます。ウンブリア人は当初、テベレ川左岸に位置する現代のウンブリア地域東部を占拠し、すぐにウンブリア西武とトスカーナ地方に拡大しました。紀元前6世紀頃、ウンブリア文化に影響を与え始めていたエトルリア人がウンブリア西部を支配し、テベレ川はウンブリア人とエトルリア人の境界線になりました。これら古代人の間の相互作用の程度はまだ不明です。ローマ人は紀元前4世紀に初めてウンブリア人と接触し、紀元前3世紀初めにラテン植民市を建設しました。紀元前260年以後、ウンブリアはローマの完全な支配下にありましたが、エトルリア文化(および言語)が消滅したのは、紀元前90~紀元前88年の同盟市戦争の時でした。現在のウンブリアは古代よりも小さいものの、その住民の方言には大きな違いが見られます。

 ウンブリア東部の重要な墓地は、アペニン山脈の海抜760mに位置する現在のコルフィオリート(Colfiorito)にあります。ここは交通の要路ですが、鉄器時代の前には安定した人類の居住は確認されていません。しかし、資源が豊富なため、鉄器時代以降には人口が増加しました。本論文は、現在のウンブリア地域の545人のデータセットから選択された198人のミトコンドリアゲノム(このうち191人は本論文で初めて報告されます)と、現在のコルフィオリートにある鉄器時代の墓地の19人のミトコンドリアゲノムを分析し、ウンブリア地域住民の通時的な母系の遺伝的歴史を検証します。

 制御領域の分析からは、ウンブリア地域でも東部集団が遺伝的に他の亜集団と最も離れている、と示されます。これは、ウンブリア東部地域が他地域と比較して、古代もしくは最近の違いがあることを示唆します。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)分析では、ほとんど(97%)の個体が典型的なユーラシア西部型に分類されます。主成分分析では、ウンブリア東部集団はヨーロッパ東部集団とクラスタ化します。これは、ヨーロッパ中央部および東部で高頻度のmtHg-U4・U5aに起因します。その中でもとくに、mtHg-U4a・U5a1は、ヨーロッパ北部および東部の中石器時代標本群と同様に、ヤムナヤ(Yamnaya)文化関連標本群でも確認されています。

 鉄器時代の19人のmtHgで多いのは、J(32%)・H(26%)・U(16%)です。mtHg-Jは最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に近東で多様化し、後期氷河期にヨーロッパに拡大した、と推測されています。mtHg-Hはヨーロッパにおいて最も高頻度で見られ(40%以下)、ヨーロッパ西部から近東にかけて減少するパターンを示しますが、その起源はよく分かっていません。mtHg-UはU4を含む4系統が検出され、上述のようにこれはウンブリア東部集団をヨーロッパ東部集団へと近づけます。

 鉄器時代と現代とで、ウンブリアにおける主要なmtHgの割合が決定的に変わっているわけではありませんが、鉄器時代では32%のJが現代では12%と低下しています。しかし、ウンブリア東部では、現代でも鉄器時代とさほど変わらない割合(30%)です。ウンブリアでは、鉄器時代のmtHgが事実上すべて現代でも確認され、先ローマ期からの遺伝的連続性の可能性が示唆されます。より詳細な分析では、4万年前頃の上部旧石器時代と1万年前頃以降の新石器時代に、急激な増加を伴うヨーロッパ集団の典型的傾向が確認されます。鉄器時代標本の約半数で、より詳細なmtHg(H1e1・J1c3・J2b1・U2e2a・U8b1b・K1a4a)が現代人の標本と共有されます。

 イタリアは、地中海とアルプスに囲まれ、シチリア島とサルデーニャ島を含む、ひじょうに複雑な地理を示します。ミトコンドリアゲノム分析により、マルケ州やピエモンテ州やトスカーナ州やサルデーニャ島の特殊性が明らかになっています。しかし、他地域に関しては、詳細で網羅的な地理的特性の評価はまだ行なわれていませんでした。本論文は、ウンブリア地域のmtDNAの多様性を報告します。ウンブリア地域のmtHgのほとんど(97%)はユーラシア西部で典型的なものです。ウンブリア地域全体でこれらのmtHgの割合は比較的均一ですが、mtHg-Kが南部では高頻度(17%)であることや、mtHg-Jが東部では高頻度(30%)であることが注目される例外です。ユーラシア西部集団を対象にした主成分分析では、ウンブリア南部と東部がヨーロッパ中央部および東部集団と近くなり、上述のように、これはウンブリア南部と東部でmtHg-U4・U5aが高頻度だからです。

 より詳細なmtHg分析では、ウンブリア地域における先ローマ期の鉄器時代から現代までの遺伝的連続性が示唆されます。この遺伝的構成は、さまざまな地域の集団が異なる時代にウンブリア地域に到来したことにより形成された、と推測されます。それは、東方からの新石器時代農耕民や、青銅器時代のヤムナヤ文化関連集団などです。鉄器時代以後、中世にも、ある程度の人々の到来が考えられます。こうしたウンブリア地域の通時的な遺伝的構成の変遷は、イタリア半島全体の遺伝的データとよく適合します。既知のゲノム分析におけるイタリアのクラスタは、大まかにはサルデーニャ島・北部・南部ですが、そのうち北部と南部がイタリア半島中央部、より正確にはウンブリア地域で重複します。その意味でも、ウンブリア地域のより詳細な遺伝的構成の解明が期待されます。


参考文献:
Modi A. et al.(2020): The mitogenome portrait of Umbria in Central Italy as depicted by contemporary inhabitants and pre-Roman remains. Scientific Reports, 10, 10700.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-67445-0

東京都知事選結果

 一昨日(2020年7月5日)に投開票となった東京都知事選は、大手マスコミの事前の情勢調査通り、現職の小池百合子候補が圧勝しました。選挙期間中、マスメディアに有力候補として扱われることの多かった4人の得票数は、以下の通りとなります。()は得票率です。

小池百合子候補・・・3661371票(59.7%)
宇都宮健児候補・・・844151票(13.8%)
山本太郎候補・・・657277票(10.7%)
小野泰輔候補・・・612530票(10.0%)

 首長選では2期目を目指す現職が強いとよく言われますが、その通り現職の小池候補が圧勝しました。投票率は55.00%と前回(59.73%)より低下しましたが、都内では新型コロナウイルスへの警戒が再び高まっており、現職の小池候補圧勝との報道のなか、予想以上に高く驚きました。小池候補は得票数・得票率ともに前回を大きく上回りました。予想通りだったので覚悟していたとはいえ、やはりたいへん不愉快な結果だったので、ブログでの言及のはやめておこうとも考えたのですが、当ブログを始めてからの都知事選はすべて取り上げてきたので、今回も短いながら記事を掲載します。

 それにしても、現職の小池候補圧勝もさることながら、日本維新の会推薦の小野泰輔候補が60万票以上獲得したのは私にとって大問題で、東京でも維新の会が定着しつつあるのか、と暗澹たる気持ちになります。まあそれ以上に、桜井誠候補が18万票近く獲得したことを脅威と思わねばならないかもしれませんが。都知事選での投票は今回で9回目となりますが、私が投票した候補者は全員落選したことになります。これを嘆くばかりではなく、私も一有権者として今後の行動を色々と考えねばなりません。なお、過去の都知事選に関する記事は以下の通りです。

2007年
https://sicambre.at.webry.info/200704/article_9.html

2011年
https://sicambre.at.webry.info/201104/article_11.html

2012年
https://sicambre.at.webry.info/201212/article_19.html

2014年
https://sicambre.at.webry.info/201402/article_11.html

2016年
https://sicambre.at.webry.info/201608/article_2.html